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ラオス旧正月!バーシースークワン初体験で、ちょっと泣いた話。

さばいでぃー!

 

さばいでぃーぴーまい!(あけましておめでとうございます!)

皆さんこんにちは、ラオスのラオ子です。

1月1日のインターナショナルニューイヤー、2月の中国旧正月に続き、4月15日、ラオスは今年3回目の新年を迎えました。私の活動先である産業商業局は、11日が新年のパーティー。12日は後片付けや余韻(皆あちこちで飲んでいて働くモードはどこへやら)で、私も局には行かなくて良いと言われたので家でたまっている報告書の作成や料理にあてました。

そして13日から17日まで5連休。活動先によってはもっと長期休暇のところもあるそう。逆に1月1日のインターナショナルニューイヤーは元旦だけが休みで2日からは普通に仕事なんだとか。いかにラオスで旧正月が大切にされているかが伺えます。

 

旧正月、どんなかんじ。

 

メコン流域の国々、本当に面白い。文化や宗教、言語など、過去の歴史の中で深いつながりがあったことを感じさせてくれます。4月になると、タイは「ソンクラン」、ミャンマーは「ティンジャン」、カンボジアは「チョール チュナム トメイ」と、周辺国は旧正月を迎えます。(ベトナムのテトだけが、ちょっと特殊かも。)

ここラオスも、ほぼ同じタイミングで「ピーマイ(ピー=年、マイ=新しい)」があり、今年は4月13日から17日までは旧正月の大型連休(当局の場合)。

正月1週間ほど前から事務所に来る人が少なくなり、各々買い物や、産業商業局とつながりのある省庁・企業などのパーティーに出席し、千鳥足で昼過ぎごろに局にやってきました。

それが正月に近づくにつれエスカレートし、水でびしょぬれ、ベビーパウダーで粉まみれのおじさんたち(といっても局の中では課長、部長クラスの方たち)が、私のデスクの前にあるソファにドンと腰かけてゆらゆら。

「ビール飲んできたの?」「うん」「どこで飲んでたの?」「〇〇局に呼ばれて」「いっぱい飲んだんでしょ」「うん」「クーラーあたって寝てて」「うん」「水飲む?」「いらない、ビール飲む」「無いよw」「買ってきて、お金あげないけど」「嫌だよwwww」と、私は千鳥足のおじさんたちとどうしようもない会話をして過ごしました。

そんな感じで、お正月が近づいてくると、家も会社も関係なく色んなところにぽつぽつとテントが張られ、爆音でラオミュージックが流れるなか、皆ゆる~く飲んだり食べたり踊ったりするようです。

 

産業商業局の正月祭で「バーシースークワン」初体験

 

 

4月10日夕方、いつも閉まっている「ほーん ぱすむ(会議室)」が珍しく開いていて、中から人の笑い声が。さっき水びたし&粉まみれですれ違った、完全に出来上がった課長が入っていくのが見えたので、私は見なかったことにして事務所へとこっそり戻りました。

 

 

その後、他の局員さんから「ラオ子!おいで!」と呼ばれたので、「キンビア(飲み会)やったら地獄やなあ・・・」と思いながら恐る恐る部屋を覗くと、コンクリの打ちっぱなしの床に茣蓙が敷かれて、翌日の「バーシースークワン」の準備をしている最中でした。

冗談なのか意味があるのかは定かではありませんが、ひょろひょろぐにゃぐにゃの長いロウソクを頭に巻かれ、顔の長さを測るかのように頭のてっぺんから顎までべたっと押し付けられ顔面をばしばし叩かれました。

 

 

それを、ロウソクを束にしてしめ縄のようになった塊に合体。「何したの?」って聞いたら「ぼーぺんにゃん!(大丈夫!)」と言われたので、大丈夫なんだと思います。

 

 

そして翌日、お酒が飲めない私には悲しいぐらい憂鬱な「大晦日前日」の11日、この日は産業商業局の仕事は1日中お休みで、息もしたくないような暑さの中、「ぶん ぴーまい(ぶん=祭)」つまり、お正月のパーティーが開かれました。

 

 

