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新婚旅行に行ってきました【ラオス編】

さばいでぃー!

みなさんこんにちは、ラオスのラオ子です。

前回の記事に引き続きまして、今日は新婚旅行ラオス編を書いていきたいと思います。

タイ編(済)
1月27日 夕方に日本発→28日夜中バンコク着
28日 アユタヤ観光
29日 メークロン市場観光
30日 バンコク市内観光、寝台特急でノーンカーイへ

ラオス編(この記事)
31日 朝6時ノーンカーイ着、鉄道でメコン川を渡りラオスへ
2月1日 ビエンチャン市内観光
2日 村で結婚式
3日 配属先やカウンターパートをまわりビエンチャンへ
4日 ラオス中国鉄道でルアンパバーンへ
5日 ルアンパバーン市内観光
6日 飛行機でハノイへ

ベトナム編(多分写真貼って終わる)
7日 ハノイ市内観光
8日 ハノイ市内観光、深夜便で日本へ
9日 朝に日本着

こんな感じでお届けしていく予定です。ラオスはJICA青年海外協力隊として活動した場所で、この3か国の中でも特別思い入れがあり、そして現地の人たちや現地で頑張っている隊員さんやOVたちと、濃い~~~時間を過ごしてきました。そんなところも書いていけたらと思います。

では、どうぞ!

ラオス1日目:陸路で入国、市内観光

前日の夜8時半ごろ、バンコクのクルンテープアピワット中央駅から寝台特急に乗りこみ、真っ白でシワのないシーツが敷かれたフルフラットの席に気持ちよく寝転がりました。発車後しばらくは、タイ撮影分のデータのバックアップを取って過ごそうと、久しぶりにPCを開きましたが、如何せん電波が悪くずっと3G。それでいてぶつぶつ切れてしまい、Lightroomもまともに使えなかっために、特にすることがなくなってしまいました。Spotifyも使えなくなるし、、、なんでもオンラインやクラウドで済ませるのも考え物ですね。

あー退屈だなあとスマホを触ろうにも電波がない。スマホに入っている書籍は読み飽きた。ギガめちゃめちゃ余ってるのにバックアップできひんの勿体ないなー…そういえば、タイ語の教科書、行きの飛行機以来1回も開かんかった…なあ….. なんて思っているうちに、いつしか眠りについていました。ありがたいことに、周りの乗客も静かだったため、蒸気でホットアイマスクを出すまでもなく爆睡です。

「Miss, 起きて」とやさしくカーテンを揺らされて起きると、まわりの乗客のフラットシートはすでに畳まれ、丸まったシーツと枕がそこらに転がっていました。

まだノンカイまでは時間がありそうだったので、眠い目を擦りながら最低限の化粧をして、最後のタイの景色を楽しみます。

約10時間の電車の旅は本当に快適でした。体が痛くなることもなく、トイレもわりかし綺麗なほうで、この値段でこのクオリティならケチのつけようがありません。ちなみにバンコクからノーンカーイまでは、寝台車の下のほうの席でひとり999B。1バーツは3.9円前後なので、タイバーツは4をかけたら日本円になります。

さて、ノーンカーイ到着後は、早朝の寒さに震えながらラオス側に渡る電車を待ちます。「7時にイミグレが開くからもう少しここで待っていなさい」と駅員さんが教えてくれました。しばらくすると、開いたのはラオスからのアライバル側のイミグレ。しかしそこに居るのはラオスに向かう人のみ。大切なのはパスポートにスタンプをもらう事だからね、どっちのカウンターを使うかなんてどうだっていいよね。マイペンライ(タイ語で「大丈夫」)でボーペンニャン(ラオス語で「大丈夫」)なこのゆるゆる感がなんともいえず。

「なんで日本人なのにラオ語を喋るんだ?」「なんで日本人なのにイサーン語(タイ北部の、ラオ族の人たちが話す方言)をしゃべるんだ?」と言われるのも、おそらくこのイミグレが最後です。タイの人たち、私のほぼラオ語のナンチャッテてへぺろ残念タイ語を聞きとってくれてありがとうございました。いつかは「タイ語が上手だね」って言ってもらえるように頑張ります。

そうそう。アユタヤについた時、トイレットペーパーを買っておこうと思って商店に行き、店のおじさんに「チアアナマイ、ミーマイカ?」と聞いてみたのですが、「わからん」「なんのことや」という顔のあと、生理用品を持ってきてくれるということがありました。先に画像を見せたらよかったのですがもう一押し試みて、「ティッス↑ゥ↓ホンナム」でようやく伝わり、それでもロールタイプでなく箱型のものを持ってきてくれたので、最終的に画像を見せてロールタイプを持ってきてもらいました。

タイ語でトイレットペーパーは「クロダ チャムラ」。チャムラはあとから調べたら「支払う、綺麗にする」とか色々な意味があります。タイ語やラオ語は共通して、被修飾語が先に来るという性質があります。「クロダ」が「紙」という意味ですので、「綺麗にする紙」で「トイレットペーパー」になるのです。

わたしはこの「クロダ」に聞き覚えがありました。10年前に住んでいたカンボジアで同じ単語が使われていたからです。「プカークロダ」は、「プカー(花)」+「クロダ(紙)」で「紙の花」、ブーゲンビリアのことを指します。動詞などの基本的な1音節語だけで見るとカンボジア語とタイ語は遠い親戚、タイ語とラオ語は兄弟みたいな距離感かなと感じていますが、サンスクリット語からきている言葉は割と共通している部分が多いので、カンボジア語の習得にもじりじり近づいていけると信じてタイ語の勉強をしてみたいと思います。

話が逸れましたが、無事にノーンカーイを出発した電車は、静かに静かにまっすぐな線路をすすみ、メコン川を渡りました。橋を渡っている途中、タイの国旗が等間隔にたてられているのですが、それが1本だけ黄色い旗になり、そのあとラオスの旗に変わります。それが国境を越えた証。赤白青、同じ配色で作られた国旗ですが、それがラオスの国旗になった瞬間、「ただいま」と胸が高鳴ります。

ラオスに!10か月ぶりに!かえってキターーーーー!

ラオス!ラオス!ラオス!ラオス!!!

ラオス側のターナレーン駅から首都ビエンチャンの中心部までは、乗り合いバンで向かいます。しかし、乗り合いバンに乗り合ってくれる外国人が一人もいなかったため、全額わたしたちで負担することに。その額600バーツ。正直「高い!!」と思ったのですが、この場に一人しか居ないドライバーの言い値に高いだのなんだのケチをつけるのも野暮だと思い、交渉は特にせずバンに乗り込みます。聞けば、ラオスのガソリンは今や20000KIP越え。わたしが居たころ10000KIP前後だったことを思い出し戦慄しました。レートで見ても、生活費をドル支給してもらっていた隊員時代は1ドル=9000キープを超えたらうきうきしながら多めに現地通貨に変えていましたが、私が知るなかでは、再赴任されたころの街中両替所で1ドル=17500キープまであがっていました。

そりゃ物価もあがるわけだし、この人だって600B欲しいに決まってる。私だったら700バーツ欲しい。

その後私たちは、タートダム近くのおいしいカオピヤックを食べ、大使館近くのおいしい日本食レストランで久しぶりの日本の味に昇天し、タートルアンでお参り・・・と、THE☆観光客なコースでビエンチャン市内を散策しました。

昼から、ずっといきたかった「Lily Spa」にハーバルボールマッサージを受けに行ってきたのですが、お値段は他に比べれば高いものの、その期待値をはるかに超えてくる素晴らしいサービスと技術でした。タイでは連日、重いリュックを担いで歩きっぱなし。実は、タイを去る日にも街中スパでハーバルボールを受けてきたのですが、ダチョウ倶楽部かよっていうぐらい「あちあちあちあち!!!」とリアクションさせられ、リラックスどころではありませんでした。ガーゼに薬草をパンッパンに包んで蒸したものを体にじんわりと押し当てるのですが、びちゃびちゃのハーバルボールから熱湯がジュワッとあふれ出してくるのです。がんもを直置きされている感じです。私は膝裏を見事に負傷し、あせものようなブツブツが大量にできてしまいました。平たく言うと火傷です。そんな平均以下の施術の翌日ということもあったせいか、余計にクオリティが高く感じられました。ああー、幸せだったなあ。とろけるような1時間半でした。これからは、他の費用をケチッてでも、ラオス行くたびに行くと思います。

夜は、ずっと会いたかった現役隊員さんとナダオでフレンチ。私が10か月前ラオスを去るときに、活動が軌道に乗り始めていた彼女は、ゴールを目前に最後のラオス生活を噛みしめているところでした。貴重な残りのラオス時間で会ってくれてありがとう!

まだまだがらんとしたビエンチャンですが、それでも渦中だったあのころと比べればずいぶんと活気が戻りました。1年前のビエンチャンは、ワットインペン前のバス通りを夜一人で歩くのも怖いぐらいでしたが、川沿いのナイトマーケットも再開され、Angoさんの前の通りは端から端まで屋台が並ぶ歩行者天国、おかず横丁も人でにぎわっていて、アフターコロナの中でふんばっている様子が垣間見えました。

ラオス2日目:結婚式後撮り、市内観光

ラオス2日目、午前中は結婚式の後撮り。ラオスの民族衣装を着ての撮影で、ヘアメイク+衣装+撮影1,000,000KIPでした。8000円弱でこんな体験ができるなんて、ラオス最高。

このときでないと絶対に着れない色がいい!という強い思いがあったので、金色を選びました。以前参加したラオス人の友人の結婚式で、花婿と花嫁が全身金色の衣装を着ていたからです。

夫は出演NGなのでソロショットを…。着つけてくれたお姉さんによると、このシンはアルアンパバーンスタイルだそうで、織りの上に立体的な刺繍が施されています。実物を見るととても高価に見えます。

印刷は要らないからデータだけちょうだいと伝えると、それならもう取りに来てもらう必要もないから、Whatsappだけ教えて~と言われて連絡先を交換。夕方ごろに「できたよ~」というメッセージと共にGoogle Driveの共有リンクが届きました。なんという簡単受け取り。開いてみると80枚の写真が。

日本人は良い人多いから撮影楽しいわ~といいながら色んなポーズを指示してくれたクールなお兄さん、「じゃあ最後にフリーポーズで」と言ってくれたので夫が持っていた短剣を鞘から抜き、上段の構えで夫に切りかかるポーズを撮ったのですが、その時ばかりはケラケラ笑っていました。うけてよかった。

すっかりお腹がすいた私たちはJICA事務所近くのおいしいカオマンガイを食べ、ビエンチャンで一番渋くて好きな寺「ワットシーサケ」、バーシーしている様子が見られる「ワットシームアン」、そしてコロナのせいで数年間「カミングスーン」だった待望のスターバックス1号店へとひたすら歩きました。

スターバックスでデミタスカップとベアリスタを買う予定だったのですが、デミタスカップが売り切れで普通のマグに。か、かさばるー!ですが、接客はさすがといったところで、タイで数年OJT受けてきたかな?と思うぐらいスムーズなオペレーションでした。7か月だけ働いたナンチャッテスタババイトの私など足元にも及びません。

その後は、お土産屋さんやショッピングモールをだらだらとまわりながら、煙がのぼりはじめたおかず横丁で焼き鳥をつまんで夕飯へ。以前、ラオス料理に精通している方に連れていっていただいた「スックヴィマーンレストラン」で、現役隊員さんたちとキンカオ。村で食べ慣れたラオス料理とは違う上品なお味。清潔なレストランでおいしいラオス料理が食べられるので、初めてラオスに行く人を連れていくのにちょうど良いお店です。

ラオス3日目:村で結婚式

ラオス入国3日目は、わたしが活動していた村への移動日です。いま一緒にブランドの製品開発を頑張っているお母さん(ブランドのロゴの女性です)の村へは、お母さんの車で移動しました。わざわざ首都まで迎えにきてくれた妹は、車の中で藤井風の音源をかけ、「この歌の意味何なん?」と聞いてきます。よく売れているアーティストだということは知っていましたが、藤井風をちゃんと聴いたのはこの日が初めて。「死ぬのがいいわ」をラオス語で説明しろというのは、まだまだラオ語ビギナーの私には難しすぎました。ざっくり意味を説明したら「え、危ない歌やなw」と笑っていました。多分伝え間違っている、ごめん。

村について、しばらく近所をぶらぶらしました。よく買い物にきていた市場には、色とりどりの野菜、川魚、しめたてのお肉がずらりと並んでいます。そのなかに、日本では絶対見ないであろうアリのタマゴが。私は食べなれたものですが、夫はもちろん初めまして。見ているだけで体がかゆくなりそうです。

その後私たちは、村の美容室でメイクをしてもらい、生産者さんが用意してくれた民族衣装に着替えました。ハネムーンでラオスを訪れたわたしたちに、生産者さんと家族親戚、村の人たちがバーシースークワンという儀式をしてくれたのです。

バーシースークワンとは、バーシー(吉祥のお供え物)をクワン(魂)へ、という意味であり(スー=~へ)、人の体に宿る32個の魂を体につなぎ留めておくための儀式で、それらの魂が出ていってしまうのが人生の節目だと言われています。そのためバーシースークワンは、旧正月のようなラオスの人たちにとっての大切な行事の際にはもちろん、出産、上棟式、留学、協力隊でいえば活動を終えて日本に帰るときなどに、このバーシースークワンが開かれます。

祭壇の中央から伸びた白い糸は「ຝ້າຍຜູກແຂນ ファーイプックケーン」、腕に巻く綿の糸という意味です。ラオ族の人たちは、白色は純粋さ、新鮮さ、無垢さを表すと考えており、バーシースークワンの際はこの真っ白な綿糸が用意されます。

お正月の場合は、祭壇から伸びるファーイプックケーンを参加者皆で持ってご祈祷が始まりましたが、今回は私たちがお祝いをしていただく立場だったため、ファーイプックケーンは私と夫に一本ずつ結ばれました。

バーシーに来てくださった方は、着席の際や儀式中に、祭壇のマリーゴールドの間にお金を挟んでくださいます。活動期間中お世話になった方からも、この日のために来賓として来てくださった方からもいただきました。ガソリン5リッター分。決して安い金額ではありません。ありがたいことです…。

儀式を執り行うのは「ໝໍ­ພອນ / モーポーン」と呼ばれる祈祷師で、辞書で見てみるとこのバーシースークワンで祈りを捧げる方のことを指すのだそうで、広義のシャーマンには別の言い方がありそうです。​モーポーンが祈りを捧げてくださっているあいだ、私たちはこの祭壇に手を添え、私たちの後ろに座っている参列者の方々は私たちに手を添えて、皆でお祈りをします。モーポーンが何を話しているのかは私にはわかりません。こちらも後で調べてみると、仏教と「ສາ­ສະ­ໜາ​ພາມ / サーサナーパーム」、パーム教という宗教の混ざったものだという風にラオ語のウィキには書かれていました。サンスクリットとパーリということなのでしょうか?サーサナーパームが気になって夜も眠れません…。

ちなみに「モーポーン」は、「モー / 医師、祈祷師など」と「ポーン / 祝福」を組み合わせた言葉です。人の人生の節目を祝福する祈祷師…、なんだか名前だけでもありがたい感じがします。

さて、20分以上にわたるお祈りの間、たまに参加者で「あーーー」と声を上げる場面があったり、後ろのほうからマリーゴールドの花びらが飛んできたり、マリーゴールドを酒に浸して手のひらを清められたり、最後は固めの杯といいますか、シャーマンが最初にショットグラスでお酒をぐいっと飲み、そして夫へ妻へとグラスが渡っていきます。

今回、私たちはお土産に日本酒を2本持って行ったので、日本酒を注いでくれました。(ラオスのお酒は度数が高く下戸には辛いので、ありがたいです)

それが終わったあとは、モーポーンから順に、私たちの手首にひもを結んでくださいます。モーポーンは、黄色とオレンジの色付きのファイプックケーン。そのあとは白のファイプックケーンを、みんな代わる代わる両手首に結んでお祈りをしてくれます。

また来てくれてありがとう。結婚おめでとう。悪い魂が出て行って、良い魂が入ってきますように。健康な子供がたくさんできますように。互いに永遠の愛で結ばれますように。お金に困らず暮らせますように。この旅が良いものになりますように。無事に日本に帰れますように。

皆の気持ちが、私たちの両手首に結ばれていきます。その間、私たちのてのひらには、茹でた丸鶏がのせられています。場合によって、ゆでたまごだったり、お米だったり、お金だったり、お菓子だったり、いろんなものを握らせてもらいましたが、活動を終えて本帰国するときに開いてもらった3回のバーシーはどれも同じように茹でた丸鶏でした。主賓は鶏、とか決まりがあるのでしょうか。

マリーゴールドがたくさん飾られた祭壇は「ພາ ຂວັນ / パー クワン」と呼ばれています。クワンは魂ですが、被修飾語の「パー」は何でしょうか。辞書で引いてみると、「ピラミッド型の祭壇」とでてきたので、このまま固有名詞として受け取ってもよいのでしょうが、動詞だと「導く、連れていく」という意味を持ち、名詞になると「お皿」、パーリ語由来の言葉としてみると「太陽、光線」といった意味も出てきました。どの言葉もこの儀式にぴったりなものだと思いました。明るい未来へ導いてくれるような儀式だと思うし、1本の糸で繋がったみんなの想いが集まる受け皿のような役割をこの祭壇が担っているような気もするし、幸せを願って糸を結び合うあの空間は陽だまりのような温かさを感じるし….。

