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ただいま、ラオス!

ສະບາຍດີ!

みなさんこんにちは、ラオスのラオ子です。3月22日に、荷造りについての思わせぶりな記事を更新してから半年が経ってしまいました。半年というのは、その記事を書いたことすら忘れるのにちょうど良い期間で、つまり私は3月にブログを更新したことすら忘れていたわけですが、なんとなんと、この度わたくし、ラオスに戻ることができました。

 

近況報告するにしても期間が空きすぎていて、何からどういう風に書き出したらスムーズに書けるのか考えているうちに入国時の隔離も終わってしまったわけなんですが、日本に帰ったところからサッとおさらいしておきたいと思います。

 

2020年3月 ラオスから日本へ緊急退避

 
その時に書いた記事がこちらです。「明日の晩の便で帰ります!」と突然連絡が来て、家の荷物も頭の中もまともに整理できないまま帰ったのがもう1年半も前の話になるんですね。ここから今に至るまで、楽しいこともたくさんあったし、活動もいくつかしたんですが、それでもやっぱり私にとっては「空白の期間」です。これはまた別の機会に書きたいと思います。
 

2020年7月、11月 隊員続けるか、待つか、やめるか

緊急帰国した当初は「まあ3か月程度やろ~」とお気軽な気持ちでいたのですが、そこから数か月で世界はこんなことになってしまい、私たちは2020年7月に1度目の選択を迫られました。そして11月末にも、第2回目の選択の時がきました。その選択の内容がどんなだったかは下の記事にありますが、簡潔に言うと、
 
1. 再派遣され次第すぐに行けるように隊員を続けるかわりに、任期が減る
2. 「特別登録」という制度を利用し、一旦隊員をやめるかわりに任期が減らない
3. 完全に隊員をやめる
 
です。私は、7月の段階では1を、11月末に2を選んで、特別登録隊員になって再派遣を待つことになりました。
 
 
その時の葛藤はここに書き溜めてあります。今読み直してしみじみ思うのですが、あえて思ったままの言葉で書くと、病んでますね(笑)
 
そして12月初旬に、それまでキープしてもらっていた任地の家をオンライン引き払いにより手放し、私の荷物は全部隊員ドミトリーに移されることになりました。
 
ちなみにこの年の年越しは、神社で高校生・大学生の奉仕者に混じって縁起物や甘酒を売っていました。高校生のころから、実家に居るときはだいたいお世話になっている神社です。13年ぐらい前に初めて奉仕してから、今年で6回目でしょうか。いつもお世話になっております。
1月1日は大雪。でも、そのせいだとは言い難いお客さんの少なさで、いつもは参道の外までずらーーーっと並ぶ参拝者の列が、今年は1度もできなかったのを見て、ああやっぱり世の中は変わってしまったんだなあと感じました。

2021年2月 仕事開始

私は特別登録隊員になったので、再派遣の目途が立ったら自分で時期を選んで派遣してもらうことができます。10月から11月に行われるハンディクラフトフェスティバルに、あとから来る隊員さんたちと一緒に参加したい!という一番大きな目標を達成すべく(伏線ではない)、後片付け・引継ぎなども含めて12月に帰国することにし、そこから逆算して、再派遣してもらえる派遣日数180日をすべて使って、6月にラオスに行けるように手続きをすすめていきました。
 
そして、そろそろ私の口座が限界を迎え、絞っても雫の1滴すら落ちなくなってきたので(笑)、またドラッグストアで働くことに。大学のころバイト先の先輩に脅されて登録販売者を取ったことを、こんなに感謝する日が来るなんて・・・。
 
大学4年間+カンボジアから戻ってからの2年間(バイト・パート)1社目
協力隊受かってからの1年間(パート) 2社目
2021年2月から(派遣社員) 3社目
 
と、色んな雇用形態で色んなドラッグを渡り歩く謎の人生です。
楽しいし、大好きな仕事です。
 
入社当時は、6月には旅立つ予定でしたが、4月の旧正月の後にラオス国内の陽性者数が増えてしまい、ロックダウンがなかなか解除されず、パスポートが作れない、配属先との手続き、滞在許可や入国許可などの手続きが進められないなど、あらゆる障壁が立ちはだかることとなりました。そして、ロックダウンが解除され、最短でこれらの手続きを進めてもらっているあいだにワクチンを打ち、なんとか出国できたのが9月11日でした。
 

2021年9月 日本→ラオス

パスポートが作れて、配属先との手続きや、日本側・ラオス側のあらゆる許可がもらえたとしても、正直ラオスについてパスポートにハンコを貰うまでは安心できません。クアラルンプール⇔ラオス間は毎日運航されるわけではないので、もし何か起きて乗り継ぎができなかったらクアラルンプールでのリアルターミナルが始まりますし、日本・ラオスでのPCR検査で万が一のことがあったらもう大変です。一緒に渡航する隊員同士も一定の距離を保って、厳戒態勢でラオスに向かいました。

 

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まずは渡航の際の日程から。

 

1日目 実家→成田(PCR検査)
2日目 成田→クアラルンプール(トランジットホテル泊)
3日目 クアラルンプール→ビエンチャン(隔離ホテルへ)
 
前回の渡航では、朝7時に羽田集合で夜にはラオス!というスケジュールでしたが、2泊3日ともなるととても遠くの国に行くような感じがしました。
 
最後の日本メシは、出発当日朝9時、羽田のマクド。他の隊員が「チキンクリスプがうまいっス」と教えてくれて、私はファミチキ的なものが出てくると勘違いして月見バーガーと一緒に注文したのですが、しっかりバンズに挟まれたバーガーが出てきてちょっと動揺しました。朝からバンズ2つはキツかったです。
 
チェックイン時には、陰性証明、ワクチン接種証明、入国許可証など、何種類かの提示が求められました。ちゃんと全部印刷してきたかここで突然不安になり始めるのは、ちゃんと準備できてなかった証拠ですね。
 

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そして横1列誰も座っていないガラガラのANAで、台風14号に軽くご挨拶しながらクアラルンプールに到着しました。ここでは入国せずに、トランジットホテルに1泊して翌日のフライトでビエンチャンに行くことになります。

 

飛行機降りたところに「ビエンチャン行き」のボードを持った方が待っていてくれたのに、「あれって今日のトランジットの人ってことかなー?」という感じで全員スルーしてしまいました。その後、どうしていいか分からなくなってうろうろしていたところにこのスタッフさんが話しかけてくれてようやく手続きがすすめられました。(お兄さんごめん)チェックインカウンターでも、成田と同じように何種類かの書類の提示が必要で、手続きにも結構時間がかかりました。

 

 クアラルンプールに来て驚いたのですが・・・本当に人が居ない!免税店も閉まりまくっている!スタバに行ってマレーシア限定グッズ買いたかったのに、もちろん閉まっている!レストランは数店舗あいていましたが、検温、記名、ワクチン接種証明書の提示が義務付けられていて、そう思うと成田空港はゆるかったなあと思いました。

 

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そしていよいよラオスへ。隣の席こそ誰も乗らなかったものの、成田ーKL便より混んでいたので、二重マスク、消毒しまくり、トイレはなるべく使わない、の厳戒態勢で爆睡しました。

 

そしてラオス到着後は、空港内に設営された会場にて、流れるように2回目のPCR検査。感傷に浸るまもなくブースの椅子に案内され、口腔内を綿棒でゴシゴシ。「はぁ終わった・・・」と思ったら「上向いて!次は鼻ね」と指示され、成田のときの優しい検査とは比にならない痛さに何度かえづきながら無事検査を終えました。

 

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そしてついに!この1年半、何度夢に見たかわからないラオスのハンコが!緑のパスポートに押されました!
 
この看板を見て、じわーっと目頭が熱くなりました。ラオス語で書いてあるのはもちろん、「ようこそラオスへ」。その下には、いちばんかっこいい角度のタートルアン。ブッダの遺物が塔内に遺されているといわれている、黄金に輝く仏塔は、国章にも描かれているラオス仏教のメッカ(という言葉をここで使うのは適切かどうか分かりませんが)です。クメール様式の寺院が改修されたものらしく、私がここに来るきっかけをくれたシェムリアップと地続きになっていることを感じられて、ことばにできないパワーを貰える場所でもあります。
 
タートルアン祭 – ラオスのラオ子。(ここに黄金に輝いてる写真のせてます!) 

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ああーこの景色!京都市のみなさん、旧型の市バスはビエンチャンでまだまだ元気に走ってますよー!!

みんなでセルフィする余裕もなく、書類の記入、隔離ホテルまでのバス代の支払いなどの手続き地獄を抜けたあと、隔離者用のバスでそのままホテルに向かい、「14日後ね~」とあいさつして各々の部屋へ。
そこからの14日間、会うのは検温に来てくれるホテルのスタッフだけ。食事は毎食、廊下のテーブルに置かれ、アメニティの受け取りやランドリーの受け渡しもそのテーブルで行うので、人と接触する機会はほぼありません。ときおり届くありがたい差し入れも、フロントスタッフが受け取って、それを部屋まで持ってきてくれるし(差し入れ頂いた方々、その節は本当にありがとうございました)、ホテルのご飯に飽きて時折頼んだフードパンダも同様に、金銭授受も含めてすべてホテルのスタッフがやってくれます。

 

突然のクラスター

この隔離期間中に、「絶望」というちょっとばかり強めの言葉がぴったりなクラスターが起きてしまいました。市内の縫製工場で200人を超える大規模なクラスター、それに続く感染拡大を受けて、ビエンチャン市は即座にロックダウン。すぐに緩和されましたが、一時は「スーパー、小売店などもすべて営業停止」というかなり厳格なロックダウンでした。あちこちに検問が設置され、県境も封鎖。

 

発令されたときは「9月30日まで」という期限つきでしたが、私は26日に隔離が終わって29日に赴任するはずだったので、この時点で1日のロスになります。日に日に膨らんでいく感染者数、日に日に増えていくレッドゾーン、どの情報も精神衛生上良いものではありませんでした。

 

オンラインでの赴任後ブリーフィングや面談で人と話す機会はあるにしても、ごく短時間の事務的なもの。隔離中で誰とも話せないことや、ここまで来ても何もできないのかという悔しさ、もしかしたら私はビエンチャン県に赴任できないまま任期を終えるのではないかという絶望感、もしロックダウンしたら私は首都のホテルで2か月も何をすればいいんだという焦り、色んなことが頭の中を回って、ものすごく無気力になっていました。

 

そんな中、2週間の生活のリズムを保てたのは、ラオ語のオンライン授業を毎日受けられたからでした。隔離序盤は予約やシステムの関係で受けられなかったのですが、途中から受けられるだけ受けて、時間でいうと31コマ(15.5時間)をオンライン授業にあてました。授業時間だけでいうとたいしたことありませんが、要領が悪いので予習にも復習にも倍以上の時間がかかります。ラオ語に熱中している間は、時間が経つことを肯定的に考えられたというか、自分が正く過ごせていることに安心できるというか、とにかく隔離期間中の精神安定剤になりました。なにより、日本にいるラオ人の先生、ラオスに居るラオ人の先生の二人から授業を受けられたので、色々な情報も得られたし、生活面でのtipsもあれこれ教えてもらえたし、単にラオ語の語学力が鍛えられるだけではなく、それ以上の生きた情報も得られました。先生がたはもう何年も二本松訓練所でラオ語を教えておられるので、私たちがおかれた状況での悔しさも、ラオ語の読み書きが全くできない状態で入所してからの成長も、全部理解してくれます。それゆえの優しさも気遣いも全部ありがたかったし、たとえオンラインであっても、先生たちと過ごした時間に支えられて、14日間の隔離を終えたと思っています。

 

隔離終了後

を書こうと思ったのですが、長くなってしまうので一旦ここで終わりたいと思います。まだまだ何がどうなるかわからない隊員生活ですが、フードパンダで美味しいものを食べながら、少しでも楽しい事を考えながら、自分をわくわくさせながら、任地に行けるのを待ちたいと思います。

 

ではまた次回!そーくでぃーどぅー!

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宇宙よりも遠い場所

さばいでぃー!

 

みなさん、こんにちは。この感じで文章書くのが久しぶりすぎてちょっと照れてます、そして久しぶりすぎて私のことをお忘れの方もいらっしゃると思うのであらためて、2018年度3次隊(ラオス/コミュニティ開発)のラオ子です。

 

 

今日は、ちょっと赤裸々めに書きます。うじうじ、めそめそしたことも書きます。そういうのが見たくない方はここでそっと閉じるボタンを押して幸せに生きていってください。

 

8か月間ずっとぴえんしていました。

 

このブログで最後にラオ語読み書き講座を更新したのが、なんとなんと170日以上前という事実に白目を剥いてます。あのころのnoteやはてなブログの下書きを見て、自分でこんなことを公言してしまうのはどうかと思うんですが、相当に沈んでいたと思います。

 

退避当初は、まだ気持ちは任国に置いてきたままみたいになっていて、日本に居る自分を受け入れられていないというか、理解できていないというか、ちょっとしたプチ帰国みたいな気持ちでいました。そこから時間が経つにつれて、ことあるごとに、ちっちゃい波のように「帰りたい」という気持ちが押し寄せてくるようになりました。

 

私は帰国後、滋賀の実家に戻りました。もし何かあったらすぐに実家を特定されるような場所では、家から出て気晴らしをすることも、誰かに会って話をすることもできません。スマホの狭い世界のなかで、世界中の状況がどんどん悪化していく様子を他人事のように眺めるだけの日々、自分が日本に帰ってきた実感もうまく持てないまま、つまり現実を受け止められていないまま過ごしていると、帰国後すぐのうちは細切れに消化できていた気持ちが、溜まって溜まって、ふとした瞬間に爆発するのです。

 

皆さんは、マンゴーのタルトを口に含んだだけで泣き出すアラサーを見た事ありますか?四谷怪談級のおぞましい光景だと思うんですけど、これは紛れもない実話であり、そして他の誰でもない、私のことです。私の中のキャパは、表面張力でぎりぎり頑張っているコップにいっぱいの水のような、もうこれ以上吸いきれん!!ってぐらいにお出汁を吸ったひたひたのおあげさんのような、そんな感じでした。ちょっとでも何かしらの刺激が加わったらもう終わり。季節が変わったのを感じるだけで、お寺の仏旗を見るだけで、スケジュール帳に書かれた叶うことのない予定を見るだけで、心がぐらぐらになります。生産者さんや配属先の人たちとやりとりするたびに、恋しいよ、早く帰ってきて、って言ってくれるんですが、そのメッセージを見るだけで、1日中うなだれていたような日もありました。

 

 

そんなこともありまして、たまたま連絡とりあった、こちらの温度感が伝わっていない人に「まー、もう帰れないでしょ!」というような内容のことや、あんなことこんなことを言われるたびに、落ちて落ちてしかたがない毎日でした。いや、もしかしたら現在進行形かもしれん。

 

