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2021年の振り返り

さばいでぃー!

皆さんこんにちは、ラオスのラオ子です。

 

ラオスの国内新規感染者は増える一方、2022年1月1日からは、トラベルエージェントを利用したツアーであれば観光目的での入国が許可されることになりました。そこにはもちろん日本も含まれています。

 

政府発表では、オミクロン株の国内感染者は確認されていないとのことですが、ワクチン接種の必要回数接種が完了した割合もまだまだ50%に届かない状況で、2022年には人の往来がどっと増えることになるので、これからどうなっていくのかなあと不安に思っているところです。

 

さて、いよいよ2021年も終わりということで、いつも「ああどうしよう何もしていない」と焦るだけの自己肯定感の低い人生なので、「できたこと」がちょっとでもあったらさも凄いことかのように書きながら、1年の振り返りをしておきたいと思います。

 

1月

今年の1月は、神社ご奉仕のアルバイトからスタートしました。もう、干支一周以上、滋賀で年末年始を過ごすときにお世話になっている神社です。ですが、こんなにも参拝客が少ないことがあるのかと思うほど静かな年越しで、毎年の戦場みたいな三が日は何だったんだと思うほどでした。

1月前半はずっと神社だったのですが、後半からオンラインのマンツーマンラオ語レッスンを再開しました。2020年いっぱいは報告書をひたすら書いてひたすらネイティブチェックしてもらうというライティング中心の勉強で、その時は書いた文章をほとんど直してもらうレベル。千本ノックを受けているような感じです。インプットがあまりに多くて、一旦アウトプットしないと次に行けない気がしたので、2019年のハンディクラフトフェスのときにコミュニティ開発隊員が書いた報告書をあらためて翻訳してみることにしました。この報告書は、コミュニティ開発隊員全員で来場者に向けて手工芸品の意識調査を行い、評価グリッド法という方法で分析したものを、M隊員がまとめてくれたものです。大学院卒業の人が書く論文調の文章の語彙がそもそも難しい、内容も抽象的な表現が多く難しい、辞書で引いてももちろん出てこない、と、明らかに翻訳の練習にする題材間違えたやろって思うぐらい、あらゆる方向からドツかれまくってのたうち回りながら翻訳しました。(そしてほとんど赤が入りました。)

 

  

こちらに書いた『みみタロウキャラバン隊』の報告書を書き終えていろんなことがひと段落ついた1月終盤、再派遣までの生活費をなんとかすべく、人生で初めて派遣会社の面接を受けました。

 


読んでね。

 

2月

無事、派遣の仕事開始!ドラッグストア通算7年目。そして3社目。管理者要件を満たしているので割とどこでも雇ってもらえてありがたいです。派遣社員なので、仕事はもちろんフルタイムで、月160時間+残業ちょびっと。コロナ渦でのドラッグの仕事、それまでに無かったいろんな難しさを感じながら働きました。コロナ渦だかららこそ軽傷のときは自分でなんとかしたい、こんな症状が出たけど病院にかかるのも怖い、と相談される事もあり、受診勧奨するタイミングかどうかとか今まで以上に考えながら接客対応して、これはこれで良い経験になったと思ってます。

 

そしてこの月も、1月に引き続きひたすらラオ語レッスン。午前中にラオ語レッスン受けて、午後は仕事行って、遅番で22時すぎに帰宅して、予習復習して、また朝からレッスン受けて、と、仕事とレッスンの2本立てでかなりメリハリのある生活をしました。(そのあと集中の糸がすべて切れる日がきます)

 

3月、4月

3月以降も引き続き、仕事に語学に、ひたすら繰り返しの日々。3月末に兄家族が実家に戻ってくることになり、私をHATEしてやまない可愛い甥っ子に激しく拒絶されながらも一方的に愛をぶつけるだけの人生でした。

語学レッスンは、報告書の翻訳を一旦終えるところまでやり切りました。その後、今まで習った単語をエクセルにまとめ始め、単語だけだと使い方を忘れてしまう恐れが大いにあったため用例を書き、それをひたすら先生に添削してもらうという新たな千本ノックを始めました。そしてこのタイミングで、次の隊次の訓練のために先生がオンラインレッスンできなくなり、私自身も一休みすることに。

 

5月

3月ごろに話し合いをして、私の再派遣予定は、6月末~12月までの6か月間になるはずでした。現隊員で唯一ハンディクラフトフェスでのブース出店を経験した身として、次の隊次の人たちに引継ぎをしたい!という気持ちがあり、10月末~11月初旬のハンディクラフトフェス2021に参加できるように、この期間を選んだわけです。

 

ところがどっこい、さて来月末にはラオス!!と思っていたら、ラオス側がロックダウンしてしまって公用旅券や入国許可などの諸々の手続きが進められない、とのことで一旦延期になりました。最低でも7月になるだろうと見通しが立たなくなり、6月20日付で退職予定だった私は派遣会社と派遣先に頼み込んで特例で1か月延長させてもらうことにしました。(本来は3か月更新)

 

6月

「ああ・・・今ごろ荷物詰めてたはずやったのに・・・」「ほんまやったらもう空港行ってるはずやったのに・・・」と、考えても仕方のないことを考えて落ち込む日々。そして7月の渡航も無理になり、ワクチンを打たないと渡航できないという新たなハードルも追加されて、「え?ここまで待ったのにもうハンディクラフトフェスできひんのちゃうん?」と、日本に帰ってから一番落ち込みました。

協力隊を一足先に卒業している同期と、こっそりご飯やドライブしたのですが、それがどれほど支えになったことか。

そして、ここで仕事がなくなるとまた生活面でのストレスが増える(そしてただでさえ無い貯金が減る)ので、派遣会社と店長に2回目の一生のお願いをして、8月末まで延ばしてもらうことになりました。感謝永遠に。

 

7月

ここで一気に急展開。7月20日に1本目のワクチンを打てることになり、そして派遣も最短で8月下旬になりそう、というところまで見通しが立ってきたのです。頭がついていかず、とりあえず3か月ほぼほぼさぼった(たまーに受けた)オンラインレッスンの予約を入れて、お買い物リストを作り始めました(笑)

 

 

出国に向けてテンションあげて、また延期になったらしんどいしな~と暗い気持ちを引きずるなか、こうやって先輩隊員から刺激を貰えたことが救いになりました。

 

8月

9月11日のフライトに決まりました、との事務所からの連絡に「どうしよう!!準備ができてない!!」と焦りだす私。2本目のワクチンを打ち、敦賀方面に何度か釣行し、あ、花王と資生堂のPAYPAY祭やってる!!とあっては必需品を爆買いし・・・と、特筆すべきことのない1か月でした。

ただ、7月に引き続き、この月も先輩隊員に会える機会があり、

20日に退職してから、オンラインレッスンの予約をぱんぱんに詰め、この1年半の待機中全くやってこなかったリスニングとスピーキングを強化すべく、ひたすら先生と喋りまくる日々を過ごしました。

 

9月から

ラオスに来てからのことは、気持ちが溢れてしまってダイジェストでお送りできません。ブログとnoteに、その時その時思ったことを何らかのタイミングでまとめていますので、時系列にすべて貼り付けてみます!

 

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任期を消費していくだけの首都待機もまた辛い日々でしたが、今はこうして任地に居て毎日活動できているので、やっぱりラオス戻ってきてよかった、戻ってこれてよかった、と心から思ってます。

 

そして今、ປີໃໝ່ສາກົນ(国際正月)の大晦日、思い出したかのように時折あがる花火の音を聞きながら、この記事を書いております。

 

活動のこと

さて、延長戦に入ってからの活動のことも少し触れておきたいと思います。

 

正直、未だ右肩上がりの感染拡大をみせるラオスのコロナ渦で、活動をどこまでやって大丈夫なのか探り探りだったこともあって、しばらくは思うように動けていませんでした。その後も、誰々が感染した・してないの情報に混乱したり、感染対策への意識や考え方の差を感じて単純に恐怖だったり、隔離施設に入ることを考えるとストレス感じることもあって、そういう時は「よし!無理せず家に帰ってできることをやろう」とその場を離れたりすることもありました。

 

ですが、やっぱり外に出て人と話すと楽しくて、新しい出会いや発見があって、ラオ語の勉強のモチベーションにもなって。そして、他の隊員が同じ状況下で頑張ってる様子をSNSで見て「私も負けてられん!」と、活動スイッチが入りました。

 

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郡内の生産グループでは、前回派遣時のクラッチバッグに引き続き、他の新商品開発や、すでにある商品のブラッシュアップを行っています。可愛い商品がいっぱいできてきたのに、これを売れる販路がないのが悔しい。国境あけるなら展示販売会や、イベント・お祭りのときのタラートナット(特設市みたいなもの)も再開してくれたっていいやん!と思う反面、生産者さん自身が店に立つので、それもまた感染リスクを高めるんだよなあと考えると控えてほしいなあと思ってしまいます。いやなもやもやだなあ。

 

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新たにODOP認証を受けた、バンビエンとルアンパバーンの間の山岳地帯にあるコーヒー農家さんは、とりあえず一度出張に行けるように企画書出して話をすすめながら、プロの視点から、コーヒーの感想や、栽培・加工の助言をもらえるように動いています。

 

また、隊員が派遣されている県内の紙布生産グループがODOP認証取得を受けられるように配属先と動きつつ、この村の和紙と、先に話した生産グループの竹編みの端材を再利用して何か作れないか、あれやこれや奮闘中・・・。

 

私が居る郡の周辺2郡にある食品関連の生産グループにも、新商品のアイデアやパッケージデザインの話をもっていけたらいいなーと思っていたらもう年が明けそうです。

 

それからこれは半分趣味なのですが、シンの縫製を2人の先生に習って、それを動画と資料にまとめて、どなたでも見ていただけるようにしてみようと思っています。今年中に1人目の先生から習い終えたところですが、難しくて頭が3回ほど爆ぜております。

 

私の任期は来年3月8日まで。その日には日本に居なければいけないので、フライトにもよりますが、実際に活動できるのは2月下旬までです。あと55日ぐらいですって、なんと恐ろしい。自分の能力の低さ、予定通りにいかない難しさ、おさまらないコロナの中、どこまでやれるか分からなくてちょっと焦ってますが、今やらなかったらもう一生やれないことだと思うので、あと1か月半全力で駆け抜けたいと思います。

 

最後に

この1年は本当に激動で、沈むとこまで沈んで、そのあとめちゃめちゃテンションあがって、感情の起伏が上にも下にもいけるとこまで行った1年間でした。今でも自分がここに居られることが信じられない時があるぐらいです。

 

いっそ隊員やめてやろうか、ラオス行くの諦めようかと何度も思った上半期の、しんどかったぶんのご褒美を、いま100倍返しで受け取っている気持ちで生活してます。こんな風に思えていることが本当に幸せですし、どこにも行けない(首都にも以前のように上京できない)からこそ任地にどっぷり浸かって今まで知らなかった任地を知れているのも事実なので、いまの状況に心から感謝して残りの任期を駆け抜けたいと思います。

 

このブログを読んでくださっている方、反応をくださる方も、いつもありがとうございます。とても励みになっております。自分がこの状況下でここに居ることは、もちろん活動のためでもありますが、ラオスが大好きなのにまだしばらくラオスに来れなさそうな方に、少しでも今のラオスをお届けできたらなあと思っています。来年も不定期で更新していきますので、引き続きご覧いただけますと幸いです。

 

ああ、花火がちょっとだけやかましくなってきた。もうすぐ2021年が終わるんだなあ。2022年はどんな年になるだろうか。任期を終えたらその先どんな生活が始まるんだろうか。あと15分、まっさらなスケジュール帳にやりたいことをいっぱい書きながら、2022年をスタートしたいと思います。

皆様も、よいお年をお迎えください。

 

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再赴任後はじめての生産者訪問

さばいでぃー!

みなさんこんにちは、絶賛ビエンチャンハイになっているラオスのラオ子です。ずっと飛んでます。

 

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ご覧ください、こちら文明の利器、電子レンジと申します。生産者さんに「このへんにマイクロウェーブ売ってるとこない~?」って聞いたらお店に連れて行ってくれたのですが、なんとTOSHIBA(ほんまもんかは謎)が1万円弱。2年居るなら買うけど、数か月だから・・・ごめんね・・・とお店を去ると、生産者さんが「そういえばうちにあるけど使ってないわ。貸してあげるから買わなくていいよ。もっていきなさい」って。いやいや、お父さんや娘さん使わないの?なくなったら不便じゃない?って一度は遠慮したのですが、「娘がたま~に使う程度だし、私たちはマイクロウェーブ嫌いだからいいのよ。炭火のほうが美味しいし体にいいから」って。

 

わ~~~~~~もう、負けた、負けたわ、完敗ですわ。ラオス人の生活力に負けたし便利さにも負けた!!!コーヒー豆のハンドピックと手焙煎に時間かけて丁寧なくらしを演出してみても、結局私はマイクロウェーブなしでは生きていけない体になっていた!

 

そう気づかされてもなお、借りてきたレンジで前日の晩の豚の生姜焼きの残りと冷凍ご飯をあっためて、あつあつの作り置きご飯を頂いたのでありました。マイクロウェーブ最高!