手首に紐を結んでもらうのがひと段落ついたとき、入口のほうから男性が5人ぞろぞろと入ってこられるのが見えました。額装された賞状を持った方は、私が隊員だったころに2度ほどお会いした副県知事。日本に留学されていたことがあり、流ちょうな日本語で話しかけてくださったので今でもはっきりと覚えていました。活動に対する「表彰状」と、表彰状授与にあたって行政内でやりとりされた許可証のようなもの(ラオスっぽい!)、カゴに盛られたたくさんのODOP(一村一品)商品をいただいたのですが、急なことでびっくりして終始ポカンとしてしまいました。村の人たちにバーシースークワンをしていただいただけで胸いっぱいだったのに、10か月ごしにこんなご褒美までいただいて、幸せがキャパオーバーして処理が追いつきません。

この表彰状をいただくために、JICAラオスに派遣期間についての問い合わせがあったり、いつも多忙なカウンターパートが書類作成してくれたりと、色んな方が動いてくれていたことを後から知りました。そして、表彰を受けるきっかけになったのは、県知事がとある調印で生産グループを訪れた際に私も同席しており、その時に活動の話や日本に帰ってからも自分のライフワークとして活動を続けていきたいことなどをお話させていただいたことだったそうです。あの時のちょっとした会話を覚えていてもらえただけでも光栄です。

そんなこんなで、バーシースークワンが終わった後は、皆でおいしいラオス料理を囲って食事会がはじまりました。食事中に新しいゲストがお祝いにきてくださったら夫婦で祭壇の前に移動して紐を結んでもらい、祝福の言葉を受ける。以後繰り返し・・・というのがしばらく続きました。大好きな村の人たちや、すでにどこかの会食でできあがってきた同僚たち、元上司、配属先の他の課の人たち… たくさんの、本当にたくさんの人たちがお祝いしにきてくれました。

夫はひたすらビアラオとラオカオ(ラオスのお米でつくられた蒸留酒)をちゃんぽん、私は日本から持ってきたサケをついでまわり、アラシックス世代の方が集まってくださったにもかかわらず4合瓶2本があっというまにカラになりました。隊員時代、80歳を超える生産者さんが昼間の儀式でハイネケンをキメていたのを二度見したのを覚えていますが、今回もみんなすごい。

日本のパデーク研究家を唸らせた、村のパデーク名人のゲーンノーマイ(たけのこスープ)、牛のラープ、ナマズの丸焼き、ドークゲー(何かの花)とコブミカンの葉の揚げ物、サラダ… 他にもたくさんの食事が並びました。主食はもちろんカオニャオ(蒸したもち米)。私は、茹で鶏のつけダレだけでカオニャオ3合いけるぞってなもんで、ブライダルダイエットで6㎏落としたのはここで何の憂いもなく満腹太郎になるためだったんだと信じて疑いませんでした。

夜は近くのゲストハウスに泊まりましたが、この旅最安の1泊250,000KIP。せっかくの新婚旅行だからと、ホテルステイする時間が少ないにもかかわらず夫はラグジュアリーなホテルばかり選んでくれていましたが、村にはそういう場所もありません。ちゃんと休んでもらえるかなあと少々不安でしたが、はち切れんばかりに食べ、サケとラオカオとビアラオをちゃんぽんした夫には関係なかったようでした。あっぱれ、村の人たち。

ラオス4日目:元同僚たちとキンカオ、キンビア

翌日は、村から少し離れたナムグムダムとダム湖に連れていってもらい、しばしこの景色を楽しんでから、元配属先である県庁機関へ。各部屋を回って挨拶し、「ハネムーンに来たら旦那さんをつれてくるのよ!!」と帰国前に何度も何度も何度も言われた約束を果たしました。

そのあとは、私が住んでいた家の隣にある大家さんちを尋ねました。私の話をするたびに涙ぐむという、隣の仕立て屋さんも呼んでもらい、みんなにお土産を渡して、今回は滞在時間が短くて村に滞在できなくてごめんね、今度また来たときは皆でごはん食べようね、と約束。そのあとは私が「お姉さん」と呼ぶ隊員時代のカウンターパートの家で昼食をいただきました。焼いた豚肉にピア(胆汁)のディップ、ピアのスープ、ラープと、本格的なラオスの家庭料理。10か月前はこの家でトカゲと蟻の卵のラープをいただきましたが、その前も山間部の出張帰りにでっかいトカゲのようなイグアナのようなものを買っていたり、この家にお邪魔させてもらうと、「そろそろラオス料理も慣れてきたなー」っていう自分が外国人だったことを思い出させてくれる料理が出てきます。大好き。

「庭の景色、たくさん写真に撮っておくのよ。そしたら私と家族のことが恋しくなっても写真を見て村を思い出せるでしょ」というお姉さん。当たり前のように愛してくれて、私も同じように愛していると信じてくれている、そんな言葉に感じられました。つらくてしんどくて何度も自分の無力さを悲観した隊員時代、あなたの優しい言葉になんどもなんども支えられたよ。本当にありがとう。

そのあと夫はお姉さんの息子と汗だくになりながらサッカーをし、くたびれたKEENのサンダルが壊れるのを恐れた私は撮影係を理由に見守りました。そのあと子どもは水浴びへ、私が帰国したあとに生まれた娘ちゃんはカオニャオとかぼちゃの離乳食を食べ、あれこれ用事を終えてから、同じ課で働いていた職員の弟の家の上棟式へ。飲む、食べる、踊る、飲む、食べる、踊る。隊員時代は辛さすら感じていた「キンビア(飲み会)」がこれほどいとおしく思ったことはありません。

カウンターパートに、生産者さんの家まで送ってもらい、そこで仕事の話や頼んでいた商品の検品、日本での販売実績や商品のフィードバックなど仕事の話をちゃちゃっと済ませて、私たちはまた妹の車で首都のホテルまで送ってもらいました。

今回1泊あたりの値段が一番高かった「ダバラブティックホテル」の最上階のスイートルーム。最上階は1部屋しかありません。玄関を入ってすぐ大きなキッチンが目に飛び込んできます。

3部屋あり、キングベッドの寝室ーリビングーキングベッドの寝室と繋がっています。なんて豪華…。7時前にチェックインして、翌日もゆっくりできないなんて勿体なすぎる。

そのあとは隊員時代に大変お世話になった2人と合流して、鍋と焼き肉のハイブリット「シンダード」で満腹に。なんかこの日の写真少ないなあと自分で写真を見返しながら思ったのですが、旅も折り返し地点を超えて相当疲れていたのか、ラオスが「日常」に戻ってきて「ふつう」にカメラをむける機会が減ったのかはわかりません。多分、どっちもです。

ラオス5日目:初ラオス中国鉄道!ルアンパバーンへ

この日はルアンパバーンへの移動日でしたが、ルアンパバーンへの電車は午後の便。午前中はホテルでゆっくり充電して、パトゥーサイに出かけました。その前に、パトゥーサイの近くの釣具屋さんへ。釣り好きな方へのお土産に「ASHINO」のリールと、夫はバレットシンカーを購入。

バレットシンカーの棚にはキリが置いてあって、自分で穴があいているか確認するスタイル。可能な限りの不純物を混ぜに混ぜたような、柔らかくしっとりとした質感のバレットシンカーたち。そりゃ日本のタングステン製に比べれば10分の1ほどで買えるかもしれませんが、何に使うの…。

DAIWAのクルセイダーが420バーツで売られていたのは、、、何事!ほんまもんなんですかねえ。この価格ですしそうであってほしいですけど。

そういえば!円安で日本経済が大打撃を受けているのと同じように、ラオスキープも一時に比べれば落ち着きはしましたがまだまだキープ安。この店、前に訪れたときはキープで言ってくれていたような気がしますが、店頭表示がバーツに変わっていたのが気になりました。ホテルも、レストランも。ドルやバーツで提示があって、「ラオスキープならいくら」と聞いてはじめて自国通貨が提示される状態。金融素人にもラオス経済の大変さが伝わってきました。頑張ってくれラオス…!

そのあとはパトゥーサイを見学して、町をぶらぶら、ラオス南部の名物「カオピヤックパー」を首都で食べてみたり、スムージー飲んだり、スーパーでお土産買ったりしてビエンチャンでの時間は終了。

このパトゥーサイの真下から覗き込んだ写真、行くたびに撮っている気がします。絵になるなあ。綺麗だなあ。美しいなあ。

さて、ここからいよいよ、ラオスでのバーシーに次ぐイベント、「ラオス中国鉄道でルアンパバーンに行く!」です。

開通当初、買い占めや転売が横行して全くチケットが買えなかった時期がありました。(私のFacebookでも何度もチケットの写真を見ました)今はそれは無くなったようですが、決められた場所に並びに行かないと買えなかったり、外国人はパスポートの提示が必要らしかったり、なんだか煩雑そうです。アプリも一応できたみたいですが、日本からは購入できず、現地に行ってからできるかどうかも怪しかったので、今回は現地の旅行会社に頼みました。ラオス国立大学内のLJIで1か月だけラオ語を勉強したときに、ホームステイ先の人に連れて行ってもらった出家式で同じ席にいたお姉さんの旅行会社です。向こうが覚えてくれているかも定かではありませんが、Whatsappでやりとり→BCELoneで振込という手順で何度か航空券を頼んだことがありました。「〇月〇日からのスペシャルプロモーション!!」とラオス航空が告知したときも、「あれ取れたら取っといて~」でちゃんと用意してくれていたので、私はこの会社をめちゃめちゃ信頼しています(笑)

10か月前の帰国の際、隊員は銀行口座を閉じなければならない規則になっていて、今回はBCELoneが使えませんでした。現金手渡しするから、ホテルまでチケット持ってきて~とロケーションを送っておいたら、当日朝にきちんとホテルまでデリバリーしてくれました。毎度お世話になります。

ちなみに発券手数料は、1枚あたり150,000KIPでした。それでチケットを取ってホテルまでデリバリーしてくれるなら安いものです。

ダバラブティックホテルからタラートサオ横の中央バスターミナルまでトゥクトゥクで移動し、そこからバスで駅まで行こうと思っていたのですが、どうやら私がネットで見つけた情報が古かったらしく、「その時間のバスはないよー」と言われてしまいました。流しのトゥクトゥクを捕まえたら100,000KIPで行ってくれるというので、最後はLoca(ラオスのタクシー配車アプリ)を使わずトゥクトゥクでビエンチャンの風を切って駅まで向かうことに。

注意書きや案内に英語が見当たらなかったところに、なんともいえない中国資本感を感じました。

入口でパスポートとチケットチェック、そのあと荷物のX線検査と、厳重な警備のもと中へ。特に時間をつぶせるような場所があるわけではないですし、座席も指定席なので、張りきって早めに行く必要はなかったかもしれません。

発車時間の少し前まで、ホームへのゲートは閉まったままになっていますが、ゲートが開く少し前から長蛇の列ができました。お坊さんや、特別なサポートが必要な乗客とその家族が先に通され、ついに私たちの番です。

ホームに出て見渡してみると、ルアンパバーンに向かうこの電車は16両編成で、日本の新幹線より少し短いぐらい。コンコースに居た人たちを見渡して「こんなたくさんの人みんな入れるんかな」と思っていたのですが、なるほどこれなら。

座駅は指定で、2席ー通路ー3席。座席は回転させたりできないので、車両の中央あたりに謎のテーブル席があって、そのテーブルに向って両側から座席が向いています。

Ⅼ Ⅼ Ⅼ Ⅼ Ⅼ Ⅼ Ⅼ Ⅼ Ⅼ Ⅼ Ⅼ Ⅼ Ⅼ Ⅼ Ⅼ Ⅼ Ⅼ Ⅼ Ⅼ テーブル 」」」」」」」」」」」」」」」」」 こんな感じ。

車両の半分の人は進行方向と逆側を向くことになります。

ラオスの原風景ともいえる、こんな素敵な景色を見ながら過ごす2時間弱。単線のため、反対側からくる電車の通過待ちなどで途中の駅で待機する時間も何度かありましたが、足元広々、コンセントもついていて、快適に過ごすことができました。倍ほどの値段になりますが、次はフルフラットのビジネスシートに乗ってみたいです。

そんなわけでルアンパバーン駅に到着。駅を出ると乗り合いバンが所狭しと並んでいます。しかし聞いてみると、ここに並んでいるバンはすべて北部の地方に行くもので、ルアンパバン市街地には行かないとのこと。駅の出口を出たところは地上階から1段あがっているのですが、この階はすべてそういうバンが停まっているよーと駅員さんが教えてくれました。

地上階に降りるエレベーターかその隣の階段で地上階に行き、テントで市街地行きのチケット(35000KIP)を購入すると、その奥にとまっているラオス中国鉄道カラーのバンのおじさんたちが声をかけてくれました。

このロットゥでホテルまで送ってもらいます。後部座席もあいているのに、なぜか運転席横のシートを案内された私たち。ま、景色が見れてありがたいからいいやーと思って乗りこむと、市街地へ向かいながら「明日の予定は決まってるんか?」と。なるほどそういうことか。「日本人やろ?JICAか?おっちゃん昔、JICAに月給もろて運転手してたことあんねん」「私もJICAのボランティアやってん」ということでおっちゃんを簡単に信頼し、旅程を伝えてソンテウドライバーの弟さんを紹介してもらいました。街についてから良さげなドライバー探しする時間が短縮できて助かりました。

夕飯は、隊員時代の戦友(?)たちとピザ!旅が始まってから初めてのピザでおいしさは10万倍、当時の懐かしい話に花が咲きました。

ラオス6日目:ゾウで森散歩、市内観光

この日、朝6時ごろに目が覚めたので、カメラを持ってルアンパバーンの街散歩に出かけました。お目当てはもちろん托鉢。ルアンパバーンは4回目ですが、まだこの風景を見たことがなかったので、ちょっと感動。明日は自分も托鉢させてもらうぞーとわくわくしながら、街中をぶらぶらします。

日中のうだるような暑さからは想像できない澄んだ空気に、輪郭が揺れているように見える、ラオスの朝夕のとくべつな時間が大好きです。ルアンパバーン、バンビエン、ビエンチャン県の自分の村も。ボリカムサイで見たメコン川の夕日も忘れられないなあ。パクセーの夕焼けもでかくてとっても素敵だった。ラオスも日本のように縦に長い国なので、北と南で景色も植物も野良犬の足の長さの平均値(当社調べ)も違っています。

あと2日しか見られないこの景色をかみしめて、Saffron Coffeeで朝カフェ。アーモンドプードルが贅沢に使われているであろう、しっとりどっしりとしたレモンケーキがあって、ここに来るたびに食べています。唾液が少ない日本人が美味しく食べられるしっとり生地、そしてアイシングがこれほどたっぷりかかっていてもなお丁度良い甘さ。これになかなか出会えないんですよねー。

そして私たちは、前日に予約したソンテウのお兄ちゃんに迎えにきてもらってルアンパバーン観光へ。まずはゾウ乗りです。

ひとり2000円ほどで30分間、ルアンパバーンの森の中をひたすら散歩してくれます。「川には入らへんの?」と聞くと「この時期は寒いから無理なんよな~」とのこと。この像さんは40歳ぐらいだそうで、お腹がすいたのか好奇心旺盛なのか、時折草むらに頭をつっこんでバキバキと音をたてていました。

受付のお兄ちゃんにスマホを渡し、動画と写真適当に撮って~と頼んだのですが、いろんなアングルからあの手この手で、つきっきりで撮影してくれました。

撮影してくれたお兄さんにはお礼のチップを、乗せてくれたゾウにもお礼の餌を・・ということで、サトウキビやカボチャ、バナナがてんこもり入ったかごを50000KIPで買い、小屋のゾウさんたちにエサやり体験をしました。動物が大好きな甥姪とLINEでテレビ電話を繋いで、いまゾウさんにごはんあげてるよ~なんて話をしながら、メスが4頭、オスが2頭の合計6頭にえさやりしました。

そのあとはクアンシーの滝へ。何度来てもいいですね。泳ぐこともできますが、私たちは水辺のアクティビティは釣り以外あまり興味がないので、魚見つけては魚種がどうとか、こないだ食べた魚の稚魚じゃないのかとかそんなことばっかり話していました。

日本には生えていない植物、日本では聞こえない鳥や虫の声、五感で楽しみながら森の中を歩いて、滝をぼーっと見て、飽きたらだらだら引き返してごはん。川のそばで、昼間っからビアラオ頼んで、ハーブたっぷりのルアンパバーンソーセージと、レモングラスの束にひき肉をつけて焼いたやつ(名前忘れました)をキメる。私はソーダウォーターで十分。

そのあとはバッファローファームで水牛アイスを食べ、街に戻ってスーパーで買い物して、ソンテウのお兄さんに支払ったのは60万キープでした。指定時間には待っててくれてて、おだやかで、嫌な顔せず待ってくれて、とても心地いい人だったので、翌日の空港送迎もお願いしました。

ちなみにスーパーで買ったのは、タイコスメ(タイで買え)、カピ(タイで買え)、ビアラオのルアンパバーンバージョンなどなど。

そのあとは市内でラオス料理を食べ、ナイトマーケットを回りました。ナイトマーケットは、以前よりお店の数は減っていたものの、ルアンパバーンらしいナイトマーケットといいますか、めっちゃゆるい刺繍小物や年間100日ぐらい着たくなるTシャツ、ご先祖のデフォルメ神様「ぷにゅにゃにゅ」の置物など、ここでしか買えないお土産がたくさんあって目移りしてしまいました。