本人に何の悪気もないことぐらい分かっているんですが、「協力隊のこととか、私の心境とか何も知らへんくせに、外野でもないぐらいの外側からやいやいうるさいわ!分かってくれんでええからそっとしといてえや!!」って吠えたくなる言葉にもたくさんぶつかりました。「ラオス近いし、また数年したら行けるようになるよ」って言葉ですら、だめなときがありました。私は、隊員として、ラオスに、戻りたいんだよね。って心の中で思いながら、「せやな。」って言うだけ。たいした大きさでもないはずの棘が胸に刺さっていつまでも抜けず、じゅくじゅくに膿んでいく感じがします。きっと私を嫌な気持ちにさせるつもりで言ったんじゃないって分かってても、悪意も他意もないんだからと思っても、それでも被害者で居たい自分の余裕のなさにまた苛立ったりもしました。

 

つまり私は、ガソリンよりもよく引火し、黄リンよりも低い温度で発火し、そして山本元柳斎重國の斬魄刀ぐらいの威力を持った、大変扱いづらい危険物と成り果てております。直接噛みついて何かいうような体力は無く、この人に分かってもらいたい!というパワーもなく、「ああ、さようなら。」と心の中で閉店ガラガラして、その扉の内側でグレート・ムタばりの毒霧を吐いて自滅してしまったのです。

  

 

そうだ!こんな気持ちこそアウトプットしよう!!と思ったこともありますが、何を書いても最後には「ラオス帰りたい」ってじめじめした文章になってしまって、その下書きを読み直すのもまたしんどくて、それでnoteやブログみたいに書くのに体力つかうコンテンツからもついつい遠ざかっていました。(読み書き講座できてないのは単純にわたしのやる気がぷつんと途切れてしまったからです。陳謝。)

 

「やりたいこと」が、日を追うごとに「やりたかったこと」「できなかったこと」に変わり、未消化のまま自分の中に溜まっていくのって、こんなに辛いことなんだなって、今回初めて知りました。何もすすんでいないし、何もできていないのに、隊員としての時間だけが毎日確実に減っていく感覚。資料づくりで活動写真見返しただけで涙が出てしまうぐらい、亡きじいちゃんの最後の1本の歯に負けないぐらいぐらぐらになった自分には、あまりにも辛い日々です。日本に帰ってきてすぐは、ご飯も美味しいし、朝いちの虫履き(掃き掃除)もいらないし、毎日あったかいお風呂に入れるし、そこそこテンションあがっていたはずだったのに、それがだんだん当たり前になるにつれて、自分の中で処理しきれていない気持ちに気づいてしまったんですよね。

 

つまり、分かりやすく言うと、私はラオスから帰ってきた現実を受け止めて、相当”ぴえん”してしまったのです。

 

3つの道

 

さて、そんななか、7月はじめに、協力隊員は大きな選択をしなけらばなりませんでした。わたしたちに用意された選択肢は次の3つ。 

 

①待機延長

国内でも協力隊として活動する、というスタンス。任期は変わらず、日本で待機した分だけ現地で活動できる日数が減る。日本国内では、自己研鑽、国内での社会貢献活動、任国・任地に向けての活動に取り組む。

 

②特別登録

一旦合意書を解除するかわりに、残り任期が減らないまま待機することができる。3年のあいだに渡航再開されたら、本人の都合を考慮しつつ派遣時期を決めて、活動を再開する。

 

③辞退

読んで字のごとく。

 

というわけで、わたしはこの中で迷うことなく①待機延長を選択して、7月から11月までは割と腹をくくって活動に専念しました。

 

まず一つ目の『自己研鑽』は、ずばり語学の勉強。JICAが提供してくれているマンツーマンのオンライン語学レッスンをひたすら受けまくります。最初は用意されたテキストに沿ってやっていたのですが、最近は配属先に向けた活動報告書の作成を手伝ってもらっていて、自分が書いた文章に対してネイティブチェックと解説をひたすらしてもらっています。これが本当にありがたい。ライティングってめちゃめちゃ大切だけど、答え合わせをしてもらえる機会ってそう多くありません。だから、誰が読むねんっていうぐらいのボリュームの超大作を完全自己満足で書いて、チェックしてもらって、また書いて、またチェックして・・・ってずっと繰り返して、ラオ語のライティングの勉強中です。先生いつもありがとうございます。

 

なお他の言語ですが、英語は1日30分のオンライン授業を受けていて、先生に「愛嬌とボディーランゲージはパーフェクトだけど語彙がまじでヤバい」と言われて凹んでやめました。タイ語とカンボジア語は、いつかできるようになることを夢見て積読中。東南アジアを攻める姿勢。

 

2つ目の『国内での活動』ですが、行政が用意している多言語対応の生活相談窓口の普及活動をはじめ、定額給付金・各種助成金の案内や申請補助、近隣の外国人経営の店舗の巡回などを行っています。

www.youtube.com

って文字で書くよりこちらを見ていただいたほうが早いので。誰よりもカタコトのニホンゴで話す私をご覧ください・・・。

 

そして3つ目の『任国へ向けての活動』は、ずばり10月に大阪府堺市で行った『”ら”おす ”お”おさか ”す”っきゃねん展』です。この名前つけてくれた19-3次隊のDさん天才やと思ってます。この話は長くなるので、またいつか別の機会に書きたいと思います。否、書けたら書くわ。(ホンマか?)

 

2度目の選択

そしてこの11月、また同じような選択をしなければなりませんでした。7月と状況が違ったのは、私の任期がそろそろ終わりそうだということです。

 

①の待機延長のままにしたとすると、もしも派遣再開してラオスに戻れたとしても1月末にはまた日本に帰らなければなりません。現地での隔離や、もとの生活を送るための基盤を作ったころには、任期満了です。

 

②の特別登録に移行すると、配属先との相談のもと任期を少し伸ばすことができます。ただ、いつ帰れるか分からないという状況のなか待ち続けることは精神的にも経済的にも不安です。

 

特別登録に移行しても、ぜったいに行けるとは限らない。自分のなかでのリミットは来年中だから、それはブレずにけじめをつけたい。

 

最終的に私は、悩みに悩んだ末、②の特別登録を選びました。1日でも長く任地に居られる方法があるのならば、それまで日本でできることをやって、自分のなかでできるだけ良い終わり方をしたい。そのためにやれることを、日本での待期期間も含めて、やれるだけやりたい。そう思って、向こうに戻ったらやりたいことを書けるだけ書き尽くしたころ、万年筆のカートリッジが1本空になって、その勢いでアンケートフォームの登録ボタンを押しました。それからしばらく寝れませんでしたが、悩んで悩んで自分で答えを出したことだし、他の誰でもない自分のために決めたことなので、やり切って、楽しみ切って、次につながる何かを見つけたいと思います。

 

 

進学や就職で進んだ隊員のみんなを見ていると、自分がこのままで居ていいのか不安になるときもありますし、待機延長を選んでけじめをつけ、次にやることを決めている日隊員のことも本当にかっこいいと思います。でも、この選択肢はどれが正解でどれが間違いということではなく、いつ戻れるかわからない状況で待機延長を選んで、日々やれることをやるのも、特別登録や辞退を選んで、できることの幅を広げるにしても、とにかく、それが自分にとっての間違いや後悔にならないようにやっていくことが大切で、みんなそうしてどれかを選んだんじゃないかと思ってます。だからたまに連絡とりあって近況を聞くたびに、面白いし、尊敬できるし、元気ももらえるし。これからもまだまだよろしくね。

 

そんなわけで、私も一旦協力隊員ではなくなりますが、任地に戻り、ゴールできた報告をここでできる日まで、このブログとnoteもぼちぼち再開していこうと思います。引き続き、よろしくおねがいいたします。

 

ちなみに

このブログのタイトルですが、アマプラで見て大号泣したアニメのタイトルからそのままいただきました。高校生が南極に行く話です。ぜひご覧ください。

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天然染色体験@ボリカムサイ県子ども文化センター

さばいでぃー!

クリスマスも終わって、日本の皆さんは、新しい1年を迎える準備をせわしなくされている頃かと思います。旧正月(4月中旬)に重きを置くラオス文化の中では、1月1日のInternational New Yearにはそれほど大きな役割は無いように感じます。

 

私はといいますと、任国外旅行という制度を利用して、カンボジアの元住んでいた地域にプチ里帰り、そしてバンコクへ・・・と、ちょっとした正月休暇を楽しんでくる予定でおります。楽しみです。

 

 

www.laoko.net

 

 

前回の記事で、12月あたりからばたばたと忙しかったと書きました。そのラストとなったのが、今回の「天然染色体験」です。私が直接オーガナイズしたわけではなく、同期隊員・同職種先輩隊員の活動の見学とほんの少しお手伝い、ということで行ってきました!

 

ボリカムサイ県、どこ

 

ボリカムサイ県は、パークサン郡に県都を置く、ビエンチャン市の東がわの県です。ちなみに県の南部はメコン川に沿ってタイと、県の東部はベトナムと面していて、地図を縮小していただくと分かるのですが、メコン川沿い以外は果てしなく山です。

 

 

行きのバスは、大型観光バスぐらいのサイズのバスで、クーラーも効きすぎず、大変快適でした。

 

・・・近くに居た小さな男の子がふんばってしまったあたりから車内の空気が(物理的に)一変しましたが。

 

私の任地からビエンチャン市の南バスターミナルまでは、乗り合いタクシーで1時間半から2時間半ほど。途中でお客さんや荷物を拾う約束をしていたり、乗客が少ないので途中で待ったりするドライバーに当たると、そこそこ時間がかかります。

 

南バスターミナルでボリカムサイ県の県都パクサン行きのバスに乗り換えますが、今回私が乘ったのはサワンナケートという更に南部まで行くバスでした。パクセ―行きやアタプー行きも結局同じ道を通るので、パクサンに行きたいということだけ伝えたらちゃんと案内してくれます。

 

www.trekkingcentrallaos.com

 

ボリカムサイへの道中、左手にはずっとプーカオクワイ(牛の角の山)という山が見えます。ビエンチャン市、ビエンチャン県、ボリカムサイ県の3県にまたがる大きな山で、ラオスに約20ある国立公園のうちのひとつとして、主にヨーロッパ諸国によってエコツーリズムの開発や周辺地域コミュニティの開発援助が行われています。

 

 

パクサンのバス乗り場は、街で一番大きな市場に併設しています。というか、全焼した市場のがれきが綺麗さっぱり撤去され新しいバス乗り場になったのがつい1、2カ月前の話。

 

ビエンチャンの南バスターミナルからパクサンのバス乗り場まで、途中で人を拾ったりトイレ休憩をはさんだりしながら、だいたい3時間ほどで到着しました。

 

はじめまして、ボリカムサイ県!

 

子ども文化センター 

 

ラオス国内の各県にある「子ども文化センター」は、ラオ語では「ສູນວັດທະນະທຳເດັກ(スン=センター、 ワッタナタム=文化 デック=子ども)」と言います。話すときは長いのでそれぞれの頭文字を取って「ສວດ(そーうぉーどー)」と略すこともあります。

 

www.laoko.net

 

ラオスでは現在、私の同期隊員3名が各地の子ども文化センターに派遣されており、見学させてもらうのはこれで2か所目です。 

 

www.laoko.net

 

今回は、ボリカムサイ県子ども文化センターに配属されている同期と、私と同職種でボリカムサイ県産業商業局に配属されている先輩隊員の コラボ企画ということで、子ども文化センターの子どもたちの天然染色体験を見学させてもらいました。

 

天然染色体験当日

この日の主役が実はもう一人。それは、コミュニティ開発隊員の先輩と仲良しの生産者さん。うあいチャップ(チャップお姉さん)という、県都からベトナムへの幹線道路沿いにあるLAK20からこの日の為にやってきてくれました。先ほど貼り付けたブログ記事、Handicraft Festivalのときに私たちのブースの裏に出店されていて、9日間のHCF期間とてもとてもお世話になった方です。

 

さて、まずはウアイチャップと先輩隊員が、スライドを使って子どもたちに「ボリカムサイ県の伝統工芸」について説明。ボリカムサイ県にはどんな特産品があるのか、天然染色とは何か、どのようにするのか等、子どもたちは皆真剣に聞いていました。

 

 

お話の後は、実際に染色につかう液を作っていきます。

 

これは錆びた釘と酢を煮ているところ。これを濾したら、「鉄媒染液」というものができあがります。染料の発色を高めたり、色落ちを防止したりする効果があります。ミョウバンと同じような役割ですね。

 

 

この日うあいが用意してくれた材料は、ウコン(ターメリック)、花梨の木の幹、ドークガラオの3つ。ウコンは黄色、花梨は鳶色のようなあずき色のような、そしてドークガラオは淡い黒の染料になります。

 

「ドークガラオ」ですが、Googleで画像検索したところ、おそらく百日紅かそれに似た植物のような気がします。

 

 

花梨とドークガラオはそのまま木の幹を煮出して、ターメリックは丁寧に皮を取り除いたあと輪切りにしていきます。

 

洗うのを手伝ってくれた皆も、この量をひたすら切ってくれた先生も、手が真っ黄色!ちょっとお腹がすくようなスパイシーな香りが漂います。

 

 

そしてそれらを水と共に火にかけ、時間をかけて煮出していきます。

 

最初に用意されていた七輪では火が弱かったようで・・・

 

 

そこらに転がっていた瓦礫を積んで即席の釜ができあがりました。火も炭ではなく、生木をくべて火力をあげました。子どもも火の調節を自然に手伝ってくれて、ラオスの人たちの小慣れ感に拍手。

 

その後、七輪に残った火で私たちのお昼ご飯ができあがりました。心から、拍手。

 

 

ただ真っ白な布を染めるだけでは面白くない!というわけで、輪ゴムでくくって、模様をつけます。

 

みんな思い思いに括ったら、衣類用の洗剤を溶いた水に浸して色が入りやすいようにしておきます。

 

 

しばらく経ったら、ゴムで括ったまま流水でよく洗って、天日に干します。

 

その後は、各々好きな色の鍋に浸して真っ白な布に色を入れ、明礬水ですすいで色を定着させます。

 

 

下の写真、左から順に、ドークガラオ、花梨、そしてターメリック。どれも、やさしくて、あたたかい色。私はこの花梨の色を勝手に「シーウアイチャップ(うあいチャップの色)」って呼んでました。

 

私も何度か染めてみましたが、ただ1回どぼんと漬けると淡くて優しいピンク、漬けては空気にあて、を何度も何度も繰り返すうちに、深みのあるあたたかな茶色に色を変えていきました。おもしろい。

 

その後、絣と同じように、括っては染め、括っては染め、白・黄色・茶色・黒の4色の布を作って遊びました。好奇心旺盛な子どもたち、私の真似をしたり、括った一部だけを染めて、染まっていない部分は別の染料につけて、みんな思い思いの色に染めて遊んでいました。

 

 

白シャツ持ってきて染めてもらったらよかったな~と皆で話していたときに、あっ!と思い出しました。私のカバンの中に、ハンディクラフトフェスのときにウドムサイの生産者さんからいただいたコットンのハンカチがあることに。

 

迷わず、花梨の染料にドボン。

 

 

そしてー・・・こうなりました。

 

ウドムサイ県とボリカムサイ県のコラボレーション。素敵な色に染まって満足です。

 

note.com

 

先日帰国された先輩隊員は、ひとりで何かするよりも個々の強みを活かして大きなことをやる、という事を有言実行されていた方だったのですが、まさにこういう活動がそれなのだろうなあと思いました。

 

任地に居るとどうしても生活することがメインになってしまって、大きく何かを動かすことができない。そのことに対してのフラストレーションは正直、とても大きいです。私もチャンスを作って、誰かと掛け算で活動していきたいな。

 

ボリカム、いいとこ!

