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新婚旅行に行ってきました【ラオス編】

さばいでぃー!

みなさんこんにちは、ラオスのラオ子です。

前回の記事に引き続きまして、今日は新婚旅行ラオス編を書いていきたいと思います。

タイ編(済)
1月27日 夕方に日本発→28日夜中バンコク着
28日 アユタヤ観光
29日 メークロン市場観光
30日 バンコク市内観光、寝台特急でノーンカーイへ

ラオス編(この記事)
31日 朝6時ノーンカーイ着、鉄道でメコン川を渡りラオスへ
2月1日 ビエンチャン市内観光
2日 村で結婚式
3日 配属先やカウンターパートをまわりビエンチャンへ
4日 ラオス中国鉄道でルアンパバーンへ
5日 ルアンパバーン市内観光
6日 飛行機でハノイへ

ベトナム編(多分写真貼って終わる)
7日 ハノイ市内観光
8日 ハノイ市内観光、深夜便で日本へ
9日 朝に日本着

こんな感じでお届けしていく予定です。ラオスはJICA青年海外協力隊として活動した場所で、この3か国の中でも特別思い入れがあり、そして現地の人たちや現地で頑張っている隊員さんやOVたちと、濃い~~~時間を過ごしてきました。そんなところも書いていけたらと思います。

では、どうぞ!

ラオス1日目:陸路で入国、市内観光

前日の夜8時半ごろ、バンコクのクルンテープアピワット中央駅から寝台特急に乗りこみ、真っ白でシワのないシーツが敷かれたフルフラットの席に気持ちよく寝転がりました。発車後しばらくは、タイ撮影分のデータのバックアップを取って過ごそうと、久しぶりにPCを開きましたが、如何せん電波が悪くずっと3G。それでいてぶつぶつ切れてしまい、Lightroomもまともに使えなかっために、特にすることがなくなってしまいました。Spotifyも使えなくなるし、、、なんでもオンラインやクラウドで済ませるのも考え物ですね。

あー退屈だなあとスマホを触ろうにも電波がない。スマホに入っている書籍は読み飽きた。ギガめちゃめちゃ余ってるのにバックアップできひんの勿体ないなー…そういえば、タイ語の教科書、行きの飛行機以来1回も開かんかった…なあ….. なんて思っているうちに、いつしか眠りについていました。ありがたいことに、周りの乗客も静かだったため、蒸気でホットアイマスクを出すまでもなく爆睡です。

「Miss, 起きて」とやさしくカーテンを揺らされて起きると、まわりの乗客のフラットシートはすでに畳まれ、丸まったシーツと枕がそこらに転がっていました。

まだノンカイまでは時間がありそうだったので、眠い目を擦りながら最低限の化粧をして、最後のタイの景色を楽しみます。

約10時間の電車の旅は本当に快適でした。体が痛くなることもなく、トイレもわりかし綺麗なほうで、この値段でこのクオリティならケチのつけようがありません。ちなみにバンコクからノーンカーイまでは、寝台車の下のほうの席でひとり999B。1バーツは3.9円前後なので、タイバーツは4をかけたら日本円になります。

さて、ノーンカーイ到着後は、早朝の寒さに震えながらラオス側に渡る電車を待ちます。「7時にイミグレが開くからもう少しここで待っていなさい」と駅員さんが教えてくれました。しばらくすると、開いたのはラオスからのアライバル側のイミグレ。しかしそこに居るのはラオスに向かう人のみ。大切なのはパスポートにスタンプをもらう事だからね、どっちのカウンターを使うかなんてどうだっていいよね。マイペンライ(タイ語で「大丈夫」)でボーペンニャン(ラオス語で「大丈夫」)なこのゆるゆる感がなんともいえず。

「なんで日本人なのにラオ語を喋るんだ?」「なんで日本人なのにイサーン語(タイ北部の、ラオ族の人たちが話す方言)をしゃべるんだ?」と言われるのも、おそらくこのイミグレが最後です。タイの人たち、私のほぼラオ語のナンチャッテてへぺろ残念タイ語を聞きとってくれてありがとうございました。いつかは「タイ語が上手だね」って言ってもらえるように頑張ります。

そうそう。アユタヤについた時、トイレットペーパーを買っておこうと思って商店に行き、店のおじさんに「チアアナマイ、ミーマイカ?」と聞いてみたのですが、「わからん」「なんのことや」という顔のあと、生理用品を持ってきてくれるということがありました。先に画像を見せたらよかったのですがもう一押し試みて、「ティッス↑ゥ↓ホンナム」でようやく伝わり、それでもロールタイプでなく箱型のものを持ってきてくれたので、最終的に画像を見せてロールタイプを持ってきてもらいました。

タイ語でトイレットペーパーは「クロダ チャムラ」。チャムラはあとから調べたら「支払う、綺麗にする」とか色々な意味があります。タイ語やラオ語は共通して、被修飾語が先に来るという性質があります。「クロダ」が「紙」という意味ですので、「綺麗にする紙」で「トイレットペーパー」になるのです。

わたしはこの「クロダ」に聞き覚えがありました。10年前に住んでいたカンボジアで同じ単語が使われていたからです。「プカークロダ」は、「プカー(花)」+「クロダ(紙)」で「紙の花」、ブーゲンビリアのことを指します。動詞などの基本的な1音節語だけで見るとカンボジア語とタイ語は遠い親戚、タイ語とラオ語は兄弟みたいな距離感かなと感じていますが、サンスクリット語からきている言葉は割と共通している部分が多いので、カンボジア語の習得にもじりじり近づいていけると信じてタイ語の勉強をしてみたいと思います。

話が逸れましたが、無事にノーンカーイを出発した電車は、静かに静かにまっすぐな線路をすすみ、メコン川を渡りました。橋を渡っている途中、タイの国旗が等間隔にたてられているのですが、それが1本だけ黄色い旗になり、そのあとラオスの旗に変わります。それが国境を越えた証。赤白青、同じ配色で作られた国旗ですが、それがラオスの国旗になった瞬間、「ただいま」と胸が高鳴ります。

ラオスに!10か月ぶりに!かえってキターーーーー!

ラオス!ラオス!ラオス!ラオス!!!

ラオス側のターナレーン駅から首都ビエンチャンの中心部までは、乗り合いバンで向かいます。しかし、乗り合いバンに乗り合ってくれる外国人が一人もいなかったため、全額わたしたちで負担することに。その額600バーツ。正直「高い!!」と思ったのですが、この場に一人しか居ないドライバーの言い値に高いだのなんだのケチをつけるのも野暮だと思い、交渉は特にせずバンに乗り込みます。聞けば、ラオスのガソリンは今や20000KIP越え。わたしが居たころ10000KIP前後だったことを思い出し戦慄しました。レートで見ても、生活費をドル支給してもらっていた隊員時代は1ドル=9000キープを超えたらうきうきしながら多めに現地通貨に変えていましたが、私が知るなかでは、再赴任されたころの街中両替所で1ドル=17500キープまであがっていました。

そりゃ物価もあがるわけだし、この人だって600B欲しいに決まってる。私だったら700バーツ欲しい。

その後私たちは、タートダム近くのおいしいカオピヤックを食べ、大使館近くのおいしい日本食レストランで久しぶりの日本の味に昇天し、タートルアンでお参り・・・と、THE☆観光客なコースでビエンチャン市内を散策しました。

昼から、ずっといきたかった「Lily Spa」にハーバルボールマッサージを受けに行ってきたのですが、お値段は他に比べれば高いものの、その期待値をはるかに超えてくる素晴らしいサービスと技術でした。タイでは連日、重いリュックを担いで歩きっぱなし。実は、タイを去る日にも街中スパでハーバルボールを受けてきたのですが、ダチョウ倶楽部かよっていうぐらい「あちあちあちあち!!!」とリアクションさせられ、リラックスどころではありませんでした。ガーゼに薬草をパンッパンに包んで蒸したものを体にじんわりと押し当てるのですが、びちゃびちゃのハーバルボールから熱湯がジュワッとあふれ出してくるのです。がんもを直置きされている感じです。私は膝裏を見事に負傷し、あせものようなブツブツが大量にできてしまいました。平たく言うと火傷です。そんな平均以下の施術の翌日ということもあったせいか、余計にクオリティが高く感じられました。ああー、幸せだったなあ。とろけるような1時間半でした。これからは、他の費用をケチッてでも、ラオス行くたびに行くと思います。

夜は、ずっと会いたかった現役隊員さんとナダオでフレンチ。私が10か月前ラオスを去るときに、活動が軌道に乗り始めていた彼女は、ゴールを目前に最後のラオス生活を噛みしめているところでした。貴重な残りのラオス時間で会ってくれてありがとう!

まだまだがらんとしたビエンチャンですが、それでも渦中だったあのころと比べればずいぶんと活気が戻りました。1年前のビエンチャンは、ワットインペン前のバス通りを夜一人で歩くのも怖いぐらいでしたが、川沿いのナイトマーケットも再開され、Angoさんの前の通りは端から端まで屋台が並ぶ歩行者天国、おかず横丁も人でにぎわっていて、アフターコロナの中でふんばっている様子が垣間見えました。

ラオス2日目:結婚式後撮り、市内観光

ラオス2日目、午前中は結婚式の後撮り。ラオスの民族衣装を着ての撮影で、ヘアメイク+衣装+撮影1,000,000KIPでした。8000円弱でこんな体験ができるなんて、ラオス最高。

このときでないと絶対に着れない色がいい!という強い思いがあったので、金色を選びました。以前参加したラオス人の友人の結婚式で、花婿と花嫁が全身金色の衣装を着ていたからです。

夫は出演NGなのでソロショットを…。着つけてくれたお姉さんによると、このシンはアルアンパバーンスタイルだそうで、織りの上に立体的な刺繍が施されています。実物を見るととても高価に見えます。

印刷は要らないからデータだけちょうだいと伝えると、それならもう取りに来てもらう必要もないから、Whatsappだけ教えて~と言われて連絡先を交換。夕方ごろに「できたよ~」というメッセージと共にGoogle Driveの共有リンクが届きました。なんという簡単受け取り。開いてみると80枚の写真が。

日本人は良い人多いから撮影楽しいわ~といいながら色んなポーズを指示してくれたクールなお兄さん、「じゃあ最後にフリーポーズで」と言ってくれたので夫が持っていた短剣を鞘から抜き、上段の構えで夫に切りかかるポーズを撮ったのですが、その時ばかりはケラケラ笑っていました。うけてよかった。

すっかりお腹がすいた私たちはJICA事務所近くのおいしいカオマンガイを食べ、ビエンチャンで一番渋くて好きな寺「ワットシーサケ」、バーシーしている様子が見られる「ワットシームアン」、そしてコロナのせいで数年間「カミングスーン」だった待望のスターバックス1号店へとひたすら歩きました。

スターバックスでデミタスカップとベアリスタを買う予定だったのですが、デミタスカップが売り切れで普通のマグに。か、かさばるー!ですが、接客はさすがといったところで、タイで数年OJT受けてきたかな?と思うぐらいスムーズなオペレーションでした。7か月だけ働いたナンチャッテスタババイトの私など足元にも及びません。

その後は、お土産屋さんやショッピングモールをだらだらとまわりながら、煙がのぼりはじめたおかず横丁で焼き鳥をつまんで夕飯へ。以前、ラオス料理に精通している方に連れていっていただいた「スックヴィマーンレストラン」で、現役隊員さんたちとキンカオ。村で食べ慣れたラオス料理とは違う上品なお味。清潔なレストランでおいしいラオス料理が食べられるので、初めてラオスに行く人を連れていくのにちょうど良いお店です。

ラオス3日目:村で結婚式

ラオス入国3日目は、わたしが活動していた村への移動日です。いま一緒にブランドの製品開発を頑張っているお母さん(ブランドのロゴの女性です)の村へは、お母さんの車で移動しました。わざわざ首都まで迎えにきてくれた妹は、車の中で藤井風の音源をかけ、「この歌の意味何なん?」と聞いてきます。よく売れているアーティストだということは知っていましたが、藤井風をちゃんと聴いたのはこの日が初めて。「死ぬのがいいわ」をラオス語で説明しろというのは、まだまだラオ語ビギナーの私には難しすぎました。ざっくり意味を説明したら「え、危ない歌やなw」と笑っていました。多分伝え間違っている、ごめん。

村について、しばらく近所をぶらぶらしました。よく買い物にきていた市場には、色とりどりの野菜、川魚、しめたてのお肉がずらりと並んでいます。そのなかに、日本では絶対見ないであろうアリのタマゴが。私は食べなれたものですが、夫はもちろん初めまして。見ているだけで体がかゆくなりそうです。

その後私たちは、村の美容室でメイクをしてもらい、生産者さんが用意してくれた民族衣装に着替えました。ハネムーンでラオスを訪れたわたしたちに、生産者さんと家族親戚、村の人たちがバーシースークワンという儀式をしてくれたのです。

バーシースークワンとは、バーシー(吉祥のお供え物)をクワン(魂)へ、という意味であり(スー=~へ)、人の体に宿る32個の魂を体につなぎ留めておくための儀式で、それらの魂が出ていってしまうのが人生の節目だと言われています。そのためバーシースークワンは、旧正月のようなラオスの人たちにとっての大切な行事の際にはもちろん、出産、上棟式、留学、協力隊でいえば活動を終えて日本に帰るときなどに、このバーシースークワンが開かれます。

祭壇の中央から伸びた白い糸は「ຝ້າຍຜູກແຂນ ファーイプックケーン」、腕に巻く綿の糸という意味です。ラオ族の人たちは、白色は純粋さ、新鮮さ、無垢さを表すと考えており、バーシースークワンの際はこの真っ白な綿糸が用意されます。

お正月の場合は、祭壇から伸びるファーイプックケーンを参加者皆で持ってご祈祷が始まりましたが、今回は私たちがお祝いをしていただく立場だったため、ファーイプックケーンは私と夫に一本ずつ結ばれました。

バーシーに来てくださった方は、着席の際や儀式中に、祭壇のマリーゴールドの間にお金を挟んでくださいます。活動期間中お世話になった方からも、この日のために来賓として来てくださった方からもいただきました。ガソリン5リッター分。決して安い金額ではありません。ありがたいことです…。

儀式を執り行うのは「ໝໍ­ພອນ / モーポーン」と呼ばれる祈祷師で、辞書で見てみるとこのバーシースークワンで祈りを捧げる方のことを指すのだそうで、広義のシャーマンには別の言い方がありそうです。​モーポーンが祈りを捧げてくださっているあいだ、私たちはこの祭壇に手を添え、私たちの後ろに座っている参列者の方々は私たちに手を添えて、皆でお祈りをします。モーポーンが何を話しているのかは私にはわかりません。こちらも後で調べてみると、仏教と「ສາ­ສະ­ໜາ​ພາມ / サーサナーパーム」、パーム教という宗教の混ざったものだという風にラオ語のウィキには書かれていました。サンスクリットとパーリということなのでしょうか?サーサナーパームが気になって夜も眠れません…。

ちなみに「モーポーン」は、「モー / 医師、祈祷師など」と「ポーン / 祝福」を組み合わせた言葉です。人の人生の節目を祝福する祈祷師…、なんだか名前だけでもありがたい感じがします。

さて、20分以上にわたるお祈りの間、たまに参加者で「あーーー」と声を上げる場面があったり、後ろのほうからマリーゴールドの花びらが飛んできたり、マリーゴールドを酒に浸して手のひらを清められたり、最後は固めの杯といいますか、シャーマンが最初にショットグラスでお酒をぐいっと飲み、そして夫へ妻へとグラスが渡っていきます。

今回、私たちはお土産に日本酒を2本持って行ったので、日本酒を注いでくれました。(ラオスのお酒は度数が高く下戸には辛いので、ありがたいです)

それが終わったあとは、モーポーンから順に、私たちの手首にひもを結んでくださいます。モーポーンは、黄色とオレンジの色付きのファイプックケーン。そのあとは白のファイプックケーンを、みんな代わる代わる両手首に結んでお祈りをしてくれます。

また来てくれてありがとう。結婚おめでとう。悪い魂が出て行って、良い魂が入ってきますように。健康な子供がたくさんできますように。互いに永遠の愛で結ばれますように。お金に困らず暮らせますように。この旅が良いものになりますように。無事に日本に帰れますように。

皆の気持ちが、私たちの両手首に結ばれていきます。その間、私たちのてのひらには、茹でた丸鶏がのせられています。場合によって、ゆでたまごだったり、お米だったり、お金だったり、お菓子だったり、いろんなものを握らせてもらいましたが、活動を終えて本帰国するときに開いてもらった3回のバーシーはどれも同じように茹でた丸鶏でした。主賓は鶏、とか決まりがあるのでしょうか。

マリーゴールドがたくさん飾られた祭壇は「ພາ ຂວັນ / パー クワン」と呼ばれています。クワンは魂ですが、被修飾語の「パー」は何でしょうか。辞書で引いてみると、「ピラミッド型の祭壇」とでてきたので、このまま固有名詞として受け取ってもよいのでしょうが、動詞だと「導く、連れていく」という意味を持ち、名詞になると「お皿」、パーリ語由来の言葉としてみると「太陽、光線」といった意味も出てきました。どの言葉もこの儀式にぴったりなものだと思いました。明るい未来へ導いてくれるような儀式だと思うし、1本の糸で繋がったみんなの想いが集まる受け皿のような役割をこの祭壇が担っているような気もするし、幸せを願って糸を結び合うあの空間は陽だまりのような温かさを感じるし….。

手首に紐を結んでもらうのがひと段落ついたとき、入口のほうから男性が5人ぞろぞろと入ってこられるのが見えました。額装された賞状を持った方は、私が隊員だったころに2度ほどお会いした副県知事。日本に留学されていたことがあり、流ちょうな日本語で話しかけてくださったので今でもはっきりと覚えていました。活動に対する「表彰状」と、表彰状授与にあたって行政内でやりとりされた許可証のようなもの(ラオスっぽい!)、カゴに盛られたたくさんのODOP(一村一品)商品をいただいたのですが、急なことでびっくりして終始ポカンとしてしまいました。村の人たちにバーシースークワンをしていただいただけで胸いっぱいだったのに、10か月ごしにこんなご褒美までいただいて、幸せがキャパオーバーして処理が追いつきません。

この表彰状をいただくために、JICAラオスに派遣期間についての問い合わせがあったり、いつも多忙なカウンターパートが書類作成してくれたりと、色んな方が動いてくれていたことを後から知りました。そして、表彰を受けるきっかけになったのは、県知事がとある調印で生産グループを訪れた際に私も同席しており、その時に活動の話や日本に帰ってからも自分のライフワークとして活動を続けていきたいことなどをお話させていただいたことだったそうです。あの時のちょっとした会話を覚えていてもらえただけでも光栄です。

そんなこんなで、バーシースークワンが終わった後は、皆でおいしいラオス料理を囲って食事会がはじまりました。食事中に新しいゲストがお祝いにきてくださったら夫婦で祭壇の前に移動して紐を結んでもらい、祝福の言葉を受ける。以後繰り返し・・・というのがしばらく続きました。大好きな村の人たちや、すでにどこかの会食でできあがってきた同僚たち、元上司、配属先の他の課の人たち… たくさんの、本当にたくさんの人たちがお祝いしにきてくれました。

夫はひたすらビアラオとラオカオ(ラオスのお米でつくられた蒸留酒)をちゃんぽん、私は日本から持ってきたサケをついでまわり、アラシックス世代の方が集まってくださったにもかかわらず4合瓶2本があっというまにカラになりました。隊員時代、80歳を超える生産者さんが昼間の儀式でハイネケンをキメていたのを二度見したのを覚えていますが、今回もみんなすごい。

日本のパデーク研究家を唸らせた、村のパデーク名人のゲーンノーマイ(たけのこスープ)、牛のラープ、ナマズの丸焼き、ドークゲー(何かの花)とコブミカンの葉の揚げ物、サラダ… 他にもたくさんの食事が並びました。主食はもちろんカオニャオ(蒸したもち米)。私は、茹で鶏のつけダレだけでカオニャオ3合いけるぞってなもんで、ブライダルダイエットで6㎏落としたのはここで何の憂いもなく満腹太郎になるためだったんだと信じて疑いませんでした。

夜は近くのゲストハウスに泊まりましたが、この旅最安の1泊250,000KIP。せっかくの新婚旅行だからと、ホテルステイする時間が少ないにもかかわらず夫はラグジュアリーなホテルばかり選んでくれていましたが、村にはそういう場所もありません。ちゃんと休んでもらえるかなあと少々不安でしたが、はち切れんばかりに食べ、サケとラオカオとビアラオをちゃんぽんした夫には関係なかったようでした。あっぱれ、村の人たち。

