報告書、明日が提出期限だってよ。
JICA海外協力隊としてラオスに派遣されてから、任期の1/4終了。なんて早いんだろう。なんてあっという間なんだろう。着任後3か月の1号報告書を書いたのがつい最近だと思っていたら、もう明日が2号の提出期限。なんてこった。
活動を始める前は、報告書の書き方を聞いて「着任して半年で活動計画?半年も何もしないのありえる?!」って思っていましたが、あの頃の私に言いたい。ここで半年過ごしたあなたは、無い頭を捻り倒しても活動計画書が全然捗らなくて、書いてみたけど全然納得できなくて送る決心がつかなくて、気を紛らわせるためにネット配信で鈴鹿8耐(バイクが8時間耐久で鈴鹿サーキットを走り続ける、モータースポーツファンの夏の一大イベント)を応援しながらブログを書いてますよってこと。ほんと、詰んだわ。誰か助けてください。
過去記事で振り返る半年間
半年前の1月29日、10人の同期と共にここラオスにやってきて、ドミトリーで共同生活しながら約3週間、語学学校に通いました。
首都で過ごした1カ月間、どんどんラオ語を吸収していく同期隊員を見てメンタルポキポキ野郎になった私は、日本での研修やその前後の旅行、フェスで使い切った後のお釣りみたいな資金のほとんどをオシャカフェ巡りとアコギ購入に溶かし、本人も驚きのお財布コンディションで任地に向かうことになりました。(楽器があるおかげで気分転換もできてるし、他の隊員と一緒に音楽できる時間にも恵まれて、結果的には大勝利でしたけどねっ!)
任地に来て最初の1カ月はゲストハウス暮らしで、配属先までは同僚に送り迎えしてもらう生活。その同僚一家は私にとてもよくしてくれていて、先日も乗り合いバス降り場から家まで歩いていたら途中で拾ってくれたり、ごはんに招いてくれたり、カオパンサーにつれていってくれたり、本当にありがたい存在です。
子育て上手な彼女は私のカタコトのラオ語も息子を褒めるときと同じように褒めてくれて、おかげで配属先の人たちやご近所さん、市場のおばちゃんたちと話すのも楽しいと思えるようになりました。なお、土日に営業してくれるローカル食堂がほぼ無く、あったとしても同じ味のラオ料理ばかりで食欲がわかず、屋台の買い食いとフルーツだけで生活したため、二本松訓練所で蓄えたお肉をそぎ落とすことに成功しました。やった!!
そして日本の友人に「未だに読み返して笑っている」と好評のこちらの記事を書くことになったわけです。住み始めたばかりのころは「これがラオスのスタンダードなのだとしたら私は甘んじて受け入れるぞ!!」と思っていましたが、その後遊びに来たラオス人の友人に「子ども部屋みたいwww」と笑われたため、もうどうでもいいやと思っています。ピンクかわいい女子力ぶちあがる。(自己暗示)
任地で1か月を過ごしたころ、「キンビア(=飲み会)」という下戸にはただシンプルに苦痛な「飲め飲め文化」に潰され、このまま旧正月を過ごしたら臓器もメンタルももたないと判断した私は、みんなの誘いを断ってそのまま首都へ逃亡。あの時わたしの話を聞いて色々アドバイスをくださった先輩がた、そしてキンビア好きやのにお酒なしでご飯に付き合ってくれた同期にはありがとうしかありません。感謝永遠に。
4月後半には、先輩が企画されたイベントにも参加させてもらいました。自分自身原爆について学ぶ機会になっただけでなく、先輩がたがラオスの人たちとどんな風に関わっているかや、先輩隊員の本職である「先生」のプロフェッショナルな一面を見れた貴重な時間でもありました。
その後、職場で活動がうまくいかず白旗を振って調整員さんに来てもらい、更にはバイクも手に入れて、よし!再スタートだ!!と気合を入れた瞬間に、思い出しただけで下腹部がシクシクする、人生2度目のアメーバ赤痢。しばらくじっとしとれ、落ち着け、っていう事やったんかもしれん。
一度アメーバにかかったら、人は2回苦しむ。1回目は発症した日。2回目は、ローカル病院での治治療。
・・・みなさん、ここテストに出ます。大事ですよ。赤線ひっぱっといてください!
