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新婚旅行に行ってきました【ラオス編】

さばいでぃー!

みなさんこんにちは、ラオスのラオ子です。

前回の記事に引き続きまして、今日は新婚旅行ラオス編を書いていきたいと思います。

タイ編(済)
1月27日 夕方に日本発→28日夜中バンコク着
28日 アユタヤ観光
29日 メークロン市場観光
30日 バンコク市内観光、寝台特急でノーンカーイへ

ラオス編(この記事)
31日 朝6時ノーンカーイ着、鉄道でメコン川を渡りラオスへ
2月1日 ビエンチャン市内観光
2日 村で結婚式
3日 配属先やカウンターパートをまわりビエンチャンへ
4日 ラオス中国鉄道でルアンパバーンへ
5日 ルアンパバーン市内観光
6日 飛行機でハノイへ

ベトナム編(多分写真貼って終わる)
7日 ハノイ市内観光
8日 ハノイ市内観光、深夜便で日本へ
9日 朝に日本着

こんな感じでお届けしていく予定です。ラオスはJICA青年海外協力隊として活動した場所で、この3か国の中でも特別思い入れがあり、そして現地の人たちや現地で頑張っている隊員さんやOVたちと、濃い~~~時間を過ごしてきました。そんなところも書いていけたらと思います。

では、どうぞ!

ラオス1日目:陸路で入国、市内観光

前日の夜8時半ごろ、バンコクのクルンテープアピワット中央駅から寝台特急に乗りこみ、真っ白でシワのないシーツが敷かれたフルフラットの席に気持ちよく寝転がりました。発車後しばらくは、タイ撮影分のデータのバックアップを取って過ごそうと、久しぶりにPCを開きましたが、如何せん電波が悪くずっと3G。それでいてぶつぶつ切れてしまい、Lightroomもまともに使えなかっために、特にすることがなくなってしまいました。Spotifyも使えなくなるし、、、なんでもオンラインやクラウドで済ませるのも考え物ですね。

あー退屈だなあとスマホを触ろうにも電波がない。スマホに入っている書籍は読み飽きた。ギガめちゃめちゃ余ってるのにバックアップできひんの勿体ないなー…そういえば、タイ語の教科書、行きの飛行機以来1回も開かんかった…なあ….. なんて思っているうちに、いつしか眠りについていました。ありがたいことに、周りの乗客も静かだったため、蒸気でホットアイマスクを出すまでもなく爆睡です。

「Miss, 起きて」とやさしくカーテンを揺らされて起きると、まわりの乗客のフラットシートはすでに畳まれ、丸まったシーツと枕がそこらに転がっていました。

まだノンカイまでは時間がありそうだったので、眠い目を擦りながら最低限の化粧をして、最後のタイの景色を楽しみます。

約10時間の電車の旅は本当に快適でした。体が痛くなることもなく、トイレもわりかし綺麗なほうで、この値段でこのクオリティならケチのつけようがありません。ちなみにバンコクからノーンカーイまでは、寝台車の下のほうの席でひとり999B。1バーツは3.9円前後なので、タイバーツは4をかけたら日本円になります。

さて、ノーンカーイ到着後は、早朝の寒さに震えながらラオス側に渡る電車を待ちます。「7時にイミグレが開くからもう少しここで待っていなさい」と駅員さんが教えてくれました。しばらくすると、開いたのはラオスからのアライバル側のイミグレ。しかしそこに居るのはラオスに向かう人のみ。大切なのはパスポートにスタンプをもらう事だからね、どっちのカウンターを使うかなんてどうだっていいよね。マイペンライ(タイ語で「大丈夫」)でボーペンニャン(ラオス語で「大丈夫」)なこのゆるゆる感がなんともいえず。

「なんで日本人なのにラオ語を喋るんだ?」「なんで日本人なのにイサーン語(タイ北部の、ラオ族の人たちが話す方言)をしゃべるんだ?」と言われるのも、おそらくこのイミグレが最後です。タイの人たち、私のほぼラオ語のナンチャッテてへぺろ残念タイ語を聞きとってくれてありがとうございました。いつかは「タイ語が上手だね」って言ってもらえるように頑張ります。

そうそう。アユタヤについた時、トイレットペーパーを買っておこうと思って商店に行き、店のおじさんに「チアアナマイ、ミーマイカ?」と聞いてみたのですが、「わからん」「なんのことや」という顔のあと、生理用品を持ってきてくれるということがありました。先に画像を見せたらよかったのですがもう一押し試みて、「ティッス↑ゥ↓ホンナム」でようやく伝わり、それでもロールタイプでなく箱型のものを持ってきてくれたので、最終的に画像を見せてロールタイプを持ってきてもらいました。

タイ語でトイレットペーパーは「クロダ チャムラ」。チャムラはあとから調べたら「支払う、綺麗にする」とか色々な意味があります。タイ語やラオ語は共通して、被修飾語が先に来るという性質があります。「クロダ」が「紙」という意味ですので、「綺麗にする紙」で「トイレットペーパー」になるのです。

わたしはこの「クロダ」に聞き覚えがありました。10年前に住んでいたカンボジアで同じ単語が使われていたからです。「プカークロダ」は、「プカー(花)」+「クロダ(紙)」で「紙の花」、ブーゲンビリアのことを指します。動詞などの基本的な1音節語だけで見るとカンボジア語とタイ語は遠い親戚、タイ語とラオ語は兄弟みたいな距離感かなと感じていますが、サンスクリット語からきている言葉は割と共通している部分が多いので、カンボジア語の習得にもじりじり近づいていけると信じてタイ語の勉強をしてみたいと思います。

話が逸れましたが、無事にノーンカーイを出発した電車は、静かに静かにまっすぐな線路をすすみ、メコン川を渡りました。橋を渡っている途中、タイの国旗が等間隔にたてられているのですが、それが1本だけ黄色い旗になり、そのあとラオスの旗に変わります。それが国境を越えた証。赤白青、同じ配色で作られた国旗ですが、それがラオスの国旗になった瞬間、「ただいま」と胸が高鳴ります。

ラオスに!10か月ぶりに!かえってキターーーーー!

ラオス!ラオス!ラオス!ラオス!!!

ラオス側のターナレーン駅から首都ビエンチャンの中心部までは、乗り合いバンで向かいます。しかし、乗り合いバンに乗り合ってくれる外国人が一人もいなかったため、全額わたしたちで負担することに。その額600バーツ。正直「高い!!」と思ったのですが、この場に一人しか居ないドライバーの言い値に高いだのなんだのケチをつけるのも野暮だと思い、交渉は特にせずバンに乗り込みます。聞けば、ラオスのガソリンは今や20000KIP越え。わたしが居たころ10000KIP前後だったことを思い出し戦慄しました。レートで見ても、生活費をドル支給してもらっていた隊員時代は1ドル=9000キープを超えたらうきうきしながら多めに現地通貨に変えていましたが、私が知るなかでは、再赴任されたころの街中両替所で1ドル=17500キープまであがっていました。

そりゃ物価もあがるわけだし、この人だって600B欲しいに決まってる。私だったら700バーツ欲しい。

その後私たちは、タートダム近くのおいしいカオピヤックを食べ、大使館近くのおいしい日本食レストランで久しぶりの日本の味に昇天し、タートルアンでお参り・・・と、THE☆観光客なコースでビエンチャン市内を散策しました。

昼から、ずっといきたかった「Lily Spa」にハーバルボールマッサージを受けに行ってきたのですが、お値段は他に比べれば高いものの、その期待値をはるかに超えてくる素晴らしいサービスと技術でした。タイでは連日、重いリュックを担いで歩きっぱなし。実は、タイを去る日にも街中スパでハーバルボールを受けてきたのですが、ダチョウ倶楽部かよっていうぐらい「あちあちあちあち!!!」とリアクションさせられ、リラックスどころではありませんでした。ガーゼに薬草をパンッパンに包んで蒸したものを体にじんわりと押し当てるのですが、びちゃびちゃのハーバルボールから熱湯がジュワッとあふれ出してくるのです。がんもを直置きされている感じです。私は膝裏を見事に負傷し、あせものようなブツブツが大量にできてしまいました。平たく言うと火傷です。そんな平均以下の施術の翌日ということもあったせいか、余計にクオリティが高く感じられました。ああー、幸せだったなあ。とろけるような1時間半でした。これからは、他の費用をケチッてでも、ラオス行くたびに行くと思います。

夜は、ずっと会いたかった現役隊員さんとナダオでフレンチ。私が10か月前ラオスを去るときに、活動が軌道に乗り始めていた彼女は、ゴールを目前に最後のラオス生活を噛みしめているところでした。貴重な残りのラオス時間で会ってくれてありがとう!

まだまだがらんとしたビエンチャンですが、それでも渦中だったあのころと比べればずいぶんと活気が戻りました。1年前のビエンチャンは、ワットインペン前のバス通りを夜一人で歩くのも怖いぐらいでしたが、川沿いのナイトマーケットも再開され、Angoさんの前の通りは端から端まで屋台が並ぶ歩行者天国、おかず横丁も人でにぎわっていて、アフターコロナの中でふんばっている様子が垣間見えました。

ラオス2日目:結婚式後撮り、市内観光

ラオス2日目、午前中は結婚式の後撮り。ラオスの民族衣装を着ての撮影で、ヘアメイク+衣装+撮影1,000,000KIPでした。8000円弱でこんな体験ができるなんて、ラオス最高。

このときでないと絶対に着れない色がいい!という強い思いがあったので、金色を選びました。以前参加したラオス人の友人の結婚式で、花婿と花嫁が全身金色の衣装を着ていたからです。

夫は出演NGなのでソロショットを…。着つけてくれたお姉さんによると、このシンはアルアンパバーンスタイルだそうで、織りの上に立体的な刺繍が施されています。実物を見るととても高価に見えます。

印刷は要らないからデータだけちょうだいと伝えると、それならもう取りに来てもらう必要もないから、Whatsappだけ教えて~と言われて連絡先を交換。夕方ごろに「できたよ~」というメッセージと共にGoogle Driveの共有リンクが届きました。なんという簡単受け取り。開いてみると80枚の写真が。

日本人は良い人多いから撮影楽しいわ~といいながら色んなポーズを指示してくれたクールなお兄さん、「じゃあ最後にフリーポーズで」と言ってくれたので夫が持っていた短剣を鞘から抜き、上段の構えで夫に切りかかるポーズを撮ったのですが、その時ばかりはケラケラ笑っていました。うけてよかった。

すっかりお腹がすいた私たちはJICA事務所近くのおいしいカオマンガイを食べ、ビエンチャンで一番渋くて好きな寺「ワットシーサケ」、バーシーしている様子が見られる「ワットシームアン」、そしてコロナのせいで数年間「カミングスーン」だった待望のスターバックス1号店へとひたすら歩きました。

スターバックスでデミタスカップとベアリスタを買う予定だったのですが、デミタスカップが売り切れで普通のマグに。か、かさばるー!ですが、接客はさすがといったところで、タイで数年OJT受けてきたかな?と思うぐらいスムーズなオペレーションでした。7か月だけ働いたナンチャッテスタババイトの私など足元にも及びません。

その後は、お土産屋さんやショッピングモールをだらだらとまわりながら、煙がのぼりはじめたおかず横丁で焼き鳥をつまんで夕飯へ。以前、ラオス料理に精通している方に連れていっていただいた「スックヴィマーンレストラン」で、現役隊員さんたちとキンカオ。村で食べ慣れたラオス料理とは違う上品なお味。清潔なレストランでおいしいラオス料理が食べられるので、初めてラオスに行く人を連れていくのにちょうど良いお店です。

ラオス3日目:村で結婚式

ラオス入国3日目は、わたしが活動していた村への移動日です。いま一緒にブランドの製品開発を頑張っているお母さん(ブランドのロゴの女性です)の村へは、お母さんの車で移動しました。わざわざ首都まで迎えにきてくれた妹は、車の中で藤井風の音源をかけ、「この歌の意味何なん?」と聞いてきます。よく売れているアーティストだということは知っていましたが、藤井風をちゃんと聴いたのはこの日が初めて。「死ぬのがいいわ」をラオス語で説明しろというのは、まだまだラオ語ビギナーの私には難しすぎました。ざっくり意味を説明したら「え、危ない歌やなw」と笑っていました。多分伝え間違っている、ごめん。

村について、しばらく近所をぶらぶらしました。よく買い物にきていた市場には、色とりどりの野菜、川魚、しめたてのお肉がずらりと並んでいます。そのなかに、日本では絶対見ないであろうアリのタマゴが。私は食べなれたものですが、夫はもちろん初めまして。見ているだけで体がかゆくなりそうです。

その後私たちは、村の美容室でメイクをしてもらい、生産者さんが用意してくれた民族衣装に着替えました。ハネムーンでラオスを訪れたわたしたちに、生産者さんと家族親戚、村の人たちがバーシースークワンという儀式をしてくれたのです。

バーシースークワンとは、バーシー(吉祥のお供え物)をクワン(魂)へ、という意味であり(スー=~へ)、人の体に宿る32個の魂を体につなぎ留めておくための儀式で、それらの魂が出ていってしまうのが人生の節目だと言われています。そのためバーシースークワンは、旧正月のようなラオスの人たちにとっての大切な行事の際にはもちろん、出産、上棟式、留学、協力隊でいえば活動を終えて日本に帰るときなどに、このバーシースークワンが開かれます。

祭壇の中央から伸びた白い糸は「ຝ້າຍຜູກແຂນ ファーイプックケーン」、腕に巻く綿の糸という意味です。ラオ族の人たちは、白色は純粋さ、新鮮さ、無垢さを表すと考えており、バーシースークワンの際はこの真っ白な綿糸が用意されます。

お正月の場合は、祭壇から伸びるファーイプックケーンを参加者皆で持ってご祈祷が始まりましたが、今回は私たちがお祝いをしていただく立場だったため、ファーイプックケーンは私と夫に一本ずつ結ばれました。

バーシーに来てくださった方は、着席の際や儀式中に、祭壇のマリーゴールドの間にお金を挟んでくださいます。活動期間中お世話になった方からも、この日のために来賓として来てくださった方からもいただきました。ガソリン5リッター分。決して安い金額ではありません。ありがたいことです…。

儀式を執り行うのは「ໝໍ­ພອນ / モーポーン」と呼ばれる祈祷師で、辞書で見てみるとこのバーシースークワンで祈りを捧げる方のことを指すのだそうで、広義のシャーマンには別の言い方がありそうです。​モーポーンが祈りを捧げてくださっているあいだ、私たちはこの祭壇に手を添え、私たちの後ろに座っている参列者の方々は私たちに手を添えて、皆でお祈りをします。モーポーンが何を話しているのかは私にはわかりません。こちらも後で調べてみると、仏教と「ສາ­ສະ­ໜາ​ພາມ / サーサナーパーム」、パーム教という宗教の混ざったものだという風にラオ語のウィキには書かれていました。サンスクリットとパーリということなのでしょうか?サーサナーパームが気になって夜も眠れません…。

ちなみに「モーポーン」は、「モー / 医師、祈祷師など」と「ポーン / 祝福」を組み合わせた言葉です。人の人生の節目を祝福する祈祷師…、なんだか名前だけでもありがたい感じがします。

さて、20分以上にわたるお祈りの間、たまに参加者で「あーーー」と声を上げる場面があったり、後ろのほうからマリーゴールドの花びらが飛んできたり、マリーゴールドを酒に浸して手のひらを清められたり、最後は固めの杯といいますか、シャーマンが最初にショットグラスでお酒をぐいっと飲み、そして夫へ妻へとグラスが渡っていきます。

今回、私たちはお土産に日本酒を2本持って行ったので、日本酒を注いでくれました。(ラオスのお酒は度数が高く下戸には辛いので、ありがたいです)

それが終わったあとは、モーポーンから順に、私たちの手首にひもを結んでくださいます。モーポーンは、黄色とオレンジの色付きのファイプックケーン。そのあとは白のファイプックケーンを、みんな代わる代わる両手首に結んでお祈りをしてくれます。

また来てくれてありがとう。結婚おめでとう。悪い魂が出て行って、良い魂が入ってきますように。健康な子供がたくさんできますように。互いに永遠の愛で結ばれますように。お金に困らず暮らせますように。この旅が良いものになりますように。無事に日本に帰れますように。

皆の気持ちが、私たちの両手首に結ばれていきます。その間、私たちのてのひらには、茹でた丸鶏がのせられています。場合によって、ゆでたまごだったり、お米だったり、お金だったり、お菓子だったり、いろんなものを握らせてもらいましたが、活動を終えて本帰国するときに開いてもらった3回のバーシーはどれも同じように茹でた丸鶏でした。主賓は鶏、とか決まりがあるのでしょうか。

マリーゴールドがたくさん飾られた祭壇は「ພາ ຂວັນ / パー クワン」と呼ばれています。クワンは魂ですが、被修飾語の「パー」は何でしょうか。辞書で引いてみると、「ピラミッド型の祭壇」とでてきたので、このまま固有名詞として受け取ってもよいのでしょうが、動詞だと「導く、連れていく」という意味を持ち、名詞になると「お皿」、パーリ語由来の言葉としてみると「太陽、光線」といった意味も出てきました。どの言葉もこの儀式にぴったりなものだと思いました。明るい未来へ導いてくれるような儀式だと思うし、1本の糸で繋がったみんなの想いが集まる受け皿のような役割をこの祭壇が担っているような気もするし、幸せを願って糸を結び合うあの空間は陽だまりのような温かさを感じるし….。

手首に紐を結んでもらうのがひと段落ついたとき、入口のほうから男性が5人ぞろぞろと入ってこられるのが見えました。額装された賞状を持った方は、私が隊員だったころに2度ほどお会いした副県知事。日本に留学されていたことがあり、流ちょうな日本語で話しかけてくださったので今でもはっきりと覚えていました。活動に対する「表彰状」と、表彰状授与にあたって行政内でやりとりされた許可証のようなもの(ラオスっぽい!)、カゴに盛られたたくさんのODOP(一村一品)商品をいただいたのですが、急なことでびっくりして終始ポカンとしてしまいました。村の人たちにバーシースークワンをしていただいただけで胸いっぱいだったのに、10か月ごしにこんなご褒美までいただいて、幸せがキャパオーバーして処理が追いつきません。

