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視察②その2 Maed郡シン生産者グループ

さばいでぃー!

こんにちは!ラオスのラオ子です。

今日は、前回書いたこちらの記事の続きです!出張1日目(5月28日)はビエンチャン県いちの田舎だと言われているMaed郡(ラオ語ではແມດ郡と書きます)産業商業課を訪問、2日目(5月29日)はMaed郡のシン生産グループの視察に行ってきました。

 

 

Maed郡へのアクセス

Vientiane県Maed郡へは、今回はレンタカーを借りて行きました。首都からロットゥーが走っているようです・・・が、道中かなりの危険が伴うため、おすすめしません。

ちょうどMaed郡に滞在中に大使館から頂いた注意喚起のメールに「雨季は危険が伴うため陸路移動を避けてください」と書かれていたのですが、まさにその地域です。

 

こちらバンビエン郡内にある大きなセメント工場のひとつ。バンビエンから更に北上していく道までずっと、中国が現在建設している鉄道のすぐ近くなので、道幅に合っていないトラックがばんばん通ります。危ない!!!とひやひやしながら山を越えていきます。

 

私の任地ビエンカムから3時間ほど走りバンビエンでいったん休憩。切り立つ山々が「The ラオス」って感じがして胸が躍ります。

 

川沿いのこんな長閑な景色の中、お昼を頂きました。お昼に食べたのは、カウンターパートが持ってきてくれた、自分の家で育てたもち米のカオニャオと、お店で頼んだ卵焼き、焼き魚、豚肉などなど。これから更にハードになる長旅に向けてしっかりお腹を膨らませます。(後部座席でうとうとするだけですが・・・・。)

 

バンビエンからさらに北へ向かい、ノーン郡というところから目的地のMaed郡へは、未舗装の道のりを約50キロ。木の橋を越え、大きな水たまりを越えて、ひたすら南下します。

 

切り立つ山々に、「ビエンチャン県で一番の田舎よ!」と言われていた意味が徐々に分かってきました。

 

電波もなければ、舗装された道も商店も店も無い道を、ただひたすら真っ直ぐに進んでいくこと3時間。ようやくMaed郡に到着しました。

 

ゲストハウスに着いたのが16時ごろだったので、その日は郡の産業商業局の局長に挨拶し、少しお話を伺うことに。

 

場所が場所なだけに産業や観光業からの税収は無いに等しく、手工芸も織物のみ、というのがMaed郡の現状のようでした。

 

Maed郡での食事

その日の晩は郡の販売促進課の方と一緒に夕飯を頂きました。「ベー」の肉が美味しいお店につれて行ってくれました。

 

これは「ベー」の「ピア」です。これに「ベー」をディップしていただきます。

 

そしてこちらが「ベー」。

 

「ベー」はラオ語で山羊、そして「ピア」は胆汁のことを言います。つまり、最初の深緑色のスープは、山羊の胆汁を使ったつけ汁・・・。腸内に残っていた胆汁まで食材に!最初に牛のピアを食べるときはさすがに抵抗がありましたが、2回、3回と場数を踏んで(?)いくにつれ、抵抗というものも徐々に無くなっていきます。慣れってすごい!

 

外国人観光客向けのホテルというものはもちろん無いので、この日のお宿は平屋建てのゲストハウス。電力はかなり不安定でしたが、停電・断水なく過ごせました。

 

Napho村シン生産グループ

さて、2日目はいよいよNapho村のシン生産グループの視察です。泊まったゲストハウスから1キロほどの場所まで歩いていくとグループをとりまとめている方の家があるのですが、そこにたどり着くまでにも機織り機が置いてある家庭がありました。

 

これはラオスの巻きスカート「シン」の「裾」になる部分で、「ティンシン」と呼ばれています。暖色でまとまっていてとっても私好み・・・。

 

この小道を抜けた先にシンの生産グループの作業場があります。切り取りたい景色が多すぎる・・・。

 

こちらが、Napho村の生産者さんたちが機織りをしている作業場。ご覧の通り自然に囲まれています。鶏があちこちで鳴いていたり、子どもたちの声が聴こえたり。そして作業場からは「トントン」と布を織る音が聴こえたり。耳に優しい世界。

 

中に入るとお母さんがた3人が撒きスカートの本体部分「プンシン」を織っている最中でした。

 

裏面なのが残念ですが、ご覧ください、この細かな仕事。

 

何度見ても、何をしているのかさっぱりわかりません。私と同期隊員も1往復だけ織りを体験させてもらいましたが、経糸を分けるための板の重いこと!緯糸を1往復させるたびに、この板の場所を変えるのですが、前かがみでやるにはかなり重労働。軽々やっているように見えて、機織りは集中力と共に体力も要する作業だということを、身をもって学びました。

 

養蚕しているところが見たいとお願いしましたが、村の中心部ではなくもっともっと田舎のほうで育てているから連れていけないとのこと。カンボジアのIKTTでも、香水や香りのきつい柔軟剤を使っていないかの確認が事前にありましたが、「音」も蚕にとってはストレスになるので、できるだけ田舎のほうで育てるんだそうです。蚕さん、とってもデリケート。

 

これがNapho村で養蚕して紡がれている糸を自然の色で染めたもの。自然の色で染めると、こんなにも自然な色になる。 日本で暮らしていて、どれだけこんな自然な色の布に触れる機会があったかなと、ふと考えました。