ラオス4日目:元同僚たちとキンカオ、キンビア

翌日は、村から少し離れたナムグムダムとダム湖に連れていってもらい、しばしこの景色を楽しんでから、元配属先である県庁機関へ。各部屋を回って挨拶し、「ハネムーンに来たら旦那さんをつれてくるのよ!!」と帰国前に何度も何度も何度も言われた約束を果たしました。

そのあとは、私が住んでいた家の隣にある大家さんちを尋ねました。私の話をするたびに涙ぐむという、隣の仕立て屋さんも呼んでもらい、みんなにお土産を渡して、今回は滞在時間が短くて村に滞在できなくてごめんね、今度また来たときは皆でごはん食べようね、と約束。そのあとは私が「お姉さん」と呼ぶ隊員時代のカウンターパートの家で昼食をいただきました。焼いた豚肉にピア(胆汁)のディップ、ピアのスープ、ラープと、本格的なラオスの家庭料理。10か月前はこの家でトカゲと蟻の卵のラープをいただきましたが、その前も山間部の出張帰りにでっかいトカゲのようなイグアナのようなものを買っていたり、この家にお邪魔させてもらうと、「そろそろラオス料理も慣れてきたなー」っていう自分が外国人だったことを思い出させてくれる料理が出てきます。大好き。

「庭の景色、たくさん写真に撮っておくのよ。そしたら私と家族のことが恋しくなっても写真を見て村を思い出せるでしょ」というお姉さん。当たり前のように愛してくれて、私も同じように愛していると信じてくれている、そんな言葉に感じられました。つらくてしんどくて何度も自分の無力さを悲観した隊員時代、あなたの優しい言葉になんどもなんども支えられたよ。本当にありがとう。

そのあと夫はお姉さんの息子と汗だくになりながらサッカーをし、くたびれたKEENのサンダルが壊れるのを恐れた私は撮影係を理由に見守りました。そのあと子どもは水浴びへ、私が帰国したあとに生まれた娘ちゃんはカオニャオとかぼちゃの離乳食を食べ、あれこれ用事を終えてから、同じ課で働いていた職員の弟の家の上棟式へ。飲む、食べる、踊る、飲む、食べる、踊る。隊員時代は辛さすら感じていた「キンビア(飲み会)」がこれほどいとおしく思ったことはありません。

カウンターパートに、生産者さんの家まで送ってもらい、そこで仕事の話や頼んでいた商品の検品、日本での販売実績や商品のフィードバックなど仕事の話をちゃちゃっと済ませて、私たちはまた妹の車で首都のホテルまで送ってもらいました。

今回1泊あたりの値段が一番高かった「ダバラブティックホテル」の最上階のスイートルーム。最上階は1部屋しかありません。玄関を入ってすぐ大きなキッチンが目に飛び込んできます。

3部屋あり、キングベッドの寝室ーリビングーキングベッドの寝室と繋がっています。なんて豪華…。7時前にチェックインして、翌日もゆっくりできないなんて勿体なすぎる。

そのあとは隊員時代に大変お世話になった2人と合流して、鍋と焼き肉のハイブリット「シンダード」で満腹に。なんかこの日の写真少ないなあと自分で写真を見返しながら思ったのですが、旅も折り返し地点を超えて相当疲れていたのか、ラオスが「日常」に戻ってきて「ふつう」にカメラをむける機会が減ったのかはわかりません。多分、どっちもです。

ラオス5日目:初ラオス中国鉄道!ルアンパバーンへ

この日はルアンパバーンへの移動日でしたが、ルアンパバーンへの電車は午後の便。午前中はホテルでゆっくり充電して、パトゥーサイに出かけました。その前に、パトゥーサイの近くの釣具屋さんへ。釣り好きな方へのお土産に「ASHINO」のリールと、夫はバレットシンカーを購入。

バレットシンカーの棚にはキリが置いてあって、自分で穴があいているか確認するスタイル。可能な限りの不純物を混ぜに混ぜたような、柔らかくしっとりとした質感のバレットシンカーたち。そりゃ日本のタングステン製に比べれば10分の1ほどで買えるかもしれませんが、何に使うの…。

DAIWAのクルセイダーが420バーツで売られていたのは、、、何事!ほんまもんなんですかねえ。この価格ですしそうであってほしいですけど。

そういえば!円安で日本経済が大打撃を受けているのと同じように、ラオスキープも一時に比べれば落ち着きはしましたがまだまだキープ安。この店、前に訪れたときはキープで言ってくれていたような気がしますが、店頭表示がバーツに変わっていたのが気になりました。ホテルも、レストランも。ドルやバーツで提示があって、「ラオスキープならいくら」と聞いてはじめて自国通貨が提示される状態。金融素人にもラオス経済の大変さが伝わってきました。頑張ってくれラオス…!

そのあとはパトゥーサイを見学して、町をぶらぶら、ラオス南部の名物「カオピヤックパー」を首都で食べてみたり、スムージー飲んだり、スーパーでお土産買ったりしてビエンチャンでの時間は終了。

このパトゥーサイの真下から覗き込んだ写真、行くたびに撮っている気がします。絵になるなあ。綺麗だなあ。美しいなあ。

さて、ここからいよいよ、ラオスでのバーシーに次ぐイベント、「ラオス中国鉄道でルアンパバーンに行く!」です。

開通当初、買い占めや転売が横行して全くチケットが買えなかった時期がありました。(私のFacebookでも何度もチケットの写真を見ました)今はそれは無くなったようですが、決められた場所に並びに行かないと買えなかったり、外国人はパスポートの提示が必要らしかったり、なんだか煩雑そうです。アプリも一応できたみたいですが、日本からは購入できず、現地に行ってからできるかどうかも怪しかったので、今回は現地の旅行会社に頼みました。ラオス国立大学内のLJIで1か月だけラオ語を勉強したときに、ホームステイ先の人に連れて行ってもらった出家式で同じ席にいたお姉さんの旅行会社です。向こうが覚えてくれているかも定かではありませんが、Whatsappでやりとり→BCELoneで振込という手順で何度か航空券を頼んだことがありました。「〇月〇日からのスペシャルプロモーション!!」とラオス航空が告知したときも、「あれ取れたら取っといて~」でちゃんと用意してくれていたので、私はこの会社をめちゃめちゃ信頼しています(笑)

10か月前の帰国の際、隊員は銀行口座を閉じなければならない規則になっていて、今回はBCELoneが使えませんでした。現金手渡しするから、ホテルまでチケット持ってきて~とロケーションを送っておいたら、当日朝にきちんとホテルまでデリバリーしてくれました。毎度お世話になります。

ちなみに発券手数料は、1枚あたり150,000KIPでした。それでチケットを取ってホテルまでデリバリーしてくれるなら安いものです。

ダバラブティックホテルからタラートサオ横の中央バスターミナルまでトゥクトゥクで移動し、そこからバスで駅まで行こうと思っていたのですが、どうやら私がネットで見つけた情報が古かったらしく、「その時間のバスはないよー」と言われてしまいました。流しのトゥクトゥクを捕まえたら100,000KIPで行ってくれるというので、最後はLoca(ラオスのタクシー配車アプリ)を使わずトゥクトゥクでビエンチャンの風を切って駅まで向かうことに。

注意書きや案内に英語が見当たらなかったところに、なんともいえない中国資本感を感じました。

入口でパスポートとチケットチェック、そのあと荷物のX線検査と、厳重な警備のもと中へ。特に時間をつぶせるような場所があるわけではないですし、座席も指定席なので、張りきって早めに行く必要はなかったかもしれません。

発車時間の少し前まで、ホームへのゲートは閉まったままになっていますが、ゲートが開く少し前から長蛇の列ができました。お坊さんや、特別なサポートが必要な乗客とその家族が先に通され、ついに私たちの番です。

ホームに出て見渡してみると、ルアンパバーンに向かうこの電車は16両編成で、日本の新幹線より少し短いぐらい。コンコースに居た人たちを見渡して「こんなたくさんの人みんな入れるんかな」と思っていたのですが、なるほどこれなら。

座駅は指定で、2席ー通路ー3席。座席は回転させたりできないので、車両の中央あたりに謎のテーブル席があって、そのテーブルに向って両側から座席が向いています。

Ⅼ Ⅼ Ⅼ Ⅼ Ⅼ Ⅼ Ⅼ Ⅼ Ⅼ Ⅼ Ⅼ Ⅼ Ⅼ Ⅼ Ⅼ Ⅼ Ⅼ Ⅼ Ⅼ テーブル 」」」」」」」」」」」」」」」」」 こんな感じ。

車両の半分の人は進行方向と逆側を向くことになります。

ラオスの原風景ともいえる、こんな素敵な景色を見ながら過ごす2時間弱。単線のため、反対側からくる電車の通過待ちなどで途中の駅で待機する時間も何度かありましたが、足元広々、コンセントもついていて、快適に過ごすことができました。倍ほどの値段になりますが、次はフルフラットのビジネスシートに乗ってみたいです。

そんなわけでルアンパバーン駅に到着。駅を出ると乗り合いバンが所狭しと並んでいます。しかし聞いてみると、ここに並んでいるバンはすべて北部の地方に行くもので、ルアンパバン市街地には行かないとのこと。駅の出口を出たところは地上階から1段あがっているのですが、この階はすべてそういうバンが停まっているよーと駅員さんが教えてくれました。

地上階に降りるエレベーターかその隣の階段で地上階に行き、テントで市街地行きのチケット(35000KIP)を購入すると、その奥にとまっているラオス中国鉄道カラーのバンのおじさんたちが声をかけてくれました。

このロットゥでホテルまで送ってもらいます。後部座席もあいているのに、なぜか運転席横のシートを案内された私たち。ま、景色が見れてありがたいからいいやーと思って乗りこむと、市街地へ向かいながら「明日の予定は決まってるんか?」と。なるほどそういうことか。「日本人やろ?JICAか?おっちゃん昔、JICAに月給もろて運転手してたことあんねん」「私もJICAのボランティアやってん」ということでおっちゃんを簡単に信頼し、旅程を伝えてソンテウドライバーの弟さんを紹介してもらいました。街についてから良さげなドライバー探しする時間が短縮できて助かりました。

夕飯は、隊員時代の戦友(?)たちとピザ!旅が始まってから初めてのピザでおいしさは10万倍、当時の懐かしい話に花が咲きました。

ラオス6日目:ゾウで森散歩、市内観光

この日、朝6時ごろに目が覚めたので、カメラを持ってルアンパバーンの街散歩に出かけました。お目当てはもちろん托鉢。ルアンパバーンは4回目ですが、まだこの風景を見たことがなかったので、ちょっと感動。明日は自分も托鉢させてもらうぞーとわくわくしながら、街中をぶらぶらします。

日中のうだるような暑さからは想像できない澄んだ空気に、輪郭が揺れているように見える、ラオスの朝夕のとくべつな時間が大好きです。ルアンパバーン、バンビエン、ビエンチャン県の自分の村も。ボリカムサイで見たメコン川の夕日も忘れられないなあ。パクセーの夕焼けもでかくてとっても素敵だった。ラオスも日本のように縦に長い国なので、北と南で景色も植物も野良犬の足の長さの平均値(当社調べ)も違っています。

あと2日しか見られないこの景色をかみしめて、Saffron Coffeeで朝カフェ。アーモンドプードルが贅沢に使われているであろう、しっとりどっしりとしたレモンケーキがあって、ここに来るたびに食べています。唾液が少ない日本人が美味しく食べられるしっとり生地、そしてアイシングがこれほどたっぷりかかっていてもなお丁度良い甘さ。これになかなか出会えないんですよねー。

そして私たちは、前日に予約したソンテウのお兄ちゃんに迎えにきてもらってルアンパバーン観光へ。まずはゾウ乗りです。

ひとり2000円ほどで30分間、ルアンパバーンの森の中をひたすら散歩してくれます。「川には入らへんの?」と聞くと「この時期は寒いから無理なんよな~」とのこと。この像さんは40歳ぐらいだそうで、お腹がすいたのか好奇心旺盛なのか、時折草むらに頭をつっこんでバキバキと音をたてていました。

受付のお兄ちゃんにスマホを渡し、動画と写真適当に撮って~と頼んだのですが、いろんなアングルからあの手この手で、つきっきりで撮影してくれました。

撮影してくれたお兄さんにはお礼のチップを、乗せてくれたゾウにもお礼の餌を・・ということで、サトウキビやカボチャ、バナナがてんこもり入ったかごを50000KIPで買い、小屋のゾウさんたちにエサやり体験をしました。動物が大好きな甥姪とLINEでテレビ電話を繋いで、いまゾウさんにごはんあげてるよ~なんて話をしながら、メスが4頭、オスが2頭の合計6頭にえさやりしました。

そのあとはクアンシーの滝へ。何度来てもいいですね。泳ぐこともできますが、私たちは水辺のアクティビティは釣り以外あまり興味がないので、魚見つけては魚種がどうとか、こないだ食べた魚の稚魚じゃないのかとかそんなことばっかり話していました。

日本には生えていない植物、日本では聞こえない鳥や虫の声、五感で楽しみながら森の中を歩いて、滝をぼーっと見て、飽きたらだらだら引き返してごはん。川のそばで、昼間っからビアラオ頼んで、ハーブたっぷりのルアンパバーンソーセージと、レモングラスの束にひき肉をつけて焼いたやつ(名前忘れました)をキメる。私はソーダウォーターで十分。

そのあとはバッファローファームで水牛アイスを食べ、街に戻ってスーパーで買い物して、ソンテウのお兄さんに支払ったのは60万キープでした。指定時間には待っててくれてて、おだやかで、嫌な顔せず待ってくれて、とても心地いい人だったので、翌日の空港送迎もお願いしました。

ちなみにスーパーで買ったのは、タイコスメ(タイで買え)、カピ(タイで買え)、ビアラオのルアンパバーンバージョンなどなど。

そのあとは市内でラオス料理を食べ、ナイトマーケットを回りました。ナイトマーケットは、以前よりお店の数は減っていたものの、ルアンパバーンらしいナイトマーケットといいますか、めっちゃゆるい刺繍小物や年間100日ぐらい着たくなるTシャツ、ご先祖のデフォルメ神様「ぷにゅにゃにゅ」の置物など、ここでしか買えないお土産がたくさんあって目移りしてしまいました。

ラオス7日目:托鉢、カオソーイ、そしてハノイへ

朝いちばんは托鉢。5時40分にティップカオ(もち米が入った竹かご)をホテルで受け取り、ホテル前に準備されている茣蓙に座って、お坊さんが托鉢に来られるのを待ちました。私はラオスの民族衣装の正装、夫も結婚式でもらった肩掛け布を巻いて待機です。隣にいらっしゃった老夫婦が話しかけてくださると、数十年アメリカに住んでいるとのことで英語ぺらぺら。英語で話してくださるのですが、寝起きの頭で英語スイッチが入らず(入ったとて残念なレベル)結局ラオ語に戻る、というのを繰り返しました(笑)「もうすぐ回ってくるから」「お寺は10あるからね、お坊さんの行列も10個通るから調節しなさいね」と色々教えてくれました。また、JICA隊員あるあるだと思うのですが、「〇十年前に〇〇に配属されていた〇〇さんは元気なの?」と知らない先輩隊員のお名前が。こういう会話になるたびに、わたしもそうやって、何十年先にふと思い出してもらえるぐらい関係を深められていたらいいなあと思います。

托鉢が終わったら、二度寝、朝カフェを済ませて、荷物をまとめてチェックアウト。飛行機の時間まで町ぶらです。

世界遺産の街ルアンパバーンの、ナムカーン川とメコン川の半島の丁度先端あたりに位置する、ワットシェントーン。何度行ってもこの外観の美しさ、とりわけ屋根の渋さにはぐっときますね。一枚上の写真が本堂の中の様子なのですが、細部にも装飾が施されていて本当に綺麗です。

お昼ご飯はルアンパバーン名物の「カオソーイ」。ぴり辛トマト肉みそ麺です。肉のダシ感ががつんと効いたスープに平たい麺がよく合います。ルアンパバーンに来たらこれを食べないと始まらないし、終われないですね。

ルアンパバーンは、ハーブたっぷりのソーセージ「サイウア」や、川海苔の味付け海苔「カイペーン」など、私の好みのものが多くて魅力的です。前日の晩にちょっとお高めのラオス料理レストランで食べた「オ」という料理も、うまく言語化できないのですがビエンチャンの「オ」と違っていて、香り豊かでとてもおいしかったです。(オとオラームが違う食べ物なのか、大きく分けると何種類ぐらいのオがラオスに存在するのかとか気になり出してしまいました…ラオス行かなくては笑)

町の中心部にある市場。これはフアパン県サムヌア地方の本気のシンだと思いますが、この色とりどりの細かい織り、浮き織りや絣を駆使した唯一無二の美しさ、もし私がお金もちだったら「ここからここまで」って全部買い占めているところですが、そうではないので今回は何も買わずに帰りました。私のブランドtheobaanは、ブランドストーリーに「暮らしに寄り添う」という言葉を使っていて、がしがし洗って着てもらえるような布地を選んでいますが、もう少し在庫を持てる力がついてきたら、こういう布も扱っていきたいなあと思っています。

そのあとは、私の次の隊次でやってきた協力隊員たちが立ち上げたお店「LuLaLao」さんを訪ねました。突然の一時帰国やコロナ禍での活動、色々な困難を乗り越えてまたラオスに自分たちの力で戻ってきた、バイタリティーあふれる二人とは、話がとまらん!そしてコーヒーが美味しすぎる!ラオスのコーヒー豆のポテンシャルって、やりようによってはこんなに高まるんだなあと感動しました。またコーヒー飲みにいくね~。

つづく

は~~~これでようやくラオス編が終わりました。滞在が長く内容も濃かったので、書くのになかなか時間がかかりました。1月27日に日本を発ってここまでで11日!ラオスでの一週間は、隊員に戻ったときのような「村のキンビア」もあり、首都と村とルアンパバーンそれぞれの雰囲気も楽しんでもらいつつ、精神的に満たされた時間になりました。

さて、ここからまだハノイ編が続きます。最後までお付き合いいただけますと幸いです!

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ここだけは行ってほしい!!シェムリアップの激熱スポット~観光編~

すぉすだいちゅなむたまい!!

カンボジア語で「あけましておめでとう」です。ラオ語では「さばいでぃーぴーまい」と言います。

 

皆さま、あけましておめでとうございます。ラオスのラオ子です。相変わらずのぼちぼち更新ですが、今年も自分の活動記録&ラオスのこと、協力隊のことをぼちぼち発信していきたいと思います。どうぞお付き合いください。

 

さて、この年末年始は、JICA海外協力隊の「任国外旅行」という制度を使って、シェムリアップにプチ帰省&バンコクでシティを堪能してきました。

 

任国外旅行というのは、JICA海外協力隊として派遣されている2年のあいだに、1年20日を限度として海外に行ける制度です。私たちは現在緑色の公用パスポートでそれぞれの任地に赴任していますが、協力隊の規定により訪問できる国は限られています。日本に帰る人もいれば、他の国の隊員に会いに行ったり、普通に観光しに行く人も居たり。どう使うかは人それぞれです。

 

私がラオスに赴任したときは、まだラオスからカンボジアへの渡航は許されていませんでした。2018年の6月に、協力隊の2次面接で仲良くなった二人と一緒にカンボジアに行ったとき、3年は行けないと思ってものすごく悲しい気持ちで帰ったのですが、2019年10月に改正されて渡航可能に!!赴任当初から、年末年始はどこかしらへ旅行へ行く予定をしていたので、協力隊の期間は行けないと思っていたカンボジアに行く事にしました。

 

カンボジアは、就活で初めて行った途上国です。空港から街に向かうトゥクトゥクで「この街が好きだ」と確信し、勝手に第2の故郷だと思っています。2年間住んで、大好きにも大嫌いにもなったけど、結果として今はそのどっちもが自分の財産になっている、そんな街です。

 

今回は、そんなシェムリ大好きの私がおすすめする、シェムリの激熱スポットについてご紹介したいと思います。できるだけ絞って紹介したかったのですが、ひとつ紹介しようと思ったら枝葉がつきすぎてあまりに長くなりすぎたので、まずは観光編からご覧ください!