ラオス7日目:托鉢、カオソーイ、そしてハノイへ

朝いちばんは托鉢。5時40分にティップカオ(もち米が入った竹かご)をホテルで受け取り、ホテル前に準備されている茣蓙に座って、お坊さんが托鉢に来られるのを待ちました。私はラオスの民族衣装の正装、夫も結婚式でもらった肩掛け布を巻いて待機です。隣にいらっしゃった老夫婦が話しかけてくださると、数十年アメリカに住んでいるとのことで英語ぺらぺら。英語で話してくださるのですが、寝起きの頭で英語スイッチが入らず(入ったとて残念なレベル)結局ラオ語に戻る、というのを繰り返しました(笑)「もうすぐ回ってくるから」「お寺は10あるからね、お坊さんの行列も10個通るから調節しなさいね」と色々教えてくれました。また、JICA隊員あるあるだと思うのですが、「〇十年前に〇〇に配属されていた〇〇さんは元気なの?」と知らない先輩隊員のお名前が。こういう会話になるたびに、わたしもそうやって、何十年先にふと思い出してもらえるぐらい関係を深められていたらいいなあと思います。

托鉢が終わったら、二度寝、朝カフェを済ませて、荷物をまとめてチェックアウト。飛行機の時間まで町ぶらです。

世界遺産の街ルアンパバーンの、ナムカーン川とメコン川の半島の丁度先端あたりに位置する、ワットシェントーン。何度行ってもこの外観の美しさ、とりわけ屋根の渋さにはぐっときますね。一枚上の写真が本堂の中の様子なのですが、細部にも装飾が施されていて本当に綺麗です。

お昼ご飯はルアンパバーン名物の「カオソーイ」。ぴり辛トマト肉みそ麺です。肉のダシ感ががつんと効いたスープに平たい麺がよく合います。ルアンパバーンに来たらこれを食べないと始まらないし、終われないですね。

ルアンパバーンは、ハーブたっぷりのソーセージ「サイウア」や、川海苔の味付け海苔「カイペーン」など、私の好みのものが多くて魅力的です。前日の晩にちょっとお高めのラオス料理レストランで食べた「オ」という料理も、うまく言語化できないのですがビエンチャンの「オ」と違っていて、香り豊かでとてもおいしかったです。(オとオラームが違う食べ物なのか、大きく分けると何種類ぐらいのオがラオスに存在するのかとか気になり出してしまいました…ラオス行かなくては笑)

町の中心部にある市場。これはフアパン県サムヌア地方の本気のシンだと思いますが、この色とりどりの細かい織り、浮き織りや絣を駆使した唯一無二の美しさ、もし私がお金もちだったら「ここからここまで」って全部買い占めているところですが、そうではないので今回は何も買わずに帰りました。私のブランドtheobaanは、ブランドストーリーに「暮らしに寄り添う」という言葉を使っていて、がしがし洗って着てもらえるような布地を選んでいますが、もう少し在庫を持てる力がついてきたら、こういう布も扱っていきたいなあと思っています。

そのあとは、私の次の隊次でやってきた協力隊員たちが立ち上げたお店「LuLaLao」さんを訪ねました。突然の一時帰国やコロナ禍での活動、色々な困難を乗り越えてまたラオスに自分たちの力で戻ってきた、バイタリティーあふれる二人とは、話がとまらん!そしてコーヒーが美味しすぎる!ラオスのコーヒー豆のポテンシャルって、やりようによってはこんなに高まるんだなあと感動しました。またコーヒー飲みにいくね~。

つづく

は~~~これでようやくラオス編が終わりました。滞在が長く内容も濃かったので、書くのになかなか時間がかかりました。1月27日に日本を発ってここまでで11日!ラオスでの一週間は、隊員に戻ったときのような「村のキンビア」もあり、首都と村とルアンパバーンそれぞれの雰囲気も楽しんでもらいつつ、精神的に満たされた時間になりました。

さて、ここからまだハノイ編が続きます。最後までお付き合いいただけますと幸いです!

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ただいま、ラオス!

ສະບາຍດີ!

みなさんこんにちは、ラオスのラオ子です。3月22日に、荷造りについての思わせぶりな記事を更新してから半年が経ってしまいました。半年というのは、その記事を書いたことすら忘れるのにちょうど良い期間で、つまり私は3月にブログを更新したことすら忘れていたわけですが、なんとなんと、この度わたくし、ラオスに戻ることができました。

 

近況報告するにしても期間が空きすぎていて、何からどういう風に書き出したらスムーズに書けるのか考えているうちに入国時の隔離も終わってしまったわけなんですが、日本に帰ったところからサッとおさらいしておきたいと思います。

 

2020年3月 ラオスから日本へ緊急退避

 
その時に書いた記事がこちらです。「明日の晩の便で帰ります!」と突然連絡が来て、家の荷物も頭の中もまともに整理できないまま帰ったのがもう1年半も前の話になるんですね。ここから今に至るまで、楽しいこともたくさんあったし、活動もいくつかしたんですが、それでもやっぱり私にとっては「空白の期間」です。これはまた別の機会に書きたいと思います。
 

2020年7月、11月 隊員続けるか、待つか、やめるか

緊急帰国した当初は「まあ3か月程度やろ~」とお気軽な気持ちでいたのですが、そこから数か月で世界はこんなことになってしまい、私たちは2020年7月に1度目の選択を迫られました。そして11月末にも、第2回目の選択の時がきました。その選択の内容がどんなだったかは下の記事にありますが、簡潔に言うと、
 
1. 再派遣され次第すぐに行けるように隊員を続けるかわりに、任期が減る
2. 「特別登録」という制度を利用し、一旦隊員をやめるかわりに任期が減らない
3. 完全に隊員をやめる
 
です。私は、7月の段階では1を、11月末に2を選んで、特別登録隊員になって再派遣を待つことになりました。
 
 
その時の葛藤はここに書き溜めてあります。今読み直してしみじみ思うのですが、あえて思ったままの言葉で書くと、病んでますね(笑)
 
そして12月初旬に、それまでキープしてもらっていた任地の家をオンライン引き払いにより手放し、私の荷物は全部隊員ドミトリーに移されることになりました。
 
ちなみにこの年の年越しは、神社で高校生・大学生の奉仕者に混じって縁起物や甘酒を売っていました。高校生のころから、実家に居るときはだいたいお世話になっている神社です。13年ぐらい前に初めて奉仕してから、今年で6回目でしょうか。いつもお世話になっております。
1月1日は大雪。でも、そのせいだとは言い難いお客さんの少なさで、いつもは参道の外までずらーーーっと並ぶ参拝者の列が、今年は1度もできなかったのを見て、ああやっぱり世の中は変わってしまったんだなあと感じました。

2021年2月 仕事開始

私は特別登録隊員になったので、再派遣の目途が立ったら自分で時期を選んで派遣してもらうことができます。10月から11月に行われるハンディクラフトフェスティバルに、あとから来る隊員さんたちと一緒に参加したい!という一番大きな目標を達成すべく(伏線ではない)、後片付け・引継ぎなども含めて12月に帰国することにし、そこから逆算して、再派遣してもらえる派遣日数180日をすべて使って、6月にラオスに行けるように手続きをすすめていきました。
 
そして、そろそろ私の口座が限界を迎え、絞っても雫の1滴すら落ちなくなってきたので(笑)、またドラッグストアで働くことに。大学のころバイト先の先輩に脅されて登録販売者を取ったことを、こんなに感謝する日が来るなんて・・・。
 
大学4年間+カンボジアから戻ってからの2年間(バイト・パート)1社目
協力隊受かってからの1年間(パート) 2社目
2021年2月から(派遣社員) 3社目
 
と、色んな雇用形態で色んなドラッグを渡り歩く謎の人生です。
楽しいし、大好きな仕事です。
 
入社当時は、6月には旅立つ予定でしたが、4月の旧正月の後にラオス国内の陽性者数が増えてしまい、ロックダウンがなかなか解除されず、パスポートが作れない、配属先との手続き、滞在許可や入国許可などの手続きが進められないなど、あらゆる障壁が立ちはだかることとなりました。そして、ロックダウンが解除され、最短でこれらの手続きを進めてもらっているあいだにワクチンを打ち、なんとか出国できたのが9月11日でした。
 

2021年9月 日本→ラオス

パスポートが作れて、配属先との手続きや、日本側・ラオス側のあらゆる許可がもらえたとしても、正直ラオスについてパスポートにハンコを貰うまでは安心できません。クアラルンプール⇔ラオス間は毎日運航されるわけではないので、もし何か起きて乗り継ぎができなかったらクアラルンプールでのリアルターミナルが始まりますし、日本・ラオスでのPCR検査で万が一のことがあったらもう大変です。一緒に渡航する隊員同士も一定の距離を保って、厳戒態勢でラオスに向かいました。

 

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まずは渡航の際の日程から。

 

1日目 実家→成田(PCR検査)
2日目 成田→クアラルンプール(トランジットホテル泊)
3日目 クアラルンプール→ビエンチャン(隔離ホテルへ)
 
前回の渡航では、朝7時に羽田集合で夜にはラオス!というスケジュールでしたが、2泊3日ともなるととても遠くの国に行くような感じがしました。
 
最後の日本メシは、出発当日朝9時、羽田のマクド。他の隊員が「チキンクリスプがうまいっス」と教えてくれて、私はファミチキ的なものが出てくると勘違いして月見バーガーと一緒に注文したのですが、しっかりバンズに挟まれたバーガーが出てきてちょっと動揺しました。朝からバンズ2つはキツかったです。
 
チェックイン時には、陰性証明、ワクチン接種証明、入国許可証など、何種類かの提示が求められました。ちゃんと全部印刷してきたかここで突然不安になり始めるのは、ちゃんと準備できてなかった証拠ですね。
 

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そして横1列誰も座っていないガラガラのANAで、台風14号に軽くご挨拶しながらクアラルンプールに到着しました。ここでは入国せずに、トランジットホテルに1泊して翌日のフライトでビエンチャンに行くことになります。

 

飛行機降りたところに「ビエンチャン行き」のボードを持った方が待っていてくれたのに、「あれって今日のトランジットの人ってことかなー?」という感じで全員スルーしてしまいました。その後、どうしていいか分からなくなってうろうろしていたところにこのスタッフさんが話しかけてくれてようやく手続きがすすめられました。(お兄さんごめん)チェックインカウンターでも、成田と同じように何種類かの書類の提示が必要で、手続きにも結構時間がかかりました。

 

 クアラルンプールに来て驚いたのですが・・・本当に人が居ない!免税店も閉まりまくっている!スタバに行ってマレーシア限定グッズ買いたかったのに、もちろん閉まっている!レストランは数店舗あいていましたが、検温、記名、ワクチン接種証明書の提示が義務付けられていて、そう思うと成田空港はゆるかったなあと思いました。

 

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そしていよいよラオスへ。隣の席こそ誰も乗らなかったものの、成田ーKL便より混んでいたので、二重マスク、消毒しまくり、トイレはなるべく使わない、の厳戒態勢で爆睡しました。

 

そしてラオス到着後は、空港内に設営された会場にて、流れるように2回目のPCR検査。感傷に浸るまもなくブースの椅子に案内され、口腔内を綿棒でゴシゴシ。「はぁ終わった・・・」と思ったら「上向いて!次は鼻ね」と指示され、成田のときの優しい検査とは比にならない痛さに何度かえづきながら無事検査を終えました。

 

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そしてついに!この1年半、何度夢に見たかわからないラオスのハンコが!緑のパスポートに押されました!
 
この看板を見て、じわーっと目頭が熱くなりました。ラオス語で書いてあるのはもちろん、「ようこそラオスへ」。その下には、いちばんかっこいい角度のタートルアン。ブッダの遺物が塔内に遺されているといわれている、黄金に輝く仏塔は、国章にも描かれているラオス仏教のメッカ(という言葉をここで使うのは適切かどうか分かりませんが)です。クメール様式の寺院が改修されたものらしく、私がここに来るきっかけをくれたシェムリアップと地続きになっていることを感じられて、ことばにできないパワーを貰える場所でもあります。
 
タートルアン祭 – ラオスのラオ子。(ここに黄金に輝いてる写真のせてます!) 

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ああーこの景色!京都市のみなさん、旧型の市バスはビエンチャンでまだまだ元気に走ってますよー!!

みんなでセルフィする余裕もなく、書類の記入、隔離ホテルまでのバス代の支払いなどの手続き地獄を抜けたあと、隔離者用のバスでそのままホテルに向かい、「14日後ね~」とあいさつして各々の部屋へ。
そこからの14日間、会うのは検温に来てくれるホテルのスタッフだけ。食事は毎食、廊下のテーブルに置かれ、アメニティの受け取りやランドリーの受け渡しもそのテーブルで行うので、人と接触する機会はほぼありません。ときおり届くありがたい差し入れも、フロントスタッフが受け取って、それを部屋まで持ってきてくれるし(差し入れ頂いた方々、その節は本当にありがとうございました)、ホテルのご飯に飽きて時折頼んだフードパンダも同様に、金銭授受も含めてすべてホテルのスタッフがやってくれます。

 

突然のクラスター

この隔離期間中に、「絶望」というちょっとばかり強めの言葉がぴったりなクラスターが起きてしまいました。市内の縫製工場で200人を超える大規模なクラスター、それに続く感染拡大を受けて、ビエンチャン市は即座にロックダウン。すぐに緩和されましたが、一時は「スーパー、小売店などもすべて営業停止」というかなり厳格なロックダウンでした。あちこちに検問が設置され、県境も封鎖。

 

発令されたときは「9月30日まで」という期限つきでしたが、私は26日に隔離が終わって29日に赴任するはずだったので、この時点で1日のロスになります。日に日に膨らんでいく感染者数、日に日に増えていくレッドゾーン、どの情報も精神衛生上良いものではありませんでした。

 

オンラインでの赴任後ブリーフィングや面談で人と話す機会はあるにしても、ごく短時間の事務的なもの。隔離中で誰とも話せないことや、ここまで来ても何もできないのかという悔しさ、もしかしたら私はビエンチャン県に赴任できないまま任期を終えるのではないかという絶望感、もしロックダウンしたら私は首都のホテルで2か月も何をすればいいんだという焦り、色んなことが頭の中を回って、ものすごく無気力になっていました。

 

そんな中、2週間の生活のリズムを保てたのは、ラオ語のオンライン授業を毎日受けられたからでした。隔離序盤は予約やシステムの関係で受けられなかったのですが、途中から受けられるだけ受けて、時間でいうと31コマ(15.5時間)をオンライン授業にあてました。授業時間だけでいうとたいしたことありませんが、要領が悪いので予習にも復習にも倍以上の時間がかかります。ラオ語に熱中している間は、時間が経つことを肯定的に考えられたというか、自分が正く過ごせていることに安心できるというか、とにかく隔離期間中の精神安定剤になりました。なにより、日本にいるラオ人の先生、ラオスに居るラオ人の先生の二人から授業を受けられたので、色々な情報も得られたし、生活面でのtipsもあれこれ教えてもらえたし、単にラオ語の語学力が鍛えられるだけではなく、それ以上の生きた情報も得られました。先生がたはもう何年も二本松訓練所でラオ語を教えておられるので、私たちがおかれた状況での悔しさも、ラオ語の読み書きが全くできない状態で入所してからの成長も、全部理解してくれます。それゆえの優しさも気遣いも全部ありがたかったし、たとえオンラインであっても、先生たちと過ごした時間に支えられて、14日間の隔離を終えたと思っています。

 

隔離終了後

を書こうと思ったのですが、長くなってしまうので一旦ここで終わりたいと思います。まだまだ何がどうなるかわからない隊員生活ですが、フードパンダで美味しいものを食べながら、少しでも楽しい事を考えながら、自分をわくわくさせながら、任地に行けるのを待ちたいと思います。

 

ではまた次回!そーくでぃーどぅー!

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第1回コーヒーロースト&ドリップワークショップ@ADDPみんなのカフェ

さばいでぃー!

みなさん、こんにちは!お久しぶりです、ラオスのラオ子です。ここ最近、ラオスも日本と同じく冬(?)で、ラオス中部のビエンチャン県でも朝夕は気温が一桁台に。バイクでの通勤やシャワーがなかなか辛い日々でした。

 

それでも長袖を着たくない私は、家の中で炭を焚いて暖をとっていました。おかげで自分の部屋とキッチンは灰だらけ&煙たくなりましたが、炭火のコーヒー焙煎というささやかなぜいたくを手に入れられて幸せです。

 

寒いと言っていられるのもあと少しなので、この寒さごと楽しみたいと思っています。

 

 

さてさて、相変わらずブログもノートも更新はさーさー(ゆっくり)な私ですが、最近は師走という言葉がぴったりな、普段のゆるゆるラオス生活とはかけ離れた日々を送っていました。というのも、国際ボランティアデーのブースの手伝いや、先輩隊員の最終報告会、新隊員さん&先輩の歓送迎会、語学フォローアップ、終わったらすぐ隣の県で先輩・同期隊員の活動の見学と、任地以外での予定が立て続けに。

 

その中でいちばんのハイライトとなったのが、とある日本のNGOさんと一緒にコラボで実施させていただいた、コーヒーのローストとドリップのワークショップでした。

 

note.com

 

コーヒーはメインの活動とは関係なく、完全に趣味の範囲でやっていることなのですが、まさかまさか、コーヒー好きの輪っかがこんなに拡がるなんて!

 

今日はこのワークショップについて、やったこと、思ったことをあれこれ書いていきたいと思います。

 

みんなのカフェとの初コラボ!