この表彰状をいただくために、JICAラオスに派遣期間についての問い合わせがあったり、いつも多忙なカウンターパートが書類作成してくれたりと、色んな方が動いてくれていたことを後から知りました。そして、表彰を受けるきっかけになったのは、県知事がとある調印で生産グループを訪れた際に私も同席しており、その時に活動の話や日本に帰ってからも自分のライフワークとして活動を続けていきたいことなどをお話させていただいたことだったそうです。あの時のちょっとした会話を覚えていてもらえただけでも光栄です。

そんなこんなで、バーシースークワンが終わった後は、皆でおいしいラオス料理を囲って食事会がはじまりました。食事中に新しいゲストがお祝いにきてくださったら夫婦で祭壇の前に移動して紐を結んでもらい、祝福の言葉を受ける。以後繰り返し・・・というのがしばらく続きました。大好きな村の人たちや、すでにどこかの会食でできあがってきた同僚たち、元上司、配属先の他の課の人たち… たくさんの、本当にたくさんの人たちがお祝いしにきてくれました。

夫はひたすらビアラオとラオカオ(ラオスのお米でつくられた蒸留酒)をちゃんぽん、私は日本から持ってきたサケをついでまわり、アラシックス世代の方が集まってくださったにもかかわらず4合瓶2本があっというまにカラになりました。隊員時代、80歳を超える生産者さんが昼間の儀式でハイネケンをキメていたのを二度見したのを覚えていますが、今回もみんなすごい。

日本のパデーク研究家を唸らせた、村のパデーク名人のゲーンノーマイ(たけのこスープ)、牛のラープ、ナマズの丸焼き、ドークゲー(何かの花)とコブミカンの葉の揚げ物、サラダ… 他にもたくさんの食事が並びました。主食はもちろんカオニャオ(蒸したもち米)。私は、茹で鶏のつけダレだけでカオニャオ3合いけるぞってなもんで、ブライダルダイエットで6㎏落としたのはここで何の憂いもなく満腹太郎になるためだったんだと信じて疑いませんでした。

夜は近くのゲストハウスに泊まりましたが、この旅最安の1泊250,000KIP。せっかくの新婚旅行だからと、ホテルステイする時間が少ないにもかかわらず夫はラグジュアリーなホテルばかり選んでくれていましたが、村にはそういう場所もありません。ちゃんと休んでもらえるかなあと少々不安でしたが、はち切れんばかりに食べ、サケとラオカオとビアラオをちゃんぽんした夫には関係なかったようでした。あっぱれ、村の人たち。

ラオス4日目:元同僚たちとキンカオ、キンビア

翌日は、村から少し離れたナムグムダムとダム湖に連れていってもらい、しばしこの景色を楽しんでから、元配属先である県庁機関へ。各部屋を回って挨拶し、「ハネムーンに来たら旦那さんをつれてくるのよ!!」と帰国前に何度も何度も何度も言われた約束を果たしました。

そのあとは、私が住んでいた家の隣にある大家さんちを尋ねました。私の話をするたびに涙ぐむという、隣の仕立て屋さんも呼んでもらい、みんなにお土産を渡して、今回は滞在時間が短くて村に滞在できなくてごめんね、今度また来たときは皆でごはん食べようね、と約束。そのあとは私が「お姉さん」と呼ぶ隊員時代のカウンターパートの家で昼食をいただきました。焼いた豚肉にピア(胆汁)のディップ、ピアのスープ、ラープと、本格的なラオスの家庭料理。10か月前はこの家でトカゲと蟻の卵のラープをいただきましたが、その前も山間部の出張帰りにでっかいトカゲのようなイグアナのようなものを買っていたり、この家にお邪魔させてもらうと、「そろそろラオス料理も慣れてきたなー」っていう自分が外国人だったことを思い出させてくれる料理が出てきます。大好き。

「庭の景色、たくさん写真に撮っておくのよ。そしたら私と家族のことが恋しくなっても写真を見て村を思い出せるでしょ」というお姉さん。当たり前のように愛してくれて、私も同じように愛していると信じてくれている、そんな言葉に感じられました。つらくてしんどくて何度も自分の無力さを悲観した隊員時代、あなたの優しい言葉になんどもなんども支えられたよ。本当にありがとう。

そのあと夫はお姉さんの息子と汗だくになりながらサッカーをし、くたびれたKEENのサンダルが壊れるのを恐れた私は撮影係を理由に見守りました。そのあと子どもは水浴びへ、私が帰国したあとに生まれた娘ちゃんはカオニャオとかぼちゃの離乳食を食べ、あれこれ用事を終えてから、同じ課で働いていた職員の弟の家の上棟式へ。飲む、食べる、踊る、飲む、食べる、踊る。隊員時代は辛さすら感じていた「キンビア(飲み会)」がこれほどいとおしく思ったことはありません。

カウンターパートに、生産者さんの家まで送ってもらい、そこで仕事の話や頼んでいた商品の検品、日本での販売実績や商品のフィードバックなど仕事の話をちゃちゃっと済ませて、私たちはまた妹の車で首都のホテルまで送ってもらいました。

今回1泊あたりの値段が一番高かった「ダバラブティックホテル」の最上階のスイートルーム。最上階は1部屋しかありません。玄関を入ってすぐ大きなキッチンが目に飛び込んできます。

3部屋あり、キングベッドの寝室ーリビングーキングベッドの寝室と繋がっています。なんて豪華…。7時前にチェックインして、翌日もゆっくりできないなんて勿体なすぎる。

そのあとは隊員時代に大変お世話になった2人と合流して、鍋と焼き肉のハイブリット「シンダード」で満腹に。なんかこの日の写真少ないなあと自分で写真を見返しながら思ったのですが、旅も折り返し地点を超えて相当疲れていたのか、ラオスが「日常」に戻ってきて「ふつう」にカメラをむける機会が減ったのかはわかりません。多分、どっちもです。

ラオス5日目:初ラオス中国鉄道!ルアンパバーンへ

この日はルアンパバーンへの移動日でしたが、ルアンパバーンへの電車は午後の便。午前中はホテルでゆっくり充電して、パトゥーサイに出かけました。その前に、パトゥーサイの近くの釣具屋さんへ。釣り好きな方へのお土産に「ASHINO」のリールと、夫はバレットシンカーを購入。

バレットシンカーの棚にはキリが置いてあって、自分で穴があいているか確認するスタイル。可能な限りの不純物を混ぜに混ぜたような、柔らかくしっとりとした質感のバレットシンカーたち。そりゃ日本のタングステン製に比べれば10分の1ほどで買えるかもしれませんが、何に使うの…。

DAIWAのクルセイダーが420バーツで売られていたのは、、、何事!ほんまもんなんですかねえ。この価格ですしそうであってほしいですけど。

そういえば!円安で日本経済が大打撃を受けているのと同じように、ラオスキープも一時に比べれば落ち着きはしましたがまだまだキープ安。この店、前に訪れたときはキープで言ってくれていたような気がしますが、店頭表示がバーツに変わっていたのが気になりました。ホテルも、レストランも。ドルやバーツで提示があって、「ラオスキープならいくら」と聞いてはじめて自国通貨が提示される状態。金融素人にもラオス経済の大変さが伝わってきました。頑張ってくれラオス…!

そのあとはパトゥーサイを見学して、町をぶらぶら、ラオス南部の名物「カオピヤックパー」を首都で食べてみたり、スムージー飲んだり、スーパーでお土産買ったりしてビエンチャンでの時間は終了。

このパトゥーサイの真下から覗き込んだ写真、行くたびに撮っている気がします。絵になるなあ。綺麗だなあ。美しいなあ。

さて、ここからいよいよ、ラオスでのバーシーに次ぐイベント、「ラオス中国鉄道でルアンパバーンに行く!」です。

開通当初、買い占めや転売が横行して全くチケットが買えなかった時期がありました。(私のFacebookでも何度もチケットの写真を見ました)今はそれは無くなったようですが、決められた場所に並びに行かないと買えなかったり、外国人はパスポートの提示が必要らしかったり、なんだか煩雑そうです。アプリも一応できたみたいですが、日本からは購入できず、現地に行ってからできるかどうかも怪しかったので、今回は現地の旅行会社に頼みました。ラオス国立大学内のLJIで1か月だけラオ語を勉強したときに、ホームステイ先の人に連れて行ってもらった出家式で同じ席にいたお姉さんの旅行会社です。向こうが覚えてくれているかも定かではありませんが、Whatsappでやりとり→BCELoneで振込という手順で何度か航空券を頼んだことがありました。「〇月〇日からのスペシャルプロモーション!!」とラオス航空が告知したときも、「あれ取れたら取っといて~」でちゃんと用意してくれていたので、私はこの会社をめちゃめちゃ信頼しています(笑)

10か月前の帰国の際、隊員は銀行口座を閉じなければならない規則になっていて、今回はBCELoneが使えませんでした。現金手渡しするから、ホテルまでチケット持ってきて~とロケーションを送っておいたら、当日朝にきちんとホテルまでデリバリーしてくれました。毎度お世話になります。

ちなみに発券手数料は、1枚あたり150,000KIPでした。それでチケットを取ってホテルまでデリバリーしてくれるなら安いものです。

ダバラブティックホテルからタラートサオ横の中央バスターミナルまでトゥクトゥクで移動し、そこからバスで駅まで行こうと思っていたのですが、どうやら私がネットで見つけた情報が古かったらしく、「その時間のバスはないよー」と言われてしまいました。流しのトゥクトゥクを捕まえたら100,000KIPで行ってくれるというので、最後はLoca(ラオスのタクシー配車アプリ)を使わずトゥクトゥクでビエンチャンの風を切って駅まで向かうことに。

注意書きや案内に英語が見当たらなかったところに、なんともいえない中国資本感を感じました。

入口でパスポートとチケットチェック、そのあと荷物のX線検査と、厳重な警備のもと中へ。特に時間をつぶせるような場所があるわけではないですし、座席も指定席なので、張りきって早めに行く必要はなかったかもしれません。

発車時間の少し前まで、ホームへのゲートは閉まったままになっていますが、ゲートが開く少し前から長蛇の列ができました。お坊さんや、特別なサポートが必要な乗客とその家族が先に通され、ついに私たちの番です。

ホームに出て見渡してみると、ルアンパバーンに向かうこの電車は16両編成で、日本の新幹線より少し短いぐらい。コンコースに居た人たちを見渡して「こんなたくさんの人みんな入れるんかな」と思っていたのですが、なるほどこれなら。

座駅は指定で、2席ー通路ー3席。座席は回転させたりできないので、車両の中央あたりに謎のテーブル席があって、そのテーブルに向って両側から座席が向いています。

Ⅼ Ⅼ Ⅼ Ⅼ Ⅼ Ⅼ Ⅼ Ⅼ Ⅼ Ⅼ Ⅼ Ⅼ Ⅼ Ⅼ Ⅼ Ⅼ Ⅼ Ⅼ Ⅼ テーブル 」」」」」」」」」」」」」」」」」 こんな感じ。

車両の半分の人は進行方向と逆側を向くことになります。

ラオスの原風景ともいえる、こんな素敵な景色を見ながら過ごす2時間弱。単線のため、反対側からくる電車の通過待ちなどで途中の駅で待機する時間も何度かありましたが、足元広々、コンセントもついていて、快適に過ごすことができました。倍ほどの値段になりますが、次はフルフラットのビジネスシートに乗ってみたいです。

そんなわけでルアンパバーン駅に到着。駅を出ると乗り合いバンが所狭しと並んでいます。しかし聞いてみると、ここに並んでいるバンはすべて北部の地方に行くもので、ルアンパバン市街地には行かないとのこと。駅の出口を出たところは地上階から1段あがっているのですが、この階はすべてそういうバンが停まっているよーと駅員さんが教えてくれました。

地上階に降りるエレベーターかその隣の階段で地上階に行き、テントで市街地行きのチケット(35000KIP)を購入すると、その奥にとまっているラオス中国鉄道カラーのバンのおじさんたちが声をかけてくれました。

このロットゥでホテルまで送ってもらいます。後部座席もあいているのに、なぜか運転席横のシートを案内された私たち。ま、景色が見れてありがたいからいいやーと思って乗りこむと、市街地へ向かいながら「明日の予定は決まってるんか?」と。なるほどそういうことか。「日本人やろ?JICAか?おっちゃん昔、JICAに月給もろて運転手してたことあんねん」「私もJICAのボランティアやってん」ということでおっちゃんを簡単に信頼し、旅程を伝えてソンテウドライバーの弟さんを紹介してもらいました。街についてから良さげなドライバー探しする時間が短縮できて助かりました。

夕飯は、隊員時代の戦友(?)たちとピザ!旅が始まってから初めてのピザでおいしさは10万倍、当時の懐かしい話に花が咲きました。

ラオス6日目:ゾウで森散歩、市内観光

この日、朝6時ごろに目が覚めたので、カメラを持ってルアンパバーンの街散歩に出かけました。お目当てはもちろん托鉢。ルアンパバーンは4回目ですが、まだこの風景を見たことがなかったので、ちょっと感動。明日は自分も托鉢させてもらうぞーとわくわくしながら、街中をぶらぶらします。

日中のうだるような暑さからは想像できない澄んだ空気に、輪郭が揺れているように見える、ラオスの朝夕のとくべつな時間が大好きです。ルアンパバーン、バンビエン、ビエンチャン県の自分の村も。ボリカムサイで見たメコン川の夕日も忘れられないなあ。パクセーの夕焼けもでかくてとっても素敵だった。ラオスも日本のように縦に長い国なので、北と南で景色も植物も野良犬の足の長さの平均値(当社調べ)も違っています。

あと2日しか見られないこの景色をかみしめて、Saffron Coffeeで朝カフェ。アーモンドプードルが贅沢に使われているであろう、しっとりどっしりとしたレモンケーキがあって、ここに来るたびに食べています。唾液が少ない日本人が美味しく食べられるしっとり生地、そしてアイシングがこれほどたっぷりかかっていてもなお丁度良い甘さ。これになかなか出会えないんですよねー。

そして私たちは、前日に予約したソンテウのお兄ちゃんに迎えにきてもらってルアンパバーン観光へ。まずはゾウ乗りです。

ひとり2000円ほどで30分間、ルアンパバーンの森の中をひたすら散歩してくれます。「川には入らへんの?」と聞くと「この時期は寒いから無理なんよな~」とのこと。この像さんは40歳ぐらいだそうで、お腹がすいたのか好奇心旺盛なのか、時折草むらに頭をつっこんでバキバキと音をたてていました。

受付のお兄ちゃんにスマホを渡し、動画と写真適当に撮って~と頼んだのですが、いろんなアングルからあの手この手で、つきっきりで撮影してくれました。

撮影してくれたお兄さんにはお礼のチップを、乗せてくれたゾウにもお礼の餌を・・ということで、サトウキビやカボチャ、バナナがてんこもり入ったかごを50000KIPで買い、小屋のゾウさんたちにエサやり体験をしました。動物が大好きな甥姪とLINEでテレビ電話を繋いで、いまゾウさんにごはんあげてるよ~なんて話をしながら、メスが4頭、オスが2頭の合計6頭にえさやりしました。

そのあとはクアンシーの滝へ。何度来てもいいですね。泳ぐこともできますが、私たちは水辺のアクティビティは釣り以外あまり興味がないので、魚見つけては魚種がどうとか、こないだ食べた魚の稚魚じゃないのかとかそんなことばっかり話していました。

日本には生えていない植物、日本では聞こえない鳥や虫の声、五感で楽しみながら森の中を歩いて、滝をぼーっと見て、飽きたらだらだら引き返してごはん。川のそばで、昼間っからビアラオ頼んで、ハーブたっぷりのルアンパバーンソーセージと、レモングラスの束にひき肉をつけて焼いたやつ(名前忘れました)をキメる。私はソーダウォーターで十分。

そのあとはバッファローファームで水牛アイスを食べ、街に戻ってスーパーで買い物して、ソンテウのお兄さんに支払ったのは60万キープでした。指定時間には待っててくれてて、おだやかで、嫌な顔せず待ってくれて、とても心地いい人だったので、翌日の空港送迎もお願いしました。

ちなみにスーパーで買ったのは、タイコスメ(タイで買え)、カピ(タイで買え)、ビアラオのルアンパバーンバージョンなどなど。

そのあとは市内でラオス料理を食べ、ナイトマーケットを回りました。ナイトマーケットは、以前よりお店の数は減っていたものの、ルアンパバーンらしいナイトマーケットといいますか、めっちゃゆるい刺繍小物や年間100日ぐらい着たくなるTシャツ、ご先祖のデフォルメ神様「ぷにゅにゃにゅ」の置物など、ここでしか買えないお土産がたくさんあって目移りしてしまいました。

ラオス7日目:托鉢、カオソーイ、そしてハノイへ

朝いちばんは托鉢。5時40分にティップカオ(もち米が入った竹かご)をホテルで受け取り、ホテル前に準備されている茣蓙に座って、お坊さんが托鉢に来られるのを待ちました。私はラオスの民族衣装の正装、夫も結婚式でもらった肩掛け布を巻いて待機です。隣にいらっしゃった老夫婦が話しかけてくださると、数十年アメリカに住んでいるとのことで英語ぺらぺら。英語で話してくださるのですが、寝起きの頭で英語スイッチが入らず(入ったとて残念なレベル)結局ラオ語に戻る、というのを繰り返しました(笑)「もうすぐ回ってくるから」「お寺は10あるからね、お坊さんの行列も10個通るから調節しなさいね」と色々教えてくれました。また、JICA隊員あるあるだと思うのですが、「〇十年前に〇〇に配属されていた〇〇さんは元気なの?」と知らない先輩隊員のお名前が。こういう会話になるたびに、わたしもそうやって、何十年先にふと思い出してもらえるぐらい関係を深められていたらいいなあと思います。