朝から皆せっせと「バーシースークワン」というラオスに伝わる儀の準備。家族が大きな病気をしたあと、新年、家族が留学や仕事で遠いところに行く前などに、幸せを願って行われるそうです。私は今回バーシースークワン初参加。派遣前訓練中に、ラオ人の先生が作ってくれたミサンガで隊員同士でバーシーの練習をしたことを思い出し、板書を見て何を言ったらいいのか復習。

 

 

家族だけで行うこともあるそうですが、お正月のバーシーは特別。お坊さん4人に来てもらい盛大に儀式が行われました。

 

 

運ばれてきたタライにはたくさんのピンカイ(焼き鳥)が入っていて、お姉さんたちが中華包丁を使って次々叩き切りしていきます。

 

 

 

そしていよいよ、儀式が始まりました。

各々持ってきた仏具(?)にロウソクを立てて黄色いお花を入れ、手を合わせてお坊さんのお経を聴きます。

 

 

田舎のお寺の保育園で育ててもらった私にはなじみ深い「ブッダンサラナンガッチャーミー」。カンボジアで初めて聴いたときは「本当に言うんやああ!!!」とものすごく感動しましたが、同じ上座部仏教のラオスでも同じお経を聴くことができました。その後には「ダルマンサラナンガッチャーミー、サンガンサラナンガッチャーミー」と続きます。「三帰依文」というもので、「ブッダ(仏)、ダルマ(法)、サンガ(僧)」に帰依するという意味だそう。

その後は「ドゥティヤンピ(ふたたび)」「タティヤンピ(三度)」を頭に付けてまた同じ言葉を繰り返します。

 

 

そして時折、水でふやかったもち米や、キャンディー、お花、小さく折られたお金などが飛んできました。

 

 

「よかったね、ラオ子!幸せがやってきたね」

 

なるほど、そういう意味なのね。

 

お坊さんが錫の器に入った聖水を、葉がたくさんついた木の枝をつかって全員にかけてまわり、またお米があちこちから飛んできて。結構、びちゃびちゃ。後半になると、床も、体も、頭も、米まみれ。もち米が撒かれるたび、「わぁ~~!!」と歓声があがります。

 

 

そして、結構長かったお経が終わり、お坊さんはこちらで用意したご飯を食べます。

 

お経を唱えている間火柱をあげていたロウソクと、残った水。このお水を体につけたり、ペットボトルに入れて持ち帰ったり。日本でいう、お寺に行ったときにお線香の煙を浴びるようなものでしょうか。

 

 

 

そしてお坊さんたちがお帰りになり、バーシーが始まりました。

「ラオ子、あなたは初めてだから一番前よ!」「でも写真撮りたくて・・・失礼じゃないかな」「大丈夫!手を合わせてる間は皆と一緒にお祈りしてね」と言ってもらえたので、一番前でバーシー式を体験させていただくことに。

 

 

真ん中に置いた祭壇のようなものから伸びる糸を皆で持ち、進行役の一人が何かをずっと唱えています。その村の長など、位のある人が、が口伝された祝詞のようなものを唱えるようです。(語学力の限界・・・。)

そして時折みんな「サーーー!」とこたえる。このタイミング覚えたいなあ。

 

 

終わったら、みんなで祭壇のオレンジや白の糸を分け合って、手首に結びます。卵や鶏肉を握らせて結ぶ人、お金を握らせてお願い事をする人、いろいろ。

 

私も上司・同じ課の人のところに結びに行きたいな、と、必死で覚えた言葉を思い出そうとしていたところ、「ラオ子!ラオ子!」とみんなが私のところに結びにきてくれました。

 

 

ビエンカムにきてくれてありがとう。

 

あなたと一緒に仕事ができて嬉しい。

 

2年間、健康で過ごせますように。

 

2年間、ここでの生活が安全でありますように。

 

たくさんのラオ人の友達ができますように。

 

ここが第2の故郷になりますように。

 

ビエンチャン県のODOP商品を、協力してたくさん売っていけますように。

 

あなたが笑顔で頑張れますように。

 

あなたと、日本にいるあなたの恋人や家族が健康でありますように。

 