 

観光その①アンコールワット

 

こちらの写真は、2020年1月1日元旦、雲一つないアンコールワットの初日の出です!ありがたや!!!

 

シェムリアップといえばアンコールワット。ここへ行かずしてどこへ行く!な、言わずと知れた観光名所。もう何回行ったかわかりませんが、それでもシェムリを訪れたらやっぱり毎回行きたくなるのがアンコールワットなのです。

 

元旦の初日の出は、観光客がとにかく多くて道もチケット売り場も混むため、ホテルを出たのは4時半でした。そこから顔写真つきのチケットを買い、アンコールワットに向かって、まだ真っ暗な中敷地内へと歩いていきます。段差が多く危険なので、懐中電灯かスマホのライトで照らしながら歩くのを強くおすすめします。また、どんな季節も日がのぼるまでは肌寒いので、トゥクトゥクで行く場合は羽織るものがあったほうが良いでしょう。

 

チケットの価格は、2020年1月時点で1日券37ドル。そのほか3日券、7日券と全部で3種類あり、共通のチケットで行ける遺跡がアンコールワット遺跡群以外にもありますので、無駄のないようにプランを練ってチケットを購入されることをおすすめします!

 

アンコールワット遺跡群はほとんどが東向きですが、アンコールワットは西向きに建てられた遺跡ですので、午前中は逆光になります。カメラ好きには少々惜しい感じになりますが、午後に行くよりも人がすくなくてゆったり見れるので、朝日を見たあと涼しいうちに寺院内を見るのが私の定番のまわり方。

 

 

アンコールワット遺跡群は、クメール王朝時代に建てられた寺院群のひとつです。この王朝は9世紀から15世紀まで続き、現在のラオスやタイにも領土を広げたため、同じクメール様式の寺院がラオス南部のチャンパサック県にも残されています。

 

200m弱の環濠(お堀)にかけられた西参道の橋は現在修復中。その横にある迂回用の橋を渡った先にある塔門を抜けると、アンコールワットへづづく長い参道が姿をあらわします。

 

参道の両端にはナーガ(蛇の神様)。その間を突き進んでアンコールワット内部へ入ると、第1回廊、十字回廊、第2回廊、第3回廊と順に見学できます。

 

 

この写真のような立派なレリーフが残っているのは第1回廊。アンコールワットは完成しないまま王朝が滅んでしまった寺院なので、第2回廊にはこのようなレリーフは残っていません。

 

ちなみにこのレリーフは、『ラーマーヤナ』『マハーバーラタ』に出てくる「乳海攪拌神話」という天地創生神話です。

 

めちゃめちゃかいつまんで説明します。

 

神様・阿修羅(悪鬼)『不老不死の薬どうやったらできるんやぁ~』

ヴィシュヌ神(世界の維持神)『みんなで協力して、大海攪拌しまくったらええんやで。そしたら色々出てくるわ』

神様・阿修羅『そしたら巨大な亀の化身に大曼荼羅山乗せて、竜の神様巻き付けて引っ張り合おうぜ~~~』

 

ぐるぐるぐるぐる…..

 

 

というわけで大海を攪拌し続けた結果、このようにたくさんの生き物たちをはじめ、ヴィシュヌ神の妻ラクシュミーや、太陽、月、宝石、家畜などが次々現れ、最後に不老不死の薬アムリタを持ったダンワタリという医の神が姿を現します。

 

ここで欲をかいた阿修羅が戦争を巻き起こし、協力して手に入れたアムリタを神様から奪い取ってしまいます。それを予期していたヴィシュヌ神は、美しい妻ラクシュミ―に化けて阿修羅に近づいて誑かし、この薬を奪い返しました。

 

阿修羅はそれをまた奪い返そうとしますが、それより先に神々がそのアムリタを飲んでしまいます。そこに、神に化けていたラーフという阿修羅が混ざっていて、ラーフもアムリタを口にしました。

 

それに気づいたのは太陽と月。急いで神に告げ口すると、ヴィシュヌ神はラーフの首に円盤を投げつけて、首を飛ばしてしまいました。喉元までしかアムリタを飲めなかったラーフは頭部だけ不死身になってしまい、太陽と月を恨み続けます。そして今でも、時折月と太陽を見つけては飲み込もうとするのですが、首から下がないためすぐに出てきてしまう。これが「日蝕」と「月蝕」だと言われています。

 

どうですか?なんだかおもしろくないですか??

 

 

ただ見て回るよりも、ほんの少しでもレリーフに刻まれた神話を予習していくだけで、物語とリンクさせながら楽しむことができます。第1回廊の東西南北に刻まれた壮大なレリーフ、ぜひ予習こみで楽しんでいただきたいです!

 

 

十字回廊には、身を清めるための沐浴場、左胸を叩いたときの音だけが響き渡る不思議な部屋や、上の写真のような江戸時代の日本人の落書きなどがあります。十字回廊には、お祓いをしたあと手首にお守りを巻いてくれるお坊さんが居るので、私はそこで必ず手首に赤い紐を巻いてもらっています。お坊さんは観光客慣れしていらっしゃるので、靴を脱いで茣蓙にあがり、ドネーションボックスにお賽銭を入れて、左手を差し出して頭を伏せるだけです。作法を知らないので失礼になるのではと、最初のころはスルーしていましたが、「ハイ、アリガト!!」と他の日本人の観光客に挨拶されているのを見てからは自分の中でのハードルが下がりました(笑)

 

中央の一番高い塔は、人数制限があり、ハイシーズンは長い時で1時間程度待つことになります。日陰の無い炎天下で順番待ちをするので、アンコールワットに行くときは水分を多めに持っていくことを強くおすすめします。また、仏日(タガイセル)の日は観光客は入れないようになっていますので、事前にタガイセルを確認してからアンコールワット拝観日を決めるとよいでしょう。

 

 

アンコールワットは「遺跡群」、つまり他にも遺跡がたくさんあります。こちらはアンコールワットに次いで有名な「バイヨン」という寺院です。

 

 

ジャヤヴァルマン7世がチャンパ(今でいうベトナム)に勝利した記念に創建したもので、仏教とヒンドゥー教の融合寺院だそうです。仏塔の四面に掘られた穏やかな微笑みが印象的。

 

 

バイヨン寺院は、アンコールワットの隣にある環濠都市「アンコール・トム」の中にあります。アンコール・トムの見どころは他にもたくさんありますので、像のテラス、ライ王のテラス、南大門なども一緒に回りましょう。 

 

 

こちらはアンコール・トム周辺にある「タ・プロム」という遺跡。こちらもバイヨンと同じくジャヤヴァルマン7世によって創建された仏教寺院です。

 

ガジュマルの木による浸食が激しく、文明と自然の融合が作り出す独特の美しさを楽しめます。「トゥームレイダー」のロケ地にもなった場所です。

 

 

母を弔うために創建されたといわれるタ・プローム、170を超える観世音菩薩の顔が仏塔の四面を囲うバイヨン、どちらも違った魅力があります。

 

アンコールワットで朝日→アンコールワット拝観→市内に戻ってブランチ→アンコールトム(南大門、像のテラス、ライ王のテラス、バイヨン)→タプロム→ランチ、休憩→プノン・バケンかアンコールバルーンから夕陽(自己責任)

 

というのが私のお決まりルート。

 

 

市内からアンコールワットまでの道中、少しより道すると「キリングフィールド」を訪れることも可能です。

 

www.laoko.net

 

カンボジアは、発展途上国。地雷、内戦、貧困、といったイメージは未だ色濃く残っていると思います。(上の記事にざっくり纏めてありますのでご覧ください。)それらを一番感じられるのは首都プノンペンにある「虐殺博物館」と「キリングフィールド」ですが、私は実際足を運んでみて、全ての方におすすめできる場所ではない(気軽に行ける、単なる観光地ではない)と思いました。

 

シェムリアップのキリングフィールドは、最近有料化されたようで、展示スペースも少し増えていましたので、カンボジアの歴史に少し触れるには良い場所だと思います。アンコールワット遺跡群観光と一緒に、いかがでしょうか。

 

遺跡観光は、個人でまわるならトゥクトゥク1日チャーターがおすすめ。朝日から夕日まで全部あわせて15ドル前後が相場です!また、初めてで不安という方や、1回行ったけどよくわからんかったという方は、ぜひ現地のガイドさんつきで観光されることをおすすめします。

 

観光編②プノンクロム

え、いままでので一つやったん?!と書いている本人がびっくりしています。 

 

 

2つめにおすすめしたいのが、プノンクロムという山。東南アジア最大の湖「トンレサップ湖」の近くの山で、その頂上には遺跡があるため、アンコールワットと共通の遺跡入場券が必要です。

 

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崖を自由に行き来する山羊さんと一緒に山頂を目指すと…

 

 

遺跡の奥にある崖を少し下ると、このような開けた景色が!

 

観光客は殆ど居ません。私たちみたいに、ふらっとやってくる少人数の外国人か。地元の人たちがちらほらいる程度です。

 

夕日スポットといえばアンコール遺跡群のプノン・バケンや、ロリュオス遺跡群のバコンが有名ですが、どちらも人がたくさん居るので、私は自分の時間が過ごせるこのプノンクロムが大好きです。

 

 

ここで見る夕焼け、ここで過ごす時間は至高です。

 

これは12月28日に撮影したものなので、乾季真っただ中。綺麗な夕焼けが見れました。

 

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そしてこちらの写真をご覧ください。

 

実はこれ、全く同じ場所から撮ったもの。

 

雨季になるとトンレサップ湖は3倍にも広がるんだそうで、先ほどの写真で田んぼになっていた部分は、こんな景色へと変化するのです。どちらも甲乙つけがたい美しさ!

 

季節によって稲作をしたり、水上生活をしたりと、ここで自然とともに生きるひとたちの逞しさが感じられます。

 

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 プノンクロムは、日中の拝観にはアンコールワットと共通の遺跡入場券が必要になります。同じ入場券で入れるロリュオス遺跡群を午前中にまわって、午後にトンレサップ湖の村めぐり、そのままプノンクロムに行くというのが、チケットのもったいなくない使い方でしょうか。

 

日没まで居ると帰り道が真っ暗になりますし、夕日スポットは何もない崖になっていて大変危ないので、複数人で行くことをおすすめします!

 

観光編その③IKTT 

 

note.com

 

数か月前に、noteに書かせていただいたクメール伝統織物研究所。森本喜久男さんという方が「伝統の森・再生計画」として、ラオスに伝わる伝統の絹織物の復興と発展のためにつくられたのが、「伝統の森」です。

 

シェムリアップ郊外にあり、田舎の風景を楽しみながらトゥクトゥクで片道40分ほどで行ける場所です。

 

 

この村を作られた森本さんについては、noteで触れているので省略しますが、布に興味があってもなくても、この村は本当に本当におすすめの場所です。

 

伝統とは。手仕事とは。本物とは。

 

自分の中にある哲学を、人生をかけて体現されたこの場所では、今も変わらず、むしろ前よりも更に、素晴らしい布が織られていました。

 

 

「100%シルク」って簡単に言うけれど、それがどんなに途方もないことなのか、わたしはこの場所に来るまで知りませんでした。

 

小さい頃に一度つれて行ってもらった藍染の工房で、藍の独特なにおい(その後、新品の剣道の防具を身に着けたときのデジャブといったら・・・)と生まれて初めて見る真っ白な繭玉の中から虫が出てきてびっくりしたのを今でも覚えています。

 

あの時は自分が織物に少しでも関わるなんて考えてもみなかったなあ。

 

森本さんの、「土から布を創る」という考え方は、これからのラオスにも必要になるのではないか、と思っています。それは単にブランディングの話だけでなく、お蚕が住める場所はどんな所かとか、それが減っていくって今どういう状況に居るんだろうかとか、周辺国から仕入れた安い糸を染めて単価を安くすることが自分たちの創造したいラオスの伝統織物の未来なんだろうかとか、そういうことも包括的に考えた結果がその一言に詰まっていると私は感じたからです。(きっと、もっともっといろいろな意味があるのでしょうが、私には見えていない世界がまだまだ多すぎて気づき切れません)

 

 

www.iktt.org

 

森では、作業工程を実際に見せていただけるほか、自分で持ち込んだ布製品やハンカチの天然染色もできます!ゲストハウスで宿泊も可能です。

 

本当の本当の本当におすすめの場所です。ぜひ。 

 

 

森に行く途中、こんなお鍋がたくさん並んでいるのを見つけたら、ちょっと休憩がてら覗いてみてください。

 

 

作っているのはヤシ砂糖。ヤシの花蜜をこんな風に竹筒で受けて、煮詰めたものです。他の部分から樹液を集めて作られるものがありますが、カンボジアはこの方法が主流だそうです。

 

未精製のお砂糖はミネラル豊富で甘さもまろやか。ブラウンシュガーよりもマイルドなかんじがします。精製された上白糖やグラニュー糖に比べてGI値が上がりにくいようで、スーパーフードとしても注目されています。

 

煮物を作るときなんかに入れると、精製されていないお砂糖独特のコクが加わって深みが増します。

 

 

こんな風にタブレット状にしたものを試食でくれます。しゃくしゃく、ほろほろと楽しい食感で、このままおやつにしてしまいたい。(危険)

 

ここまで水分を飛ばしていないペースト状のものや、水分を飛ばし切ったあとに普通のお砂糖みたいに粉末状にしたものなど、いろんなタイプが売っています。私はこのタブレット状のものをいつもお土産に買っています。30個ほどで1ドル。安すぎか!

 

 

IKTTの近くにはバンテアイスレイ、別名東洋のモナリザとも呼ばれる美しい遺跡もありますが、今回わたしたちは地雷博物館を選びました。

 

 

何度か訪れていますが、展示が毎回来るたびにすこしずつよくなっているので、何度来ても勉強になります。

 

 

1年半前にプノンペンのキリングフィールドと虐殺博物館を訪れて「生」の情報を取り入れてからここに来ると、今までとはまたすこし違うものとして私の目に映ったような気がします。

 

「地雷の博物館」と比喩されるぐらいにたくさんの数・種類の地雷が埋設された国、カンボジア。何個撤去できたかではなく、本当に安全な土地になったかが大切で、まだまだ危険に晒されている場所があることも事実です。

 

www.laoko.net

 

まだ「歴史」と呼ぶには早い、カンボジアやラオスのここ数十年で起きたことを知るには、こういった施設を訪れるのが一番だと思います。観光で行くなら楽しいことだけするもよし、ですが、こういう施設で少し勉強してみるのも有意義な時間だと思っています!ぜひ、訪れてみてください。

 

まとめ・・・られてない

というわけで、観光編のおすすめスポットを思いつくままに書いてみました!

 

3か所って言ったやつ、誰だ!っていうぐらい、長ったらしくあちこちのことを書きましたが、まず観光編はこれで〆たいと思います。

 

書きたい事多すぎるんです、カンボジア好きなんだもの、仕方ありませんね。

 

シェムリアップでの食事編、シェムリアップからバンコクへの陸路移動、バンコク滞在、アユタヤ観光、バンコクからビエンチャンまでの寝台列車移動、ビザのいざこざなど、力尽きるまでまだまだ書いていきます!!多分途中でやめます!!!!

 

お楽しみに!!

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タートルアン祭

さばいでぃー!

11月(旧暦12月)にラオスの首都ビエンチャンにて行われるお祭り、「タートルアン祭り」に行ってきました。

 

 

 

・・・の前に、見てください、かわいいラオスのねこ様。ああああああああああざとかわいいいいいいいいいいいいいいいいいいいい!!!!!!!わかっててやってるんだこの子は全部!分かっててやってる!!!!!!!!!!!!あああああああああでもかわいいいいいいいいいいいいいいいいいい!!!

 

触りたいけどガマンです、動物触ったあとが怖い(アレルギーとか、病気とか)。辛いです。猫カフェに行って猫様のクッションになりたい人生でした。

 

動物は家畜、動物は家畜・・・(ぶつぶつ

 

 

すみません乱れました。ちょっと落ち着きます。

 

タートルアン祭に行ってきた!

 

11月初旬、ラオスに来てはじめてのタートルアン祭に行ってきましたよ~!

 

タートルアンというのは、ビエンチャン市内にあるラオスで一番有名なお寺です。紀元前3世紀にインドから渡来したアショーカ王によって僧侶が派遣され、インド様式で創建されました。13世紀になるとクメール様式のお寺として再建されましたがその後廃墟となり、16世紀になってセタティラート王により再建されました。

 

釈迦の胸骨が収められているという塔は黄金に光り輝いています。その東西南北にお寺が建てられましたが、現在残っているお寺はそのうち2つのみ。

 

前回訪れたのは語学訓練中の2月中頃、夕方に行ったので夕日が差して中央の塔が黄金の光を放ち、とても美しかったのを覚えています。

 

 

そんなタートルアンで年に1度行われるラオスの仏教徒最大の行事が「タートルアン祭」。1週間前から周辺にたくさんのお店が立ち並び、人でごった返します。

 

 

タートルアン祭が行われるのは11月(旧暦12月)の満月の日。今年は月曜日がその日だったため、カレンダーには「祝日」と書かれていましたが、私の配属先は「普通に働くよ!」と。

 

どういうこと?と疑問に思ったのですが、どうやらこういう行事のとき市内だけがお休みになるパターンもあるようです。ラオス、難しい。

 

 

 

任地から首都への道は大渋滞、いつもの倍ほど時間をかけてくたくたで上京しました。そして日が傾いてからタートルアンに向かうと、ご覧の通りの、人、人、人。

 

タートルアンの門のところには青年同盟と思われるラオスの学生さんたちがずらり。男女に分かれて進んでいきます。

 

一人一人鞄の中身をチェック、そしてボディチェックもありました。(だから男女分かれていたんですね)

 

更に、門をくぐって中に入るには「シン」の着用が必須です。さすが、ラオスで一番大切とされる仏教行事です。シン(巻きスカート)にスア(シンに合わせるブラウスのようなもの)にパービヤン(托鉢のとき身に着ける肩掛け布)まで全て持って行きましたが、スアとパービヤンはあってもなくても大丈夫な雰囲気でした。(ただし肩は出ないほうが良いので、露出を避けたブラウスなどが無難かと思われます)

 

 

このお祭、満月の日の朝は盛大な読経と托鉢が行われるそうで、参加した人たちの様子をSNSで拝見して是非来年は行きたいなあと思いました・・・が、土曜日の晩も普段できない体験をすることができました。

 

タートルアンの内部に入ったら、まずはお供えものを購入します。それが、写真に写っている、花・ろうそく・お線香のセット。だいたい300円弱ぐらいでした。ろうそくとお線香に火をつけたら、願い事をしながらタートルアンのまわりを3周。最後はそれをお供えします。

 

 

たまたまタートルアン祭に行く前夜に親友からの嬉しい知らせを聞いたので、万事うまくいくようにとお願いしながら徳を積んできました。積めた・・・はずです。

 

https://www.instagram.com/p/B4r3DTKpVG5/

#タートルアン祭#laos #ラオス #vientiane #ビエンチャン#写真好きな人と繋がりたい

 

住めば都、という言葉があるように、本当に住んでしまえばどこでも「自分の家」になるしきっとそのうち「帰りたい場所」だと思うようになるけれど・・・

 

毎日が貴重で、毎日が特別で、そしてこの時間は有限であるということをついつい忘れてしまいがち。1回目のタートルアン祭を経験したということは、ぐるっと暦を一周して次のタートルアン祭に参加するころには、「あと2か月だなあ・・・」としみじみ考えているわけです(きっと。)

 

こういう行事を通して、自分がラオスで特別な時間を過ごしているということを思出して、日々丁寧に生きていくための栄養にしたいと思います。

 

でも物理的な栄養も必要

 

韻踏んでるわけではないですYEAH、

 

おかず横丁の通りにある1920sが本当に最高だったので二日連続で行っちゃいました。

 

 

何が美味しいって、このチーズケーキ!11月初旬の上京時、「Japanese Cheese Cake」とメニューに書いてあったのを見て、どんなもんじゃいと思って食べてみたところ想像をはるかに超える美味しさ。

 

ミルクレープも、クランブルチーズケーキも、甘さ控えめで、とてもとても、とても美味しい!!!

 

 

2日目に行ったとき、ケーキは売り切れよ!と言われてしまい落胆の表情を浮かべながらコーヒーを淹れてくれるのを見つめていたところ、ケーキ屋さんのお兄さんができたてを仕入れてくれました!