托鉢が終わったら、二度寝、朝カフェを済ませて、荷物をまとめてチェックアウト。飛行機の時間まで町ぶらです。

世界遺産の街ルアンパバーンの、ナムカーン川とメコン川の半島の丁度先端あたりに位置する、ワットシェントーン。何度行ってもこの外観の美しさ、とりわけ屋根の渋さにはぐっときますね。一枚上の写真が本堂の中の様子なのですが、細部にも装飾が施されていて本当に綺麗です。

お昼ご飯はルアンパバーン名物の「カオソーイ」。ぴり辛トマト肉みそ麺です。肉のダシ感ががつんと効いたスープに平たい麺がよく合います。ルアンパバーンに来たらこれを食べないと始まらないし、終われないですね。

ルアンパバーンは、ハーブたっぷりのソーセージ「サイウア」や、川海苔の味付け海苔「カイペーン」など、私の好みのものが多くて魅力的です。前日の晩にちょっとお高めのラオス料理レストランで食べた「オ」という料理も、うまく言語化できないのですがビエンチャンの「オ」と違っていて、香り豊かでとてもおいしかったです。(オとオラームが違う食べ物なのか、大きく分けると何種類ぐらいのオがラオスに存在するのかとか気になり出してしまいました…ラオス行かなくては笑)

町の中心部にある市場。これはフアパン県サムヌア地方の本気のシンだと思いますが、この色とりどりの細かい織り、浮き織りや絣を駆使した唯一無二の美しさ、もし私がお金もちだったら「ここからここまで」って全部買い占めているところですが、そうではないので今回は何も買わずに帰りました。私のブランドtheobaanは、ブランドストーリーに「暮らしに寄り添う」という言葉を使っていて、がしがし洗って着てもらえるような布地を選んでいますが、もう少し在庫を持てる力がついてきたら、こういう布も扱っていきたいなあと思っています。

そのあとは、私の次の隊次でやってきた協力隊員たちが立ち上げたお店「LuLaLao」さんを訪ねました。突然の一時帰国やコロナ禍での活動、色々な困難を乗り越えてまたラオスに自分たちの力で戻ってきた、バイタリティーあふれる二人とは、話がとまらん!そしてコーヒーが美味しすぎる!ラオスのコーヒー豆のポテンシャルって、やりようによってはこんなに高まるんだなあと感動しました。またコーヒー飲みにいくね~。

つづく

は~~~これでようやくラオス編が終わりました。滞在が長く内容も濃かったので、書くのになかなか時間がかかりました。1月27日に日本を発ってここまでで11日!ラオスでの一週間は、隊員に戻ったときのような「村のキンビア」もあり、首都と村とルアンパバーンそれぞれの雰囲気も楽しんでもらいつつ、精神的に満たされた時間になりました。

さて、ここからまだハノイ編が続きます。最後までお付き合いいただけますと幸いです!

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新婚旅行に行ってきました【タイ編】

さばいでぃー!

ラオスのラオ子です!

・・・ってめちゃめちゃ久しぶりにこの書き出しで文章を書いております。

わたくしごとですが、昨年12月10日に挙式披露宴を行い、1月27日から2月9日まで新婚旅行に行ってきました。

といっても、私にとっては半分「帰省」のようなもので、12泊14日のうち半分以上は言葉が通じる国で過ごし、私がどんなところに住み、どんなものを食べ、どんな人たちと過ごしてきたのかを夫に知ってもらうような、そんな旅になりました。

というわけで、まずは14日間のざっくりとした日程から。
1月27日 夕方に日本発→28日夜中バンコク着
28日 アユタヤ観光
29日 メークロン市場観光
30日 バンコク市内観光、寝台特急でノーンカーイへ
31日 朝6時ノーンカーイ着、鉄道でメコン川を渡りラオスへ
2月1日 ビエンチャン市内観光
2日 村で結婚式
3日 配属先やカウンターパートをまわりビエンチャンへ
4日 ラオス中国鉄道でルアンパバーンへ
5日 ルアンパバーン市内観光
6日 飛行機でハノイへ
7日 ハノイ市内観光
8日 ハノイ市内観光、深夜便で日本へ
9日 朝に日本着

色々欲張ってお互いのやりたいことをぎゅーぎゅーに詰め込んだ結果、なんとも初心者バックパッカーのような旅程になりました。夫は3か国とも初めてということもあり多少緊張していたようですが、私にとっては中盤のラオスはホームのようなもので、渡航にあたって入念に調べたのは各国の出入国のコロナ対策と電車の時刻、ハノイでの過ごし方ぐらい。タイ滞在にいたっては、東京外大のタイ語講座で少しかじったこともあって、どれだけ通じるようになったか試せるワクワク感が大きかったように思います。

タイ1日目:アユタヤ

さて、1月28日の深夜にバンコクのスワンナプーム国際空港に到着したわけですが、前々回のタイ入国で散々な目にあったために(マレーシア経由の安い便をとったら友人・私の荷物が華麗にロスバゲしました)、ちゃんと荷物が届いていただけでこの旅行はうまくいったと思いました。直行便なので届いていて当たり前なのですが、それぐらい例のロスバゲはトラウマだったのです…。(かくかくしかじかで無事受け取ることはできたのですが、このことを書き出すと色々止まらなくなるのでまたいつか)

翌日は朝6時にホテルを出発予定だったため、割高覚悟で空港で両替とSIMカード購入を済ませました。本当に割高になって悔しかったので、やはりタイでの両替はSuper Rich一択だと思いました。

そして到着したのがこちらのクルンテープアピワット駅(バンスー中央駅)です。

バンコクからアユタヤまでは2020年に協力隊同期との任国外旅行で行っているから楽勝楽勝と思っていたのに、なんで今やねんと泣きたくなるような絶妙なタイミングでフアランポーン駅からクルンテープアピワット中央駅に機能が移転。それも普通電車はフアランポーン発着で、特急や寝台だけがクルンテープアピワットへ。

とにかくスケールの大きな空港で、カウンターもこのようにたくさんありましたが、空いているのは端の3か所だけでした。12番は車いす専用カウンターになっており、1段低くつくられています。

私たちが購入したのは、この日向かう予定のアユタヤまでの片道切符と、30日夜にラオスの首都ビエンチャンに向かうための寝台特急。

カウンターでチケットを購入したあと、改札などは無くそのまま駅構内に入っていくスタイルはフアランポーン駅と変わらずですが、ホーム階へ向かうエレベーター/エスカレーターは出発30分程前までパーテーションで封鎖されています。時間になったら係の人が切符をチェックしながら乗客を通していきます。

アユタヤへの道のりは半分ぐらい高架になっていて、前に比べて乗り心地が快適になったような気がしないでもない一方で、タイの人びとの暮らしを感じられた車窓の風景がなくなってしまったのは少し寂しいような気持ちになりました。(翌日メークロン市場からの帰りの電車でばっちり見ることができたので、この気持ちは回収されました。)

アユタヤの街に出る前に帰りの電車の切符を購入し、船で川を渡り、自転車を借り、ようやく観光スタートです。

アユタヤといえばこのガジュマルに埋まった仏様と大きな涅槃ですが、アユタヤの楽しみは遺跡見物だけではないと思っています。観光客を乗せた像が列をなしてゆっくりゆっくり歩いている後ろをついていったり、「ここからあっちまで全部遺跡なんかー」と遺跡の大きさを体感したりと、壊れかけのぼろい自転車でぬるい風を切りながら、街全体の雰囲気を感じるのがなんともいえず良いのです。

あとはおいしいものを食べれば完璧!ということで、朝はローカルガパオ、そのあとSUMMER COFFEEというオシャレなカフェで一休み、最後は川沿いの有名店でエビをいただいて、アユタヤ観光はあっというまに終了しました。

帰りももちろん電車でしたが、直角シートが気にならないぐらい爆睡して、気が付けばバンスーまで戻ってきていました。次にアユタヤに行くときは、木のシートのちょっと良い席に座ってみたいです。(今回も良い席に座りたかったのですが、うまく伝えられませんでした。)

バンコクに戻ったら、そのままトンローに向かい、55ポーチャナーのオースワンで〆。ふわっふわのカキオムレツなのですが、これがまーーーーー旨い!こういうジャンキーなローカル飯が大好きです。

相変わらず酒が全く飲めないので、夜は100万ドルの夜景を見ながらワッフルを食べました。Duvelの生ビールがアジアで唯一飲めるルーフトップバーらしく、夫は楽しそうでした。

タイ2日目:メークロン市場

2日目は、バンコクから南部に85キロほどのところにあるメークロン市場に行くことに。メークロン市場までは、チャトゥチャックからの乗り合いバス、タクシー、電車などいくつかの手段がありますが、体力を温存したい、ゆっくり寝ておきたいということもありタクシーで行くことに。それでも3000円程度をGrabで支払って、プラス50バーツほどを高速料金として手渡ししたぐらいの金額で連れていってもらえました。

メークロン市場の見どころといえば、やはりこの「市場の中を走る電車」ですね。11時ごろに市場に到着してから、私たちが帰るまでに3本通ったのですが、1本目は魚のすり身やさんの前で立ち見スタイル、2本目は線路沿いのカフェでマンゴーシェイクを飲みながら目の前を通過、3本目はメークロン駅で、とそれぞれ違う場所から見ました。日本では絶対にありえない場所から走っている電車を見られるのは、スリリングで楽しかったですが、本当に目の前ぎりぎりを通るのである程度足場を確保していないと危ないように感じました。

メークロン市場からの帰りは、いったんバンレームまでのチケットを買い(着いたときに買おうと思ったのですが、発車20分前でないと買えないと言われました)、バンレームから船で川を渡って反対側のマハチャイ駅からバンコク市内のヴォンビエン ヤイ駅までと、電車の乗り換えの間に船に乗るのですが、バンレーム着からマハチャイ発までは1時間5分の余裕があるので、市場周辺や駅に停車している電車なんかも楽しみながら過ごすことができました。

・・・メークロンからヴォンビエン ヤイまで、ひたすら警笛を鳴らしながら進むので、ゆっくり休みたい方は後ろのほうに乗ることをおすすめします。

そして夜は、かの有名なソンブーンシーフードへ。

ハタの丸揚げ、プーパッポンカレー、カニのナンプラー漬け、えびの黒コショウ炒め、どれもとっても美味しかったです。お高いお店でプーパッポンカレーを食べたのは実は初めてで、その上品な味に衝撃を受けました。ラオスのバンビエンという観光地で食べられる、沢蟹のプーパッポンカレーの野性味溢れる風味が自分の中でスタンダードになっていたのですが、私はどちらも大好きです。

一番美味しかったのはナンプラー漬け。カニってこんなに甘くなるんや?!と感動してしまうぐらいに甘みが強くなったカニと、ヒーヒーしーしー言ってしまうピリからのタレが絶妙です。食べた後の指までおいしかったです。

そして夜はまた100万ドルの夜景を見ながら、ジンジャーエール。出国のタイミングで日本は大寒波に見舞われていて、やっと寒さから逃れられると思っていたのに、日本が寒いときはバンコクもちょっと寒い。ルーフトップはもっと寒い。1杯だけ楽しんですぐに帰りました。

バンコク3日目:市内観光

3日目は市内でゆっくり休憩。というのも、この日の晩にラオスに向けて出発予定だったので、ここで一旦疲れを取っておきたかったのです。

午前中は、ゆるゆる荷物を詰めて、ワットプラケオに行くでもなく、ワットポーに行くでもなく、すっかり人のいなくなったファランポーン駅へ。もしかしたらこの旅が見納めになったりするのか…?と思うと少し寂しいですね。鉄道好き夫にこのドーム型のホームのなんとも表現できない美しさや、ターミナル駅に漂うしめっぽくてレトロな雰囲気を感じてもらいたくて、ファラポーンに立ち寄りました。夜行列車に乗る前のにぎやかさはもうここにはありませんが、がらんどうになった待合や、出発時刻を過ぎてから走ってくる乗客を乗せて静かに走っていく列車は、とてもかっこよく見えました。

そんなファラポーンのかっこよさに痺れたあとは、初タイ夫に食べてもらいたかったマッサマンカレーを食べにタリンプリンへ。接客があったかくて丁寧で、とても良いお店でした。マッサマンカレーを食べたのは何回目かなので、どれぐらいおいしいか分からなかったけど、タリンプリンのマッサマンカレーはとてもおいしかったです。攻撃的なグリーンカレーも大好きですが、マッサマンカレーの深いスパイスの風味も大好きなので、もっと美味しいマッサマンカレーに出会いたいです。

そのあとは、セントラルやBIG Cをうろうろしてお土産を買い回りました。大好きなPlaymoreや揚げた海苔、タイ紅茶、ドライフルーツなどなど。ただ、このあとの行程でルアンパバーンからハノイまでのエアが20㎏制限ということもあって、自分の商品の買い付けを考えるとあまり荷物は増やせないので、必要なものを最低限だけ。そのかわり、ハノイから日本が40㎏×2個という無双状態なので、ルアンパバーンで20㎏ぱんぱんにして飛んで、ハノイで+20kgをどこまでいけるかチャレンジ、という作戦です。

最後にピンクの看板の有名店でカオマンガイを食べ、ホテルに荷物を取りに戻って、スーツケースのカギをホテルのベンチにちゃんと忘れて(あと1個別のところに入れていたので助かりました…)、いざバンスーへ。なんかタイ旅行、毎日電車ばっかりだったな・・・。

すでにベッドメイクされた寝台車は、窓付きの下の段と上の段で値段が違います。上の段は圧迫感もあるし上り下りも面倒なので、並びで下の段を取りました。トイレは綺麗ですし、小さい水も1本もらえて、車内食のサービスもあります。枕元にはコンセントとライト、綺麗なタオルケットと枕もついています。とにかく最高なんよ。フルフラットに敷かれたマットレスの下にはスーツケースも楽々収納できますし、カーテンを閉めればプライバシーも十分確保されます。とっても快適。

どの移動手段もそうですが、車内の暑い・寒いが極端なので、私はウルトラライトダウンとゴアテックスを持ち込みました。これがまあ正解。明け方は寒さに震えて何度か目が覚めました。

タイに着いて久々に味わった感覚があります。それは、「文字が読める」という感動。大学を出てカンボジアに住んだとき、わたしはカンボジア語の読み書きができないまま2年間働きました。「識字」ができないことがどういうことか、身をもって体験したのはそのときです。看板になんて書いてあるのかわからない。スタッフたちの名前も読めない。ローカル屋台のメニューも読めない。大家さんが「契約書だからサインして」と差し出した、カンボジア語の書類ももちろん読めない。「もしこれが自分にとってとんでもなく不利な内容だったらどうしよう」という不安は今でも覚えています。今はグーグル翻訳もずいぶん性能があがりましたが、当時はまだそれほどでもなかったように思うので、自分の伝えたいことを日本語で打ち込んで見せても「?」というリアクションをされ、逆にクメール語で何か話してもらっても自分で調べる手段もありません。しかし、「住んだらそのうち読めるようになる」というミラクルは起きることもなく、私は耳と口が3%、残りの97%を顔とリアクションでなんとかして過ごしていました。

そのあと、JICA青年海外協力隊としてラオスに派遣してもらえることになったときは、日本で70日間の訓練を受けました。ラオ語は表音文字といって、日本語と違って規則とアルファベットさえ覚えれば「意味はわからなくても発音ができる」言語です。70日の訓練では、時間がかかるけれど音読ができる、単語はまだまだ覚えていないけれど最低限の日常会話ぐらいならできる、という程度でした。それでも、空港に着いたとき、「Arrival」の上に大きく書かれたラオス語の「出口」が読めたときの感動は忘れられません。義務教育もとっくに終わった大人が、文字が読めるということをあんなに感動するなんて思いもよりませんでしたが、私にとってはそれほど大きな、自分自身の”できること”が増えたと感じられた瞬間でした。

タイは、久しぶりにその感覚を思い出させてくれました。去年の3月に隊員としての活動を終えて本帰国してすぐ、4月から15週にわたり、東京外国語大学の公開講座で半年間勉強できたおかげです。読み書きもまともにできないのに背伸びして中級講座を選んでしまい、ついていくのがしんどくて何度も心が折れそうになりましたが、諦めずに最後までやってよかったなあとしみじみ思いました。とはいえまだまだ「なんだこれ」となることは多々あるので、この感動を燃料にもう一度勉強を始めようと思います。

さて、これでタイ編は終了。つぎはラオスです。濃くてなかなかまとめられそうにありません。

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バンクンの健康食品生産グループ見学

さばいでぃー!

