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近況報告その2

さばいでぃー!

こんにちは、ラオスのラオ子です。

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前回の記事の通り、無事ラオスに到着しました!全部いっぺんに書くと、記事のボリュームがたいへんなことになりそうだったので、隔離までで一旦区切らせてもらいました。今日はその続きを書いていきたいと思います。

 

9月26日 隔離終了

隔離が終わった日の朝、はじめてビエンチャンの街を歩きました。空港出口からバスまでの数十歩と、バスから隔離ホテルまでの数十歩以来、14日ぶりの外の世界です。雨が降りそうなぬるーい風が吹いていて、日本円からラオスキープに両替できるところがないか探していたらやっぱり通り雨に打たれました。

 

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メコン川ぞいのこの道は、”いつも”なら、渡るタイミングを見計らうのにしばらく立ち止まるぐらいの交通量がある場所なんですが、見渡す限り1台も車がありません。こんな景色、見た事ありませんでした。

 

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この道も、”いつも”ならトゥクトゥクが客待ちしていて、バックパッカーが歩いていて、バイクもあちこちに停まっていて・・・という、よくある風景があったはずですが、ご覧の通りがらーんとしています。

 

大通りには何か所も規制線が張られ、往来が制限されていました。そのチェックポイントが見られるマップがあったのですが、もう、真っ赤っか。あっちもこっちもチェックポイントだらけでした。諸手続きのため、パスポートを事務所に預けた状態になっていて、もしチェックポイントで何かあった時に出せる証明書がなかったので、出歩くのは本当に最小限にしました。

 

9月30日 ロックダウン終了・・・とはいかず

 

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ロックダウンの期限とされていたこの日、政府は、10月15日までのロックダウン延長を発表しました。

 

正直なところ、祈るような思いでロックダウンが終わるのを待つこともないぐらい、当たり前の措置だったので、ショックも動揺もありませんでした。市中感染、各地で起きた様々な規模のクラスターを考えると、政府発表を見た時は「うーん、そうなるよなあ。」という気持ちで、わりとすんなり受け入れられたと思います。(もちろんそのあと落ち込みましたが)

 

それから今に至るまで、ロックダウンは継続していますので、最低限の日用品や食料の調達にとどめ、できるだけ人との接触を避けてホテルで待機する日々が続いています。街中を歩いていると、「ໃຫ້ເຊົ່າ(for rent)」の張り紙があちこちに貼られていて、シャッター街のなかにぽつぽつとお店があいているような感じ。何度も通った老舗のレストランの看板が剥がされているのを見て、なんとも切ない気持ちになりました。明らかに増えた空き物件の軒下で日差しを避けて寝ている人たちは、靴を履いていたり、そうじゃなかったり。ホテルのテラスでフードパンダが来るのを待っていたら、手を合わせてお金をくださいとお願いされたり。往来が減ったぶん相対的に目立っているだけで前からこれぐらい居たのか、と初めは思いましたが、あきらかに以前より増えているということを実感しています。

 

10月3日 おかず横丁にハマる

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これは通称「おかず横丁」と呼ばれる、JICA事務所近くの通りです。昼間はがらーんとしていますが、夕方になるとあちこちからもくもくと美味しそうな煙があがり、おかずを求めてやってくる地もとの人たちで賑わいます。隊員も、ここかメコン川沿いの屋台によくお世話になっていましたが、レストランがまったくない任地に居た私は「上京したときはラオ料理以外のものが食べたい!」という思考になり、あまり行ったことがありませんでした。

 

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ところがどっこい、なんですが、この1本100円のソーセージ。任地でも食べてはいたのですが、久しぶりに食べたからか100倍ぐらい美味しい。それに、普通の、辛いの、酸っぱいの、甘いの、と4種類あって、飽きません。これにカオニャオ(蒸した糯米)を20円分と、100円の激辛パパイヤサラダを足せば、それだけでお腹いっぱいです。

 

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日本での待機期間中、ラオス料理が恋しくなったらタイ料理屋に行ってイサーン地方の料理を食べてしのいでいましたが、この写真の一番手前にある「ゲーンノーマイ(タケノコスープ)」には出会えませんでした。緑の何らかの葉っぱを叩いて作る深緑色のスープに、たくさんのタケノコとかぼちゃ。独特の苦みの中にも何のダシか分からないダシっけが効いていて、これがほんとうに美味しいのです。これもたっぷり1人分で50円前後。ああ天国。

 