 

ボリカムサイ、観光都市でも商業都市でもないけれど、ビエンチャンと、ラオス南部・ベトナムを結ぶ幹線道路沿いに栄えつつある「ラオ人のための街」という感じがしてとても落ち着く場所でした。

 

 

雄大なメコン川の流れを、ぼーーーーんやり見ながら、良い活動だったね、また来たいなぁー、次はうあいチャップを訪ねてLak20に行こうよ、なんて話す時間もまた、良い旅の思い出になりました。

 

 

そして帰りは、この街発ビエンチャン市着のバスに乗って、また来た道を3時間ほどがたがた。このサイズのバスだと3万KIPで行けます。ラオス、陸路が鬼安い・・・(ただし安全とは言っていない)

 

 

ドアも窓も全開のオープンエアー式で、風にあたり続けてそこそこ疲れましたが、ボリカムサイはまた是非訪れたい場所のひとつになりました。

 

2年かけて生産者さんと素敵な関係を築いた先輩隊員、子どもたちと自然体で遊ぶ同期の普段の姿が見られて本当に良かったです。

 

皆ありがとう☺

 

追記:同期隊員がブログはじめました!!

bolisuke.hatenablog.com

 

CCCで活動する同期隊員がブログをはじめました!!仲間が増えて嬉しい!

 

ラオスのラオ子と、ボリカムサイのボリすけで頑張ります!!

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商品開発第1弾『クラッチバッグ』のあれこれ。

さばいでぃー!

最近ずっと旅行のことばっかりで、活動について何も発信していませんでしたが、やっと一つ大きく動かせました。今日はその事について書いていきたいと思います。

 

 

ほんとはオークパンサーの事とか書きたかったんですけど、発信できるような情報量にならなかったので語学の鍛錬を積んで来年再チャレンジしたいと思います(笑)

 

「何を」作るか

日本では商品を売る立場で仕事をしてきて、目の前のものをお客様にどうやって販売するか、ということはたくさん考えてきましたが、商品開発に携わったのはカンボジアでの2年だけ。でもその間にお客様や会社から教わった事はとても多くて、今の私ではまだ全然消化しきれないような事ばかりです。

 

ラオスに来てからは、どこへ行ってもお土産屋さんを巡り、店内の商品を穴があくほど観察しました。「これだったらお金を出してでも買いたい」と、「私だったら買わないなぁ」は、ただ作って終わりにしないための、お客さん第1号となる自分の一番大切な声です。来た当初は殆どのものを見て後者だったのに、自分がものの無い環境に居るとハードルが低くなるのかなんなのか、あれも欲しいこれも欲しい、そして安いと思っていたものも「高い」と思うようになり、ターゲットとなるひと、もの、こと、それを判断していく自分をどこに置くかは難しいと感じています。

 

私には、表現者や作家として、それ自体に絶対的な価値を与えるようなものづくりができるような才能も知識もありません。デザインや縫製は私が教えてもらいたいぐらいだし、染色や織りについては、教えてもらうことすら大丈夫です、という感じです。布のことはどんどん好きになっていくけど、技術の面では全く明るくないのです。だから、そういうことは今まで何十年もやってきている村の人たちに任せることにしました。

 

だからこそ、「自分が使う側だったら」を考えて、何が欲しいか、どんなものだったら買いたいか、どんな人に贈りたいか、どんな物を貰ったら嬉しいか、たくさんシミュレーション。

 

そして「自分が売る側だったら」も考えて、どんな商品だったら、どんな価格だったら、どんな性質のものだったら、運びやすく、海外にも送りやすいか。そして、売りたい対象に、どんな風に説明できるものが売りやすいかも、考えて考えて、考えまくりました。

 

他方、生産者さんたちと関わるなかで、自分に手伝えることは何か、どんな商品作りの方法がこの村・この生産グループに合っているかというのも、単に「売れるモノをつくりたい」のとは違う、ODOP(一村一品)や地場産業そのものの発展のために、明確にしておくべき事項のひとつだと痛感したのです。

 

その中で、自分自身が感じた「あったらいいな」は次の3つでした。

 

ユニセックスな小物

圧倒的に足りないのはコレだと思いました。

 

ラオスの小物はどれも可愛い。アジアン雑貨好きの女子には間違いなくウケる。見てください、ウケすぎた結果の私の棚です。

 

ラオス小物でない貰い物が混ざってますが、それもあいまってカオス状態。

 

けれど、男性に贈るとなるとちょっと違う。可愛い刺繍、華やかな織り、意味の分からないぬいぐるみ、ピアス、ポーチ。私にとってはどれも宝物ですが、男性に贈るとなるとどれもピンとこない。男性向けのお土産もありますが、名刺入れやネクタイ、可愛いけれど、ビジネスユースには向かない。

 

それで思いついたのが、今回つくったクラッチバッグでした。クラッチバッグといっても、それだけを持ち歩くような類のものではなく、タブレットや書類、ステーショナリーなどをがさっと入れられるようなもの。これなら、布で、いける!

 

かさばらず、壊れない

ものの性質上、竹細工を外さざるをえず、まだまだ私のアイデア不足なのですが、布×竹は難しいし、竹オンリーになると更に難しい問題です。日本やタイの竹細工を見てしまうと、「私が旅行者だったらわざわざラオスで竹細工の既製品や竹かごのバッグを買うかなあ・・・。」と、現時点で自分の「ほしい」に繋げられません。(誰かアイデアくださーい!笑)

 

 

クラッチバッグはぺったんこ。バックパック背負って旅する人でも、安心して買えて、がさっとザックにつっこんでいけるもの。そんなイメージから、やっぱり竹は一旦おいといて布だけで商品を作ろうという考えに至りました。ただ、ビエンチャン県のODOPの生産者さんは竹細工だけで3グループ。いつか何か一緒にやりたいとはずっと思っています。・・・といいつつ現在、竹製のランチョンマットに自然のニスでコーティングしたものを作成依頼中。こちらも楽しみなんです。

 

さらに、日本からのEMSになにやらガムテープがしてあると思ったら、箱に穴を開けて中身を根こそぎ食わたところをしれっと隠蔽される、という途上国ならでは(?)の郵便事情を鑑みて、壊れやすくトラブルにつながりやすいものは極力避けたいと思いました。

 

村の伝統をデザインに

 

この村の生産者さんともそろそろ半年のお付き合い。村の伝統を、どうにかなんとかしたいという熱い気持ちをずっとそばで見てきました。お母さん(村の生産グループのリーダー)が一番大切にしたいという柄の布は、東南アジアに肥沃な大地をもたらすメコン川流域の「ナーガ信仰」からインスピレーションを受けたもの。

 

 

他にも、この村にしかない絣の模様や、バンビエンの紙布など、お母さんがかたちにしたい材料は山ほどありました。そしてお店には、以前訪れたメット郡のティンシン(裾布)の在庫もあり、うまく商品が売れれば、距離的に遠すぎて直接的な支援を諦めているメット郡とも連携していける。

 

www.laoko.net

 

そんなこんなで、ひとつの規格、製品を色んな布で使いまわせることも重要な条件のひとつとして考え、今回の商品開発に至りました。

 

縫製は、縫製が得意な人に

 

うちの生産者さんには、縫製が得意な人はいません。織りのプロばかりです。自分が作り方を覚えて誰かに教えて、作ってもらう・・・というのも考えましたが、それではあまりに遠回りで、きっと完成までにも時間がかかるし、品質を保つのにも相当の練習が要るだろうと思いました。

 

というわけで、お母さんの顔の広さと首都が近いという利点を大いに利用して、縫製は縫製のプロに任せることにしました。

 

完成まで何度かお願いしないといけないかなあ・・・と思いましたが、いっぱつでそれなりに良いものを仕上げてくれたので、任せて正解だったと思いました。

 

たくさん売れたら、良いミシン買って、良い縫子さん雇って、それで自社生産しようね。

 

お母さんの顔が光り輝いた

できあがった商品を見てすぐ、嬉々としてFBやTwitterにアップしました。

 

これは可愛いもんが出来上がったぞ、と。

 

 

「欲しい!」の声をたくさん頂いて、私はまた嬉しくなりました。男性からも要望をいただいて、「やった!!!!」とガッツポーズ。私自身、今はマネタイズできない立場ですし、『売れること(=お金が動くこと)』自体が嬉しいという感覚ではありません。どちらかといえば、自分たちが作ったものを通じてラオスのてしごとを発信できる事に対するものというか、私が志望理由書に書いた2年間の活動のテーマ「ラオスを世界へ」の第1歩を踏み出せるような気がする、そんな気持ちから湧いてくる嬉しさです。(今思ったらでかいこと書いたなぁオイ・・・。)

 

さらに、その中には「日本で置いてもらえる先があるので10個ほしい」というオーダーまで。ああ、ありがたや。皆さん本当にありがとうございます。同じ布で同じものを作り続けるのが難しい場所で、どんな風に今後売っていくかというのは大きな課題ですが、大量生産とは違う一点ものに「出会う」ことも含めて楽しんでいただけたらなあ・・・と思いながら、ここ最近で一番良質な睡眠を得ました。(笑)

 

翌日、朝いちばんに生産者さんのところを訪れて、追加のオーダーをお願いしてきました。

 

「お母さん、10個日本に送ってほしいって!ほかにも欲しいって言ってくれてる人が居るから、オーダーお願いできる?」

 

と私が伝えたときの彼女の眼の輝きは、今まで見た事がないものでした。JETROのカタログにも載り、日本国内でのギフトショーに出展したこともありますが、それでもお客さんを見つけるというのは簡単なことではありません。せめて誰か、日本語や英語でのやりとりができれば、と思いますが、この会社はそこまでにはまだ至っていません。「自分がここに居る間しかできないことをやるのは違う!」と、来た時は頑固おやじのように思っていましたが、自分が発信源になることで、ラオスのてしごとがここから広がっていくのであれば、この街に「外国人として」存在する意味になるのかなあと感じました。

 

お母さんは「売れたお金でミシン買ってうちで生産したいね!!」と言いましたが、「これ(首都でプロに縫ってもらったもの)と同じ品質じゃないと売れないよ!それは、ずっと先の話ね!モノ買うより先にトレーニングね!」と私もそこは譲らず。日本をはじめとする諸外国で研修を受けてきた彼女はすぐに納得してくれました。

 

こんなデザインも可愛いね、この布も使えないかな、なんて、今まで何にも加工されず眠っていた素敵な布がどんどん押し寄せてきて、それを「可愛いね」「いやコレは無いわ」と皆であれこれ話し合い、手引きのコットンを使った藍染の布や、この村の絣を使った、新しいデザインのポーチをまたいくつかお願いすることにしました。

 

合言葉は「ワイケーケー!」

使い心地も重視したいし、くたくたになるまで長く使ってもらいたい。だからこそ今こそ私たちに必要なのは日本の技術の結晶、それこそが富山が誇る日本の宝「YKK」のジップです。私が来るまでYKKを知らなかったお母さん、手工芸協会ネットワークで取り扱い元があっさり見つかり、すぐにワイケーケーを取り入れることになりました。

 

お隣ベトナムに工場がありますが、ラオス国内で使われているのを見ることは殆どありません。市内のお土産やさんですらほんの僅か。お母さん、時代はワイケーケーだよ、縫製技術とワイケーケーがあれば、クンナパープ(品質)ディー(良い)だよ。

 

「安かれ悪かれ」で薄利多売したくない。だからこそ原価を上げてでも「ໄວເກເກ」!このジップのことだけじゃなくて、それをアファメーションみたいに思って、「通常の10倍の価格のするジップをつける意味のあるもの」を作っていきたい。(これだと商品がYKKのバーターみたいだけど、それも、まあ、そうなの。)

 

早く売りたい

ただいま追加でオーダー中。デザイン、種類ともに、ちょっと増やしてみます。

 

大きさは以下の2種類。

 

1.A5が入るサイズ

 

2.A4の紙、タブレット・PCなどが入るサイズ

 

厚さは2種類。

 

1.布に裏地をあてただけのもの(本・ステーショナリー向け)

  B5ぴったりサイズ

 

2.布と裏地の間にスポンジを入れたもの(タブレット・PC向け)

 

柄は無限大。

 

1.紙布帯×コットン

 

 

2.ナーガ裾布×絣

 

 

3.ナーガ裾布×コットン

 

 

4.メット郡の裾布×絣

 

(これから首都に送って縫製してもらいます!!)

 

などなど…

 

各種類、色みも色々増えていく予定です!!

 

お楽しみに。

 

まだまだこれから。

https://www.instagram.com/p/B29lM5JpHFU/

#sunset#luangprabang #mekongriver

 

1年で自分が残せたものなんて本当に何もなくて、内容ぺらんぺらんの活動報告書や月イチで出してる配属先への報告書と、世界中で活躍する同期隊員や同国の先輩・後輩隊員の発信を見て、はぁぁああああああ・・・とため息つく日々ですが、

 

私、じぶんでFBで言ってました。

 

1年目でびたびたになるまで吸収して、

2年目でカスカスになるまで出し尽くして帰るぞ。

 

って。

 

だから、まだいいんや。焦ったらアカン。私は無給の活動やけど、相手は生活のかかった生産者さん。遊びじゃない。

 

と自分に言い聞かせて、頑張ります。

 

欲しい~!と言ってくださった方、本当に励みになってます、ありがとうございます!数が用意できましたらまた情報流していきますので、少々お待ちくださいっ。

 

直近で頑張ること

www.facebook.com

 

ラオスの首都ビエンチャンにて、手工芸品の国内最大規模の展示会が行われます。

 

私たち協力隊も3ブース借りて7県まとめて出店、デザイン隊員も配属先からブースを借りて出店予定です。ボリカムサイ、サイニャブリ、ウドムサイ、カムワン、ルアンパバーン、チャンパサック、ビエンチャン、そしてビエンチャン市のホアイホンセンター。各県から選りすぐった商品の数々、ぜひご覧ください!

 

私の県からは、クラッチバッグを一緒に作っている生産者さんの小物とシン、それから普段お目にかかることの少ない、地図にもちゃんと載ってないメット郡ナポー村、バイクで往復80キロの道のりを自分で選びに行ったポンホーン郡チェンサワン村、それぞれの「めちゃめちゃ綺麗な」布、持っていきます。

 

1年1回の大イベントなので、周辺国からも同期隊員が来てくれることになってます。同じ一村一品やマーケティング関係の隊員なので、情報交換ができるのも楽しみ。

 

日本に居てなかなか来れないという方、金曜日退勤したあとそのまま空港に向かって夜便で飛んで、土曜日の午後ITECCで買い漁って、日曜日の午後便で帰ったら、朝に日本に着いてそのままエクストリーム出社できますよ!!!もしくはバンコクに夜着けたら、寝台列車で寝てる間に国境に到着!あら、なんて簡単なんでしょう!!!