 

「日本のチーズケーキ何処で習ったの?」と聞くと、「ユーチューブだよ!」と。すごいなYoutube…ありがとう通信技術…

 

私ら日本人でな、あなたのケーキ食べるために2日連続で来てん!!ほんまに日本で食べるやつみたい!スフレチーズケーキ最高!!

 

とお伝えすると、すごくディーチャイ(嬉しい)な様子でした。それでもしモチベーションあげてクオリティ上げてくれたら、私たちもディーチャイ。お互いディーチャイで、Win-Winですね。

 

ふわふわのジャパニーズチーズケーキが食べたい方、1920sへ是非!

 

そういう休日もよい

 

首都でラオスの正装を着る機会なんて首相表敬ぐらいだと思っていたので、みんなで正装してお出かけできて楽しかったし、人ごみや爆音のどつき合いはつらかったけど来年も絶対行きたいと思いました。

 

帰任は相変わらずひとりぼっちなんですが、今回はちょっとしたアクシデントで、近くの任地の隊員が私のバス降り場まで来てくれました。笑

 

タートルアン祭の大渋滞でいつもより遅く到着した任地で私を待っていたのはこの美しい爆焼け。燃えるようなナムグム川で少し黄昏て、LINEにどんどんあがってくる写真見て、あ~楽しかったな~と2日間のことを振り返る、そんな時間も含めて全部、いいな~と思いました。

 

ラオス最高だ~~~まだまだ好きになるぞ~~~~~~~!!!!

 

・・・ちなみに

「月曜日働くよ!」をそのままの意味に受け取って月曜日に配属先に行ったところ、タートルアン祭、タートルアン祭、結婚式、研修、と殆ど誰もいませんでした。ラオス、難しい!

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『Made in Laos 2019』に行ってきました

さばいでぃー!

こんにちは、ラオスのラオ子です。

 

「●●さんは元気にしてるの?」と、以前出張に同行してもらった同期についてカウンターパートが訪ねてきました。「楽しそうにカメムシ捕まえて食べてたよ、ホラ」と写真を見せると、「美味しそうね~!!ラオ子は食べたことある??ないなら、今度カメムシ持ってきて皆で食べましょうね!」と。

 

私、食虫は全然抵抗ありませんが、カメムシは素揚げがいい。ヂェオ(すりつぶしたペースト)は、無理かも・・・。「日本ではこの虫のこと『ヘコキ虫』とも言って、良い匂いじゃなくて臭く感じるんだよ~。だからジェオじゃなくて揚げカメムシでよろしく!」と言うと、「ラオスにも『ヘコキ虫』っていう名前の虫居るけど、別の種類だしめっちゃ危ないから絶対食べないよ」と上司。

 

調べても何も出てこないので、「臭い虫」で画像検索をかけて「この中に居る?」と聞いてみると、居ました居ました。ほんま便利な世の中やな。

 

どうやら『ゴミムシ』という虫のことをラオスではແມງ(虫)ຕົດ(おなら)というんだそうです。日本でもへっぴり虫って言ってたかな、そういえば。

 

この虫、見た事あっても特に気にとめたことは無かったのですが、どうやらカエルに丸飲みされたときに有毒かつ100度以上の高温のガスを噴射することで吐き出させて生き延びることができるというなかなか危ない虫らしく、いろんな虫を普通の食糧として考えているラオスの人も絶対に食べないみたい。いろんな虫を食べるけど、あらゆる虫を食べるわけではないんだな。奥が深い。

 

この虫の出すおならは「ກິ່ນ(臭い)」で、カメムシは「ຫອມ(いい香り)」、本当にわけがわからんな。ラオスおもしろーい!

 

 

そんな私は、日曜日にこの記事を書きながら、鈴鹿サーキットで行われた『鈴鹿8耐』という、読んで字のごとく8時間走り続けるバイクレースに夢中になっておりました。最後の数分で起きたトラブルの数々と、それによって1位独走だったKawasakiがリタイア扱いになるという暫定結果に微塵も納得がいかず、Instaのストーリーに恐ろしい量の殴り書きを投稿し、現地や中継でレースを見ていた兄妹、某バイク会社に勤める友人、南アに居るシニアボランティア隊員さんに悔しさをぶつけ、悶々。結局、翌日の公式の発表で暫定結果が覆ってKawasakiが一位になりましたが、・・・来年は頼むで!

 

その翌日の月曜日、なんとか2号計画書を出し終え、これからは自分の任地での活動と並行して次のイベントに向けて動き出します。ラオスはコミュニティ開発・デザイン隊員6名(+8月後半に任地に配属される新隊員2名)の大所帯で動くイベントが年に何回かあるので、8月は主にそちらのイベント準備をメインに活動することになるワケです。配属先の巻き込み方がわからないまま半年過ぎてしまってこのままだと完全に「何やってるか分からん人」になるので、Facebookでいっぱい繋がって活動のこと書いていくとか、ワツァップで課のグループ作って活動写真送りつけていくとか、ラオ人向け情報発信もがんばるぞー。

 

Made in Laos 2019

 

ラオスの食品や手工芸に関わる活動をしていくにあたって、情報収集というのはとても大切です。しかし、インターネットから得られる情報はあまりに少なく、何か調べたいことがあればFacebookで血眼になって探す日々。ですので、任地に居ても入ってこない商品がぎゅっと詰まっているエキシビジョンやイベントはとっても貴重な機会。

 

7月最初の総会の時は、たまたまビエンチャンカレッジという大学で行われたイベントに参加しました。このイベントでは、若いクリエイターさんやNGO・NPOが運営するクラフトショップの商品、クラフトビール、そして美味しいチーズの盛り合わせなどが並んでいました(後半関係ないけど幸せでしたありがとうございました)。

 

今回行ったのは『Made in Laos 2019』。首都ビエンチャンですと、こういった大きい展示会は「ITECC」という商業施設で開催されます。ラオス各地の布、手工芸品、食品、医薬品などを一度に見ることができます。生産者さんのFacebookでこのイベントのことを知って、行きたいと思っていたところ、ちょうど新規隊員さんの歓迎会と日が重なっていました!!ラッキー!!上京だ上京だ~~~!!!

 

自分の任地の商品に足りないものは何か、ラオス国内の企業がどのレベルのものを生産できているか、どの地方にどんな特産物があるか、どんなパッケージングを使っているかなど、色んなことを考えながらMR。MRという名の、お買い物。

 

 

こんな風に生産者さんがブースを出しています。

 

24日の生産者視察の後上京して、25日に先輩隊員と一緒にITECCへ。張り切って10時前に着いたら「10時までは入れないよ!」と。そして律義に10時まで待って入ってみると、中のブースは1/3ほどしか開いていませんでした。そういうとこや!!好きやラオス!!!!!

 

職種は全く違う先輩なのですが、ラオスのこと、布のこと、たくさん教えてもらえて、一人で行くより断然収穫が多い見学になりました。「この縦のラインに南部を感じるんだよなぁ・・」は名言だと思います。ありがとうございました!

 

そしてその日の晩イベントの事を話したら、たまたま上京していた同期が行ってみたいと言ってくれたので、翌日26日ももう1度行くことに。前日先輩に教えてもらったことをあたかも自分で勉強したかのようにドヤ顔で話しながらお買い物。

 

二日間でかなり使いましたが、「これは自己投資だ。他県の良い商品を購入して、自分自身で試して、活動に活かしていくんだ。」と言い聞かせました。

 

そんなわけで、ITECCで出会ったいくつかの商品をご紹介します。

 

 

こちら、私の配属先のビエンチャン県は『ケオウドム』という村のODOP商品生産者グループのブース。マルベリー(桑)の実を使った、ワインやシロップ、桑の葉のお茶などを生産しています。

 

写真左の小さいペットボトルがマルベリーのエキスなのですが、これ、ソーダで割って飲むと本当に美味しいんです!!

 

 

フルーツビネガーを想像していただくと味が分かり易いかと思いますが、そのまま原液で飲むと結構つーーーんとすっぱい!酸味に負けないぐらい甘みも強いので、私はマルベリーエキス薄めで、ライムをたっぷり絞ってソーダウォーターで割って飲むのが好きです。ライムのビタミンやクエン酸もたっぷり摂れて疲労回復!うだるような暑さの日にぐびぐび飲みたくなる味です。

 

マルベリーといえば、カリウムやビタミンCがとっても豊富です。この国の食べ物、基本的に味付けがとっても濃いので、カリウムたっぷりのマルベリーはとてもありがたい存在。亜鉛や鉄、抗酸化作用のあるポリフェノールも含まれていて、更にはアミノ酸組成のバランスも良いので、特に女性に嬉しい果物なんですよね。

 

桑の葉は、日本でも中国でも漢方として重宝されてきた生薬でもあります。日本薬局方(厚生労働省が、医薬品の品質や薬効を適正に確保するために定めた規格、基準)によると、日本では桑の根の部分の表皮を剥いだものが「桑白皮」という漢方薬として流通しているようで、抗菌作用が認められています。そのほかの実、枝、幹などは健康食品として売られているようです。血糖値や血圧を下げる効果もあり、生活習慣病の予防やダイエットの補助にもなるとのこと。

 

今度伝統療法士のおばあちゃんが事務所に来たらラオスではどういう風に処方されてるのか聞いてみよう。

 

 

 

他にも、値段を聞くことすら躊躇う『フアパン県サムヌア地方』のパービヤンやシンに大興奮したり(任地での1か月の生活費が余裕で飛びます)、

 

 

水道菅で作られた、民族楽器を吹く置物に愛着が涌いてみたり、

 

 

タイル―族のケミカルな織物に心奪われたり(何で買わなかったんだろう・・・)。

 

 

ラオスの南部はコーヒー栽培、北部ではお茶の栽培も盛んで、ボラベン高原のコーヒーやポンサリーのお茶なども並んでいました。

 

 

 

やってしまったのがここ。シンがたくさん並んでいるなかに、私の任地では見かけない可愛い模様を見つけてしまい、斜め前のポンサリーのお茶やさんのお母さんが「ええやんええやん!!」とちゃちゃを入れにきて、

 

 

えええ・・・・可愛い・・・・となった結果、

 

 

迷いに迷って1日目に1枚買って、

 

 

2日目におかわりしちゃいました(笑)結局どっちも買うんかーい。

  

なんてったってこれ、1枚2000円以下。裏地はもともとついているので、お仕立ては2着で900円ぐらいでした。いつも大家さんの親戚の仕立て屋さんに頼むのですが、最近とても安くしてくれます。でもものすごく丁寧に、そしてすぐに仕上げてくれるんです。ありがたい!

 

買った生地はせっかくなので、

 

 

 

1枚はシンに、

 

 

もう1枚はスカートにしました。

 

ちゃんと一番きれいなところがセンターに来るようにどちらも調節されています。お母さん・・・天才か?

 

 

ドミトリーに先輩が置いていってくださった藍染の絣布のスカートを持っていって、「これと同じ感じで、でも柄が切れないように長めに仕立てて!」とお願いしたのですが、言い忘れてたスリットを勝手に入れてくれるあたり、本当に天才か???

 

藍染のスカート、サイズはぴったりなんですが、大股の私には少し歩きにくかったので、スリットが入ってちょうどよくなりました(笑)

 

職場の同僚に聞いてみると、シェンクワンの低地ラオ族のものということには間違いなさそうなのですが、「ລາວພວນ族」「ໄທແດງ族」のどちらかだそうで、何族のものかは特定できずじまいでした。知ってる方、教えてください!どっちにせよ可愛すぎるわ。ベッドに広げて、一人でにんまり。幸せだー!

 

 

で、視察はと言いますと、いつも任地でお世話になってる生産者さんにも挨拶に行けたし、食品のパッケージングの参考になる会社も見つかったし、色々な県の布を使って商品を作っているラオス人のデザイナーさんにも出会えたし、なかなか収穫多き時間になりました。反省点があるとしたら、今度からはもう少し財布のお金を抜いていこうと思いました・・・。

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ビエンチャン県に、きゃんせ!

さばいでぃー。

「きゃんせ!」が分かった人は私と同郷(のはず)!!

 

滋賀の湖北のことばで「おいでよ!」という意味です。

 

トゥクトゥク走ってない、外国料理のレストランもない、中国・韓国語の看板すら見当たらない、乳製品売ってない、ないないない・・・と普段「任地ないないアピール」をしまくっている私ですが、ついに、いつもお世話になっている某OBの方に「今まで行ったなかで1、2を争う僻地」と太鼓判をいただきました。ありがとうございます、光栄です!!!

 

そんなことばっかり言っている私ですが、たまには趣向を変えて「ビエンチャン県楽しいですよ~~~💛」という意見も推してみたいと思います。

 

 

ビエンチャン県ってどこ。

首都「ビエンチャン特別市」と混同されがちなビエンチャン県は、首都の北に位置する県で、県都は私が居るビエンカム郡にあり、サイニャブリ県、ルアンパバン県、タイとの国境、シェンクワン県、ボリカムサイ県にかこまれています。

 

 

県の中央には大きな「ナムグム湖」そしてそこに作られた「ナムグムダム」があり、ラオスの人たちの観光地になっています。ダムの北がわには1度行きたいと思っている「ナムグムダムリゾート」、そこから更に北上するとエコツーリズムの拠点「バンビエン」。首都ビエンチャンと地方都市ルアンパバンを結ぶ国道13号線が縦に走っています。はい、早口言葉みたいですね。言ってみましょう、ナムグム湖ナムグムダムナムグムリゾート。

 

私の任地「ビエンカム」

 

こちらは、私の家から徒歩10分ぐらいの景色。ナムグム川のゆったりした流れを眺められるお気に入りポイントです。(ただし高所恐怖症には辛い、橋の上)

 

この上流にナムグムダムがあるのは知っていたのですが、まだ行ったことがなかったので、他県から遊びに来てくれたみなさまと共に初ビエンチャン県観光!なかなか行く機会がなかったバンクンの塩工場、そしてクマが二足歩行すると有名な動物園にも、足を運んでみました。

 

ナムグム湖・ナムグムダム

 

大きなナムグム湖の西側に面している「ケオウドム郡」、マルベリー(桑)を使った商品がODOP認証を受けている町です。桑があるということは、養蚕も行われているということ。ケオウドム郡は養蚕が盛んに行われており、ここで紡がれた糸は県内、県外のシン生産者グループに買われていき、鮮やかに染められて、美しい布へと姿を変えます。

 

 

このナムグムダム、実は日本と大きなつながりがあります。

1958年、ラオスを訪れた日本工営久保田豊スパーヌウォンと面会した際に電力不足について相談を受け、ラオスが地形に恵まれ水も豊富なことから水力発電を行なうことを提案した[1]。久保田は自らメコン川流域を調査し、1964年には久保田自ら世界銀行に乗り込んで融資交渉を行なった[1]。この際には計画が過大であるとして融資を拒否されたが、タイ政府との交渉で余剰電力をタイ国内に売電する合意を取り付ける[1]。再交渉も一旦は頓挫したものの、その後も交渉を継続してアメリカ合衆国のほか、日本・オーストラリア・カナダなどから資金援助を受けることで計画が進められることになった[1]

1968年に着工[1]。多数の日本企業がダム建設や送電網の建設などに関与した[1]ラオス内戦で建設中のダム周辺はラオス王国パテート・ラーオの勢力圏の境界となったが、スワンナ・プーマ首相により中立地帯に指定されて建設は続行された[1]。ダムは1971年12月に完成し、1972年から発電を開始[1]。当初は3万キロワットのタービン2基であったが、1975年には4万キロワットのタービン2基が追加され、1983年にも1基の追加が行われた[2]

ラオス国内での電力需要の増加により、2006年以降は発電する全量を首都圏に供給するようになっている[3]

ナムグムダム – Wikipediaより引用

 

ということで、「東南アジアのバッテリー」ともいわれるラオスでは次々と電源開発が行われていますが、このナムグム湖・ナムグムダムはラオスのなかでも古い歴史を持つ場所です。現在ラオスはたくさんの国の支援を受けてどんどんダムを建設していますが、このナムグムダムは、日本が支援し、そしてラオスに初めてできたダムだそうです。先人の方がた、おかげさまで、電気に困らない暮らしができています。本当にありがとうございます。

 

 

このダム湖で、クルージングしながらキンカオ(ごはんを食べること)が楽しめるということで、皆で行ってみることに!

 

 

食事を注文すると、お店の人たちが料理をつくってせっせとセッティングしてくれます。カオニャオ(蒸したもち米)のおかずになるようなラープ(肉や香草を混ぜたラオスの伝統料理)、空心菜炒め、大きな魚の塩焼き、チャーハン、そしてビアラオを積み込んで、いざ出発!

 

 

走り出すと、風がとっても気持ちいい。滋賀県民もびっくりのこの湖の大きさ、あとから調べてみたら福岡市と同じぐらいの面積がダム湖として使われているみたいです。

 

福岡市が340㎢、琵琶湖が670㎢。琵琶湖の半分の大きさを人工的に湖にするなんて、すごくないですか、滋賀のみなさん。

 

このダムに浮かぶ島の中には刑務所や麻薬中毒者の更生施設があります。皆が船の屋根の上から眺めを楽しんでいるあいだ、怖くて上まで行けなかった私は船を操縦してくれているおじさんに色々聞いてみました。

 

どの島が、悪い人が居る島なの?←「刑務所」がわからない

 

あれだよ!(指をさす)

 

え!めっちゃ近い!!!見学とかできないのかな??

 

悪いことしたら行けるよ。(笑)

 

おっちゃんは行ったことある?

 

行ってたらここに居ないよ(笑)

 

ですよね(笑) 陸と、あんまり遠くないね、大丈夫なの?

 

大丈夫、大丈夫。雨季になったらもっと水が増えるから!

 

そんな感じでいらぬ話をしてたらあっという間に陸に戻っちゃいました。にしても、観光地になっているところから本当に近かった。あんなに近くて大丈夫なのか。雨季になったらっていってたけど、乾季あるやん。乾季。そのゆるさが、・・・好き・・・。

 

 

ナムグムダムの放水は、この時期水量が足りず見れませんでしたが、かわりにこの長い管をつかって魚にエサやりしているところが見られました。近くの売店で売っているエサを、展望台に設置されているパイプに流し込むと、ナムグム川の大きな魚たちがばくばく。魚の名前、何と言ったかなあ。鯉みたいな大きい鱗の「ぱーぱー」と、黒いボロ布みたいな・・・やつがいました。(もう名前が出てこない)

 

 

この水が、冒頭の写真の私の任地までやってきて(といっても十数キロですが)、そしてメコン川へと流れていくんですねえ。

 

ナムグム湖の水かさが一番増すのは9月、10月。操縦士のおっちゃんもその時期がベストシーズンだと教えてくれました。ビエンチャン県観光をお考えの方、是非その時期にお越しください! 

 

ビエンチャン動物園 

 

水上船でランチを食べた後、先輩の配属先見学を経て、動物園へ! 

 

なんと、県都ビエンカムとビエンチャン特別市の間にある「トゥラコム郡」には、ラオスで唯一の動物園があるのです。

 

入場料は、大人(ラオ人)10,000KIP、そして大人(ラオ人)15,000KIP。

 

うん、よくあるやつやけど、なんか悔しい!笑

 

 

さっそくチケットを買って、中へ!

 

 

日本のように「動物を間近で見る」タイプとは違い、広大な敷地で放し飼いにされている動物たちを遠くから眺めるような、ゆるっとした雰囲気。自由に、のほほんと暮らしている感じが良いです。狭い檻に居るより幸せそう。

 

 

ああ・・望遠レンズが必要だったなこれは・・・と思うほど、広い!今度はぜったい望遠持っていくぞと心に誓いながらシャッターを切りました。

 

ちゃんとエサあげてるのかな?そのへんの草食んでるだけでは・・・と思うぐらい自然にあふれた、「森」です。

 

 

色鮮やかなクジャクさんも居たりですとか。

 

 

ワニは、餌やりが楽しいらしいのですが、残念ながら売り切れていました。そうなると彼らは全く動きません。また次回のお楽しみに取っておこう。

 

 

動物さんたちから伝わるでしょうか、なんともいえない「ゆるっと」感。

 

一日中視線を浴び続けることもなければ、「おーい」と話しかけられたりもしなさそうな、森の中での暮らし。私も、動物園に来たというより、森林浴でもしにきたかのような感覚でした。

 

 

そしてこちら、二足歩行で立ち歩くと話題の熊さん。脱走しても誰も気づかなそうな広大な敷地に普通に張られただけのフェンス。その向こう側には、強い日差しに項垂れるやる気のなさそうな熊さんたちが、今にも溶けそうな感じでぐでんぐでんになっていました。

 

大人数名が「おおおーーーい!!」「歩いてーーー!!」「くまさーん!!」と必死になってるのがシュールでめちゃめちゃ面白かったです。

 

そして、「しゃーないな・・・ちょっとだけやで」という感じで、むくっと立ち上がってくれたのが彼。でも、歩いてはくれませんでした。 

 

 

そしてこちら、せっかくここまで来てみんなで必死に応援(?)したのに、熊さんたちに総無視をくらって意気消沈した私たち。

 

 

バンクンの塩工場

 

「ビエンチャン県配属です」と言うとだいたい「塩工場」「動物園」が話題にのぼるのですが、なかなか機会が行く機会がありませんでした。今日はその両方に一気に訪問!というわけで、動物園の次は、念願の塩工場!