 

生産者さんとの再会

前回のブログに書いた、配属先との活動計画のすり合わせがひと段落ついた瞬間、わたしが次に取っていた行動は生産者さんへのアポとりでした。家から配属先まで4.8キロ、家から生産者さんのところまではおおよそその倍はあるので、どうやって行こうかと悩んだのですが、とにかく会いたいのでひとまず自転車で行ってから考えようと心に決め、往復20キロ覚悟で連絡をとりました。

 

どうやってくるの?前に居た家にいるんでしょう?聞かれ、チャリで行く!と元気に答えたのですが、迎えに行くから9時に待ってなさい、と。ええ~~~ガソリン代あがってるし申し訳ないよ、と思った反面、神~~~!!と心の中で拝みました。

 

そんなわけで、生産者さんが家まで迎えに来てくれて、感動の再会。長かったね、やっと会えたね、って言ってくれて、ちょっと泣きそうになりながらお家兼お店に向かいました。

 

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着いてすぐ渡されたのは、私が大好きなお米の揚げ菓子とカオニャオ、そしてアヒルの首とか足とかクルッとコンパクトに結んで茹でたやつ。え、わたし朝ごはん食べてきたよ・・・・?というと、「違う違う!」と笑いながら私の手にアヒルを持たせます。

 

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「ほんとはそのまま持たせたいけど、コロナ怖いからね!これはコロナ対策ね!」と笑いながら、サランラップに包まれたアヒルを私の手に持たせる生産者さん。この糸を出されたころにはもう、私の涙腺は瀕死状態でした。

 

生産者さんは、私の中から悪い魂が抜けて、幸福が訪れるようにと願いながら、手首に綿糸を結んでくれます。突然帰らなければならなくなったあの日、無事に日本に帰れますように、また戻ってきてくれますようにと願ってくれた生産者さんが、1年7か月ぶりにマッケン(手首に糸を結ぶラオスの風習)をして、今度は「ラオスで健康に過ごせますように、良い活動ができますように」の願いをこめて両手に1本ずつ結んでくれたのです。

 

ああ・・・待ってよかったなあ、って、やっと心の底から思えた気がしました。

 

 

この時も、

 

 

この時も、

 

 

この時も、

 

手首に巻いているのは、誰かがわたしの健康や幸せを願ってくれた証であり、何かの節目だったのですが、今回の「おかえりマッケン」は、今までとはどこか違う沁み方で、目に入るたびにニヤニヤしてしまうのでした。

 

今日はしっかりヒアリング!のはずが

さて、今日は、コロナ渦以降の市場の変化や売り上げ、生産者グループ内の雇用状況について・・・とか思っていたのに、生産者さんまでテンションぶちあがっちゃって、今日はあんまりそういう日にはなりませんでした。

 

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着てみて!めっちゃ着やすいから、試しに一回着て!!とか

 

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これ鞄作ったときの端切れなんやけど、何かできひんかな?!とか

 

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これポンソーン村で編んでもらってるやつなんやけど、鞄以外に何ができるかな?!

 

とかとか・・・・・まってまって、私も頭が追い付かないよ!っていうぐらいのペースで提案がどんどん湧いてでてきます。

 

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おかげさまで、夕方にはもう頭すかすか。生産者さんの家の近くにできた綺麗なお肉屋さんでミンチと牛乳を買い、隣の市場でちゃっかりバターを仕入れて、へとへとで帰宅しました。ちなみに、生産者さんにプレゼントした日本のお土産セットの中にワサビを6本入れていたので、生産者さんは冷凍サーモンと何らかの白身魚を買っていました。

 

家から10キロ地点にこんなに清潔そうなお肉が買える店ができたなんて、感動です。明治の牛乳も、ちゃんと冷蔵庫に入っています。(隣の市場で売られていたものは室温で売られていたので、いつも祈ってから1杯目を飲んでいました)

 

今までと変わったこと

前回赴任していたときは、生産者さんの家で1日過ごすときはみんなで食卓を囲んでお昼を食べていました。しかし、今回は「マスク外さないと食べられないからね、ラオ子はお店で食べてね。」と、食事は別になりました。

 

首都のホテルで待機していたころ、一人でご飯を食べていると、「何で一人で食べるの?」といろんな人から聞かれたぐらい、ラオスはみんなでご飯を食べる文化です。ですが生産者さんは、マッケンや私が大好きなお菓子を準備してくれている一方で、こうやってお互いの安全を確保しようとちゃんと境界線を作ってくれていました。

 

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またみんなで食卓を囲んで、生産者さん宅の畑でとれた無農薬のお野菜や、生産者さんの池で育った魚を食べられる日が来るといいなあと思いつつ、今はお互いフィジカルディスタンスをとり、それを感じさせないぐらいコミュニケーションをとって、残りの活動をより良い時間にしたいと思ったのでした。

 

ちなみにですが、この上の写真の”くちゃっ!”となった肉のかたまり、ほどいたらこうなりました。

 

 

 

 

 

 

 

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”やっほー、脳みそ食うか?”

 

 

という冗談は置いといて、前みたいに、週5で活動して金曜日の活動終わりに乗合バンに滑り込んで上京、土日は首都で美味しいもの食べ貯めて日曜日に任地へ!なんてことももちろんできませんし、そもそもまだ配属先も交代勤務中なので、私も1週間のルーティーンを作って、決まった日に家で作業するように整えなければと思っています。

 

生産者さんともその話をして、さきほど紹介した竹バッグや布の端切れを貰ったり、サンプル制作用のシンを自分用に買ってみたり、自宅で活動する時間もメリハリをつけてやっていきたいです。

 

とはいえ、またいつロックダウンして首都退避になるかわからないなかでの活動、できれば1日でも多く外に出て活動したいという気持ちのほうが強くてもやもやしますが、私もニューノーマルとかいうやつに適応していかないといけないんだと自分に言い聞かせます。

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隔離と引越し終了、ついに活動開始しました!

さばいでぃー!

どうもこんにちは、ラオスのラオ子です。任地に到着して3日間の隔離・・・というところで前回のブログの更新をしましたが、ついに隔離を終えて、前に住んでいた家と同じ家に引越しました。

 

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ああ、懐かしの我が家。そう、このピンクのベッドこそが、私の帰るべき場所。

 

じっくり街を歩いてみると、街の中は変わったり、変わらなかったり・・・正直に言うと、全体的に減ったもののほうが多くて、バイクもない、首都にも簡単にあがれない、という中でどうやって生きていこうかと思っているところです。

 

家をとるか、移動をとるか・・・

何で前回赴任したとき、このゲストハウスで1か月耐えられたんだろう・・・とふと考えたのですが、答えはひとつ、「こういうものなんだなあ・・・」と思っていたからです。あのころは、毎日市場までぶらぶら歩いて蒸したもち米を買い、炭火の焼き鳥屋台の前で串にかぶりつきながらもち米食べて帰る、という習慣ができていました。

 

しかし今回は事情が違います。屋台も出ておらず、加えて、ロックダウンで閉店・休業した店が多いので、食べ物を手に入れること自体が困難というなかなか危機的状況。3日間の隔離期間を含む5日間のゲストハウス滞在は、朝は食べない、隣の店でお昼を食べる、フライドポテトを持ち帰って夕方ぐらいにだらだらたべる、お腹がすいたら持ってきた非常食か市場で買ったもち米にふりかけをかけて食べる、という方法で乗り切りました。なかなか辛い5泊6日でした。

 

そんなわけで、バイクがあったころはさほど不便に感じていなかったけど、今戻ったら絶対に不便と分かっていてもなお、元の家に戻りました。おかげさまで配属先までは往復10キロ、いちばん深くかかわる生産者さんとは往復20キロ、あいだは結構なアップダウンが続く道となっており、物理的に山あり谷ありな任地です。相変わらず噛み応えがあるな、やれやれだぜ!!

 

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正直なところ、家選びは自分の責任ですし、今いる家は配属先やJICAに強制されたわけではありません。生産者さんの居る村か配属先に近いところで新しく家を探せたらよかったのですが、そうするとまた家探し、申請、セキュリティチェックに数週間要することになります。私がいたゲストハウスは、セキュリティ面で不安があったうえに、ベッドとバスルームだけのものすごくシンプルなところで、机も湯わかしもない、しかも隣にある唯一のレストランも土日はクローズ、まわりでご飯食べれるようなところもほぼない・・・と、まさに「何があるというんですか」状態。これであと数週間耐えれる気がしなかったので、もう交通手段ぐらい何とかなれっ!!と、勢いで前の家に飛び込んだのであります。

 

もう一つの理由は、前いたときに使っていた家財道具で、買いなおすとそこそこ高いものがそのままになっていたので、それを使いたかった、ということ。日本に緊急帰国した数か月後、JICAのスタッフさんが荷物の引き上げに行ってくれたのですが、その時点で何がどこにあったかなんて全部忘れてしまっていたので、後になって「あ、あれ引き上げてもらうの忘れてたな・・・」「あ、これも残しといてほしかったな・・・」とぽつぽつ思い出して。

 

私が日本に帰っている間に一組別の国の人が住んだらしいので、それが無事そのままになっているかは、入居した時点では分かりませんでしたが、家に行ってみたら「あ~これ!これがほしかったのよ!!」というものが残っていて、家の中に見当たらなかったものも大家さんに聞いたら出てきて、結果ほぼ回収成功しました。

 

元セネガル隊員がうちまでハンドキャリーしてくれたティファールの28㎝のフライパン(大迷惑)に、ハリオのケトル、スケール、coiさんの大判タオル・・・ありがたいことに色々残っていて、私のQOLが良いかんじにぶち上がりました。感謝!!

 

ただ、間に住んだ人に電子レンジを壊されていたのはものすごく痛手・・・。どうやったらこんな簡素な作りの電子レンジ壊れるんだよ!!こんな短期間の契約じゃ新しいの買ってもらえないよ!!自分で買ってやろうか!!!(誰かとめて)

 

思い出の場所もある

さて、こんな「ぼーみーにゃん(何もない)」づくしの住環境ですが、家の近くで唯一誇れたのは、めちゃめちゃ美味しいカオピヤック屋さんがあることです。

 

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そして最後はこれ。 市場の近くにあるフォーやさんのフォー。 しっかりダシの出た黄金色のスープがたまらなく美味しかった・・・! 良いお店を見つけられて大満足の週末でした。 家はちゃんと借りれたの? キッチンないのにどうやって生活してるの? と色々気遣ってくれる優しいおっちゃん。 「3か月の勉強でそんなにラオ語が話せるんだね! たくさん勉強したんでしょう。 ラオスでボランティアするために いっぱい勉強してくれてありがとう!」 と帰り際に言われて、帰り道ちょっとだけ泣いた3連休でした。

お腹壊した。でも人が恋しくて外に出た。 – ラオスのラオ子。

 

任地に戻って隔離があけたら、一番にここのカオピヤック屋さんに行くって心に決めてたんですよ。そして隔離があけ行ってみたら、休業。翌日も休業。時間をずらしてもう一度、休業・・・。

 

テーブルの上は綺麗なのになーと思いながら周りの家の方に聞いてみると、「最近やってないよ」と。あー、そうですか・・・私の思い出のカオピヤック屋さん・・・。やってないんだ・・・。

 

そして市場で鶏とアヒルの卵を買って帰宅途中、カオピヤック屋さんの門の奥にいるお兄さんと目が合いました。そう、あの、くしゃっとわらう笑顔が素敵な、世話焼きの、お兄さんと。お兄さんは半裸で、両手を胸にあててちょっと恥ずかしがりながら、わたしのほうへと近づいてきました。

 

兄:おー!しばらく見んかったなあ!

私:覚えてくれてるん??

兄:覚えてるよー!あれやろ?農業局で働いてた日本人・・・

私:そうそう!産業商業局やけどな!

兄:あーそれな、それな!でも何しに戻ってきたん?

  仕事終わって日本帰ったって聞いたけど

私:誰に聞いたんや!終わってないよ、コロナで突然帰らなあかんくなって

兄:そうか、大変やったな~ こんどはいつまで居るんや?

私:1か月か、長くて3か月!1年半も待ったのに、首都で1か月半も動けんくてな~

兄:待ってる間ラオス恋しかったかー?

私:そらもう!!毎日ラオスのこと考えてたよ。あとこの店のカオピヤックもな

兄:おぉぉぉぉおおおお~~~い

  そんなことないよ、普通のカオピヤックしか作れへん

私:いやいや、ここのカオピヤックが県内で一番おいしいやろ間違いなく

兄:アアァァッヒャアヒャァヒャァヒャァwwww恥ずかしいわー おーい恥ずかしいわ~~~

私:いや、服着てないのもだいぶ恥ずかしいから大丈夫やって。

兄:お~~アアァッヒャァヒャァヒャァヒャァヒャァヒャアアアア~~wwwww

(ほんとにこんな笑い方)

私:店あけへんの?

兄:店は来月からの予定やで。今モノ買いにいったり調味料作ったり、準備中や

私:そしたらまた来るわ。服着て作ってな。

兄:アアッァアァァアッヒャァヒャァヒャァヒャァwwwwwww着る着るゥ!!

 

よかった、来月から美味しいカオピヤック食べられるゥ!!!!!