 

このワークショップは、12月14日、首都ビエンチャンにある「みんなのカフェ」というお店をお借りして行いました。対象は、『特定非営利活動法人NPOアジアの障がい者活動を支援する会(以下、ADDPさん)』の就労支援としてこのカフェで働かれている、聴覚障害のあるスタッフさんたちです。

 

www.addp.jp

 

今回はJICA協力隊の活動としてではなく、完全に個人的な趣味の延長で、こぢんま~り、数人でやる予定でした。が!強力すぎる先輩隊員のヘルプと、遊びにきてくれたたくさんの人たちのおかげで、あっちでおしゃべりに花が咲き、こっちではコーヒーの良い香りがして、何やってるの??と覗いてくれる人も居て。最後はみんなでコーヒーを飲んで、いつのまにかとてもほんわかした空間ができあがっていました。

 

あの場所で一番楽しませてもらったのは間違いなく私です。来てくださった皆様、ご協力いただいた皆様、ありがとうございました。

 

・・・と、あまりに満足してしまって自分の言いたいことだけ言って終わりそうになりました。あぶないあぶない。

 

ワークショップ開催のきっかけ

 

今回このようなお話をいただいたのは、ADDPさんでパラスポーツを通じてラオスの障がいを持った人たちの自立支援をされている、Bさんと出会ったのがきっかけでした。

 

たまたま首都でのお食事会でご一緒したときに、ADDPさんのことや、Bさんの活動のこと、障がい者の就労支援のためのお店が市内にあることなどをざっくり教えていただきました。

 

 

ADDPさんが運営されている「みんなのカフェ」の1店舗目は、私の普段の生活圏内から少し離れたところにあります。

 

モーニングがアツいというのは先輩隊員から聞いていたものの、なかなか行く機会にありつけず。それからしばらく経った11月末の上京時、いつメン(死語?)で朝の予定がぴったり合ったので、皆でモーニングしにいくことにしました。

 

ふかふかのパンも、全部買いたくなってしまうクッキーもなにもかも美味しくて、そしてなにより、手話が分からないわたしたちにも伝わるようにオーダーシートと身振り手振りでうまく伝えてくれるスタッフさんたちの笑顔があまりに素敵で!!

 

初めてカフェに来た二日後には、

 

 

朝6時起きで、朝焼けの眩しいメコン川沿いを同任地隊員と一緒に40分ほどLSDトレーニングして、

 

 

モーニングセットと

 

 

美味しいコーヒーを、おかわりしに行っちゃいました。(笑)

 

そしてこの時、モーニングをいただきながらBさんと色々お話したあと、実際にパワーリフティングを体験させていただいて、パラ・スポーツのスゴさを目の当たりにすることになりました。

 

パラ・パワーリフティングは、下肢に障がいのある方たちのスポーツです。ベンチに横たわった状態で足をベンチの上で伸ばし、バーベルを持ち上げ、胸まで降ろして、もう一度持ち上げられれば成功、フォームが整っているか、左右対称に持ち上げられているかどうかも判定の材料になるシビアなスポーツです。現在ADDPさんで活躍されている選手の中には、男性で140キロ、女性で70キロを持ち上げられる方もいらっしゃるんだとか。

 

この日一緒にモーニングしに行った女性隊員と私は、パラどころかパワーリフティングすら初体験。25キロまではなんとか持てましたが、30キロのバーベルは胸まで降ろしたところで諦めました。実家で半俵(30㎏)の米を運んでいたので、それぐらいは持てるだろうと甘く見ていました。腕だけで支えるって、あんなにも力が必要で、そして自分で思っているよりもぜんぜん持ち上げられないものなんですね・・・。

 

LSDで消費したわずかなカロリーをはるかに超えるクッキーとフィナンシェを持って、みんなのカフェをあとにしました。

 

www.youtube.com

 

今回、自分たちがパワーリフティングを体験させてもらっただけでも色々考えるきっかけになったので、機会があれば次回ぜひ、実際の選手の練習風景を見せていただきたいなーなんて。なんて。

 

その後、私がインスタにのせていたコーヒー焙煎のストーリーを見て自分もローストに興味が湧いたと言ってくださり、もしよければ一緒にやってみませんか、じゃあ新しくオープンするカフェでやりましょう、どうせならいつもコーヒーを淹れているスタッフさんたちに体験してもらいましょう、と、トントン話が膨らみました。そして、今回のワークショップの企画を、ほくほく気分で任地に持ちかえったのでした。

 

ちなみにですが、パワーリフティングを体験した隊員と私は、翌日にバキバキの筋肉痛になりました。20キロ、25キロ、30キロと3回やっただけなのに、普段使わない筋肉だとあんなにダメージ受けるんですね・・・。「50キロぐらいいける」などと軽々しく言ってすみませんでした・・・。

 

ワークショップの準備

 

わたしはコーヒーを好きになってまだ浅いし、専門的に学んだわけでもありません。まずは、ルワンダに居るコーヒー隊員に色々尋ねながら、できる限り自分が今できる事で完結する範囲でやってみることにしました。

 

自分が何を伝えられるだろう、自分がカフェで働いたときどんなことを教えてもらっただろう、美味しいコーヒーってなんだろう、自分はどんなコーヒーが好きだろう、いつも何に気をつけているだろう、何にこだわっているだろう、いろんなことを考えながらつらつら書き出して、「はじめのいっぽ」にぴたっとはまるテーマと内容を探してみました。(殴り書きで字がお粗末につき、写真はぼやっとさせております。)

 

 

色々考えた結果たどり着いたのは、「まずはコーヒーを好きになってもらおう!」という小さな目標でした。

 

細かく挽いたコーヒーを煮出して、練乳であまあまにして飲むラオスのコーヒーとは全く違う文化の「ドリップコーヒー」。コーヒーの個性がストレートに表現される抽出方法だからこそ、新鮮でおいしいお豆をつかって、可能な限りの美味しさを引き出せる淹れ方で。淹れ方でまったく違う風味になる抽出方法だからこそ、せっかくなら美味しい一杯が淹れられるようになったらいいなあ、と、焙煎・抽出共に勉強中の私も一緒に学ぶ気持ちでやっていくことに。

 

ひとつひとつの内容をつきつめていくには半日では到底時間が足りないので、内容もかなり絞り込みました。まずは豆のローストとドリップの全体像を体験を体験してもらって、「コーヒーってこんなに面白いんや!」と思ってもらい、次につなげていくのが狙いです。

 

同任地のコーヒー大好き先輩隊員にこの話をしたところ、快く協力してもらえることになりました。職種が先生ということだけあって人に分かり易く説明することにも慣れてるし、コーヒーも詳しいし最強やん!!と、わたしはハイパー天下無双気分で資料の作成に取り掛かりました。

 

が!その後、あまりのラオ語のできなさ+今まで使ったことのない語彙+そもそも外から入ってきた文化でラオ語にどう当てはめていいのかわからない、という圧倒的力不足により即座に大敗。先輩隊員の手厚すぎるサポートと語学の先生のおかげで起死回生して、ぎりぎりまで資料の単語を直して、当日を迎えることとなりました。

 

まずはハンドピック

 

まずは豆を煎る工程を説明して、お豆をピッキングしていきます。いつも家で煎っているのは海外のお豆ばかりですが、せっかくなので今回はビエンチャン市内にあるカフェからラオスの生豆を購入してみました。

 

 

目の前にあるお豆をひとつぶひとつぶ選別しながら、欠点豆を取り除いていきます。

 

形が悪いお豆は均一に火が入らないほか、お豆が過成熟・未成熟だったりすると、それもまたコーヒーの雑味になってしまいます。また、虫食いのお豆も、虫食い穴の中がカビてしまって美味しさを損なう原因になるため、針であけたような小さな穴も見逃さずに除去していきます。

 

 

つづいてロースト

 

その後は、煎り方のお勉強。生豆からイタリアンローストまで、煎り具合によって味がどう変化するか、何で煎り具合を判断するかといった話を順に説明していきます。

 

私のつたないラオ語を、隣に座っている健聴者のスタッフさんがラオス手話で隣の女の子に伝えて、それを他のスタッフさんに詳しくラオス手話で伝えてもらう、という、私には大変ありがたいゆっくり進行。説明してもらっているあいだにカンペのラオ語をちらちら見つつ、そして私も簡単な手話をみんなから習いつつ。こちらが一方的に説明するだけではなく、徐々に皆からもいろんな質問が飛んでくるようになって、嬉しい。

 

 

資料をつくる段階でひとつ工夫が必要だったのは、通常、煎り具合は色と音で判断するという点でした。炭酸ガスが発生してはぜる、「ぱちぱち」という音と、その後焙煎をすすめていくことでコーヒーオイルが出たときの「ぴちぴち」という音、コーヒーの自家焙煎はこの二つを基準に深さを見極めていくのが一般的で、音が聴こえない場合に何で判断したらいいのかというのは皆目見当つかず。

 

そこで、イヤホンで耳をふさいでローストしてみました。実際に豆がはぜるのも火から外せば確認できるんだな、1ハゼのときはこんなにチャフが外れて煙が出ているんだな、2ハゼぐらいになると煙たい香りが強くなるな、と、耳以外から得られる情報って意外にたくさんあって、私にとって新しい学びになりました。

 

結果的に、振り続ける煎り器の中で豆がはぜるのを逐一確認するのは難しいため、煙、豆の色、においの変化などを伝えながら焙煎していきました。

 

 

浅く茶色になるまでは30センチぐらい火から離して中火でじっくり、その後は10センチほど火に近づけて、少し強火に。均一に火が入るように、10分以上振り続けます。

 

今回は200gをいちどに焙煎。結構腕が疲れるので、みんなで交代しながら煎っていきます。

 

 

お豆を500g用意していたので、1回目はフルシティローストまでしっかり焙煎し、2回目はハイローストぐらいで止めて、中煎りと深煎りを皆で飲み比べることにしました。

 

ラオスのお豆を中煎りで飲むのは初めての経験だったので、わたしもわくわくです。

 

いよいよドリップ 

 

煎り終わった後は先輩に交代!器具や挽き方、ドリップの仕方などを詳しく説明してもらいました。

 

ドリップの仕方は色々なやり方があって、コレという正解が無いだけにどれを伝えるか迷いましたが、最終的に自分たちが日本で働いていたカフェで教えてもらったやり方や分量に近いものに落ち着きました。

 

 

資料を作る段階で、ドリップの方法を調べているうちに、お湯に挽いたお豆を漬けてからそのまま全部ドリッパーで濾すという、浸漬式と濾過式の工程をどちらも行う面白いドリップ方法に出会いました。これなら時間と分量さえ守れば安定したドリップが淹れられるなと思い、隊員ドミトリーで前日に飲み比べ。

 

ドリップとフレンチプレスのちょうど間ぐらいの特徴で面白かったのですが、ラフに飲めるかと言われるとちょっと違う。フレンチプレスからザラザラ感を抜いたような味で、酸味はドリップに比べて強くなりました。最終的に、今回はまずスタンダードなところからということで、V60を使った一般的なドリップにしぼってやってみました。

 

 

まずはドリッパーにセットしたお豆を平らにならして、器具をしっかりあたためて、まずはお豆と同量のお湯を注いで蒸らして、そこから3回に分けてお湯を注いでー・・・と、先輩隊員のお手本を見たあと、ひとつひとつ皆で確認しながら、実際にドリップしてもらいました。

 

今回、パワポ8枚分(焙煎4枚、ドリップ4枚)を作って行きました。皆に配るためというよりも、情報を事前に整理して、それに必要な語彙を身に着けることが目的だったのですが、色んな人から色んな表現の仕方を教えてもらって頭がパーン!(笑)

 

なにも身につかないまま本番を迎えてしまいカンペを見ながら身振り手振り1割と顔9割で説明する私は、何も見ずにさらさら説明の言葉が出てくる先輩を見て「大迫半端ないって!!」な気分になりました。いやほんと、先輩半端ないって!!

 

 

煎りたての新鮮なお豆だからこその、香りと膨らみ方。蒸らしのときにぷくぷくに膨らむお豆の可愛さ、共感してもらえるようになったらうれしいなあ・・・。

 

煎っているときは、香ばしい香り。挽いてみると、フルーツのような甘みや、スパイスを感じさせる鮮やかな香り。そして淹れるときは、そのコーヒーが持っている個性を感じられる、繊細な香り。

 

コーヒーは、飲むときだけではなく、そこにいきつくまでのプロセスも、ぜんぶ楽しいのです。

 

 

ドリップしたらそれで終わり!ではなく、落とした後の豆かすをチェック。いい香りがたくさん残っていたら、蒸らし不足か落とすのが早すぎるかで抽出不足。すり鉢状にへこんだお豆に、きめ細かな泡が均等に残っていれば大成功!

 

いざ試飲!

 

煎りたて、淹れたてのコーヒー2種類。中煎り・深煎りをそれぞれみんなで試飲してみました。ワークショップの見学に来てくださっていた方たちにも飲んでいただいて、どっちが美味しかったか挙手してもらったところ、綺麗に半分ぐらいに分かれました!

 

ラオ人のみんなは浅く煎ったコーヒーを飲む習慣が無いので、3/4が深煎りに手を挙げましたが、中煎りには中煎りにしか感じられないお豆の個性があり、「すっぱい」で終わらせるのはもったいない!「おいしい酸味」について話せるようにまた自分自身もラオ語・コーヒーの知識・焙煎と抽出の技術を深めていきたいです。

 

ありがとうございました! 

 

ラオス語の手話で「I love you💛」のポーズで記念撮影し、無事に第1回ワークショップ終了!場所をお借りしたみんなのカフェさん&オーナーさん、スタッフさん、来てくださった皆様、ありがとうございました。

 

わたしもまだまだコーヒーが「すき」なだけで、知識も技術も人に伝えられるほどではないのですが、自分自身も勉強しながらみんなと楽しい時間と美味しいコーヒーが共有できてとても嬉しかったです。

  

 

自分自身、途上国で2年働いたなかでカフェの経営に関わったり、その後日本のカフェでバイトしたりして、小さな小さな「点」をつくってきたわけですが、それがじぶんのなかで線になって、色んな人と繋がるきっかけになっている実感があります。

 

日本のカフェで働いてコーヒーが好きになってからは家で、NTC(二本松訓練所)に入所してからは、班のなかでコーヒーメーカーと化しました。そしてラオスに来てからも、煎りたて淹れたてのコーヒーでほっこりする時間を共有できて、なんかもう、コーヒー最高です。

 

ずっと接客業ばかりやってきた経験から偉そうに言うと、数あるお店のなかからこの店を選んで来てくださるお客様に、最高の一杯を提供したい!!という気持ちがきっとコーヒーを美味しくするし、そのためにはコーヒーに対しての知識を深めることは不可欠だと思っています。学んだことを活かしたいと思うからこそまた、コーヒーが美味しくなっていく。そしてそのスキルやホスピタリティのすべてが、コーヒーだけでなくカフェの空間ぜんぶやコミュニケーションにも表れていくのではないかと。皆にとって、コーヒーを好きになることが、「もっと」と自分を高めるきっかけのひとつになればいいなあ。

 

 

私も、コーヒー、ラオ語共にピヨピヨのピヨなひよっこですが、こうやって楽しく学べる機会のおかげで「もっと」を得て、どちらも前向きに勉強していきたいという思いが強くなりました。

 

特にラオ語!このワークショップのあとに受けた語学フォローアップ訓練(赴任1年前後で受けられる訓練)で、「あ!この単語知ってる!!こないだ覚えたとこのやつや!!!!」という言葉にたくさん出会えて、コーヒーをきっかけに一歩進めたんだなあと実感できました。そして、パーサームー(手話)という新しいコミュニケーションの手段に触れ、自分の伝えたいことが伝わる嬉しさを久しぶりに感じました。もっとみんなと直接話ができるようになりたいなあ。

 

私はこのワークショップのためにコーヒーの知識を深め、それを正しく伝えるためにラオ語を勉強し、みんなはコーヒーを好きになってスキルを高め、1杯1杯気持ちを込めて淹れてくれたら、それだけで立派な「すわいかん(助け合い)」ですよね。これからも一緒に、楽しみながら勉強しましょう!

 

後日

 

みんなのカフェに再度お邪魔して、ワークショップ当日スタッフさんに代わってお店の事をされていたBさんと、ゆったりまったり復習会。お豆の選別からドリップまで、もう一度やってみることにしました。

 

 

焙煎は、チャフが舞うので外の机でやることに。

 

どの角度で振ったらどの筋肉に効くとか、理想の筋肉とか、普段はどんな筋トレしてるとか、そんな話で盛り上がりながらお豆をしゃかしゃか振っていると、近くの銀行にお勤めのラオ人の方々、在住外国人、観光客、赤ちゃんとお散歩中の近所のおばちゃん・・・色んな人たちが、「何してるの?」「良い香りだね」と足をとめてくださいました。

 

なんか、読んで字のごとく「みんなのカフェ」っぽくて、ええなあ。

 

 

ラオスのコーヒー栽培は、1915年の植民地時代にフランスから持ち込まれたところから始まりました。タイ・カンボジアとの国境を分かつチャンパサック県のボラベン高原を中心に現在も盛んに行われ、甘みがありエスプレッソに適したお豆は主に海外に輸出されているそうです。

 

だいたい深煎りの状態で売られていて、中煎り・浅煎りのものが飲める機会はあまり無いのですが、中煎りぐらいで飲んでみたら、合う、合う!!深煎りのとろりとした甘みも好きですが、中煎りでしか味わえないスパイシーさと、よく熟したフルーツみたいな甘みがたまりません!!