 

全世界からのお越しをお待ちしております!!!

 

ものつくり、たのしい、くるしい、でもやっぱりたのしい

 

 

ひとつ商品作ったぐらいで大げさだな、って思われるかもしれませんが、今の私にとっては大きな一歩。あーでもないこーでもない言って、やっと1本、道が見えてきたような気持ち。

 

デザインから製造、納品・販売までのオペレーション、きっとうまくいかないことも出てきます。でも、技術補完研修で講師の方がおっしゃっていた「コミュニティ開発に必要なのはしつこいぐらいのモニタリング」という言葉をしっかり噛みしめて、日々活動していきたいと思います。

 

調査と販売以外何も報告できていなかった配属先にも、やっとひとつ・・・ドヤ顔で報告できる任地での成果になるかな。

 

 

 

せっかく色んな県に同じ要請の隊員がいるんだから、色んな民族のいろんな布でやっていけたらと思っていて、どう水平展開していくかについても考えていきたい。ひとつのアイテムでSKUを増やしていくことで、手に取って下さる方の「選ぶ楽しさ」に繋げられますし、一つの商品に興味を持ってもらえたら色んな県の布でアソートにして納品できる&売るときも最小1列でディスプレイできる、と色々メリットがあると思うからです。

 

まだまだやりたい事がたくさんありますが、せっかくだから少しでも経験のある食品のパッケージ改善もやっていきたいので、こちらの「たのしい」を燃料にして、ハンディクラフトフェスティバルが終わった後は一次加工食品のブランディングも始めていきたいです。できるかな・・・、いや、やります!やるやる詐欺にならないように!!します!!!

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『Made in Laos 2019』に行ってきました

さばいでぃー!

こんにちは、ラオスのラオ子です。

 

「●●さんは元気にしてるの?」と、以前出張に同行してもらった同期についてカウンターパートが訪ねてきました。「楽しそうにカメムシ捕まえて食べてたよ、ホラ」と写真を見せると、「美味しそうね~!!ラオ子は食べたことある??ないなら、今度カメムシ持ってきて皆で食べましょうね!」と。

 

私、食虫は全然抵抗ありませんが、カメムシは素揚げがいい。ヂェオ(すりつぶしたペースト)は、無理かも・・・。「日本ではこの虫のこと『ヘコキ虫』とも言って、良い匂いじゃなくて臭く感じるんだよ~。だからジェオじゃなくて揚げカメムシでよろしく!」と言うと、「ラオスにも『ヘコキ虫』っていう名前の虫居るけど、別の種類だしめっちゃ危ないから絶対食べないよ」と上司。

 

調べても何も出てこないので、「臭い虫」で画像検索をかけて「この中に居る?」と聞いてみると、居ました居ました。ほんま便利な世の中やな。

 

どうやら『ゴミムシ』という虫のことをラオスではແມງ(虫)ຕົດ(おなら)というんだそうです。日本でもへっぴり虫って言ってたかな、そういえば。

 

この虫、見た事あっても特に気にとめたことは無かったのですが、どうやらカエルに丸飲みされたときに有毒かつ100度以上の高温のガスを噴射することで吐き出させて生き延びることができるというなかなか危ない虫らしく、いろんな虫を普通の食糧として考えているラオスの人も絶対に食べないみたい。いろんな虫を食べるけど、あらゆる虫を食べるわけではないんだな。奥が深い。

 

この虫の出すおならは「ກິ່ນ(臭い)」で、カメムシは「ຫອມ(いい香り)」、本当にわけがわからんな。ラオスおもしろーい!

 

 

そんな私は、日曜日にこの記事を書きながら、鈴鹿サーキットで行われた『鈴鹿8耐』という、読んで字のごとく8時間走り続けるバイクレースに夢中になっておりました。最後の数分で起きたトラブルの数々と、それによって1位独走だったKawasakiがリタイア扱いになるという暫定結果に微塵も納得がいかず、Instaのストーリーに恐ろしい量の殴り書きを投稿し、現地や中継でレースを見ていた兄妹、某バイク会社に勤める友人、南アに居るシニアボランティア隊員さんに悔しさをぶつけ、悶々。結局、翌日の公式の発表で暫定結果が覆ってKawasakiが一位になりましたが、・・・来年は頼むで!

 

その翌日の月曜日、なんとか2号計画書を出し終え、これからは自分の任地での活動と並行して次のイベントに向けて動き出します。ラオスはコミュニティ開発・デザイン隊員6名(+8月後半に任地に配属される新隊員2名)の大所帯で動くイベントが年に何回かあるので、8月は主にそちらのイベント準備をメインに活動することになるワケです。配属先の巻き込み方がわからないまま半年過ぎてしまってこのままだと完全に「何やってるか分からん人」になるので、Facebookでいっぱい繋がって活動のこと書いていくとか、ワツァップで課のグループ作って活動写真送りつけていくとか、ラオ人向け情報発信もがんばるぞー。

 

Made in Laos 2019

 

ラオスの食品や手工芸に関わる活動をしていくにあたって、情報収集というのはとても大切です。しかし、インターネットから得られる情報はあまりに少なく、何か調べたいことがあればFacebookで血眼になって探す日々。ですので、任地に居ても入ってこない商品がぎゅっと詰まっているエキシビジョンやイベントはとっても貴重な機会。

 

7月最初の総会の時は、たまたまビエンチャンカレッジという大学で行われたイベントに参加しました。このイベントでは、若いクリエイターさんやNGO・NPOが運営するクラフトショップの商品、クラフトビール、そして美味しいチーズの盛り合わせなどが並んでいました(後半関係ないけど幸せでしたありがとうございました)。

 

今回行ったのは『Made in Laos 2019』。首都ビエンチャンですと、こういった大きい展示会は「ITECC」という商業施設で開催されます。ラオス各地の布、手工芸品、食品、医薬品などを一度に見ることができます。生産者さんのFacebookでこのイベントのことを知って、行きたいと思っていたところ、ちょうど新規隊員さんの歓迎会と日が重なっていました!!ラッキー!!上京だ上京だ~~~!!!

 

自分の任地の商品に足りないものは何か、ラオス国内の企業がどのレベルのものを生産できているか、どの地方にどんな特産物があるか、どんなパッケージングを使っているかなど、色んなことを考えながらMR。MRという名の、お買い物。

 

 

こんな風に生産者さんがブースを出しています。

 

24日の生産者視察の後上京して、25日に先輩隊員と一緒にITECCへ。張り切って10時前に着いたら「10時までは入れないよ!」と。そして律義に10時まで待って入ってみると、中のブースは1/3ほどしか開いていませんでした。そういうとこや!!好きやラオス!!!!!

 

職種は全く違う先輩なのですが、ラオスのこと、布のこと、たくさん教えてもらえて、一人で行くより断然収穫が多い見学になりました。「この縦のラインに南部を感じるんだよなぁ・・」は名言だと思います。ありがとうございました!

 

そしてその日の晩イベントの事を話したら、たまたま上京していた同期が行ってみたいと言ってくれたので、翌日26日ももう1度行くことに。前日先輩に教えてもらったことをあたかも自分で勉強したかのようにドヤ顔で話しながらお買い物。

 

二日間でかなり使いましたが、「これは自己投資だ。他県の良い商品を購入して、自分自身で試して、活動に活かしていくんだ。」と言い聞かせました。

 

そんなわけで、ITECCで出会ったいくつかの商品をご紹介します。

 

 

こちら、私の配属先のビエンチャン県は『ケオウドム』という村のODOP商品生産者グループのブース。マルベリー(桑)の実を使った、ワインやシロップ、桑の葉のお茶などを生産しています。

 

写真左の小さいペットボトルがマルベリーのエキスなのですが、これ、ソーダで割って飲むと本当に美味しいんです!!

 

 

フルーツビネガーを想像していただくと味が分かり易いかと思いますが、そのまま原液で飲むと結構つーーーんとすっぱい!酸味に負けないぐらい甘みも強いので、私はマルベリーエキス薄めで、ライムをたっぷり絞ってソーダウォーターで割って飲むのが好きです。ライムのビタミンやクエン酸もたっぷり摂れて疲労回復!うだるような暑さの日にぐびぐび飲みたくなる味です。

 

マルベリーといえば、カリウムやビタミンCがとっても豊富です。この国の食べ物、基本的に味付けがとっても濃いので、カリウムたっぷりのマルベリーはとてもありがたい存在。亜鉛や鉄、抗酸化作用のあるポリフェノールも含まれていて、更にはアミノ酸組成のバランスも良いので、特に女性に嬉しい果物なんですよね。

 

桑の葉は、日本でも中国でも漢方として重宝されてきた生薬でもあります。日本薬局方(厚生労働省が、医薬品の品質や薬効を適正に確保するために定めた規格、基準)によると、日本では桑の根の部分の表皮を剥いだものが「桑白皮」という漢方薬として流通しているようで、抗菌作用が認められています。そのほかの実、枝、幹などは健康食品として売られているようです。血糖値や血圧を下げる効果もあり、生活習慣病の予防やダイエットの補助にもなるとのこと。

 

今度伝統療法士のおばあちゃんが事務所に来たらラオスではどういう風に処方されてるのか聞いてみよう。

 

 

 

他にも、値段を聞くことすら躊躇う『フアパン県サムヌア地方』のパービヤンやシンに大興奮したり(任地での1か月の生活費が余裕で飛びます)、

 

 

水道菅で作られた、民族楽器を吹く置物に愛着が涌いてみたり、

 

 

タイル―族のケミカルな織物に心奪われたり(何で買わなかったんだろう・・・)。

 

 

ラオスの南部はコーヒー栽培、北部ではお茶の栽培も盛んで、ボラベン高原のコーヒーやポンサリーのお茶なども並んでいました。

 

 

 

やってしまったのがここ。シンがたくさん並んでいるなかに、私の任地では見かけない可愛い模様を見つけてしまい、斜め前のポンサリーのお茶やさんのお母さんが「ええやんええやん!!」とちゃちゃを入れにきて、

 

 

えええ・・・・可愛い・・・・となった結果、

 

 

迷いに迷って1日目に1枚買って、

 

 

2日目におかわりしちゃいました(笑)結局どっちも買うんかーい。

  

なんてったってこれ、1枚2000円以下。裏地はもともとついているので、お仕立ては2着で900円ぐらいでした。いつも大家さんの親戚の仕立て屋さんに頼むのですが、最近とても安くしてくれます。でもものすごく丁寧に、そしてすぐに仕上げてくれるんです。ありがたい!

 

買った生地はせっかくなので、

 

 

 

1枚はシンに、

 

 

もう1枚はスカートにしました。

 

ちゃんと一番きれいなところがセンターに来るようにどちらも調節されています。お母さん・・・天才か?

 

 

ドミトリーに先輩が置いていってくださった藍染の絣布のスカートを持っていって、「これと同じ感じで、でも柄が切れないように長めに仕立てて!」とお願いしたのですが、言い忘れてたスリットを勝手に入れてくれるあたり、本当に天才か???

 

藍染のスカート、サイズはぴったりなんですが、大股の私には少し歩きにくかったので、スリットが入ってちょうどよくなりました(笑)

 

職場の同僚に聞いてみると、シェンクワンの低地ラオ族のものということには間違いなさそうなのですが、「ລາວພວນ族」「ໄທແດງ族」のどちらかだそうで、何族のものかは特定できずじまいでした。知ってる方、教えてください!どっちにせよ可愛すぎるわ。ベッドに広げて、一人でにんまり。幸せだー!

 

 

で、視察はと言いますと、いつも任地でお世話になってる生産者さんにも挨拶に行けたし、食品のパッケージングの参考になる会社も見つかったし、色々な県の布を使って商品を作っているラオス人のデザイナーさんにも出会えたし、なかなか収穫多き時間になりました。反省点があるとしたら、今度からはもう少し財布のお金を抜いていこうと思いました・・・。

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「サンタピアップ」がポイペトの村で続いていきますように

チョムリアップスォー!!

みなさん、こんにちは!ラオスのラオ子です。ラオスのラオ子ですが、今日はカンボジアについてのお話なので、チョムリアップスォーと挨拶してみました。

 

សន្តិភាព

 

突然ですが、「サンタピアップ」という言葉をご存知でしょうか?

 

ラオスに関わりのある方、ほとんど同じ響きの「サンティパープ(ສັນຕິພາບ)」という言葉が、全く同じ意味です、といったら、あ!と気づく方も多いのではないかと思います。

 

「サンタピアップ」とは、カンボジア語で「平和」を意味します。

 

そして、私が2012年から繋がり始めたカンボジアの、首都から遠く離れたタイとの国境付近の町「ポイペト」で活動されている大先輩の法人名でもあります。

 

その「特定非営利活動法人サンタピアップ」さんがこのたび、活動地であるトゥールポンロー村に公民館のような憩いの場を作るべく動きだされましたので、私もサンタピアップさんを応援する一人として、記事にさせていただく次第です。

 

 

「サンタピアップからのお願い」全文

まずは、サンタピアップ代表、古川さんの言葉をそのままこちらに引用させていただきます。

 

【いつも応援していただいているみなさんに、大切なお願いです】

いつも温かいご支援をいただき誠にありがとうございます。
NPO法人サンタピアップ代表の古川沙樹です。
私が初めてポイペトに訪れてから16年が経ちました。
ここ数年の街の発展は目まぐるしく、街の様子もずいぶん変わりました。

現在3か所の経済特区ができ、日系企業の進出も始まっています。
とりわけ2017年12月頃からは中華系の人々が大量に参入し、現在その人口は2年足らずで1万人を超えたと言われています(ポイペト全体の人口約10万人)。

サンタピアップ活動地であるトゥールポンロー村にもその波は押し寄せてきており、
現在トゥールポンロー村は外国人からは「チャイナタウン」と呼ばれ
土地の買い占めが始まり、更地だらけになってしまいました。

子どもたちが当たり前のように遊びまわっていた場所がなくなりはじめています。

サンタピアップではこれまで村の人のご厚意で、土地の一角を無償で借りて活動してきました。
現在の状況を副村長や村の人々と話し合う中で、何とか子どもたちの遊び場を確保したいと思いました。
今、無償で借りている場所も雨風を防げるような場所ではないので、いつでも子どもたちや村の人たちが自由に使える「公民館」のような場所を作りたいと思いました(「サンタピアップハウス(仮称)」)。
関わっている子どもたちの中には、家に居場所がない子もいます。貧困からくる様々な問題に一生懸命耐えている子どもたちが一時でも安心できる場所が必要です。
村の人たちの意思とは別に、目まぐるしく変わってしまう環境の中で、そこだけは変わらない、誰にとっても安心できる居場所を早急に作りたいと思っています。そして日本から子どもたちに会いに来てくださる人との交流の場にできればと思っています。
「サンタピアップハウス」建設にあたって、土地の購入・建築費に約300万円必要です。土地の価格が日に日に高騰しているため早急に土地だけでも確保したいと思っています。
ご存知の通り、サンタピアップでは今までほとんど資金も物も持たずに活動を続けてきました。サンタピアップハウス建設にあたり皆様のご協力を心よりお願いいたします。

2019年6月 NPO法人サンタピアップ代表 古川沙樹

シェアや拡散のご協力も、よろしくお願いいたします。

【振込先】
ゆうちょ銀行
特定非営利活動法人
サンタピアップ
店番458
普通預金
口座番号2662781

郵便振替口座:
(0)0900-7-329383
特定非営利活動法人サンタピアップ

※お振込みいただく際は、お名前ご住所の記入をよろしくお願いします。

※お振込の際、先頭のゼロを追記しない場合もございますので、ご注意下さい。

 

この投稿を見て、私も気持ちばかりですが応援させてもらいました。そして、この活動についてもっとたくさんの人に知ってもらいたいと思い、こうして記事にさせていただくことにしました。

 

まずはカンボジアの歴史について

ポイペトについてのお話にうつるまえに、カンボジアの歴史について少しお話させたいただきます。カンボジアといえば地雷や内戦といったイメージですが、あんまり詳しく知らない!という方は、まずはつっこみどころ満載のこのざっくりまとめを見て頂ければと思います。ご存知の方は次の見出しへ!