そこからは体調を崩すことなく活動でき、ビエンチャン県11郡中6郡に視察に行き、17生産グループ中7グループに調査を実施しました。まだまだ全郡実施とはいきませんが、初代隊員としてはまず”知る”ことからだと思っているので、残りについても実施できたらなあと思っています。(残っているグループは近隣郡が多いので、きっとできる・・・はず!)
色々あったし、今からもっとある。
何で伝わらへんねん~~~~~~何言うてるかぜんっっっぜんわからへんしさあああああ~~~~~~ラオ語調べても全然でてけえへんし、教科書にも載ってへんし、イングリッシュOK!って言ってくれるけど全然伝わってる気しいひんし、生産者のおばあちゃんら何言うてるか全然聴き取れへんし、天井から水降ってくるし扇風機空中分解するしゴキブリに噛まれるし、なんやねんラオス、なんやねん~~~~~~~~~! と、思って過ごしていた毎日でしたが、ひとつだけたどり着けた答えは「相手のことがわからないのは、ラオスのことを知らなすぎるから」でした。
実は私、「音声反訳」をしていた時期がありました。いわゆる文字起こしというやつで、主に講演やセミナーの内容を聴いて、そのまま文字に起こしていくというものなのですが、これがまたとてもとても難しい。音楽、料理、生活など、馴染みのあるテーマのときは3回ぐらい通して聴けばその後倍速で流しながら入力してだいたい整えられるのですが、特殊な機械の使い方や、土木関係の工事の話、医療関係者の話など、踏み込んだ内容になるとさっぱり捗りません。自分が知らない世界の事、特に固有名詞は、曖昧にしか聞こえないときに「候補を絞り込む」こともできなければ、なんとなく次はこの単語がくるだろうという予想もできないので、スムーズに指が動かないのです。
私にとってのラオ語も同じ状態にあるとようやく気が付いたのは、わりと最近になってから。ラオ語自体の勉強をするのと同時に、ラオスのことをもっと知らないと、音だけ聴けても理解に繋がらない。自分の言いたい事だけ言えても、相手の伝えたい事が分からない。 で、結局「知識が増える」という事はそれに関連する語彙の候補をあげられるようになったり、分からない言葉を知識で補完したりできる、ということでして。そこから文献を読み漁る日々。ネットに落ちてる論文やJETROさん、JICA専門家さんの調査報告書、ラオスに関する本などなど・・・勢いで印刷した&買ったものがまだまだ自宅とドミトリーに積ん読されていますが、何回か目を通していると、あ、このこと言ってたのかな、とか、あの論文と繋がるな、とか、気づきがたくさんあって。
結果的に、普段話していても「あぁ、あのこと言ってんだな」ってなんとなく予想できたり、話が広げられたり、できるようになってきたワケですね。だからこそ、個人を、配属先を、ODOP認証制度を、ラオスのことを、もっともっと知らなければと思いました。日本に居るときにもっとやっておけばよかったと後悔したのはラオ語の勉強よりもこっちかもしれません。ラオ語は勉強のリソースがなさすぎて訓練所に入ってからじゃないと読み書きが難しいのですが、文献ひっぱったり本買ったりしてその国を知ることはできます。 とはいえまだまだ胸を張って「ラオ語話せます!」とも言えず、言いたいことも言えず、でも自分が正しく解釈して伝えられているという自信もなく、イライラ、モヤモヤ、ぐるぐるしたまま、己がびっくりするぐらい酷い顔で家に帰って狂ったようにドラゴンフルーツ食べる日々。
苦手な上司を唸らせるぐらいのラオ語が話せるようになりたいという、至極不純なモチベーションではありますが、ぼちぼち勉強を続けたいと思います。
情報を発信すること
今はこのnoteとブログとSNSと、色んなとこでお騒がせしてますが、これはずっとずっと続けていきたいと思っています。むしろ、もっと前のめりにやっていきたい。
ラオスの情報発信、というよりも、自分の感じたこととか、心が動いたときのことを書き留める場所がほしくて、noteをはじめてみたりもした。更新頻度は薄まるけど、アフェリをやっているわけでもないし、いらなかったら消すなりまとめるなりすればいっか、って思って書いてみたら、これが意外に使いやすくて。これぐらいシンプルなUIだと見やすいし綺麗にまとまるんだなと、ひとつ勉強。