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「明日はピンカイ(焼き鳥)もええな~!」なんて、次の日の夕飯の心配までしながらおかず横丁を端から端まで歩いて、こっちの店でちょっと買って、あっちの店でもちょっと買って、と、24時間のほとんどをホテルで過ごす私のちょっとした気分転換だったわけですが・・・

 

10月5日 おかず横丁がレッドゾーンに

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あっけなかった・・・。

 

近所の方に聞いてみたところ、「7日間はあかないよ」とのこと。がっかりしすぎてしばらく食欲が湧きませんでしたが、ぎりぎりのところで気持ちを保って豆乳とカオマンガイを買ってホテルに戻りました。せっかく見つけた、安くておいしい夢の国だったのに。

 

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昨日まで元気だった通りが一晩でもぬけの殻になってしまったのを見て、コロナが誰にも起こりうる身近な感染症で、そして自分たちも常にその危険に晒されているのだと痛感しました。そしてなにより、ここは確かにビエンチャンなんだけど、私が知っているビフォーコロナのビエンチャンはもうとっくにどこかに行ってしまったんだなあと思いました。

 

もしロックダウンがなければ私はもう任地で活動をしていたはずですが、いつ赴任できるか、今どういう状況なのかもよくわからないまま毎日が”すり減っていく”ことに、少し疲れを感じています。

 

さよなら、ありがとう

 

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そしてもう一つ。時系列が前後しますが、9月30日をもって、ラオス協力隊員専用ドミトリーが廃止になりました。赴任後1カ月間の語学訓練は、同期隊員とこのドミトリーで共同生活し、それぞれの任地に旅立ってからも私事・公用目的の上京の際にはこのドミトリーで寝泊まりや自炊ができました。1年に1度の隊員総会では、地方隊員でドミトリーが満床になり、任地での一人ぼっち暮らしとは全然違う、賑やかな毎日でした。私は地方隊員といっても首都に近いほうだったので、自称「週末首都隊員」となり、上京してあちこちのハンディクラフトショップをめぐったり、レストランやカフェを開拓したり、任地に持って帰る食料品を調達したりしていたので、このドミトリーは本当によく利用しました。私物も置いておけたので、身軽で来れたのもありがたかったですし、メバーン(お手伝い)さんがいつも綺麗にしてくれていたので、安宿によくあるベッドバグ(南京虫。発狂するぐらい痒い)なんかの心配もしなくていい、隊員にとっての拠り所のような存在でした。

 

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これはドミトリーの2階共用スペース。ドミトリー自体は十数年前に今の場所になったそうですが、本棚には、その前からあったと思われる本がずらり。1階の共用スペースはキッチンが近いので、ご飯を食べたり話したりするのに使われていましたが、2階はどちらかといえばゆったりしたい人向けで、奥の机で勉強したり、ある日突然「国際協力って何なんだ…」って迷走しだしたら過去の先輩が置いていってくれた本を漁ったり、一周回ってブッダの教えを読んで悟りを開こうとしてみたり、静かに自由に過ごせる場所でした。

 

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ラオスは協力隊事業で一番最初に派遣された任国です。私たちの隊次でちょうど派遣者数が1000人を超えたのですが、今まで派遣されてきたたくさんの方が残してくださった書物やDVDをはじめ、活動備品、タコ焼き器など、歴史を感じるものから痒い所に手が届くものまでバラエティ豊かに色々揃っていました。

 

ある日「マウス壊れちゃったんですよねー。ミニソーやってるかなあ~」と出かけようとすると、先輩隊員が「確かここにあったよ」とdynabook用のBluetoothマウスをどこからともなく出してきてくれたことがありました。このマウスは今でも使っています。見つけてくれた先輩隊員、置いて行って下さった名も知らぬ先輩隊員さん、ありがとうございました…。

 

帰国前に「持って帰れないけどまだ使えるもの」を置いていく、通称「ドミマーケット」というスペースがあり(といっても茣蓙を敷いてあるだけですが)、そこに帰国隊員が置いていったものをありがたく貰って、そしてまたそれが巡っていく・・・というのができたのも、ドミトリーあってこそでした。

 

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この棚には、先輩隊員が各地で貰った記念品や盾、でっかいゾウの置物などが誇らしげに並んでいたのですが、私が隔離を終えてドミトリーに来れるようになったころにはもう殆ど無くなっていました。

 