 

織り手さんたちはみんな子どもを立派に育て上げたお母さん世代。

 

この技術と伝統を次に繋ぐには。そのために自分には何ができるか。

 

2年の間に答えが出る気がしない・・・。

 

金糸は中国からの輸入だそうですが、こちらは認証要件を満たしたODOP商品たち。

 

あまりの美しさに、つい1枚・・・買ってしまいました。パービヤン(スカーフ)もセットで欲しかったけど、べらぼうに高い。(といっても、首都で買うよりもかなりお得に買える。)

 

首都に持っていく布たちも見せてもらいました。魚をモチーフにしたビエンチャン県のシンボルマークが織り込まれた美しい布たち。同期隊員はこちらでめちゃめちゃ素敵な布に出会い、お持ち帰りされました。

 

この日実施できたこと

・Maed郡産業商業局の局長への挨拶

・Napho村シン生産グループ視察およびグループ長へのアンケート実施

 

局長とのお話やアンケートの内容は、生産グループでヒアリングした内容も含めてこれからまとめていきます。

 

そしてバンビエンへ

視察が終わったあとは、村の近くのフォー屋さんで軽く昼食をとり、バンビエンへ!

50キロ以上の未舗装の道をとんぼ返り。途中ぬかるみにはまって抜けられなくなるという絵に描いたようなハプニングを経て、野を越え山越え、ついでにこんな川も越えて向かいます!強いぞランクル!さすがだトヨタ!!!

 

にしても、確かにこれ、雨季になったら危ないわ。大使館情報、命を守るためにしっかり読もう・・・。

 

 

その3に続く。

 

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視察②その1 生産グループ出張に行ってきます!

さばいでぃー!

みなさんこんにちは、ラオスのラオ子です。5月27日から6月1日まで、首都の同期隊員が任地ビエンカムを訪れてくれています。目的は、タイトル通り生産者さんの視察とお土産屋さん調査です。

 

 

実をいうと、アメーバにかかってから1週間以上経ってもまだ胃腸は本調子ではなく、胃がむかむかする感じが残ったままだったのですが(数日絶食状態だったから、そりゃそうか・・・)、早く活動したい気持ちが圧勝して計画通りすすめてしまいました。本当に、ヤツ、なかなか強敵です。ずっと引きずります。気を付けましょう。気を付けようがないけど。

 

視察のスケジュール

5月28日 ビエンカムからMaed郡に移動、郡内視察(Maed郡泊)

5月29日 Maed郡Napho村織物生産グループ訪問、バンビエンに移動(バンビエン泊)

5月30日 バンビエンのお土産屋さん視察、ビエンカムへ

5月31日 ポンホーン郡内の織物生産グループ2グループを視察

 

というスケジュールですが、多分このブログを読んで下さっている方のほとんどが「どこ?」という感じだと思うので、地図で示してみました。

 

 

青いピンが3本立っている少し下についている◎が首都ビエンチャンです。

 

上のピンの一番下、Toulakhomという場所の近くが私の活動場所で、初日に行くMaed郡Napho村は地図左上のピンのあたり(らしいけど、本当かなあ・・・)、そしてバンビエンは右上のピンのあたりです。Phonhong郡は、私の任地の左上なので、日帰りで2か所見学に行きます。

 

旅行が好きな方は「バックパッカーの聖地」としても知られるバンビエンのことはご存知かもしれません。私の任地からNapho村へは約230km、Napho村からバンビエンへは130m、そして任地へ100kmと、往復460kmの道のりです。

視察の目的

今回の視察の目的はただひとつ、「シン(ラオススカート)」の生産者さんに会い、情報収集を行うことです。本来であれば自分で一度足を運んで情報収集した上で同期隊員に来てもらうのが正攻法かなと思ったのですが、あまりに遠く費用も掛かる場所なので、初視察に同行してもらうことになりました。

自分だけだと調査票の質問をして見学をして、と色々する余裕が無いので、デザインや作業工程を見てくれる人がもう一人居てくれると、1回の見学で得られる情報量が増えて助かります。本当にありがてぇ・・・。

 

視察の準備

先輩隊員の質問シートや過去の専門家さんの報告書を参考に、どんな情報を蓄積すれば後々の活動に役立てられるか考えて質問シートver.1を作り、いざ!

 

・・・というわけにはいかず、まず費用を配属先・JICAがどれだけ負担するかという話し合いに始まり、スケジュールの確定、企画書、申請・・・と、配属先にもJICAにもいろいろな書類作成が必要となります。

そして、私が配属されている「ビエンチャン県産業商業局」から、各郡の役所に訪問のレターを出してもらい、郡職員にも同行してもらうため、カウンターパートの助けがなければとてもじゃありませんが行けません。自分の企業向け研修の準備もありかなり大変な中、ありがとう、Sさん。どうやってお返しすればよいか。

 

いってきます!

というわけで、まずは明日から2泊3日で、Napho村とバンビエンに行って参ります。良いレポートが出来るように情報収集に励みます。

 

最近書いたノート

ぶつぶつつぶやいてます。

note.mu

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第2回原爆展に参加して、「平和って何?」を考えた

さばいでぃー!