 

ここ数日の活動のこと

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さてさて、前置きはこのへんにして。2回目の活動の目標をどこに設定して、どう活動していこうか、配属先のカウンターパートと一緒に作戦会議しました。

 

日本で待機していた1年半の間とラオスに来てからの隔離期間中、ラオス語のマンツーレッスンを受けていました。間違いなくそのおかげなんですが、前よりも聞きたいことが聞けて、伝えたいことも伝えられて、自分の成長をちょっとだけ噛み締めました。とはいえまだまだ語彙力の引き出しも中身も足りていないので、踏み込んだ話をした瞬間に頭がぱっぱらぱーになってしまいました。悔しいです。一度分からなくなったらそこから先すべてがわからなくなる不治の病にかかってるんですけど、これどうやったら治療できるんでしょうかね。毎日少しずつでも勉強する、分からない単語はちゃんと聞いてあとから調べる、と、自分より後の隊次の隊員さんにえらそうに言ったので、まずは自分がちゃんとやらないとダメですね。

 

というわけで、まず最初に話したのは、この状況下で、活動範囲をどれぐらいに設定するかということ。前回赴任時に何度も訪問していた村がレッドゾーンに指定されて行けなくなっていたり、その最新情報を私が持っていなかったりで、計画に赤が入ることもしばしば。こっちは行けるけどこっちは無理とか、近いけどまだ行ってないよね?っていう生産者さんを視野に入れてみたりとか、安全に活動できて、かつ何かで手伝えることがありそうな場所を探して、なんとか柔軟にやってみようぜ、という姿勢。

 

また、活動内容についても、今の状況が続くと想定して国内外向けに行動していくのか、観光が戻ってきたときのために準備するのかとか、どこに焦点をあててマーケティングするのがいいかあれこれ話し合い・・・色々決まったことを活動計画に反映させて・・・あとはこの活動計画をラオ語にして配属先に共有して、というところまでやって、ようやく本題に入っていけそうな感じです。

 

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前に赴任していたときは、先輩たちが楽しそうに掛け算の活動をしているのを見ていて、職種も隊次も関係なく、やろう!いいね!ってわいわい取り組める人と何かすることで活動が加速度的にぶち上がっていくのっていいなあと思っていました。今回はそういう活動は現実的に厳しいところがあって、なかなか実現には至らないと思うのですが、だからといってそれが目的になってしまうのもまた違うよなあ、と思ったり。目標がたまたま同じ方向にあったとか、誰かの力を借りたら成し遂げられそうだったとか、活動の中でそういうものが見えてきたときに「ここ!!」というタイミングでやれるのが理想なのかなとか。

 

どちらにしても今回は、物理的な往来を積極的に増やすタイミングではないので、任地にどっぷりたっぷり浸かります。ビエンチャン県というところに、もう無理知り尽くした!!っていうぐらいびたびたに浸かります。

 

ないないって文句ばっかり冒頭で言った人のセリフとは思えないかもしれませんが、こんな時だからこそ楽しめるラオスが目の前に広がっていて、毎日いろんなことにワクワクしながら過ごせているので、この感じで毎日過ごせたらなと思っています。活動についても日常についても、不定期で更新していきますので、引き続きお読みいただけると嬉しいです!

 

では今日はこのへんで。ぽっぷかんまーい!(またお会いしましょう)

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ただいま、ビエンチャン県!

さばいでぃー!

こんにちは、ラオスのラオ子です。

 

ああ・・・やっとこのタイトルの記事が投稿できました。もうね、今の時点で感無量です。今日の記事は以上です、ってくたびれたノートパソコンをパタッと閉じて、飲めないビールで乾杯したい気持ちです。

 

首都待機中のはなし

 

 

成田で懐かしい隊員たちと再会できたときも、ラオスの空港に降り立ったときも、14日間のホテル隔離を経て街中をやっと歩けるようになったときも、ロックダウンで静まり返った街が徐々に活気を取り戻したときも、何度も通った思い出の店がやっと再開したときも、急な帰国が決まったあの日にぽっかりと空いてしまった穴は、実は塞がっていませんでした。むしろ、12月初旬に帰国が決まっているにもかかわらず、ロックダウンの長期化によって赴任の目途が立たず、「もしかしたらこのまま帰ることになるのでは」という不安と、「もしそうなったら私はどこがゴールだと思えばいいんだろう・・・」「この1年半待ったのは一体何だったんだろう・・・」というもっと大きな不安に襲われ、胃がキリキリ、したりしなかったりしました。

 

 

当初の予定では、9月29日には任地に居るはずでしたが一旦白紙になり、赴任の可能性がちらっと見えては消えていきました。先の見えない不安、任期だけが減っていく焦りのなかで、自分のメンタルをどうにか保ち、整えなければと考えたところ、「ゲストハウスの待機暮らしも楽しく有意義に」と前向きにあれこれ頑張る隊員さんたちから元気をもらえたのが、大きな救いだったと思います。

 

そして食事について。可能な限り外出を控え、余計な出費を抑えるために、各種デリバリーサービスを駆使していたわけですが、600円以上頼まないと割引クーポンが利用できないので、ゲストハウスに居そうな隊員と共同購入していました。「今日のお昼、PVO頼みます」「じゃぁわたしツナ」「わたしはパテで」みたいな会話があったり、どこの何がおいしかったとか、今度一緒に頼みましょうとか、毎日絶対に必要なことをわいわいやるのが日々の大きな楽しみでした。特に、お隣さんが食に気を遣うありがたい存在だったので、今までだったら「好きな食べ物はカロリーです!!」とか言ってしまっていた私も、アラサーらしく野菜を取り入れたヘルシーな食事ができていました。感謝。

 

もうひとつ、ロングお散歩もやってみました。といっても、感染リスクは極力抑えたいので、「何かをしにいく」のではなく「〇km歩く」を目標に、炎天下のビエンチャンをひたすら歩く、歩く、歩く。一番多い日で23,000歩、14kmほどになったでしょうか・・・それも早起きが苦手&お掃除さんが10時すぎに来るので、昼前に出て夕方帰るという一番外に出ちゃいけない時間帯にやっていたのですが、これがまた楽しいんですよね。トゥクトゥクで素通りしていたような場所をひたすら歩くだけ!なんですが、ここのコーヒーが美味しいよ!このお寺が渋くていいよ!肉たらふく食べるならここやで!!と前回赴任時の開拓の成果を披露しながら、暑さでだらだらなりながら、マスクの中で蒸しあがりそうになりながら、ひたすら歩く。そしてゲストハウスに戻って、いっぱい食べてシャワー浴びて寝る!翌朝起きたら頭がスッキリする!日本での仕事中は月間35万歩前後歩いていたので、歩くってこんなに大切だったんだなと気づかされた大切なルーティーンでした。

 

そしてもうひとつは、ラオ語の勉強です。今回が新規派遣の隊員さん二人と一緒に、昔のラオス隊員さんが使われていたテキストを使って、活動で使う会話や長文読解をしました。私がそろそろ赴任できそうな雰囲気になってきてからの打ち込み方が半端ではなく、一週間中5日、ほぼ語学訓練のような感じで、2時間で終わる日もあれば、3時間半カッスカスになるまで勉強する日もあったりと、ものすごく有意義に時間を過ごすことができました。私自身まだまだラオス語には自信がなく、最近ラオス人の先生からの語学訓練を終えたばかりの新隊員さんからは私の知らない語彙が飛び出したり、「〇〇とどう違うんですか?」って質問されたときに「さぁ~・・・何なんでしょうねぇ~」ってなってしまったり・・・それが悔しくて、そして二人があまりに真剣に打ち込んでくれるので半端なことは言えないと思って、私自身予習に打ち込む時間がどんどん増えていきました。そして、語学の先生をされていた方にその話をしたら「語学は教えるのが一番の勉強になるんですよ!!」ととても前向きになれる言葉をいただいて、確かにそうだよなあ・・教えてるんじゃなくて、私がアウトプットさせてもらってるんだよなあ・・・と、ありがたく勉強会をさせてもらいました。おかげでテキストの1/3以上を終え、それなりに噛み応えのある長文読解もある程度理解に繋げられましたし、何より、ほめ上手な教育系隊員さんたちだったので、このネガティブになりがちな環境下で私の自己肯定感を爆上げしてもらえて、Win-Winどころの話ではないぐらいたくさんのものを受け取ったと思います。

 

というわけで、首都に居る間は今後の企画書を作ったり、延長できないか交渉してみたり、いつ行けるかはわからないけどいつでも行けるようにあれこれ買い物してみたり、なんだかんだ毎日誰かと会ってどこかに出かけながら、でも可能な限りミニマムに行動して、待機生活をつづけました。…デリバリーサービスで美味しかったお店についての記事、いつか別で書きたいなあ。なんて。

 

赴任前日

10日のお昼ごろ、ちょうどご飯を食べていたときに、タスクフォースから許可が下りて赴任が確定したとの連絡をもらいました。一番最初に伝えたのは、前回赴任したときからずっとお世話になりっぱなしの先輩二人とのグループラインでした。

 

そのあと調整員さんから「翌日か翌々日、どちらに赴任するか希望があれば」と言われましたが、「食欲の観点からすれば明日は1日この世の終わりみたいに食べまくって明後日赴任したい・・・もう少し任地で使うものも買い足していきたい。でも、もし明後日赴任にして明日タスクフォースの決定が覆るような感染拡大が起きたらどうする?私はそれでいいのか??」と頭をフル回転させ、任地に行きたい欲がギリギリのところで食欲に勝って「明日行きたいです!」と返事をしました。

 

そこからはもう・・・本当にどたばたで、いつかやろうの大馬鹿野郎になっていた用事をばたばたばたっと済ませ、買い物に行き、ちょっといい夕飯を食べ納めして、それから深夜までパッキングしました。レインボーバッグ6個、スーツケース3個、段ボール大2個、ギター、バックパック、リュック・・・私は一体何年住むつもりで用意したんだ?と自分でつっこみたくなるぐらいの量になりました。

 

赴任当日

ゲストハウス待機組の遅起き選手権で常にトップの成績をおさめていた私でしたが、ᴐの日だけは遅刻できまいとめっちゃ早起き。6時ぴったりに目を覚まし、身支度を整えて最後のパッキングをしながら、冷蔵庫の隠し財産を胃袋へ。ひとつはPie my loveサーモンポテトパイ、もうひとつはサオバンヨーグルトのパッションフルーツ味です。

 

出発の30分前に待機組の隊員さんたちが荷物運びのお手伝いにきてくれて、あれだけあった大荷物は光の速さで1階へ。そしてまもなくJICA公用車が到着し、前回赴任時に買って保管してもらっていた自転車とともにぎゅうぎゅうに押し込んで、別れを惜しむまもなく任地に向けて出発することになりました。お手伝い・お見送りしてくれたみんな、ありがとう。

 

そういえば初めて赴任したときは、ちょうど赴任のタイミングでコミュニティ開発の先輩隊員のイベントがあって、みんなが旅立つのをドミトリーでお見送りしてしばらく首都に残ったんですよね。イベントが終わってから配属先の課長に迎えにきてもらって、JICAのスタッフさんと何やら話し合っているのが何一つ聞き取れずヒョットコみたいな顔をしていると、コミュ開の先輩隊員が「安全運転するように、いろいろ言ってくれてるよ。」と教えてくれました。すごい、こんなに早く話すの聞き取れるようになるんだ、と感動したのを今でも覚えています。

 

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任地へ向かう途中、「バンビエンまで1時間で行けちゃう」と噂の高速道路にほんの一瞬だけ乗りました。途中工事中のためまだ全面開通していないらしく、ビエンチャン県の県境にも全然到達しないぐらい手前で降りたのであまり速さは実感できませんでしたが、道は綺麗に整備されていて、広くて、ロックダウンの影響か車がほとんど走っていなくて、とても快適でした。

 

そのあとは、ひたすら工事中の13号を北上。日本の工事中とは全く違う、めっちゃハードな工事中です。ポンホーンの三叉路で南下し、ビエンカム郡に入ったころには、窓をあけて息も浅くなってるぐらいに酔っていて、新しくできた建物とか、つぶれたレストランとか、そんなものに気を配る余裕もないぐらいに酔っていました。

 

そのあと、前回赴任時もお世話になったゲストハウスに着き、あの時もお世話になった優しいお姉さんとの感動の再会。荷物をおろしてせっせと運び、JICAの車をお見送りして、部屋の中の直接接触する部分に残り少ないパストリーゼを振りかけまくり、綺麗に拭きあげて、モノを広げ、・・・と、隔離ホテル→待機ゲストハウス→任地ゲストハウスとそろそろ慣れ始めた引越し作業を終えたころには、陽がかたむきはじめていました。

 

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そう、この景色。この景色が見たかったんです。ゲストハウスの裏がわから見えるこの景色が。こっちのほうが眺めがいいからこっち側の部屋に移りたい、と言ったこともありますが、西日がまぶしすぎるからおすすめしないと本気で止められ、思いとどまりました。でもこの景色は、ずっと見ていたい。ずーっと変わらないでほしい。

 

赴任二日目

県境をまたいだため現在隔離中、まだ外出はできないことになっています。隣にある馴染みのラオス料理屋さんで食料を調達するか、反対側のお隣さんの商店で必要なものを買う程度にとどめ、まだ市場へも配属先へも大家さんのところへも行っていませんが、急激に事が進んだため追いついていない活動計画の修正などに時間を使ってだーらだーら過ごしています。

 

ただいま、ビエンチャン

日々変わっていくラオスの状況に一喜一憂しながら、すこしでもより良く、有意義に、楽しく、美味しく過ごせるように創意工夫した、首都ゲストハウス待機組のみんな。いるのが当たり前だった人たちが突然いなくなった(いなくなったのは私ですが)のは結構さみしいところもありますが、言うと調子にのりそうな人ばっかりなのでこれ以上はやめておきます。みんなが1日も早く任地に行って、待って待って待ちまくった自分へのハイパーご褒美タイムが始まることを祈ってます。ビエンチャン県組、待ってるで!