ドミトリーは、便利なだけの場所ではありませんでした。赴任して最初の1カ月間は、たまたま上京した先輩に生活のちょっとしたtipsやおすすめのお店を教えて貰ったり、任地の先輩と繋いでもらったり、活動のことを聞いたり、旅行に行くならどこがおすすめとか、どうやって行ったら安く行けるとか、生きた情報はなんでも手に入りました。

 

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今思えばちょっと言葉選びが尖ってるなあと恥ずかしい気持ちになりますが(笑)、2年半前に赴任したときに受けた「キンビア(飲み会)」の洗礼についての記事です。

 

赴任した直後の飲み会でえらい目にあい、自分が「飲めない」と断る事で関係が悪くなるのではと考えたり、場がシラけたりするのが本当に辛くて、それでも飲めないものは飲めなくて、どうにかどこかに逃げたくて、4月の旧正月は誰とも何の約束もなく首都にあがりました。

 

その時たまたまドミに居た先輩がお昼に誘ってくれて、任地であったことを話し、ずいぶん心が軽くなったのを覚えています。その後、同期隊員がドミに来てくれて、大人げないぐらい大きい水鉄砲を買って街に繰り出し、氷水まみれ、口紅まみれ、ベビーパウダーまみれになって、水祭りを思いっきり楽しみました。家の前にテーブルを出してキンビアしていたおじさんたちにビールを渡されたら、ペタンクしてるの眺めたり、たまに踊ったりして雰囲気だけ楽しみながら、一緒に居た同期は空になったビール瓶と私が持っていた1ミリも減っていないビールをこっそり交換してくれました。

 

その後上京した別の先輩のなかにもキンビアに参加できない人は居て、その人が「キンビアでしかできないコミュニケーションもあるけど、活動で信頼関係ができるように頑張ることはできるし、そっちを頑張ったらキンビアのことも割り切れる」と迷いの無い言葉で言ってくれたおかげで、私はその後のキンビアをすべてエリカ様のごとくお断りし、そのかわりキンソム(おやつタイム)に積極的に参加したりだとか、活動のことを誰に聞かれてなくても報告しまくってひたすらアピールしたりして、「キンビアできないこと」に対しての不安をなくしていけたんだと思います。(あの節は皆さま本当にお世話になりました…。)

 

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なぜか同期隊員と同じ名前がつけられたネコ。誰かがいたずらでつけたのかと思いきや、ガードマンさんいわく「ラオスの名前だよ」とのこと。なんて偶然。

活動がうまくいかなくて愚痴りあったり、こうすればいいんじゃない?あの人に相談すればいいんじゃない?という助け船が出たり、どこどこに旅行に行きたいんだよねー、あ、私も!じゃあ一緒に行こう!!なんて話になったり、ドミトリーはとにかく、縦にも横にも斜めにも?職種や隊次を越えて色んな繋がりができて、ラオス生活を何倍にも何十倍にも楽しめるハブになっていたと思います。その場所がなくなってしまうのが悲しすぎて、ドミトリーのなかを写真におさめて、一緒に悲しんでほしくて、いろんな人に転送しまくりました。

 

私の荷物もほとんどさようなら

 

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日本に一時退避したときに任地の借家に置きっぱなしにしていた荷物を引き上げて、このドミトリーに詰め込んでもらっていたのですが、その段ボールをひとつあけるたびに、カビだらけになった日用品や未開封の食品、本、シン、活動で作った雑貨のサンプルなどなど、懐かしい気持ちになるものがわんさか出てきました。タイムカプセルでもあけているような気持ちになりましたが、「ダメになってなさそう」なものだけ選んで残りは全部さよならしたら、殆ど残りませんでした。ビフォーコロナならドミマーケットに並べて帰っていたであろうものもたくさんあって勿体ない気持ちになりましたが、さすがにカビたものを誰かに渡すわけにもいかず、泣く泣く捨てたものもたくさんあります。

 

ギターはボディもストラップも白かびでポワッポワ、カホンは湿気で音が鈍くなって全然響かず、どっちも状態を戻すのに時間がかかりましたが、メコンバンドで演奏したの楽しかったなーまたやりたいなーなんて思い出しながら楽器のメンテをする時間があってよかったなと思っています。(私が飛ぶ前にロックダウンしてしまったら、今ここに居ることはできなかったかもしれないので)

 

