ສະບາຍດີ!
みなさんこんにちは、ラオスのラオ子です。3月22日に、荷造りについての思わせぶりな記事を更新してから半年が経ってしまいました。半年というのは、その記事を書いたことすら忘れるのにちょうど良い期間で、つまり私は3月にブログを更新したことすら忘れていたわけですが、なんとなんと、この度わたくし、ラオスに戻ることができました。
近況報告するにしても期間が空きすぎていて、何からどういう風に書き出したらスムーズに書けるのか考えているうちに入国時の隔離も終わってしまったわけなんですが、日本に帰ったところからサッとおさらいしておきたいと思います。
2020年3月 ラオスから日本へ緊急退避
2020年7月、11月 隊員続けるか、待つか、やめるか
2021年2月 仕事開始
2021年9月 日本→ラオス
パスポートが作れて、配属先との手続きや、日本側・ラオス側のあらゆる許可がもらえたとしても、正直ラオスについてパスポートにハンコを貰うまでは安心できません。クアラルンプール⇔ラオス間は毎日運航されるわけではないので、もし何か起きて乗り継ぎができなかったらクアラルンプールでのリアルターミナルが始まりますし、日本・ラオスでのPCR検査で万が一のことがあったらもう大変です。一緒に渡航する隊員同士も一定の距離を保って、厳戒態勢でラオスに向かいました。
まずは渡航の際の日程から。
そして横1列誰も座っていないガラガラのANAで、台風14号に軽くご挨拶しながらクアラルンプールに到着しました。ここでは入国せずに、トランジットホテルに1泊して翌日のフライトでビエンチャンに行くことになります。
飛行機降りたところに「ビエンチャン行き」のボードを持った方が待っていてくれたのに、「あれって今日のトランジットの人ってことかなー?」という感じで全員スルーしてしまいました。その後、どうしていいか分からなくなってうろうろしていたところにこのスタッフさんが話しかけてくれてようやく手続きがすすめられました。(お兄さんごめん)チェックインカウンターでも、成田と同じように何種類かの書類の提示が必要で、手続きにも結構時間がかかりました。
クアラルンプールに来て驚いたのですが・・・本当に人が居ない!免税店も閉まりまくっている!スタバに行ってマレーシア限定グッズ買いたかったのに、もちろん閉まっている!レストランは数店舗あいていましたが、検温、記名、ワクチン接種証明書の提示が義務付けられていて、そう思うと成田空港はゆるかったなあと思いました。
そしていよいよラオスへ。隣の席こそ誰も乗らなかったものの、成田ーKL便より混んでいたので、二重マスク、消毒しまくり、トイレはなるべく使わない、の厳戒態勢で爆睡しました。
そしてラオス到着後は、空港内に設営された会場にて、流れるように2回目のPCR検査。感傷に浸るまもなくブースの椅子に案内され、口腔内を綿棒でゴシゴシ。「はぁ終わった・・・」と思ったら「上向いて!次は鼻ね」と指示され、成田のときの優しい検査とは比にならない痛さに何度かえづきながら無事検査を終えました。
みんなでセルフィする余裕もなく、書類の記入、隔離ホテルまでのバス代の支払いなどの手続き地獄を抜けたあと、隔離者用のバスでそのままホテルに向かい、「14日後ね~」とあいさつして各々の部屋へ。
そこからの14日間、会うのは検温に来てくれるホテルのスタッフだけ。食事は毎食、廊下のテーブルに置かれ、アメニティの受け取りやランドリーの受け渡しもそのテーブルで行うので、人と接触する機会はほぼありません。ときおり届くありがたい差し入れも、フロントスタッフが受け取って、それを部屋まで持ってきてくれるし(差し入れ頂いた方々、その節は本当にありがとうございました)、ホテルのご飯に飽きて時折頼んだフードパンダも同様に、金銭授受も含めてすべてホテルのスタッフがやってくれます。
突然のクラスター
この隔離期間中に、「絶望」というちょっとばかり強めの言葉がぴったりなクラスターが起きてしまいました。市内の縫製工場で200人を超える大規模なクラスター、それに続く感染拡大を受けて、ビエンチャン市は即座にロックダウン。すぐに緩和されましたが、一時は「スーパー、小売店などもすべて営業停止」というかなり厳格なロックダウンでした。あちこちに検問が設置され、県境も封鎖。
発令されたときは「9月30日まで」という期限つきでしたが、私は26日に隔離が終わって29日に赴任するはずだったので、この時点で1日のロスになります。日に日に膨らんでいく感染者数、日に日に増えていくレッドゾーン、どの情報も精神衛生上良いものではありませんでした。
オンラインでの赴任後ブリーフィングや面談で人と話す機会はあるにしても、ごく短時間の事務的なもの。隔離中で誰とも話せないことや、ここまで来ても何もできないのかという悔しさ、もしかしたら私はビエンチャン県に赴任できないまま任期を終えるのではないかという絶望感、もしロックダウンしたら私は首都のホテルで2か月も何をすればいいんだという焦り、色んなことが頭の中を回って、ものすごく無気力になっていました。
そんな中、2週間の生活のリズムを保てたのは、ラオ語のオンライン授業を毎日受けられたからでした。隔離序盤は予約やシステムの関係で受けられなかったのですが、途中から受けられるだけ受けて、時間でいうと31コマ(15.5時間)をオンライン授業にあてました。授業時間だけでいうとたいしたことありませんが、要領が悪いので予習にも復習にも倍以上の時間がかかります。ラオ語に熱中している間は、時間が経つことを肯定的に考えられたというか、自分が正く過ごせていることに安心できるというか、とにかく隔離期間中の精神安定剤になりました。なにより、日本にいるラオ人の先生、ラオスに居るラオ人の先生の二人から授業を受けられたので、色々な情報も得られたし、生活面でのtipsもあれこれ教えてもらえたし、単にラオ語の語学力が鍛えられるだけではなく、それ以上の生きた情報も得られました。先生がたはもう何年も二本松訓練所でラオ語を教えておられるので、私たちがおかれた状況での悔しさも、ラオ語の読み書きが全くできない状態で入所してからの成長も、全部理解してくれます。それゆえの優しさも気遣いも全部ありがたかったし、たとえオンラインであっても、先生たちと過ごした時間に支えられて、14日間の隔離を終えたと思っています。
隔離終了後
を書こうと思ったのですが、長くなってしまうので一旦ここで終わりたいと思います。まだまだ何がどうなるかわからない隊員生活ですが、フードパンダで美味しいものを食べながら、少しでも楽しい事を考えながら、自分をわくわくさせながら、任地に行けるのを待ちたいと思います。
ではまた次回!そーくでぃーどぅー!