 

 

窓の向こうには純白の塩がどっさり積まれています。

 

後日配属先で「あの塩はODOP商品にならないの?」と尋ねましたが、申請さえすればODOP商品にするのは可能とのこと。え、ODOP商品にしようよ!!ねぇねぇ!!!なんでしないの!!!!!

 

 

天然塩というと広大な敷地の塩田を想像したくなりますが、こちらの工場は「平釜」という製法で精製しています。屋根の下に行くと、ぐつぐつと煮える海水からたちのぼる蒸気でもわっとしています。

 

ところで、ラオスは、ミャンマー、中国、ベトナム、カンボジア、タイに囲まれた海ナシ国です。何故「塩工場」がラオスにあるんでしょうか。

 

 

それは、昔むかしにラオスが海の底だったことが関係しています。

 

そのおかげで、このあたりの地下水は塩分を含んでいます。それをくみ上げて火にかけぐつぐつ煮込むことで、塩が出来るというわけ。

 

ということは、いつか枯渇するのかな??

 

試食させてもらうと、持った感じはふわっとしていて、しょりしょりした感じ。未精製のため、最初にしょっぱさがガツンとくる感じは無く、むしろ甘さや、まろやかさがふわっと広がります。

 

 

結晶化した塩はこのようにザルにあげて乾かしたあと別の部屋に運ばれ、乾燥させて、商品として売られていきます。

 

 

この1つのかごに80キロの塩が入っています。竹の棒を通して肩に担ぎ、別の部屋へと移動させて乾燥させます。前を担いでいるのはなんと女性。「手伝いましょうか」と言ったら「重いから無理だよ」と言われました。そうかも、確かにこれは無理かも。でもやってみたかったかも。次回。

 

 

ふわふわの塩。かわいい。

 

任地で自炊をはじめるとき、市場で探してこのバンクンのお塩を買いました。日本でもゲランドやアンデスの未精製塩を愛用していましたが、その理由は「ミネラルを多く含んでいるから」。私の持論ですが、「減塩」をするよりも、「良質な塩」を摂るようにするほうが体に優しいのではないかと思っています。量産されたようなお味噌で作った減塩味噌汁よりも、天日や平釜で作られたミネラル豊富なお塩を。外食やスナック菓子で質の悪い精製塩を摂らず、自炊して、味をつけたいものには味をつけて、しっかり塩分を摂る。それが体に良いと信じて生きてます。どうだろ。

 

ラオスには7社(?)の塩工場があるそうで、天日干しのところもあれば、このバンクンの塩工場のように平釜で精製しているところもあります。食べ比べ・・・してみたいなあ。塩にぎりにして、利き塩大会。やりませんか、誰か(笑)

 

ナムグム川を眺めながらシンダート

 

 

日が傾きかけたころ、川底から砂を採掘してる・・・というのはおいといて、夕日が綺麗なナムグム川の涼しい風に吹かれながら鍋パーティー。ホスピタリティ精神が爆発したシンダート屋のおばちゃんたちのおかげで最後まで楽しめました。おばちゃん・・・いえ、おねえさん!いつもありがとう!!!

 

ビエンチャン県の観光スポットまとめ

ということで、ナムグム湖、動物園、塩工場の3本立てでお送りしました。

朝に首都を出れば日帰りで3か所まわって帰れます!現地の交通事情がアレなので、ここまで乗り合いバンで来ると移動が困難なので、タクシーをチャーターして首都からくるのが一番良いと思います。日帰り社会科見学気分で、いかがでしょうか~!

 

 

「あ、バンビエンもビエンチャン県なんだ~!」と言われることが多いのですが、このラオスの有名観光地バンビエンも!!ビエンチャン県ですので!!!お忘れなく!!!!!!

 

私の任地ビエンカムもこういう記事が書ける観光資源があると信じて・・・任地生活を謳歌したいと思います。あってくれ~~!

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「サンタピアップ」がポイペトの村で続いていきますように

チョムリアップスォー!!

みなさん、こんにちは!ラオスのラオ子です。ラオスのラオ子ですが、今日はカンボジアについてのお話なので、チョムリアップスォーと挨拶してみました。

 

សន្តិភាព

 

突然ですが、「サンタピアップ」という言葉をご存知でしょうか?

 

ラオスに関わりのある方、ほとんど同じ響きの「サンティパープ(ສັນຕິພາບ)」という言葉が、全く同じ意味です、といったら、あ!と気づく方も多いのではないかと思います。

 

「サンタピアップ」とは、カンボジア語で「平和」を意味します。

 

そして、私が2012年から繋がり始めたカンボジアの、首都から遠く離れたタイとの国境付近の町「ポイペト」で活動されている大先輩の法人名でもあります。

 

その「特定非営利活動法人サンタピアップ」さんがこのたび、活動地であるトゥールポンロー村に公民館のような憩いの場を作るべく動きだされましたので、私もサンタピアップさんを応援する一人として、記事にさせていただく次第です。

 

 

「サンタピアップからのお願い」全文

まずは、サンタピアップ代表、古川さんの言葉をそのままこちらに引用させていただきます。

 

【いつも応援していただいているみなさんに、大切なお願いです】

いつも温かいご支援をいただき誠にありがとうございます。
NPO法人サンタピアップ代表の古川沙樹です。
私が初めてポイペトに訪れてから16年が経ちました。
ここ数年の街の発展は目まぐるしく、街の様子もずいぶん変わりました。

現在3か所の経済特区ができ、日系企業の進出も始まっています。
とりわけ2017年12月頃からは中華系の人々が大量に参入し、現在その人口は2年足らずで1万人を超えたと言われています(ポイペト全体の人口約10万人)。

サンタピアップ活動地であるトゥールポンロー村にもその波は押し寄せてきており、
現在トゥールポンロー村は外国人からは「チャイナタウン」と呼ばれ
土地の買い占めが始まり、更地だらけになってしまいました。

子どもたちが当たり前のように遊びまわっていた場所がなくなりはじめています。

サンタピアップではこれまで村の人のご厚意で、土地の一角を無償で借りて活動してきました。
現在の状況を副村長や村の人々と話し合う中で、何とか子どもたちの遊び場を確保したいと思いました。
今、無償で借りている場所も雨風を防げるような場所ではないので、いつでも子どもたちや村の人たちが自由に使える「公民館」のような場所を作りたいと思いました(「サンタピアップハウス(仮称)」)。
関わっている子どもたちの中には、家に居場所がない子もいます。貧困からくる様々な問題に一生懸命耐えている子どもたちが一時でも安心できる場所が必要です。
村の人たちの意思とは別に、目まぐるしく変わってしまう環境の中で、そこだけは変わらない、誰にとっても安心できる居場所を早急に作りたいと思っています。そして日本から子どもたちに会いに来てくださる人との交流の場にできればと思っています。
「サンタピアップハウス」建設にあたって、土地の購入・建築費に約300万円必要です。土地の価格が日に日に高騰しているため早急に土地だけでも確保したいと思っています。
ご存知の通り、サンタピアップでは今までほとんど資金も物も持たずに活動を続けてきました。サンタピアップハウス建設にあたり皆様のご協力を心よりお願いいたします。

2019年6月 NPO法人サンタピアップ代表 古川沙樹

シェアや拡散のご協力も、よろしくお願いいたします。

【振込先】
ゆうちょ銀行
特定非営利活動法人
サンタピアップ
店番458
普通預金
口座番号2662781

郵便振替口座:
(0)0900-7-329383
特定非営利活動法人サンタピアップ

※お振込みいただく際は、お名前ご住所の記入をよろしくお願いします。

※お振込の際、先頭のゼロを追記しない場合もございますので、ご注意下さい。

 

この投稿を見て、私も気持ちばかりですが応援させてもらいました。そして、この活動についてもっとたくさんの人に知ってもらいたいと思い、こうして記事にさせていただくことにしました。

 

まずはカンボジアの歴史について

ポイペトについてのお話にうつるまえに、カンボジアの歴史について少しお話させたいただきます。カンボジアといえば地雷や内戦といったイメージですが、あんまり詳しく知らない!という方は、まずはつっこみどころ満載のこのざっくりまとめを見て頂ければと思います。ご存知の方は次の見出しへ!

 

カンボジア内戦 – Wikipedia

ー1949年フランス領インドシナからの独立~1998年ポルポト死去まで

カンボジア作戦 – Wikipedia

ー1970年のクーデター

クメール・ルージュ – Wikipedia

ー1951年~1999年ごろ

S21 (トゥール・スレン) – Wikipedia

クメール・ルージュが残した内戦の爪痕

 

・・・といいつつ、一部だけ抜き出すのは難しいし、歴史的学説は多々ありますので、Wiki先生に丸投げさせていただきます。

 

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簡単に、ものすごくおおざっぱに言うと、

 

フランス領から独立した後、ノロドム・シハヌークによりカンボジア王国誕生。

国王が癌治療で他国に出向いている間に、

アメリカに支持されていたロン・ノルが王政廃位。

ロン・ノルは反ベトナム派だったため、ベトナム人を強制送還・大量虐殺。

ノロドム・シハヌークは亡命先の北京でカンプチア民族統一戦線を結成。

ロン・ノルに迫害されたノロドム・シハヌークがクメール・ルージュを支持したため

国王を慕う農民のクメール・ルージュ支持層が増加。

政府の腐敗に対する民衆の反発、冷戦下での中国共産党の支持、

そしてアメリカ軍による空爆で、第2次世界大戦で日本に落とされた総量の3倍もの

爆弾を落とされ、数十万の犠牲者を出した上に農地も破壊されて

輸出国から輸入国に転落。

カンボジア民族統一戦線がプノンペン占拠、クメール共和国崩壊。

民主カンプチア誕生。「ポル・ポト政権」による大量虐殺開始。 

 

ポル・ポト率いるクメール・ルージュは完全な原始共産主義を目指し、強制移住、強制労働を行いました。その中で、一切の私財を没収、貨幣そのものや宗教も廃止、暴動や反乱を起こす危険性のある知識人階級を収容・虐殺。それは政治家にとどまらず、教師、医者、僧侶、伝統芸能者などにも及びました。国の発展のためにと海外留学していた人もその対象となったほか、メガネをかけている人(字が読める)、ラジオを持っている人(言葉がわかる)も対象となったと聞いたことがありますが、どこまでが正しい情報なのかは不明です。

 

そして最後は、カンボジア民族統一戦線とベトナム軍によりカンボジア侵攻。民主カンプチアは倒れ、現在のカンボジア人民共和国が成立したのです。

 

 

現地語では「チュンエク」と呼ばれる、プノンペン郊外の「キリングフィールド」。拷問ののちに処刑されることとなった人たちがプノンペン市内で溢れ返り、郊外に作られた処刑場です。

 

ひとつの穴に数百もの遺体を埋め、遺体から発生したガスで地割れがしていたとも言われています。一番有名なこの場所が負の遺産として残されていますが、こうした虐殺場は国内に数百あったともいわれ、正確な犠牲者の数も分かっていません。

 

 

「KILLING TREE AGAINST WHICH EXECUTIONERS BEAT CHILDREN」

 

なんの罪もない子どもたちがこの木にたたきつけられ、殺されました。「子どもの血や脳みそ、髪の毛が幹にこびりついていた」という音声ガイドを聞き、私はこの木の前に立っていられなくなりました。遠い遠い昔の話ではない、私が生まれるほんの少し前の出来事。

 

 

不自然に穴の開いた頭蓋骨の数々は、数十年経ってもなお家族のもとへ帰ることも許されず、キリングフィールドでジェノサイドの残虐さを訴え続けています。

 

 

 

花を手向け、手をあわせましたが、そのとき私は、心に何も浮かんできませんでした。何と思っていいのかもわかりませんでした。こんな感情は生まれて初めてでした。しんどくて、しんどくて、ただ手を合わせて、やすらかに眠ってくださいと願うことしかできませんでした。

 

 

 

その後訪れた「S21」、現在の名を「トゥールスレン虐殺犯罪博物館」。14,000~20,000人が収容され、生き残ったのはそのうち7人、8人ほどだと言われています。

 

 

 

1979年1月にベトナム軍がプノンペンを鎮圧するまで続けられたのは、反革命分子によるむごい「粛清」。拷問器具や血だまりがそのままにされた館内は、もともと学校だったとは思えないおぞましい雰囲気に満ちています。

 

是非訪れてください、と言える場所では、決してありません。でも、もしもプノンペンに行く機会があれば、人生1度だけでも訪れてほしい場所でもあります。

  

ポイペトってどんなとこ?

さて、ここまで、カンボジアの内戦の歴史について触れましたが、ここからは本題に入って「ポイペト」のことを書いてみようと思います。

 

私がはじめてポイペトの村を訪れたのは、2015年4月のこと。トゥールポンロー村や国境付近を案内してもらい、「ポイペトってどんなとこ?全編・後編」というタイトルでブログの記事を書かせてもらいました。まずは、その内容を少し直しつつ、私が見た、聞いた、感じた、ポイペトについて、紹介したいと思います。

 

2015年4月、ポイペトはこんな町

ポイペトは、タイとカンボジアの国境のカンボジア側にある町です。バンコクからアランヤプラテートまではバンやバスで5時間ほど、そこから歩いて国境を渡ればカンボジア側の国境の町ポイペトに到着です。

 

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内戦の影響で隣国のように発展を遂げられなかったカンボジアは、多くの生活インフラと物資をタイとベトナムに頼ってきました。その物流のキーポイントとして発展を遂げているのが、このポイペトの町です。大型のバスやトラックが行き交う危険な国境付近で働くのは、リヤカーで荷物の運搬を行ってお金を稼ぐ人、それを手伝う子どもたち、陸路で国境を越える観光客目当ての商売人。アンコールワットの町シェムリアップへの通過点であることから観光客も多くみられ、物乞いの人たちも国境付近にたくさん居ます。

 

あらゆる社会問題がぎゅっとつまった、カンボジアの縮図ともいうべき、混沌とした世界が広がっているように感じました。

 

内戦後のポイペト

先に書いたように、内戦時代のカンボジアは、言葉にならないほど悲惨なものでした。その戦火を逃れるためカンボジア各地からやってきた人たちは、このタイとの国境付近に住み始めました。その数は日増しに増え、アランヤプラテートとポイペトには大規模な難民キャンプができたそうです。

 

そして、内戦で故郷を追われた人たちを更なる悲劇が襲ったのは、1990年代のこと。タイの資本家が、まだ法の整っていないカンボジアに目をつけ、国境付近にカジノを建設すると言い出したのです。

 

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外貨を獲得したいカンボジア政府はそれに応じました。そして、カジノやホテルを建設するためには、広大な土地が必要となるため、そこに暮らす人たちは立ち退きを余儀無くされました。

 

お話を聞かせていただいたカンボジア人の方が言うには、ある日突然ブルドーザーがやってきて、水や電気などのインフラも整っていない、地雷の撤去も終わっていない、子どもを通わせる学校も無いような代替地に追いやられていったのだそうです。

 

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昼間はネオンの明かりもないし、周りもよく見渡せます。カジノの敷地内はガランとしていて、人もまばら。ところが一歩外に出ると、道も市場も屋台も人で溢れていて、その中で静かに佇む巨大な建物は、ものすごく違和感がありました。

 

ホテルがあり、カジノがあれば、置屋、売春もあります。タイからのブローカーに子供を売る親も居るそうです。そうなると必ず蔓延するのはHIV。国全体で見ると感染者は年々減少傾向にあるものの、支援の手が入りにくい僻地では都市部よりも深刻な問題です。

 

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すぐ近くにはテントがたくさん並んでいて、タイから持ってきたであろう服や雑貨が売られていました。奥のほうには、日本のイベント会場でもよくある、空気で膨らます遊具も。子供たちがボヨンボヨンしながら滑っていました。

 

写真はありませんが、カジノの中にも入ってみました。店員さんはタイ人ばかり。手前の売店には、ブランドものの時計や服、日本のお菓子がたくさん売っているところもありました。日本のお菓子に飢えていた私は、源氏パイやイチゴのお菓子、キャラメルポップコーンなど5つ買い、700バーツを支払ってホクホク顔でカジノを後にしましたが、あとで計算してみたら700バーツって2700円ぐらいですよね。もしかして私、アホなんかなっておもいました。後悔しながらも美味しく頂きました。やっぱり日本のお菓子は美味しい。

 

地雷の博物館、カンボジア

話題を少し変えまして、カンボジアの地雷についても触れてみたいと思います。 内戦時代にカンボジアに埋められた地雷は、いくつぐらいかご存知でしょうか?

 

 

その数なんと、400~600万個。埋設密度は世界一、カンボジアは「地雷の博物館」とも比喩されています。

 

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これはシェムリアップの博物館に展示されていたクレイモア地雷。指向性対人地雷の一種です。

 

ワイヤーにひっかかるか、リモコン操作で信管が反応すると、爆風と共に中から数百個の鉄球が飛び出します。有効加害距離50m、最大加害距離250m。「目の前で爆発したら、何百発もの鉄砲玉を浴びるようなものです」と言われて、背筋が凍りついたのを今でも覚えています。

 

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こちらも、展示されている地雷の数々。展示品の地雷をカンカンカン!!と叩きながら熱心に説明してくださったもんで、信管は処理済だと分かっていても私は終始冷や汗が止まりませんでした。

 

地雷は、残虐性、残存性、無差別性を備えた”悪魔の兵器”。その中で対人地雷は、「怪我を負わせるため」に埋めらました。ズタズタに切り裂かれた手足を見て精神的に追い詰められる。一人の足が吹き飛んで負傷すれば、それを救護するために兵力が裂かれる。その後の治療やリハビリに、家庭にも国にも、経済的負担がかかる。戦力を少なくするためには、死ぬよりも負傷したほうが都合が良いのです。

 

そして、地雷原になった場所には住めなくなり、農耕も出来ません。 地雷は、信管を抜き取るまで半永久的に、じっとそこで待ち続けます。対戦車地雷の真下や真上に対人地雷を置いたり、地雷探知のために除去作業員がプロッター(地雷探知に使う鉄の棒)を斜めに差し込んだときに反応するよう、対戦車地雷のまわりに対人地雷を斜めに埋めたりと、殺傷能力の高い対戦車地雷も工夫されて埋められており、単純に対人地雷だけに気をつければ良いという事ではありません。

 

ポイペトに残る地雷原

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これは、ポイペト郊外の地雷撤去が終わった場所につけられた看板で、CMACという政府機関が立てたものです。地雷を撤去している人の中には、ポルポト時代の兵士も居ます。

アキ・ラー – Wikipedia

シェムリアップにあるアキラ地雷博物館には、ポイペトで撤去された地雷も多数展示されています。(先ほどの地雷の写真はアキラ地雷博物館で撮影させていただいたものです。)

 

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この記事を書いた数ヶ月前には、シェムリアップの郊外にある世界遺産のロリュオス遺跡群近くの公立小学校横の森で、爆発事件がありました。子どもたちが鉄くずを売ろうと不発弾を触ったところ爆発してしまい、4人が酷い裂傷で病院に運ばれたそうです。(ニュースで見た時は亡くなったという情報はありませんでした)また、牛を2匹繋いだ牛車に子ども二人を乗せて走っていた男性が対戦車用地雷を踏んで吹き飛び、みんな亡くなってしまったという痛ましい事故も、私がここに来てからのこと。

 

地雷撤去が終わる=”100%安全な土地”になったというわけではありません。雨季の激しい雨で地雷を覆っていた土が流れてしまうため、地中深くに眠っていて探知機に反応しなかった地雷が出てくることもあるのだそうです。「何個撤去したかではなく、国土の何パーセントが安全な土地になったかが重要」と以前とある方から伺いましたが、こういうニュースを目にするたびに本当にその通りだなと思います。

 

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この荒地の奥に広がっている森は、”あえて”地雷が残されたままになっている場所。国境線上に位置していて、不法入出国を防ぐためと、またいつ勃発するか分からないタイとの国境紛争のためにこのままにされているんだそうです。

 

 まわりには広大なキャッサバ畑が広がる中、誰も手をつけない森。そのすぐ手前のバラック小屋では、そこに暮らす子どもたちがままごとをしながら、見慣れない外国人の私をじっと見ていました。

 

ところでポイペト、水・・・どこ?