 

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夜中3時には鶏が覚醒をはじめ、あっちのほうではガチョウがヒーンと高らかに鳴き、午前中は向こうの茂みにいた牛さんたちが、影の動きにあわせて道路をぞろぞろと渡っていくときの、カランコロンとかわいらしいカウベルの音に耳を傾ける、そんな場所での暮らし~2nd season~が始まることにわくわくが止まりません。首都ビエンチャンの比じゃない田舎の野良犬と番犬には、震えが止まりませんが・・・。

 

活動が始まったら、いままでとは違うことで悩んだり、喜んだり、またいろんな感情に忙しく振り回されることになると思いますが、ゴールテープを切ってどや顔で日本に帰るまで、お付き合いいただけますと幸いです。

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商品開発第1弾『クラッチバッグ』のあれこれ。

さばいでぃー!

最近ずっと旅行のことばっかりで、活動について何も発信していませんでしたが、やっと一つ大きく動かせました。今日はその事について書いていきたいと思います。

 

 

ほんとはオークパンサーの事とか書きたかったんですけど、発信できるような情報量にならなかったので語学の鍛錬を積んで来年再チャレンジしたいと思います(笑)

 

「何を」作るか

日本では商品を売る立場で仕事をしてきて、目の前のものをお客様にどうやって販売するか、ということはたくさん考えてきましたが、商品開発に携わったのはカンボジアでの2年だけ。でもその間にお客様や会社から教わった事はとても多くて、今の私ではまだ全然消化しきれないような事ばかりです。

 

ラオスに来てからは、どこへ行ってもお土産屋さんを巡り、店内の商品を穴があくほど観察しました。「これだったらお金を出してでも買いたい」と、「私だったら買わないなぁ」は、ただ作って終わりにしないための、お客さん第1号となる自分の一番大切な声です。来た当初は殆どのものを見て後者だったのに、自分がものの無い環境に居るとハードルが低くなるのかなんなのか、あれも欲しいこれも欲しい、そして安いと思っていたものも「高い」と思うようになり、ターゲットとなるひと、もの、こと、それを判断していく自分をどこに置くかは難しいと感じています。

 

私には、表現者や作家として、それ自体に絶対的な価値を与えるようなものづくりができるような才能も知識もありません。デザインや縫製は私が教えてもらいたいぐらいだし、染色や織りについては、教えてもらうことすら大丈夫です、という感じです。布のことはどんどん好きになっていくけど、技術の面では全く明るくないのです。だから、そういうことは今まで何十年もやってきている村の人たちに任せることにしました。

 

だからこそ、「自分が使う側だったら」を考えて、何が欲しいか、どんなものだったら買いたいか、どんな人に贈りたいか、どんな物を貰ったら嬉しいか、たくさんシミュレーション。

 

そして「自分が売る側だったら」も考えて、どんな商品だったら、どんな価格だったら、どんな性質のものだったら、運びやすく、海外にも送りやすいか。そして、売りたい対象に、どんな風に説明できるものが売りやすいかも、考えて考えて、考えまくりました。

 

他方、生産者さんたちと関わるなかで、自分に手伝えることは何か、どんな商品作りの方法がこの村・この生産グループに合っているかというのも、単に「売れるモノをつくりたい」のとは違う、ODOP(一村一品)や地場産業そのものの発展のために、明確にしておくべき事項のひとつだと痛感したのです。

 

その中で、自分自身が感じた「あったらいいな」は次の3つでした。

 

ユニセックスな小物

圧倒的に足りないのはコレだと思いました。

 

ラオスの小物はどれも可愛い。アジアン雑貨好きの女子には間違いなくウケる。見てください、ウケすぎた結果の私の棚です。

 

ラオス小物でない貰い物が混ざってますが、それもあいまってカオス状態。

 

けれど、男性に贈るとなるとちょっと違う。可愛い刺繍、華やかな織り、意味の分からないぬいぐるみ、ピアス、ポーチ。私にとってはどれも宝物ですが、男性に贈るとなるとどれもピンとこない。男性向けのお土産もありますが、名刺入れやネクタイ、可愛いけれど、ビジネスユースには向かない。

 

それで思いついたのが、今回つくったクラッチバッグでした。クラッチバッグといっても、それだけを持ち歩くような類のものではなく、タブレットや書類、ステーショナリーなどをがさっと入れられるようなもの。これなら、布で、いける!

 

かさばらず、壊れない

ものの性質上、竹細工を外さざるをえず、まだまだ私のアイデア不足なのですが、布×竹は難しいし、竹オンリーになると更に難しい問題です。日本やタイの竹細工を見てしまうと、「私が旅行者だったらわざわざラオスで竹細工の既製品や竹かごのバッグを買うかなあ・・・。」と、現時点で自分の「ほしい」に繋げられません。(誰かアイデアくださーい!笑)

 

 

クラッチバッグはぺったんこ。バックパック背負って旅する人でも、安心して買えて、がさっとザックにつっこんでいけるもの。そんなイメージから、やっぱり竹は一旦おいといて布だけで商品を作ろうという考えに至りました。ただ、ビエンチャン県のODOPの生産者さんは竹細工だけで3グループ。いつか何か一緒にやりたいとはずっと思っています。・・・といいつつ現在、竹製のランチョンマットに自然のニスでコーティングしたものを作成依頼中。こちらも楽しみなんです。

 

さらに、日本からのEMSになにやらガムテープがしてあると思ったら、箱に穴を開けて中身を根こそぎ食わたところをしれっと隠蔽される、という途上国ならでは(?)の郵便事情を鑑みて、壊れやすくトラブルにつながりやすいものは極力避けたいと思いました。

 

村の伝統をデザインに

 

この村の生産者さんともそろそろ半年のお付き合い。村の伝統を、どうにかなんとかしたいという熱い気持ちをずっとそばで見てきました。お母さん(村の生産グループのリーダー)が一番大切にしたいという柄の布は、東南アジアに肥沃な大地をもたらすメコン川流域の「ナーガ信仰」からインスピレーションを受けたもの。

 

 

他にも、この村にしかない絣の模様や、バンビエンの紙布など、お母さんがかたちにしたい材料は山ほどありました。そしてお店には、以前訪れたメット郡のティンシン(裾布)の在庫もあり、うまく商品が売れれば、距離的に遠すぎて直接的な支援を諦めているメット郡とも連携していける。

 

www.laoko.net

 

そんなこんなで、ひとつの規格、製品を色んな布で使いまわせることも重要な条件のひとつとして考え、今回の商品開発に至りました。

 

縫製は、縫製が得意な人に

 

うちの生産者さんには、縫製が得意な人はいません。織りのプロばかりです。自分が作り方を覚えて誰かに教えて、作ってもらう・・・というのも考えましたが、それではあまりに遠回りで、きっと完成までにも時間がかかるし、品質を保つのにも相当の練習が要るだろうと思いました。

 

というわけで、お母さんの顔の広さと首都が近いという利点を大いに利用して、縫製は縫製のプロに任せることにしました。

 

完成まで何度かお願いしないといけないかなあ・・・と思いましたが、いっぱつでそれなりに良いものを仕上げてくれたので、任せて正解だったと思いました。

 

たくさん売れたら、良いミシン買って、良い縫子さん雇って、それで自社生産しようね。

 

お母さんの顔が光り輝いた

できあがった商品を見てすぐ、嬉々としてFBやTwitterにアップしました。

 

これは可愛いもんが出来上がったぞ、と。

 

 

「欲しい!」の声をたくさん頂いて、私はまた嬉しくなりました。男性からも要望をいただいて、「やった!!!!」とガッツポーズ。私自身、今はマネタイズできない立場ですし、『売れること(=お金が動くこと)』自体が嬉しいという感覚ではありません。どちらかといえば、自分たちが作ったものを通じてラオスのてしごとを発信できる事に対するものというか、私が志望理由書に書いた2年間の活動のテーマ「ラオスを世界へ」の第1歩を踏み出せるような気がする、そんな気持ちから湧いてくる嬉しさです。(今思ったらでかいこと書いたなぁオイ・・・。)

 

さらに、その中には「日本で置いてもらえる先があるので10個ほしい」というオーダーまで。ああ、ありがたや。皆さん本当にありがとうございます。同じ布で同じものを作り続けるのが難しい場所で、どんな風に今後売っていくかというのは大きな課題ですが、大量生産とは違う一点ものに「出会う」ことも含めて楽しんでいただけたらなあ・・・と思いながら、ここ最近で一番良質な睡眠を得ました。(笑)

 

翌日、朝いちばんに生産者さんのところを訪れて、追加のオーダーをお願いしてきました。

 

「お母さん、10個日本に送ってほしいって!ほかにも欲しいって言ってくれてる人が居るから、オーダーお願いできる?」

 

と私が伝えたときの彼女の眼の輝きは、今まで見た事がないものでした。JETROのカタログにも載り、日本国内でのギフトショーに出展したこともありますが、それでもお客さんを見つけるというのは簡単なことではありません。せめて誰か、日本語や英語でのやりとりができれば、と思いますが、この会社はそこまでにはまだ至っていません。「自分がここに居る間しかできないことをやるのは違う!」と、来た時は頑固おやじのように思っていましたが、自分が発信源になることで、ラオスのてしごとがここから広がっていくのであれば、この街に「外国人として」存在する意味になるのかなあと感じました。

 

お母さんは「売れたお金でミシン買ってうちで生産したいね!!」と言いましたが、「これ(首都でプロに縫ってもらったもの)と同じ品質じゃないと売れないよ!それは、ずっと先の話ね!モノ買うより先にトレーニングね!」と私もそこは譲らず。日本をはじめとする諸外国で研修を受けてきた彼女はすぐに納得してくれました。

 

こんなデザインも可愛いね、この布も使えないかな、なんて、今まで何にも加工されず眠っていた素敵な布がどんどん押し寄せてきて、それを「可愛いね」「いやコレは無いわ」と皆であれこれ話し合い、手引きのコットンを使った藍染の布や、この村の絣を使った、新しいデザインのポーチをまたいくつかお願いすることにしました。

 

合言葉は「ワイケーケー!」

使い心地も重視したいし、くたくたになるまで長く使ってもらいたい。だからこそ今こそ私たちに必要なのは日本の技術の結晶、それこそが富山が誇る日本の宝「YKK」のジップです。私が来るまでYKKを知らなかったお母さん、手工芸協会ネットワークで取り扱い元があっさり見つかり、すぐにワイケーケーを取り入れることになりました。

 

お隣ベトナムに工場がありますが、ラオス国内で使われているのを見ることは殆どありません。市内のお土産やさんですらほんの僅か。お母さん、時代はワイケーケーだよ、縫製技術とワイケーケーがあれば、クンナパープ(品質)ディー(良い)だよ。

 

「安かれ悪かれ」で薄利多売したくない。だからこそ原価を上げてでも「ໄວເກເກ」!このジップのことだけじゃなくて、それをアファメーションみたいに思って、「通常の10倍の価格のするジップをつける意味のあるもの」を作っていきたい。(これだと商品がYKKのバーターみたいだけど、それも、まあ、そうなの。)

 

早く売りたい

ただいま追加でオーダー中。デザイン、種類ともに、ちょっと増やしてみます。

 

大きさは以下の2種類。

 

1.A5が入るサイズ

 

2.A4の紙、タブレット・PCなどが入るサイズ

 

厚さは2種類。

 

1.布に裏地をあてただけのもの(本・ステーショナリー向け)

  B5ぴったりサイズ

 

2.布と裏地の間にスポンジを入れたもの(タブレット・PC向け)

 

柄は無限大。

 

1.紙布帯×コットン

 

 

2.ナーガ裾布×絣

 

 

3.ナーガ裾布×コットン

 

 

4.メット郡の裾布×絣

 

(これから首都に送って縫製してもらいます!!)

 

などなど…

 

各種類、色みも色々増えていく予定です!!

 

お楽しみに。

 

まだまだこれから。

https://www.instagram.com/p/B29lM5JpHFU/

#sunset#luangprabang #mekongriver

 

1年で自分が残せたものなんて本当に何もなくて、内容ぺらんぺらんの活動報告書や月イチで出してる配属先への報告書と、世界中で活躍する同期隊員や同国の先輩・後輩隊員の発信を見て、はぁぁああああああ・・・とため息つく日々ですが、

 

私、じぶんでFBで言ってました。

 

1年目でびたびたになるまで吸収して、

2年目でカスカスになるまで出し尽くして帰るぞ。

 

って。

 

だから、まだいいんや。焦ったらアカン。私は無給の活動やけど、相手は生活のかかった生産者さん。遊びじゃない。

 

と自分に言い聞かせて、頑張ります。

 

欲しい~!と言ってくださった方、本当に励みになってます、ありがとうございます!数が用意できましたらまた情報流していきますので、少々お待ちくださいっ。

 

直近で頑張ること

www.facebook.com

 

ラオスの首都ビエンチャンにて、手工芸品の国内最大規模の展示会が行われます。

 

私たち協力隊も3ブース借りて7県まとめて出店、デザイン隊員も配属先からブースを借りて出店予定です。ボリカムサイ、サイニャブリ、ウドムサイ、カムワン、ルアンパバーン、チャンパサック、ビエンチャン、そしてビエンチャン市のホアイホンセンター。各県から選りすぐった商品の数々、ぜひご覧ください!