 

「フレンチプレスだったら何グラムの豆にどれだけお湯を注ぐの?」「中煎りと深煎りだったらどんなふうに味が違うの?」「日本人ってすっぱいコーヒーの方が好きなの?」と、ラオ人のお客様から質問攻めにあいながら、煎りたてのお豆を挽いてフレンチプレスに。

 

スマホにメモしてくださった方、動画を撮ってくださった方、「味見したい!!」と言ってくださった方。いろんな反応が見られて嬉しかったですし、私は「ラオ人はネルで濃く煮だして練乳のあまあまコーヒーを飲むのが好きなんだ!」と勝手に決めつけていましたが、ドリップやフレンチプレスの飲み方・淹れ方にも興味がある人もたくさん居ることが分かって嬉しかったです。自分の村の人たちの家に突撃お宅訪問してコーヒーセミナーやってみようかな。(笑)

 

次回に向けて

こんな素敵な場、1回きりにしてしまうのは勿体ないので、ぜひまた皆でわちゃわちゃコーヒーセミナーしたいなと・・・

 

まだ日も決まってませんが、資料作りを始めました!(笑)

 

 

今回のおさらいもして、新しいことも勉強して、次回はもっと良い時間にできたらいいなー。と、某隊員に仕入れてもらってきたケニアやエチオピアの生豆を見つめてにまにましながら色々企画中です。ああ~、エチオピアシダモグジがぷっくりぷくぷくでかわいいいいい・・・。

 

コーヒーは、ただの嗜好品にあらず!コーヒーになるまでのプロセス、ハンドピックやローストのゆったりした時間、その間のちょっとしたおしゃべり、淹れる時の香り、そしてコーヒーとスイーツの組み合わせ。みんなで時間を共有するためのツールとしての役割も果たしてくれます。一緒に楽しんでいただける方、ぜひワークショップ遊びにきてください!

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タートルアン祭

さばいでぃー!

11月(旧暦12月)にラオスの首都ビエンチャンにて行われるお祭り、「タートルアン祭り」に行ってきました。

 

 

 

・・・の前に、見てください、かわいいラオスのねこ様。ああああああああああざとかわいいいいいいいいいいいいいいいいいいいい!!!!!!!わかっててやってるんだこの子は全部!分かっててやってる!!!!!!!!!!!!あああああああああでもかわいいいいいいいいいいいいいいいいいい!!!

 

触りたいけどガマンです、動物触ったあとが怖い(アレルギーとか、病気とか)。辛いです。猫カフェに行って猫様のクッションになりたい人生でした。

 

動物は家畜、動物は家畜・・・(ぶつぶつ

 

 

すみません乱れました。ちょっと落ち着きます。

 

タートルアン祭に行ってきた!

 

11月初旬、ラオスに来てはじめてのタートルアン祭に行ってきましたよ~!

 

タートルアンというのは、ビエンチャン市内にあるラオスで一番有名なお寺です。紀元前3世紀にインドから渡来したアショーカ王によって僧侶が派遣され、インド様式で創建されました。13世紀になるとクメール様式のお寺として再建されましたがその後廃墟となり、16世紀になってセタティラート王により再建されました。

 

釈迦の胸骨が収められているという塔は黄金に光り輝いています。その東西南北にお寺が建てられましたが、現在残っているお寺はそのうち2つのみ。

 

前回訪れたのは語学訓練中の2月中頃、夕方に行ったので夕日が差して中央の塔が黄金の光を放ち、とても美しかったのを覚えています。

 

 

そんなタートルアンで年に1度行われるラオスの仏教徒最大の行事が「タートルアン祭」。1週間前から周辺にたくさんのお店が立ち並び、人でごった返します。

 

 

タートルアン祭が行われるのは11月(旧暦12月)の満月の日。今年は月曜日がその日だったため、カレンダーには「祝日」と書かれていましたが、私の配属先は「普通に働くよ!」と。

 

どういうこと?と疑問に思ったのですが、どうやらこういう行事のとき市内だけがお休みになるパターンもあるようです。ラオス、難しい。

 

 

 

任地から首都への道は大渋滞、いつもの倍ほど時間をかけてくたくたで上京しました。そして日が傾いてからタートルアンに向かうと、ご覧の通りの、人、人、人。

 

タートルアンの門のところには青年同盟と思われるラオスの学生さんたちがずらり。男女に分かれて進んでいきます。

 

一人一人鞄の中身をチェック、そしてボディチェックもありました。(だから男女分かれていたんですね)

 

更に、門をくぐって中に入るには「シン」の着用が必須です。さすが、ラオスで一番大切とされる仏教行事です。シン(巻きスカート)にスア(シンに合わせるブラウスのようなもの)にパービヤン(托鉢のとき身に着ける肩掛け布)まで全て持って行きましたが、スアとパービヤンはあってもなくても大丈夫な雰囲気でした。(ただし肩は出ないほうが良いので、露出を避けたブラウスなどが無難かと思われます)

 

 

このお祭、満月の日の朝は盛大な読経と托鉢が行われるそうで、参加した人たちの様子をSNSで拝見して是非来年は行きたいなあと思いました・・・が、土曜日の晩も普段できない体験をすることができました。

 

タートルアンの内部に入ったら、まずはお供えものを購入します。それが、写真に写っている、花・ろうそく・お線香のセット。だいたい300円弱ぐらいでした。ろうそくとお線香に火をつけたら、願い事をしながらタートルアンのまわりを3周。最後はそれをお供えします。

 

 

たまたまタートルアン祭に行く前夜に親友からの嬉しい知らせを聞いたので、万事うまくいくようにとお願いしながら徳を積んできました。積めた・・・はずです。

 

https://www.instagram.com/p/B4r3DTKpVG5/

#タートルアン祭#laos #ラオス #vientiane #ビエンチャン#写真好きな人と繋がりたい

 

住めば都、という言葉があるように、本当に住んでしまえばどこでも「自分の家」になるしきっとそのうち「帰りたい場所」だと思うようになるけれど・・・

 

毎日が貴重で、毎日が特別で、そしてこの時間は有限であるということをついつい忘れてしまいがち。1回目のタートルアン祭を経験したということは、ぐるっと暦を一周して次のタートルアン祭に参加するころには、「あと2か月だなあ・・・」としみじみ考えているわけです(きっと。)

 

こういう行事を通して、自分がラオスで特別な時間を過ごしているということを思出して、日々丁寧に生きていくための栄養にしたいと思います。

 

でも物理的な栄養も必要

 

韻踏んでるわけではないですYEAH、

 

おかず横丁の通りにある1920sが本当に最高だったので二日連続で行っちゃいました。

 

 

何が美味しいって、このチーズケーキ!11月初旬の上京時、「Japanese Cheese Cake」とメニューに書いてあったのを見て、どんなもんじゃいと思って食べてみたところ想像をはるかに超える美味しさ。

 

ミルクレープも、クランブルチーズケーキも、甘さ控えめで、とてもとても、とても美味しい!!!

 

 

2日目に行ったとき、ケーキは売り切れよ!と言われてしまい落胆の表情を浮かべながらコーヒーを淹れてくれるのを見つめていたところ、ケーキ屋さんのお兄さんができたてを仕入れてくれました!

 

「日本のチーズケーキ何処で習ったの?」と聞くと、「ユーチューブだよ!」と。すごいなYoutube…ありがとう通信技術…

 

私ら日本人でな、あなたのケーキ食べるために2日連続で来てん!!ほんまに日本で食べるやつみたい!スフレチーズケーキ最高!!

 

とお伝えすると、すごくディーチャイ(嬉しい)な様子でした。それでもしモチベーションあげてクオリティ上げてくれたら、私たちもディーチャイ。お互いディーチャイで、Win-Winですね。

 

ふわふわのジャパニーズチーズケーキが食べたい方、1920sへ是非!

 

そういう休日もよい

 

首都でラオスの正装を着る機会なんて首相表敬ぐらいだと思っていたので、みんなで正装してお出かけできて楽しかったし、人ごみや爆音のどつき合いはつらかったけど来年も絶対行きたいと思いました。

 

帰任は相変わらずひとりぼっちなんですが、今回はちょっとしたアクシデントで、近くの任地の隊員が私のバス降り場まで来てくれました。笑

 

タートルアン祭の大渋滞でいつもより遅く到着した任地で私を待っていたのはこの美しい爆焼け。燃えるようなナムグム川で少し黄昏て、LINEにどんどんあがってくる写真見て、あ~楽しかったな~と2日間のことを振り返る、そんな時間も含めて全部、いいな~と思いました。

 

ラオス最高だ~~~まだまだ好きになるぞ~~~~~~~!!!!

 

・・・ちなみに

「月曜日働くよ!」をそのままの意味に受け取って月曜日に配属先に行ったところ、タートルアン祭、タートルアン祭、結婚式、研修、と殆ど誰もいませんでした。ラオス、難しい!

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Lao Handicraft Festival 2019と、はじめのいっぽ。

さばいでぃー!

こんにちは、ラオスのラオ子です。

 

 

前回のブログで告知したLao Handicraft Festival 2019を終えて、任地に戻ってきました。(以下HCF)

 

「来年行ってみたい!!」と一人でも思っていただけるように、HCFの様子をお届け・・・できたらいですねえ。

 

Lao Handicraft Festival 2019

Lao Handicraft Festivalは年に1回、ラオス手工芸協会によって行われている大イベントです。ラオスで活動するコミュニティ開発隊員にとっても、このイベントは一年間で一番大きな行事。2年間の活動期間で参加するチャンスは2回だけ。7県で活動するコミュニティ開発隊員が、各々の県の特産品を持って首都に大集合です。

 

 

ITECCへは、バスで向かいます。ん?なんか懐かしいなと思われた方、こちら日本の無償資金協力で提供された元京都市バスです。ペイントもそのままで走っています。懐かしいバスに乗りたい方ぜひラオスへ!

 

 

今回私たちは3つのブースをお借りすることができました。

 

前日準備で初めてブースを見たときは、こんなかんじ。まだ、がらーんとしています。ここに、持ってきた備品や商品をどんどん搬入して、ブースを作っていきます。

 

 

こちら、私が配属されているビエンチャン県の展示スペース。

 

 

 

欲しいと思ってもなかなか手に入らない、ビエンチャン県のめちゃめちゃ山奥のシンも持ってきました。

 

 

そしてもちろん、先日商品開発のことを記事にしたこちらのクラッチバッグも!!

 

 

まわりのブースも見学します。こちらはフアパン県サムヌア地方のシンを扱うお店。浮き織りの細かさがもう、なに?どうすればいいの??

 

 

こちらは生地屋さん。見ているだけで楽しい!

 

 

ほかにも、モン族のスカートがあったり

 

 

鮮やかな色彩の織物があったり

 

 

私の村の生産者さんが薬草を持ってきていたり!

 

 

入り口のほうではデモンストレーションも。このブースでは繭を引いていました。中からコンニチハした蚕が袋に入って売られています。(写真右下)

 

 

これはサイニャブリ県タイル―族の刺繍。なんて素敵なんだろう・・・。

 

・・・と言う感じで、国内の至る所からハンディクラフト関係の生産者さんが集まるのがこのイベントの最大の魅力です。

 

ラオスの音

 

不定期で民族音楽も聞こえてくる館内をめぐりながら、ひとつひとつ手づくりされた味のある手工芸や機械織りにしか見えないような精巧なつくりの織りを眺める時間、最高だと思いませんか???

 

9日間も居ると、ブースをまわらせてもらう時間もちょくちょくできまして、色々まわって色々買ってしまいました。

 

 

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そして自分へのご褒美は、フアパン県サムヌア地方のシルクの織り!!今のところ一番好きなタイデーン族の模様です。

 

タイデーン族愛好家を名乗ろうかなと思うぐらい、この模様が好きです。一目ぼれして、値段聞いてびっくりして(思ってた価格の半分ぐらいだった)、即買いしてしまいました。最高!!

 

賞をいただきました

フアパンの織りがなんのご褒美だったかといいますと、

 

 

先日生産者さんと一緒につくった製品が、デザインのコンテストで賞を受賞しました!!!

 

こんな嬉しいこと、ありますか・・・。

 

8か月、ずっと泥のなかを歩いてきたみたいな気持ちでいました。ラオスは既に私のなかで大好きな国になっていて、こんな素敵なてしごとに触れられるだけでも十分に幸せを感じていますが、技術移転先でもある配属先の産業商業局には何も貢献できておらず、もうすぐ1年経つのに「何をしているか分からない日本人」のままな気がして、それにずっと苦しさを感じていました。(というか、今も感じています。)

 

それを少しだけ前に進めてくれたというか、自分がここに居て良い理由をやっと自分につくってあげられたというか、なんとなくそんな気持ちになりました。

 

自分だけのことだったら、「いやいや、言うてもそんなに・・・」となってしまうところですが、この賞をとった主役は生産者さん。だから 、私も声を大にして、自慢して、大喜びしよう!!と。

 

配属先の人たちが見てくれるように個人のFBに掲載し、JICAのオフィシャルページにもシェアしてもらって、その内容もまた自分でシェア(笑)

 

おかげで、任地に戻ってオフィスに行ったとき、「賞をもらったんだってね!!おめでとう!!」と同じ課の同僚から声をかけてもらえました。その日の活動は、2週間ぶりに戻ったらお腹がぱんぱんに大きくなっていた年下の同僚と胎動に癒されながらキンソム(おやつ)。頑張って局長に報告するためのレポートを作成しましたが、あとから殆ど直されて、まだまだやあなと改めて思いました。

 

コミュニティ開発の技術補完研修で習った「W型問題解決モデル」でいうと、時間的にはそろそろ半分(モデルについては分かり易い図があるので調べてみてください)。問題定義→探検→野外観察→発想と統合を終え、一度目のバスタブ曲線を乗り越えたあたりに・・・居たい。つもり。

 

ここから、決断→推論→実験準備→実験観察→検証、となるわけですが、ここからは思考と経験を1度行き来して終わるというよりは、ここからようやくサイクルを回していくようなイメージになかと思いますが、なんといっても任期は残り1年2か月。単発でやりっぱなしにしても、自分も生産者さんも成長に繋がらないので、大きいプロジェクトを動かすつもりでやっていきたいと思います。

 

・・・と、気持ちが前向きになると、調子に乗って、あれやりたい、これやりたいって色々書けるんですよね。8月、9月の沼からやっと抜け出せた気分でいるので、前向きに走りまくりたい時ほど気持ちを抑えて、安定した生活と活動ができるように自分のことをマネジメントしていきたいと思います。(これ大事やなって最近ようやく気が付きました。)

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人生2度目のアメーバ赤痢で入院した話

さばいでぃー!

みなさんこんにちは、ラオスのラオ子です。タイトル通り、入院してきました。というか、現在進行形で入院中です。日本ではもう聞かない「アメーバ赤痢」という病気にかかり現在入院2日目なわけですが、途上国で病気になったらこんな感じ!という事をお伝えするために、病院での生々しい体験などあえて書いてみようと思います。ただ、いかんせんアメーバ赤痢の話ですので、どう頑張っても内容が・・・。お食事されてる方は回れ右してお帰りください(笑)

 

5月16日お昼 謎の吐き気。

朝、いつも通り配属先に行って、ランチタイムまでは「なんかお腹がころころするな~」って感じる程度で、大きな異変を感じずに活動。ランチタイムに皆でカオピヤックを食べに行きました。普段ならすぐ食べ終わるんですが、なんか食が進まないというか、食べてるときにちょっとえづくような感覚があるというか。この日食べたカオピヤック、めちゃめちゃ胡椒が効いていたので、それでいつもみたいにすすれないのかなぁと思いながら、少しずつ食べて、なんとか完食。皆に「ラオ子、全然すすまないね!どうしたの?美味しくない?体調悪い?」と聞かれました。

 

 

その後、配属先から7kmほどのところにあるカフェで皆で一服。コーヒーは普通に飲めました。ああ、幸せ。でも、お腹が落ち着かないというか、つっかえる感じというか。いつもみたいに美味しく飲めませんでした。

 

そして事務所に戻って午後の活動・・・と思ったのですが、猛烈な腹痛に襲われたため、バイクで自力で帰れるうちに、と、早めに帰らせてもらうことに。

 

家に帰って熱を計ると、37.5度ぐらい。数日前に何日か微熱を出していたので、ちょっとぶり返したかな?と思って、水分をとってそのまま少し寝ました。

 

5月16日夕方 悪寒、高熱

夕方ごろ、体ががくがく震えて目を覚ました。なんだこの寒気は。そして熱を計ったら38度を超えていました。私の任地はマラリアを媒介する蚊が居ないところだと聞いていたので、ここで疑ったのは、食中毒とデング出血熱です。カンボジアに居るときにアメーバ赤痢を経験済みなのですが、あの時は一番最初に激しい下痢嘔吐が続いて、その後熱が上がって衰弱したので、アメーバ赤痢はもっとハードだった印象がありました。なので、ライトな食あたりかなと思い、布団をかぶって、刺しこむような下腹部の痛みに脂汗を滲ませながらひたすら耐えました。気を紛らわすためにアマゾンプライムでドキュメンタルを見ていたら、いつのまにか寝落ち。数時間そのまま眠りました。

 