 

町の案内をしてもらったあとグーグルマップで確認して驚いたのですが、ポイペトの田舎のほうには、大きな川や溜池がありません。これでは、農業用水はおろか生活用水の確保も難しいでしょう。テレビでよくある「子供が数キロ先まで水を汲みに行く」という話。ポイペトでは実際に行われています。井戸がある家はもちろんそこから汲み上げますが、その井戸を掘るのにもお金がかかります。井戸がなければ、溜池まで水を汲みに行くほかありません。

 

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私が泊めていただいた方の家には井戸があったので、その水が溜められた水がめで水浴びをしました。普段は年末年始の断水以外は何不自由なく過ごさせてもらっている私、ポイペトで久しぶりのカンボジアンスタイルの水浴び。ドキドキ。入社してすぐ電気の無い島で一泊したとき以来です。

 

水がめの中を覗いてはいけません。無心で水を浴びます。「綺麗になった」と思うのです。思うことが、大切なのです。(笑)サロンと呼ばれる布を体に巻いて、家の裏手にある水がめで体を洗う私と友人。慣れた感じで何の躊躇いも無く、そして手際よく水浴びする姿を見てスゴイなあ・・・と感心しながらふと西の空を見たら、燃えるような夕日が。水浴び中なので写真は撮れませんでしたが、草原が夕焼けに染まっていくのを見ながらの水浴びは、なかなかオツだなと思いました。

 

一方で、生活用水が確保できず、水浴も洗濯も出来ない人が、同じ地域に住んでいるんだよな。と、水がめにたっぷり溜められた水を見ながら思ってはみるものの、その中で生きていくのがどれほど大変なことかは、私には想像もできません・・・。

 

貧困、出稼ぎ、そしてまた貧困へ

町に仕事が無い。土地の買占めのあと用意された農地は痩せていて、水も十分に確保できないから、作物が育たない。そうした理由から、この町を拠点としてタイに出稼ぎに行く人が後を絶ちません。しかし、カンボジアのパスポートは135ドルとかなり高額なうえに、首都プノンペンまで取りに行かなくてはならないのです。賃上げストライキを何度も起こした縫製産業の最低賃金でも月収128ドル。(2015年の情報です)

 

去年1月の時点で教師の最低賃金が100ドルです。加えて、交通費や宿泊費もかかります。ポイペトからプノンペンまでカンボジア人が幾らぐらいで行けるのかは私には分かりませんが、出稼ぎにいかないといけないぐらい生活に困っている人からすれば決して安い金額ではないでしょう。

 

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その人たちに残された手段が、タイへの「不法入国」。カンボジア人の出稼ぎ労働者が雇われるのは、建設系の仕事だそうです。ポイペトの村の中には、出稼ぎに行って過労や仕事中の事故で亡くなった方も。そうなったとしても、不法入国している人たちは、何も言えないのです。

 

「仕事中の事故」というのは、足場から落ちたり、モノが上から降ってきたり、あとは電気工事中の感電死もあるとのこと。

 

タイの工業用電圧は380V、日本の200Vよりかなり高い設定です。工業用電圧は、ショッピングモールやホテルの空調設備などにも使われています。日本で電気工事するには国家資格が必要で、試験には実技も含まれています。資格を取ってからも、実際の工事にあたる前にまた講習を受けたり、低圧・高圧それぞれの電圧を扱うための研修を受けるなど、徹底的に教育されるんだそうです。現場で作業にあたるのはそれほど危険なことなんですね。「電源切れてると分かっていても工業用電圧の配線を触るのは怖いよ」と、電気工事士の兄は教えてくれました。

 

タイはカンボジアに比べて、そのあたりの法整備や労働環境、教育も発展しているのでは?と、タイに行く前は思っていましたが、結局は電柱を見上げて「どこも一緒」という結論に至りました。数え切れない本数の電線が繋がれ、余った分もぐるぐる巻きつけられて、千切れた電線が人の背の高さまで垂れ下がっていても誰も気にしない。漏電による火災や、垂れ下がった電線に触れて感電死、といった事は、ここでは特別なことではありません。

 

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バンコクからタイ側の国境までのバスに乗ると、途中で何度か停車します。乗ってくるのはみんなカンボジア人。お正月前ということもあり、大きな荷物を抱えて大勢乗り込んできました。

 

アランヤプラテートの手前に検問があり、そこでバスが一旦停車するとタイ警察がバス内に乗り込んできて、乗客のパスポートをチェックしました。パスポートが無い人はそこで降ろされ、罰金を支払って強制送還。私たちのバスにはそういう人はいませんでした。(いる場合はだいたいもう少し手前で降りて別のルートで行くんだそうです。)

 

国境付近に居れば、荷台に檻がついたトラックに不法入国者が詰められてカンボジアに強制送還させていくのを見ることもあります。ちなみにこの日、タイ側のイミグレは帰省ラッシュが起きていて、カンボジア人であふれ返っていました。パスポートを持って働きに行っている人も結構居るということですね。バスの中には、お腹に6ヶ月の赤ちゃんがいる女性や、小さな子供を抱えた女性も居ました。

 

労働環境や仕事の内容以外にも問題になるのが、強制送還です。雇い主から「後からまとめて支払う」と言われて給料が全額支給されず、建物が完成する直前に警察に通報され未払いのままる強制送還されます。その給料が受け取れることはありません。雇用主のいいように使われても、泣き寝入りするしかないのです。

 

経済特区は雇用を生み、そして町をどう変えるのか

 

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カンボジアにはプノンペンやシハヌークビルなどの主要地に経済特区があります。ここポイペトの経済特区は、プノンペンより大きい386ha。経済特区の周りに民家は無く、農地にもなっていなさそうな平野だけが広がっていました。

 

ここも、もともとは農民が暮らしていた場所だったそうです。カジノ建設の時の買占めと同じように、学校もないインフラも整っていない、そして作物の育たない痩せた土地へと移され、農村部の貧困は更に拡大していきました。

 

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これは敷地内の中ほどから門を撮影したもの。386ha、東京ドーム2個分だそうです。東京ドーム行ったことないから想像がつきませんが、ここはめちゃめちゃ広いです。中にぽつんと建っていた工場では、ポイペトの人たちも働いている様子でした。

 

排水やごみ処理などの環境汚染も含め、この経済特区がどんなふうに発展を遂げていくのか気になります。

 

という、私が見た、聴いた、感じた、カンボジア。

 

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村の人が話してくれたことをまとめた中に「証拠(数字)」を入れようと試みるも、いくら調べてもまったく出てこず。こういう記事で「たくさん」とか「少数ですが」とか

あんまり使いたくないなあ~と何度も何度も頭を悩ませました。(論文だったら床にたたきつけられるレベルだけど、これは論文じゃないので・・・と開き直り。)

自分が見る立場になったらすぐ「ソースは?」って言うのに・・・人に厳しく自分に甘いのはこのこと(笑

 

それでも私が、見たこと、聞いたことをそのまんまお伝えしたのは、「ポイペトで暮らす村の方に伺ったお話」だからです。

 

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視点を変えればもっと別の見方があるのかもしれません。数字で見れば、もっと深刻な問題かもしれないし、もしかしたら取るに足らないことかもしれない。

 

それに、タイでの労働、経済特区、カジノ、地雷、内戦・・・・どれも2日で調べられるような簡単なものではなく、私がここに書く極めて断片的な情報に対して「それは違うよ!」と思う方もいらっしゃるかもしれません。

 

でも、私がお話を伺った人は「そう」感じているのです。複雑に絡み合って生まれた貧困の中で、苦しみながら生きている人がたくさん居るという事実は、確かにここにあったのです。ですから、そういう「一面」があるんだという風に捉えていただければと思います。

 

背伸びして書こうとしたら上手くいかなかったので、言い訳です(笑

 

ほんとうの「貧困」というもの

 

この記事を書きながらずっと自分に問いかけていたことがあります。それは、「貧困」とは何かということ。

 

同じ法のもとに暮らしているにもかかわらず、悪政、天災、個人の病気や怠惰など様々な原因から、生きていくために最低限必要なものが得られないことが貧困だとカンボジアに来るまでは思っていました。

 

ですが、こっちに来て、日本に居るときよりもそういった問題との距離が近くなり、少し考え方が変わりました。

 

生まれた場所、自分、家族、仕事、生活、教育、経済、政治、宗教、文化、健康、それらを包括して「個人の尊厳」が持てない状態を継続してしまうことが「貧困」なのだと、今はそういう風に考えています。

 

先進国と途上国を相対的に比較したステレオタイプな幸福論は、何の意味も成しません。日本には日本の、カンボジアにはカンボジアの価値観があり、良い所も生き辛さも、それぞれにあるのだと思います。

 

ただ、だからといって、それぞれがそれぞれの幸せや生きづらさを抱えて生きるのが良いかといえば、それも違う。その中でできることが必ずある。日本の「便利な生活」とはかけ離れたところで、その場所に住まう人たちと共に暮らし、真摯に向き合い続けるサンタピアップの代表は、言葉で語らず、この町の人たちとの関わりの全てを通じて私に”それ”を教えてくれました。

 

特定非営利活動法人サンタピアップについて

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今回の取材で、サンタピアップで販売している商品の作り手さんの家も一軒一軒まわらせて頂きました。コンクリートで出来た立派な家は一軒もなく、カンボジアでの生活必需品であるバイクも見当たりません。

 

それでも、バラック小屋で暮らす家族のために立派な家を建てるのではなく、一生食べていけるような仕事や、バイク、井戸を与えるのでもなく、いつか自立して、自分の手でそれを掴み取るための基礎教育を受けられるように生活をサポートしていくという長い長い時間がかかる活動が築き上げたコミュニティが、ここにはありました。村の人たちに寄り添った、「尊厳」が守られた活動に、私は感動すら覚えました。

 

シェムリアップのように美味しいレストランがあるわけでもなく、インフラも満足に整っていない、NGO・NPOの支援の手が届きにくい僻地で、現地の人と衣食住を共にしたからこそ見えたもの・分かったことが、たくさんあるんだと思います。そして、それがカンボジアの人たちを深く理解するためのベースになって、この活動のすべてに繋がっているということに気付かせてもらいました。

 

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Give a man a fish and you feed him for a day.

Teach a man to fish and you feed him for a lifetime.

魚を与えれば彼は今日魚が食べられる。

魚の釣り方を教えれば、彼は一生魚が食べられる。

 

よく英語の教科書なんかで出てくることわざですが、まさにそれを体現している関わり方を見せていただきました。「与える」のは1分でも出来るけど、「教える」となるとそうはいかない。この村を訪れたあと改めて咀嚼すると、この諺は単に「与えるのではなく教えなさい」と言っているのではなく、そういう覚悟があるのかを問いかけているように思えてきました。

 

カンボジアの教育事情って実際どうなの?なんで教育支援すべきなの? | 国際協力NGOCBBカンボジア

色々調べているうちに、数字も入れつつ問題の本質を的確に指摘されている記事を見つけました。継続的、持続的な活動の必要性が分かり易く書かれていますので興味がある方はぜひご覧になってください。

 

・・・長く活動しながら、依存しない・されない関係を作るって難しいことだよな。口で言うのはめちゃくちゃ簡単だけど。 

 

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「ボランティア」や「支援」に対する考え方は、100人居れば100通り。答えもひとつではありません。継続的、持続的と口で言うのは簡単だけど、自分の「人生」をそのために使うという決断はなかなかできることではありません。

 

でも、支援をするという事は、良くも悪くもその対象者の「人生」を変えるということ。「活動」を「目的」にせず、あくまで「手段」として、強い信念と覚悟を持って、10年間活動を続けてこられたサンタピアップの活動を見せていただくことができた貴重な機会に、心から感謝します。

  

「ポイペト」と「貧困」

このブログで使った写真はすべて、私が自分の手で撮ってきたものです。インターネットからの拾い物ではありません。つまり、私がここに書いた地雷やカジノのことはポイペトでここ数年の間に起きていることなんです。

 

今日もまた、鬱そうとした地雷原の森では、数え切れない地雷が土の下で誰かが踏むのを待っています。電気の無い村から数キロ離れたカジノ周辺は夜になれば賑やかな音楽とネオンの光で溢れ、お客さんを待つ10代の子どもたちが居ます。本当に、「今」目の前にあるリアルな問題で、解決されない限り「これから」もずっと続くことなんだなと、ポイペトにきて初めて実感しました。

 

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ポイペトに行って初めて知ることができた、今までとは違う”カンボジア”。国境の町特有の問題が作り出した、貧しさ。観光名所が無くなかなか行く機会の無い場所のことだからこそ、せっかく自分が行って、見て、聴いて、写真を撮ってきたんだからこのブログを読んでくださっている方にも伝えたいなあという、それだけの気持ちです。

 

 

 

 

 

 

 

・・・と、ここまでが2015年に書いた記事を改変したものです。

 

この記事を書いた3年後の写真も、ご覧ください。

 

 

カンボジアを離れて日本でふらふら働きながら、JICA海外協力隊に合格したのが2018年2月。そして、サンタピアップ代表と村の人とのかかわり方を見てファインダー越しに心が震えたこの場所を派遣前に訪れたいと、2018年の6月にもう1度ポイペトの町を訪れました。

 

この時は、2次面接でたまたま隣に座った二人(のちに全員合格)と一緒にタイからアランヤプラテートまでのバスに乗り、歩いて国境を越えました。バンコクから5時間ほどかけて着いたアランヤプラテートの町には、2015年に訪れた時にはなかったようなブティックホテルみたいなお洒落ホテルが数軒並んでいて、ショッピングモールまで出来ていました。

 

 

その日の晩は、カジノの近くのレストランへ。雨がしとしと降っていて、オープンエアーが丁度心地よかったのを覚えています。

 

カンボジアといえば空心菜炒め。

 

 

チャーハン。

 

 

えび焼き。

 

 

プーパッポンカレー。

 

 

そしてタワーのビール!

 

と、タイ・カンボジアの美味しい食事が満喫できるのは、ポイペトの中心部だからです。ホテルにはよさそうな雰囲気のルーフトップバーなんかもありました。

 

 

夜まで煌々と電気が灯る市場。

 

 

お昼はこんな感じです。

 

なんだ~!全然綺麗な町じゃん!と感じられたでしょうか。

 

 

これがトゥールポンロー村への道です。2015年に訪れたときは、幹線道路から折れたらそこから村までずーーーっと未舗装の道だったのですが、3年で途中まで道が舗装され、村への移動がかなり楽になっていました。

 

 

こちらが、サンタピアップの活動の場・憩いの場。

 

 

長距離移動の疲れもあり、ハンモックを吊るして爆睡させてもらいました。

 

 

最初に訪れたときに頂いたものと同じ、臭菜のスープと、きくらげのスープをリクエスト。美味しくて美味しくて、この味が忘れられず。臭菜のスープは読んで字のごとくかわった臭いがするんですが、これが美味しい。そして胡椒のきいたきくらげのスープも、とにかくごはんがすすみます。

 

 

”カンボジア風おこのみやき”と例えられる「バンチェウ」も、美味しかったです。この薄焼きにしたクレープに野菜やひき肉をくるんで食べます。ひき肉の味付けがなんとも絶妙。いつか作れるようになりたい。

 

 

さてさて、お昼を食べて腹ごしらえした後は、サンタピアップでミサンガを作っている子どもたちに、ろうびきのひもを使ったミサンガ作りを教えてもらいました。

 

 

「子どもたち」・・・と言っても、3年前会った時はまだ幼げだった彼女たちはもう立派な高校生、綺麗なお姉さんになっていました。時の流れを感じたと共に、あの時と変わらない関係のまま活動を続けている代表を改めて尊敬しました。

 

そしてそのうちの一人は、今はもう大学生。ポイペトの町を出て、学生生活を満喫している様子がSNSからもうかがえます。きっと、ミサンガで子どもたちの教育をサポートするというサンタピアップさんの持続的な活動があってこそ。子どもたちだけでなく、家族とも地域とも深く関わり、そのネットワークの中で、見守ってこられた結果なんだと思います。

 

ちなみにこの写真の手は、私と現地の子・・・ではなく、白いミサンガをしているのが同期隊員、赤いミサンガをしているのが私です。なんでや。ちなみにもう一人の男性同期隊員は、あまりにミサンガがうまく作れず、この時まだ苦戦中でした。

 

実は、虐殺犯罪博物館とキリングフィールドに行くのを6年ほどためらっていた私に、「観光と違う関わり方をするなら知っておいたほうがいい」とすすめてもらったのはこの時でした。協力隊の仲間たちと、バンコクからポイペトへ抜け、シェムリアップで観光して、シハヌークで海鮮を楽しみ、そして最後にプノンペンを訪れる予定で旅程を組んでいて、やっと、向き合おうと思えたのです。この歴史を感じ、活動してきた古川さんの言葉は、私の心にいつもがつんと響きます。

 

ポイペトとトゥールポンロー村のこれから。

 

 

1度目は2015年4月、2度目は2018年6月に訪れたポイペト。町中は変わっても、トゥールポンロー村は何も変わっていませんでした。

 

バナナの葉やジャックフルーツが生り、かわいいカシューアップルや形容しがたい臭さのノニの実もあちこちにあって。赤土と、鮮やかな緑のコントラストが美しい。

 

あちこちで子どもたちが遊ぶ声がして、商店の軒先ではお母さんたちがそれを遠くから見守っている。

 

 

村の人たちの飲み会にも参加させてもらいました。美味しいごはんと冷え冷えのビールでもてなしてくださった村の人たちとは、夜に雷が鳴るまで、喋って、飲んで、歌って、踊って、とてもとても楽しい時間でした。

 

 

でも。

 

この場所がいま、急激に変わりはじめていて、この場所に住まう人々の”くらし”が、望まぬ方向に形を変えようとしています。

 

そして、その中で子どもたちのために新しく居場所を作るために、サンタピアップさんも変わろうとしているのです。

 

サンタピアップさんは、途方もない時間をかけて、地道に信頼関係を築き、組織を大きくすることよりも関わりを深くすることに重きをおかれてきました。日本にはそれを支えるよき理解者が居ることも、活動の様子から伺えます。

 

「身の丈にあった活動を」と、自分の目の届く範囲で地域、家族、そして子どもたちと関わってこられたのを、私はここ5、6年、見させてもらってきました。そして今回、このような呼びかけをされたということは、サンタピアップさんにとって、とても大きな、そして大切な決断なのだと思います。

それはつまり、めまぐるしく変化していくポイペトの町の波がトゥールポンロー村にも押し寄せて、この村をとりまく環境が、本当に、大きく大きく変わろうとしているということ。

 

それに抗うことも難しい現実がある中で、子どもたちを守るために公民館をつくりたいと動き始めたサンタピアップさんの活動を、私はこれからも、ほんの少しですが応援していきたいと思っています。

 

さいごに

 

この長文を最後まで読んで下さった方、ありがとうございます。冒頭にもリンクを貼らせていただいた通り、サンタピアップさんは今、村の子どもたちの安息の場をつくるべく、日本とカンボジアの二拠点で活動を続けられています。

santapiup | from CAMBODIA for CAMBODIAhttp://santapiup.com/

今回の資金協力に活動にご賛同いただける方は、WebサイトやFBページで詳しい内容をご覧ください。

 

カンボジアと関わるまで、安易にお金を渡してそれで満足したような気持ちになることにとても抵抗があり、私はドネーションそのものをある意味毛嫌いしていました。

 

でも今は違います。

 

大好きになったカンボジアがそこにあって、カンボジアのために獅子奮迅している友達や大先輩が居て、その人たちが成し遂げたいことには、ときにお金が必要で。

 

大好きなカンボジアのために、カンボジアで頑張る人たちのために、そしてその人たちが共に暮らしているカンボジアの人々のために、ほんの気持ちばかりですが、募金したり、物を買って、その活動を応援するということに、今は何の抵抗もありません。

 

そんな風に思える人たちに出会えたことが、あの国で過ごした2年間のすべてだと思っています。本当に、幸せなことです。

 

私自身、JICA海外協力隊への参加を決めてから人生で初めて「国際協力」というフィールドで活動することになり、ここラオスで4か月過ごしてみて、沙樹ちゃんの活動がどれほど途方もない時間と努力の上にあるのかを更に実感することになりました。私には到底追い付けないサンタピアップさんの新たなステップを、お隣ラオスから応援し、自分も1歩でも近づけるように日々半歩ずつでも頑張っていこうと思います。

 

 

 

「ラオ子がそこまで言うなら」と思ってくださる方が一人でも居ればという思いで、この記事を書きました。拡散だけでも歓迎です。どうか、大好きなカンボジアと、そこで暮らす大好きな人たちのために、力を貸してください。

 

このプロジェクトが一刻も早く実現して、

 

「サンタピアップ(平和)」がこの村でずっと続いていきますように。

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視察②その3 東南アジア最後の桃源郷バンビエンへ

さばいでぃー!