コーヒーワークショップで使った焙煎用の網、ドミや任地でみんなでコーヒー飲んだコーヒーグッズたち、赴任したとき語学の先生に連れて行ってもらった市場で初めて買ったシン、先輩にもらった布やこっちで仕立てた服、JICAポロシャツ… いろんなものに思い入れがありすぎて、今度帰るときにどれだけ超過料金を払えばいいのかわかりませんが、誰かに大切にしてもらえるなら喜んで手放そうと決めて、任期を終えるまで大切に使っていきたいと思います。

 

近況おわり

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長々だらだら書きましたが、今の状況をざっくり説明すると、いつ任地に行けるのかの見通しも立たず、前に住んでいた家に戻れるのかどうかも分からず、首都のホテルでロックダウンが終わるのをただ待っております。

 

そして、今日発表の感染者数は、首都だけで450人、ラオス全土で731人、しかもそのうちほとんどが市中感染と、ロックダウンでコントロールできているとは言い難い数字になってしまっています。これでまたロックダウンが伸びたらと思うと正直気が滅入りそうです。今のところ、自分が感染しないことと、そこに人を巻き込まないことしかできることが無いので、過剰なぐらい敏感になって日々過ごしたいと思います。

 

1日も早く任地に戻れますように・・・。

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ただいま、ラオス!

ສະບາຍດີ!

みなさんこんにちは、ラオスのラオ子です。3月22日に、荷造りについての思わせぶりな記事を更新してから半年が経ってしまいました。半年というのは、その記事を書いたことすら忘れるのにちょうど良い期間で、つまり私は3月にブログを更新したことすら忘れていたわけですが、なんとなんと、この度わたくし、ラオスに戻ることができました。

 

近況報告するにしても期間が空きすぎていて、何からどういう風に書き出したらスムーズに書けるのか考えているうちに入国時の隔離も終わってしまったわけなんですが、日本に帰ったところからサッとおさらいしておきたいと思います。

 

2020年3月 ラオスから日本へ緊急退避

 
その時に書いた記事がこちらです。「明日の晩の便で帰ります!」と突然連絡が来て、家の荷物も頭の中もまともに整理できないまま帰ったのがもう1年半も前の話になるんですね。ここから今に至るまで、楽しいこともたくさんあったし、活動もいくつかしたんですが、それでもやっぱり私にとっては「空白の期間」です。これはまた別の機会に書きたいと思います。
 

2020年7月、11月 隊員続けるか、待つか、やめるか

緊急帰国した当初は「まあ3か月程度やろ~」とお気軽な気持ちでいたのですが、そこから数か月で世界はこんなことになってしまい、私たちは2020年7月に1度目の選択を迫られました。そして11月末にも、第2回目の選択の時がきました。その選択の内容がどんなだったかは下の記事にありますが、簡潔に言うと、
 
1. 再派遣され次第すぐに行けるように隊員を続けるかわりに、任期が減る
2. 「特別登録」という制度を利用し、一旦隊員をやめるかわりに任期が減らない
3. 完全に隊員をやめる
 
です。私は、7月の段階では1を、11月末に2を選んで、特別登録隊員になって再派遣を待つことになりました。
 
 
その時の葛藤はここに書き溜めてあります。今読み直してしみじみ思うのですが、あえて思ったままの言葉で書くと、病んでますね(笑)
 
そして12月初旬に、それまでキープしてもらっていた任地の家をオンライン引き払いにより手放し、私の荷物は全部隊員ドミトリーに移されることになりました。
 
ちなみにこの年の年越しは、神社で高校生・大学生の奉仕者に混じって縁起物や甘酒を売っていました。高校生のころから、実家に居るときはだいたいお世話になっている神社です。13年ぐらい前に初めて奉仕してから、今年で6回目でしょうか。いつもお世話になっております。
1月1日は大雪。でも、そのせいだとは言い難いお客さんの少なさで、いつもは参道の外までずらーーーっと並ぶ参拝者の列が、今年は1度もできなかったのを見て、ああやっぱり世の中は変わってしまったんだなあと感じました。

2021年2月 仕事開始

私は特別登録隊員になったので、再派遣の目途が立ったら自分で時期を選んで派遣してもらうことができます。10月から11月に行われるハンディクラフトフェスティバルに、あとから来る隊員さんたちと一緒に参加したい!という一番大きな目標を達成すべく(伏線ではない)、後片付け・引継ぎなども含めて12月に帰国することにし、そこから逆算して、再派遣してもらえる派遣日数180日をすべて使って、6月にラオスに行けるように手続きをすすめていきました。
 