5月16日夜 悪寒、高熱、関節痛、下痢

ん??インフルかな??と思うような体の節々の痛みで目が覚めました。ヘルニア持ちだからか分かりませんが、高熱が出ると、寝返りが打てないぐらい腰が痛くなります。そして、体に布がさわっているだけでぞわぞわして気持ち悪いぐらいの悪寒。熱は39度を超え、吐き気や嘔吐は全く無いのですが、激しく下し始めました。

 

これはまずいな、と思い、健康管理員さんに相談。翌朝近くの病院でマラリアとデング出血熱の血液検査を受けることになりました。とりあえず解熱のためにアセトアミノフェンを飲むよう指示をもらい、電話を切った直後の20時すぎと、日付がかわったころに500mlを1錠ずつ服薬。同僚に連絡して、翌朝病院に連れて行ってもらう約束をしました。

 

解熱剤を飲んでも熱は下がらず、むしろその後39.4度まであがりました。そして悪寒と関節痛もどんどんひどくなり、体が寒気で勝手にガタガタ震えるけど震えるたびに関節が痛いという悲しいループ始まりました。

 

多分、朝までに20回以上トイレに立てこもったと思います。もう、トイレで寝たらいいのでは?と思い始めました。でもこの腰痛と高熱では起きていられません。

 

明け方になると熱は37度台まで下がりましたが、腹痛は依然収まる様子がありません。血便っぽくなりだしたときにはさすがにヤバいと思って色々調べましたが、内容が頭に入ってこず。これでもう一度熱が上がったらデング出血熱の可能性が上がることと、もしデングだったら2回目以降は重症化するからここでの生活の危険度がいっきに増すことを知って、絶望。

 

5月17日朝 病院へ。

寝ている間にかなり発汗したらしく、起きたときには寝間着がじっとり濡れていました。おかげで熱も37度前半まで下がり、ちょっとすっきりしています。しかし腹痛と下痢は収まらず、昨日の昼のカオピヤック以降まともに何も食べていないので、ふらふらと視界が揺れます。念のため入院セットをつくって家に置いておき、同僚の車で病院に向かいました。

 

迎えに来てくれた同僚に、車の中で「デングかマラリアにかかっていないか、血液検査してほしい。もしどちらかだったらすぐにJICAの車が迎えにきてくれるので首都に入院しに行く。そうでなかったらきっと食中毒なので家に帰って療養する。」と話したところ、きちんと伝わったので、病院に着いてから同じように看護師にも説明し、同僚からも説明してくてました。

 

しかし、特定の医師や看護師から問診をされることはなく、きちんと情報共有がされているのか不安に感じました。それを確認する間もなく、さっき話した人ととは違う看護師さんから採血されます。「デングとマラリアをチェックしてね」と何度も何度も確認しながら、採血が終わりました。

 

そして、車いすに乗せられて、何故かエコー室へ。診察台にのせられて下腹部にエコーをあてられましたが、先生いわく「何も食べてないから見たいものが映らない!水をたくさん飲んでおしっこをしたくなったら出直して!」とのこと。

 

まてまてぇい!!こっちはもう一晩中下しとんねん。飲んでも尿にはならんわ!!と思い、看護師に伝えましたが、無常にも同僚が買ってきた1.5リットルの水が目の前にドンっと2本置かれます。

 

「ラオ子!飲めるだけ飲んで!」

 

ここから、地獄が始まりました。

 

5月17日 朝10時 拷問スタート

「11時にはエコーの先生休憩に入っちゃうから、早く水飲んで!!」

 

「ラオ子!私も仕事があるから早くして!」

 

ちょっと待って、私な、一晩くだしまくってて、体弱ってんねんか。言うたよな。・・・と思いながら、飲めるだけ飲む。飲んでエコーして帰れるなら飲む。飲めって言われるから飲む。そして500mlぐらい頑張ったところで、猛烈な吐き気に襲われ、お腹がキリキリと痛む。そりゃそうですよね、お腹くだしてる時にミネラルウォーターいっきなんて、お腹痛くなるに決まってますよね。

 

「ラオ子、お腹いたいの?よし、エコー室いこ!」

 

と、私が座っている車いすが動き出します。え、待って待って、行き先そっちちゃう!!と思うのですが、もう全く声も出ないぐらいお腹が痛くて、ひたすら蹲っているとまたさっきのエコー室に着きました。

 

そして診察台に乗せられ、服をめくってお腹を出し、「先生すぐ来るからね」と言われてそのまま待機。エアコンの直風を受けながら、待機。待てど暮らせど、先生来ない。刺しこむような腹痛に脂汗が止まりません。10分後ぐらいに限界がきて、「もう無理、トイレ!!」というと、呆れながらトイレに連れていかれます。「またエコーできなかったよ!トイレだって!トイレ!先生待てないんだって!!」と患者さんがたくさん居る中看護師同士で話しています。なんの辱めだこれは。

 

そして外来に戻され、また目の前に水が置かれます。「もうエコーいい、絶対ただの食中毒だから帰らせて」と言いましたが、「もう先に精算してるから!」とのこと。問診もされてない、診察室にも入ってない、誰も私のカルテ持ってないのに、誰情報の、誰判断で、その精算をしたのか???私には一生分からないことです。分からなくて、いいです。早く帰れたらそれでいい。水を飲もう。

 

ここから、水→エコー未遂→トイレを、水2リットル分繰り返しました。最初は500ml頑張って飲みましたが、当然スパンはどんどん短くなっていきます。トイレ行きを4回繰り返したころには、口に水を含んだだけで条件反射で下腹部に激痛が走ります。

 

そして私は、「体が受け付けないミネラルウォーターを2リットル分、一気飲みしてはトイレに行く」という行為を1時間ほど強制された結果、下腹部の激痛がピークに達し、話もできないぐらいぐったりと衰弱して、そのまま入院することになりました。2リットルで大げさやろと思う人、食中毒で高熱出して下した翌日にやってみてください。是非!

 

処置室で、入院する個室の掃除を待っている間、それまで遠くで見ていた婦長さんらしき人に「何でそんなに水飲んですぐお腹いたくなるの?」と聞かれ、「いや、私何回も言ってるけど、昨日の夜からずっと下してるんですよ」と言うと、「あ、そうだったの~!知らなかったわ~!じゃあ痛み止め打って、点滴しましょうね。多分アメーバ赤痢だわ」と。

 

・・・。

 

なんかもう、次からは、病状をシャツにでも書いて誰が見ても分かるようにしないとダメだなって思いました。そして、何の痛み止めを打ったのかは未だに分かりませんが、左尻の上のあたりに昨晩からの腹痛を軽く超える痛さの注射を打たれました。あの・・・なんの注射打ったんですか?

 

もう、何もかも、意味がわからない。病室に移動しながら「トイレどんなかんじ?」と聞かれたので、「緑色やった」と言うと、「水の飲み過ぎよ!」と言われました。

 

―言葉にならず、一筋の涙がこぼれました。

 

私も、そう思う。

 

だって、めっちゃ飲んだもん。ここで。

 

5月17日お昼前 病室でゴネる

 

ラオスでは、入院患者のお世話は基本的に家族が行います。カンボジアもそうだったな。私には、お世話をしてくれる人はもちろん居ないので、入れ代わり立ち代わり、局の人たちが気を遣ってお見舞いに来てくれます。みんな、やさしい。

 

お昼ご飯に持ってきてくれたのは、ご飯、醤油、豚肉を乾燥させて細かく裂いた綿みたいなやつ、黒ゴマ豆乳、バターケーキ、パン1斤。・・・ごめん、ごめんなさい、でもね、どれも食べられない・・・。食欲は昨日の昼から無かったし、午前中の水攻めで心も体もやられてしまって、口にモノを入れられる状態ではなくなっていたのです。それでも、来る人来る人、「食べろ!食べないから治らない!」「いつも朝ごはん食べてないんだろ?だから胃が痛いんだ!」「食べないと先生がくれた薬が飲めないだろ!」と、色々心配してくれます。・・・そんなに健康のこと気遣ってくれるなら、アルコール強制するのやめてほしいなぁ・・・と、心の中でつっこみながら、「そうだねー」と精いっぱい笑顔で相槌を打ちます。気持ちは嬉しいし、差し入れもありがたいけど、本当にどれも食べれませんでした。体が受け付けませんでした。

 

それからお医者さんがくれた薬、アセトアミノフェン500mgを食後に2錠。日本での1回の最高投与量も、1000mg。私のその時の熱、37度前半。え、要る?そんなに要る???もう、何も信じられない。何もかも疑いを持ってしまう。

 

そしてぽろっと口から出た言葉、

 

「入院したくない、家に帰りたい。」

 

局の人たちには顔を見合わせて、みんなで猛反対。「ダメ!ラオ子に何かあっても家に一人だったら分からないでしょう」と。でも、入れ代わり立ち代わり色んな人が来てくれたら、落ち着けない。来てくれたら挨拶して、病状話して、帰るときはもちろんお礼言って、寝てる間もフラッシュたいて写真とられたり、個室の中でずっと誰かとボイスメッセージしてたりして、全く眠れない。個室内にあるトイレにも行きにくい。気が休まらないし、一人にしてほしい。(本音)自分でお粥を炊いて、母手製の梅干しを乗せて、食べれるだけ食べて、寝れるだけ寝て・・・って、自分のペースで治したい。ごめんなさい、高熱出して、一晩中下して、朝から2リットル水飲まされて、それでいて皆の優しさや文化を全て受け止める余裕は、今の私には、ありません・・・。

 

「デングかマラリアじゃないことが分かったら多分ただの食あたりだから。体が弱ってるときは日本のごはんが食べたいの。皆忙しいのに来てもらったら申し訳ないし、一人で夜ここに居るのは不便だし、バイクで来てないから帰りも大変だし、入院するなら首都だと思ってたから財布と携帯しか持ってきてないし、お願いだから帰らせて」と私も譲りません。看護師を呼んでの話し合いになりましたが、看護師も「全然食べられてないし、緑色の便しか出てないっていうし、血液検査の数値も良くないし、抗生剤打たないとダメよ。かなり弱ってるし家で一人で居るのは危ないわ」と。

 

緑の便しか出てないのも、かなり弱ってるように見えるのも、午前中に水飲まされすぎたせいやで。

 

と心の中でつっこみました。お腹下してるとあれだけ言ったのに全く共有される気配もなく投薬されるのも怖いし、ここに居たら体も心も休まらないし、絶対に譲らない!と私は戦う姿勢です。そして頑なに、「私は日本で薬を売る資格を持ってる専門家なの!(登録販売者だけどね)血液検査の結果さえわかれば自分で治せるから、帰る!家にたくさん薬もあるし、日本から持ってきた自分に合う薬が飲みたい。それに、日本の料理が食べたい!病気の時は日本のものが食べたいの!」と、みんなが絶対に叶えることのできない我が儘を言い続けました。

 

いよいよ困った上司が、JICA事務所に連絡。「ラオ子が帰ると聞かないが、かなり弱っている様子で、でも入院するにしても付き添える人が居ないのも確かだから、首都に連れて行っていいか」ということを話してくれたようでした。

 

時を同じくして、血液検査の結果を健康管理員さんに送って状況説明をしたところ、きちんとした検査、治療、そして療養が必要だと判断されたため、私は打ち始めたばかりの点滴を抜かれてそのまま局の車で上京することになりました。

 

「行く前にご飯食べなさい!」「いやいや、首都までの道中で急にお腹痛くなったら嫌だから!」「だめよ、ご飯食べないと元気にならないでしょう!」「2時間もガマンできんし、途中何もないやん!!首都行ったら食べるから!!」と、最後まで小競り合いして、病院を後にしました。みんな、心配してくれてありがとう。けど、病人の時は、「日本式」「私式」でいかせてください・・・。

 

5月17日夕方 首都の病院へ

首都のタイ系のクリニックに着くとすぐにお医者さんからの問診を受けました。そして、血液検査、検便と、トントン拍子で進んでいきます。・・・というのは全部JICAの健康管理員さんが付き添ってくださったおかげ。前日から相談させていただいたこともあり、午前中の病院での診察や投薬の状況も全て先生に説明してくださって、私はただ腹を押さえて「ちぇっぷとん(お腹痛い)」と言っていただけ。ありがてえ・・・・と噛みしめていると、「アメーバ赤痢」との診断結果が出て、そのまま入院することになりました。

 

 私の部屋のベッドがラブリーだと言うのは以前もお伝えしましたが、なんの因果か私が入院することになった部屋も相当ラブリーでした。スティッチに、アナ雪に、プーさんに、スヌーピー。とにかく情報過多。コンテンツ過多。部屋に撮影禁止の張り紙があったので写真は控えます。想像力を働かせてください。

 

入院が決まったのが夕方だったため、この日はもう夕食の用意ができないと言われましたが、何も食べたいと思わなかったので了承しました。その後、おかゆだけ少し持ってきてくれたので、薬を飲むために少し食べようと思って口にしたら、あっという間に全部なくなって、そしてすぐさまお腹が痛くなりました。回復にはまだまだ時間がかかる。

 

5月18日 入院2日目

 ごはんは自分で決めることができるので、朝ごはんには一番ライトそうな豚肉のおかゆをチョイスしてみました。ほんの一瞬、アーモンドクロワッサンとバタークロワッサンのセットに目がいきましたが、入院2日目の朝はこれを頼めるぐらい回復するぞと心に誓っておかゆにしました。

 

お昼は揚げ豚のおかゆ、夜はカオマンガイと、徐々に回復していきます。「カオマンガイが大丈夫なら、スパゲッティカルボナーラに変更していい?」と聞いたら、「いや、だめ(笑)」と断られました。しっかりしてる。(出てきても多分食べられないけど食欲だけはある)

 

思えばこれ、人生4度目の入院。人生初の入院はカンボジア、この時もアメーバ赤痢。2回目もカンボジア、インフルエンザ。3回目は訓練が始まる少し前、全身麻酔で4本とも親知らずを抜歯しました。(4本いっきは本当におすすめしません。抜く必要があると分かっている人は、時間がある学生のうちに抜きましょう)

 

同じように今回も、発病して、検査を受け、点滴を打ちながら部屋でぼーっと回復を待つだけなんですが、今回違ったのは、人生初の「お見舞いに来てもらう」という体験ができた(?)ことです。首都隊員の同期がお見舞いにきてくれて、元気貰えたし、本当に嬉しかった。休みの日にわざわざありがとう・・・!

 

そして今

平熱に戻り、悪寒も倦怠感も関節痛も治りました。あとはお腹の調子さえ戻ってくれれば完全復帰です。明日の朝もう一度検査して、アメーバさんが居なくなっていたら退院、やさしいご飯から徐々にならして元の生活に戻れることでしょう・・・。アメーバは潜伏期間が長いので何であたったか特定するのは不可能で、気を付けようがないのも現状です。またいつやってくるか分からない。怖い。

 

数年前、カンボジアでお世話になっていた病院も、タイの先生の病院でした。日本人通訳さんが居て下さったし、そうでない時でも英語が通じるので、不便と感じたことはありません。ただ、カンボジアの超ローカル病院で会社の健康診断を受けたときに、病院の様子を見て「こりゃすごい」と思ってはいたのですが、まさか自分もそういう所でお世話になることになるなんて・・・。それがまさかこんなにもスパイシーな経験に繋がるなんて思ってもいなかったので、まだまだ覚悟(?)が足りなかったなあと思いました。私はまだ首都まで2~3時間であがってこれますが、そうではない隊員はもっとハードな経験をすることでしょう。みんな、体調には本当に気を付けよう。

 

また、今回は、おかしいと思った時点で健康管理員さんに相談させてもらったことで、検査項目の指示を受けてから病院に行けたり、点滴や薬の写真、検査結果などを全て写真に残しておいたおかげで、自分が何を投薬されてどういった治療を受けたのかなど詳しく聞けました。次回から(次回とか無いほうがいいんだけど)は異変を感じたら首都に上がって安心できる病院で治療を受ける、そのための体力を残す(悪化するまで無理しない)、をまず第1目標に、それでも何かあったときは早めの相談・写真を残すことを忘れず、健康管理に努めたいと思いました・・。

 

一番怖いのは、最近届いた「バイク」です。実際任地に来てから何度か事故を見ているのですが、けがをした時に運ばれる場所は間違いなく最初に行った病院なので、事故など絶対に起こさぬように、ゆっくりと、余裕を持って、走りたいと思います。・・・もう、病院にお世話にならず、健康で日本に帰るために。

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第2回原爆展に参加して、「平和って何?」を考えた

さばいでぃー!