こんにちは、ラオスのラオ子です。

 

 

今日はこの記事の続きです。内容的に書けることが少ないので写真ばっかりになってしまいますが、ぼーっとスクロールして旅気分をお楽しみください!

 

 

さよならMaed郡

緑の外壁、赤い屋根と、ビビットOFビビットなゲストハウスを去り、我々ビエンチャン県ODOP探検隊一同はこれよりバンビエンへ向かいます。

 

 

GPSがちゃんと働かなかったので地図を見れず、BanTamからノーン郡までどっちの道で行ったか覚えていませんが、どっちかは大外れ(相当すごいみたい)で、どっちかは外れ(マシ)だそうです。カシ郡、ノーン郡、バンビエン郡を縦につっきっている道まで戻れば舗装されていますが、そこまでは車のサスも自分のサスもガタガタになって壊れるのではあるまいかというほどよく揺れ、よく跳ねます。

 

バンビエンはMaed郡に来る途中素通りしたところなので、一度通ったはずなんですが、やっぱりこの雄大な自然にはカメラを向けずにはいられません。

 

この切り立った山々、中国4000年の歴史感ある。中国行ったこと無いけど。

 

ハロン湾の山々にも似てますね!ハロン湾も行ったことないけど。

 

途中、賊に何度も囲まれながら、前日の大雨でぬかるんだ未舗装の道を50km引き返します。

 

神様や仙人が生活していても何ら違和感の無い、この大自然。自然と、「うわぁ~~~・・・」と声が出てしまいます。言葉にはならない。

 

「コミュニティ開発っていうぐらいだから、こういう山岳民族みたいな人たちと製品作りやるんだと思ってたわ~」と、モン族の村を抜けながら同期と話していましたが、こんなにも生活の難易度爆上がりしたら生きるのに精いっぱいで2年終わるわ、という結論に至りました。「大自然」のレベルが、私の知っているものではなかった・・・。

 

ラオスは内戦・ベトナム戦争などの被害を受けた歴史があり、その時にばら撒かれた不発弾処理に今もたくさんの方が尽力されている国です。それはつまり、未だその被害が起きているということ。早く100%クリーンな土地に戻りますようにと願いたい気持ちは変わりませんが、この山々を見てしまうと、それがどれほど果てしなく先の話なのかということを実感せざるを得ません。ラオスは8割が山。GoogleEarthで航空写真をご覧ください。本当に、国全体が、綺麗な緑色。

 

バンビエン着!

3時間以上がたがたと揺られ続け、ようやくたどり着きました!こちらがバンビエンです。さてこれから、その観光スポットを満喫すべくまずはレンタサイクルでブルーラグーンへ・・・!

 

というのは、観光で来たときの楽しみに取っておきます。4時前に到着したときにはひとつもテントが無かったのですが、少し部屋で休憩して外に出たら、夕方にはこの賑わい。

 

東南アジアを旅行されたことがある方はなんとなく既視感があるかもしれませんが、量産されているようなものはだいたい近隣国から入ってきている印象です。なにせラオスは、タイ、中国、ベトナム、カンボジア、ミャンマーの5か国に囲まれた内陸国。タイ、中国、ベトナムのように大量生産の基盤が整った国から流れてくるお土産はカンボジアでもラオスでもだいたい同じようなものになるんでしょうか。

 

せっかく素敵な手工芸が伝統として色濃く残っているのに、なんたる機会損失。と思ってしまいますが、大量生産すれば原価は安い。そして生活のためには稼がねばならぬ。

 

とはいっても、もっと”ラオス”のものが人の手で世界中を旅する未来があってほしいなあ。

 

写真がなんとも微妙ですが、こちらのカバンはラオスで手作りされたものだそうです。鞄じゃなくて、物入れにして部屋に置いておきたい。

 

ビンテージのシンを取り扱う布屋さんにもお話を伺うことが出来ました。外国人観光客向けのお土産を開発するのであれば、こういうお店の人からの情報はかなり大切です。

 

こちらはフアパン県サムヌア地方から来られた女性のお店。”サムヌア”はシンの一大生産地で、「織りといえば京都の西陣!」というぐらいのブランド力がある場所です。(いつか行ってみたい・・・)奥の方にかかっているのがサムヌアの織りです。綺麗すぎて触るのもためらう。

 

 

・・・という感じで、バンビエンのお土産屋さん巡りを終えました。(他にも色々まわりましたが割愛します。)

 

任地のハンディクラフト製品にはおしみなく生活費を使い還元しようと心に決め、Napho村ではお気に入りの色のシンを1枚購入したのですが、ここバンビエンでは素敵なシンに出会えなかったため、かわりにポーチを大量買いしてきました。

 

あら、ゆる~い刺繍でかわいい。

 

とかいうレベルじゃない、視点の定まらないネズミとがたがたな英語、

 

「I AM FAMOUS MANGO BOXER」と書かれたコンセプト不明のもの、

 

いや、オレンジじゃなくて桃やん、とつっこみたくなるハッピーな桃など、

 

たくさんのコンセプト迷子なゆるすぎポーチに出会ってしまい、ついつい8個も買ってしまいました。(同期も5個買った)

 

そして、重度のカフェイン中毒な私は、出張でコーヒーが飲めずカフェイン欠乏で頭痛がとまらなかったため、そのまま近くの病院(カフェ)へ。

 

ここで出てきたのが、普通の倍ぐらいあるんではないかと思われる大きなマグカップ!!同期は途中でギブ、私も1杯飲み切ったころには胃がムカムカ。ここに来る前に食べたロッティー(パンケーキみたいなもの)が胃に入っていなかったら、あやうく胃薬のお世話になるところでした。

 

ホテルに戻ったのが夜10時ごろ、そこから順番にシャワーを浴びて翌日の準備をして、日付が変わるころにはベッドに入ったのですが、二人ともカフェインで交感神経が刺激されつくしてハイになっていたため、全く眠れず。

 

買った商品や、視察で撮った写真を見返しながら、これからどんな形にしていくかのデザイン画を各々描いて見せあっているうちに、気づけば夜中2時。そこからは、なんとな~く浅い眠りにつけたような・・・ような。

 

5月30日朝 雨上がりのバンビエン

朝6時に起きてカフェ活しよう!と言っていたのですが、カーテンの向こうで雨がガラスにたたきつける音がしたのでそのまま二度寝。6時半ごろから国家やラジオ?が仰々しく鳴り始め、雨も小降りになってきたので、少し街中を散歩することに。

 

 

雨でしっとり濡れた橋の下には、昨晩より少し増水したナムソング川。

 

層雲に囲まれた山々とゆっくり流れるナムソング川、そして観光地と思えぬ静けさ。この独特の雰囲気、・・・大好物です。

 

この日は、郡の産業商業局局長へのご挨拶、タフア郡の魚製品生産グループ視察、グループ長への挨拶など、帰り道でいくつかの予定が入っていました。

 

腹が減っては戦は出来ぬ!と、30,000KIP(400円程度)のハンバーガーを朝から胃に叩き込むことに。

 

いやぁ・・・多すぎた・・・。完食も出来ませんでした。コーヒーは、近くのカフェでお持ち帰りしたのですが、ラオス南部のボラベン高原産のアラビカ種だそうです。ハンバーガーがきつすぎてコーヒーを味わう余裕はありませんでした(笑)

 

卵にパテにベーコンに、盛りだくさんのハンバーガー。バンビエンを訪れたら、朝食に是非お試しください!

 

続く

次回(で、まとまるかな・・・?)、バンビエンから任地への道中の視察レポートと、その翌日に行った近隣郡の生産者レポートをお送りします。

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視察②その1 生産グループ出張に行ってきます!

さばいでぃー!

みなさんこんにちは、ラオスのラオ子です。5月27日から6月1日まで、首都の同期隊員が任地ビエンカムを訪れてくれています。目的は、タイトル通り生産者さんの視察とお土産屋さん調査です。

 

 

実をいうと、アメーバにかかってから1週間以上経ってもまだ胃腸は本調子ではなく、胃がむかむかする感じが残ったままだったのですが(数日絶食状態だったから、そりゃそうか・・・)、早く活動したい気持ちが圧勝して計画通りすすめてしまいました。本当に、ヤツ、なかなか強敵です。ずっと引きずります。気を付けましょう。気を付けようがないけど。

 

視察のスケジュール

5月28日 ビエンカムからMaed郡に移動、郡内視察(Maed郡泊)

5月29日 Maed郡Napho村織物生産グループ訪問、バンビエンに移動(バンビエン泊)

5月30日 バンビエンのお土産屋さん視察、ビエンカムへ

5月31日 ポンホーン郡内の織物生産グループ2グループを視察

 

というスケジュールですが、多分このブログを読んで下さっている方のほとんどが「どこ?」という感じだと思うので、地図で示してみました。

 

 

青いピンが3本立っている少し下についている◎が首都ビエンチャンです。

 

上のピンの一番下、Toulakhomという場所の近くが私の活動場所で、初日に行くMaed郡Napho村は地図左上のピンのあたり(らしいけど、本当かなあ・・・)、そしてバンビエンは右上のピンのあたりです。Phonhong郡は、私の任地の左上なので、日帰りで2か所見学に行きます。

 

旅行が好きな方は「バックパッカーの聖地」としても知られるバンビエンのことはご存知かもしれません。私の任地からNapho村へは約230km、Napho村からバンビエンへは130m、そして任地へ100kmと、往復460kmの道のりです。

視察の目的

今回の視察の目的はただひとつ、「シン(ラオススカート)」の生産者さんに会い、情報収集を行うことです。本来であれば自分で一度足を運んで情報収集した上で同期隊員に来てもらうのが正攻法かなと思ったのですが、あまりに遠く費用も掛かる場所なので、初視察に同行してもらうことになりました。

自分だけだと調査票の質問をして見学をして、と色々する余裕が無いので、デザインや作業工程を見てくれる人がもう一人居てくれると、1回の見学で得られる情報量が増えて助かります。本当にありがてぇ・・・。

 

視察の準備

先輩隊員の質問シートや過去の専門家さんの報告書を参考に、どんな情報を蓄積すれば後々の活動に役立てられるか考えて質問シートver.1を作り、いざ!

 

・・・というわけにはいかず、まず費用を配属先・JICAがどれだけ負担するかという話し合いに始まり、スケジュールの確定、企画書、申請・・・と、配属先にもJICAにもいろいろな書類作成が必要となります。

そして、私が配属されている「ビエンチャン県産業商業局」から、各郡の役所に訪問のレターを出してもらい、郡職員にも同行してもらうため、カウンターパートの助けがなければとてもじゃありませんが行けません。自分の企業向け研修の準備もありかなり大変な中、ありがとう、Sさん。どうやってお返しすればよいか。

 

いってきます!

というわけで、まずは明日から2泊3日で、Napho村とバンビエンに行って参ります。良いレポートが出来るように情報収集に励みます。

 

最近書いたノート

ぶつぶつつぶやいてます。

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第2回原爆展に参加して、「平和って何?」を考えた

さばいでぃー!

皆さんこんにちは。ラオスのラオ子です。

 

今日は、平成最後の日にあわせて投稿できたらと思っていた内容を更新します。

 

 

ピーマイ(旧正月)が明けた翌週の4月24日、やっとこさ正月ムードから抜け出しつつあるビエンチャン特別市にて、先輩隊員の企画で「第2回 原爆展」が開催されました。

 

この記事を書く目的として、私がラオスでどんなことをしているか知ってもらいたいというのはもちろんですが、現在いろんな国でそれぞれの活動を頑張っている同期の皆や他の隊次の隊員の皆さんに、活動”+α”の部分を知ってもらって、この活動を広げていきたいと思っています。いつも通りあちこちに蛇足が多い文ですができれば最後までお付き合いください。

 

 

10歳の私「広島の原爆の資料館、怖い。」

 小学3年生の頃、合唱団西日本合唱祭で広島に行く機会を頂いたときに、特に事前学習も無いまま入った資料館で感じた事です。

その時丁度夏休みで、じりじりと焼け付くような暑さでした。教科書や資料集で見たことのある建物に銅像、そして色とりどりの千羽鶴。街中の路面電車はビルとビルの間を窮屈そうに走っているように見えるのに、その場所だけはがらんとしていて、でも張り詰めたような空気で、ここは何か「違う」んだなあと感じました。 

資料館の中は、「怖い」でいっぱいでした。被ばくした人たちのケロイド状になった皮膚を再現した人形。熱で曲がったぐにゃぐにゃの展示物。焼けただれた人の写真、絵、そして大きなジオラマの真上に不気味に垂れ下がる赤い塊。薄暗くて静かな資料館を出て、近くを流れる川を見た時、「ここにあのドロドロの人が飛び込んで行ったんかなあ」と考え、更にその「怖い」という気持ちが増しました。

その話を近所のおじさんにしたところ、「熱い思いして亡くなってやーる人がいっぱいいっぱい居るんや。今も苦しんでる人がぎょーさんやぁる。『怖い』なんて言うたらアカン。」と言われました。

そうか、大人が言うんだからきっとそうなんだ。じゃあ、あの場所は、私が見たものは、私が感じた気持ちはー・・・。そして、あの時の気持ちに何という名前をつけていいのかさっぱり分からなくなった結果、資料の数々に対して感じた「怖い」という気持ちには、蓋をしなければいけないのだと思いました。

 

その5年後、今度は、イタリアの姉妹都市に行きました。現地の音大のオーケストラやソリストと2週間ほど練習を重ねて、「Undici Zero Due(11:02)」という現地の脚本家の創作オペラを演じるためです。11時02分、人類史上実戦で最後に使われた原子爆弾「ファットマン」が長崎県長崎市に投下された時間。それまでいつもと変わらない日常を送っていた子どもたちが、原爆により一瞬で命を奪われ、その魂は悲しい歌と共に海を渡り、平和を繋いでいくー・・・というような物語だったと思われます。(台本やあらすじの日本語訳が無かったので細かいニュアンスは違うかもしれません。)

 イタリア語も英語も、さっぱり分からないので、現地の人たちとは簡単な挨拶程度のコミュニケーションしかできませんでしたが、オペラが終わったあと浴衣を着て灯篭流しをして、日本の歌を聴いてもらって、皆で歌って、初めて経験した外国の人たちとの非言語のやりとりは、それまで私の中にあった音楽というもの概念を簡単に壊してくれた気がしました。その後スイスやドイツでも演奏会を経験して、確実に今の私を作ってくれた切っ掛けになってくれたし、言葉がわからなくてもこうやって共有していく術もあるんだということを教えてもらった、私の人生に強烈な点を打った活動だったと思います。

 

それでも、役を演じている間も、あの日広島で見たものを思い出して「怖い」という気持ちに襲われていました。

浴衣を着た私たち日本人の子役は、劇の中盤、激しい音・真っ赤な照明の中、床に突っ伏しました。次の曲に入ったら立ち上がってあそこに並びに行って・・・。そう考えながら冷たい床で”次”を待つ。その間、照明が真っ青に変わり、”死の灰”が天井から降り注ぎます。

 もしあれがオーケストラの音ではなく本当の爆音だったら私たちは一瞬でこの世界からいなくなっている。”次”は、無い。もし今ここに原爆が落ちたら、ちょっと好きになり始めた、教会の鐘の音が響き渡るこの街から、数十万人の人が一瞬で亡くなって、生き延びることが出来たとしてもその後何十年も、苦しむことになる。そしてその悲しみは一生消えない。

 

―やっぱり原爆は、怖い。

 

本番中に広島での記憶が蘇るぐらい、あの時の事が頭に残っていたのでした。

 

この「怖い」がずっと引っかかっていた私。どこに行っても「負の遺産」に触れることができず、前に住んでいたカンボジアの「虐殺博物館」と「キリングフィールド」にようやく行くことができたのも、カンボジアとの関わりを持ち始めてから7年が経った去年のことでした。 

 

虐殺博物館とキリングフィールドについてはこの記事で少し触れています。

 

そして、ここビエンカムでの活動を始めてしばらく経ったある日、先輩隊員から今回の「第2回原爆展」のボランティア募集のお知らせが届きました。迷わず、「参加させてください」とお返事しました。自分があの時自分の中にとじ込めてしまった「怖い」を、先輩はどう感じて、どう学んできたんだろう。そしてそれを、どんな形にして異国の高校生に伝えるんだろう。それらを知るために、自分も運営に関わって、近くで見させてもらおう。そして私も原爆についてもっと知ろう、学ぼう、考えよう。私の職種であるコミュニティ開発とは直接関係のないフィールドであっても、2年という限りある時間の中で、経験できることはできるだけしていこう。そんな気持ちで、参加を決めました。

 

準備

第2回原爆展の呼びかけがあったのは、3月下旬のことでした。今回集まった8人中5人が私と同じ2018-3次隊(現在ラオスに着任している一番新しい隊次)で、もちろん原爆展に参加するのも初めてです。

第1回原爆展を同じ先輩がオーガナイズされていて、原爆に関する絵本や資料、必要備品などなど、ある程度は前回分を使って今回のイベントを組み立てられたこともあって、皆で集まって検討・相談する事は当日の役割分担以外ほぼありませんでした。

そして、イベントのために作られたLINEグループに次々資料を共有してくださったおかげで、私たち新規隊員も上京までにイベントの大部分を把握できました。

イベント前々日に、今回のイベントに参加する隊員が地方から集まり、生徒に渡す資料などを準備、前日は買い出しと会場の設営と大まかな流れの確認などを行い、本番当日を迎えました。

 

第2回原爆展

ここからは当日のプログラム通りに、内容と所感を書いていきたいと思います。

挨拶

 

まずはオーガナイザーの先輩隊員の挨拶から。先輩隊員のバックグラウンドや、このイベントを開催する目的、皆に知ってもらいたいことなどを最初にお話されていました。

今回集まってくれたのは、5・4・3・4制の義務教育期間の、中・高等部の1年生、3年生、そして7年生の約115名。日本でいう小学6年生、中学2年生、高校3年生です。私は教育関係の隊員ではないので、こうやって学校にお邪魔できるのも貴重な体験です。

今回対象にしたのは日本語の授業を受けている生徒さんたちなので、もちろん日本語自体にも興味を持ってくれています。JOCVが一人ずつ前で自己紹介すると、私たちの名前をみんな口に出して繰り返してくれたのが嬉しかったです。第1回のアンケートで「日本語が聴きたかった」という意見をいただいていたこともあり、今回は先輩隊員の日本語+現地の先生のラオ語の2言語での司会進行でイベントが進められました。

 

アイスブレイク

 

次は、私と同期隊員が担当させてもらったアイスブレイク。日本語を勉強している生徒さんを対象にしたイベントということで、「ສັນຕິພາບ(サンティパープ=平和)って日本語で何だか知ってる?」「”へいわ”を日本語(ひらがな、漢字)で書いてみよう!」という内容から発展させ、「この絵は”平和”かな?」「なんでそう思うのかな?」と、皆で”平和”について考える時間を作りました。

ここで、私たちから「正解!」「それは違うね」「平和っていうのはね、」と具体的に話をすることはありません。この後の内容に自分たちで結び付けてもらうためのアイスブレイクですので、ここで問いかけを完結させることが目的ではないからです。この後の話を聞きながら「じゃあこれはどうだろう」と考えてもらうためのきっかけづくりが出来れば大成功!