 

私の県からは、クラッチバッグを一緒に作っている生産者さんの小物とシン、それから普段お目にかかることの少ない、地図にもちゃんと載ってないメット郡ナポー村、バイクで往復80キロの道のりを自分で選びに行ったポンホーン郡チェンサワン村、それぞれの「めちゃめちゃ綺麗な」布、持っていきます。

 

1年1回の大イベントなので、周辺国からも同期隊員が来てくれることになってます。同じ一村一品やマーケティング関係の隊員なので、情報交換ができるのも楽しみ。

 

日本に居てなかなか来れないという方、金曜日退勤したあとそのまま空港に向かって夜便で飛んで、土曜日の午後ITECCで買い漁って、日曜日の午後便で帰ったら、朝に日本に着いてそのままエクストリーム出社できますよ!!!もしくはバンコクに夜着けたら、寝台列車で寝てる間に国境に到着!あら、なんて簡単なんでしょう!!!

 

全世界からのお越しをお待ちしております!!!

 

ものつくり、たのしい、くるしい、でもやっぱりたのしい

 

 

ひとつ商品作ったぐらいで大げさだな、って思われるかもしれませんが、今の私にとっては大きな一歩。あーでもないこーでもない言って、やっと1本、道が見えてきたような気持ち。

 

デザインから製造、納品・販売までのオペレーション、きっとうまくいかないことも出てきます。でも、技術補完研修で講師の方がおっしゃっていた「コミュニティ開発に必要なのはしつこいぐらいのモニタリング」という言葉をしっかり噛みしめて、日々活動していきたいと思います。

 

調査と販売以外何も報告できていなかった配属先にも、やっとひとつ・・・ドヤ顔で報告できる任地での成果になるかな。

 

 

 

せっかく色んな県に同じ要請の隊員がいるんだから、色んな民族のいろんな布でやっていけたらと思っていて、どう水平展開していくかについても考えていきたい。ひとつのアイテムでSKUを増やしていくことで、手に取って下さる方の「選ぶ楽しさ」に繋げられますし、一つの商品に興味を持ってもらえたら色んな県の布でアソートにして納品できる&売るときも最小1列でディスプレイできる、と色々メリットがあると思うからです。

 

まだまだやりたい事がたくさんありますが、せっかくだから少しでも経験のある食品のパッケージ改善もやっていきたいので、こちらの「たのしい」を燃料にして、ハンディクラフトフェスティバルが終わった後は一次加工食品のブランディングも始めていきたいです。できるかな・・・、いや、やります!やるやる詐欺にならないように!!します!!!

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泣いて笑って、よんぶんのいち

報告書、明日が提出期限だってよ。

JICA海外協力隊としてラオスに派遣されてから、任期の1/4終了。なんて早いんだろう。なんてあっという間なんだろう。着任後3か月の1号報告書を書いたのがつい最近だと思っていたら、もう明日が2号の提出期限。なんてこった。

 

活動を始める前は、報告書の書き方を聞いて「着任して半年で活動計画?半年も何もしないのありえる?!」って思っていましたが、あの頃の私に言いたい。ここで半年過ごしたあなたは、無い頭を捻り倒しても活動計画書が全然捗らなくて、書いてみたけど全然納得できなくて送る決心がつかなくて、気を紛らわせるためにネット配信で鈴鹿8耐(バイクが8時間耐久で鈴鹿サーキットを走り続ける、モータースポーツファンの夏の一大イベント)を応援しながらブログを書いてますよってこと。ほんと、詰んだわ。誰か助けてください。

 

過去記事で振り返る半年間

半年前の1月29日、10人の同期と共にここラオスにやってきて、ドミトリーで共同生活しながら約3週間、語学学校に通いました。 

 

 

首都で過ごした1カ月間、どんどんラオ語を吸収していく同期隊員を見てメンタルポキポキ野郎になった私は、日本での研修やその前後の旅行、フェスで使い切った後のお釣りみたいな資金のほとんどをオシャカフェ巡りとアコギ購入に溶かし、本人も驚きのお財布コンディションで任地に向かうことになりました。(楽器があるおかげで気分転換もできてるし、他の隊員と一緒に音楽できる時間にも恵まれて、結果的には大勝利でしたけどねっ!)   

 

 

任地に来て最初の1カ月はゲストハウス暮らしで、配属先までは同僚に送り迎えしてもらう生活。その同僚一家は私にとてもよくしてくれていて、先日も乗り合いバス降り場から家まで歩いていたら途中で拾ってくれたり、ごはんに招いてくれたり、カオパンサーにつれていってくれたり、本当にありがたい存在です。

 

子育て上手な彼女は私のカタコトのラオ語も息子を褒めるときと同じように褒めてくれて、おかげで配属先の人たちやご近所さん、市場のおばちゃんたちと話すのも楽しいと思えるようになりました。なお、土日に営業してくれるローカル食堂がほぼ無く、あったとしても同じ味のラオ料理ばかりで食欲がわかず、屋台の買い食いとフルーツだけで生活したため、二本松訓練所で蓄えたお肉をそぎ落とすことに成功しました。やった!!

 

 

そして日本の友人に「未だに読み返して笑っている」と好評のこちらの記事を書くことになったわけです。住み始めたばかりのころは「これがラオスのスタンダードなのだとしたら私は甘んじて受け入れるぞ!!」と思っていましたが、その後遊びに来たラオス人の友人に「子ども部屋みたいwww」と笑われたため、もうどうでもいいやと思っています。ピンクかわいい女子力ぶちあがる。(自己暗示)

 

任地で1か月を過ごしたころ、「キンビア(=飲み会)」という下戸にはただシンプルに苦痛な「飲め飲め文化」に潰され、このまま旧正月を過ごしたら臓器もメンタルももたないと判断した私は、みんなの誘いを断ってそのまま首都へ逃亡。あの時わたしの話を聞いて色々アドバイスをくださった先輩がた、そしてキンビア好きやのにお酒なしでご飯に付き合ってくれた同期にはありがとうしかありません。感謝永遠に。

 

4月後半には、先輩が企画されたイベントにも参加させてもらいました。自分自身原爆について学ぶ機会になっただけでなく、先輩がたがラオスの人たちとどんな風に関わっているかや、先輩隊員の本職である「先生」のプロフェッショナルな一面を見れた貴重な時間でもありました。 

 

 

その後、職場で活動がうまくいかず白旗を振って調整員さんに来てもらい、更にはバイクも手に入れて、よし!再スタートだ!!と気合を入れた瞬間に、思い出しただけで下腹部がシクシクする、人生2度目のアメーバ赤痢。しばらくじっとしとれ、落ち着け、っていう事やったんかもしれん。

 

一度アメーバにかかったら、人は2回苦しむ。1回目は発症した日。2回目は、ローカル病院での治治療。

 

・・・みなさん、ここテストに出ます。大事ですよ。赤線ひっぱっといてください!

 

そこからは体調を崩すことなく活動でき、ビエンチャン県11郡中6郡に視察に行き、17生産グループ中7グループに調査を実施しました。まだまだ全郡実施とはいきませんが、初代隊員としてはまず”知る”ことからだと思っているので、残りについても実施できたらなあと思っています。(残っているグループは近隣郡が多いので、きっとできる・・・はず!)

 

色々あったし、今からもっとある。

何で伝わらへんねん~~~~~~何言うてるかぜんっっっぜんわからへんしさあああああ~~~~~~ラオ語調べても全然でてけえへんし、教科書にも載ってへんし、イングリッシュOK!って言ってくれるけど全然伝わってる気しいひんし、生産者のおばあちゃんら何言うてるか全然聴き取れへんし、天井から水降ってくるし扇風機空中分解するしゴキブリに噛まれるし、なんやねんラオス、なんやねん~~~~~~~~~! と、思って過ごしていた毎日でしたが、ひとつだけたどり着けた答えは「相手のことがわからないのは、ラオスのことを知らなすぎるから」でした。

 

 

実は私、「音声反訳」をしていた時期がありました。いわゆる文字起こしというやつで、主に講演やセミナーの内容を聴いて、そのまま文字に起こしていくというものなのですが、これがまたとてもとても難しい。音楽、料理、生活など、馴染みのあるテーマのときは3回ぐらい通して聴けばその後倍速で流しながら入力してだいたい整えられるのですが、特殊な機械の使い方や、土木関係の工事の話、医療関係者の話など、踏み込んだ内容になるとさっぱり捗りません。自分が知らない世界の事、特に固有名詞は、曖昧にしか聞こえないときに「候補を絞り込む」こともできなければ、なんとなく次はこの単語がくるだろうという予想もできないので、スムーズに指が動かないのです。

 

私にとってのラオ語も同じ状態にあるとようやく気が付いたのは、わりと最近になってから。ラオ語自体の勉強をするのと同時に、ラオスのことをもっと知らないと、音だけ聴けても理解に繋がらない。自分の言いたい事だけ言えても、相手の伝えたい事が分からない。 で、結局「知識が増える」という事はそれに関連する語彙の候補をあげられるようになったり、分からない言葉を知識で補完したりできる、ということでして。そこから文献を読み漁る日々。ネットに落ちてる論文やJETROさん、JICA専門家さんの調査報告書、ラオスに関する本などなど・・・勢いで印刷した&買ったものがまだまだ自宅とドミトリーに積ん読されていますが、何回か目を通していると、あ、このこと言ってたのかな、とか、あの論文と繋がるな、とか、気づきがたくさんあって。

 

結果的に、普段話していても「あぁ、あのこと言ってんだな」ってなんとなく予想できたり、話が広げられたり、できるようになってきたワケですね。だからこそ、個人を、配属先を、ODOP認証制度を、ラオスのことを、もっともっと知らなければと思いました。日本に居るときにもっとやっておけばよかったと後悔したのはラオ語の勉強よりもこっちかもしれません。ラオ語は勉強のリソースがなさすぎて訓練所に入ってからじゃないと読み書きが難しいのですが、文献ひっぱったり本買ったりしてその国を知ることはできます。 とはいえまだまだ胸を張って「ラオ語話せます!」とも言えず、言いたいことも言えず、でも自分が正しく解釈して伝えられているという自信もなく、イライラ、モヤモヤ、ぐるぐるしたまま、己がびっくりするぐらい酷い顔で家に帰って狂ったようにドラゴンフルーツ食べる日々。

 

苦手な上司を唸らせるぐらいのラオ語が話せるようになりたいという、至極不純なモチベーションではありますが、ぼちぼち勉強を続けたいと思います。 

 

情報を発信すること

今はこのnoteとブログとSNSと、色んなとこでお騒がせしてますが、これはずっとずっと続けていきたいと思っています。むしろ、もっと前のめりにやっていきたい。 

 

 

 

ラオスの情報発信、というよりも、自分の感じたこととか、心が動いたときのことを書き留める場所がほしくて、noteをはじめてみたりもした。更新頻度は薄まるけど、アフェリをやっているわけでもないし、いらなかったら消すなりまとめるなりすればいっか、って思って書いてみたら、これが意外に使いやすくて。これぐらいシンプルなUIだと見やすいし綺麗にまとまるんだなと、ひとつ勉強。 

 

 

あっちでもこっちでも色々発信してうるせえやつだ、と思ってもらえてたらいいなって思って書いてます。それぐらい気に留めてもらえたら本望。写真付きで自分の活動やその時の気持ち、考えを振り返るためのポートフォリオ的役割を果たしてくれるものって、あとあと結構大切になったりするんです。

 

カンボジアから日本に戻ったあと、母校2校、母校の付属小学校、カンボジアに研修に来られていた学校と、小学校から大学まで4か所で講演させてもらったのですが、こうやって残していると、スライドすぐできちゃうんですよ。だから大切。ブログ読んで久しぶりに連絡くれる友人も居たりするし、そういう嬉しいフィードバックをモチベーションにしてどんどん書き溜めていきたいなって思ってます。そのために公開してます。 

 

私がラオスのラオ子になる前、カンボジアに住んでいたときは、「カンボジアのボジ子」を運営していました。移住前にくまなく読んでくださった方、「ボジ子に会いたいって言ってるインターンの子がいて~、」と紹介してくださったおかげで友達になれた人をはじめ、いろんな出会いに繋がった場所です。「ラオスのラオ子」も、JICA海外協力隊を目指したい人とか、ラオスに来てみたい人とか、とにかく色んな人に読んでもらえたらなあと思っています。 

 

嬉しい事を100倍喜んで生きようと思った 

 

 

任地ビエンチャン県にやってくる前に、同期隊員の配属先のホアイホンセンターを見学させてもらう機会がありました。そして、今月あった隊員総会の後、数か月ぶりに全員揃ったコミュニティ開発隊員でまたホアイホンセンターを訪れました。 私はその時、初めて自分自身が”すこし”成長できたなと感じることができました。 あの時聞けなかったことが聞けた。それだけなんですけど、でも、それだけのことを自分でちゃんと振り返れたのは、私にとって大きかったんです。

 

 

どこから来たの?一人で住んでるの?いま何歳?織りはどこで習ったの?家族も地元で織りをやっているの?自分の村の織りは、どこ産のどんな素材でやっているの?この柄は誰に教えてもらったの?この色は何の色?原材料はどこから来てるの?色は全部ここで染めたの?シルクの種類は?媒染もやってるの?どうやって媒染液を作ってるの?媒染液は鉄だけ?他の種類は無い?他の媒染液の作り方は知ってる?ラオスで金属媒染ってメジャーなの?あなたの出身の村ではこの染色方法知ってる人は居るの?