そして、そろそろ私の口座が限界を迎え、絞っても雫の1滴すら落ちなくなってきたので(笑)、またドラッグストアで働くことに。大学のころバイト先の先輩に脅されて登録販売者を取ったことを、こんなに感謝する日が来るなんて・・・。
 
大学4年間+カンボジアから戻ってからの2年間(バイト・パート)1社目
協力隊受かってからの1年間(パート) 2社目
2021年2月から(派遣社員) 3社目
 
と、色んな雇用形態で色んなドラッグを渡り歩く謎の人生です。
楽しいし、大好きな仕事です。
 
入社当時は、6月には旅立つ予定でしたが、4月の旧正月の後にラオス国内の陽性者数が増えてしまい、ロックダウンがなかなか解除されず、パスポートが作れない、配属先との手続き、滞在許可や入国許可などの手続きが進められないなど、あらゆる障壁が立ちはだかることとなりました。そして、ロックダウンが解除され、最短でこれらの手続きを進めてもらっているあいだにワクチンを打ち、なんとか出国できたのが9月11日でした。
 

2021年9月 日本→ラオス

パスポートが作れて、配属先との手続きや、日本側・ラオス側のあらゆる許可がもらえたとしても、正直ラオスについてパスポートにハンコを貰うまでは安心できません。クアラルンプール⇔ラオス間は毎日運航されるわけではないので、もし何か起きて乗り継ぎができなかったらクアラルンプールでのリアルターミナルが始まりますし、日本・ラオスでのPCR検査で万が一のことがあったらもう大変です。一緒に渡航する隊員同士も一定の距離を保って、厳戒態勢でラオスに向かいました。

 

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まずは渡航の際の日程から。

 

1日目 実家→成田(PCR検査)
2日目 成田→クアラルンプール(トランジットホテル泊)
3日目 クアラルンプール→ビエンチャン(隔離ホテルへ)
 
前回の渡航では、朝7時に羽田集合で夜にはラオス!というスケジュールでしたが、2泊3日ともなるととても遠くの国に行くような感じがしました。
 
最後の日本メシは、出発当日朝9時、羽田のマクド。他の隊員が「チキンクリスプがうまいっス」と教えてくれて、私はファミチキ的なものが出てくると勘違いして月見バーガーと一緒に注文したのですが、しっかりバンズに挟まれたバーガーが出てきてちょっと動揺しました。朝からバンズ2つはキツかったです。
 
チェックイン時には、陰性証明、ワクチン接種証明、入国許可証など、何種類かの提示が求められました。ちゃんと全部印刷してきたかここで突然不安になり始めるのは、ちゃんと準備できてなかった証拠ですね。
 

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そして横1列誰も座っていないガラガラのANAで、台風14号に軽くご挨拶しながらクアラルンプールに到着しました。ここでは入国せずに、トランジットホテルに1泊して翌日のフライトでビエンチャンに行くことになります。

 

飛行機降りたところに「ビエンチャン行き」のボードを持った方が待っていてくれたのに、「あれって今日のトランジットの人ってことかなー?」という感じで全員スルーしてしまいました。その後、どうしていいか分からなくなってうろうろしていたところにこのスタッフさんが話しかけてくれてようやく手続きがすすめられました。(お兄さんごめん)チェックインカウンターでも、成田と同じように何種類かの書類の提示が必要で、手続きにも結構時間がかかりました。

 

 クアラルンプールに来て驚いたのですが・・・本当に人が居ない!免税店も閉まりまくっている!スタバに行ってマレーシア限定グッズ買いたかったのに、もちろん閉まっている!レストランは数店舗あいていましたが、検温、記名、ワクチン接種証明書の提示が義務付けられていて、そう思うと成田空港はゆるかったなあと思いました。

 

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そしていよいよラオスへ。隣の席こそ誰も乗らなかったものの、成田ーKL便より混んでいたので、二重マスク、消毒しまくり、トイレはなるべく使わない、の厳戒態勢で爆睡しました。

 

そしてラオス到着後は、空港内に設営された会場にて、流れるように2回目のPCR検査。感傷に浸るまもなくブースの椅子に案内され、口腔内を綿棒でゴシゴシ。「はぁ終わった・・・」と思ったら「上向いて!次は鼻ね」と指示され、成田のときの優しい検査とは比にならない痛さに何度かえづきながら無事検査を終えました。

 

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そしてついに!この1年半、何度夢に見たかわからないラオスのハンコが!緑のパスポートに押されました!
 