皆さんこんにちは。ラオスのラオ子です。

 

今日は、平成最後の日にあわせて投稿できたらと思っていた内容を更新します。

 

 

ピーマイ(旧正月)が明けた翌週の4月24日、やっとこさ正月ムードから抜け出しつつあるビエンチャン特別市にて、先輩隊員の企画で「第2回 原爆展」が開催されました。

 

この記事を書く目的として、私がラオスでどんなことをしているか知ってもらいたいというのはもちろんですが、現在いろんな国でそれぞれの活動を頑張っている同期の皆や他の隊次の隊員の皆さんに、活動”+α”の部分を知ってもらって、この活動を広げていきたいと思っています。いつも通りあちこちに蛇足が多い文ですができれば最後までお付き合いください。

 

 

10歳の私「広島の原爆の資料館、怖い。」

 小学3年生の頃、合唱団西日本合唱祭で広島に行く機会を頂いたときに、特に事前学習も無いまま入った資料館で感じた事です。

その時丁度夏休みで、じりじりと焼け付くような暑さでした。教科書や資料集で見たことのある建物に銅像、そして色とりどりの千羽鶴。街中の路面電車はビルとビルの間を窮屈そうに走っているように見えるのに、その場所だけはがらんとしていて、でも張り詰めたような空気で、ここは何か「違う」んだなあと感じました。 

資料館の中は、「怖い」でいっぱいでした。被ばくした人たちのケロイド状になった皮膚を再現した人形。熱で曲がったぐにゃぐにゃの展示物。焼けただれた人の写真、絵、そして大きなジオラマの真上に不気味に垂れ下がる赤い塊。薄暗くて静かな資料館を出て、近くを流れる川を見た時、「ここにあのドロドロの人が飛び込んで行ったんかなあ」と考え、更にその「怖い」という気持ちが増しました。

その話を近所のおじさんにしたところ、「熱い思いして亡くなってやーる人がいっぱいいっぱい居るんや。今も苦しんでる人がぎょーさんやぁる。『怖い』なんて言うたらアカン。」と言われました。

そうか、大人が言うんだからきっとそうなんだ。じゃあ、あの場所は、私が見たものは、私が感じた気持ちはー・・・。そして、あの時の気持ちに何という名前をつけていいのかさっぱり分からなくなった結果、資料の数々に対して感じた「怖い」という気持ちには、蓋をしなければいけないのだと思いました。

 

その5年後、今度は、イタリアの姉妹都市に行きました。現地の音大のオーケストラやソリストと2週間ほど練習を重ねて、「Undici Zero Due(11:02)」という現地の脚本家の創作オペラを演じるためです。11時02分、人類史上実戦で最後に使われた原子爆弾「ファットマン」が長崎県長崎市に投下された時間。それまでいつもと変わらない日常を送っていた子どもたちが、原爆により一瞬で命を奪われ、その魂は悲しい歌と共に海を渡り、平和を繋いでいくー・・・というような物語だったと思われます。(台本やあらすじの日本語訳が無かったので細かいニュアンスは違うかもしれません。)

 イタリア語も英語も、さっぱり分からないので、現地の人たちとは簡単な挨拶程度のコミュニケーションしかできませんでしたが、オペラが終わったあと浴衣を着て灯篭流しをして、日本の歌を聴いてもらって、皆で歌って、初めて経験した外国の人たちとの非言語のやりとりは、それまで私の中にあった音楽というもの概念を簡単に壊してくれた気がしました。その後スイスやドイツでも演奏会を経験して、確実に今の私を作ってくれた切っ掛けになってくれたし、言葉がわからなくてもこうやって共有していく術もあるんだということを教えてもらった、私の人生に強烈な点を打った活動だったと思います。

 

それでも、役を演じている間も、あの日広島で見たものを思い出して「怖い」という気持ちに襲われていました。

浴衣を着た私たち日本人の子役は、劇の中盤、激しい音・真っ赤な照明の中、床に突っ伏しました。次の曲に入ったら立ち上がってあそこに並びに行って・・・。そう考えながら冷たい床で”次”を待つ。その間、照明が真っ青に変わり、”死の灰”が天井から降り注ぎます。

 もしあれがオーケストラの音ではなく本当の爆音だったら私たちは一瞬でこの世界からいなくなっている。”次”は、無い。もし今ここに原爆が落ちたら、ちょっと好きになり始めた、教会の鐘の音が響き渡るこの街から、数十万人の人が一瞬で亡くなって、生き延びることが出来たとしてもその後何十年も、苦しむことになる。そしてその悲しみは一生消えない。

 

―やっぱり原爆は、怖い。

 

本番中に広島での記憶が蘇るぐらい、あの時の事が頭に残っていたのでした。

 

この「怖い」がずっと引っかかっていた私。どこに行っても「負の遺産」に触れることができず、前に住んでいたカンボジアの「虐殺博物館」と「キリングフィールド」にようやく行くことができたのも、カンボジアとの関わりを持ち始めてから7年が経った去年のことでした。 

 

虐殺博物館とキリングフィールドについてはこの記事で少し触れています。

 