2年後にはもっともっとラオ語でたくさん話ができますように。

 

日本とラオスがもっといい関係になれますように。

 

多分、もっとたくさんのことを言ってくれていたのですが、今の私に聴き取れるのはこれぐらいでした。

 

でも、十分でした。私の手を取り、ゆで卵やお金を手のひらに乗せて、私の目を見て、とびきりの笑顔で、私の2年間の活動や、ここでの生活が豊かになることを祈ってくれた。

もっと聴き取れたら、と、悔しい気持ちになりながらも、みんなの温かさに胸がいっぱいになって、喉の奥がぐっとなりました。こらえきれず涙が出てしまい、「どうして泣いてるの」と聞かれ、「嬉しいからだよ」と答えると、「その気持ちで、これから頑張ろうね」と。

 

 

こんな風に、温かい気持ちと真っ直ぐな言葉でお互いの幸せを願う儀式が、職場や家庭で当たり前のように行われる。なんて素敵な文化なんだろうと思いました。

日本に居たときは、「仕事は仕事」「プライベートはプライベート」と完全に分けた働き方しかした事がなかったし、それが当たり前で、普通なのだと思っていました。でもラオスは違っていて、もっともっと距離が近くて、皆がみんな親戚のような感じ。だからこそ理解し合えること、助け合えることもたくさんあるんだろうなと、ここに居た1か月半みんなの働き方を見て感じました。

 

 

この後引き続き行われた「ぶんぴーまい」の飲み会は、お酒が飲めない自分にとって結構辛いものでしたが(これはまた後日)、バーシーの儀式は「心があったかくなる素敵な時間」であるということを知った素敵なお正月となりました。

今度のバーシーでは、私がみんなの幸せを願って糸を結べるようになりたい。このモチベーションを語学の勉強にあてたいと思います。

 

 

ネットで調べると諸説あるのですが、結んでもらったバーシーの糸は3日~2週間ぐらい置いあと切るそうです。それまでにも結び目の甘いものが自然と取れていきましたが、糸がたくさんついていると炊事や入浴のあと重さを感じるぐらい水を含みます(笑)

 

取れてしまったものは家の鍵に結んで、残っているものはこのままにします。見るたびに皆に貰った温かい言葉を思い出せます。皆、ありがとう。

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活動先で、突然生産者のおばあちゃんによる指圧マッサージが始まった話。

さばいでぃー!

任地に来て3週間が経ちました。ラオスのラオ子です。

最近パソコンで蟻を飼い始めました。

電源を入れると蟻がわらわら出てきます。

噛むタイプの蟻じゃないので、

PC壊さなかったら居てくれてもかまわないのですが、

潰すと蟻酸臭いのがちょっと難点です。

お願いだからPC内で蟻酸出さないでよね。

 

それはいいとして、最近、

色んなデータの翻訳作業や、それに伴う文献調査で

肩こりと目の疲れが限界に達していました。

肩が凝るといつも左肩がジンジンと痛くなって、

耳の後ろから肩甲骨あたりまで変なツッパリ感があるんですが、

今回はそれに加えて、左手の甲がずーっとぴりぴりと

変な痺れを起こしていました。

おそらくラオ文字を読むことに慣れておらず

書類やPCに顔を近づけすぎていることが原因かと思われます。

 

アジアあるあるですが、とにかくベッドが大きいので、

寝る前はこれでもかとストレッチしています。

しかし、部屋に机と椅子が無いこともあり、

ずっとベッドでごろごろ読書、スマホ、PCな日々では

それも相殺されるどころかマイナスです。

 

そして今日も私は、疲れた目をかっぴらき、

「目、大きくしたいの?」と言われながら

作業をしていました。

 

初めまして!の生産者さん

そこへやってきたのは、初めてお目にかかる

ODOP製品の生産者さん。

どこで、何を作っておられるのか伺って、

今度見学させて頂きたいというお話もして、

その後私は自分の作業に戻りました。

 

すると突然、事務所のソファーからすっと立ち上がって

私のデスクの前で手を合わせ、

「少しこちらに来てもらえますか。」

と、ソファーを案内されました。

 

何かお話があるのかと思い、スマホ、紙、ペンを持って腰かけると、

私の背後に立ってそこから動こうとしません。

 

なんだなんだ??