 

カンボジア内戦 – Wikipedia

ー1949年フランス領インドシナからの独立~1998年ポルポト死去まで

カンボジア作戦 – Wikipedia

ー1970年のクーデター

クメール・ルージュ – Wikipedia

ー1951年~1999年ごろ

S21 (トゥール・スレン) – Wikipedia

クメール・ルージュが残した内戦の爪痕

 

・・・といいつつ、一部だけ抜き出すのは難しいし、歴史的学説は多々ありますので、Wiki先生に丸投げさせていただきます。

 

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簡単に、ものすごくおおざっぱに言うと、

 

フランス領から独立した後、ノロドム・シハヌークによりカンボジア王国誕生。

国王が癌治療で他国に出向いている間に、

アメリカに支持されていたロン・ノルが王政廃位。

ロン・ノルは反ベトナム派だったため、ベトナム人を強制送還・大量虐殺。

ノロドム・シハヌークは亡命先の北京でカンプチア民族統一戦線を結成。

ロン・ノルに迫害されたノロドム・シハヌークがクメール・ルージュを支持したため

国王を慕う農民のクメール・ルージュ支持層が増加。

政府の腐敗に対する民衆の反発、冷戦下での中国共産党の支持、

そしてアメリカ軍による空爆で、第2次世界大戦で日本に落とされた総量の3倍もの

爆弾を落とされ、数十万の犠牲者を出した上に農地も破壊されて

輸出国から輸入国に転落。

カンボジア民族統一戦線がプノンペン占拠、クメール共和国崩壊。

民主カンプチア誕生。「ポル・ポト政権」による大量虐殺開始。 

 

ポル・ポト率いるクメール・ルージュは完全な原始共産主義を目指し、強制移住、強制労働を行いました。その中で、一切の私財を没収、貨幣そのものや宗教も廃止、暴動や反乱を起こす危険性のある知識人階級を収容・虐殺。それは政治家にとどまらず、教師、医者、僧侶、伝統芸能者などにも及びました。国の発展のためにと海外留学していた人もその対象となったほか、メガネをかけている人(字が読める)、ラジオを持っている人(言葉がわかる)も対象となったと聞いたことがありますが、どこまでが正しい情報なのかは不明です。

 

そして最後は、カンボジア民族統一戦線とベトナム軍によりカンボジア侵攻。民主カンプチアは倒れ、現在のカンボジア人民共和国が成立したのです。

 

 

現地語では「チュンエク」と呼ばれる、プノンペン郊外の「キリングフィールド」。拷問ののちに処刑されることとなった人たちがプノンペン市内で溢れ返り、郊外に作られた処刑場です。

 

ひとつの穴に数百もの遺体を埋め、遺体から発生したガスで地割れがしていたとも言われています。一番有名なこの場所が負の遺産として残されていますが、こうした虐殺場は国内に数百あったともいわれ、正確な犠牲者の数も分かっていません。

 

 

「KILLING TREE AGAINST WHICH EXECUTIONERS BEAT CHILDREN」

 

なんの罪もない子どもたちがこの木にたたきつけられ、殺されました。「子どもの血や脳みそ、髪の毛が幹にこびりついていた」という音声ガイドを聞き、私はこの木の前に立っていられなくなりました。遠い遠い昔の話ではない、私が生まれるほんの少し前の出来事。

 

 

不自然に穴の開いた頭蓋骨の数々は、数十年経ってもなお家族のもとへ帰ることも許されず、キリングフィールドでジェノサイドの残虐さを訴え続けています。

 

 

 

花を手向け、手をあわせましたが、そのとき私は、心に何も浮かんできませんでした。何と思っていいのかもわかりませんでした。こんな感情は生まれて初めてでした。しんどくて、しんどくて、ただ手を合わせて、やすらかに眠ってくださいと願うことしかできませんでした。

 

 

 

その後訪れた「S21」、現在の名を「トゥールスレン虐殺犯罪博物館」。14,000~20,000人が収容され、生き残ったのはそのうち7人、8人ほどだと言われています。

 

 

 

1979年1月にベトナム軍がプノンペンを鎮圧するまで続けられたのは、反革命分子によるむごい「粛清」。拷問器具や血だまりがそのままにされた館内は、もともと学校だったとは思えないおぞましい雰囲気に満ちています。

 

是非訪れてください、と言える場所では、決してありません。でも、もしもプノンペンに行く機会があれば、人生1度だけでも訪れてほしい場所でもあります。

  

ポイペトってどんなとこ?

さて、ここまで、カンボジアの内戦の歴史について触れましたが、ここからは本題に入って「ポイペト」のことを書いてみようと思います。

 

私がはじめてポイペトの村を訪れたのは、2015年4月のこと。トゥールポンロー村や国境付近を案内してもらい、「ポイペトってどんなとこ?全編・後編」というタイトルでブログの記事を書かせてもらいました。まずは、その内容を少し直しつつ、私が見た、聞いた、感じた、ポイペトについて、紹介したいと思います。

 

2015年4月、ポイペトはこんな町

ポイペトは、タイとカンボジアの国境のカンボジア側にある町です。バンコクからアランヤプラテートまではバンやバスで5時間ほど、そこから歩いて国境を渡ればカンボジア側の国境の町ポイペトに到着です。

 

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内戦の影響で隣国のように発展を遂げられなかったカンボジアは、多くの生活インフラと物資をタイとベトナムに頼ってきました。その物流のキーポイントとして発展を遂げているのが、このポイペトの町です。大型のバスやトラックが行き交う危険な国境付近で働くのは、リヤカーで荷物の運搬を行ってお金を稼ぐ人、それを手伝う子どもたち、陸路で国境を越える観光客目当ての商売人。アンコールワットの町シェムリアップへの通過点であることから観光客も多くみられ、物乞いの人たちも国境付近にたくさん居ます。

 

あらゆる社会問題がぎゅっとつまった、カンボジアの縮図ともいうべき、混沌とした世界が広がっているように感じました。

 

内戦後のポイペト

先に書いたように、内戦時代のカンボジアは、言葉にならないほど悲惨なものでした。その戦火を逃れるためカンボジア各地からやってきた人たちは、このタイとの国境付近に住み始めました。その数は日増しに増え、アランヤプラテートとポイペトには大規模な難民キャンプができたそうです。

 

そして、内戦で故郷を追われた人たちを更なる悲劇が襲ったのは、1990年代のこと。タイの資本家が、まだ法の整っていないカンボジアに目をつけ、国境付近にカジノを建設すると言い出したのです。

 

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外貨を獲得したいカンボジア政府はそれに応じました。そして、カジノやホテルを建設するためには、広大な土地が必要となるため、そこに暮らす人たちは立ち退きを余儀無くされました。

 

お話を聞かせていただいたカンボジア人の方が言うには、ある日突然ブルドーザーがやってきて、水や電気などのインフラも整っていない、地雷の撤去も終わっていない、子どもを通わせる学校も無いような代替地に追いやられていったのだそうです。

 

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昼間はネオンの明かりもないし、周りもよく見渡せます。カジノの敷地内はガランとしていて、人もまばら。ところが一歩外に出ると、道も市場も屋台も人で溢れていて、その中で静かに佇む巨大な建物は、ものすごく違和感がありました。

 

ホテルがあり、カジノがあれば、置屋、売春もあります。タイからのブローカーに子供を売る親も居るそうです。そうなると必ず蔓延するのはHIV。国全体で見ると感染者は年々減少傾向にあるものの、支援の手が入りにくい僻地では都市部よりも深刻な問題です。

 

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すぐ近くにはテントがたくさん並んでいて、タイから持ってきたであろう服や雑貨が売られていました。奥のほうには、日本のイベント会場でもよくある、空気で膨らます遊具も。子供たちがボヨンボヨンしながら滑っていました。

 

写真はありませんが、カジノの中にも入ってみました。店員さんはタイ人ばかり。手前の売店には、ブランドものの時計や服、日本のお菓子がたくさん売っているところもありました。日本のお菓子に飢えていた私は、源氏パイやイチゴのお菓子、キャラメルポップコーンなど5つ買い、700バーツを支払ってホクホク顔でカジノを後にしましたが、あとで計算してみたら700バーツって2700円ぐらいですよね。もしかして私、アホなんかなっておもいました。後悔しながらも美味しく頂きました。やっぱり日本のお菓子は美味しい。

 

地雷の博物館、カンボジア

話題を少し変えまして、カンボジアの地雷についても触れてみたいと思います。 内戦時代にカンボジアに埋められた地雷は、いくつぐらいかご存知でしょうか?

 

 

その数なんと、400~600万個。埋設密度は世界一、カンボジアは「地雷の博物館」とも比喩されています。

 

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これはシェムリアップの博物館に展示されていたクレイモア地雷。指向性対人地雷の一種です。

 

ワイヤーにひっかかるか、リモコン操作で信管が反応すると、爆風と共に中から数百個の鉄球が飛び出します。有効加害距離50m、最大加害距離250m。「目の前で爆発したら、何百発もの鉄砲玉を浴びるようなものです」と言われて、背筋が凍りついたのを今でも覚えています。

 

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こちらも、展示されている地雷の数々。展示品の地雷をカンカンカン!!と叩きながら熱心に説明してくださったもんで、信管は処理済だと分かっていても私は終始冷や汗が止まりませんでした。

 

地雷は、残虐性、残存性、無差別性を備えた”悪魔の兵器”。その中で対人地雷は、「怪我を負わせるため」に埋めらました。ズタズタに切り裂かれた手足を見て精神的に追い詰められる。一人の足が吹き飛んで負傷すれば、それを救護するために兵力が裂かれる。その後の治療やリハビリに、家庭にも国にも、経済的負担がかかる。戦力を少なくするためには、死ぬよりも負傷したほうが都合が良いのです。

 

そして、地雷原になった場所には住めなくなり、農耕も出来ません。 地雷は、信管を抜き取るまで半永久的に、じっとそこで待ち続けます。対戦車地雷の真下や真上に対人地雷を置いたり、地雷探知のために除去作業員がプロッター(地雷探知に使う鉄の棒)を斜めに差し込んだときに反応するよう、対戦車地雷のまわりに対人地雷を斜めに埋めたりと、殺傷能力の高い対戦車地雷も工夫されて埋められており、単純に対人地雷だけに気をつければ良いという事ではありません。

 

ポイペトに残る地雷原

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これは、ポイペト郊外の地雷撤去が終わった場所につけられた看板で、CMACという政府機関が立てたものです。地雷を撤去している人の中には、ポルポト時代の兵士も居ます。

アキ・ラー – Wikipedia

シェムリアップにあるアキラ地雷博物館には、ポイペトで撤去された地雷も多数展示されています。(先ほどの地雷の写真はアキラ地雷博物館で撮影させていただいたものです。)

 

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この記事を書いた数ヶ月前には、シェムリアップの郊外にある世界遺産のロリュオス遺跡群近くの公立小学校横の森で、爆発事件がありました。子どもたちが鉄くずを売ろうと不発弾を触ったところ爆発してしまい、4人が酷い裂傷で病院に運ばれたそうです。(ニュースで見た時は亡くなったという情報はありませんでした)また、牛を2匹繋いだ牛車に子ども二人を乗せて走っていた男性が対戦車用地雷を踏んで吹き飛び、みんな亡くなってしまったという痛ましい事故も、私がここに来てからのこと。

 

地雷撤去が終わる=”100%安全な土地”になったというわけではありません。雨季の激しい雨で地雷を覆っていた土が流れてしまうため、地中深くに眠っていて探知機に反応しなかった地雷が出てくることもあるのだそうです。「何個撤去したかではなく、国土の何パーセントが安全な土地になったかが重要」と以前とある方から伺いましたが、こういうニュースを目にするたびに本当にその通りだなと思います。

 

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この荒地の奥に広がっている森は、”あえて”地雷が残されたままになっている場所。国境線上に位置していて、不法入出国を防ぐためと、またいつ勃発するか分からないタイとの国境紛争のためにこのままにされているんだそうです。

 

 まわりには広大なキャッサバ畑が広がる中、誰も手をつけない森。そのすぐ手前のバラック小屋では、そこに暮らす子どもたちがままごとをしながら、見慣れない外国人の私をじっと見ていました。

 

ところでポイペト、水・・・どこ?