そして、ここビエンカムでの活動を始めてしばらく経ったある日、先輩隊員から今回の「第2回原爆展」のボランティア募集のお知らせが届きました。迷わず、「参加させてください」とお返事しました。自分があの時自分の中にとじ込めてしまった「怖い」を、先輩はどう感じて、どう学んできたんだろう。そしてそれを、どんな形にして異国の高校生に伝えるんだろう。それらを知るために、自分も運営に関わって、近くで見させてもらおう。そして私も原爆についてもっと知ろう、学ぼう、考えよう。私の職種であるコミュニティ開発とは直接関係のないフィールドであっても、2年という限りある時間の中で、経験できることはできるだけしていこう。そんな気持ちで、参加を決めました。

 

準備

第2回原爆展の呼びかけがあったのは、3月下旬のことでした。今回集まった8人中5人が私と同じ2018-3次隊(現在ラオスに着任している一番新しい隊次)で、もちろん原爆展に参加するのも初めてです。

第1回原爆展を同じ先輩がオーガナイズされていて、原爆に関する絵本や資料、必要備品などなど、ある程度は前回分を使って今回のイベントを組み立てられたこともあって、皆で集まって検討・相談する事は当日の役割分担以外ほぼありませんでした。

そして、イベントのために作られたLINEグループに次々資料を共有してくださったおかげで、私たち新規隊員も上京までにイベントの大部分を把握できました。

イベント前々日に、今回のイベントに参加する隊員が地方から集まり、生徒に渡す資料などを準備、前日は買い出しと会場の設営と大まかな流れの確認などを行い、本番当日を迎えました。

 

第2回原爆展

ここからは当日のプログラム通りに、内容と所感を書いていきたいと思います。

挨拶

 

まずはオーガナイザーの先輩隊員の挨拶から。先輩隊員のバックグラウンドや、このイベントを開催する目的、皆に知ってもらいたいことなどを最初にお話されていました。

今回集まってくれたのは、5・4・3・4制の義務教育期間の、中・高等部の1年生、3年生、そして7年生の約115名。日本でいう小学6年生、中学2年生、高校3年生です。私は教育関係の隊員ではないので、こうやって学校にお邪魔できるのも貴重な体験です。

今回対象にしたのは日本語の授業を受けている生徒さんたちなので、もちろん日本語自体にも興味を持ってくれています。JOCVが一人ずつ前で自己紹介すると、私たちの名前をみんな口に出して繰り返してくれたのが嬉しかったです。第1回のアンケートで「日本語が聴きたかった」という意見をいただいていたこともあり、今回は先輩隊員の日本語+現地の先生のラオ語の2言語での司会進行でイベントが進められました。

 

アイスブレイク

 

次は、私と同期隊員が担当させてもらったアイスブレイク。日本語を勉強している生徒さんを対象にしたイベントということで、「ສັນຕິພາບ(サンティパープ=平和)って日本語で何だか知ってる?」「”へいわ”を日本語(ひらがな、漢字)で書いてみよう!」という内容から発展させ、「この絵は”平和”かな?」「なんでそう思うのかな?」と、皆で”平和”について考える時間を作りました。

ここで、私たちから「正解!」「それは違うね」「平和っていうのはね、」と具体的に話をすることはありません。この後の内容に自分たちで結び付けてもらうためのアイスブレイクですので、ここで問いかけを完結させることが目的ではないからです。この後の話を聞きながら「じゃあこれはどうだろう」と考えてもらうためのきっかけづくりが出来れば大成功!

 

と、偉そうに言ってみましたが、シナリオはほとんど先輩が作ってくださったもの。私たちは、実際生徒さんにインタビューするときにあったらいいなと思うラオ語を前日の打ち合わせのあとに少し足して、本番に臨みました。

初めの挨拶もしっかりこちらを見て聴いてくれた皆なので、私が壇上にあがって「キンカオレオボー?!(ごはん食べたー?!)」と突然ラオス流の挨拶をしたら「レーーーオ!!」と元気に答えてくれて、良い雰囲気のまま、わいわいアイスブレイクを終えることができました。

 

イントロダクション

 

そしてここからついに本題。先輩隊員からの、広島と長崎についてのお話です。

 

原爆はいつ・どこに投下されたのか、なぜ広島と長崎に投下されたのか。

 

原爆がもたらす「熱線」「爆風」「放射線」の3つがどれだけの命を奪い、苦しめたか。

 

今、広島と長崎の街はどうなっているか。

 

今、世界にはどれくらい核兵器が存在しているか。

 

ラオスには、戦争/内戦でどんな問題が残っているか。

 

「折り鶴」「千羽鶴」に込められている意味とは。

 

次のプログラムの内容を補完し、かつ自分たちの国の事にも絡めることで、当事者意識を持ってもらえるような内容でした。

 

 

クイズ形式で生徒たちの興味を引きながらも、淡々と、毅然とした態度で、伝えたい事実を伝えていかれる先輩隊員。「先生」として普段から活動されている先輩は、約115名の前で壇上に立って話していると思えないぐらい、生徒さんとコミュニケーションをとられていて、私はもう、「すごい」と「かっこええ」以外の感想が出ませんでした。

 

提示されているスライドにかじりついて話を聞く生徒さんたちは、熱線・爆風で亡くなられた方の写真を見て一瞬「うわぁ」と目を背ける場面もありました。私が感じた「怖い」と似ているかもしれません。その写真は、日本でいう小学6年生の児童向けに選んだもの。教科書やテレビで見慣れてしまっている私たちにはそうでなくても、会場の雰囲気を一瞬で変える力を変えてしまいました。それから生徒さんたちは、それまで以上に先輩隊員の話とスライドにかじりつき、手元の資料を読んでまわりの生徒と思ったことを共有しながらイントロダクションを聞いてくれました。