二本松訓練所では感情失禁してばかりの私でしたが、今まさにあの時の感覚でいます。ちょっとコップを揺らしたら水が零れそうな表面張力状態で、なんかあるたびにちびちび泣いてます。
 
先日のことです。カオピヤック屋さんのにーちゃんが、とっても優しかったんです。

 

SNSにはもう書いたことなので、また言うとると思った方はスルーしてください(笑)

 
「いつ日本に帰るん?」と聞かれたので「28日に首都入って、来月6日にラオス発やで」というと、「もう少しだね」といいながら私の予定をまっさらなカレンダーに書いて、24日と25日にきゅっと丸をつけました。「どっちの日でもいいけど、この日は僕の奢りやから、絶対に食べにきてな」
 
その後食べたカオピヤックは、そんなに辛くしてないのに全然すすれなくて、隣にいたおばちゃん二人に「なんで泣いてるん?」と心配される始末。
 
私がラオスに来てすぐ、まだゲストハウス暮らしをしていたときから、このカオピヤック屋のにいちゃんは私のことを気遣ってくれていました。どこに何があるかも分からず村を徘徊していたときにこの店を見つけて、「自転車を買いたいんだけど」というと「ここには無いよ」と。「あっちの方角に大きい市場があるけど遠いから、誰かに連れていってもらって買うんだよ」と何度も言ってくれました。(私がいつまでも分からんような顔してるから)
 
お客さんもやさしくて、たまにフライドチキン御馳走してもらったり、知らないあいだにお会計済んでたりと、貰ってばかりの場所です。
 
いつも通り「ラオスで一番おいしかったよ~」というと、「お~~~~い、普通だよ!!アヒャァヒャァヒャヒャァ」と笑っていました。
 
その後、シンの仕立てを習いに行ったんですが、先生に「最終工程に使う腰部分の布を買ってきなさい」と言われて別の仕立て屋さんに買いに行ったら、「日本人がシンの仕立ての勉強してるなんて偉いわ」といって無料で布をくれました。他の人のシンを縫ったときに出た端切れですが、シルクのやわらかーい布地で、お店でのお仕立てに十分使えそうなもの。「お金払いますよ」と言ったら、「練習のためにお金は払わなくていいのよ、良いシンを縫うときに好きな布地にお金を払いなさい」って。もう、みんな、優しすぎか。
 
その後仕立ての先生から「はい、ここからここまでやりなおし」とチャコペンでピッピッと線を引かれ、縫ってはほどき、縫ってはほどき、最後は「縫いなおしすぎて全体的に汚くなったから全部外してやり直しなさい」と言われ、腰回り一周分の糸を全部ぷちぷち、、、。持病の肩こりとドライアイが爆発しそうになるわ、初心者にとっては0か100しかない工業用ミシンに翻弄されまくるわ、しまいに陽がかたむいてどこ縫ってるんだかまったく見えなくなるわで、「残りは今度明るいときにするわ!」といって、先生にお仕立てをお願いしていたシンを受け取って帰ることに。
 

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そしたら先生、「これは高いし、品質もいいし、きっと日本でも大切に着るんでしょう。そのときに私からの贈り物であることも思い出してほしいから、このシンの仕立て代はとらないよ。私からのプレゼントだから、大事に着てね。そして着るたびに思い出してね。」って。
 
日本での待機中の1年半、ラオス語を教え続けてくれた先生がたに、こんなに感謝した日はありませんでした。この人たちの、暖かくて優しい言葉を、少しでも多く受け取れるようになっていて、ほんとうによかった。
 
ああ、寂しいなあ。帰りたくないなあ。ここでの生活も、あっというまに残り9日です。
 
 

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そんなわけで、先輩隊員が一緒に活動していた生産者さんの応援のつもりで買った布が、これ以上ない付加価値をつけて私のところに帰ってきました。
 
え、めっちゃ可愛い。どうしよう。日本でも普段着にしよう。
 
 

バンクンの健康食品生産グループへ

そろそろ最終報告書出さないとなァ・・・という時期なんですが、最後にもう1か所行きたい!!と配属先にわがままを言って、バンクンの健康食品生産グループに行ってみました。
 
というのも、この健康食品生産グループ、長期派遣中の2020年3月に行く予定だったんです。グループ長は私の配属先に事務仕事をしに来られていたので、以前から知っていて、この日のためにアポイントも取って、お土産の日本食も用意していたんですが、前日晩にパニュ(嵐)がきて工場の屋根が吹き飛んでしまったのです。その様子と「また来てね」の言葉がWhatsappで送られてきて、「行って大丈夫になったら教えてくださいね」と伝えていたのですが、その後すぐに一時帰国になってしまって、結局行けずじまいになっていました。
 

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ຮ້ານຈຳໜ່າຍສະໝູນໄພຂີ້ໝີ້ນ ມີໄຊທິບ さんは、ビエンチャン県トゥラコム郡北クン村、バンクンTTC(教員養成校)からもう少しパガニュンの橋寄りのところにあります。
 

 
あー、なるほどこのあたりね!ってなる方が、この記事を読んでくださっている方のなかにどれぐらいいらっしゃるか分かりませんが、念のため地図を。
 
車から降りた瞬間、ショウガの香がカーーーッと鼻を抜けました。
 
工場を見学する前に、グループ長と奥様にお話をお伺いしました。
 
この会社は2010年創業。グループ長の奥様のテオグンさんは、トゥラコム郡の女性同盟で職員をされていて、村落開発として地域社会をサポートしていらっしゃいました。トゥラコム郡内でたくさん生産されているショウガやクミンを使った商品を作り、この地域と女性と農業従事者に働く機会をつくりたいという想いから、この仕事を始められたそうです。伝統療法や健康食品に関する知識はテオグンさんが一から勉強して、グループ長は養豚など他のビジネスもする傍ら、経営されているとのこと。
 
現在は、首都をはじめ、ビエンチャン県内や他県にも販路を持っていますが、外国への輸出経験はまだ無いとおっしゃっていました。一番大きな課題と感じているのはパッケージングだそうです。
 
ちなみに、グループ長のプッタセンさんの養豚場には、2010年ごろに半年だけJICAボランティアが2名派遣されていたとのことです。(肩書はアーサーサマックだとおっしゃっていて、お名前もお聞きしましたが、私は存じ上げない方でした)
 

工場見学

いつも配属先にサンプルを持って来ていただいているので、メインの商品は飲んだことがあったのですが、ここでもいくつか商品の味見をさせていただいた後工場を見学することにしました。

 

ショウガ茶、ウコン茶を飲んで胃がじゅわ~~っと温まったのを感じ、いざ見学へ。

 

 

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まずはこちら、東南アジアではおなじみ食材の「マークカム」、タマリンドです。マメ科の植物で、果実(と呼んでいいのか?)の部分が食用になります。からっからになったさやを剥くと、このようにねっとりしたペースト状の果実と種が出てきます。日本の東南アジア食材店などでは、種を外してペーストに加工したものが一般的です。しっかり熟したものだと、干し柿みたいな甘味があります。

 

 

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次はメインの商品。ショウガはトゥラコム郡産、ウコンはフワパン県産。ウコンはフワパン産のものが一番香りが良かったそうです。

 

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ショウガ・ウコン粉末は、生のショウガとウコンをそれぞれ薄くスライスした後十分に乾燥させ、この機械にかけて粉末にしているそうです。メッシュがどれぐらいかまでは分かりませんでしたが、今売られているものより細かいメッシュで作ることも可能だとおっしゃっていました。

 

 

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クミンとショウガをお茶にするときは、生のまま挽いて、それをかすかすになるまで絞り、その汁をもう一度裏ごしして、白砂糖と合わせて七輪の炭火でことこと炊くそうです。炊く工程が見たかったのですが、プッタセンさんがその後別の用事があって私を送っていかないといけないということで、火をつけるところまでの写真しかありません(笑)

 

このグループの商品たち

 

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まずはこちら、玄米と4種の豆の粉末です。これをインスタントのブラックコーヒーに溶いて出してくれたんですが、これが香ばしくてとろみもあって、優しい甘さですごくおいしい!そのまま食べると、あっさりしたはったい粉みたいな感じでした。げんこつ飴にしたらおいしそうだな~と思いながら食べました。

 

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こちらはケフィアライム(コブミカン)のシャンプーとトリートメントです。鶏軟骨や魚のフライと一緒にぱりぱりに揚げられた美味しい葉っぱの、あの植物です。タイ語ではバイマックルといいます。

 

ラオスの民間療法では、コブミカンは抜け毛予防の効果が期待できるとされているそうです。

 

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言わずと知れた ごまパウダー

 

 

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ウコンパウダー

 

 

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しょうがパウダー(新品撮るの忘れたので私物にて失礼。)

 

 

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ウコン茶

 

 

 

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しょうが茶 

 

 

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そのほか、カプセルタイプやシロップ、黒ニンニクなど、体に良いものを多数取り扱いされています。

 

ショウガパウダー、ウコンパウダーはそれぞれ1㎏あたり30万KIPで販売されています。ビジネスパートナー絶賛募集中だそうですので、興味のある方いらっしゃいましたらぜひプッタセンさんまでお問い合わせください。

 

以上です

さて、私は今から首都のITECCで今日から開催されるMADE IN LAOS 2022の見学に行ってきます。去年はハンディクラフトフェスティバルがオンライン開催になってしまい、こうしたイベントに参加できるのは本当に久しぶり。10時半に迎えに行くね~と言われ、10時ごろからこのブログを書き始めましたが、「お店に行くから開けといてと言われたお客さんがまだ来ない」ということらしく、12時前にいい感じに書き終わり、お迎えがきたので車に乗り込んで、最後の部分を書いております(笑)

 

1月中旬、下旬の出張のことも書きたかったんですが、ばたばたダラダラしているうちにここまで来てしまいました。反省。「日本に帰ったら1週間隔離あるし~」とか思っていますが、31年ラオ子やってきたラオ子が一番わかってるんです、こいつはやらないということを。書けるうちに書くぞ~!!おらー!!

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2021年の振り返り

さばいでぃー!

皆さんこんにちは、ラオスのラオ子です。

 

ラオスの国内新規感染者は増える一方、2022年1月1日からは、トラベルエージェントを利用したツアーであれば観光目的での入国が許可されることになりました。そこにはもちろん日本も含まれています。

 

政府発表では、オミクロン株の国内感染者は確認されていないとのことですが、ワクチン接種の必要回数接種が完了した割合もまだまだ50%に届かない状況で、2022年には人の往来がどっと増えることになるので、これからどうなっていくのかなあと不安に思っているところです。

 

さて、いよいよ2021年も終わりということで、いつも「ああどうしよう何もしていない」と焦るだけの自己肯定感の低い人生なので、「できたこと」がちょっとでもあったらさも凄いことかのように書きながら、1年の振り返りをしておきたいと思います。

 

1月

今年の1月は、神社ご奉仕のアルバイトからスタートしました。もう、干支一周以上、滋賀で年末年始を過ごすときにお世話になっている神社です。ですが、こんなにも参拝客が少ないことがあるのかと思うほど静かな年越しで、毎年の戦場みたいな三が日は何だったんだと思うほどでした。

1月前半はずっと神社だったのですが、後半からオンラインのマンツーマンラオ語レッスンを再開しました。2020年いっぱいは報告書をひたすら書いてひたすらネイティブチェックしてもらうというライティング中心の勉強で、その時は書いた文章をほとんど直してもらうレベル。千本ノックを受けているような感じです。インプットがあまりに多くて、一旦アウトプットしないと次に行けない気がしたので、2019年のハンディクラフトフェスのときにコミュニティ開発隊員が書いた報告書をあらためて翻訳してみることにしました。この報告書は、コミュニティ開発隊員全員で来場者に向けて手工芸品の意識調査を行い、評価グリッド法という方法で分析したものを、M隊員がまとめてくれたものです。大学院卒業の人が書く論文調の文章の語彙がそもそも難しい、内容も抽象的な表現が多く難しい、辞書で引いてももちろん出てこない、と、明らかに翻訳の練習にする題材間違えたやろって思うぐらい、あらゆる方向からドツかれまくってのたうち回りながら翻訳しました。(そしてほとんど赤が入りました。)

 

  

こちらに書いた『みみタロウキャラバン隊』の報告書を書き終えていろんなことがひと段落ついた1月終盤、再派遣までの生活費をなんとかすべく、人生で初めて派遣会社の面接を受けました。

 


読んでね。

 

2月

無事、派遣の仕事開始!ドラッグストア通算7年目。そして3社目。管理者要件を満たしているので割とどこでも雇ってもらえてありがたいです。派遣社員なので、仕事はもちろんフルタイムで、月160時間+残業ちょびっと。コロナ渦でのドラッグの仕事、それまでに無かったいろんな難しさを感じながら働きました。コロナ渦だかららこそ軽傷のときは自分でなんとかしたい、こんな症状が出たけど病院にかかるのも怖い、と相談される事もあり、受診勧奨するタイミングかどうかとか今まで以上に考えながら接客対応して、これはこれで良い経験になったと思ってます。

 

そしてこの月も、1月に引き続きひたすらラオ語レッスン。午前中にラオ語レッスン受けて、午後は仕事行って、遅番で22時すぎに帰宅して、予習復習して、また朝からレッスン受けて、と、仕事とレッスンの2本立てでかなりメリハリのある生活をしました。(そのあと集中の糸がすべて切れる日がきます)

 

3月、4月

3月以降も引き続き、仕事に語学に、ひたすら繰り返しの日々。3月末に兄家族が実家に戻ってくることになり、私をHATEしてやまない可愛い甥っ子に激しく拒絶されながらも一方的に愛をぶつけるだけの人生でした。

語学レッスンは、報告書の翻訳を一旦終えるところまでやり切りました。その後、今まで習った単語をエクセルにまとめ始め、単語だけだと使い方を忘れてしまう恐れが大いにあったため用例を書き、それをひたすら先生に添削してもらうという新たな千本ノックを始めました。そしてこのタイミングで、次の隊次の訓練のために先生がオンラインレッスンできなくなり、私自身も一休みすることに。

 

5月

3月ごろに話し合いをして、私の再派遣予定は、6月末~12月までの6か月間になるはずでした。現隊員で唯一ハンディクラフトフェスでのブース出店を経験した身として、次の隊次の人たちに引継ぎをしたい!という気持ちがあり、10月末~11月初旬のハンディクラフトフェス2021に参加できるように、この期間を選んだわけです。

 

ところがどっこい、さて来月末にはラオス!!と思っていたら、ラオス側がロックダウンしてしまって公用旅券や入国許可などの諸々の手続きが進められない、とのことで一旦延期になりました。最低でも7月になるだろうと見通しが立たなくなり、6月20日付で退職予定だった私は派遣会社と派遣先に頼み込んで特例で1か月延長させてもらうことにしました。(本来は3か月更新)

 

6月

「ああ・・・今ごろ荷物詰めてたはずやったのに・・・」「ほんまやったらもう空港行ってるはずやったのに・・・」と、考えても仕方のないことを考えて落ち込む日々。そして7月の渡航も無理になり、ワクチンを打たないと渡航できないという新たなハードルも追加されて、「え?ここまで待ったのにもうハンディクラフトフェスできひんのちゃうん?」と、日本に帰ってから一番落ち込みました。

協力隊を一足先に卒業している同期と、こっそりご飯やドライブしたのですが、それがどれほど支えになったことか。

そして、ここで仕事がなくなるとまた生活面でのストレスが増える(そしてただでさえ無い貯金が減る)ので、派遣会社と店長に2回目の一生のお願いをして、8月末まで延ばしてもらうことになりました。感謝永遠に。

 

7月

ここで一気に急展開。7月20日に1本目のワクチンを打てることになり、そして派遣も最短で8月下旬になりそう、というところまで見通しが立ってきたのです。頭がついていかず、とりあえず3か月ほぼほぼさぼった(たまーに受けた)オンラインレッスンの予約を入れて、お買い物リストを作り始めました(笑)

 

 

出国に向けてテンションあげて、また延期になったらしんどいしな~と暗い気持ちを引きずるなか、こうやって先輩隊員から刺激を貰えたことが救いになりました。

 

8月

9月11日のフライトに決まりました、との事務所からの連絡に「どうしよう!!準備ができてない!!」と焦りだす私。2本目のワクチンを打ち、敦賀方面に何度か釣行し、あ、花王と資生堂のPAYPAY祭やってる!!とあっては必需品を爆買いし・・・と、特筆すべきことのない1か月でした。

ただ、7月に引き続き、この月も先輩隊員に会える機会があり、

20日に退職してから、オンラインレッスンの予約をぱんぱんに詰め、この1年半の待機中全くやってこなかったリスニングとスピーキングを強化すべく、ひたすら先生と喋りまくる日々を過ごしました。

 

9月から

ラオスに来てからのことは、気持ちが溢れてしまってダイジェストでお送りできません。ブログとnoteに、その時その時思ったことを何らかのタイミングでまとめていますので、時系列にすべて貼り付けてみます!

 

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任期を消費していくだけの首都待機もまた辛い日々でしたが、今はこうして任地に居て毎日活動できているので、やっぱりラオス戻ってきてよかった、戻ってこれてよかった、と心から思ってます。

 

そして今、ປີໃໝ່ສາກົນ(国際正月)の大晦日、思い出したかのように時折あがる花火の音を聞きながら、この記事を書いております。

 

活動のこと

さて、延長戦に入ってからの活動のことも少し触れておきたいと思います。

 

正直、未だ右肩上がりの感染拡大をみせるラオスのコロナ渦で、活動をどこまでやって大丈夫なのか探り探りだったこともあって、しばらくは思うように動けていませんでした。その後も、誰々が感染した・してないの情報に混乱したり、感染対策への意識や考え方の差を感じて単純に恐怖だったり、隔離施設に入ることを考えるとストレス感じることもあって、そういう時は「よし!無理せず家に帰ってできることをやろう」とその場を離れたりすることもありました。

 

ですが、やっぱり外に出て人と話すと楽しくて、新しい出会いや発見があって、ラオ語の勉強のモチベーションにもなって。そして、他の隊員が同じ状況下で頑張ってる様子をSNSで見て「私も負けてられん!」と、活動スイッチが入りました。

 

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郡内の生産グループでは、前回派遣時のクラッチバッグに引き続き、他の新商品開発や、すでにある商品のブラッシュアップを行っています。可愛い商品がいっぱいできてきたのに、これを売れる販路がないのが悔しい。国境あけるなら展示販売会や、イベント・お祭りのときのタラートナット(特設市みたいなもの)も再開してくれたっていいやん!と思う反面、生産者さん自身が店に立つので、それもまた感染リスクを高めるんだよなあと考えると控えてほしいなあと思ってしまいます。いやなもやもやだなあ。

 

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新たにODOP認証を受けた、バンビエンとルアンパバーンの間の山岳地帯にあるコーヒー農家さんは、とりあえず一度出張に行けるように企画書出して話をすすめながら、プロの視点から、コーヒーの感想や、栽培・加工の助言をもらえるように動いています。

 

また、隊員が派遣されている県内の紙布生産グループがODOP認証取得を受けられるように配属先と動きつつ、この村の和紙と、先に話した生産グループの竹編みの端材を再利用して何か作れないか、あれやこれや奮闘中・・・。

 

私が居る郡の周辺2郡にある食品関連の生産グループにも、新商品のアイデアやパッケージデザインの話をもっていけたらいいなーと思っていたらもう年が明けそうです。

 

それからこれは半分趣味なのですが、シンの縫製を2人の先生に習って、それを動画と資料にまとめて、どなたでも見ていただけるようにしてみようと思っています。今年中に1人目の先生から習い終えたところですが、難しくて頭が3回ほど爆ぜております。

 

私の任期は来年3月8日まで。その日には日本に居なければいけないので、フライトにもよりますが、実際に活動できるのは2月下旬までです。あと55日ぐらいですって、なんと恐ろしい。自分の能力の低さ、予定通りにいかない難しさ、おさまらないコロナの中、どこまでやれるか分からなくてちょっと焦ってますが、今やらなかったらもう一生やれないことだと思うので、あと1か月半全力で駆け抜けたいと思います。

 

最後に

この1年は本当に激動で、沈むとこまで沈んで、そのあとめちゃめちゃテンションあがって、感情の起伏が上にも下にもいけるとこまで行った1年間でした。今でも自分がここに居られることが信じられない時があるぐらいです。

 

いっそ隊員やめてやろうか、ラオス行くの諦めようかと何度も思った上半期の、しんどかったぶんのご褒美を、いま100倍返しで受け取っている気持ちで生活してます。こんな風に思えていることが本当に幸せですし、どこにも行けない(首都にも以前のように上京できない)からこそ任地にどっぷり浸かって今まで知らなかった任地を知れているのも事実なので、いまの状況に心から感謝して残りの任期を駆け抜けたいと思います。

 

このブログを読んでくださっている方、反応をくださる方も、いつもありがとうございます。とても励みになっております。自分がこの状況下でここに居ることは、もちろん活動のためでもありますが、ラオスが大好きなのにまだしばらくラオスに来れなさそうな方に、少しでも今のラオスをお届けできたらなあと思っています。来年も不定期で更新していきますので、引き続きご覧いただけますと幸いです。

 

ああ、花火がちょっとだけやかましくなってきた。もうすぐ2021年が終わるんだなあ。2022年はどんな年になるだろうか。任期を終えたらその先どんな生活が始まるんだろうか。あと15分、まっさらなスケジュール帳にやりたいことをいっぱい書きながら、2022年をスタートしたいと思います。

皆様も、よいお年をお迎えください。

 

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再赴任後はじめての生産者訪問

さばいでぃー!