あっちでもこっちでも色々発信してうるせえやつだ、と思ってもらえてたらいいなって思って書いてます。それぐらい気に留めてもらえたら本望。写真付きで自分の活動やその時の気持ち、考えを振り返るためのポートフォリオ的役割を果たしてくれるものって、あとあと結構大切になったりするんです。
カンボジアから日本に戻ったあと、母校2校、母校の付属小学校、カンボジアに研修に来られていた学校と、小学校から大学まで4か所で講演させてもらったのですが、こうやって残していると、スライドすぐできちゃうんですよ。だから大切。ブログ読んで久しぶりに連絡くれる友人も居たりするし、そういう嬉しいフィードバックをモチベーションにしてどんどん書き溜めていきたいなって思ってます。そのために公開してます。
私がラオスのラオ子になる前、カンボジアに住んでいたときは、「カンボジアのボジ子」を運営していました。移住前にくまなく読んでくださった方、「ボジ子に会いたいって言ってるインターンの子がいて~、」と紹介してくださったおかげで友達になれた人をはじめ、いろんな出会いに繋がった場所です。「ラオスのラオ子」も、JICA海外協力隊を目指したい人とか、ラオスに来てみたい人とか、とにかく色んな人に読んでもらえたらなあと思っています。
嬉しい事を100倍喜んで生きようと思った
任地ビエンチャン県にやってくる前に、同期隊員の配属先のホアイホンセンターを見学させてもらう機会がありました。そして、今月あった隊員総会の後、数か月ぶりに全員揃ったコミュニティ開発隊員でまたホアイホンセンターを訪れました。 私はその時、初めて自分自身が”すこし”成長できたなと感じることができました。 あの時聞けなかったことが聞けた。それだけなんですけど、でも、それだけのことを自分でちゃんと振り返れたのは、私にとって大きかったんです。
どこから来たの?一人で住んでるの?いま何歳?織りはどこで習ったの?家族も地元で織りをやっているの?自分の村の織りは、どこ産のどんな素材でやっているの?この柄は誰に教えてもらったの?この色は何の色?原材料はどこから来てるの?色は全部ここで染めたの?シルクの種類は?媒染もやってるの?どうやって媒染液を作ってるの?媒染液は鉄だけ?他の種類は無い?他の媒染液の作り方は知ってる?ラオスで金属媒染ってメジャーなの?あなたの出身の村ではこの染色方法知ってる人は居るの?
あの時疑問に思ったけど聞けなかったこと、あの時疑問にすら思わなかったことが、たくさん聴けた。それだけなんですけど、私にとってはめちゃめちゃ嬉しかったんです。
任地に居ると特にそうなんですが、自分が全部悪いんだという一番お手軽な結論のもと考えることを放棄して、ネガティブ沼にずぶずぶ溺れがちです。「古都こと」というマンガのユキチくんみたいに論理的思考で人をぶん殴れるぐらいの人間になれたらと、だいすきな音楽に触れる気にもならずに部屋に引きこもってマンガ読んでただけの休日もありました。(いつも話聞いてくれる同期隊員たち、本当にありがとう・・・) だから、自分のことでも、人のことでも、めちゃめちゃ喜びたい。マイナスなことよりも、そういうことに敏感になれる人間になりたいな。・・・って思いました。そうやってちょっと考えるだけでも何か変わるかな。変われるかな。
同僚のシンが可愛い。蒸したてのカオニャオが美味しい。タマフンの辛さがちょうどいい。雨あがりで涼しい。近所の子どもが私の名前を憶えてくれた。なんか、そんなことでいいなって思いました。活動は難しいけど、毎日ちゃんと幸せだ。
泣いても笑っても、あとよんぶんのさん
いつも全力で「売り切れだよ!!」って言ってくれる近所のカオピヤック屋のおっさん、毎日手を振ってくれる果物屋の子どもたち、ほどよい距離感で接してくれる大家のお父さんお母さん、お世話になりっぱなしの配属先、当たり前に会えることが当たり前じゃなくなる日がもうそこまできてるんだなって思うと、1日1日大切に丁寧に生きなきゃ。 ・・・と思うのですが、それは調子いい時の話で。
実際のところ「なんやねんコラァーーーーーーーー!!」と言いたくなるときも多々あって。(言いません!)泣きたくなるときもたまにあって。(泣いてません!)
でもそういう日も含めて、あと1年半なんですよね。どう過ごすかは私次第。ちょっとでも楽しく、健康に、そして何か一つでも残せるように活動にも力を入れて、やっていけたらなって思ってます。
というわけで、あと1年半、このうるさいブログとノートにもお付き合いください!