 

絵本朗読

 

イントロダクションの後は、生徒による「おりづるの旅 さだこの祈りをのせて」の朗読です。現地語で朗読してくれたのは6人の生徒さんたち。みんな堂々と朗読してくれました。

 

この絵本の翻訳も協力隊の先輩方によるもの。結構ボリュームのある物語なので、いくつかのパートに分けて数名で翻訳作業されたのですが、「頻出単語のリスト」を作って単語を統一する作業が必要になったり、表現を合わせたり、話を聞いただけでも「大変だ・・・(わたしにはできない)」と思うような途方もない作業。それを、代表者の生徒さんたちが何度も練習して読んでくれるのは、作業に関わっていなかった私でも、嬉しい。とっっっても嬉しい。

 

折り鶴ワークショップ

 

「絵本で出てきた”折り鶴”を皆で折ろう!」ということで、きれいな千代紙を皆に配って、折り鶴のワークショップをしました。途中で次の工程を聞かれると、案外難しいですね・・・。一緒に折り鶴の折り方のプリントを見ながら折りました。

 

羽部分フルオープンタイプの鶴、足が生えた鶴など、個性豊かな鶴を折る子たちも居ましたが、なんだって、ぼーぺんにゃん(大丈夫)。折り鶴や千羽鶴の、背景、意味を知った上で、この文化に触れるということそのものが、なにより大切なのです。

 

現地語学訓練中にも高校に行って折り鶴を折る機会がありましたが、あの時よりもちゃんとコミュニケーションが取れている自分に気づいて、少し嬉しい気持ちになりました。「サダコは何羽折りたかったんだっけ?」「1000羽」「折れる?」「できないよ、多すぎるよ」なんて話もしながら、生徒さんたちとワークショップの時間を楽しみました。

 

写真撮影

 

最後は記念撮影。みんなで折り鶴を持って写真撮影。前に全員集合してもらうと、改めて、こんなにたくさんの人が来てくれたんだなあ・・・と。協力してくださった高校の先生方にも感謝です。ありがとうございました。

 

アンケート・絵馬記入

 

終わった後は絵馬とアンケートを記入してもらい、書けた人から解散でした。絵馬はこれからしばらく学校に掲示してもらいます。アイスブレイクで一緒に勉強した「平和」を早速書いてもらえました。

 

 

書いてもらった絵馬はボードに全部貼って、日本語教室にしばらく掲示してもらいます。 びっちり数行に渡って気持ちを書いてくれた生徒さんもいれば、シンプルに「戦争をしてはいけない」と書いてくれた生徒さんも居て。アンケートには、「毎年開催してほしい」という嬉しい言葉も見られ、集計中まで幸せな気持ちにさせてもらいました。

 

振り返り

この原爆展に参加するには任地での活動を休む必要があったため、上司に休みが欲しいと言ったところ、快諾してもらうことができました。まだ局でも何も出来ていないのに、大変ありがたいことです。そして、私は皆の前に立ってアイスブレイクの進行をする役を貰ったので、先輩隊員が作ってくださったシナリオを任地で事前に読んで、活動先の同僚に発音のチェックをしてもらっていました。

さきほど紹介した通り、アイスブレイクの内容は「平和って何?」でした。生徒たちと共に、平和とは何か、色々な絵を見て一緒に考えてもらうという趣旨のものですが、この原稿を読み終えた後に同僚から「で、平和って何??ラオ子は平和って何だと思うの??」と聞かれて、私は何も答えられませんでした。

そんな人が前に立って話していいのか??ともやもやしながら、せっかく頂いた役なので楽しくやらせてもらいましたが、それから原爆展までの間、実際「平和」がどういう状態で、どうやったら作れるのかを考えて、何も出てこなくて、この問いの正解はわからないまま。

でも、先輩のイントロダクションの原稿に「考え続けることが大切」という言葉を見つけて、そうか、じゃあ私も、わかんないから考え続けよう、そして皆にも考え続けてもらおう、という気持ちで臨みました。

 

「平和って何?」という問いと同じぐらい、このイベントの難しさを感じたのが、「歴史を伝える」という事自体が孕んでいる様々な問題。現在核を保有している国や、第2次世界大戦で日本の敵国だった国、ラオスにたくさんの不発弾を残した国、どれも事実として「ある」ことなのですが、それを「悪」だと伝えてしまうのは大変危険なこと。日本には日本の、ラオスにはラオスの、そしてそれぞれ国レベルから個人レベルまで、様々なルーツやバックグラウンドがあり、それを傷つけたり、否定することは、私たちの目標とするところではありません。

まだまだこれから、社会のことを学んでいく生徒さんたちに、「草の根外交官」とも呼ばれる私たち青年海外協力隊からどう伝えればいいかというのは、先輩も非常に悩まれたところだと思います。何も伝えなければ、このイベント自体のメッセージ性が薄れてしまうし、かといって偏った思想で気持ちを煽るようなことは、してはいけない。

・・・と、色々考えると、「ほどよく」「的確に」そして「ニュートラルに」伝える事は、かなり難しいと思いました。 

 