 

あの時疑問に思ったけど聞けなかったこと、あの時疑問にすら思わなかったことが、たくさん聴けた。それだけなんですけど、私にとってはめちゃめちゃ嬉しかったんです。 

 

任地に居ると特にそうなんですが、自分が全部悪いんだという一番お手軽な結論のもと考えることを放棄して、ネガティブ沼にずぶずぶ溺れがちです。「古都こと」というマンガのユキチくんみたいに論理的思考で人をぶん殴れるぐらいの人間になれたらと、だいすきな音楽に触れる気にもならずに部屋に引きこもってマンガ読んでただけの休日もありました。(いつも話聞いてくれる同期隊員たち、本当にありがとう・・・) だから、自分のことでも、人のことでも、めちゃめちゃ喜びたい。マイナスなことよりも、そういうことに敏感になれる人間になりたいな。・・・って思いました。そうやってちょっと考えるだけでも何か変わるかな。変われるかな。

 

同僚のシンが可愛い。蒸したてのカオニャオが美味しい。タマフンの辛さがちょうどいい。雨あがりで涼しい。近所の子どもが私の名前を憶えてくれた。なんか、そんなことでいいなって思いました。活動は難しいけど、毎日ちゃんと幸せだ。 

 

泣いても笑っても、あとよんぶんのさん

いつも全力で「売り切れだよ!!」って言ってくれる近所のカオピヤック屋のおっさん、毎日手を振ってくれる果物屋の子どもたち、ほどよい距離感で接してくれる大家のお父さんお母さん、お世話になりっぱなしの配属先、当たり前に会えることが当たり前じゃなくなる日がもうそこまできてるんだなって思うと、1日1日大切に丁寧に生きなきゃ。 ・・・と思うのですが、それは調子いい時の話で。

 

実際のところ「なんやねんコラァーーーーーーーー!!」と言いたくなるときも多々あって。(言いません!)泣きたくなるときもたまにあって。(泣いてません!)

 

 

 

でもそういう日も含めて、あと1年半なんですよね。どう過ごすかは私次第。ちょっとでも楽しく、健康に、そして何か一つでも残せるように活動にも力を入れて、やっていけたらなって思ってます。

というわけで、あと1年半、このうるさいブログとノートにもお付き合いください! 

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ラオスの酵母菌と遊ぶ日々。

サバイディー!

こんにちは、ラオスのラオ子です。途上国ごはんシリーズということで、ラオスでもできた「天然酵母でパン作り」について。

 

もしオーブンがあれば、クープがパカッと開いて、エッジの立ったクープがガバッと開いて、クラストはバリバリ、クラムはじゅわじゅわの理想のパンが焼けるように練習したいところですが、しっかり温度を上げるのは、オーブンが無いとなかなか難しい。

 

 

簡易オーブンを作ってやろうと思って、アルミ鍋の中に網を敷いて空焚きしてみたのですが、1回スイートポテトを作ったら鍋の底に穴があきました。ワロタ。

 

うまくできたら首都で皆で食べるつもりだったのですが、火加減が難しくて、焦げました。ワロタ・・・。

 

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これらはカンボジアで作ってたものなんですけど、こういう「ふわふわの白パン」とか「甘さ控えめのお菓子」とか、やっぱりこっちで食べられないものが食べたくなるんですよね。オーブン、カンボジアで預かってもらってるやつ持ってこようかな・・・。パン、ケーキ、焼きたいなあ・・・。

 

天然酵母を起こしてみた

オーブン問題は現時点ではどうしようもないので、ひとまず今あるもので作れる「パンケーキ」にチャレンジすることに。

 

 

といっても、天然酵母づくりってめんどくさくもなければ難しくもありません。たまに構って放っておくだけで大丈夫なんです。

 

用意するのは、煮沸できるビン、水、はちみつ、紅茶のみ。紅茶についた酵母に水(家)とはちみつ(餌)を与えれば、あとは勝手に増えてくれます。

 

まずはビンを煮沸消毒します。・・・が、そんなに長く継ぐつもり無かったし、開けたての炭酸水の瓶だったので、そこまでしっかり消毒せず使っちゃいました。シンクの中で溢れるまで熱湯注いで5分放置しただけ。

 

 

瓶を冷ましてから、水200ml、茶葉5g、はちみつ10gを入れて、20~30度ぐらいの室温で放置すると、酵母菌にもよりますが2日~3日ほどでこんな風にぶくぶくと泡が出てきます。

 

ポイントは、他の雑菌が湧きやすくなるのであまり高温になるところに放置しない事と、1日1回はビンの蓋やラップを外してふりふりして、空気を入れ替えてあげること。

 

今回は首都のカフェで買った国内産のお茶でやってみましたが、キッチンの気温の高さも手伝ってか2日目にはぶっくぶくになりました。かわいい。

 

3日目には茶葉が浮いて、紅茶リキュールみたいな匂いになってきました。これでもう酵母として使えます。これが「元種」という状態。

 

天然酵母の元種でパンケーキを焼いてみた

強力粉、薄力粉、砂糖、塩に、水、牛乳、卵、酵母液を混ぜたものを加え、なめらかになるまでひたすら混ぜます。最後にオリーブオイルを入れて艶を出して、室温放置

 

 

これが混ぜ終わった直後の生地です。

 

 

そして室温で6時間後。ちょっとお鍋を傾けると、しゅわしゅわと音がします。この気泡を見ても、元気に発酵したのがよく分かりますね。

 

え、卵と牛乳入れて6時間も室温放置すんの・・・?って最初に作ったときは思ったのですが、今のところあたったことはありません。ふしぎ。

 

 

泡をつぶさないようにやさしくすくって、フライパンで焼いていきます。ほんのり紅茶っぽい香りが漂います。

 

 

 

はい、できました!

 

 

メレンゲやベーキングパウダーに比べると高さは出ませんが、中央部分は結構ぷくっと膨らみます。

 

ふわふわ、というよりは、もちっ!じゅわっ!という感じの食感で、砂糖を少なくするとスクランブルエッグやベーコンに合わても美味なクランペット風になります。(全く無くしてしまうと、酵母君が増えるための餌がなくなってしまうので、多少の甘さは必要です。)

 

紅茶酵母の困るところは、紅茶の色自体の色が濃いので、白パンのように焼き色をつけないパンを焼いたりすると色が変になるところと、紅茶の風味、苦味がガツンと出てしまうところ。ずっと水に漬けてあった茶葉からエグみが出るのですが、パンケーキにするとそれがしっかり感じられます。対策としては、シナモンやココアパウダー、ドライフルーツなど、何か香りや味のするものを混ぜ込むといいのかもしれません。で、さっそく思いついてシナモンりんごジャムを作ってみたのですが、一緒に食べたら非常に美味でした。あざっす。

 

天然酵母の中種を起こしてみた

 

元種はどれだけ世話をしても2週間ぐらいで痛みます。ダメになってしまう前に、中種の状態にして冷凍することにしました。

 

といっても、清潔な容器の中で、強力粉と元種を1:1で混ぜるだけ。

 

 

これが混ぜ終わりの様子です。

 

 

夜に1回目を行い、朝まで室温放置して冷蔵庫へ。翌日の夜、これぐらい発酵していました。そして、また同量の強力粉と元種を加えて、室温で一晩発酵させます。

 

 

これが翌朝、二巡目を終えたところ。また冷蔵庫にしまって、夜になったら強力粉と元種を1:1で加えて朝まで室温で発酵させます。元気が無いと感じたら適宜はちみつを少量加えてあげると復活します。同じように3巡目の発酵を終わらせ、いつでもパンケーキを焼ける状態に!!

 

・・・といっても、このまま冷蔵庫に入れておいたら低温発酵がすすんでしまい、中種が傷みます。中種はそのまま冷凍ができると知り、使わない分はそのまま冷凍庫で眠ってもらうことに。

 

天然酵母の中種でパンケーキを焼いてみた

元種で作ったときと比較できるように、ほぼほぼ同じ分量になるようにして中種で発酵させたパンケーキを焼いてみました。

 

 

元種で作った生地よりも短い発酵時間で、ぶっくぶくになりました。これはすごい。か・・・可愛い・・・💛

 

 

焼き上がり。元種で作ったものよりもふわふわ、ふかふかです。

 

 

 

そして焼き上がりはこんな感じ。焼成中のふくらみ方が元種酵母パンケーキよりも強く、高さが出たような気がします。

 

天然酵母の冷凍中種でパンケーキを焼いてみたかった

つぎに、冷凍中種子でパンケーキを焼いてみます。一度冷凍すると酵母の発酵力が弱まるらしいので、「かけ継ぎ」を行いました。はちみつと水、強力粉を加えて、もう1度酵母菌を増やしてあげるのが、かけ継ぎです。中種をかけ継ぐことで、中種の中に住んでいる酵母くんを増やし、元種(酵母液)がなくてもパンを焼き続けることができるらしいです。なんてこった。酵母、可愛すぎか!!!!!!

 

・・・ って思ったいう感じで上手くいく予定でした!

 

ところがどっこい、半日経っても1日経っても酵母くん元気にならず。

 

煮沸消毒してないプラ容器を使ったために他の雑菌が多く繁殖してしまい、酵母くんの力が弱まったんでしょうか。それとも、酵母自体の力が弱いと、かけ継ぎする時に多少元種を入れなければ増えてくれないのか、うーん。なんだろか。

 

トライ&エラーの精神でまたやってみたいと思います。むーなーの(いつかね。)

 

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視察②その4 ビエンカム周辺の生産者さんグループをめぐる

さばいでぃー!

さてさて、4日間の視察レポート最終回です。

 

5月28日

 

5月29日

 

5月29日ー5月30日

 

あちこち訪れてビエンチャン県のシン生産グループを見学する、なかなかハードなスケジュール。今日は30日の「バンビエンからビエンカム(任地)へ」、そして31日のPonhong郡の視察の様子を書いていきたいと思います。

 

 

5月30日 バンビエン市場

前回の記事に書いた「もりもりてんこもりバーガー」を食べた後、私たちはバンビエン郡の産業商業局へと向かい、局長と少しお話させていただきました。

 

そしてバンビエンで一番大きな市場に行き、ハンディクラフト製品やお土産の流通状況を調査。

 

こちらは「モン族」という山岳民族の刺繍です。(下の生地は機械織り)クロスステッチがあまりに細かくて「プリントしてあるんじゃないの?」と思ってしまいますが、全部手仕事です。

 

モン族の人たちの衣装も見つけました。綺麗な細工がついた帽子。この細工もどこかで手作りしているところがあるのかな。

 

 

この派手派手な帽子のクロスステッチも全部手縫い。もう、果てしないわ。本当に、すごいわ。

 

観光の中心部から若干外れるため、お土産物が置いてあるような雰囲気はなく、外国人観光客も見当たりませんでした。(午前中だから余計かもしれませんが)観光局にも話を聞いてみたいなあ。

 

帰り道に立ち寄った”魚の村”

ここはバンビエンとビエンカムの間にある「Taheua(タフア)」という村。大きなODOP商品生産グループがあり、この軒を連ねている店の殆どがODOP認証取得済みです。

 

ODOP商品としては、パデーク(魚醤のような、みそのようなもの)、ソムパー(魚のすっぱいハム)、干し魚や燻製、小魚を揚げたおやつなど、合計7種類が認証を受けています。

 

どのお店も同じように、干し魚・燻製が吊られ、発酵食品がテーブルに並んでいます。

 

「ジェオ」と呼ばれる調味料もたくさん種類がありました。ジェオは「辛み調味料」全般を指し、地域や家庭でそれぞれ色んな味があります。

 

タフアで見学させてもらって、このジャンルの食品に「外国人」が関わるのは、とても難しいと感じました。例えばこのソムパー、外国人向けにお土産にしてほしいと言われても、このままの状態では売ること自体が結構難しい。

 

現地の人向けに、といっても、例えば資材にお金をかけて見た目を綺麗にするにはコストがかかりますし、その「見た目」にコストがかかったものを、普段の食事として食べるラオスの人たちが選ぶのかどうか、と考えてしまいました。

 

食品、医薬品関係が多いビエンチャン県のODOP商品。バナナチップスやポテトチップスなどお土産にしやすいものもある一方で、本当に守っていきたい地域の味をODOP商品として出していくのはかなり難易度が高そうです。

 

この日はお昼すぎに私の家に着き、ほっと一息。往復500キロ弱の長旅は無事終了、翌日の近隣郡視察に向けて情報整理と、体力回復です。忘れないうちに、報告書も書き始めます。なんせたくさん回ったので、このテンションのまま書かないと中身が飛んでいきそう(笑)

 

5月31日 ポンホーン郡の生産者2グループをめぐる

まず初めに回ったのはチェンサワン村のシン生産グループ。約2800人の村人のうち160人がODOP認証を受けた織り手さんです。

 

こちらは3色とも自然の色。下から順に、藍、ラック、そして黄色いのは何かの木だと仰っていましたが、失念・・・。

ちょうど絣を織っている最中で、見せていただくことができました。

 

でました、手織りの絣です。この自然な艶感と柄、どれも手に取ると欲しくなってしまうものばかり。だめだだめだ。抑えろ抑えろ。

 

パービヤン(正装のときに身に付けるスカーフのようなもの)もこんなに鮮やか。金糸はどの村も輸入に頼っており、色は自然染めのものもあればきれいな色を出すために化学薬品をつかったものもあるそうです。

 

チェンサワン村では、村長さんとその奥様(シン生産グループを束ねている)、生産者さんなどたくさんのに招いていただいて、昼食をごちそうになりました。ラープもタケノコスープもポディー(丁度いい)な味加減で、もち米を蒸した主食「カオニャオ」がすすんですすんで・・・。ほんとにあぶない。

 