皆さんこんにちは。ラオスのラオ子です。

 

今日は、平成最後の日にあわせて投稿できたらと思っていた内容を更新します。

 

 

ピーマイ(旧正月)が明けた翌週の4月24日、やっとこさ正月ムードから抜け出しつつあるビエンチャン特別市にて、先輩隊員の企画で「第2回 原爆展」が開催されました。

 

この記事を書く目的として、私がラオスでどんなことをしているか知ってもらいたいというのはもちろんですが、現在いろんな国でそれぞれの活動を頑張っている同期の皆や他の隊次の隊員の皆さんに、活動”+α”の部分を知ってもらって、この活動を広げていきたいと思っています。いつも通りあちこちに蛇足が多い文ですができれば最後までお付き合いください。

 

 

10歳の私「広島の原爆の資料館、怖い。」

 小学3年生の頃、合唱団西日本合唱祭で広島に行く機会を頂いたときに、特に事前学習も無いまま入った資料館で感じた事です。

その時丁度夏休みで、じりじりと焼け付くような暑さでした。教科書や資料集で見たことのある建物に銅像、そして色とりどりの千羽鶴。街中の路面電車はビルとビルの間を窮屈そうに走っているように見えるのに、その場所だけはがらんとしていて、でも張り詰めたような空気で、ここは何か「違う」んだなあと感じました。 

資料館の中は、「怖い」でいっぱいでした。被ばくした人たちのケロイド状になった皮膚を再現した人形。熱で曲がったぐにゃぐにゃの展示物。焼けただれた人の写真、絵、そして大きなジオラマの真上に不気味に垂れ下がる赤い塊。薄暗くて静かな資料館を出て、近くを流れる川を見た時、「ここにあのドロドロの人が飛び込んで行ったんかなあ」と考え、更にその「怖い」という気持ちが増しました。

その話を近所のおじさんにしたところ、「熱い思いして亡くなってやーる人がいっぱいいっぱい居るんや。今も苦しんでる人がぎょーさんやぁる。『怖い』なんて言うたらアカン。」と言われました。

そうか、大人が言うんだからきっとそうなんだ。じゃあ、あの場所は、私が見たものは、私が感じた気持ちはー・・・。そして、あの時の気持ちに何という名前をつけていいのかさっぱり分からなくなった結果、資料の数々に対して感じた「怖い」という気持ちには、蓋をしなければいけないのだと思いました。

 

その5年後、今度は、イタリアの姉妹都市に行きました。現地の音大のオーケストラやソリストと2週間ほど練習を重ねて、「Undici Zero Due(11:02)」という現地の脚本家の創作オペラを演じるためです。11時02分、人類史上実戦で最後に使われた原子爆弾「ファットマン」が長崎県長崎市に投下された時間。それまでいつもと変わらない日常を送っていた子どもたちが、原爆により一瞬で命を奪われ、その魂は悲しい歌と共に海を渡り、平和を繋いでいくー・・・というような物語だったと思われます。(台本やあらすじの日本語訳が無かったので細かいニュアンスは違うかもしれません。)

 イタリア語も英語も、さっぱり分からないので、現地の人たちとは簡単な挨拶程度のコミュニケーションしかできませんでしたが、オペラが終わったあと浴衣を着て灯篭流しをして、日本の歌を聴いてもらって、皆で歌って、初めて経験した外国の人たちとの非言語のやりとりは、それまで私の中にあった音楽というもの概念を簡単に壊してくれた気がしました。その後スイスやドイツでも演奏会を経験して、確実に今の私を作ってくれた切っ掛けになってくれたし、言葉がわからなくてもこうやって共有していく術もあるんだということを教えてもらった、私の人生に強烈な点を打った活動だったと思います。

 

それでも、役を演じている間も、あの日広島で見たものを思い出して「怖い」という気持ちに襲われていました。

浴衣を着た私たち日本人の子役は、劇の中盤、激しい音・真っ赤な照明の中、床に突っ伏しました。次の曲に入ったら立ち上がってあそこに並びに行って・・・。そう考えながら冷たい床で”次”を待つ。その間、照明が真っ青に変わり、”死の灰”が天井から降り注ぎます。

 もしあれがオーケストラの音ではなく本当の爆音だったら私たちは一瞬でこの世界からいなくなっている。”次”は、無い。もし今ここに原爆が落ちたら、ちょっと好きになり始めた、教会の鐘の音が響き渡るこの街から、数十万人の人が一瞬で亡くなって、生き延びることが出来たとしてもその後何十年も、苦しむことになる。そしてその悲しみは一生消えない。

 

―やっぱり原爆は、怖い。

 

本番中に広島での記憶が蘇るぐらい、あの時の事が頭に残っていたのでした。

 

この「怖い」がずっと引っかかっていた私。どこに行っても「負の遺産」に触れることができず、前に住んでいたカンボジアの「虐殺博物館」と「キリングフィールド」にようやく行くことができたのも、カンボジアとの関わりを持ち始めてから7年が経った去年のことでした。 

 

虐殺博物館とキリングフィールドについてはこの記事で少し触れています。

 

そして、ここビエンカムでの活動を始めてしばらく経ったある日、先輩隊員から今回の「第2回原爆展」のボランティア募集のお知らせが届きました。迷わず、「参加させてください」とお返事しました。自分があの時自分の中にとじ込めてしまった「怖い」を、先輩はどう感じて、どう学んできたんだろう。そしてそれを、どんな形にして異国の高校生に伝えるんだろう。それらを知るために、自分も運営に関わって、近くで見させてもらおう。そして私も原爆についてもっと知ろう、学ぼう、考えよう。私の職種であるコミュニティ開発とは直接関係のないフィールドであっても、2年という限りある時間の中で、経験できることはできるだけしていこう。そんな気持ちで、参加を決めました。

 

準備

第2回原爆展の呼びかけがあったのは、3月下旬のことでした。今回集まった8人中5人が私と同じ2018-3次隊(現在ラオスに着任している一番新しい隊次)で、もちろん原爆展に参加するのも初めてです。

第1回原爆展を同じ先輩がオーガナイズされていて、原爆に関する絵本や資料、必要備品などなど、ある程度は前回分を使って今回のイベントを組み立てられたこともあって、皆で集まって検討・相談する事は当日の役割分担以外ほぼありませんでした。

そして、イベントのために作られたLINEグループに次々資料を共有してくださったおかげで、私たち新規隊員も上京までにイベントの大部分を把握できました。

イベント前々日に、今回のイベントに参加する隊員が地方から集まり、生徒に渡す資料などを準備、前日は買い出しと会場の設営と大まかな流れの確認などを行い、本番当日を迎えました。

 

第2回原爆展

ここからは当日のプログラム通りに、内容と所感を書いていきたいと思います。

挨拶

 

まずはオーガナイザーの先輩隊員の挨拶から。先輩隊員のバックグラウンドや、このイベントを開催する目的、皆に知ってもらいたいことなどを最初にお話されていました。

今回集まってくれたのは、5・4・3・4制の義務教育期間の、中・高等部の1年生、3年生、そして7年生の約115名。日本でいう小学6年生、中学2年生、高校3年生です。私は教育関係の隊員ではないので、こうやって学校にお邪魔できるのも貴重な体験です。

今回対象にしたのは日本語の授業を受けている生徒さんたちなので、もちろん日本語自体にも興味を持ってくれています。JOCVが一人ずつ前で自己紹介すると、私たちの名前をみんな口に出して繰り返してくれたのが嬉しかったです。第1回のアンケートで「日本語が聴きたかった」という意見をいただいていたこともあり、今回は先輩隊員の日本語+現地の先生のラオ語の2言語での司会進行でイベントが進められました。

 

アイスブレイク

 

次は、私と同期隊員が担当させてもらったアイスブレイク。日本語を勉強している生徒さんを対象にしたイベントということで、「ສັນຕິພາບ(サンティパープ=平和)って日本語で何だか知ってる?」「”へいわ”を日本語(ひらがな、漢字)で書いてみよう!」という内容から発展させ、「この絵は”平和”かな?」「なんでそう思うのかな?」と、皆で”平和”について考える時間を作りました。

ここで、私たちから「正解!」「それは違うね」「平和っていうのはね、」と具体的に話をすることはありません。この後の内容に自分たちで結び付けてもらうためのアイスブレイクですので、ここで問いかけを完結させることが目的ではないからです。この後の話を聞きながら「じゃあこれはどうだろう」と考えてもらうためのきっかけづくりが出来れば大成功!

 

と、偉そうに言ってみましたが、シナリオはほとんど先輩が作ってくださったもの。私たちは、実際生徒さんにインタビューするときにあったらいいなと思うラオ語を前日の打ち合わせのあとに少し足して、本番に臨みました。

初めの挨拶もしっかりこちらを見て聴いてくれた皆なので、私が壇上にあがって「キンカオレオボー?!(ごはん食べたー?!)」と突然ラオス流の挨拶をしたら「レーーーオ!!」と元気に答えてくれて、良い雰囲気のまま、わいわいアイスブレイクを終えることができました。

 

イントロダクション

 

そしてここからついに本題。先輩隊員からの、広島と長崎についてのお話です。

 

原爆はいつ・どこに投下されたのか、なぜ広島と長崎に投下されたのか。

 

原爆がもたらす「熱線」「爆風」「放射線」の3つがどれだけの命を奪い、苦しめたか。

 

今、広島と長崎の街はどうなっているか。

 

今、世界にはどれくらい核兵器が存在しているか。

 

ラオスには、戦争/内戦でどんな問題が残っているか。

 

「折り鶴」「千羽鶴」に込められている意味とは。

 

次のプログラムの内容を補完し、かつ自分たちの国の事にも絡めることで、当事者意識を持ってもらえるような内容でした。

 

 

クイズ形式で生徒たちの興味を引きながらも、淡々と、毅然とした態度で、伝えたい事実を伝えていかれる先輩隊員。「先生」として普段から活動されている先輩は、約115名の前で壇上に立って話していると思えないぐらい、生徒さんとコミュニケーションをとられていて、私はもう、「すごい」と「かっこええ」以外の感想が出ませんでした。

 

提示されているスライドにかじりついて話を聞く生徒さんたちは、熱線・爆風で亡くなられた方の写真を見て一瞬「うわぁ」と目を背ける場面もありました。私が感じた「怖い」と似ているかもしれません。その写真は、日本でいう小学6年生の児童向けに選んだもの。教科書やテレビで見慣れてしまっている私たちにはそうでなくても、会場の雰囲気を一瞬で変える力を変えてしまいました。それから生徒さんたちは、それまで以上に先輩隊員の話とスライドにかじりつき、手元の資料を読んでまわりの生徒と思ったことを共有しながらイントロダクションを聞いてくれました。

 

絵本朗読

 

イントロダクションの後は、生徒による「おりづるの旅 さだこの祈りをのせて」の朗読です。現地語で朗読してくれたのは6人の生徒さんたち。みんな堂々と朗読してくれました。

 

この絵本の翻訳も協力隊の先輩方によるもの。結構ボリュームのある物語なので、いくつかのパートに分けて数名で翻訳作業されたのですが、「頻出単語のリスト」を作って単語を統一する作業が必要になったり、表現を合わせたり、話を聞いただけでも「大変だ・・・(わたしにはできない)」と思うような途方もない作業。それを、代表者の生徒さんたちが何度も練習して読んでくれるのは、作業に関わっていなかった私でも、嬉しい。とっっっても嬉しい。

 

折り鶴ワークショップ

 

「絵本で出てきた”折り鶴”を皆で折ろう!」ということで、きれいな千代紙を皆に配って、折り鶴のワークショップをしました。途中で次の工程を聞かれると、案外難しいですね・・・。一緒に折り鶴の折り方のプリントを見ながら折りました。

 

羽部分フルオープンタイプの鶴、足が生えた鶴など、個性豊かな鶴を折る子たちも居ましたが、なんだって、ぼーぺんにゃん(大丈夫)。折り鶴や千羽鶴の、背景、意味を知った上で、この文化に触れるということそのものが、なにより大切なのです。

 

現地語学訓練中にも高校に行って折り鶴を折る機会がありましたが、あの時よりもちゃんとコミュニケーションが取れている自分に気づいて、少し嬉しい気持ちになりました。「サダコは何羽折りたかったんだっけ?」「1000羽」「折れる?」「できないよ、多すぎるよ」なんて話もしながら、生徒さんたちとワークショップの時間を楽しみました。

 

写真撮影

 

最後は記念撮影。みんなで折り鶴を持って写真撮影。前に全員集合してもらうと、改めて、こんなにたくさんの人が来てくれたんだなあ・・・と。協力してくださった高校の先生方にも感謝です。ありがとうございました。

 

アンケート・絵馬記入

 

終わった後は絵馬とアンケートを記入してもらい、書けた人から解散でした。絵馬はこれからしばらく学校に掲示してもらいます。アイスブレイクで一緒に勉強した「平和」を早速書いてもらえました。

 

 

書いてもらった絵馬はボードに全部貼って、日本語教室にしばらく掲示してもらいます。 びっちり数行に渡って気持ちを書いてくれた生徒さんもいれば、シンプルに「戦争をしてはいけない」と書いてくれた生徒さんも居て。アンケートには、「毎年開催してほしい」という嬉しい言葉も見られ、集計中まで幸せな気持ちにさせてもらいました。

 

振り返り

この原爆展に参加するには任地での活動を休む必要があったため、上司に休みが欲しいと言ったところ、快諾してもらうことができました。まだ局でも何も出来ていないのに、大変ありがたいことです。そして、私は皆の前に立ってアイスブレイクの進行をする役を貰ったので、先輩隊員が作ってくださったシナリオを任地で事前に読んで、活動先の同僚に発音のチェックをしてもらっていました。

さきほど紹介した通り、アイスブレイクの内容は「平和って何?」でした。生徒たちと共に、平和とは何か、色々な絵を見て一緒に考えてもらうという趣旨のものですが、この原稿を読み終えた後に同僚から「で、平和って何??ラオ子は平和って何だと思うの??」と聞かれて、私は何も答えられませんでした。

そんな人が前に立って話していいのか??ともやもやしながら、せっかく頂いた役なので楽しくやらせてもらいましたが、それから原爆展までの間、実際「平和」がどういう状態で、どうやったら作れるのかを考えて、何も出てこなくて、この問いの正解はわからないまま。

でも、先輩のイントロダクションの原稿に「考え続けることが大切」という言葉を見つけて、そうか、じゃあ私も、わかんないから考え続けよう、そして皆にも考え続けてもらおう、という気持ちで臨みました。

 

「平和って何?」という問いと同じぐらい、このイベントの難しさを感じたのが、「歴史を伝える」という事自体が孕んでいる様々な問題。現在核を保有している国や、第2次世界大戦で日本の敵国だった国、ラオスにたくさんの不発弾を残した国、どれも事実として「ある」ことなのですが、それを「悪」だと伝えてしまうのは大変危険なこと。日本には日本の、ラオスにはラオスの、そしてそれぞれ国レベルから個人レベルまで、様々なルーツやバックグラウンドがあり、それを傷つけたり、否定することは、私たちの目標とするところではありません。

まだまだこれから、社会のことを学んでいく生徒さんたちに、「草の根外交官」とも呼ばれる私たち青年海外協力隊からどう伝えればいいかというのは、先輩も非常に悩まれたところだと思います。何も伝えなければ、このイベント自体のメッセージ性が薄れてしまうし、かといって偏った思想で気持ちを煽るようなことは、してはいけない。

・・・と、色々考えると、「ほどよく」「的確に」そして「ニュートラルに」伝える事は、かなり難しいと思いました。 

 

まとまらないまとめ 、原爆はやっぱり「怖い」

日本に落とされた2発の原子爆弾は、一瞬で何十万の命を奪い、その後も体の中に残って命を蝕み続け、今も苦しんでいる方がいらっしゃいます。どんな理由で投下されたとか、結果どうだったとか、そういう話では折り合いがつかないような出来事が、たった数日のあいだに数十万も起きたのです。未来永劫使われるべきではなく、そして新しく作られるべきでもありません。

 

 

一方、ラオスは、戦争や内戦の爪痕が「貧困」や「不発弾」というキーワードと共にまだまだ残っている国です。戦争当時、ラオス王国の国民1人あたり1トンの爆弾が落とされたとされていて、未だのその1~3割が地中に残っていると言われています。被害のひどかった旧ホーチミンルートを中心に、その地に住む住民、特に農業従事者が危険に晒されているだけでなく、 不幸にもクラスター弾の子爆弾がラオスの遊び「ペタンク」で使われる鉄球に似ていることで、子どもの手足や命そのものが奪われる事故も起き続けています。「何個の不発弾が処理できたか」ではなく、「100%クリーンな土地になったか」が重要であり、本当に平和に暮らせるには、長い長い道のりと言えそうです。

 

今回はそのきっかけづくりを協力隊の有志一同で行いましたが、どこにでも、「平和」を考えるきっかけになるものはあります。 そして、自分の国だけではなく、どの国の情報もすぐに手に入るのが、私たちが生きている「グローバルな社会」です。だからこそ、私自身、今回のことで20年持ち続けてきた「怖い」の気持ちを完結させずに考え続けたいし、このイベントに参加してくれた生徒さんたちにも、この日共有したことを考え続けてほしいと思います。

 

今回生徒さんに読んでもらったサダコの絵本は、折り鶴が平和の象徴となって世界を旅するお話ですが、まさにその旅は今も続いているんだと思います。だから、この日のワークショップで作った折り鶴も、ここで終わりにするのではなく、家に持って帰ってほんの少しでいいから家族に話してほしい。これからしばらく日本語教室に展示される、皆が書いてくれた絵馬の平和への願いを共有・共感し、話し合って、このイベントの事を少しでも思い出してほしい。「イイネ!」ボタンには無い、小さいけど大きな力となって、水面に落ちる水滴のように、波になって広がっていくきっかけのひとつになってほしい。カオス理論のバタフライエフェクトのように、蝶のはばたきが地球の反対で竜巻になることはなくても、私たちは誰しも科学で証明できない「心」を持っていて、わたしたちの未来を変えていく力になるはず。

 

さいごに。

 

 今回のイベントが、これからのラオスを拓き、支えていく学生さんたちに、広島・長崎のことを通じて平和を考え、ラオスの事に関心を向けて「当事者」になってもらう一助になれば、それより嬉しいことはありません。また、そうして「じぶんごと」を繋いでいくきっかけになれるのであれば、自分も積極的に機会づくりをしていきたいと思います。

 

また、この記事を見て少しでも興味を持ってくださった他国の隊員の方がいらっしゃいましたら、私との面識の有無関係なく、是非コメント欄やSNSで連絡いただけたら嬉しいです。今回使った資料などの共有の許可を頂いていますので、隊員ネットワークで水平展開していけたら最高だなって思ってます。ご連絡お待ちしてます!