 

と思ってちらっと後ろを見ると、

手を合わせてなにかぶつぶつと言ったあと

私の背中を擦り始めました。

 

これはまさか、疲れていたのではなく

憑かれていたのか・・・?!

この人はシャーマンだったのか・・・・?!!?!?!?

 

と色々考えていると、突然マッサージが始まりました。

 

マッサージというよりも、これはもはや「指圧」。

街中にある「気持ちいい」マッサージではなく、完全なる治療。

 

「そこ自分で押さえても死ぬほど痛いんですよ」

という場所だけを、伝えてもいないのに(伝える語彙もない)

恐ろしいほどクリティカルに攻めるおばあちゃん。

私は全身の毛穴が開くのを感じました。

痛い。引くほど痛い。

 

その施術が10分弱続いている間、

おばあちゃんはODOP認証商品について

局員さんとずっとお話していました。

 

痛すぎてちょっと涙が出ました。

 

こんな小柄なかわいらしいおばあちゃんのどこに

この握力があるのだろうと不思議に思うぐらいの力強い指圧。

 

最終的におばあちゃんは腰から頭のてっぺんまで

くまなくマッサージして、私の前で手を合わせて

「ありがとう。終わりよ。仕事を続けてね」と。

 

あれ。

 

 

私の後に課のねーさんの施術が始まり、

いや本当に何だったんだコレは、と思い暫く作業していると

左手の甲の変なぴりぴり感が無くなっていることに気が付きました。

 

おばあちゃん。あの。あのですね。

 

痺れ無くなってます!!笑

 

びっくりした私はおばあちゃんに

「痛くなくなりました!!!ありがとうございます!」と言うと

ニコッと笑って「メルシーボークー。」

何もなかったかのように施術を続けています。

元フランス領だったラオスやカンボジアのお年寄りの中には

フランス語を話せる方もいらっしゃいますが、

何故私にフランス語で返してくださったのは謎です(笑

でも、プロ指圧師のおばあちゃんの突然のメルシーに

なんだか痺れました。おばあちゃんかっこいい!!

 

どういうことだ。なんてこった。

本当に本当に、背中が軽い。

 

そうこうしているうちに、次の局員さんに交代し、

いつもどっしり構えたオカン的な局員さんが

「痛い!痛い!!」とめちゃめちゃ可愛い声で泣きそうになっていて

私は少しキュンとしました。

 

彼女の職業は。

何を作っているのかをお伺いして、

てっきり生産者さんは生産者さんだと思っていたのですが、

その後よくよく聞いてみると彼女の職業は

「モー ヤー プンムアン」というもの。

ラオ語では「ໝໍ ຢາ ພື້ນເມີອງ」と書きます。

 

モー = お医者さん 

ヤー = 薬

プンムアン = ネイティブの

 

つまり、「伝統療法士」が彼女の職業だったのです。

 

このおばあちゃんは伝統療法士が本職で、

その知識を活かして自然のものからオーガニックの医薬品を作り、

ODOPの認証を受けていたのでした。

 

マッサージも1時間50000kip(=645円)で

受けてくださるそうなので、早速今度行ってみたいと思います。

前職が登録販売者だったこともあり、

薬の成分や製造工程には私も興味津々。

薬を作るところも見せていただけるとの事でしたので

早速今度お邪魔する予定です。

 

ああ~!面白い!まだまだ知らないことだらけ。

飽きたなんて言う日は来ないまま2年間が終わりそうです。

(ただし生活圏内の食事にはもう飽きました。)

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ビエンチャン観光!ブッダパークとタートルアンに行ってきました。

さばいでぃー!

時系列が前後しますが、

ビエンチャンに来て2回目の休日のお話です。

 

地方の病院で頑張るパニャバン(看護師)隊員と共に

首都ビエンチャン郊外にあるブッダパークと

タートルアンに行ってきました。

 

ブッダパークの行き方

 

ブッダパークへは、首都ビエンチャンの街の中心部

タラートサオ(サオ市場)横のバスターミナルから

バス1本で行くことができます。

京都市バスのおさがりに乗って、いざ出発!