午後にお邪魔したチョンマニー村の生産グループは、「生産グループ」というよりもう、立派な立派な「会社」でした。織り場の中に所狭しと並べられた機織り機で織り上げられていくのは、金糸・銀糸をふんだんに使った、見たことも無いような美しい布ばかり。

 

織りの模様は今まで見た中で一番細かく、伝統衣装一式のセット(スカート、裾布、パービヤン、襟布)あわせて20万円を超えるものもあるんだそうです。それで買い手がつくほどの立派な会社、そして商品のクオリティ。すばらしいというか、すさまじいというか、とにかく普段見れない貴重なものを見せていただけました。視察というより、社会科見学でした。(笑)

 

ポンミー村の生産グループにもご挨拶

チョンマニーからの帰り、私はすでに何度か足を運んでいるポンミー村にも立ち寄りました。

 

いつお邪魔しても温かく迎えてくださるオーナーさんと、織り手さんたち。

 

私の配属先からも数キロで行けるところなので、活動先としては一番現実的。これから、モノづくりを楽しんでいけたらいいなー。

 

そしてこの日も、早めに夕食を終え、私は報告書や自分用のメモ、ブログの作成、そして同期隊員は商品作りで使うパーツをひたすら調べまくる、という有意義な時間を過ごしました。

 

まとめ:視察は同じ職種の人に同行してもらうの最高

そんなわけで、私たちの長い長い4日間の視察行脚、無事終了いたしました。その中で感じたのが、今後も視察はできれば同じような職種の人に同行してもらうのが良いということ。県や配属先は違っても、共通の課題や異なるバックグラウンドを持つJOCVの仲間に一緒に来てもらうことで、1回の視察で入ってくる情報量が2倍にも3倍にもなります。自分ひとりで訪問させてもらった第1回の視察よりも、圧倒的に有意義な時間でした。

 

 

今回同行願ったのは首都のホアイホンセンターに配属されている「デザイン」の職種の隊員ですが、私には無い視点からのフィードバックをこれでもかとくれました。

 

それに、レンタカー代や宿泊費も、1人増えたところで変わらないわけですし、そうであれば一緒に行かないと損だな、とも。

 

何より、自分は局の人や現地の人とのやりとりや調査票、撮影などのデータ集めに時間をつかってしまい、いっぱいいっぱいになる中、しっかりじっくり視察して情報を集め、アイデア出ししてもらえる存在が居るのは本当にありがたかったです。

 

遠いところありがとう!

 

そして翌日、小休憩 

その翌日の土曜日。隣の郡で活動している、唯一の同じ県の先輩隊員を尋ねました。同じナムグム川沿いですが私の任地よりも少し首都寄りで、乗り合いタクシーで行けば往復120円ぐらいで行けるところです。

 

こっちにきて何気に初めての「シンダート」をいただきました。空心菜、しそっぽい葉っぱ、名の知らぬハーブたちを鍋周辺の溝で茹でながら、真ん中の山になっている部分でお肉を焼いて食べるスタイルです。

 

カンボジアにも「カンボジアBBQ」と呼ばれる全く同じような食べ方の鍋料理がありますが、卵に絡めた肉をバターで焼いて食べてたイメージがあって、ラオスのシンダートのほうが「鍋」っぽいかも。こりこりとした食感の乳腺の部分が大変美味しく、付け合わせの軟骨の唐揚げもお持ち帰りしたいぐらい美味しかったです(笑)

 

こんだけ食べてひとり500円ぐらい。コスパ良すぎる~!バンクン、良き~~~~!

 

・・・と、病み上がりのアメーバアラサーは、視察と遊びで満喫し尽くした1週間を乗り越え、この翌日の日曜日は午前中泥のように眠り、その後鬼のように報告書を書いたのでした。

 

おまけ

今回の出張で私の家に連れて帰ってきた布たちをご紹介します。

 

青のシンに合わせて欲しいと思っていたパービヤン(スカーフ)。肩に斜めに掛けて使います。こちら初日に訪れたNapho村のもの。

 

同じNapho村のシン。柄が入っている部分が裾布、その上の赤い布が撒きスカートです。こういう暖色系がとにかく好きです、大好物です。これで4000円弱ぐらい。手縫いのシルクが、4000円弱です・・・。なんてこと。

 

そしてこちらはChensavang村のシン。普段履き用に。

 

日本に帰ったら着れなくなるから、今のうちに着たいもの買っていっぱい着るんだ~~~!!

 

って思ったあとに、日本でもラフに着れるデザインのシンを使った服を作れたら最高だなって思ったので、ホアイホンの同期に無茶ぶりしてみたいと思います。よろしく~!

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視察②その1 生産グループ出張に行ってきます!

さばいでぃー!

みなさんこんにちは、ラオスのラオ子です。5月27日から6月1日まで、首都の同期隊員が任地ビエンカムを訪れてくれています。目的は、タイトル通り生産者さんの視察とお土産屋さん調査です。

 

 

実をいうと、アメーバにかかってから1週間以上経ってもまだ胃腸は本調子ではなく、胃がむかむかする感じが残ったままだったのですが(数日絶食状態だったから、そりゃそうか・・・)、早く活動したい気持ちが圧勝して計画通りすすめてしまいました。本当に、ヤツ、なかなか強敵です。ずっと引きずります。気を付けましょう。気を付けようがないけど。

 

視察のスケジュール

5月28日 ビエンカムからMaed郡に移動、郡内視察(Maed郡泊)

5月29日 Maed郡Napho村織物生産グループ訪問、バンビエンに移動(バンビエン泊)

5月30日 バンビエンのお土産屋さん視察、ビエンカムへ

5月31日 ポンホーン郡内の織物生産グループ2グループを視察

 

というスケジュールですが、多分このブログを読んで下さっている方のほとんどが「どこ?」という感じだと思うので、地図で示してみました。

 

 

青いピンが3本立っている少し下についている◎が首都ビエンチャンです。

 

上のピンの一番下、Toulakhomという場所の近くが私の活動場所で、初日に行くMaed郡Napho村は地図左上のピンのあたり(らしいけど、本当かなあ・・・)、そしてバンビエンは右上のピンのあたりです。Phonhong郡は、私の任地の左上なので、日帰りで2か所見学に行きます。

 

旅行が好きな方は「バックパッカーの聖地」としても知られるバンビエンのことはご存知かもしれません。私の任地からNapho村へは約230km、Napho村からバンビエンへは130m、そして任地へ100kmと、往復460kmの道のりです。

視察の目的

今回の視察の目的はただひとつ、「シン(ラオススカート)」の生産者さんに会い、情報収集を行うことです。本来であれば自分で一度足を運んで情報収集した上で同期隊員に来てもらうのが正攻法かなと思ったのですが、あまりに遠く費用も掛かる場所なので、初視察に同行してもらうことになりました。

自分だけだと調査票の質問をして見学をして、と色々する余裕が無いので、デザインや作業工程を見てくれる人がもう一人居てくれると、1回の見学で得られる情報量が増えて助かります。本当にありがてぇ・・・。

 

視察の準備

先輩隊員の質問シートや過去の専門家さんの報告書を参考に、どんな情報を蓄積すれば後々の活動に役立てられるか考えて質問シートver.1を作り、いざ!

 

・・・というわけにはいかず、まず費用を配属先・JICAがどれだけ負担するかという話し合いに始まり、スケジュールの確定、企画書、申請・・・と、配属先にもJICAにもいろいろな書類作成が必要となります。

そして、私が配属されている「ビエンチャン県産業商業局」から、各郡の役所に訪問のレターを出してもらい、郡職員にも同行してもらうため、カウンターパートの助けがなければとてもじゃありませんが行けません。自分の企業向け研修の準備もありかなり大変な中、ありがとう、Sさん。どうやってお返しすればよいか。

 

いってきます!

というわけで、まずは明日から2泊3日で、Napho村とバンビエンに行って参ります。良いレポートが出来るように情報収集に励みます。

 

最近書いたノート

ぶつぶつつぶやいてます。

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人生2度目のアメーバ赤痢で入院した話

さばいでぃー!

みなさんこんにちは、ラオスのラオ子です。タイトル通り、入院してきました。というか、現在進行形で入院中です。日本ではもう聞かない「アメーバ赤痢」という病気にかかり現在入院2日目なわけですが、途上国で病気になったらこんな感じ!という事をお伝えするために、病院での生々しい体験などあえて書いてみようと思います。ただ、いかんせんアメーバ赤痢の話ですので、どう頑張っても内容が・・・。お食事されてる方は回れ右してお帰りください(笑)

 

5月16日お昼 謎の吐き気。

朝、いつも通り配属先に行って、ランチタイムまでは「なんかお腹がころころするな~」って感じる程度で、大きな異変を感じずに活動。ランチタイムに皆でカオピヤックを食べに行きました。普段ならすぐ食べ終わるんですが、なんか食が進まないというか、食べてるときにちょっとえづくような感覚があるというか。この日食べたカオピヤック、めちゃめちゃ胡椒が効いていたので、それでいつもみたいにすすれないのかなぁと思いながら、少しずつ食べて、なんとか完食。皆に「ラオ子、全然すすまないね!どうしたの?美味しくない?体調悪い?」と聞かれました。

 

 

その後、配属先から7kmほどのところにあるカフェで皆で一服。コーヒーは普通に飲めました。ああ、幸せ。でも、お腹が落ち着かないというか、つっかえる感じというか。いつもみたいに美味しく飲めませんでした。

 

そして事務所に戻って午後の活動・・・と思ったのですが、猛烈な腹痛に襲われたため、バイクで自力で帰れるうちに、と、早めに帰らせてもらうことに。

 

家に帰って熱を計ると、37.5度ぐらい。数日前に何日か微熱を出していたので、ちょっとぶり返したかな?と思って、水分をとってそのまま少し寝ました。

 

5月16日夕方 悪寒、高熱

夕方ごろ、体ががくがく震えて目を覚ました。なんだこの寒気は。そして熱を計ったら38度を超えていました。私の任地はマラリアを媒介する蚊が居ないところだと聞いていたので、ここで疑ったのは、食中毒とデング出血熱です。カンボジアに居るときにアメーバ赤痢を経験済みなのですが、あの時は一番最初に激しい下痢嘔吐が続いて、その後熱が上がって衰弱したので、アメーバ赤痢はもっとハードだった印象がありました。なので、ライトな食あたりかなと思い、布団をかぶって、刺しこむような下腹部の痛みに脂汗を滲ませながらひたすら耐えました。気を紛らわすためにアマゾンプライムでドキュメンタルを見ていたら、いつのまにか寝落ち。数時間そのまま眠りました。

 

5月16日夜 悪寒、高熱、関節痛、下痢

ん??インフルかな??と思うような体の節々の痛みで目が覚めました。ヘルニア持ちだからか分かりませんが、高熱が出ると、寝返りが打てないぐらい腰が痛くなります。そして、体に布がさわっているだけでぞわぞわして気持ち悪いぐらいの悪寒。熱は39度を超え、吐き気や嘔吐は全く無いのですが、激しく下し始めました。

 

これはまずいな、と思い、健康管理員さんに相談。翌朝近くの病院でマラリアとデング出血熱の血液検査を受けることになりました。とりあえず解熱のためにアセトアミノフェンを飲むよう指示をもらい、電話を切った直後の20時すぎと、日付がかわったころに500mlを1錠ずつ服薬。同僚に連絡して、翌朝病院に連れて行ってもらう約束をしました。

 

解熱剤を飲んでも熱は下がらず、むしろその後39.4度まであがりました。そして悪寒と関節痛もどんどんひどくなり、体が寒気で勝手にガタガタ震えるけど震えるたびに関節が痛いという悲しいループ始まりました。

 

多分、朝までに20回以上トイレに立てこもったと思います。もう、トイレで寝たらいいのでは?と思い始めました。でもこの腰痛と高熱では起きていられません。

 

明け方になると熱は37度台まで下がりましたが、腹痛は依然収まる様子がありません。血便っぽくなりだしたときにはさすがにヤバいと思って色々調べましたが、内容が頭に入ってこず。これでもう一度熱が上がったらデング出血熱の可能性が上がることと、もしデングだったら2回目以降は重症化するからここでの生活の危険度がいっきに増すことを知って、絶望。

 

5月17日朝 病院へ。

寝ている間にかなり発汗したらしく、起きたときには寝間着がじっとり濡れていました。おかげで熱も37度前半まで下がり、ちょっとすっきりしています。しかし腹痛と下痢は収まらず、昨日の昼のカオピヤック以降まともに何も食べていないので、ふらふらと視界が揺れます。念のため入院セットをつくって家に置いておき、同僚の車で病院に向かいました。

 

迎えに来てくれた同僚に、車の中で「デングかマラリアにかかっていないか、血液検査してほしい。もしどちらかだったらすぐにJICAの車が迎えにきてくれるので首都に入院しに行く。そうでなかったらきっと食中毒なので家に帰って療養する。」と話したところ、きちんと伝わったので、病院に着いてから同じように看護師にも説明し、同僚からも説明してくてました。

 

しかし、特定の医師や看護師から問診をされることはなく、きちんと情報共有がされているのか不安に感じました。それを確認する間もなく、さっき話した人ととは違う看護師さんから採血されます。「デングとマラリアをチェックしてね」と何度も何度も確認しながら、採血が終わりました。

 

そして、車いすに乗せられて、何故かエコー室へ。診察台にのせられて下腹部にエコーをあてられましたが、先生いわく「何も食べてないから見たいものが映らない!水をたくさん飲んでおしっこをしたくなったら出直して!」とのこと。

 