 

皆のブログ

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ラオ子の旧正月休み。

さばいでぃー!

皆さんこんにちは、ラオスのラオ子です。旧正月シリーズ最終回です。

 

 

職場での正月祭が終わり、キンビアに恐れおののいた私は、しっぽ巻いて逃げるように首都へと移動しました。4月13日ー17日が正月休み、18日、19日と出勤して、また20、21日が休みのため、18日、19日は事務所がほぼほぼからっぽ。オカンたちとのキンソム(おやつタイム)も無く、事務所にぽつんと一人で活動報告書を作成。寂しいなあ。

 

13日 上京 

 

私の任地から首都までは、順調にいったら1時間半ほど。そこからドミトリーまでの30分の徒歩移動、この時期にバックパック背負ってやると暑くて火が出そうになります。よって朝いちばんの移動に限ります。乗り合いバンは家から1.5kmほど先のバン乗り場から出ていて朝6時ごろから人が集まり次第発車するので、陽がのぼったら、涼しいうちに出発!

 

橋で黄昏る笑顔が素敵なにーちゃんと、どこ行くの?ピーマイ何するの?とお互いに話をしていたら、ショルダーバッグがゴソゴソゴソッと急に動き出してびっくり。よく見たら鶏さんが首と足だけ出してます。なんだこれ、めちゃめちゃ可愛いやないか!この後友達の村に持って行って、みんなで食べるそうです。なまんだぶ。

 

 

 

午前中にドミトリーに到着し、先輩隊員と朝ごはん。いつもラオ人がたくさん居て気になっていたお店に行ってきました。ホームアイディールというスーパーの目の前のお店です。

 

 

 

カオプン(ラオス風混ぜ麺)と、揚げ春巻き。どちらも美味です。カオプンは甘酸っぱいタレが一緒に入っていて、麺をほぐしながら食べるのですが、砕いたピーナッツの香ばしさとタレの甘さと、なんともいえないバランスでとても美味しいです。揚げ春巻きは、野菜や春巻きの皮に包んでいただきます。こちらも揚げたてカリカリでたまらん!!

 

 

 

そのあと合流した同期と、早めの夕飯でずっと気になっていたインド料理屋さんへ。店の前では子どもたちが旧正月の予行演習中。水鉄砲、ホース、水風船、あらゆるものを使って水遊び中。

 

 

 

尻が出るほど夢中です。

 

 

 

田舎で食べるのが難しい「大きい鶏肉」が食べたくて、タンドリーチキンとチキンカレーを注文。これにソーダウォーターをつけて二人でシェアして、合計750円以下です。なんなん?神なん?

 

 

 

トリップアドバイザーなどでも上位にあがってくるお店で、なおかつローカル価格で食べられるとのことでずっとずっと行きたかったんです。正月前の水かけ祭に向けて、自分の村でなかなかとれないタンパク質とやらをしっかり補給せねば。

 

タンドリーチキンは辛さがほどよく、 結構な量でしたがぺろりとたいらげました。

 

 

 

カレーもシンプルで美味しくて。最高でした。お店のおじさんもめちゃめちゃ感じが良いので、リピ決定ですねこれは。何人かで来てシェアしたら割安でいろいろ食べれそう。また来ようぜ~~~!

 

Jamil Zahid Indian and Pakistani Food

 

その後メコン川沿いをぶらぶらしていると、

 

 

 

見るからにパリピ仕様な正月特設ステージが設営されていました。

 

14日 出陣

 

お気に入りのパン屋さんが正月休みで閉まっていたので、別のお店へ。クロワッサンにうるさい私たちの求めているものではありませんでした・・・。無念。

 

 

 

そのあと周辺をぶらぶらして、お昼ご飯。やっぱりタンパク質が食べたい私は、コリアンレストランでプルコギとギンパを注文。

 

 

韓国料理の良いところは、ナムルがたくさん出てくるところですね!久々に食べたキムチ、美味しい。白米との組み合わせ、ヤバい。

 

 

 

そして大晦日のパーティー会場へ!ただのテントと思うなかれ、骨組みはスプリンクラーになっていて、心地良い霧雨のような・・・ではなく、大粒の雨のようなぬるめの水が、ばたばた、ばたばたと落ちてくる仕様です(しかも突然降ってくる)。

 

 

 

メコン川の河原におりてみると、普段はただの砂地になっている場所にこんな立派なステージが。ステージ両脇には先ほどと同じような骨組みがあり、先ほどと同じようにばたばたと大粒の水が落ちてきます。

 

 

 

ちょっとわかりにくいかもしれませんが、写真右手の白い線、放水車から本気の放水中(笑)かわるがわる色んなアーティストがステージに立ち、爆音に揺られながら冷たいビールを飲んで、水を浴び、ときに水鉄砲での銃撃戦になり。夏フェス大好きっ子には大変心地いい時間でした。

 

 

 

そして昨日の朝行ったのと同じお店で、また揚げ春巻きタイム。おやつにちょうど良いんですよね。肉団子のようなものも頼みました。これも美味しい!

 

 

腹ごしらえが済んだら、街に繰り出してひたすら銃撃戦。私は水鉄砲を持っていたのですぐ標的にされました。ミニオンの水タンクを背中に背負って、ホースの先の水鉄砲で撃ちまくれるタイプのなかなか合理的な水鉄砲。500円ぐらいで買ったのですが、あれだけ楽しめれば良い買い物です。

 

アッパーで氷水を顔面にいただき、背中からも氷水を流し込まれ、両頬にベビーパウダーと口紅をぬりたくられる。もう、絵に描いたようなやりたい放題です。

 

 

 

そして夜はカノム(お菓子全般をさします)食べ比べ、プラスチック容器の蓋がわに乗った2つはフライドガーリックが入っていて「お菓子」というカテゴリーに含めてよいのか議論が必要ですが、基本的にカオニャオ(餅米)は間違いなく美味しいという結論に至りました。

 

15日 元旦

 

ラオスは今が1年で一番暑い時期。昨日はかんかん照りの日差しの中あちこち歩き回ったせいで、朝は私も同期もぐっすり。夏フェス翌日のような体の重さをほんの少し感じつつ、昼前までぐだぐだしました。

そしてお腹が空いたとの単純な理由でようやく昼前に動き出し、28000KIP(360円)」でランチが食べられるコスパ最強レストランへ。

 

 

ワットインペンというお寺の裏にある「ヴァンドーム」というお店ですが、28000KIPでスープと1プレートのランチがいただけます。内容は日替わりで、入り口の看板にフランス語で書かれています。もちろんフランス語は分かりませんのでお店の人に聞きますが、このお店の人は前回来た時同様親切でにこやかな印象。店内に可愛いにゃんこが居るのもポイント高いです。

 

 

前回はモロヘイヤのスープとパスタ、そしてめっちゃ大きいチキンフライ。今回はかぼちゃスープとパスタ、チキンソテーでした。ちょっとばかし味濃いめですが、このめちゃめちゃ暑い時期には丁度良く感じられます。

 

 

 

そしてこの日もメコン川沿いの会場へ!元旦ということもあり昨日よりすごい人、すごい盛り上がり。しばらくここに居たら「タマフン(ラオスのパパイヤサラダ)」が食べたくなり、近くの美味しいラオ料理レストランへ。いつも「キンソム(おやつ)」でタマフンが出てくるときは「ほかにレパートリーないんかい」と思うのですが、無いと無いで口が寂しくなる。まだラオスに来て3か月目ですが、我々もしっかりラオスに染まり始めている模様。

 

 

 

そして私たちはお寺へ。配属先の別の課にお勤めのお姉さんが、親戚と一緒にお寺の前で聖水のようなものを売っていたのでしばらくお話して、そのお水も背中にざぶっとかけてもらって、お寺の中へ。いつもはがらんとしているお寺ですが、この日は老若男女問わずたくさんの参拝者が。日本で言うところの初詣でしょうか。

 

 

 

 

オレンジの袈裟、真っ青な祭壇、緑のスケルトンの仏像・・・仏教という大きなくくりは同じでも、日本のものとは色彩が全然違っていて、とても面白いです。

 

 

 

お寺の入り口にはお坊さんがたくさん居て、水をかけてくれました。門を通る人にぱしゃぱしゃと控えめにかけているのですが、私が手を合わせて頭を下げながら近づくと、首のあたりからバケツ1杯分ざばーーー!っと(笑) ありがとうございますとお礼を言って、また通りに出て銃撃戦。

 

 

 

夜はまたメコン川沿いをぶらぶら。移動遊園地が来ていて、よくある「めっちゃ速い観覧車」にちょっと惹かれましたが・・・

 

万一のことを考えて見るだけにしました。

 

16日 任地へ

 

 

街中のお店は休みのところが多く、食べたかったピザも食べられず、カオマンガイを食べて任地へと戻りました。

 

JICAのドミトリーからバスステーション、乗り合いバンの終着点から家までは、バックパックを背負っての徒歩移動。「かけないでよ、お願い、かけないでよ」という顔をしつつ、この日も水遊びに精を出す街の人たちと距離を置きながら歩きましたが、無事何度かかけられて都会で購入した物資も家についたころにはふにゃふにゃになっていました。ひどいや・・・。

 

バンでの移動中も、おかまいなくバンのフロントガラスに水をバチャッ!途中でバンを止めて、運転手にビール渡して。いつも爆音で歌ったり踊ったりのレストランの前は泡だらけになっているし。田舎のほうもなかなかの盛り上がりを見せていました。

 

私の正月休み終了

18日、19日はみんな出勤かと思いきや、その翌日からまた土日で休みになるので、遠方に実家がある人たちは皆連休をとって帰省している模様。遊びすぎて体調を崩したという人も何人か聞きましたが、とにかく局の中はほぼ空っぽでした(笑)

 

私は活動報告書の作成や過去の専門家の方の報告書を読む時間にあてさせてもらい、ゆっくり過ごしました。そしてまた、土曜日1日休んで、日曜日から木曜日まで上京です。3度目の二輪車研修と、第2回原爆展の参加のため、任地での活動をお休みしての首都滞在。また毎日外食か~~~まいったな~~~。限られた回数のご飯、どこで食べようか計画を練りたいと思います。

 

そんなわけで、任期中2回限定のラオスでの旧正月はビエンチャンで過ごしたわけですが、首都でのラオスの旧正月は、どんちゃん騒ぎが好きな人にはたまらないと思います!お酒飲むのが好きな人、水ぶっかけられるのが好きな人、ぜひ来年の旧正月期間はビエンチャンでお過ごしください💛

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さよならビエンチャン、はじめましてビエンチャン!

 

サバイディー! 

 

首都での語学訓練が終わり、いよいよ任地へとやってきました。

ラオスのラオ子です。

 

同期隊員11人中、わたしが一番最後まで

JICAのドミトリーに残りました。

 

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この見学の最中に旅立った隊員以外は

みんなお見送りできました。

自分が見送られる側だったらたぶん泣いてしまうので

みんな先に行ってくれてよかったです(笑

 

あ、タイトルが少しややこしいのですが、

首都ビエンチャンからお隣のビエンチャン県に移動して

県都の「ビエンカム」というところに赴任しました。

 

ビエンチャンとビエンチャンでややこしいので

首都ではないほうをビエンカム県にすることが

閣議決定したらしいのですが

いつになるかは分からないそうです。

先輩隊員情報。

 

さよならビエンチャン

まずは首都ビエンチャンのこと。

 

首都ビエンチャン、コンパクトで

めっちゃめちゃ住みやすい街でした。

カンボジアに住んでいたときは

1.8ドル均一が出来ただけで

ディズニーランドに行ったぐらいのテンションで

大騒ぎしましたが、

そのダイソーも郊外に1店舗、

研修期間中に近くにもう1店舗できまして、

クイックルワイパーとセスキのシートを大量購入。

ひとまずこれさえあれば

新居の壁と床の拭き掃除は完璧です。

するかどうかは別として。

 

 

Wi-Fiワイワイ(ワイワイ=速い、の意)なカフェも

たくさんあって、

 

 

ラテアートもかわいくて、

プアオーバーで淹れてくれるコーヒーも美味しくて、

 

 

ご飯は安ウマで、

 

交通量多いところでも途切れるの待ってたら

車もバイクも止まってくれたりして。

 

 

メコン川の夕日は綺麗で、

時間も水も流れるのがゆっくりで、

 

 

それでいてメコン川は

夕飯帰りにちょっと話すのにちょうど良くて。

 

下戸な私でも缶1本あけられちゃうビアラオを飲みながら、

楽しかったねー、あっという間だったねー、と

しばしの別れを惜しむのに最高の場所でした。

 

ビエンチャン、めちゃめちゃ好きです。

 

首都まで陸路で2時間弱だったので、

ワイファイワイワイなおしゃカフェに行くことを楽しみに

ビエンチャン県での活動も頑張りたいと思います。

 

ま、公共の交通機関使ったら

そんなにすぐには着かないんですけれども!笑

 

はじめまして、ビエンチャン!

 

 

この地域に協力隊が派遣されるのは

おそらく初めてとのこと。(違ったらすみません!)

確かに1000人も先輩隊員派遣されてるのに

ビエンカムって調べても何も出てこない・・・笑

 

 

ビエンカム郡はビエンチャン県の県都なんですが

想像していたぐらいのほどよい田舎でした。

 

・・・とか余裕ぶってるのもたぶん今だけ、

そのうちチーズ食べたいだのお風呂入りたいだの

わーわー言うことになると思います(笑 

 

 

道中、カウンターパートさんがごちそうしてくれたサトウキビジュース。

まだどんな人かはお互いに分からないところですが、

しばらく滞在するゲストハウス探しにかなり時間をかけてくださり、

あちこち必要なところに連れていってもらったり、

今日は親切にしていただいて本当にありがたかったです。

 

ビエンカムの1枚目の田園風景、実はホテルの裏の景色です。

ホテルの前は幹線道路ですが、

牛も普通に歩いています。

ふんもあちこちに。気を付けないと(笑)

 

日が落ちたら何もすることのなくなった今、

ホテルがワイファイワイワイなのがとにかく救いです。

ネタに尽きない毎日になるか、書くこと無くなって更新が減るか、

まだまだ未知数ですが、

消化できてない首都情報もぼちぼち更新しつつ

ビエンカムの情報を発信していけたらと思っています!

これからもどうぞお付き合いください。

 

隊員・友達リンク集!

www.laoko.net

に投稿 2件のコメント

首都滞在中にアコギを手に入れました。

サバイディー!

こんにちは、ラオスのラオ子です。

明日、というか今日赴任なんですが、

そわそわして全く眠れません・・・。

誰か助けてください。

 

シンとかスアとか、ラオスの正装を買いそろえて

服の用量もかなり増えましたが、

ラオスでの一番大きい買い物は

 

間違いなくコレ。

 

1,150,000KIP、日本円にして15000円弱の

アコースティックギターです。

一応ピックアップとチューナーつきです。

両方とも無くて大丈夫だったのですが、

60万KIPぐらいの一番安いものから弾き始めて

やっと許容範囲に乗っかったのがこの価格でした。

これ以下のものは、買っても弾かなくなりそうな

ざらざらした音だったので全部却下。

2時間ぐらい試奏して、悩みに悩んで、

交渉に交渉を重ねて(笑)、

弦、やっすいシールド、カポ、ソフトケース、

勢いよく擦ったら首が焼けそうなぐらい

端の処理がざらざらのストラップつきで

お値段据え置き1,150,000KIPにしてもらいました。

 

ペグの部分の樹脂がねとねとする。

まあ・・・こんなもんですね。笑

 

 

まだ買って1か月経ってないのに

ピックガード(ただのシール)が

めくれあがってきている。

これもまあ・・・いいです。

これ以上浮いてきたら潔く剥がして捨てます。

 

 

ブリッジピン、なんかヒョコッと浮いてます。

次弦替えるときになんとかなるか。いっか。

 

ギターを買ったわけ。

なぜ活動も始まってないのに

首都でいきなりギターを買ったのかといいますと、

カンボジアで買わなくて一番後悔したのが

ギターだからです。

 

終わりが見えてしまったら買うこともなくなるし、

散財してしまったら買うこともできなくなるし、

買うなら一番最初に買って長く大切に使おうと思い

ラオスにきて1週間で楽器屋さんに直行しました。

 

二本松での70日間の訓練生活を支えてくれたのも音楽。

講堂のグランドピアノと音楽室が私の癒しでした。

無心で指動かしたら疲れが吹っ飛んだし、

途中からはいつのまにか誰かが聴いてくれてたり

曲のリクエストしてくれたりセッションしたり

やっぱり音楽最高だなと。

 

ギターに15000円払って、2年間遊んで、

日割り計算したらだいたい20円弱ぐらいです。

家に帰って電気がなくても遊べます。

それに、ギターがあったら歌が歌えます。

ドミ生活ではルームメイトと好きな曲を口ずさんで

ミニギター教室やって

語学研修期間でトラブルMVP取った同期の

替え歌作って本人の前で披露して、

もう十分にもとは取れました。ありがたや。

 

もしかしたら任地でも誰かとバンドが組めるかも。

それが終わったら誰か他の隊員が使ってくれるかも。

 

もちろん私の本来の要請とは外れるんですが、

芸術って自分自身の心の栄養になるし、

近所の子どもたちと歌でも歌えればいいなーという気持ちで

任地のお供にしようと思います。