まとまらないまとめ 、原爆はやっぱり「怖い」

日本に落とされた2発の原子爆弾は、一瞬で何十万の命を奪い、その後も体の中に残って命を蝕み続け、今も苦しんでいる方がいらっしゃいます。どんな理由で投下されたとか、結果どうだったとか、そういう話では折り合いがつかないような出来事が、たった数日のあいだに数十万も起きたのです。未来永劫使われるべきではなく、そして新しく作られるべきでもありません。

 

 

一方、ラオスは、戦争や内戦の爪痕が「貧困」や「不発弾」というキーワードと共にまだまだ残っている国です。戦争当時、ラオス王国の国民1人あたり1トンの爆弾が落とされたとされていて、未だのその1~3割が地中に残っていると言われています。被害のひどかった旧ホーチミンルートを中心に、その地に住む住民、特に農業従事者が危険に晒されているだけでなく、 不幸にもクラスター弾の子爆弾がラオスの遊び「ペタンク」で使われる鉄球に似ていることで、子どもの手足や命そのものが奪われる事故も起き続けています。「何個の不発弾が処理できたか」ではなく、「100%クリーンな土地になったか」が重要であり、本当に平和に暮らせるには、長い長い道のりと言えそうです。

 

今回はそのきっかけづくりを協力隊の有志一同で行いましたが、どこにでも、「平和」を考えるきっかけになるものはあります。 そして、自分の国だけではなく、どの国の情報もすぐに手に入るのが、私たちが生きている「グローバルな社会」です。だからこそ、私自身、今回のことで20年持ち続けてきた「怖い」の気持ちを完結させずに考え続けたいし、このイベントに参加してくれた生徒さんたちにも、この日共有したことを考え続けてほしいと思います。

 

今回生徒さんに読んでもらったサダコの絵本は、折り鶴が平和の象徴となって世界を旅するお話ですが、まさにその旅は今も続いているんだと思います。だから、この日のワークショップで作った折り鶴も、ここで終わりにするのではなく、家に持って帰ってほんの少しでいいから家族に話してほしい。これからしばらく日本語教室に展示される、皆が書いてくれた絵馬の平和への願いを共有・共感し、話し合って、このイベントの事を少しでも思い出してほしい。「イイネ!」ボタンには無い、小さいけど大きな力となって、水面に落ちる水滴のように、波になって広がっていくきっかけのひとつになってほしい。カオス理論のバタフライエフェクトのように、蝶のはばたきが地球の反対で竜巻になることはなくても、私たちは誰しも科学で証明できない「心」を持っていて、わたしたちの未来を変えていく力になるはず。

 

さいごに。

 

 今回のイベントが、これからのラオスを拓き、支えていく学生さんたちに、広島・長崎のことを通じて平和を考え、ラオスの事に関心を向けて「当事者」になってもらう一助になれば、それより嬉しいことはありません。また、そうして「じぶんごと」を繋いでいくきっかけになれるのであれば、自分も積極的に機会づくりをしていきたいと思います。

 

また、この記事を見て少しでも興味を持ってくださった他国の隊員の方がいらっしゃいましたら、私との面識の有無関係なく、是非コメント欄やSNSで連絡いただけたら嬉しいです。今回使った資料などの共有の許可を頂いていますので、隊員ネットワークで水平展開していけたら最高だなって思ってます。ご連絡お待ちしてます!

 

皆のブログ

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第1号活動報告書と蕁麻疹を出しました。

さばいでぃー!

みなさんこんにちは。ラオスのラオ子です。

 

 

首都で過ごした4月の旧正月明け、21日にすぐ首都にとんぼ返りして、第3回目の自動二輪教習&テスト、その翌日は第2回原爆展の準備と打ち合わせ、24日に原爆展本番、25日に帰任・・・のはずが、ちょっと体調を崩しまして。

 

蕁麻疹、でたー!

23日の夜中に、原因不明の蕁麻疹で腕と内ももと背中が地図状に腫れてしまい、喉の奥も痒みと腫れが出てちょっとゼェゼェなってしまったので、25日は都内のフレンチクリニックで診てもらって、26日に任地へと戻りました。

 

こんな事初めてだったのでびっくりしたのですが、異常な痒みで目が覚めて、また蚊かよ・・・とイライラしながら電気をつけてみたら、既に寝ながら掻きむしった爪跡が描画症のように腫れていました。なんてこった。しかも、左右対称。これはもう、まごうこと無きアレルギーです。

痒すぎて眠れないので、ステロイドを薄く塗って、普段持ち歩いている薬ポーチの中から、第1世代の抗ヒスタミンを探して即座に飲む・・・。副作用の口渇半端ないけど、もうひとつの副作用の眠気のおかげかそのあとは寝たり起きたり、痒みもなんとなく収まったような、収まってないような。 

そして腫れ自体は翌日午前中にはだいたい収まったのですが、夕方ちょっと昼寝したらまた首周りと背中が地図状に腫れて、結局翌朝までぽりぽり。ぼりぼり。痒いだけだったら良いのですが、喉の奥にまで症状が出ると少し怖い。そして、任地でひどくなったらヤバいということで、受診させてもらいました。首都には日本人の先生が常駐しておられる病院があるので、細かいことまで聞けて安心。任地だとそうはいきません・・・。

 

 

同期隊員には散々「OTC薬をナメちゃいかん、任地では常備薬が大切だ、セルフメディケーションが健康の要だ」と偉そうに言っておきながら、首都にあがる時のポーチにたいした薬が入っていなかった点を猛省。枕みたいな量の薬を持ってきても(笑)、欲しい時に無かったら何の役にも立たない・・・。自分自身も気を付けます・・・。

 

今は病院でもらったセチリジン飲んで落ち着いてます。あれだけオリエンテーションで言われていた「経過観察のために目に見える症状が出たら写真を撮るように」という指示も頭からぽーんと抜けてしまっていたので、自分自身リマインドする良い機会になりました。

 

あ、原因は分からないままですが、今はすっかり元気です!