みなさんこんにちは、絶賛ビエンチャンハイになっているラオスのラオ子です。ずっと飛んでます。

 

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ご覧ください、こちら文明の利器、電子レンジと申します。生産者さんに「このへんにマイクロウェーブ売ってるとこない~?」って聞いたらお店に連れて行ってくれたのですが、なんとTOSHIBA(ほんまもんかは謎)が1万円弱。2年居るなら買うけど、数か月だから・・・ごめんね・・・とお店を去ると、生産者さんが「そういえばうちにあるけど使ってないわ。貸してあげるから買わなくていいよ。もっていきなさい」って。いやいや、お父さんや娘さん使わないの?なくなったら不便じゃない?って一度は遠慮したのですが、「娘がたま~に使う程度だし、私たちはマイクロウェーブ嫌いだからいいのよ。炭火のほうが美味しいし体にいいから」って。

 

わ~~~~~~もう、負けた、負けたわ、完敗ですわ。ラオス人の生活力に負けたし便利さにも負けた!!!コーヒー豆のハンドピックと手焙煎に時間かけて丁寧なくらしを演出してみても、結局私はマイクロウェーブなしでは生きていけない体になっていた!

 

そう気づかされてもなお、借りてきたレンジで前日の晩の豚の生姜焼きの残りと冷凍ご飯をあっためて、あつあつの作り置きご飯を頂いたのでありました。マイクロウェーブ最高!

 

生産者さんとの再会

前回のブログに書いた、配属先との活動計画のすり合わせがひと段落ついた瞬間、わたしが次に取っていた行動は生産者さんへのアポとりでした。家から配属先まで4.8キロ、家から生産者さんのところまではおおよそその倍はあるので、どうやって行こうかと悩んだのですが、とにかく会いたいのでひとまず自転車で行ってから考えようと心に決め、往復20キロ覚悟で連絡をとりました。

 

どうやってくるの?前に居た家にいるんでしょう?聞かれ、チャリで行く!と元気に答えたのですが、迎えに行くから9時に待ってなさい、と。ええ~~~ガソリン代あがってるし申し訳ないよ、と思った反面、神~~~!!と心の中で拝みました。

 

そんなわけで、生産者さんが家まで迎えに来てくれて、感動の再会。長かったね、やっと会えたね、って言ってくれて、ちょっと泣きそうになりながらお家兼お店に向かいました。

 

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着いてすぐ渡されたのは、私が大好きなお米の揚げ菓子とカオニャオ、そしてアヒルの首とか足とかクルッとコンパクトに結んで茹でたやつ。え、わたし朝ごはん食べてきたよ・・・・?というと、「違う違う!」と笑いながら私の手にアヒルを持たせます。

 

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「ほんとはそのまま持たせたいけど、コロナ怖いからね!これはコロナ対策ね!」と笑いながら、サランラップに包まれたアヒルを私の手に持たせる生産者さん。この糸を出されたころにはもう、私の涙腺は瀕死状態でした。

 

生産者さんは、私の中から悪い魂が抜けて、幸福が訪れるようにと願いながら、手首に綿糸を結んでくれます。突然帰らなければならなくなったあの日、無事に日本に帰れますように、また戻ってきてくれますようにと願ってくれた生産者さんが、1年7か月ぶりにマッケン(手首に糸を結ぶラオスの風習)をして、今度は「ラオスで健康に過ごせますように、良い活動ができますように」の願いをこめて両手に1本ずつ結んでくれたのです。

 

ああ・・・待ってよかったなあ、って、やっと心の底から思えた気がしました。

 

 

この時も、

 

 

この時も、

 

 

この時も、

 

手首に巻いているのは、誰かがわたしの健康や幸せを願ってくれた証であり、何かの節目だったのですが、今回の「おかえりマッケン」は、今までとはどこか違う沁み方で、目に入るたびにニヤニヤしてしまうのでした。

 

今日はしっかりヒアリング!のはずが

さて、今日は、コロナ渦以降の市場の変化や売り上げ、生産者グループ内の雇用状況について・・・とか思っていたのに、生産者さんまでテンションぶちあがっちゃって、今日はあんまりそういう日にはなりませんでした。

 

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着てみて!めっちゃ着やすいから、試しに一回着て!!とか

 

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これ鞄作ったときの端切れなんやけど、何かできひんかな?!とか

 

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これポンソーン村で編んでもらってるやつなんやけど、鞄以外に何ができるかな?!

 

とかとか・・・・・まってまって、私も頭が追い付かないよ!っていうぐらいのペースで提案がどんどん湧いてでてきます。

 

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おかげさまで、夕方にはもう頭すかすか。生産者さんの家の近くにできた綺麗なお肉屋さんでミンチと牛乳を買い、隣の市場でちゃっかりバターを仕入れて、へとへとで帰宅しました。ちなみに、生産者さんにプレゼントした日本のお土産セットの中にワサビを6本入れていたので、生産者さんは冷凍サーモンと何らかの白身魚を買っていました。

 

家から10キロ地点にこんなに清潔そうなお肉が買える店ができたなんて、感動です。明治の牛乳も、ちゃんと冷蔵庫に入っています。(隣の市場で売られていたものは室温で売られていたので、いつも祈ってから1杯目を飲んでいました)

 

今までと変わったこと

前回赴任していたときは、生産者さんの家で1日過ごすときはみんなで食卓を囲んでお昼を食べていました。しかし、今回は「マスク外さないと食べられないからね、ラオ子はお店で食べてね。」と、食事は別になりました。

 

首都のホテルで待機していたころ、一人でご飯を食べていると、「何で一人で食べるの?」といろんな人から聞かれたぐらい、ラオスはみんなでご飯を食べる文化です。ですが生産者さんは、マッケンや私が大好きなお菓子を準備してくれている一方で、こうやってお互いの安全を確保しようとちゃんと境界線を作ってくれていました。

 

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またみんなで食卓を囲んで、生産者さん宅の畑でとれた無農薬のお野菜や、生産者さんの池で育った魚を食べられる日が来るといいなあと思いつつ、今はお互いフィジカルディスタンスをとり、それを感じさせないぐらいコミュニケーションをとって、残りの活動をより良い時間にしたいと思ったのでした。

 

ちなみにですが、この上の写真の”くちゃっ!”となった肉のかたまり、ほどいたらこうなりました。

 

 

 

 

 

 

 

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”やっほー、脳みそ食うか?”

 

 

という冗談は置いといて、前みたいに、週5で活動して金曜日の活動終わりに乗合バンに滑り込んで上京、土日は首都で美味しいもの食べ貯めて日曜日に任地へ!なんてことももちろんできませんし、そもそもまだ配属先も交代勤務中なので、私も1週間のルーティーンを作って、決まった日に家で作業するように整えなければと思っています。

 

生産者さんともその話をして、さきほど紹介した竹バッグや布の端切れを貰ったり、サンプル制作用のシンを自分用に買ってみたり、自宅で活動する時間もメリハリをつけてやっていきたいです。

 

とはいえ、またいつロックダウンして首都退避になるかわからないなかでの活動、できれば1日でも多く外に出て活動したいという気持ちのほうが強くてもやもやしますが、私もニューノーマルとかいうやつに適応していかないといけないんだと自分に言い聞かせます。

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隔離と引越し終了、ついに活動開始しました!

さばいでぃー!

どうもこんにちは、ラオスのラオ子です。任地に到着して3日間の隔離・・・というところで前回のブログの更新をしましたが、ついに隔離を終えて、前に住んでいた家と同じ家に引越しました。

 

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ああ、懐かしの我が家。そう、このピンクのベッドこそが、私の帰るべき場所。

 

じっくり街を歩いてみると、街の中は変わったり、変わらなかったり・・・正直に言うと、全体的に減ったもののほうが多くて、バイクもない、首都にも簡単にあがれない、という中でどうやって生きていこうかと思っているところです。

 

家をとるか、移動をとるか・・・

何で前回赴任したとき、このゲストハウスで1か月耐えられたんだろう・・・とふと考えたのですが、答えはひとつ、「こういうものなんだなあ・・・」と思っていたからです。あのころは、毎日市場までぶらぶら歩いて蒸したもち米を買い、炭火の焼き鳥屋台の前で串にかぶりつきながらもち米食べて帰る、という習慣ができていました。

 

しかし今回は事情が違います。屋台も出ておらず、加えて、ロックダウンで閉店・休業した店が多いので、食べ物を手に入れること自体が困難というなかなか危機的状況。3日間の隔離期間を含む5日間のゲストハウス滞在は、朝は食べない、隣の店でお昼を食べる、フライドポテトを持ち帰って夕方ぐらいにだらだらたべる、お腹がすいたら持ってきた非常食か市場で買ったもち米にふりかけをかけて食べる、という方法で乗り切りました。なかなか辛い5泊6日でした。

 

そんなわけで、バイクがあったころはさほど不便に感じていなかったけど、今戻ったら絶対に不便と分かっていてもなお、元の家に戻りました。おかげさまで配属先までは往復10キロ、いちばん深くかかわる生産者さんとは往復20キロ、あいだは結構なアップダウンが続く道となっており、物理的に山あり谷ありな任地です。相変わらず噛み応えがあるな、やれやれだぜ!!

 

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正直なところ、家選びは自分の責任ですし、今いる家は配属先やJICAに強制されたわけではありません。生産者さんの居る村か配属先に近いところで新しく家を探せたらよかったのですが、そうするとまた家探し、申請、セキュリティチェックに数週間要することになります。私がいたゲストハウスは、セキュリティ面で不安があったうえに、ベッドとバスルームだけのものすごくシンプルなところで、机も湯わかしもない、しかも隣にある唯一のレストランも土日はクローズ、まわりでご飯食べれるようなところもほぼない・・・と、まさに「何があるというんですか」状態。これであと数週間耐えれる気がしなかったので、もう交通手段ぐらい何とかなれっ!!と、勢いで前の家に飛び込んだのであります。

 

もう一つの理由は、前いたときに使っていた家財道具で、買いなおすとそこそこ高いものがそのままになっていたので、それを使いたかった、ということ。日本に緊急帰国した数か月後、JICAのスタッフさんが荷物の引き上げに行ってくれたのですが、その時点で何がどこにあったかなんて全部忘れてしまっていたので、後になって「あ、あれ引き上げてもらうの忘れてたな・・・」「あ、これも残しといてほしかったな・・・」とぽつぽつ思い出して。

 

私が日本に帰っている間に一組別の国の人が住んだらしいので、それが無事そのままになっているかは、入居した時点では分かりませんでしたが、家に行ってみたら「あ~これ!これがほしかったのよ!!」というものが残っていて、家の中に見当たらなかったものも大家さんに聞いたら出てきて、結果ほぼ回収成功しました。

 

元セネガル隊員がうちまでハンドキャリーしてくれたティファールの28㎝のフライパン(大迷惑)に、ハリオのケトル、スケール、coiさんの大判タオル・・・ありがたいことに色々残っていて、私のQOLが良いかんじにぶち上がりました。感謝!!

 

ただ、間に住んだ人に電子レンジを壊されていたのはものすごく痛手・・・。どうやったらこんな簡素な作りの電子レンジ壊れるんだよ!!こんな短期間の契約じゃ新しいの買ってもらえないよ!!自分で買ってやろうか!!!(誰かとめて)

 

思い出の場所もある

さて、こんな「ぼーみーにゃん(何もない)」づくしの住環境ですが、家の近くで唯一誇れたのは、めちゃめちゃ美味しいカオピヤック屋さんがあることです。

 

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そして最後はこれ。 市場の近くにあるフォーやさんのフォー。 しっかりダシの出た黄金色のスープがたまらなく美味しかった・・・! 良いお店を見つけられて大満足の週末でした。 家はちゃんと借りれたの? キッチンないのにどうやって生活してるの? と色々気遣ってくれる優しいおっちゃん。 「3か月の勉強でそんなにラオ語が話せるんだね! たくさん勉強したんでしょう。 ラオスでボランティアするために いっぱい勉強してくれてありがとう!」 と帰り際に言われて、帰り道ちょっとだけ泣いた3連休でした。

お腹壊した。でも人が恋しくて外に出た。 – ラオスのラオ子。

 

任地に戻って隔離があけたら、一番にここのカオピヤック屋さんに行くって心に決めてたんですよ。そして隔離があけ行ってみたら、休業。翌日も休業。時間をずらしてもう一度、休業・・・。

 

テーブルの上は綺麗なのになーと思いながら周りの家の方に聞いてみると、「最近やってないよ」と。あー、そうですか・・・私の思い出のカオピヤック屋さん・・・。やってないんだ・・・。

 

そして市場で鶏とアヒルの卵を買って帰宅途中、カオピヤック屋さんの門の奥にいるお兄さんと目が合いました。そう、あの、くしゃっとわらう笑顔が素敵な、世話焼きの、お兄さんと。お兄さんは半裸で、両手を胸にあててちょっと恥ずかしがりながら、わたしのほうへと近づいてきました。

 

兄:おー!しばらく見んかったなあ!

私:覚えてくれてるん??

兄:覚えてるよー!あれやろ?農業局で働いてた日本人・・・

私:そうそう!産業商業局やけどな!

兄:あーそれな、それな!でも何しに戻ってきたん?

  仕事終わって日本帰ったって聞いたけど

私:誰に聞いたんや!終わってないよ、コロナで突然帰らなあかんくなって

兄:そうか、大変やったな~ こんどはいつまで居るんや?

私:1か月か、長くて3か月!1年半も待ったのに、首都で1か月半も動けんくてな~

兄:待ってる間ラオス恋しかったかー?

私:そらもう!!毎日ラオスのこと考えてたよ。あとこの店のカオピヤックもな

兄:おぉぉぉぉおおおお~~~い

  そんなことないよ、普通のカオピヤックしか作れへん

私:いやいや、ここのカオピヤックが県内で一番おいしいやろ間違いなく

兄:アアァァッヒャアヒャァヒャァヒャァwwww恥ずかしいわー おーい恥ずかしいわ~~~

私:いや、服着てないのもだいぶ恥ずかしいから大丈夫やって。

兄:お~~アアァッヒャァヒャァヒャァヒャァヒャァヒャアアアア~~wwwww

(ほんとにこんな笑い方)

私:店あけへんの?

兄:店は来月からの予定やで。今モノ買いにいったり調味料作ったり、準備中や

私:そしたらまた来るわ。服着て作ってな。

兄:アアッァアァァアッヒャァヒャァヒャァヒャァwwwwwww着る着るゥ!!

 

よかった、来月から美味しいカオピヤック食べられるゥ!!!!!