 

町の案内をしてもらったあとグーグルマップで確認して驚いたのですが、ポイペトの田舎のほうには、大きな川や溜池がありません。これでは、農業用水はおろか生活用水の確保も難しいでしょう。テレビでよくある「子供が数キロ先まで水を汲みに行く」という話。ポイペトでは実際に行われています。井戸がある家はもちろんそこから汲み上げますが、その井戸を掘るのにもお金がかかります。井戸がなければ、溜池まで水を汲みに行くほかありません。

 

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私が泊めていただいた方の家には井戸があったので、その水が溜められた水がめで水浴びをしました。普段は年末年始の断水以外は何不自由なく過ごさせてもらっている私、ポイペトで久しぶりのカンボジアンスタイルの水浴び。ドキドキ。入社してすぐ電気の無い島で一泊したとき以来です。

 

水がめの中を覗いてはいけません。無心で水を浴びます。「綺麗になった」と思うのです。思うことが、大切なのです。(笑)サロンと呼ばれる布を体に巻いて、家の裏手にある水がめで体を洗う私と友人。慣れた感じで何の躊躇いも無く、そして手際よく水浴びする姿を見てスゴイなあ・・・と感心しながらふと西の空を見たら、燃えるような夕日が。水浴び中なので写真は撮れませんでしたが、草原が夕焼けに染まっていくのを見ながらの水浴びは、なかなかオツだなと思いました。

 

一方で、生活用水が確保できず、水浴も洗濯も出来ない人が、同じ地域に住んでいるんだよな。と、水がめにたっぷり溜められた水を見ながら思ってはみるものの、その中で生きていくのがどれほど大変なことかは、私には想像もできません・・・。

 

貧困、出稼ぎ、そしてまた貧困へ

町に仕事が無い。土地の買占めのあと用意された農地は痩せていて、水も十分に確保できないから、作物が育たない。そうした理由から、この町を拠点としてタイに出稼ぎに行く人が後を絶ちません。しかし、カンボジアのパスポートは135ドルとかなり高額なうえに、首都プノンペンまで取りに行かなくてはならないのです。賃上げストライキを何度も起こした縫製産業の最低賃金でも月収128ドル。(2015年の情報です)

 

去年1月の時点で教師の最低賃金が100ドルです。加えて、交通費や宿泊費もかかります。ポイペトからプノンペンまでカンボジア人が幾らぐらいで行けるのかは私には分かりませんが、出稼ぎにいかないといけないぐらい生活に困っている人からすれば決して安い金額ではないでしょう。

 

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その人たちに残された手段が、タイへの「不法入国」。カンボジア人の出稼ぎ労働者が雇われるのは、建設系の仕事だそうです。ポイペトの村の中には、出稼ぎに行って過労や仕事中の事故で亡くなった方も。そうなったとしても、不法入国している人たちは、何も言えないのです。

 

「仕事中の事故」というのは、足場から落ちたり、モノが上から降ってきたり、あとは電気工事中の感電死もあるとのこと。

 

タイの工業用電圧は380V、日本の200Vよりかなり高い設定です。工業用電圧は、ショッピングモールやホテルの空調設備などにも使われています。日本で電気工事するには国家資格が必要で、試験には実技も含まれています。資格を取ってからも、実際の工事にあたる前にまた講習を受けたり、低圧・高圧それぞれの電圧を扱うための研修を受けるなど、徹底的に教育されるんだそうです。現場で作業にあたるのはそれほど危険なことなんですね。「電源切れてると分かっていても工業用電圧の配線を触るのは怖いよ」と、電気工事士の兄は教えてくれました。

 

タイはカンボジアに比べて、そのあたりの法整備や労働環境、教育も発展しているのでは?と、タイに行く前は思っていましたが、結局は電柱を見上げて「どこも一緒」という結論に至りました。数え切れない本数の電線が繋がれ、余った分もぐるぐる巻きつけられて、千切れた電線が人の背の高さまで垂れ下がっていても誰も気にしない。漏電による火災や、垂れ下がった電線に触れて感電死、といった事は、ここでは特別なことではありません。

 

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バンコクからタイ側の国境までのバスに乗ると、途中で何度か停車します。乗ってくるのはみんなカンボジア人。お正月前ということもあり、大きな荷物を抱えて大勢乗り込んできました。

 

アランヤプラテートの手前に検問があり、そこでバスが一旦停車するとタイ警察がバス内に乗り込んできて、乗客のパスポートをチェックしました。パスポートが無い人はそこで降ろされ、罰金を支払って強制送還。私たちのバスにはそういう人はいませんでした。(いる場合はだいたいもう少し手前で降りて別のルートで行くんだそうです。)

 

国境付近に居れば、荷台に檻がついたトラックに不法入国者が詰められてカンボジアに強制送還させていくのを見ることもあります。ちなみにこの日、タイ側のイミグレは帰省ラッシュが起きていて、カンボジア人であふれ返っていました。パスポートを持って働きに行っている人も結構居るということですね。バスの中には、お腹に6ヶ月の赤ちゃんがいる女性や、小さな子供を抱えた女性も居ました。

 

労働環境や仕事の内容以外にも問題になるのが、強制送還です。雇い主から「後からまとめて支払う」と言われて給料が全額支給されず、建物が完成する直前に警察に通報され未払いのままる強制送還されます。その給料が受け取れることはありません。雇用主のいいように使われても、泣き寝入りするしかないのです。

 

経済特区は雇用を生み、そして町をどう変えるのか

 

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カンボジアにはプノンペンやシハヌークビルなどの主要地に経済特区があります。ここポイペトの経済特区は、プノンペンより大きい386ha。経済特区の周りに民家は無く、農地にもなっていなさそうな平野だけが広がっていました。

 

ここも、もともとは農民が暮らしていた場所だったそうです。カジノ建設の時の買占めと同じように、学校もないインフラも整っていない、そして作物の育たない痩せた土地へと移され、農村部の貧困は更に拡大していきました。

 

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これは敷地内の中ほどから門を撮影したもの。386ha、東京ドーム2個分だそうです。東京ドーム行ったことないから想像がつきませんが、ここはめちゃめちゃ広いです。中にぽつんと建っていた工場では、ポイペトの人たちも働いている様子でした。

 

排水やごみ処理などの環境汚染も含め、この経済特区がどんなふうに発展を遂げていくのか気になります。

 

という、私が見た、聴いた、感じた、カンボジア。

 

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村の人が話してくれたことをまとめた中に「証拠(数字)」を入れようと試みるも、いくら調べてもまったく出てこず。こういう記事で「たくさん」とか「少数ですが」とか

あんまり使いたくないなあ~と何度も何度も頭を悩ませました。(論文だったら床にたたきつけられるレベルだけど、これは論文じゃないので・・・と開き直り。)

自分が見る立場になったらすぐ「ソースは?」って言うのに・・・人に厳しく自分に甘いのはこのこと(笑

 

それでも私が、見たこと、聞いたことをそのまんまお伝えしたのは、「ポイペトで暮らす村の方に伺ったお話」だからです。

 

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視点を変えればもっと別の見方があるのかもしれません。数字で見れば、もっと深刻な問題かもしれないし、もしかしたら取るに足らないことかもしれない。

 

それに、タイでの労働、経済特区、カジノ、地雷、内戦・・・・どれも2日で調べられるような簡単なものではなく、私がここに書く極めて断片的な情報に対して「それは違うよ!」と思う方もいらっしゃるかもしれません。

 

でも、私がお話を伺った人は「そう」感じているのです。複雑に絡み合って生まれた貧困の中で、苦しみながら生きている人がたくさん居るという事実は、確かにここにあったのです。ですから、そういう「一面」があるんだという風に捉えていただければと思います。

 

背伸びして書こうとしたら上手くいかなかったので、言い訳です(笑

 

ほんとうの「貧困」というもの

 

この記事を書きながらずっと自分に問いかけていたことがあります。それは、「貧困」とは何かということ。

 

同じ法のもとに暮らしているにもかかわらず、悪政、天災、個人の病気や怠惰など様々な原因から、生きていくために最低限必要なものが得られないことが貧困だとカンボジアに来るまでは思っていました。

 

ですが、こっちに来て、日本に居るときよりもそういった問題との距離が近くなり、少し考え方が変わりました。

 

生まれた場所、自分、家族、仕事、生活、教育、経済、政治、宗教、文化、健康、それらを包括して「個人の尊厳」が持てない状態を継続してしまうことが「貧困」なのだと、今はそういう風に考えています。

 

先進国と途上国を相対的に比較したステレオタイプな幸福論は、何の意味も成しません。日本には日本の、カンボジアにはカンボジアの価値観があり、良い所も生き辛さも、それぞれにあるのだと思います。

 

ただ、だからといって、それぞれがそれぞれの幸せや生きづらさを抱えて生きるのが良いかといえば、それも違う。その中でできることが必ずある。日本の「便利な生活」とはかけ離れたところで、その場所に住まう人たちと共に暮らし、真摯に向き合い続けるサンタピアップの代表は、言葉で語らず、この町の人たちとの関わりの全てを通じて私に”それ”を教えてくれました。

 

特定非営利活動法人サンタピアップについて

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今回の取材で、サンタピアップで販売している商品の作り手さんの家も一軒一軒まわらせて頂きました。コンクリートで出来た立派な家は一軒もなく、カンボジアでの生活必需品であるバイクも見当たりません。

 

それでも、バラック小屋で暮らす家族のために立派な家を建てるのではなく、一生食べていけるような仕事や、バイク、井戸を与えるのでもなく、いつか自立して、自分の手でそれを掴み取るための基礎教育を受けられるように生活をサポートしていくという長い長い時間がかかる活動が築き上げたコミュニティが、ここにはありました。村の人たちに寄り添った、「尊厳」が守られた活動に、私は感動すら覚えました。

 

シェムリアップのように美味しいレストランがあるわけでもなく、インフラも満足に整っていない、NGO・NPOの支援の手が届きにくい僻地で、現地の人と衣食住を共にしたからこそ見えたもの・分かったことが、たくさんあるんだと思います。そして、それがカンボジアの人たちを深く理解するためのベースになって、この活動のすべてに繋がっているということに気付かせてもらいました。

 

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Give a man a fish and you feed him for a day.

Teach a man to fish and you feed him for a lifetime.

魚を与えれば彼は今日魚が食べられる。

魚の釣り方を教えれば、彼は一生魚が食べられる。

 

よく英語の教科書なんかで出てくることわざですが、まさにそれを体現している関わり方を見せていただきました。「与える」のは1分でも出来るけど、「教える」となるとそうはいかない。この村を訪れたあと改めて咀嚼すると、この諺は単に「与えるのではなく教えなさい」と言っているのではなく、そういう覚悟があるのかを問いかけているように思えてきました。

 

カンボジアの教育事情って実際どうなの?なんで教育支援すべきなの? | 国際協力NGOCBBカンボジア

色々調べているうちに、数字も入れつつ問題の本質を的確に指摘されている記事を見つけました。継続的、持続的な活動の必要性が分かり易く書かれていますので興味がある方はぜひご覧になってください。

 

・・・長く活動しながら、依存しない・されない関係を作るって難しいことだよな。口で言うのはめちゃくちゃ簡単だけど。 

 

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「ボランティア」や「支援」に対する考え方は、100人居れば100通り。答えもひとつではありません。継続的、持続的と口で言うのは簡単だけど、自分の「人生」をそのために使うという決断はなかなかできることではありません。

 

でも、支援をするという事は、良くも悪くもその対象者の「人生」を変えるということ。「活動」を「目的」にせず、あくまで「手段」として、強い信念と覚悟を持って、10年間活動を続けてこられたサンタピアップの活動を見せていただくことができた貴重な機会に、心から感謝します。

  

「ポイペト」と「貧困」

このブログで使った写真はすべて、私が自分の手で撮ってきたものです。インターネットからの拾い物ではありません。つまり、私がここに書いた地雷やカジノのことはポイペトでここ数年の間に起きていることなんです。

 

今日もまた、鬱そうとした地雷原の森では、数え切れない地雷が土の下で誰かが踏むのを待っています。電気の無い村から数キロ離れたカジノ周辺は夜になれば賑やかな音楽とネオンの光で溢れ、お客さんを待つ10代の子どもたちが居ます。本当に、「今」目の前にあるリアルな問題で、解決されない限り「これから」もずっと続くことなんだなと、ポイペトにきて初めて実感しました。

 

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ポイペトに行って初めて知ることができた、今までとは違う”カンボジア”。国境の町特有の問題が作り出した、貧しさ。観光名所が無くなかなか行く機会の無い場所のことだからこそ、せっかく自分が行って、見て、聴いて、写真を撮ってきたんだからこのブログを読んでくださっている方にも伝えたいなあという、それだけの気持ちです。

 

 

 

 

 

 

 

・・・と、ここまでが2015年に書いた記事を改変したものです。

 

この記事を書いた3年後の写真も、ご覧ください。

 

 

カンボジアを離れて日本でふらふら働きながら、JICA海外協力隊に合格したのが2018年2月。そして、サンタピアップ代表と村の人とのかかわり方を見てファインダー越しに心が震えたこの場所を派遣前に訪れたいと、2018年の6月にもう1度ポイペトの町を訪れました。

 

この時は、2次面接でたまたま隣に座った二人(のちに全員合格)と一緒にタイからアランヤプラテートまでのバスに乗り、歩いて国境を越えました。バンコクから5時間ほどかけて着いたアランヤプラテートの町には、2015年に訪れた時にはなかったようなブティックホテルみたいなお洒落ホテルが数軒並んでいて、ショッピングモールまで出来ていました。

 

 

その日の晩は、カジノの近くのレストランへ。雨がしとしと降っていて、オープンエアーが丁度心地よかったのを覚えています。

 

カンボジアといえば空心菜炒め。

 

 

チャーハン。

 

 

えび焼き。

 

 

プーパッポンカレー。

 

 

そしてタワーのビール!

 

と、タイ・カンボジアの美味しい食事が満喫できるのは、ポイペトの中心部だからです。ホテルにはよさそうな雰囲気のルーフトップバーなんかもありました。

 

 

夜まで煌々と電気が灯る市場。

 

 

お昼はこんな感じです。

 

なんだ~!全然綺麗な町じゃん!と感じられたでしょうか。

 

 

これがトゥールポンロー村への道です。2015年に訪れたときは、幹線道路から折れたらそこから村までずーーーっと未舗装の道だったのですが、3年で途中まで道が舗装され、村への移動がかなり楽になっていました。

 

 

こちらが、サンタピアップの活動の場・憩いの場。

 

 

長距離移動の疲れもあり、ハンモックを吊るして爆睡させてもらいました。

 

 

最初に訪れたときに頂いたものと同じ、臭菜のスープと、きくらげのスープをリクエスト。美味しくて美味しくて、この味が忘れられず。臭菜のスープは読んで字のごとくかわった臭いがするんですが、これが美味しい。そして胡椒のきいたきくらげのスープも、とにかくごはんがすすみます。

 

 

”カンボジア風おこのみやき”と例えられる「バンチェウ」も、美味しかったです。この薄焼きにしたクレープに野菜やひき肉をくるんで食べます。ひき肉の味付けがなんとも絶妙。いつか作れるようになりたい。

 

 

さてさて、お昼を食べて腹ごしらえした後は、サンタピアップでミサンガを作っている子どもたちに、ろうびきのひもを使ったミサンガ作りを教えてもらいました。

 

 

「子どもたち」・・・と言っても、3年前会った時はまだ幼げだった彼女たちはもう立派な高校生、綺麗なお姉さんになっていました。時の流れを感じたと共に、あの時と変わらない関係のまま活動を続けている代表を改めて尊敬しました。

 

そしてそのうちの一人は、今はもう大学生。ポイペトの町を出て、学生生活を満喫している様子がSNSからもうかがえます。きっと、ミサンガで子どもたちの教育をサポートするというサンタピアップさんの持続的な活動があってこそ。子どもたちだけでなく、家族とも地域とも深く関わり、そのネットワークの中で、見守ってこられた結果なんだと思います。

 

ちなみにこの写真の手は、私と現地の子・・・ではなく、白いミサンガをしているのが同期隊員、赤いミサンガをしているのが私です。なんでや。ちなみにもう一人の男性同期隊員は、あまりにミサンガがうまく作れず、この時まだ苦戦中でした。

 

実は、虐殺犯罪博物館とキリングフィールドに行くのを6年ほどためらっていた私に、「観光と違う関わり方をするなら知っておいたほうがいい」とすすめてもらったのはこの時でした。協力隊の仲間たちと、バンコクからポイペトへ抜け、シェムリアップで観光して、シハヌークで海鮮を楽しみ、そして最後にプノンペンを訪れる予定で旅程を組んでいて、やっと、向き合おうと思えたのです。この歴史を感じ、活動してきた古川さんの言葉は、私の心にいつもがつんと響きます。

 

ポイペトとトゥールポンロー村のこれから。

 

 

1度目は2015年4月、2度目は2018年6月に訪れたポイペト。町中は変わっても、トゥールポンロー村は何も変わっていませんでした。

 