 

 

 

他の方のブログで「14番」のバスとお見掛けしましたが

私たちが乗ったバスは171番でした。

バス停に居るスタッフさんに「ブッダパーク!」と言ったら

何番か教えてくれるのでそれに従えば大丈夫そうです。

 

 

バスに乗っていたらお姉さんが運賃を回収しに来てくれました。

ブッダパーク(現地ではワットシェンクワンと言います)までは

8000LAK、おおよそ100円ぐらいです。

 

 

この看板が見えるところで降りれば、

目の前がブッダパークです。171番のバス、さようならー。

 

 

写真左がわに見えるシカの像が既に意味わからないのですが、

 

 

もう何がスゴいって、ブッダの数がとにかくすごい。

地図を見ただけでも分かる、ブッダまみれ。

これはベトナムのお気に入りスポット、

世界3大珍公園の異名を持つスイティエン公園にならぶかもしれません。

 

いざ、ブッダの世界へ。

 

入ってすぐ右手に見えるこのパンチの効いた巨大な建物。

これがブッダの一体何なんだと軽くつっこみを入れながら

近づいてみると・・・

 

 

 

いやいや、もう少し大きい入り口つくれへんかったんかーい。

と突っ込みたくなるほどの狭い入り口。

 

 

見てるだけで気持ちが不安定になりそうな階段とか、

 

 

薄すぎて上るのも躊躇するような階段をなんとか上ったら、

 

 

こういう景色が見えるんですけれども、

 

 

わたくし根っからの高所恐怖症でして、

 

 

屋上に立つことなく写真だけ撮ってそそくさと退散しました。

 

 

なんでも、ここブッダパークは

1950年代にタイのノーンカーイ(メコン川の対岸の街)生まれの

宗教家ブンルア・スリーラット氏によって作られた公園だそうで、

 

 

各地から集めてきた像を展示してあるわけではなく、

ブンルア・スリーラット氏が近くのセメント工場から安く仕入れた

コンクリートで作ったものだそうです。

 

 

あ、これ、イッテQでイモトがいじってたやつですね。

 

 

仏教とヒンドゥー教を融合した独自の世界観で

この200体以上の銅像を作り上げましたが、

その宗教観を危険視する人も少なくなかったようです。

 

 

にしても、アレやな。

 

 

 

 

そろそろ、

 

 

しんどいな。

 

 

 

というわけで、帰りのバスは時間が分からないので

しばらく待ちぼうけです。

 

 

あ、奥のほうからバスが来ました。

 

郊外で流しのトゥクトゥクにはなかなか出会えないので、

帰りが不安な人は市内から往復でトゥクトゥクに乗るのが

いいかもしれません。

 

タートルアンへ

 

タラートサオから歩ける距離でもう1か所行きたかったのが、

このタートルアン。

建てられた時期は諸説ありますが、

ラーンサーン王国時代(16世紀)に改修。

ブッダの胸骨が残る寺院と言われています。

 

 

ラオス仏教で最も位の高い寺院であり、ラオスの象徴ともいえます。

 

 

中には入ることができず、観光客は外から拝観するだけですが、

夕日が差し込んで黄金色に輝くタートルアンを見れて感動でした。

 

 

国章にも描かれている、ラオスのシンボル。

タート(寺院)ルアン(巨大)とだけあって、

45メートルの黄金の塔は塀の外からでもかなり存在感があります。

 

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紀元前3世紀にインドの僧によって建築された後

13世紀にクメール様式に建て替えられたという

このタートルアン。

360度ぐるっと回って拝観したあとは、

ビルマの侵略により不遇の死を遂げた

セーターティラート王の銅像や

周辺に建てられている寺院もセットでお楽しみください!

 

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COPEビジターセンターで学ぶラオスの昔と今

さばいでぃー!