 

ここ数日の活動のこと

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さてさて、前置きはこのへんにして。2回目の活動の目標をどこに設定して、どう活動していこうか、配属先のカウンターパートと一緒に作戦会議しました。

 

日本で待機していた1年半の間とラオスに来てからの隔離期間中、ラオス語のマンツーレッスンを受けていました。間違いなくそのおかげなんですが、前よりも聞きたいことが聞けて、伝えたいことも伝えられて、自分の成長をちょっとだけ噛み締めました。とはいえまだまだ語彙力の引き出しも中身も足りていないので、踏み込んだ話をした瞬間に頭がぱっぱらぱーになってしまいました。悔しいです。一度分からなくなったらそこから先すべてがわからなくなる不治の病にかかってるんですけど、これどうやったら治療できるんでしょうかね。毎日少しずつでも勉強する、分からない単語はちゃんと聞いてあとから調べる、と、自分より後の隊次の隊員さんにえらそうに言ったので、まずは自分がちゃんとやらないとダメですね。

 

というわけで、まず最初に話したのは、この状況下で、活動範囲をどれぐらいに設定するかということ。前回赴任時に何度も訪問していた村がレッドゾーンに指定されて行けなくなっていたり、その最新情報を私が持っていなかったりで、計画に赤が入ることもしばしば。こっちは行けるけどこっちは無理とか、近いけどまだ行ってないよね?っていう生産者さんを視野に入れてみたりとか、安全に活動できて、かつ何かで手伝えることがありそうな場所を探して、なんとか柔軟にやってみようぜ、という姿勢。

 

また、活動内容についても、今の状況が続くと想定して国内外向けに行動していくのか、観光が戻ってきたときのために準備するのかとか、どこに焦点をあててマーケティングするのがいいかあれこれ話し合い・・・色々決まったことを活動計画に反映させて・・・あとはこの活動計画をラオ語にして配属先に共有して、というところまでやって、ようやく本題に入っていけそうな感じです。

 

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前に赴任していたときは、先輩たちが楽しそうに掛け算の活動をしているのを見ていて、職種も隊次も関係なく、やろう!いいね!ってわいわい取り組める人と何かすることで活動が加速度的にぶち上がっていくのっていいなあと思っていました。今回はそういう活動は現実的に厳しいところがあって、なかなか実現には至らないと思うのですが、だからといってそれが目的になってしまうのもまた違うよなあ、と思ったり。目標がたまたま同じ方向にあったとか、誰かの力を借りたら成し遂げられそうだったとか、活動の中でそういうものが見えてきたときに「ここ!!」というタイミングでやれるのが理想なのかなとか。

 

どちらにしても今回は、物理的な往来を積極的に増やすタイミングではないので、任地にどっぷりたっぷり浸かります。ビエンチャン県というところに、もう無理知り尽くした!!っていうぐらいびたびたに浸かります。

 

ないないって文句ばっかり冒頭で言った人のセリフとは思えないかもしれませんが、こんな時だからこそ楽しめるラオスが目の前に広がっていて、毎日いろんなことにワクワクしながら過ごせているので、この感じで毎日過ごせたらなと思っています。活動についても日常についても、不定期で更新していきますので、引き続きお読みいただけると嬉しいです!

 

では今日はこのへんで。ぽっぷかんまーい!(またお会いしましょう)

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ただいま、ビエンチャン県!

さばいでぃー!

こんにちは、ラオスのラオ子です。

 

ああ・・・やっとこのタイトルの記事が投稿できました。もうね、今の時点で感無量です。今日の記事は以上です、ってくたびれたノートパソコンをパタッと閉じて、飲めないビールで乾杯したい気持ちです。

 

首都待機中のはなし

 

 

成田で懐かしい隊員たちと再会できたときも、ラオスの空港に降り立ったときも、14日間のホテル隔離を経て街中をやっと歩けるようになったときも、ロックダウンで静まり返った街が徐々に活気を取り戻したときも、何度も通った思い出の店がやっと再開したときも、急な帰国が決まったあの日にぽっかりと空いてしまった穴は、実は塞がっていませんでした。むしろ、12月初旬に帰国が決まっているにもかかわらず、ロックダウンの長期化によって赴任の目途が立たず、「もしかしたらこのまま帰ることになるのでは」という不安と、「もしそうなったら私はどこがゴールだと思えばいいんだろう・・・」「この1年半待ったのは一体何だったんだろう・・・」というもっと大きな不安に襲われ、胃がキリキリ、したりしなかったりしました。

 

 

当初の予定では、9月29日には任地に居るはずでしたが一旦白紙になり、赴任の可能性がちらっと見えては消えていきました。先の見えない不安、任期だけが減っていく焦りのなかで、自分のメンタルをどうにか保ち、整えなければと考えたところ、「ゲストハウスの待機暮らしも楽しく有意義に」と前向きにあれこれ頑張る隊員さんたちから元気をもらえたのが、大きな救いだったと思います。

 

そして食事について。可能な限り外出を控え、余計な出費を抑えるために、各種デリバリーサービスを駆使していたわけですが、600円以上頼まないと割引クーポンが利用できないので、ゲストハウスに居そうな隊員と共同購入していました。「今日のお昼、PVO頼みます」「じゃぁわたしツナ」「わたしはパテで」みたいな会話があったり、どこの何がおいしかったとか、今度一緒に頼みましょうとか、毎日絶対に必要なことをわいわいやるのが日々の大きな楽しみでした。特に、お隣さんが食に気を遣うありがたい存在だったので、今までだったら「好きな食べ物はカロリーです!!」とか言ってしまっていた私も、アラサーらしく野菜を取り入れたヘルシーな食事ができていました。感謝。

 

もうひとつ、ロングお散歩もやってみました。といっても、感染リスクは極力抑えたいので、「何かをしにいく」のではなく「〇km歩く」を目標に、炎天下のビエンチャンをひたすら歩く、歩く、歩く。一番多い日で23,000歩、14kmほどになったでしょうか・・・それも早起きが苦手&お掃除さんが10時すぎに来るので、昼前に出て夕方帰るという一番外に出ちゃいけない時間帯にやっていたのですが、これがまた楽しいんですよね。トゥクトゥクで素通りしていたような場所をひたすら歩くだけ!なんですが、ここのコーヒーが美味しいよ!このお寺が渋くていいよ!肉たらふく食べるならここやで!!と前回赴任時の開拓の成果を披露しながら、暑さでだらだらなりながら、マスクの中で蒸しあがりそうになりながら、ひたすら歩く。そしてゲストハウスに戻って、いっぱい食べてシャワー浴びて寝る!翌朝起きたら頭がスッキリする!日本での仕事中は月間35万歩前後歩いていたので、歩くってこんなに大切だったんだなと気づかされた大切なルーティーンでした。

 

そしてもうひとつは、ラオ語の勉強です。今回が新規派遣の隊員さん二人と一緒に、昔のラオス隊員さんが使われていたテキストを使って、活動で使う会話や長文読解をしました。私がそろそろ赴任できそうな雰囲気になってきてからの打ち込み方が半端ではなく、一週間中5日、ほぼ語学訓練のような感じで、2時間で終わる日もあれば、3時間半カッスカスになるまで勉強する日もあったりと、ものすごく有意義に時間を過ごすことができました。私自身まだまだラオス語には自信がなく、最近ラオス人の先生からの語学訓練を終えたばかりの新隊員さんからは私の知らない語彙が飛び出したり、「〇〇とどう違うんですか?」って質問されたときに「さぁ~・・・何なんでしょうねぇ~」ってなってしまったり・・・それが悔しくて、そして二人があまりに真剣に打ち込んでくれるので半端なことは言えないと思って、私自身予習に打ち込む時間がどんどん増えていきました。そして、語学の先生をされていた方にその話をしたら「語学は教えるのが一番の勉強になるんですよ!!」ととても前向きになれる言葉をいただいて、確かにそうだよなあ・・教えてるんじゃなくて、私がアウトプットさせてもらってるんだよなあ・・・と、ありがたく勉強会をさせてもらいました。おかげでテキストの1/3以上を終え、それなりに噛み応えのある長文読解もある程度理解に繋げられましたし、何より、ほめ上手な教育系隊員さんたちだったので、このネガティブになりがちな環境下で私の自己肯定感を爆上げしてもらえて、Win-Winどころの話ではないぐらいたくさんのものを受け取ったと思います。

 

というわけで、首都に居る間は今後の企画書を作ったり、延長できないか交渉してみたり、いつ行けるかはわからないけどいつでも行けるようにあれこれ買い物してみたり、なんだかんだ毎日誰かと会ってどこかに出かけながら、でも可能な限りミニマムに行動して、待機生活をつづけました。…デリバリーサービスで美味しかったお店についての記事、いつか別で書きたいなあ。なんて。

 

赴任前日

10日のお昼ごろ、ちょうどご飯を食べていたときに、タスクフォースから許可が下りて赴任が確定したとの連絡をもらいました。一番最初に伝えたのは、前回赴任したときからずっとお世話になりっぱなしの先輩二人とのグループラインでした。

 

そのあと調整員さんから「翌日か翌々日、どちらに赴任するか希望があれば」と言われましたが、「食欲の観点からすれば明日は1日この世の終わりみたいに食べまくって明後日赴任したい・・・もう少し任地で使うものも買い足していきたい。でも、もし明後日赴任にして明日タスクフォースの決定が覆るような感染拡大が起きたらどうする?私はそれでいいのか??」と頭をフル回転させ、任地に行きたい欲がギリギリのところで食欲に勝って「明日行きたいです!」と返事をしました。

 

そこからはもう・・・本当にどたばたで、いつかやろうの大馬鹿野郎になっていた用事をばたばたばたっと済ませ、買い物に行き、ちょっといい夕飯を食べ納めして、それから深夜までパッキングしました。レインボーバッグ6個、スーツケース3個、段ボール大2個、ギター、バックパック、リュック・・・私は一体何年住むつもりで用意したんだ?と自分でつっこみたくなるぐらいの量になりました。

 

赴任当日

ゲストハウス待機組の遅起き選手権で常にトップの成績をおさめていた私でしたが、ᴐの日だけは遅刻できまいとめっちゃ早起き。6時ぴったりに目を覚まし、身支度を整えて最後のパッキングをしながら、冷蔵庫の隠し財産を胃袋へ。ひとつはPie my loveサーモンポテトパイ、もうひとつはサオバンヨーグルトのパッションフルーツ味です。

 

出発の30分前に待機組の隊員さんたちが荷物運びのお手伝いにきてくれて、あれだけあった大荷物は光の速さで1階へ。そしてまもなくJICA公用車が到着し、前回赴任時に買って保管してもらっていた自転車とともにぎゅうぎゅうに押し込んで、別れを惜しむまもなく任地に向けて出発することになりました。お手伝い・お見送りしてくれたみんな、ありがとう。

 

そういえば初めて赴任したときは、ちょうど赴任のタイミングでコミュニティ開発の先輩隊員のイベントがあって、みんなが旅立つのをドミトリーでお見送りしてしばらく首都に残ったんですよね。イベントが終わってから配属先の課長に迎えにきてもらって、JICAのスタッフさんと何やら話し合っているのが何一つ聞き取れずヒョットコみたいな顔をしていると、コミュ開の先輩隊員が「安全運転するように、いろいろ言ってくれてるよ。」と教えてくれました。すごい、こんなに早く話すの聞き取れるようになるんだ、と感動したのを今でも覚えています。

 

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任地へ向かう途中、「バンビエンまで1時間で行けちゃう」と噂の高速道路にほんの一瞬だけ乗りました。途中工事中のためまだ全面開通していないらしく、ビエンチャン県の県境にも全然到達しないぐらい手前で降りたのであまり速さは実感できませんでしたが、道は綺麗に整備されていて、広くて、ロックダウンの影響か車がほとんど走っていなくて、とても快適でした。

 

そのあとは、ひたすら工事中の13号を北上。日本の工事中とは全く違う、めっちゃハードな工事中です。ポンホーンの三叉路で南下し、ビエンカム郡に入ったころには、窓をあけて息も浅くなってるぐらいに酔っていて、新しくできた建物とか、つぶれたレストランとか、そんなものに気を配る余裕もないぐらいに酔っていました。

 

そのあと、前回赴任時もお世話になったゲストハウスに着き、あの時もお世話になった優しいお姉さんとの感動の再会。荷物をおろしてせっせと運び、JICAの車をお見送りして、部屋の中の直接接触する部分に残り少ないパストリーゼを振りかけまくり、綺麗に拭きあげて、モノを広げ、・・・と、隔離ホテル→待機ゲストハウス→任地ゲストハウスとそろそろ慣れ始めた引越し作業を終えたころには、陽がかたむきはじめていました。

 

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そう、この景色。この景色が見たかったんです。ゲストハウスの裏がわから見えるこの景色が。こっちのほうが眺めがいいからこっち側の部屋に移りたい、と言ったこともありますが、西日がまぶしすぎるからおすすめしないと本気で止められ、思いとどまりました。でもこの景色は、ずっと見ていたい。ずーっと変わらないでほしい。

 

赴任二日目

県境をまたいだため現在隔離中、まだ外出はできないことになっています。隣にある馴染みのラオス料理屋さんで食料を調達するか、反対側のお隣さんの商店で必要なものを買う程度にとどめ、まだ市場へも配属先へも大家さんのところへも行っていませんが、急激に事が進んだため追いついていない活動計画の修正などに時間を使ってだーらだーら過ごしています。

 

ただいま、ビエンチャン

日々変わっていくラオスの状況に一喜一憂しながら、すこしでもより良く、有意義に、楽しく、美味しく過ごせるように創意工夫した、首都ゲストハウス待機組のみんな。いるのが当たり前だった人たちが突然いなくなった(いなくなったのは私ですが)のは結構さみしいところもありますが、言うと調子にのりそうな人ばっかりなのでこれ以上はやめておきます。みんなが1日も早く任地に行って、待って待って待ちまくった自分へのハイパーご褒美タイムが始まることを祈ってます。ビエンチャン県組、待ってるで!

 

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夜中3時には鶏が覚醒をはじめ、あっちのほうではガチョウがヒーンと高らかに鳴き、午前中は向こうの茂みにいた牛さんたちが、影の動きにあわせて道路をぞろぞろと渡っていくときの、カランコロンとかわいらしいカウベルの音に耳を傾ける、そんな場所での暮らし~2nd season~が始まることにわくわくが止まりません。首都ビエンチャンの比じゃない田舎の野良犬と番犬には、震えが止まりませんが・・・。

 

活動が始まったら、いままでとは違うことで悩んだり、喜んだり、またいろんな感情に忙しく振り回されることになると思いますが、ゴールテープを切ってどや顔で日本に帰るまで、お付き合いいただけますと幸いです。

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近況報告その2

さばいでぃー!

こんにちは、ラオスのラオ子です。

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前回の記事の通り、無事ラオスに到着しました!全部いっぺんに書くと、記事のボリュームがたいへんなことになりそうだったので、隔離までで一旦区切らせてもらいました。今日はその続きを書いていきたいと思います。

 

9月26日 隔離終了

隔離が終わった日の朝、はじめてビエンチャンの街を歩きました。空港出口からバスまでの数十歩と、バスから隔離ホテルまでの数十歩以来、14日ぶりの外の世界です。雨が降りそうなぬるーい風が吹いていて、日本円からラオスキープに両替できるところがないか探していたらやっぱり通り雨に打たれました。

 

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メコン川ぞいのこの道は、”いつも”なら、渡るタイミングを見計らうのにしばらく立ち止まるぐらいの交通量がある場所なんですが、見渡す限り1台も車がありません。こんな景色、見た事ありませんでした。

 

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この道も、”いつも”ならトゥクトゥクが客待ちしていて、バックパッカーが歩いていて、バイクもあちこちに停まっていて・・・という、よくある風景があったはずですが、ご覧の通りがらーんとしています。

 

大通りには何か所も規制線が張られ、往来が制限されていました。そのチェックポイントが見られるマップがあったのですが、もう、真っ赤っか。あっちもこっちもチェックポイントだらけでした。諸手続きのため、パスポートを事務所に預けた状態になっていて、もしチェックポイントで何かあった時に出せる証明書がなかったので、出歩くのは本当に最小限にしました。

 

9月30日 ロックダウン終了・・・とはいかず

 

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ロックダウンの期限とされていたこの日、政府は、10月15日までのロックダウン延長を発表しました。

 

正直なところ、祈るような思いでロックダウンが終わるのを待つこともないぐらい、当たり前の措置だったので、ショックも動揺もありませんでした。市中感染、各地で起きた様々な規模のクラスターを考えると、政府発表を見た時は「うーん、そうなるよなあ。」という気持ちで、わりとすんなり受け入れられたと思います。(もちろんそのあと落ち込みましたが)

 

それから今に至るまで、ロックダウンは継続していますので、最低限の日用品や食料の調達にとどめ、できるだけ人との接触を避けてホテルで待機する日々が続いています。街中を歩いていると、「ໃຫ້ເຊົ່າ(for rent)」の張り紙があちこちに貼られていて、シャッター街のなかにぽつぽつとお店があいているような感じ。何度も通った老舗のレストランの看板が剥がされているのを見て、なんとも切ない気持ちになりました。明らかに増えた空き物件の軒下で日差しを避けて寝ている人たちは、靴を履いていたり、そうじゃなかったり。ホテルのテラスでフードパンダが来るのを待っていたら、手を合わせてお金をくださいとお願いされたり。往来が減ったぶん相対的に目立っているだけで前からこれぐらい居たのか、と初めは思いましたが、あきらかに以前より増えているということを実感しています。

 

10月3日 おかず横丁にハマる

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これは通称「おかず横丁」と呼ばれる、JICA事務所近くの通りです。昼間はがらーんとしていますが、夕方になるとあちこちからもくもくと美味しそうな煙があがり、おかずを求めてやってくる地もとの人たちで賑わいます。隊員も、ここかメコン川沿いの屋台によくお世話になっていましたが、レストランがまったくない任地に居た私は「上京したときはラオ料理以外のものが食べたい!」という思考になり、あまり行ったことがありませんでした。

 

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ところがどっこい、なんですが、この1本100円のソーセージ。任地でも食べてはいたのですが、久しぶりに食べたからか100倍ぐらい美味しい。それに、普通の、辛いの、酸っぱいの、甘いの、と4種類あって、飽きません。これにカオニャオ(蒸した糯米)を20円分と、100円の激辛パパイヤサラダを足せば、それだけでお腹いっぱいです。

 

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日本での待機期間中、ラオス料理が恋しくなったらタイ料理屋に行ってイサーン地方の料理を食べてしのいでいましたが、この写真の一番手前にある「ゲーンノーマイ(タケノコスープ)」には出会えませんでした。緑の何らかの葉っぱを叩いて作る深緑色のスープに、たくさんのタケノコとかぼちゃ。独特の苦みの中にも何のダシか分からないダシっけが効いていて、これがほんとうに美味しいのです。これもたっぷり1人分で50円前後。ああ天国。

 

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「明日はピンカイ(焼き鳥)もええな~!」なんて、次の日の夕飯の心配までしながらおかず横丁を端から端まで歩いて、こっちの店でちょっと買って、あっちの店でもちょっと買って、と、24時間のほとんどをホテルで過ごす私のちょっとした気分転換だったわけですが・・・

 