バナナの葉やジャックフルーツが生り、かわいいカシューアップルや形容しがたい臭さのノニの実もあちこちにあって。赤土と、鮮やかな緑のコントラストが美しい。

 

あちこちで子どもたちが遊ぶ声がして、商店の軒先ではお母さんたちがそれを遠くから見守っている。

 

 

村の人たちの飲み会にも参加させてもらいました。美味しいごはんと冷え冷えのビールでもてなしてくださった村の人たちとは、夜に雷が鳴るまで、喋って、飲んで、歌って、踊って、とてもとても楽しい時間でした。

 

 

でも。

 

この場所がいま、急激に変わりはじめていて、この場所に住まう人々の”くらし”が、望まぬ方向に形を変えようとしています。

 

そして、その中で子どもたちのために新しく居場所を作るために、サンタピアップさんも変わろうとしているのです。

 

サンタピアップさんは、途方もない時間をかけて、地道に信頼関係を築き、組織を大きくすることよりも関わりを深くすることに重きをおかれてきました。日本にはそれを支えるよき理解者が居ることも、活動の様子から伺えます。

 

「身の丈にあった活動を」と、自分の目の届く範囲で地域、家族、そして子どもたちと関わってこられたのを、私はここ5、6年、見させてもらってきました。そして今回、このような呼びかけをされたということは、サンタピアップさんにとって、とても大きな、そして大切な決断なのだと思います。

それはつまり、めまぐるしく変化していくポイペトの町の波がトゥールポンロー村にも押し寄せて、この村をとりまく環境が、本当に、大きく大きく変わろうとしているということ。

 

それに抗うことも難しい現実がある中で、子どもたちを守るために公民館をつくりたいと動き始めたサンタピアップさんの活動を、私はこれからも、ほんの少しですが応援していきたいと思っています。

 

さいごに

 

この長文を最後まで読んで下さった方、ありがとうございます。冒頭にもリンクを貼らせていただいた通り、サンタピアップさんは今、村の子どもたちの安息の場をつくるべく、日本とカンボジアの二拠点で活動を続けられています。

santapiup | from CAMBODIA for CAMBODIAhttp://santapiup.com/

今回の資金協力に活動にご賛同いただける方は、WebサイトやFBページで詳しい内容をご覧ください。

 

カンボジアと関わるまで、安易にお金を渡してそれで満足したような気持ちになることにとても抵抗があり、私はドネーションそのものをある意味毛嫌いしていました。

 

でも今は違います。

 

大好きになったカンボジアがそこにあって、カンボジアのために獅子奮迅している友達や大先輩が居て、その人たちが成し遂げたいことには、ときにお金が必要で。

 

大好きなカンボジアのために、カンボジアで頑張る人たちのために、そしてその人たちが共に暮らしているカンボジアの人々のために、ほんの気持ちばかりですが、募金したり、物を買って、その活動を応援するということに、今は何の抵抗もありません。

 

そんな風に思える人たちに出会えたことが、あの国で過ごした2年間のすべてだと思っています。本当に、幸せなことです。

 

私自身、JICA海外協力隊への参加を決めてから人生で初めて「国際協力」というフィールドで活動することになり、ここラオスで4か月過ごしてみて、沙樹ちゃんの活動がどれほど途方もない時間と努力の上にあるのかを更に実感することになりました。私には到底追い付けないサンタピアップさんの新たなステップを、お隣ラオスから応援し、自分も1歩でも近づけるように日々半歩ずつでも頑張っていこうと思います。

 

 

 

「ラオ子がそこまで言うなら」と思ってくださる方が一人でも居ればという思いで、この記事を書きました。拡散だけでも歓迎です。どうか、大好きなカンボジアと、そこで暮らす大好きな人たちのために、力を貸してください。

 

このプロジェクトが一刻も早く実現して、

 

「サンタピアップ(平和)」がこの村でずっと続いていきますように。

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視察②その4 ビエンカム周辺の生産者さんグループをめぐる

さばいでぃー!

さてさて、4日間の視察レポート最終回です。

 

5月28日

 

5月29日

 

5月29日ー5月30日

 

あちこち訪れてビエンチャン県のシン生産グループを見学する、なかなかハードなスケジュール。今日は30日の「バンビエンからビエンカム(任地)へ」、そして31日のPonhong郡の視察の様子を書いていきたいと思います。

 

 

5月30日 バンビエン市場

前回の記事に書いた「もりもりてんこもりバーガー」を食べた後、私たちはバンビエン郡の産業商業局へと向かい、局長と少しお話させていただきました。

 

そしてバンビエンで一番大きな市場に行き、ハンディクラフト製品やお土産の流通状況を調査。

 

こちらは「モン族」という山岳民族の刺繍です。(下の生地は機械織り)クロスステッチがあまりに細かくて「プリントしてあるんじゃないの?」と思ってしまいますが、全部手仕事です。

 

モン族の人たちの衣装も見つけました。綺麗な細工がついた帽子。この細工もどこかで手作りしているところがあるのかな。

 

 

この派手派手な帽子のクロスステッチも全部手縫い。もう、果てしないわ。本当に、すごいわ。

 

観光の中心部から若干外れるため、お土産物が置いてあるような雰囲気はなく、外国人観光客も見当たりませんでした。(午前中だから余計かもしれませんが)観光局にも話を聞いてみたいなあ。

 

帰り道に立ち寄った”魚の村”

ここはバンビエンとビエンカムの間にある「Taheua(タフア)」という村。大きなODOP商品生産グループがあり、この軒を連ねている店の殆どがODOP認証取得済みです。

 

ODOP商品としては、パデーク(魚醤のような、みそのようなもの)、ソムパー(魚のすっぱいハム)、干し魚や燻製、小魚を揚げたおやつなど、合計7種類が認証を受けています。

 

どのお店も同じように、干し魚・燻製が吊られ、発酵食品がテーブルに並んでいます。

 

「ジェオ」と呼ばれる調味料もたくさん種類がありました。ジェオは「辛み調味料」全般を指し、地域や家庭でそれぞれ色んな味があります。

 

タフアで見学させてもらって、このジャンルの食品に「外国人」が関わるのは、とても難しいと感じました。例えばこのソムパー、外国人向けにお土産にしてほしいと言われても、このままの状態では売ること自体が結構難しい。

 

現地の人向けに、といっても、例えば資材にお金をかけて見た目を綺麗にするにはコストがかかりますし、その「見た目」にコストがかかったものを、普段の食事として食べるラオスの人たちが選ぶのかどうか、と考えてしまいました。

 

食品、医薬品関係が多いビエンチャン県のODOP商品。バナナチップスやポテトチップスなどお土産にしやすいものもある一方で、本当に守っていきたい地域の味をODOP商品として出していくのはかなり難易度が高そうです。

 

この日はお昼すぎに私の家に着き、ほっと一息。往復500キロ弱の長旅は無事終了、翌日の近隣郡視察に向けて情報整理と、体力回復です。忘れないうちに、報告書も書き始めます。なんせたくさん回ったので、このテンションのまま書かないと中身が飛んでいきそう(笑)

 

5月31日 ポンホーン郡の生産者2グループをめぐる

まず初めに回ったのはチェンサワン村のシン生産グループ。約2800人の村人のうち160人がODOP認証を受けた織り手さんです。

 

こちらは3色とも自然の色。下から順に、藍、ラック、そして黄色いのは何かの木だと仰っていましたが、失念・・・。

ちょうど絣を織っている最中で、見せていただくことができました。

 

でました、手織りの絣です。この自然な艶感と柄、どれも手に取ると欲しくなってしまうものばかり。だめだだめだ。抑えろ抑えろ。

 

パービヤン(正装のときに身に付けるスカーフのようなもの)もこんなに鮮やか。金糸はどの村も輸入に頼っており、色は自然染めのものもあればきれいな色を出すために化学薬品をつかったものもあるそうです。

 

チェンサワン村では、村長さんとその奥様(シン生産グループを束ねている)、生産者さんなどたくさんのに招いていただいて、昼食をごちそうになりました。ラープもタケノコスープもポディー(丁度いい)な味加減で、もち米を蒸した主食「カオニャオ」がすすんですすんで・・・。ほんとにあぶない。

 

午後にお邪魔したチョンマニー村の生産グループは、「生産グループ」というよりもう、立派な立派な「会社」でした。織り場の中に所狭しと並べられた機織り機で織り上げられていくのは、金糸・銀糸をふんだんに使った、見たことも無いような美しい布ばかり。

 

織りの模様は今まで見た中で一番細かく、伝統衣装一式のセット(スカート、裾布、パービヤン、襟布)あわせて20万円を超えるものもあるんだそうです。それで買い手がつくほどの立派な会社、そして商品のクオリティ。すばらしいというか、すさまじいというか、とにかく普段見れない貴重なものを見せていただけました。視察というより、社会科見学でした。(笑)

 

ポンミー村の生産グループにもご挨拶

チョンマニーからの帰り、私はすでに何度か足を運んでいるポンミー村にも立ち寄りました。

 

いつお邪魔しても温かく迎えてくださるオーナーさんと、織り手さんたち。

 

私の配属先からも数キロで行けるところなので、活動先としては一番現実的。これから、モノづくりを楽しんでいけたらいいなー。

 

そしてこの日も、早めに夕食を終え、私は報告書や自分用のメモ、ブログの作成、そして同期隊員は商品作りで使うパーツをひたすら調べまくる、という有意義な時間を過ごしました。

 

まとめ:視察は同じ職種の人に同行してもらうの最高

そんなわけで、私たちの長い長い4日間の視察行脚、無事終了いたしました。その中で感じたのが、今後も視察はできれば同じような職種の人に同行してもらうのが良いということ。県や配属先は違っても、共通の課題や異なるバックグラウンドを持つJOCVの仲間に一緒に来てもらうことで、1回の視察で入ってくる情報量が2倍にも3倍にもなります。自分ひとりで訪問させてもらった第1回の視察よりも、圧倒的に有意義な時間でした。

 

 

今回同行願ったのは首都のホアイホンセンターに配属されている「デザイン」の職種の隊員ですが、私には無い視点からのフィードバックをこれでもかとくれました。

 

それに、レンタカー代や宿泊費も、1人増えたところで変わらないわけですし、そうであれば一緒に行かないと損だな、とも。

 

何より、自分は局の人や現地の人とのやりとりや調査票、撮影などのデータ集めに時間をつかってしまい、いっぱいいっぱいになる中、しっかりじっくり視察して情報を集め、アイデア出ししてもらえる存在が居るのは本当にありがたかったです。

 

遠いところありがとう!

 

そして翌日、小休憩 

その翌日の土曜日。隣の郡で活動している、唯一の同じ県の先輩隊員を尋ねました。同じナムグム川沿いですが私の任地よりも少し首都寄りで、乗り合いタクシーで行けば往復120円ぐらいで行けるところです。

 

こっちにきて何気に初めての「シンダート」をいただきました。空心菜、しそっぽい葉っぱ、名の知らぬハーブたちを鍋周辺の溝で茹でながら、真ん中の山になっている部分でお肉を焼いて食べるスタイルです。

 

カンボジアにも「カンボジアBBQ」と呼ばれる全く同じような食べ方の鍋料理がありますが、卵に絡めた肉をバターで焼いて食べてたイメージがあって、ラオスのシンダートのほうが「鍋」っぽいかも。こりこりとした食感の乳腺の部分が大変美味しく、付け合わせの軟骨の唐揚げもお持ち帰りしたいぐらい美味しかったです(笑)

 

こんだけ食べてひとり500円ぐらい。コスパ良すぎる~!バンクン、良き~~~~!

 

・・・と、病み上がりのアメーバアラサーは、視察と遊びで満喫し尽くした1週間を乗り越え、この翌日の日曜日は午前中泥のように眠り、その後鬼のように報告書を書いたのでした。

 

おまけ

今回の出張で私の家に連れて帰ってきた布たちをご紹介します。

 

青のシンに合わせて欲しいと思っていたパービヤン(スカーフ)。肩に斜めに掛けて使います。こちら初日に訪れたNapho村のもの。

 

同じNapho村のシン。柄が入っている部分が裾布、その上の赤い布が撒きスカートです。こういう暖色系がとにかく好きです、大好物です。これで4000円弱ぐらい。手縫いのシルクが、4000円弱です・・・。なんてこと。

 

そしてこちらはChensavang村のシン。普段履き用に。

 

日本に帰ったら着れなくなるから、今のうちに着たいもの買っていっぱい着るんだ~~~!!

 

って思ったあとに、日本でもラフに着れるデザインのシンを使った服を作れたら最高だなって思ったので、ホアイホンの同期に無茶ぶりしてみたいと思います。よろしく~!

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視察②その3 東南アジア最後の桃源郷バンビエンへ

さばいでぃー!

こんにちは、ラオスのラオ子です。

 

 

今日はこの記事の続きです。内容的に書けることが少ないので写真ばっかりになってしまいますが、ぼーっとスクロールして旅気分をお楽しみください!

 

 

さよならMaed郡

緑の外壁、赤い屋根と、ビビットOFビビットなゲストハウスを去り、我々ビエンチャン県ODOP探検隊一同はこれよりバンビエンへ向かいます。

 

 

GPSがちゃんと働かなかったので地図を見れず、BanTamからノーン郡までどっちの道で行ったか覚えていませんが、どっちかは大外れ(相当すごいみたい)で、どっちかは外れ(マシ)だそうです。カシ郡、ノーン郡、バンビエン郡を縦につっきっている道まで戻れば舗装されていますが、そこまでは車のサスも自分のサスもガタガタになって壊れるのではあるまいかというほどよく揺れ、よく跳ねます。

 

バンビエンはMaed郡に来る途中素通りしたところなので、一度通ったはずなんですが、やっぱりこの雄大な自然にはカメラを向けずにはいられません。

 

この切り立った山々、中国4000年の歴史感ある。中国行ったこと無いけど。

 

ハロン湾の山々にも似てますね!ハロン湾も行ったことないけど。

 

途中、賊に何度も囲まれながら、前日の大雨でぬかるんだ未舗装の道を50km引き返します。

 

神様や仙人が生活していても何ら違和感の無い、この大自然。自然と、「うわぁ~~~・・・」と声が出てしまいます。言葉にはならない。

 

「コミュニティ開発っていうぐらいだから、こういう山岳民族みたいな人たちと製品作りやるんだと思ってたわ~」と、モン族の村を抜けながら同期と話していましたが、こんなにも生活の難易度爆上がりしたら生きるのに精いっぱいで2年終わるわ、という結論に至りました。「大自然」のレベルが、私の知っているものではなかった・・・。

 

ラオスは内戦・ベトナム戦争などの被害を受けた歴史があり、その時にばら撒かれた不発弾処理に今もたくさんの方が尽力されている国です。それはつまり、未だその被害が起きているということ。早く100%クリーンな土地に戻りますようにと願いたい気持ちは変わりませんが、この山々を見てしまうと、それがどれほど果てしなく先の話なのかということを実感せざるを得ません。ラオスは8割が山。GoogleEarthで航空写真をご覧ください。本当に、国全体が、綺麗な緑色。

 

バンビエン着!

3時間以上がたがたと揺られ続け、ようやくたどり着きました!こちらがバンビエンです。さてこれから、その観光スポットを満喫すべくまずはレンタサイクルでブルーラグーンへ・・・!