 

と、偉そうに言ってみましたが、シナリオはほとんど先輩が作ってくださったもの。私たちは、実際生徒さんにインタビューするときにあったらいいなと思うラオ語を前日の打ち合わせのあとに少し足して、本番に臨みました。

初めの挨拶もしっかりこちらを見て聴いてくれた皆なので、私が壇上にあがって「キンカオレオボー?!(ごはん食べたー?!)」と突然ラオス流の挨拶をしたら「レーーーオ!!」と元気に答えてくれて、良い雰囲気のまま、わいわいアイスブレイクを終えることができました。

 

イントロダクション

 

そしてここからついに本題。先輩隊員からの、広島と長崎についてのお話です。

 

原爆はいつ・どこに投下されたのか、なぜ広島と長崎に投下されたのか。

 

原爆がもたらす「熱線」「爆風」「放射線」の3つがどれだけの命を奪い、苦しめたか。

 

今、広島と長崎の街はどうなっているか。

 

今、世界にはどれくらい核兵器が存在しているか。

 

ラオスには、戦争/内戦でどんな問題が残っているか。

 

「折り鶴」「千羽鶴」に込められている意味とは。

 

次のプログラムの内容を補完し、かつ自分たちの国の事にも絡めることで、当事者意識を持ってもらえるような内容でした。

 

 

クイズ形式で生徒たちの興味を引きながらも、淡々と、毅然とした態度で、伝えたい事実を伝えていかれる先輩隊員。「先生」として普段から活動されている先輩は、約115名の前で壇上に立って話していると思えないぐらい、生徒さんとコミュニケーションをとられていて、私はもう、「すごい」と「かっこええ」以外の感想が出ませんでした。

 

提示されているスライドにかじりついて話を聞く生徒さんたちは、熱線・爆風で亡くなられた方の写真を見て一瞬「うわぁ」と目を背ける場面もありました。私が感じた「怖い」と似ているかもしれません。その写真は、日本でいう小学6年生の児童向けに選んだもの。教科書やテレビで見慣れてしまっている私たちにはそうでなくても、会場の雰囲気を一瞬で変える力を変えてしまいました。それから生徒さんたちは、それまで以上に先輩隊員の話とスライドにかじりつき、手元の資料を読んでまわりの生徒と思ったことを共有しながらイントロダクションを聞いてくれました。

 

絵本朗読

 

イントロダクションの後は、生徒による「おりづるの旅 さだこの祈りをのせて」の朗読です。現地語で朗読してくれたのは6人の生徒さんたち。みんな堂々と朗読してくれました。

 

この絵本の翻訳も協力隊の先輩方によるもの。結構ボリュームのある物語なので、いくつかのパートに分けて数名で翻訳作業されたのですが、「頻出単語のリスト」を作って単語を統一する作業が必要になったり、表現を合わせたり、話を聞いただけでも「大変だ・・・(わたしにはできない)」と思うような途方もない作業。それを、代表者の生徒さんたちが何度も練習して読んでくれるのは、作業に関わっていなかった私でも、嬉しい。とっっっても嬉しい。

 

折り鶴ワークショップ

 

「絵本で出てきた”折り鶴”を皆で折ろう!」ということで、きれいな千代紙を皆に配って、折り鶴のワークショップをしました。途中で次の工程を聞かれると、案外難しいですね・・・。一緒に折り鶴の折り方のプリントを見ながら折りました。

 

羽部分フルオープンタイプの鶴、足が生えた鶴など、個性豊かな鶴を折る子たちも居ましたが、なんだって、ぼーぺんにゃん(大丈夫)。折り鶴や千羽鶴の、背景、意味を知った上で、この文化に触れるということそのものが、なにより大切なのです。

 

現地語学訓練中にも高校に行って折り鶴を折る機会がありましたが、あの時よりもちゃんとコミュニケーションが取れている自分に気づいて、少し嬉しい気持ちになりました。「サダコは何羽折りたかったんだっけ?」「1000羽」「折れる?」「できないよ、多すぎるよ」なんて話もしながら、生徒さんたちとワークショップの時間を楽しみました。

 

写真撮影

 

最後は記念撮影。みんなで折り鶴を持って写真撮影。前に全員集合してもらうと、改めて、こんなにたくさんの人が来てくれたんだなあ・・・と。協力してくださった高校の先生方にも感謝です。ありがとうございました。

 

アンケート・絵馬記入

 

終わった後は絵馬とアンケートを記入してもらい、書けた人から解散でした。絵馬はこれからしばらく学校に掲示してもらいます。アイスブレイクで一緒に勉強した「平和」を早速書いてもらえました。

 

 

書いてもらった絵馬はボードに全部貼って、日本語教室にしばらく掲示してもらいます。 びっちり数行に渡って気持ちを書いてくれた生徒さんもいれば、シンプルに「戦争をしてはいけない」と書いてくれた生徒さんも居て。アンケートには、「毎年開催してほしい」という嬉しい言葉も見られ、集計中まで幸せな気持ちにさせてもらいました。

 

振り返り

この原爆展に参加するには任地での活動を休む必要があったため、上司に休みが欲しいと言ったところ、快諾してもらうことができました。まだ局でも何も出来ていないのに、大変ありがたいことです。そして、私は皆の前に立ってアイスブレイクの進行をする役を貰ったので、先輩隊員が作ってくださったシナリオを任地で事前に読んで、活動先の同僚に発音のチェックをしてもらっていました。

さきほど紹介した通り、アイスブレイクの内容は「平和って何?」でした。生徒たちと共に、平和とは何か、色々な絵を見て一緒に考えてもらうという趣旨のものですが、この原稿を読み終えた後に同僚から「で、平和って何??ラオ子は平和って何だと思うの??」と聞かれて、私は何も答えられませんでした。

そんな人が前に立って話していいのか??ともやもやしながら、せっかく頂いた役なので楽しくやらせてもらいましたが、それから原爆展までの間、実際「平和」がどういう状態で、どうやったら作れるのかを考えて、何も出てこなくて、この問いの正解はわからないまま。

でも、先輩のイントロダクションの原稿に「考え続けることが大切」という言葉を見つけて、そうか、じゃあ私も、わかんないから考え続けよう、そして皆にも考え続けてもらおう、という気持ちで臨みました。

 

「平和って何?」という問いと同じぐらい、このイベントの難しさを感じたのが、「歴史を伝える」という事自体が孕んでいる様々な問題。現在核を保有している国や、第2次世界大戦で日本の敵国だった国、ラオスにたくさんの不発弾を残した国、どれも事実として「ある」ことなのですが、それを「悪」だと伝えてしまうのは大変危険なこと。日本には日本の、ラオスにはラオスの、そしてそれぞれ国レベルから個人レベルまで、様々なルーツやバックグラウンドがあり、それを傷つけたり、否定することは、私たちの目標とするところではありません。

まだまだこれから、社会のことを学んでいく生徒さんたちに、「草の根外交官」とも呼ばれる私たち青年海外協力隊からどう伝えればいいかというのは、先輩も非常に悩まれたところだと思います。何も伝えなければ、このイベント自体のメッセージ性が薄れてしまうし、かといって偏った思想で気持ちを煽るようなことは、してはいけない。

・・・と、色々考えると、「ほどよく」「的確に」そして「ニュートラルに」伝える事は、かなり難しいと思いました。 

 

まとまらないまとめ 、原爆はやっぱり「怖い」

日本に落とされた2発の原子爆弾は、一瞬で何十万の命を奪い、その後も体の中に残って命を蝕み続け、今も苦しんでいる方がいらっしゃいます。どんな理由で投下されたとか、結果どうだったとか、そういう話では折り合いがつかないような出来事が、たった数日のあいだに数十万も起きたのです。未来永劫使われるべきではなく、そして新しく作られるべきでもありません。

 

 

一方、ラオスは、戦争や内戦の爪痕が「貧困」や「不発弾」というキーワードと共にまだまだ残っている国です。戦争当時、ラオス王国の国民1人あたり1トンの爆弾が落とされたとされていて、未だのその1~3割が地中に残っていると言われています。被害のひどかった旧ホーチミンルートを中心に、その地に住む住民、特に農業従事者が危険に晒されているだけでなく、 不幸にもクラスター弾の子爆弾がラオスの遊び「ペタンク」で使われる鉄球に似ていることで、子どもの手足や命そのものが奪われる事故も起き続けています。「何個の不発弾が処理できたか」ではなく、「100%クリーンな土地になったか」が重要であり、本当に平和に暮らせるには、長い長い道のりと言えそうです。

 

今回はそのきっかけづくりを協力隊の有志一同で行いましたが、どこにでも、「平和」を考えるきっかけになるものはあります。 そして、自分の国だけではなく、どの国の情報もすぐに手に入るのが、私たちが生きている「グローバルな社会」です。だからこそ、私自身、今回のことで20年持ち続けてきた「怖い」の気持ちを完結させずに考え続けたいし、このイベントに参加してくれた生徒さんたちにも、この日共有したことを考え続けてほしいと思います。

 

今回生徒さんに読んでもらったサダコの絵本は、折り鶴が平和の象徴となって世界を旅するお話ですが、まさにその旅は今も続いているんだと思います。だから、この日のワークショップで作った折り鶴も、ここで終わりにするのではなく、家に持って帰ってほんの少しでいいから家族に話してほしい。これからしばらく日本語教室に展示される、皆が書いてくれた絵馬の平和への願いを共有・共感し、話し合って、このイベントの事を少しでも思い出してほしい。「イイネ!」ボタンには無い、小さいけど大きな力となって、水面に落ちる水滴のように、波になって広がっていくきっかけのひとつになってほしい。カオス理論のバタフライエフェクトのように、蝶のはばたきが地球の反対で竜巻になることはなくても、私たちは誰しも科学で証明できない「心」を持っていて、わたしたちの未来を変えていく力になるはず。

 

さいごに。

 

 今回のイベントが、これからのラオスを拓き、支えていく学生さんたちに、広島・長崎のことを通じて平和を考え、ラオスの事に関心を向けて「当事者」になってもらう一助になれば、それより嬉しいことはありません。また、そうして「じぶんごと」を繋いでいくきっかけになれるのであれば、自分も積極的に機会づくりをしていきたいと思います。

 

また、この記事を見て少しでも興味を持ってくださった他国の隊員の方がいらっしゃいましたら、私との面識の有無関係なく、是非コメント欄やSNSで連絡いただけたら嬉しいです。今回使った資料などの共有の許可を頂いていますので、隊員ネットワークで水平展開していけたら最高だなって思ってます。ご連絡お待ちしてます!

 

皆のブログ

www.laoko.net

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ラオ子の旧正月休み。

さばいでぃー!

皆さんこんにちは、ラオスのラオ子です。旧正月シリーズ最終回です。

 

 

職場での正月祭が終わり、キンビアに恐れおののいた私は、しっぽ巻いて逃げるように首都へと移動しました。4月13日ー17日が正月休み、18日、19日と出勤して、また20、21日が休みのため、18日、19日は事務所がほぼほぼからっぽ。オカンたちとのキンソム(おやつタイム)も無く、事務所にぽつんと一人で活動報告書を作成。寂しいなあ。

 

13日 上京 

 

私の任地から首都までは、順調にいったら1時間半ほど。そこからドミトリーまでの30分の徒歩移動、この時期にバックパック背負ってやると暑くて火が出そうになります。よって朝いちばんの移動に限ります。乗り合いバンは家から1.5kmほど先のバン乗り場から出ていて朝6時ごろから人が集まり次第発車するので、陽がのぼったら、涼しいうちに出発!

 

橋で黄昏る笑顔が素敵なにーちゃんと、どこ行くの?ピーマイ何するの?とお互いに話をしていたら、ショルダーバッグがゴソゴソゴソッと急に動き出してびっくり。よく見たら鶏さんが首と足だけ出してます。なんだこれ、めちゃめちゃ可愛いやないか!この後友達の村に持って行って、みんなで食べるそうです。なまんだぶ。

 

 

 

午前中にドミトリーに到着し、先輩隊員と朝ごはん。いつもラオ人がたくさん居て気になっていたお店に行ってきました。ホームアイディールというスーパーの目の前のお店です。

 

 

 

カオプン(ラオス風混ぜ麺)と、揚げ春巻き。どちらも美味です。カオプンは甘酸っぱいタレが一緒に入っていて、麺をほぐしながら食べるのですが、砕いたピーナッツの香ばしさとタレの甘さと、なんともいえないバランスでとても美味しいです。揚げ春巻きは、野菜や春巻きの皮に包んでいただきます。こちらも揚げたてカリカリでたまらん!!

 

 

 

そのあと合流した同期と、早めの夕飯でずっと気になっていたインド料理屋さんへ。店の前では子どもたちが旧正月の予行演習中。水鉄砲、ホース、水風船、あらゆるものを使って水遊び中。

 

 

 

尻が出るほど夢中です。

 

 

 

田舎で食べるのが難しい「大きい鶏肉」が食べたくて、タンドリーチキンとチキンカレーを注文。これにソーダウォーターをつけて二人でシェアして、合計750円以下です。なんなん?神なん?

 

 

 

トリップアドバイザーなどでも上位にあがってくるお店で、なおかつローカル価格で食べられるとのことでずっとずっと行きたかったんです。正月前の水かけ祭に向けて、自分の村でなかなかとれないタンパク質とやらをしっかり補給せねば。

 

タンドリーチキンは辛さがほどよく、 結構な量でしたがぺろりとたいらげました。

 

 

 

カレーもシンプルで美味しくて。最高でした。お店のおじさんもめちゃめちゃ感じが良いので、リピ決定ですねこれは。何人かで来てシェアしたら割安でいろいろ食べれそう。また来ようぜ~~~!

 

Jamil Zahid Indian and Pakistani Food

 

その後メコン川沿いをぶらぶらしていると、

 

 

 

見るからにパリピ仕様な正月特設ステージが設営されていました。

 

14日 出陣

 

お気に入りのパン屋さんが正月休みで閉まっていたので、別のお店へ。クロワッサンにうるさい私たちの求めているものではありませんでした・・・。無念。

 

 

 

そのあと周辺をぶらぶらして、お昼ご飯。やっぱりタンパク質が食べたい私は、コリアンレストランでプルコギとギンパを注文。

 

 

韓国料理の良いところは、ナムルがたくさん出てくるところですね!久々に食べたキムチ、美味しい。白米との組み合わせ、ヤバい。

 

 

 

そして大晦日のパーティー会場へ!ただのテントと思うなかれ、骨組みはスプリンクラーになっていて、心地良い霧雨のような・・・ではなく、大粒の雨のようなぬるめの水が、ばたばた、ばたばたと落ちてくる仕様です(しかも突然降ってくる)。

 

 

 

メコン川の河原におりてみると、普段はただの砂地になっている場所にこんな立派なステージが。ステージ両脇には先ほどと同じような骨組みがあり、先ほどと同じようにばたばたと大粒の水が落ちてきます。

 

 

 

ちょっとわかりにくいかもしれませんが、写真右手の白い線、放水車から本気の放水中(笑)かわるがわる色んなアーティストがステージに立ち、爆音に揺られながら冷たいビールを飲んで、水を浴び、ときに水鉄砲での銃撃戦になり。夏フェス大好きっ子には大変心地いい時間でした。

 

 

 

そして昨日の朝行ったのと同じお店で、また揚げ春巻きタイム。おやつにちょうど良いんですよね。肉団子のようなものも頼みました。これも美味しい!

 

 

腹ごしらえが済んだら、街に繰り出してひたすら銃撃戦。私は水鉄砲を持っていたのですぐ標的にされました。ミニオンの水タンクを背中に背負って、ホースの先の水鉄砲で撃ちまくれるタイプのなかなか合理的な水鉄砲。500円ぐらいで買ったのですが、あれだけ楽しめれば良い買い物です。

 

アッパーで氷水を顔面にいただき、背中からも氷水を流し込まれ、両頬にベビーパウダーと口紅をぬりたくられる。もう、絵に描いたようなやりたい放題です。

 

 

 

そして夜はカノム(お菓子全般をさします)食べ比べ、プラスチック容器の蓋がわに乗った2つはフライドガーリックが入っていて「お菓子」というカテゴリーに含めてよいのか議論が必要ですが、基本的にカオニャオ(餅米)は間違いなく美味しいという結論に至りました。

 

15日 元旦

 

ラオスは今が1年で一番暑い時期。昨日はかんかん照りの日差しの中あちこち歩き回ったせいで、朝は私も同期もぐっすり。夏フェス翌日のような体の重さをほんの少し感じつつ、昼前までぐだぐだしました。

そしてお腹が空いたとの単純な理由でようやく昼前に動き出し、28000KIP(360円)」でランチが食べられるコスパ最強レストランへ。

 

 

ワットインペンというお寺の裏にある「ヴァンドーム」というお店ですが、28000KIPでスープと1プレートのランチがいただけます。内容は日替わりで、入り口の看板にフランス語で書かれています。もちろんフランス語は分かりませんのでお店の人に聞きますが、このお店の人は前回来た時同様親切でにこやかな印象。店内に可愛いにゃんこが居るのもポイント高いです。

 

 

前回はモロヘイヤのスープとパスタ、そしてめっちゃ大きいチキンフライ。今回はかぼちゃスープとパスタ、チキンソテーでした。ちょっとばかし味濃いめですが、このめちゃめちゃ暑い時期には丁度良く感じられます。

 

 

 

そしてこの日もメコン川沿いの会場へ!元旦ということもあり昨日よりすごい人、すごい盛り上がり。しばらくここに居たら「タマフン(ラオスのパパイヤサラダ)」が食べたくなり、近くの美味しいラオ料理レストランへ。いつも「キンソム(おやつ)」でタマフンが出てくるときは「ほかにレパートリーないんかい」と思うのですが、無いと無いで口が寂しくなる。まだラオスに来て3か月目ですが、我々もしっかりラオスに染まり始めている模様。

 

 

 

そして私たちはお寺へ。配属先の別の課にお勤めのお姉さんが、親戚と一緒にお寺の前で聖水のようなものを売っていたのでしばらくお話して、そのお水も背中にざぶっとかけてもらって、お寺の中へ。いつもはがらんとしているお寺ですが、この日は老若男女問わずたくさんの参拝者が。日本で言うところの初詣でしょうか。

 

 

 

 

オレンジの袈裟、真っ青な祭壇、緑のスケルトンの仏像・・・仏教という大きなくくりは同じでも、日本のものとは色彩が全然違っていて、とても面白いです。

 

 

 

お寺の入り口にはお坊さんがたくさん居て、水をかけてくれました。門を通る人にぱしゃぱしゃと控えめにかけているのですが、私が手を合わせて頭を下げながら近づくと、首のあたりからバケツ1杯分ざばーーー!っと(笑) ありがとうございますとお礼を言って、また通りに出て銃撃戦。

 

 

 

夜はまたメコン川沿いをぶらぶら。移動遊園地が来ていて、よくある「めっちゃ速い観覧車」にちょっと惹かれましたが・・・

 

万一のことを考えて見るだけにしました。

 

16日 任地へ

 

 

街中のお店は休みのところが多く、食べたかったピザも食べられず、カオマンガイを食べて任地へと戻りました。

 

JICAのドミトリーからバスステーション、乗り合いバンの終着点から家までは、バックパックを背負っての徒歩移動。「かけないでよ、お願い、かけないでよ」という顔をしつつ、この日も水遊びに精を出す街の人たちと距離を置きながら歩きましたが、無事何度かかけられて都会で購入した物資も家についたころにはふにゃふにゃになっていました。ひどいや・・・。

 

バンでの移動中も、おかまいなくバンのフロントガラスに水をバチャッ!途中でバンを止めて、運転手にビール渡して。いつも爆音で歌ったり踊ったりのレストランの前は泡だらけになっているし。田舎のほうもなかなかの盛り上がりを見せていました。

 

私の正月休み終了

18日、19日はみんな出勤かと思いきや、その翌日からまた土日で休みになるので、遠方に実家がある人たちは皆連休をとって帰省している模様。遊びすぎて体調を崩したという人も何人か聞きましたが、とにかく局の中はほぼ空っぽでした(笑)

 

私は活動報告書の作成や過去の専門家の方の報告書を読む時間にあてさせてもらい、ゆっくり過ごしました。そしてまた、土曜日1日休んで、日曜日から木曜日まで上京です。3度目の二輪車研修と、第2回原爆展の参加のため、任地での活動をお休みしての首都滞在。また毎日外食か~~~まいったな~~~。限られた回数のご飯、どこで食べようか計画を練りたいと思います。

 

そんなわけで、任期中2回限定のラオスでの旧正月はビエンチャンで過ごしたわけですが、首都でのラオスの旧正月は、どんちゃん騒ぎが好きな人にはたまらないと思います!お酒飲むのが好きな人、水ぶっかけられるのが好きな人、ぜひ来年の旧正月期間はビエンチャンでお過ごしください💛