 

そして第1号活動報告書も出しました。

わたしたち青年海外協力隊の隊員は、報告書の提出が義務付けられています。

  • 第1号報告書 赴任後3か月
  • 第2号報告書 赴任後6か月
  • 第3号報告書 赴任後12か月
  • 第4号報告書 赴任後18か月
  • 第5号報告書 赴任後24か月

第1号は配属先の情報やニーズなど、これから必要となる基本情報の整理がメインで、その後は実際の活動報告や社会格差に対する所見、受け入れ国の人々の変化について等、どんどん内容が深まっていきます。

 

第1号報告書の提出は赴任後3か月といっても、最初の1か月は語学訓練で首都に滞在しているため、実質本赴任してから2か月経過時点で報告書を書くことになります。

 

「新規」と「交替」

協力隊の受け入れ先の形態は「新規」「交替」の2種類があります。要請が出されて初めて協力隊を受け入れるのが「新規」、既に先輩隊員が活動していた配属先は「交替」。それぞれに、それぞれの、やりがいや苦労があるかと思いますが、私の場合は「新規」の案件なので、私が何をしに来た、どこの誰だか、ほぼ誰も知らないところからのスタートでした。

 

新規案件はとにかく何もかもが”真っ白”で、真っ白なキャンパスに色を塗っていくというよりは、キャンパスどこ?絵具どこ?というところからのスタートな気がします。一方、交替案件で活動されていた方のお話を聞いたときに、「”前任”という亡霊との闘いの日々だった」と仰っていたのが印象に残っているのですが、引継ぎ期間が現地で設けられていない中で前任者と比較されるのは確かに辛そうです。現地の人に残っているのは”2年住んだあとの前任者”の記憶、そして自分は”これから2年住む新任”、異文化理解や言語の習熟度に差があって当然なのですが、誰かとの比較というのはときに辛い障壁になってしまうこともありそうです。しかし、引継ぎがしっかりなされていれば、イチからPDCAを回すのではなく、今まで積み上げてこられたものに「+α」して活動していけるという利点もあります。

 

 

「新規」、好きやな

 

50人以上も居る大所帯の局で、実際同じ課に居て毎日顔を合わせるのはそのうち5人だけ。赴任した日は「え?!2年も居るの?!」と驚かれ、未だに他の課の人たちから「何しにきたの?」と言われることもあります。日本のようなホウレンソウ文化は無いので、私はひたすら、選挙カーのように挨拶と自己紹介をしながら局内を徘徊する日々。小腹がすいたら局内をうろついて、「キンソム」という、すっぱい果物やパパイヤサラダを食べるおやつ文化をコミュニケーションツールにしつつ、私のことを知ってもらったり、色々教えてもらったりしています。

 

市場のどの店の肉が新鮮かとか、野菜、果物、肉、それぞれどれぐらいの値段で買えるかとか、シンの仕立てはどこのテイラーさんが上手いとか、生活情報もキンソムの時間にだいたい仕入れることができます。そしていつも少し払おうとしたら「いいのいいの!」と受け取ってもらえず、ご相伴にあずかる日々。

 

ODOPの事、県のこと、少しずつ分かってきたようなそうでないような、その中で未だに答えが出せず迷っているのは、時間という有限なリソースをどこまで「調査」に使うかということ。自分が着手しやすく、近くに生産者さんが居るという事を考えると、近隣の手工芸の生産グループと一緒に活動していくのが手っ取り早いのですが、60品目あるODOP商品の全てに手をかけることは無理でも、一度は生産者さんのところに足を運んで、「機会」を作りたい。特に、ポンホーン以北の山間部は政府により貧困地域に指定されている場所も多いので、いろんな声を聴いて、自分の活動に意味を持たせていきたい。という思いもあり。

 

じゃあ、生産者さんを訪ねて、何を聞く?ただ行くだけではもちろんダメで、後で見返せるような形に残していきたいんだけれども、どんなデータを蓄積したらこの後の活動の有益な財産となる?後任に引き継ぎやすくなる??と考えだしたら沼にはまってしまい、ひたすら石橋を叩いて叩いて、叩きまくって、橋の手前で立ち尽くしている、そんな状況です。こういうときにサクサクッとPDM/PCMが作れる人間に、次回はなりたい。

 

 

ただ、私は新規案件でこの地に来て、未だに砂漠の真ん中にぽつんと立ってるような気持ちで居ますが(笑)、コンパスになりうるものはいくつかあるのに使い方が分からず、どっちが北か分からないような状態だということも自覚しています。とりあえず動いてみたらいいのに、こういうときだけやけにビビる。時間はないし、既にカウントダウンは始まってるんだから、同期、先輩、他県・他国での実績、今市場に出回っている商品、色んな方向にアンテナ立てまくって、全力で駆け抜けねば。