みなさんこんにちは。

語学研修があまりにハードで毎日燃えカスになってます、

ラオスのラオ子です。

 

ラオスの首都ヴィエンチャンでの研修が始まってから

はや2週間が経ちました。

語学研修が始まるまでは、ブリーフィングや各種手続き、

大使館の表敬訪問と、コンテンツ盛りだくさんで過ごしました。

その最終日に行ったのが「コープビジターセンター」です。

 

コープビジターセンターとは

私は、

かつてラオスに大量の不発弾がばら撒かれたことを、

それが一体何故なのかを、

そして今も安全な生活を送れない人が居ることを、

 

 

恥ずかしながら

 

www.laoko.net

この本を読んでラオスの近代史に触れるまで

ほとんど知りませんでした。

 

ラオスは、ミャンマー、カンボジア、タイ、中国、

そしてベトナムの5か国に囲まれた内陸国です。

1953年にフランスからの独立を果たしたラオスでは、

国内で王国派と共産主義派の対立による内戦が勃発し、

時を同じくして隣国で起こっていたベトナム戦争と

それに介入していたアメリカとの間で

以下のような構図が出来上がりました。

 

<ラオス>

・国内で『パテトラオ(愛国戦線)=共産主義』と『王国派』が対立

・アメリカが王国派を支援しパテトラオに圧力をかける

 

<ベトナム>

・北ベトナム軍と南ベトナム軍が対立

・北ベトナム軍がパテトラオ(共産主義派)を支援

・アメリカが南ベトナム軍を支援

 

つまり、かなりざっくりまとめると、

 

パテトラオ・北ベトナム軍

VS

王国派・南ベトナム軍・アメリカ

 

という構図で、戦争が繰り広げられていたわけです。

(解釈が間違ってたら・・・すいません。自分で調べてください笑)

 

当時、北ベトナムと南ベトナムは、

フエのDMZ(非武装地帯)によって分断されていました。

「北緯17度線」とも呼ばれるこの場所は

22年ものあいだDMZとして激しい戦火に晒されてきました。

 

北ベトナム軍は、ベトナム戦争で

最も戦火の激しい非武装地帯を避けて

南ベトナム軍領地に物資を支援するため、

ラオス南部に「ホーチミンルート」をつくり、

それまでラオスの山岳地帯で対北ベトナム軍にそなえて

ゲリラ訓練を実施していたアメリカは、

このホーチミンルートを断つことを目的に

ラオスへの空爆を開始しました。

 

ラオスはタイとベトナムの間に位置しているために、

タイに基地を設けていたアメリカ軍に

ベトナムを空爆したあと余った爆弾を

投棄するための投棄地として使われ、

それがラオス南部に大量の不発弾(UXO)を残した

大きな原因となったとも言われています。

 

隣国カンボジアは「地雷の博物館」とも呼ばれ

埋設数世界一を誇ると言われていますが、

ここラオスは空爆数が世界一。

一つの爆弾から数十、数百の小爆弾が飛び散る「クラスター弾」は、

推定2億8千万もばら撒かれ、

同時期に投下された7500万もの不発弾と共に

その30%が本土に残っているといわれています。

18ある県のうち10県が不発弾に汚染されており、

その土地に住まう人たちを常に脅かし続けているのです。

 

数ヶ月前には、シェムリアップの郊外にある世界遺産のロリュオス遺跡群近くの 公立小学校横の森で、爆発事件がありました。 子どもたちが鉄くずを売ろうと不発弾を触ったところ爆発してしまい、 4人が酷い裂傷で病院に運ばれたそうです。 (ニュースで見た時は亡くなったという情報はありませんでした) また、牛を2匹繋いだ牛車に子ども二人を乗せて走っていた男性が 対戦車用地雷を踏んで吹き飛び、みんな亡くなってしまったという 痛ましい事故も、私がここに来てからのこと。 地雷撤去が終わる=”100%安全な土地”になったというわけではありません。 雨季の激しい雨で地雷を覆っていた土が流れてしまうため、 地中深くに眠っていて探知機に反応しなかった地雷が 出てくることもあるのだそうです。 「何個撤去したかではなく、国土の何パーセントが安全な土地になったかが重要」と 以前とある方から伺いましたが、こういうニュースを目にするたびに 本当にその通りだなと思います。