10月5日 おかず横丁がレッドゾーンに

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あっけなかった・・・。

 

近所の方に聞いてみたところ、「7日間はあかないよ」とのこと。がっかりしすぎてしばらく食欲が湧きませんでしたが、ぎりぎりのところで気持ちを保って豆乳とカオマンガイを買ってホテルに戻りました。せっかく見つけた、安くておいしい夢の国だったのに。

 

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昨日まで元気だった通りが一晩でもぬけの殻になってしまったのを見て、コロナが誰にも起こりうる身近な感染症で、そして自分たちも常にその危険に晒されているのだと痛感しました。そしてなにより、ここは確かにビエンチャンなんだけど、私が知っているビフォーコロナのビエンチャンはもうとっくにどこかに行ってしまったんだなあと思いました。

 

もしロックダウンがなければ私はもう任地で活動をしていたはずですが、いつ赴任できるか、今どういう状況なのかもよくわからないまま毎日が”すり減っていく”ことに、少し疲れを感じています。

 

さよなら、ありがとう

 

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そしてもう一つ。時系列が前後しますが、9月30日をもって、ラオス協力隊員専用ドミトリーが廃止になりました。赴任後1カ月間の語学訓練は、同期隊員とこのドミトリーで共同生活し、それぞれの任地に旅立ってからも私事・公用目的の上京の際にはこのドミトリーで寝泊まりや自炊ができました。1年に1度の隊員総会では、地方隊員でドミトリーが満床になり、任地での一人ぼっち暮らしとは全然違う、賑やかな毎日でした。私は地方隊員といっても首都に近いほうだったので、自称「週末首都隊員」となり、上京してあちこちのハンディクラフトショップをめぐったり、レストランやカフェを開拓したり、任地に持って帰る食料品を調達したりしていたので、このドミトリーは本当によく利用しました。私物も置いておけたので、身軽で来れたのもありがたかったですし、メバーン(お手伝い)さんがいつも綺麗にしてくれていたので、安宿によくあるベッドバグ(南京虫。発狂するぐらい痒い)なんかの心配もしなくていい、隊員にとっての拠り所のような存在でした。

 

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これはドミトリーの2階共用スペース。ドミトリー自体は十数年前に今の場所になったそうですが、本棚には、その前からあったと思われる本がずらり。1階の共用スペースはキッチンが近いので、ご飯を食べたり話したりするのに使われていましたが、2階はどちらかといえばゆったりしたい人向けで、奥の机で勉強したり、ある日突然「国際協力って何なんだ…」って迷走しだしたら過去の先輩が置いていってくれた本を漁ったり、一周回ってブッダの教えを読んで悟りを開こうとしてみたり、静かに自由に過ごせる場所でした。

 

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ラオスは協力隊事業で一番最初に派遣された任国です。私たちの隊次でちょうど派遣者数が1000人を超えたのですが、今まで派遣されてきたたくさんの方が残してくださった書物やDVDをはじめ、活動備品、タコ焼き器など、歴史を感じるものから痒い所に手が届くものまでバラエティ豊かに色々揃っていました。

 

ある日「マウス壊れちゃったんですよねー。ミニソーやってるかなあ~」と出かけようとすると、先輩隊員が「確かここにあったよ」とdynabook用のBluetoothマウスをどこからともなく出してきてくれたことがありました。このマウスは今でも使っています。見つけてくれた先輩隊員、置いて行って下さった名も知らぬ先輩隊員さん、ありがとうございました…。

 

帰国前に「持って帰れないけどまだ使えるもの」を置いていく、通称「ドミマーケット」というスペースがあり(といっても茣蓙を敷いてあるだけですが)、そこに帰国隊員が置いていったものをありがたく貰って、そしてまたそれが巡っていく・・・というのができたのも、ドミトリーあってこそでした。

 

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この棚には、先輩隊員が各地で貰った記念品や盾、でっかいゾウの置物などが誇らしげに並んでいたのですが、私が隔離を終えてドミトリーに来れるようになったころにはもう殆ど無くなっていました。

 

ドミトリーは、便利なだけの場所ではありませんでした。赴任して最初の1カ月間は、たまたま上京した先輩に生活のちょっとしたtipsやおすすめのお店を教えて貰ったり、任地の先輩と繋いでもらったり、活動のことを聞いたり、旅行に行くならどこがおすすめとか、どうやって行ったら安く行けるとか、生きた情報はなんでも手に入りました。

 

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今思えばちょっと言葉選びが尖ってるなあと恥ずかしい気持ちになりますが(笑)、2年半前に赴任したときに受けた「キンビア(飲み会)」の洗礼についての記事です。

 

赴任した直後の飲み会でえらい目にあい、自分が「飲めない」と断る事で関係が悪くなるのではと考えたり、場がシラけたりするのが本当に辛くて、それでも飲めないものは飲めなくて、どうにかどこかに逃げたくて、4月の旧正月は誰とも何の約束もなく首都にあがりました。

 

その時たまたまドミに居た先輩がお昼に誘ってくれて、任地であったことを話し、ずいぶん心が軽くなったのを覚えています。その後、同期隊員がドミに来てくれて、大人げないぐらい大きい水鉄砲を買って街に繰り出し、氷水まみれ、口紅まみれ、ベビーパウダーまみれになって、水祭りを思いっきり楽しみました。家の前にテーブルを出してキンビアしていたおじさんたちにビールを渡されたら、ペタンクしてるの眺めたり、たまに踊ったりして雰囲気だけ楽しみながら、一緒に居た同期は空になったビール瓶と私が持っていた1ミリも減っていないビールをこっそり交換してくれました。

 

その後上京した別の先輩のなかにもキンビアに参加できない人は居て、その人が「キンビアでしかできないコミュニケーションもあるけど、活動で信頼関係ができるように頑張ることはできるし、そっちを頑張ったらキンビアのことも割り切れる」と迷いの無い言葉で言ってくれたおかげで、私はその後のキンビアをすべてエリカ様のごとくお断りし、そのかわりキンソム(おやつタイム)に積極的に参加したりだとか、活動のことを誰に聞かれてなくても報告しまくってひたすらアピールしたりして、「キンビアできないこと」に対しての不安をなくしていけたんだと思います。(あの節は皆さま本当にお世話になりました…。)

 

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なぜか同期隊員と同じ名前がつけられたネコ。誰かがいたずらでつけたのかと思いきや、ガードマンさんいわく「ラオスの名前だよ」とのこと。なんて偶然。

活動がうまくいかなくて愚痴りあったり、こうすればいいんじゃない?あの人に相談すればいいんじゃない?という助け船が出たり、どこどこに旅行に行きたいんだよねー、あ、私も!じゃあ一緒に行こう!!なんて話になったり、ドミトリーはとにかく、縦にも横にも斜めにも?職種や隊次を越えて色んな繋がりができて、ラオス生活を何倍にも何十倍にも楽しめるハブになっていたと思います。その場所がなくなってしまうのが悲しすぎて、ドミトリーのなかを写真におさめて、一緒に悲しんでほしくて、いろんな人に転送しまくりました。

 

私の荷物もほとんどさようなら

 

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日本に一時退避したときに任地の借家に置きっぱなしにしていた荷物を引き上げて、このドミトリーに詰め込んでもらっていたのですが、その段ボールをひとつあけるたびに、カビだらけになった日用品や未開封の食品、本、シン、活動で作った雑貨のサンプルなどなど、懐かしい気持ちになるものがわんさか出てきました。タイムカプセルでもあけているような気持ちになりましたが、「ダメになってなさそう」なものだけ選んで残りは全部さよならしたら、殆ど残りませんでした。ビフォーコロナならドミマーケットに並べて帰っていたであろうものもたくさんあって勿体ない気持ちになりましたが、さすがにカビたものを誰かに渡すわけにもいかず、泣く泣く捨てたものもたくさんあります。

 

ギターはボディもストラップも白かびでポワッポワ、カホンは湿気で音が鈍くなって全然響かず、どっちも状態を戻すのに時間がかかりましたが、メコンバンドで演奏したの楽しかったなーまたやりたいなーなんて思い出しながら楽器のメンテをする時間があってよかったなと思っています。(私が飛ぶ前にロックダウンしてしまったら、今ここに居ることはできなかったかもしれないので)

 

コーヒーワークショップで使った焙煎用の網、ドミや任地でみんなでコーヒー飲んだコーヒーグッズたち、赴任したとき語学の先生に連れて行ってもらった市場で初めて買ったシン、先輩にもらった布やこっちで仕立てた服、JICAポロシャツ… いろんなものに思い入れがありすぎて、今度帰るときにどれだけ超過料金を払えばいいのかわかりませんが、誰かに大切にしてもらえるなら喜んで手放そうと決めて、任期を終えるまで大切に使っていきたいと思います。

 

近況おわり

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長々だらだら書きましたが、今の状況をざっくり説明すると、いつ任地に行けるのかの見通しも立たず、前に住んでいた家に戻れるのかどうかも分からず、首都のホテルでロックダウンが終わるのをただ待っております。

 

そして、今日発表の感染者数は、首都だけで450人、ラオス全土で731人、しかもそのうちほとんどが市中感染と、ロックダウンでコントロールできているとは言い難い数字になってしまっています。これでまたロックダウンが伸びたらと思うと正直気が滅入りそうです。今のところ、自分が感染しないことと、そこに人を巻き込まないことしかできることが無いので、過剰なぐらい敏感になって日々過ごしたいと思います。

 

1日も早く任地に戻れますように・・・。

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ただいま、ラオス!

ສະບາຍດີ!

みなさんこんにちは、ラオスのラオ子です。3月22日に、荷造りについての思わせぶりな記事を更新してから半年が経ってしまいました。半年というのは、その記事を書いたことすら忘れるのにちょうど良い期間で、つまり私は3月にブログを更新したことすら忘れていたわけですが、なんとなんと、この度わたくし、ラオスに戻ることができました。

 

近況報告するにしても期間が空きすぎていて、何からどういう風に書き出したらスムーズに書けるのか考えているうちに入国時の隔離も終わってしまったわけなんですが、日本に帰ったところからサッとおさらいしておきたいと思います。

 

2020年3月 ラオスから日本へ緊急退避

 
その時に書いた記事がこちらです。「明日の晩の便で帰ります!」と突然連絡が来て、家の荷物も頭の中もまともに整理できないまま帰ったのがもう1年半も前の話になるんですね。ここから今に至るまで、楽しいこともたくさんあったし、活動もいくつかしたんですが、それでもやっぱり私にとっては「空白の期間」です。これはまた別の機会に書きたいと思います。
 

2020年7月、11月 隊員続けるか、待つか、やめるか

緊急帰国した当初は「まあ3か月程度やろ~」とお気軽な気持ちでいたのですが、そこから数か月で世界はこんなことになってしまい、私たちは2020年7月に1度目の選択を迫られました。そして11月末にも、第2回目の選択の時がきました。その選択の内容がどんなだったかは下の記事にありますが、簡潔に言うと、
 
1. 再派遣され次第すぐに行けるように隊員を続けるかわりに、任期が減る
2. 「特別登録」という制度を利用し、一旦隊員をやめるかわりに任期が減らない
3. 完全に隊員をやめる
 
です。私は、7月の段階では1を、11月末に2を選んで、特別登録隊員になって再派遣を待つことになりました。
 
 
その時の葛藤はここに書き溜めてあります。今読み直してしみじみ思うのですが、あえて思ったままの言葉で書くと、病んでますね(笑)
 
そして12月初旬に、それまでキープしてもらっていた任地の家をオンライン引き払いにより手放し、私の荷物は全部隊員ドミトリーに移されることになりました。
 
ちなみにこの年の年越しは、神社で高校生・大学生の奉仕者に混じって縁起物や甘酒を売っていました。高校生のころから、実家に居るときはだいたいお世話になっている神社です。13年ぐらい前に初めて奉仕してから、今年で6回目でしょうか。いつもお世話になっております。
1月1日は大雪。でも、そのせいだとは言い難いお客さんの少なさで、いつもは参道の外までずらーーーっと並ぶ参拝者の列が、今年は1度もできなかったのを見て、ああやっぱり世の中は変わってしまったんだなあと感じました。

2021年2月 仕事開始

私は特別登録隊員になったので、再派遣の目途が立ったら自分で時期を選んで派遣してもらうことができます。10月から11月に行われるハンディクラフトフェスティバルに、あとから来る隊員さんたちと一緒に参加したい!という一番大きな目標を達成すべく(伏線ではない)、後片付け・引継ぎなども含めて12月に帰国することにし、そこから逆算して、再派遣してもらえる派遣日数180日をすべて使って、6月にラオスに行けるように手続きをすすめていきました。
 
そして、そろそろ私の口座が限界を迎え、絞っても雫の1滴すら落ちなくなってきたので(笑)、またドラッグストアで働くことに。大学のころバイト先の先輩に脅されて登録販売者を取ったことを、こんなに感謝する日が来るなんて・・・。
 
大学4年間+カンボジアから戻ってからの2年間(バイト・パート)1社目
協力隊受かってからの1年間(パート) 2社目
2021年2月から(派遣社員) 3社目
 
と、色んな雇用形態で色んなドラッグを渡り歩く謎の人生です。
楽しいし、大好きな仕事です。
 
入社当時は、6月には旅立つ予定でしたが、4月の旧正月の後にラオス国内の陽性者数が増えてしまい、ロックダウンがなかなか解除されず、パスポートが作れない、配属先との手続き、滞在許可や入国許可などの手続きが進められないなど、あらゆる障壁が立ちはだかることとなりました。そして、ロックダウンが解除され、最短でこれらの手続きを進めてもらっているあいだにワクチンを打ち、なんとか出国できたのが9月11日でした。
 

2021年9月 日本→ラオス

パスポートが作れて、配属先との手続きや、日本側・ラオス側のあらゆる許可がもらえたとしても、正直ラオスについてパスポートにハンコを貰うまでは安心できません。クアラルンプール⇔ラオス間は毎日運航されるわけではないので、もし何か起きて乗り継ぎができなかったらクアラルンプールでのリアルターミナルが始まりますし、日本・ラオスでのPCR検査で万が一のことがあったらもう大変です。一緒に渡航する隊員同士も一定の距離を保って、厳戒態勢でラオスに向かいました。

 

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まずは渡航の際の日程から。

 

1日目 実家→成田(PCR検査)
2日目 成田→クアラルンプール(トランジットホテル泊)
3日目 クアラルンプール→ビエンチャン(隔離ホテルへ)
 
前回の渡航では、朝7時に羽田集合で夜にはラオス!というスケジュールでしたが、2泊3日ともなるととても遠くの国に行くような感じがしました。
 
最後の日本メシは、出発当日朝9時、羽田のマクド。他の隊員が「チキンクリスプがうまいっス」と教えてくれて、私はファミチキ的なものが出てくると勘違いして月見バーガーと一緒に注文したのですが、しっかりバンズに挟まれたバーガーが出てきてちょっと動揺しました。朝からバンズ2つはキツかったです。
 
チェックイン時には、陰性証明、ワクチン接種証明、入国許可証など、何種類かの提示が求められました。ちゃんと全部印刷してきたかここで突然不安になり始めるのは、ちゃんと準備できてなかった証拠ですね。
 

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そして横1列誰も座っていないガラガラのANAで、台風14号に軽くご挨拶しながらクアラルンプールに到着しました。ここでは入国せずに、トランジットホテルに1泊して翌日のフライトでビエンチャンに行くことになります。

 

飛行機降りたところに「ビエンチャン行き」のボードを持った方が待っていてくれたのに、「あれって今日のトランジットの人ってことかなー?」という感じで全員スルーしてしまいました。その後、どうしていいか分からなくなってうろうろしていたところにこのスタッフさんが話しかけてくれてようやく手続きがすすめられました。(お兄さんごめん)チェックインカウンターでも、成田と同じように何種類かの書類の提示が必要で、手続きにも結構時間がかかりました。

 

 クアラルンプールに来て驚いたのですが・・・本当に人が居ない!免税店も閉まりまくっている!スタバに行ってマレーシア限定グッズ買いたかったのに、もちろん閉まっている!レストランは数店舗あいていましたが、検温、記名、ワクチン接種証明書の提示が義務付けられていて、そう思うと成田空港はゆるかったなあと思いました。

 

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そしていよいよラオスへ。隣の席こそ誰も乗らなかったものの、成田ーKL便より混んでいたので、二重マスク、消毒しまくり、トイレはなるべく使わない、の厳戒態勢で爆睡しました。

 

そしてラオス到着後は、空港内に設営された会場にて、流れるように2回目のPCR検査。感傷に浸るまもなくブースの椅子に案内され、口腔内を綿棒でゴシゴシ。「はぁ終わった・・・」と思ったら「上向いて!次は鼻ね」と指示され、成田のときの優しい検査とは比にならない痛さに何度かえづきながら無事検査を終えました。

 

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そしてついに!この1年半、何度夢に見たかわからないラオスのハンコが!緑のパスポートに押されました!
 
この看板を見て、じわーっと目頭が熱くなりました。ラオス語で書いてあるのはもちろん、「ようこそラオスへ」。その下には、いちばんかっこいい角度のタートルアン。ブッダの遺物が塔内に遺されているといわれている、黄金に輝く仏塔は、国章にも描かれているラオス仏教のメッカ(という言葉をここで使うのは適切かどうか分かりませんが)です。クメール様式の寺院が改修されたものらしく、私がここに来るきっかけをくれたシェムリアップと地続きになっていることを感じられて、ことばにできないパワーを貰える場所でもあります。
 
タートルアン祭 – ラオスのラオ子。(ここに黄金に輝いてる写真のせてます!) 

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ああーこの景色!京都市のみなさん、旧型の市バスはビエンチャンでまだまだ元気に走ってますよー!!