この看板を見て、じわーっと目頭が熱くなりました。ラオス語で書いてあるのはもちろん、「ようこそラオスへ」。その下には、いちばんかっこいい角度のタートルアン。ブッダの遺物が塔内に遺されているといわれている、黄金に輝く仏塔は、国章にも描かれているラオス仏教のメッカ(という言葉をここで使うのは適切かどうか分かりませんが)です。クメール様式の寺院が改修されたものらしく、私がここに来るきっかけをくれたシェムリアップと地続きになっていることを感じられて、ことばにできないパワーを貰える場所でもあります。
 
タートルアン祭 – ラオスのラオ子。(ここに黄金に輝いてる写真のせてます!) 

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ああーこの景色!京都市のみなさん、旧型の市バスはビエンチャンでまだまだ元気に走ってますよー!!

みんなでセルフィする余裕もなく、書類の記入、隔離ホテルまでのバス代の支払いなどの手続き地獄を抜けたあと、隔離者用のバスでそのままホテルに向かい、「14日後ね~」とあいさつして各々の部屋へ。
そこからの14日間、会うのは検温に来てくれるホテルのスタッフだけ。食事は毎食、廊下のテーブルに置かれ、アメニティの受け取りやランドリーの受け渡しもそのテーブルで行うので、人と接触する機会はほぼありません。ときおり届くありがたい差し入れも、フロントスタッフが受け取って、それを部屋まで持ってきてくれるし(差し入れ頂いた方々、その節は本当にありがとうございました)、ホテルのご飯に飽きて時折頼んだフードパンダも同様に、金銭授受も含めてすべてホテルのスタッフがやってくれます。

 

突然のクラスター

この隔離期間中に、「絶望」というちょっとばかり強めの言葉がぴったりなクラスターが起きてしまいました。市内の縫製工場で200人を超える大規模なクラスター、それに続く感染拡大を受けて、ビエンチャン市は即座にロックダウン。すぐに緩和されましたが、一時は「スーパー、小売店などもすべて営業停止」というかなり厳格なロックダウンでした。あちこちに検問が設置され、県境も封鎖。

 

発令されたときは「9月30日まで」という期限つきでしたが、私は26日に隔離が終わって29日に赴任するはずだったので、この時点で1日のロスになります。日に日に膨らんでいく感染者数、日に日に増えていくレッドゾーン、どの情報も精神衛生上良いものではありませんでした。

 

オンラインでの赴任後ブリーフィングや面談で人と話す機会はあるにしても、ごく短時間の事務的なもの。隔離中で誰とも話せないことや、ここまで来ても何もできないのかという悔しさ、もしかしたら私はビエンチャン県に赴任できないまま任期を終えるのではないかという絶望感、もしロックダウンしたら私は首都のホテルで2か月も何をすればいいんだという焦り、色んなことが頭の中を回って、ものすごく無気力になっていました。

 

そんな中、2週間の生活のリズムを保てたのは、ラオ語のオンライン授業を毎日受けられたからでした。隔離序盤は予約やシステムの関係で受けられなかったのですが、途中から受けられるだけ受けて、時間でいうと31コマ(15.5時間)をオンライン授業にあてました。授業時間だけでいうとたいしたことありませんが、要領が悪いので予習にも復習にも倍以上の時間がかかります。ラオ語に熱中している間は、時間が経つことを肯定的に考えられたというか、自分が正く過ごせていることに安心できるというか、とにかく隔離期間中の精神安定剤になりました。なにより、日本にいるラオ人の先生、ラオスに居るラオ人の先生の二人から授業を受けられたので、色々な情報も得られたし、生活面でのtipsもあれこれ教えてもらえたし、単にラオ語の語学力が鍛えられるだけではなく、それ以上の生きた情報も得られました。先生がたはもう何年も二本松訓練所でラオ語を教えておられるので、私たちがおかれた状況での悔しさも、ラオ語の読み書きが全くできない状態で入所してからの成長も、全部理解してくれます。それゆえの優しさも気遣いも全部ありがたかったし、たとえオンラインであっても、先生たちと過ごした時間に支えられて、14日間の隔離を終えたと思っています。

 

隔離終了後

を書こうと思ったのですが、長くなってしまうので一旦ここで終わりたいと思います。まだまだ何がどうなるかわからない隊員生活ですが、フードパンダで美味しいものを食べながら、少しでも楽しい事を考えながら、自分をわくわくさせながら、任地に行けるのを待ちたいと思います。

 

ではまた次回!そーくでぃーどぅー!