 

というのは、観光で来たときの楽しみに取っておきます。4時前に到着したときにはひとつもテントが無かったのですが、少し部屋で休憩して外に出たら、夕方にはこの賑わい。

 

東南アジアを旅行されたことがある方はなんとなく既視感があるかもしれませんが、量産されているようなものはだいたい近隣国から入ってきている印象です。なにせラオスは、タイ、中国、ベトナム、カンボジア、ミャンマーの5か国に囲まれた内陸国。タイ、中国、ベトナムのように大量生産の基盤が整った国から流れてくるお土産はカンボジアでもラオスでもだいたい同じようなものになるんでしょうか。

 

せっかく素敵な手工芸が伝統として色濃く残っているのに、なんたる機会損失。と思ってしまいますが、大量生産すれば原価は安い。そして生活のためには稼がねばならぬ。

 

とはいっても、もっと”ラオス”のものが人の手で世界中を旅する未来があってほしいなあ。

 

写真がなんとも微妙ですが、こちらのカバンはラオスで手作りされたものだそうです。鞄じゃなくて、物入れにして部屋に置いておきたい。

 

ビンテージのシンを取り扱う布屋さんにもお話を伺うことが出来ました。外国人観光客向けのお土産を開発するのであれば、こういうお店の人からの情報はかなり大切です。

 

こちらはフアパン県サムヌア地方から来られた女性のお店。”サムヌア”はシンの一大生産地で、「織りといえば京都の西陣!」というぐらいのブランド力がある場所です。(いつか行ってみたい・・・)奥の方にかかっているのがサムヌアの織りです。綺麗すぎて触るのもためらう。

 

 

・・・という感じで、バンビエンのお土産屋さん巡りを終えました。(他にも色々まわりましたが割愛します。)

 

任地のハンディクラフト製品にはおしみなく生活費を使い還元しようと心に決め、Napho村ではお気に入りの色のシンを1枚購入したのですが、ここバンビエンでは素敵なシンに出会えなかったため、かわりにポーチを大量買いしてきました。

 

あら、ゆる~い刺繍でかわいい。

 

とかいうレベルじゃない、視点の定まらないネズミとがたがたな英語、

 

「I AM FAMOUS MANGO BOXER」と書かれたコンセプト不明のもの、

 

いや、オレンジじゃなくて桃やん、とつっこみたくなるハッピーな桃など、

 

たくさんのコンセプト迷子なゆるすぎポーチに出会ってしまい、ついつい8個も買ってしまいました。(同期も5個買った)

 

そして、重度のカフェイン中毒な私は、出張でコーヒーが飲めずカフェイン欠乏で頭痛がとまらなかったため、そのまま近くの病院(カフェ)へ。

 

ここで出てきたのが、普通の倍ぐらいあるんではないかと思われる大きなマグカップ!!同期は途中でギブ、私も1杯飲み切ったころには胃がムカムカ。ここに来る前に食べたロッティー(パンケーキみたいなもの)が胃に入っていなかったら、あやうく胃薬のお世話になるところでした。

 

ホテルに戻ったのが夜10時ごろ、そこから順番にシャワーを浴びて翌日の準備をして、日付が変わるころにはベッドに入ったのですが、二人ともカフェインで交感神経が刺激されつくしてハイになっていたため、全く眠れず。

 

買った商品や、視察で撮った写真を見返しながら、これからどんな形にしていくかのデザイン画を各々描いて見せあっているうちに、気づけば夜中2時。そこからは、なんとな~く浅い眠りにつけたような・・・ような。

 

5月30日朝 雨上がりのバンビエン

朝6時に起きてカフェ活しよう!と言っていたのですが、カーテンの向こうで雨がガラスにたたきつける音がしたのでそのまま二度寝。6時半ごろから国家やラジオ?が仰々しく鳴り始め、雨も小降りになってきたので、少し街中を散歩することに。

 

 

雨でしっとり濡れた橋の下には、昨晩より少し増水したナムソング川。

 

層雲に囲まれた山々とゆっくり流れるナムソング川、そして観光地と思えぬ静けさ。この独特の雰囲気、・・・大好物です。

 

この日は、郡の産業商業局局長へのご挨拶、タフア郡の魚製品生産グループ視察、グループ長への挨拶など、帰り道でいくつかの予定が入っていました。

 

腹が減っては戦は出来ぬ!と、30,000KIP(400円程度)のハンバーガーを朝から胃に叩き込むことに。

 

いやぁ・・・多すぎた・・・。完食も出来ませんでした。コーヒーは、近くのカフェでお持ち帰りしたのですが、ラオス南部のボラベン高原産のアラビカ種だそうです。ハンバーガーがきつすぎてコーヒーを味わう余裕はありませんでした(笑)

 

卵にパテにベーコンに、盛りだくさんのハンバーガー。バンビエンを訪れたら、朝食に是非お試しください!

 

続く

次回(で、まとまるかな・・・?)、バンビエンから任地への道中の視察レポートと、その翌日に行った近隣郡の生産者レポートをお送りします。

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視察②その2 Maed郡シン生産者グループ

さばいでぃー!

こんにちは!ラオスのラオ子です。

今日は、前回書いたこちらの記事の続きです!出張1日目(5月28日)はビエンチャン県いちの田舎だと言われているMaed郡(ラオ語ではແມດ郡と書きます)産業商業課を訪問、2日目(5月29日)はMaed郡のシン生産グループの視察に行ってきました。

 

 

Maed郡へのアクセス

Vientiane県Maed郡へは、今回はレンタカーを借りて行きました。首都からロットゥーが走っているようです・・・が、道中かなりの危険が伴うため、おすすめしません。

ちょうどMaed郡に滞在中に大使館から頂いた注意喚起のメールに「雨季は危険が伴うため陸路移動を避けてください」と書かれていたのですが、まさにその地域です。

 

こちらバンビエン郡内にある大きなセメント工場のひとつ。バンビエンから更に北上していく道までずっと、中国が現在建設している鉄道のすぐ近くなので、道幅に合っていないトラックがばんばん通ります。危ない!!!とひやひやしながら山を越えていきます。

 

私の任地ビエンカムから3時間ほど走りバンビエンでいったん休憩。切り立つ山々が「The ラオス」って感じがして胸が躍ります。

 

川沿いのこんな長閑な景色の中、お昼を頂きました。お昼に食べたのは、カウンターパートが持ってきてくれた、自分の家で育てたもち米のカオニャオと、お店で頼んだ卵焼き、焼き魚、豚肉などなど。これから更にハードになる長旅に向けてしっかりお腹を膨らませます。(後部座席でうとうとするだけですが・・・・。)

 

バンビエンからさらに北へ向かい、ノーン郡というところから目的地のMaed郡へは、未舗装の道のりを約50キロ。木の橋を越え、大きな水たまりを越えて、ひたすら南下します。

 

切り立つ山々に、「ビエンチャン県で一番の田舎よ!」と言われていた意味が徐々に分かってきました。

 

電波もなければ、舗装された道も商店も店も無い道を、ただひたすら真っ直ぐに進んでいくこと3時間。ようやくMaed郡に到着しました。

 

ゲストハウスに着いたのが16時ごろだったので、その日は郡の産業商業局の局長に挨拶し、少しお話を伺うことに。

 

場所が場所なだけに産業や観光業からの税収は無いに等しく、手工芸も織物のみ、というのがMaed郡の現状のようでした。

 

Maed郡での食事

その日の晩は郡の販売促進課の方と一緒に夕飯を頂きました。「ベー」の肉が美味しいお店につれて行ってくれました。

 

これは「ベー」の「ピア」です。これに「ベー」をディップしていただきます。

 

そしてこちらが「ベー」。

 

「ベー」はラオ語で山羊、そして「ピア」は胆汁のことを言います。つまり、最初の深緑色のスープは、山羊の胆汁を使ったつけ汁・・・。腸内に残っていた胆汁まで食材に!最初に牛のピアを食べるときはさすがに抵抗がありましたが、2回、3回と場数を踏んで(?)いくにつれ、抵抗というものも徐々に無くなっていきます。慣れってすごい!

 

外国人観光客向けのホテルというものはもちろん無いので、この日のお宿は平屋建てのゲストハウス。電力はかなり不安定でしたが、停電・断水なく過ごせました。

 

Napho村シン生産グループ

さて、2日目はいよいよNapho村のシン生産グループの視察です。泊まったゲストハウスから1キロほどの場所まで歩いていくとグループをとりまとめている方の家があるのですが、そこにたどり着くまでにも機織り機が置いてある家庭がありました。

 

これはラオスの巻きスカート「シン」の「裾」になる部分で、「ティンシン」と呼ばれています。暖色でまとまっていてとっても私好み・・・。

 

この小道を抜けた先にシンの生産グループの作業場があります。切り取りたい景色が多すぎる・・・。

 

こちらが、Napho村の生産者さんたちが機織りをしている作業場。ご覧の通り自然に囲まれています。鶏があちこちで鳴いていたり、子どもたちの声が聴こえたり。そして作業場からは「トントン」と布を織る音が聴こえたり。耳に優しい世界。

 

中に入るとお母さんがた3人が撒きスカートの本体部分「プンシン」を織っている最中でした。

 

裏面なのが残念ですが、ご覧ください、この細かな仕事。

 

何度見ても、何をしているのかさっぱりわかりません。私と同期隊員も1往復だけ織りを体験させてもらいましたが、経糸を分けるための板の重いこと!緯糸を1往復させるたびに、この板の場所を変えるのですが、前かがみでやるにはかなり重労働。軽々やっているように見えて、機織りは集中力と共に体力も要する作業だということを、身をもって学びました。

 

養蚕しているところが見たいとお願いしましたが、村の中心部ではなくもっともっと田舎のほうで育てているから連れていけないとのこと。カンボジアのIKTTでも、香水や香りのきつい柔軟剤を使っていないかの確認が事前にありましたが、「音」も蚕にとってはストレスになるので、できるだけ田舎のほうで育てるんだそうです。蚕さん、とってもデリケート。

 

これがNapho村で養蚕して紡がれている糸を自然の色で染めたもの。自然の色で染めると、こんなにも自然な色になる。 日本で暮らしていて、どれだけこんな自然な色の布に触れる機会があったかなと、ふと考えました。

 

織り手さんたちはみんな子どもを立派に育て上げたお母さん世代。

 

この技術と伝統を次に繋ぐには。そのために自分には何ができるか。

 

2年の間に答えが出る気がしない・・・。

 

金糸は中国からの輸入だそうですが、こちらは認証要件を満たしたODOP商品たち。

 

あまりの美しさに、つい1枚・・・買ってしまいました。パービヤン(スカーフ)もセットで欲しかったけど、べらぼうに高い。(といっても、首都で買うよりもかなりお得に買える。)

 

首都に持っていく布たちも見せてもらいました。魚をモチーフにしたビエンチャン県のシンボルマークが織り込まれた美しい布たち。同期隊員はこちらでめちゃめちゃ素敵な布に出会い、お持ち帰りされました。

 

この日実施できたこと

・Maed郡産業商業局の局長への挨拶

・Napho村シン生産グループ視察およびグループ長へのアンケート実施

 

局長とのお話やアンケートの内容は、生産グループでヒアリングした内容も含めてこれからまとめていきます。

 

そしてバンビエンへ

視察が終わったあとは、村の近くのフォー屋さんで軽く昼食をとり、バンビエンへ!

50キロ以上の未舗装の道をとんぼ返り。途中ぬかるみにはまって抜けられなくなるという絵に描いたようなハプニングを経て、野を越え山越え、ついでにこんな川も越えて向かいます!強いぞランクル!さすがだトヨタ!!!

 

にしても、確かにこれ、雨季になったら危ないわ。大使館情報、命を守るためにしっかり読もう・・・。

 

 

その3に続く。

 

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視察②その1 生産グループ出張に行ってきます!

さばいでぃー!

みなさんこんにちは、ラオスのラオ子です。5月27日から6月1日まで、首都の同期隊員が任地ビエンカムを訪れてくれています。目的は、タイトル通り生産者さんの視察とお土産屋さん調査です。

 

 

実をいうと、アメーバにかかってから1週間以上経ってもまだ胃腸は本調子ではなく、胃がむかむかする感じが残ったままだったのですが(数日絶食状態だったから、そりゃそうか・・・)、早く活動したい気持ちが圧勝して計画通りすすめてしまいました。本当に、ヤツ、なかなか強敵です。ずっと引きずります。気を付けましょう。気を付けようがないけど。

 

視察のスケジュール

5月28日 ビエンカムからMaed郡に移動、郡内視察(Maed郡泊)

5月29日 Maed郡Napho村織物生産グループ訪問、バンビエンに移動(バンビエン泊)

5月30日 バンビエンのお土産屋さん視察、ビエンカムへ

5月31日 ポンホーン郡内の織物生産グループ2グループを視察

 

というスケジュールですが、多分このブログを読んで下さっている方のほとんどが「どこ?」という感じだと思うので、地図で示してみました。

 

 

青いピンが3本立っている少し下についている◎が首都ビエンチャンです。

 

上のピンの一番下、Toulakhomという場所の近くが私の活動場所で、初日に行くMaed郡Napho村は地図左上のピンのあたり(らしいけど、本当かなあ・・・)、そしてバンビエンは右上のピンのあたりです。Phonhong郡は、私の任地の左上なので、日帰りで2か所見学に行きます。

 

旅行が好きな方は「バックパッカーの聖地」としても知られるバンビエンのことはご存知かもしれません。私の任地からNapho村へは約230km、Napho村からバンビエンへは130m、そして任地へ100kmと、往復460kmの道のりです。

視察の目的

今回の視察の目的はただひとつ、「シン(ラオススカート)」の生産者さんに会い、情報収集を行うことです。本来であれば自分で一度足を運んで情報収集した上で同期隊員に来てもらうのが正攻法かなと思ったのですが、あまりに遠く費用も掛かる場所なので、初視察に同行してもらうことになりました。

自分だけだと調査票の質問をして見学をして、と色々する余裕が無いので、デザインや作業工程を見てくれる人がもう一人居てくれると、1回の見学で得られる情報量が増えて助かります。本当にありがてぇ・・・。

 

視察の準備

先輩隊員の質問シートや過去の専門家さんの報告書を参考に、どんな情報を蓄積すれば後々の活動に役立てられるか考えて質問シートver.1を作り、いざ!

 

・・・というわけにはいかず、まず費用を配属先・JICAがどれだけ負担するかという話し合いに始まり、スケジュールの確定、企画書、申請・・・と、配属先にもJICAにもいろいろな書類作成が必要となります。

そして、私が配属されている「ビエンチャン県産業商業局」から、各郡の役所に訪問のレターを出してもらい、郡職員にも同行してもらうため、カウンターパートの助けがなければとてもじゃありませんが行けません。自分の企業向け研修の準備もありかなり大変な中、ありがとう、Sさん。どうやってお返しすればよいか。

 

いってきます!

というわけで、まずは明日から2泊3日で、Napho村とバンビエンに行って参ります。良いレポートが出来るように情報収集に励みます。

 

最近書いたノート

ぶつぶつつぶやいてます。

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