みんなでセルフィする余裕もなく、書類の記入、隔離ホテルまでのバス代の支払いなどの手続き地獄を抜けたあと、隔離者用のバスでそのままホテルに向かい、「14日後ね~」とあいさつして各々の部屋へ。
そこからの14日間、会うのは検温に来てくれるホテルのスタッフだけ。食事は毎食、廊下のテーブルに置かれ、アメニティの受け取りやランドリーの受け渡しもそのテーブルで行うので、人と接触する機会はほぼありません。ときおり届くありがたい差し入れも、フロントスタッフが受け取って、それを部屋まで持ってきてくれるし(差し入れ頂いた方々、その節は本当にありがとうございました)、ホテルのご飯に飽きて時折頼んだフードパンダも同様に、金銭授受も含めてすべてホテルのスタッフがやってくれます。

 

突然のクラスター

この隔離期間中に、「絶望」というちょっとばかり強めの言葉がぴったりなクラスターが起きてしまいました。市内の縫製工場で200人を超える大規模なクラスター、それに続く感染拡大を受けて、ビエンチャン市は即座にロックダウン。すぐに緩和されましたが、一時は「スーパー、小売店などもすべて営業停止」というかなり厳格なロックダウンでした。あちこちに検問が設置され、県境も封鎖。

 

発令されたときは「9月30日まで」という期限つきでしたが、私は26日に隔離が終わって29日に赴任するはずだったので、この時点で1日のロスになります。日に日に膨らんでいく感染者数、日に日に増えていくレッドゾーン、どの情報も精神衛生上良いものではありませんでした。

 

オンラインでの赴任後ブリーフィングや面談で人と話す機会はあるにしても、ごく短時間の事務的なもの。隔離中で誰とも話せないことや、ここまで来ても何もできないのかという悔しさ、もしかしたら私はビエンチャン県に赴任できないまま任期を終えるのではないかという絶望感、もしロックダウンしたら私は首都のホテルで2か月も何をすればいいんだという焦り、色んなことが頭の中を回って、ものすごく無気力になっていました。

 

そんな中、2週間の生活のリズムを保てたのは、ラオ語のオンライン授業を毎日受けられたからでした。隔離序盤は予約やシステムの関係で受けられなかったのですが、途中から受けられるだけ受けて、時間でいうと31コマ(15.5時間)をオンライン授業にあてました。授業時間だけでいうとたいしたことありませんが、要領が悪いので予習にも復習にも倍以上の時間がかかります。ラオ語に熱中している間は、時間が経つことを肯定的に考えられたというか、自分が正く過ごせていることに安心できるというか、とにかく隔離期間中の精神安定剤になりました。なにより、日本にいるラオ人の先生、ラオスに居るラオ人の先生の二人から授業を受けられたので、色々な情報も得られたし、生活面でのtipsもあれこれ教えてもらえたし、単にラオ語の語学力が鍛えられるだけではなく、それ以上の生きた情報も得られました。先生がたはもう何年も二本松訓練所でラオ語を教えておられるので、私たちがおかれた状況での悔しさも、ラオ語の読み書きが全くできない状態で入所してからの成長も、全部理解してくれます。それゆえの優しさも気遣いも全部ありがたかったし、たとえオンラインであっても、先生たちと過ごした時間に支えられて、14日間の隔離を終えたと思っています。

 

隔離終了後

を書こうと思ったのですが、長くなってしまうので一旦ここで終わりたいと思います。まだまだ何がどうなるかわからない隊員生活ですが、フードパンダで美味しいものを食べながら、少しでも楽しい事を考えながら、自分をわくわくさせながら、任地に行けるのを待ちたいと思います。

 

ではまた次回!そーくでぃーどぅー!

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荷造りパート2

お久しぶりの、さばいでぃー!

みなさんこんにちは!大変お久しぶりです、ラオスのラオ子です。花粉が大暴れしてますね、早くラオスに戻りたくて仕方ないです。

 

2019年1月、ラオスに赴任する前にこんなブログを書きました。

 

www.laoko.net

 

www.laoko.net

 

そろそろ、私もアディショナルタイムに向けての準備をすすめようかと思っております。(戻れるのか?!)もし今の予定でつつがなく戻れるのであれば、おそらく今の派遣の仕事を退職した数日後には出国になりそうな予感。準備でワタワタしないように、そして向こうに戻ってから「忘れたアアアアアっ!!」ってならないために、前に書いた持ち物一覧をもう一度整理しておきたいと思います。今後赴任される方の参考になれば幸い。

 

前回赴任時のだいたいの持ち物

 

まずは、前のブログに書いた持ち物のなかで、優先順位を下げてよかったもの、なくて困らなかったもの、または向こうで手に入ったものなど、思ったことをあれこれ追記してみたいとおもいます。

 

①コーヒー関連

 

フィルター数百枚、コレスのステンレスフィルター、V60、ケトル、サーバー、キャニスターなどあれこれ持っていきましたが、結論から言うと、現地で買えないものは特にありませんでした。

 

首都にはコーヒー器具専門店がいくつかあり、多少割高にはなりますが、拘らないのであればそこで十分手に入ります。ハリオもあるよ!

 

街からは離れるけどラオス以外のコーヒー豆が恋しいときは絶対ここ。器具もめちゃめちゃ充実してます。

https://www.facebook.com/bluekofflaos/

 

JICAに近くて気軽に寄れる場所。

Le Trio Coffee, A Roasting Company

 

ここはコーヒー器具の専門店。

https://www.facebook.com/K2Laos/

 

それから、ADDPみんなのカフェさんの2軒隣ぐらいの2階にも、エスプレッソマシーンからドリップ器具まで色々揃う店があります。

 

結果としてラオスでも調達できたものが多いのは事実ですが、日本で買うほうがもちろんお値段は割安になりますので、余裕がある+コーヒー必須な人には持っていくリストに入れていてもいいと思います。

 

逆に私が、日本から持っていってよかったぁー!と思ったのは、コーヒー焙煎ワークショップや、隊員が家に遊びにきてくれたときに大活躍した、焙煎用の網です。向こうにあるもので手作りしようと思ったらできそうですが、火を使うものなので既製品で持ち手がしっかりしているほうが安心。かさばりますが、持って行って大正解でした。

 

②書籍、教科書関連

教科書はデータを持っていきましょう。書籍は好き好きですね。私はほとんど電子書籍で済ませて、お守りやメンターにしてる本だけ紙で持っていきました。ドミトリーに大量の本があるので暇をつぶすための読書にはさほど困りませんでしたし、持っていきすぎたなーと思ってるぐらいです。

 

③愛用している文房具たち

これは私にとってはコーヒーぐらい必需品!ルーズリーフが売っているお店は私の知る限り一店だけだったし、紙の質ももちろん日本のそれより劣るので、現地語学訓練も快適な板書生活を送りたいという人はルーズリーフや日本のノート持参するのはおおいにアリだと思います。箱買いして向こうに置きっぱなしになってるジェットストリームのリフィル、息してますか?

④表敬訪問用の服装

帰りは荷物が多くなる&シンとスアを仕立てたらその後の公式行事はすべて民族衣装の正装で大丈夫なので、スーツも靴も向こうで捨てても惜しくないものでもいいかも・・・。男性はスアではなく、ずっとスーツ着てる人が多かったです。

 

⑤薬、救急グッズ

私が持っていった薬は次の通り。頻繁に使ったものを、あまり使わなかったものを、全く使わなかったものを黒で書きます。

 

ロキソニンSプラス(アメーバで発熱した以外に発熱しなかったため)
ディパシオIPa(ロキソニンが高いから節約のため持っていっただけ)
クラシエ 満量処方の葛根湯(風邪のひきはじめに何度か。あと人にあげた)
ティアーレ抗菌目薬(あると安心。何度か使った)
アルガードコンタクト(埃や花粉でアレルギー性結膜炎になりやすいため)
パブロン鼻炎カプセル
サイシン(ラオスの料理、刺激が強すぎてすぐに胃が痛うなりまして…)
ブスコパン(生理痛と、変な胃痛に)
ザ・ガード(腸内環境を少しでもマシにするため)
正露丸糖衣A(やば!ってときに使ったり、あげたり。しっかり効くからすごい。)
フルコートf(虫刺され、ちょっと強めに荒れたときに)
ドルマイシン軟膏(化膿しそう・した時に)
テラコートリル
エバレッシュB26(ずっと飲んでた)
エバレッシュホワイト(アラサーの抵抗)
アースサラテクトリッチリッチ(お世話になりました)
白色ワセリン(あると何かと便利)

 

あとは、かかりつけ医で、アレルギーや咽頭炎、気管支炎、貼り薬など、既往歴のある薬をもらって、お守りに持っていきました。(カンボジアに住んでたころ、砂埃に負けて気管支炎を頻発していたので・・・。)

 

以下、今度追加で持っていこうと思っているもの。

 

抗菌目薬:サンテメディカル抗菌目薬

(最近出たもので、ソフトコンタクト装用したまま点眼可)

 

鎮暈薬:トラベルミン1

(眠気を抑えられる処方はありがたい!ラオスの山道めっちゃ酔います。)

 

あとは今病院で出してもらっている抗アレルギー薬を持っていく予定。花粉症がある人、要注意です。多分イネだと思いますが、ラオスもなかなかきつめの花粉症が待ってます!!!

 

ドラッグストア勤務長くて職業病チックになっているところもあるかもしれませんが、かなり色々持ってってます。でもまあ、使わなければ万々歳だし、あるに越したことはない!というのがお薬です・・・。

 

⑥メガネ 2つ

壊れなかったので、結果的にひとつでよかった。という感じ。

 

⑦一眼レフ(サブ機)、レンズ、三脚、SDカード数枚、掃除グッズ

前回持っていったメイン機は、シェムリーバンコクの陸路移動の振動に耐え切れずご臨終しました。(スーツケースに入れた私が悪かったんですが)写真・動画の記録の大切さは今になってとても効いてきているので、次回も持っていきます。次の相棒は、とあるシェアハウスオーナーから譲り受けたEOS KISS X9i。そして次回は、GoProも持っていきます!!

 

レンズ清掃の道具、「レンズペン」があまりにも優秀だったので、1セット予備に買っていこうかなあ・・・と思っているところ。

 

今から向かう人にお伝えしたいのは、写真・動画は撮りすぎても邪魔になることはない!!ってことです。あったらあっただけ良いです。「あたりまえ」になってしまう前に、なんでも面白い着任時に撮りまくるクセをつけましょう。

 

⑧外付けHDD

家にWi-Fi引いてクラウドでバックアップとるから~!とか、首都または地方都市隊員だからカフェに行けばWi-Fiあるから~!という人は要らないかもしれませんが、私は首都まで出ないとカフェがなかったので、持っていかないとバックアップが取れずひやひやな2年になっていたことでしょう・・・。2TBのHDDひとつぐらいはあっても全然邪魔にならないと思います。

 

⑨サングラス

これは必要!目は大切です。ちゃんとUVカットできるものを持っていきましょう。

 

⑩電源タップ

書いたくせに持っていきませんでした。懺悔。安全かどうかはさておき、向こうで買えます。

 

⑪100均の折りたためる収納BOX

私はこれさえあれば片づけた気になれるので、持っていってよかったと思っています。しかし!今はJICAオフィス近くにダイソーができたのでわざわざ持っていかなくてもいいと思います。

 

⑫セームタオル

これは数種類あると便利ですね!!ドミトリー生活でも旅行でも、ルアンパバーンでクアンシーの滝に飛び込んだあとも、大活躍しました。

 

⑬ノートPC

壊れたら活動に支障が出すぎるのですが、2つ持っていくのは重すぎるので、ひとつは実家に待機(いつでも送ってもらえるように梱包済み)させて、メイン機だけ持っていきました。

 

⑭コンタクトレンズ

これはどうあがいても必須だし、どう頑張っても減らせない荷物でした。かさばる!

 

⑮コンタクト保存液&洗浄液

選ばなければラオスでも手に入ります。街中のメガネやさんで青のレニューを見ました。わたしはAOセプトクリアケアの快適さを知ってしまったので、次回赴任時は半年分をせっせと運ぶ予定です。

 

⑯アメニティ、スキンケア、メイク小物

首都とパクセ―にある日系の量販店に行けば、ある程度揃います。スキンケアラインでいうと、雪肌精のようなカウンセリング化粧品もあれば、ミノンやハトムギ化粧水などもあって、幅広い価格帯で色々手に入ります。明色化粧品さんのものがたくさん置いてあったのが記憶に残ってます。(これも職業病だろうか・・・。)メイク小物も、キャンメイクやヘビーローテーションなどプチプラ中心で揃えられそうなので、あまり気合い入れて持っていかなくても良いと思います。日本で買うよりは少し割高になりますが、自分で送ってEMS代払うことを思えば全然ありがたいお値段です。

女性は、2年分の生理用品がネックになるところですが、皮膚が弱くない人だったら現地に売ってるタイ製(?)のエリスとかでいいんじゃないかなーと思いました。

 

⑰キッチンツール

前のブログではあれこれ持っていったことを書いたのですが、ダイソーができたので特にコレは必須!というものはないような気がします。

ありがたいことに、遊びにきてくれる人が結構いたので、元セネガル隊員が会いに来てくれたときに無理やり頼んだ「ティファールの28センチのフライパン」は本当に大活躍しました。そこまで大きくなくても、くっつかない日本のフライパンは調理のストレスをかなり軽減してくれると思います。

 

⑱虫除けグッズ

家では、ほとんど蚊が入ってこなかったので、オリセット(防虫剤が練り込まれた蚊帳)は活躍しませんでした。任地のゲストハウスで寝泊まりするときに、南京虫対策でシーツの下に敷きましたが、効果があったかどうかは不明です。

防虫系は、たくさんあって無駄になることはないと思います。特に南部の隊員は、デングのアウトブレイクに備えて、できるかぎりの防虫をしましょう。他国との行き来が難しいなかデングもらっちゃったら大変だ。

 

⑲アクセサリー、髪ゴム、美容小物類

これも100均ができたから必要なさそうです。

 

⑳すきばさみ

現地語学訓練終了後、気合い入れて任地に赴くためにバッチバチのツーブロックを入れたのですが、その後のお手入れに活躍しました。しかし、ツーブロックは、一度やってしまうと維持が大変(伸び始めがダサい)なので気を付けましょう。

あれ?何の話だっけ?

 

㉑日本食

これは好みですね!日系の量販店に行けば、そこそこ色んなものが手に入るので、これも本当に必要なものだけ持っていけばいいかなと思います。ただし、やはり運送料がかかる分日本と同じ価格とはいかないので、荷物に余裕がある限り日本食をつめていくのがよいでしょう。私はキャリーのあまったスペースに、ハッピーパウダー200倍のハッピーターンを10袋つめていきました。

 

㉒ザック

マスターピースの完全防水のリュックと、50リットルぐらいのバックパックを持って行きましたが、次回は新調したカメラバックを持参する予定。

 

前回の荷造りの反省と、現地の様子をおさらい

わたしの前回赴任時の荷造りの反省点は、日々のQOLをあげるものばかりに目がいき、活動の幅を広げるようなものを持っていかなかったことです。コロナで退避する直前には、ピアス制作キットや浴衣の作り方の本など、日本からEMSでいくつか送ってもらうことになりました・・・。

 

向こうでも手に入るものは、ここを見ておくとだいたい把握できます。ピン東京さん、大変お世話になりました・・・!!

ちょっと自分へのご褒美に日本のお菓子買ったりとか、皆で美味しいもの食べてブチ上がりたいとか、EMSで送ってもらうほどじゃないけど日本の雑貨がほしとか、どんなときもピン東京さんをめがけて走ってました(トゥクトゥク代節約のため)

https://www.facebook.com/PHINTOKYOPLAZA

品揃えは首都より減りますが、パクセ―のお店もありますので、飛行機の荷物制限がシビアな南部隊員にとってもありがたいですね!

 

その他、今までさんざん書きましたが、ダイソーがJICAオフィスから徒歩圏内にあるので、拘らなければ日用品はだいたいそこで揃えられます。セスキの掃除用具や、くるみボタンのキットが手に入って大変重宝しました。

 

 

 

美容大国タイからの製品が充実しているので、スキンケア、コスメ系はお肌に自信があれば持っていく必要ないかもしれません。大きいショッピングモールに行ったら、外資系の化粧品も手に入ります。

 

薬は、自分で判断して買えるのであれば、日本で処方薬として出るものを手に入れて飲むこともできますが、私はあまり信用できないタイプなのでローカル薬屋さんのものにはお世話になりませんでした。

 

コーヒーのことは書いたし(私にとっては重要)・・・

 

こんなところでしょうか・・・。

 

 

ちなみに、JICA近くのこのお店でも、お醤油やカレー粉などちょっとした調味料は手に入るので、覚えておくと便利です。(郊外にリンピンスーパーマーケットというなんでも揃うお店もありますが、ちょっと贅沢しようと思ったらあっという間に生活費が溶けていくので・・・私はあまり行きませんでした。)

 

再赴任に向けて

あらためて持ち物をリストにしておきたいと思います。

 

電子機器

・一眼レフカメラ、クリーニング用品一式

・GoPro一式

・ノートパソコン

・シムフリーのスマホ

・2TBのHDD

 

美容系

・スキンケア用品一式

・ヘアケア用品(インバス、アウトバス)

・化粧品 一式

 

日用品

・日本食

・ 薬(買い足す分)

・コーヒー器具(V60、フィルター、コーヒー豆)

・コンタクトレンズ(1day 30日分, 2weeks 150日分)

・コンタクトレンズ保存液(AOセプト 6本)

・防虫グッズ(ゴキブリ、蚊、ダニ用)

 

おみやげ

・生産者さんたち 

・配属先の皆

・大家さん

 

に買っていきたいのですが、何にしようか悩み中・・・。配属先、60人ぐらい居るので、すし酢と海苔でも買ってって巻きずしパーティーしようかしら

 

以上!

・・・え、こんなリストの作り方じゃ、直前に絶対ワタワタするやん。

 

っていうのは本人が一番分かってるのですが、まだ持っていける重量が確定していないので本当に最小限です。それから、直前になって「あれもこれも~」ってパンパンにつめて重量オーバーになるのは目に見えているので、重量オーバーしたときのお金を用意しておきたいとおもいます。

 

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まってろラオス。