カンボジアの国境の町”ポイペト”ってどんなとこ?前編 – カンボジアのボジ子。

 

過去の自分の記事を引用しましたが、

地雷、不発弾などの共通の問題として、

”現在進行形”で人の命が脅かされていることがあげられます。

 

不幸にも、ラオスで人気の”ペタンク”というスポーツで使う鉄球に

大きさが似ていることから、

子どもが怪我をしたり、命を落としたりすることもあるそうです。

 

不発弾は、インフラの整備が遅れる大きな要因となるだけでなく、

UXO脅威から身を護るための教育を受けていない子供たちや

危険性を分かっていてもそこで暮らす以外

方法の無い農業従事者の生活を40年以上も脅かし続けているのです。

 

ラオスに来て、病院で活動する看護師の先輩隊員から

ラオスの医療の現状を教えてもらいました。

 

私はバイク隊員なので、現地に行ったら

タイカブに乗ることになります。

怪我をしたときに自分が運ばれることを考えながら話を聞くと

背筋が凍るような話ばかり。

自分が安全に運転しているつもりでも

100%安全ではないと肝に銘じて活動しようと心に誓いました。

 

 

もしも、先進国のような医療技術が国のあちこちにあれば。

もしも 、その医療をすぐに受けられるだけの収入があれば。

 

被害に遭っても、障がいはもっと軽くて済んだかもしれない。

生きられた命もあったかもしれない。

 

じゃあ、命が助かったとして、

その後の一生を誰が支えるんだろう。

機械に繋がれた命や障がいの残った体に

かけられるお金を持つ人が、いったいどれぐらい居るんだろう??

 

と、たらればで色々考えながら展示物やショートムービーを見て、

「残虐性、残存性、無差別性」という

不発弾や地雷の説明によく使われる言葉が

いかに人々の生活を脅かしているかということを考えました。

 

1964年以降、クラスター弾の被害に遭った人の数は5万人と言われています。

そのうち2万9千人は亡くなり、2万1千人が負傷。

そういった人たちを支援するためのNGOやNPOが

ラオスには多数存在しており、このCOPEビジターセンターでも、

義肢装具の無料提供やリハビリテーション、

外科手術や理学療法・作業療法などの医療などの

無償提供が行われています。

 

支援は1度で終わるものではありません。

体の形の変化や義肢装具自体の摩耗・破損など、

その時のニーズに合わせた義肢の提供、

また長期的な治療やリハビリテーションが必要になります。

 

 ショートムービーを見るなかで、

被害に遭った人の”自立支援”というものが

いかに大変で、そしていかに必要とされているかを知りました。

日本と同程度の国土面積をもつこの国が、

3割以上がいまだにUXOに汚染されている中で、

人口増加に伴って相対的に被害者が増えている現状をケアするだけの

インフラストラクチャは整っておらず、

ハード面・ソフト面共に問題を抱えていることは

言うまでもありません。

それらの受け皿に乗る機会に恵まれなかった被害者は、

仕事も出来なくなって家族に負担をかけることになり、

体の自由を奪われるだけでなく尊厳まで奪われることになります。

 

いつもこういう場所に来ると色々考えますが、

この問題に対して自分が直接できるとが何かというよりは、

自分が今から2年間お世話になる国が

どんな歴史のうえにあるかを知るために、

はじめのうちに行っておけてよかったと思います。

 

COPEビジターセンター公式ウェブサイト

COPE Laos – Provider of prosthetic, orthotic and rehabilitation services in Laos

 

 

新しいリンク追加しました!

www.laoko.net

 

「赤道直下 新天地」と隊歌「若い力の歌」の歌詞にもあるように

基本的に任地は暑い国が多いのですが、

マイナス数十度のモンゴルで活動する隊員も居ます。

異世界感あふれる投稿楽しみにしてます!

 

・・・

 

戦争博物館など、他にも勉強になる場所がいくつかありそうです。

任地での生活が始まったらこういう場所にもなかなか行きにくくなります。

語学研修中ではありますが、首都ヴィエンチャンに居るうちに

色々行っておきたいです。