まてまてぇい!!こっちはもう一晩中下しとんねん。飲んでも尿にはならんわ!!と思い、看護師に伝えましたが、無常にも同僚が買ってきた1.5リットルの水が目の前にドンっと2本置かれます。

 

「ラオ子!飲めるだけ飲んで!」

 

ここから、地獄が始まりました。

 

5月17日 朝10時 拷問スタート

「11時にはエコーの先生休憩に入っちゃうから、早く水飲んで!!」

 

「ラオ子!私も仕事があるから早くして!」

 

ちょっと待って、私な、一晩くだしまくってて、体弱ってんねんか。言うたよな。・・・と思いながら、飲めるだけ飲む。飲んでエコーして帰れるなら飲む。飲めって言われるから飲む。そして500mlぐらい頑張ったところで、猛烈な吐き気に襲われ、お腹がキリキリと痛む。そりゃそうですよね、お腹くだしてる時にミネラルウォーターいっきなんて、お腹痛くなるに決まってますよね。

 

「ラオ子、お腹いたいの?よし、エコー室いこ!」

 

と、私が座っている車いすが動き出します。え、待って待って、行き先そっちちゃう!!と思うのですが、もう全く声も出ないぐらいお腹が痛くて、ひたすら蹲っているとまたさっきのエコー室に着きました。

 

そして診察台に乗せられ、服をめくってお腹を出し、「先生すぐ来るからね」と言われてそのまま待機。エアコンの直風を受けながら、待機。待てど暮らせど、先生来ない。刺しこむような腹痛に脂汗が止まりません。10分後ぐらいに限界がきて、「もう無理、トイレ!!」というと、呆れながらトイレに連れていかれます。「またエコーできなかったよ!トイレだって!トイレ!先生待てないんだって!!」と患者さんがたくさん居る中看護師同士で話しています。なんの辱めだこれは。

 

そして外来に戻され、また目の前に水が置かれます。「もうエコーいい、絶対ただの食中毒だから帰らせて」と言いましたが、「もう先に精算してるから!」とのこと。問診もされてない、診察室にも入ってない、誰も私のカルテ持ってないのに、誰情報の、誰判断で、その精算をしたのか???私には一生分からないことです。分からなくて、いいです。早く帰れたらそれでいい。水を飲もう。

 

ここから、水→エコー未遂→トイレを、水2リットル分繰り返しました。最初は500ml頑張って飲みましたが、当然スパンはどんどん短くなっていきます。トイレ行きを4回繰り返したころには、口に水を含んだだけで条件反射で下腹部に激痛が走ります。

 

そして私は、「体が受け付けないミネラルウォーターを2リットル分、一気飲みしてはトイレに行く」という行為を1時間ほど強制された結果、下腹部の激痛がピークに達し、話もできないぐらいぐったりと衰弱して、そのまま入院することになりました。2リットルで大げさやろと思う人、食中毒で高熱出して下した翌日にやってみてください。是非!

 

処置室で、入院する個室の掃除を待っている間、それまで遠くで見ていた婦長さんらしき人に「何でそんなに水飲んですぐお腹いたくなるの?」と聞かれ、「いや、私何回も言ってるけど、昨日の夜からずっと下してるんですよ」と言うと、「あ、そうだったの~!知らなかったわ~!じゃあ痛み止め打って、点滴しましょうね。多分アメーバ赤痢だわ」と。

 

・・・。

 

なんかもう、次からは、病状をシャツにでも書いて誰が見ても分かるようにしないとダメだなって思いました。そして、何の痛み止めを打ったのかは未だに分かりませんが、左尻の上のあたりに昨晩からの腹痛を軽く超える痛さの注射を打たれました。あの・・・なんの注射打ったんですか?

 

もう、何もかも、意味がわからない。病室に移動しながら「トイレどんなかんじ?」と聞かれたので、「緑色やった」と言うと、「水の飲み過ぎよ!」と言われました。

 

―言葉にならず、一筋の涙がこぼれました。

 

私も、そう思う。

 

だって、めっちゃ飲んだもん。ここで。

 

5月17日お昼前 病室でゴネる

 

ラオスでは、入院患者のお世話は基本的に家族が行います。カンボジアもそうだったな。私には、お世話をしてくれる人はもちろん居ないので、入れ代わり立ち代わり、局の人たちが気を遣ってお見舞いに来てくれます。みんな、やさしい。

 

お昼ご飯に持ってきてくれたのは、ご飯、醤油、豚肉を乾燥させて細かく裂いた綿みたいなやつ、黒ゴマ豆乳、バターケーキ、パン1斤。・・・ごめん、ごめんなさい、でもね、どれも食べられない・・・。食欲は昨日の昼から無かったし、午前中の水攻めで心も体もやられてしまって、口にモノを入れられる状態ではなくなっていたのです。それでも、来る人来る人、「食べろ!食べないから治らない!」「いつも朝ごはん食べてないんだろ?だから胃が痛いんだ!」「食べないと先生がくれた薬が飲めないだろ!」と、色々心配してくれます。・・・そんなに健康のこと気遣ってくれるなら、アルコール強制するのやめてほしいなぁ・・・と、心の中でつっこみながら、「そうだねー」と精いっぱい笑顔で相槌を打ちます。気持ちは嬉しいし、差し入れもありがたいけど、本当にどれも食べれませんでした。体が受け付けませんでした。

 

それからお医者さんがくれた薬、アセトアミノフェン500mgを食後に2錠。日本での1回の最高投与量も、1000mg。私のその時の熱、37度前半。え、要る?そんなに要る???もう、何も信じられない。何もかも疑いを持ってしまう。

 

そしてぽろっと口から出た言葉、

 

「入院したくない、家に帰りたい。」

 

局の人たちには顔を見合わせて、みんなで猛反対。「ダメ!ラオ子に何かあっても家に一人だったら分からないでしょう」と。でも、入れ代わり立ち代わり色んな人が来てくれたら、落ち着けない。来てくれたら挨拶して、病状話して、帰るときはもちろんお礼言って、寝てる間もフラッシュたいて写真とられたり、個室の中でずっと誰かとボイスメッセージしてたりして、全く眠れない。個室内にあるトイレにも行きにくい。気が休まらないし、一人にしてほしい。(本音)自分でお粥を炊いて、母手製の梅干しを乗せて、食べれるだけ食べて、寝れるだけ寝て・・・って、自分のペースで治したい。ごめんなさい、高熱出して、一晩中下して、朝から2リットル水飲まされて、それでいて皆の優しさや文化を全て受け止める余裕は、今の私には、ありません・・・。

 

「デングかマラリアじゃないことが分かったら多分ただの食あたりだから。体が弱ってるときは日本のごはんが食べたいの。皆忙しいのに来てもらったら申し訳ないし、一人で夜ここに居るのは不便だし、バイクで来てないから帰りも大変だし、入院するなら首都だと思ってたから財布と携帯しか持ってきてないし、お願いだから帰らせて」と私も譲りません。看護師を呼んでの話し合いになりましたが、看護師も「全然食べられてないし、緑色の便しか出てないっていうし、血液検査の数値も良くないし、抗生剤打たないとダメよ。かなり弱ってるし家で一人で居るのは危ないわ」と。

 

緑の便しか出てないのも、かなり弱ってるように見えるのも、午前中に水飲まされすぎたせいやで。

 

と心の中でつっこみました。お腹下してるとあれだけ言ったのに全く共有される気配もなく投薬されるのも怖いし、ここに居たら体も心も休まらないし、絶対に譲らない!と私は戦う姿勢です。そして頑なに、「私は日本で薬を売る資格を持ってる専門家なの!(登録販売者だけどね)血液検査の結果さえわかれば自分で治せるから、帰る!家にたくさん薬もあるし、日本から持ってきた自分に合う薬が飲みたい。それに、日本の料理が食べたい!病気の時は日本のものが食べたいの!」と、みんなが絶対に叶えることのできない我が儘を言い続けました。

 

いよいよ困った上司が、JICA事務所に連絡。「ラオ子が帰ると聞かないが、かなり弱っている様子で、でも入院するにしても付き添える人が居ないのも確かだから、首都に連れて行っていいか」ということを話してくれたようでした。

 

時を同じくして、血液検査の結果を健康管理員さんに送って状況説明をしたところ、きちんとした検査、治療、そして療養が必要だと判断されたため、私は打ち始めたばかりの点滴を抜かれてそのまま局の車で上京することになりました。

 

「行く前にご飯食べなさい!」「いやいや、首都までの道中で急にお腹痛くなったら嫌だから!」「だめよ、ご飯食べないと元気にならないでしょう!」「2時間もガマンできんし、途中何もないやん!!首都行ったら食べるから!!」と、最後まで小競り合いして、病院を後にしました。みんな、心配してくれてありがとう。けど、病人の時は、「日本式」「私式」でいかせてください・・・。

 

5月17日夕方 首都の病院へ

首都のタイ系のクリニックに着くとすぐにお医者さんからの問診を受けました。そして、血液検査、検便と、トントン拍子で進んでいきます。・・・というのは全部JICAの健康管理員さんが付き添ってくださったおかげ。前日から相談させていただいたこともあり、午前中の病院での診察や投薬の状況も全て先生に説明してくださって、私はただ腹を押さえて「ちぇっぷとん(お腹痛い)」と言っていただけ。ありがてえ・・・・と噛みしめていると、「アメーバ赤痢」との診断結果が出て、そのまま入院することになりました。

 

 私の部屋のベッドがラブリーだと言うのは以前もお伝えしましたが、なんの因果か私が入院することになった部屋も相当ラブリーでした。スティッチに、アナ雪に、プーさんに、スヌーピー。とにかく情報過多。コンテンツ過多。部屋に撮影禁止の張り紙があったので写真は控えます。想像力を働かせてください。

 

入院が決まったのが夕方だったため、この日はもう夕食の用意ができないと言われましたが、何も食べたいと思わなかったので了承しました。その後、おかゆだけ少し持ってきてくれたので、薬を飲むために少し食べようと思って口にしたら、あっという間に全部なくなって、そしてすぐさまお腹が痛くなりました。回復にはまだまだ時間がかかる。

 

5月18日 入院2日目

 ごはんは自分で決めることができるので、朝ごはんには一番ライトそうな豚肉のおかゆをチョイスしてみました。ほんの一瞬、アーモンドクロワッサンとバタークロワッサンのセットに目がいきましたが、入院2日目の朝はこれを頼めるぐらい回復するぞと心に誓っておかゆにしました。

 

お昼は揚げ豚のおかゆ、夜はカオマンガイと、徐々に回復していきます。「カオマンガイが大丈夫なら、スパゲッティカルボナーラに変更していい?」と聞いたら、「いや、だめ(笑)」と断られました。しっかりしてる。(出てきても多分食べられないけど食欲だけはある)

 

思えばこれ、人生4度目の入院。人生初の入院はカンボジア、この時もアメーバ赤痢。2回目もカンボジア、インフルエンザ。3回目は訓練が始まる少し前、全身麻酔で4本とも親知らずを抜歯しました。(4本いっきは本当におすすめしません。抜く必要があると分かっている人は、時間がある学生のうちに抜きましょう)

 

同じように今回も、発病して、検査を受け、点滴を打ちながら部屋でぼーっと回復を待つだけなんですが、今回違ったのは、人生初の「お見舞いに来てもらう」という体験ができた(?)ことです。首都隊員の同期がお見舞いにきてくれて、元気貰えたし、本当に嬉しかった。休みの日にわざわざありがとう・・・!

 

そして今

平熱に戻り、悪寒も倦怠感も関節痛も治りました。あとはお腹の調子さえ戻ってくれれば完全復帰です。明日の朝もう一度検査して、アメーバさんが居なくなっていたら退院、やさしいご飯から徐々にならして元の生活に戻れることでしょう・・・。アメーバは潜伏期間が長いので何であたったか特定するのは不可能で、気を付けようがないのも現状です。またいつやってくるか分からない。怖い。

 

数年前、カンボジアでお世話になっていた病院も、タイの先生の病院でした。日本人通訳さんが居て下さったし、そうでない時でも英語が通じるので、不便と感じたことはありません。ただ、カンボジアの超ローカル病院で会社の健康診断を受けたときに、病院の様子を見て「こりゃすごい」と思ってはいたのですが、まさか自分もそういう所でお世話になることになるなんて・・・。それがまさかこんなにもスパイシーな経験に繋がるなんて思ってもいなかったので、まだまだ覚悟(?)が足りなかったなあと思いました。私はまだ首都まで2~3時間であがってこれますが、そうではない隊員はもっとハードな経験をすることでしょう。みんな、体調には本当に気を付けよう。

 

また、今回は、おかしいと思った時点で健康管理員さんに相談させてもらったことで、検査項目の指示を受けてから病院に行けたり、点滴や薬の写真、検査結果などを全て写真に残しておいたおかげで、自分が何を投薬されてどういった治療を受けたのかなど詳しく聞けました。次回から(次回とか無いほうがいいんだけど)は異変を感じたら首都に上がって安心できる病院で治療を受ける、そのための体力を残す(悪化するまで無理しない)、をまず第1目標に、それでも何かあったときは早めの相談・写真を残すことを忘れず、健康管理に努めたいと思いました・・。

 

一番怖いのは、最近届いた「バイク」です。実際任地に来てから何度か事故を見ているのですが、けがをした時に運ばれる場所は間違いなく最初に行った病院なので、事故など絶対に起こさぬように、ゆっくりと、余裕を持って、走りたいと思います。・・・もう、病院にお世話にならず、健康で日本に帰るために。