 

と、大きいことを言いすぎると、活動が行き詰ったときに自分の首を絞めまくるので、このへんにしよう(笑 

 

 

活動報告書、2号以降は日本語だけではないらしい

日本語+英語もしくは現地語で同じものを書いて活動先の人たちと情報共有をしていくこととなります。しかし、ラオ語はシステムに登録する際に文字化けが起きてしまうらしく、英語での提出が必要です。つまり、現地の人が英語苦手だったら、3言語・・・??と思って震えていますが、どうなんでしょうか。

 

無理やりラオ語ねじ込んだら英語もクメール語もはるか彼方に飛んでいってしまったので、余裕を持って、明後日ぐらいから報告書の作成に取り掛かる予定です・・・。嘘です。(笑) 

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ときに「異文化理解」という言葉は凶器となる?

さばいでぃー!

皆さんこんにちは、ラオスのラオ子です。

旧正月に向けてお仕事モードからゆるゆると正月モードに入ったラオスは、新年を迎えると同時にブチ上がり、都会も田舎も関係なくそこかしこが爆音&ダンス&水かけ祭の会場と化しました。そして三が日が開けると、しーん・・・として街全体がお休みモードになり、この週末が明けたらいつものラオスに戻り始める・・・のかな?という感じです。

 

いつもラオス最高ー!ラオス楽しいー!という話ばかりしているので、たまには趣向を変えて、今までで一番悩み、落ち込んだことを、色々やんわりぼかしながら書いていきたいと思います。

 

 

ラオ子は酒が飲めない

 

本題の前に。前提条件として、私は酒が飲めません。もともと弱い体質なのだと思います。飲んだらすぐに頭が痛くなり、眠気に襲われ、そこで寝てしまうと夜中にとつぜん吐き気に襲われます。寝なかったら、ひたすら笑うか泣くかを繰り返すらしく、人としての尊厳を失い、まわりに迷惑をかけます。飲み会も全く好きではありません、安い席はご飯美味しくないしうるさいし、そうでなくても煙草くさい。それで、安くても3000円、多いと5000円、ポンと飛んでしまう。3000円あったらスイーツセットのハシゴ行けるし、5000円あるならファイブスターのランチかデザートバイキングにでも行きたい。

あ、味が好きだから辛いと思うときもあります。友人や彼氏とベルギービールウィークエンドに行っても、私だけ貰ったコインのほとんどを割高なツマミに費やする。みんなは色んなビールを楽しんでいるのに、私は一口飲んで限界を迎えたところでビールをあげてひたすらフレンチフライを食べる。食べ終わった後物足りなくて、ほろ酔いの友人たちをステラおばさんのクッキー食べ放題の店に連行する。(理解のある友人たちで本当に助かる)

小さいころ、じいちゃんが石油ストーブで酒粕を焼いておやつがわりに食べていたのをつまんでたから酒粕の味は好きだけど、未だにちょっと食べたら顔が真っ赤になって目がちかちか。日本酒やワインの味は好きだし、料理に合わせたら美味しいのも分かっているけど、たくさんは飲めない。夏フェスで背伸びしてビール買ってみても、にわか雨が降ったらコップから薄くなったビールがコップのふちから溢れてくる。ワイナリーで試飲させてもらったら、その後ワインを買ったことを覚えていない。オールで飲んだ帰りにセブンで烏龍茶6リットル買って帰ったことも覚えていない。

 

1本、2本とビールをがぶがぶ飲める人が心底うらやましい。きっとラオスも、カンボジアと同じようにお酒飲め飲め文化なんだろう。カンボジアでは逃げ続けていたけど、今回は最後のチャンスだと思って、その文化に揉まれて、私もお酒が飲めるようになって日本に帰ろう!!!

 

・・・って思っていたのですが、そもそも本当にそう思っているならカンボジアに2年住んだ時点で出来ているわけで。さっそくラオスでもその壁にぶち当たることになりました。

 

ちなみに、この写真のときも、ちびちび、ちびちびと飲んで、半分でギブアップ。でもこの時は「青春ごっこ」の名のもとにメコン川の向こうのタイの灯りを肴に訓練生活を語ることが目的だったので、雰囲気が味わえればそれでよいのです・・・。

 

ラオスの「キンビア」って何

「キン(食べる)ビア(ビール)」でキンビア、つまりビールを飲むこと、飲み会、のこと。

 

ラオスのキンビアは、本当にすさまじい。

 

始まったが最後、というか、終わらない。いつになったら終わるんだろう??と聞きたくなるぐらい、終わらないんです。それはもう、田舎も都会も関係ありません。何かのセレモニーの後、黄色いケースがドンと積まれたかと思うと、中のビール瓶が次々空になっていく。いつ休んでるの?と言いたくなるぐらい、飲み続ける。爆音で音楽を鳴らし、会話にならない会話をしながら、ひたすら飲み続ける。

 

ピーマイ(旧正月)などの行事になるとそれがエスカレートし、夕方になると「え、これ、何人で空けたんですか・・・?」と聞きたくなる量のビール瓶が転がっている。それでもペースが落ちない。

 

そしてだいたいのキンビアで、盛り上がるにつれて「イッキ」コールが始まり、激化していきます。・・・・悪夢が、始まって、しまうのです。

 

おもてなし文化の温かさの裏側に

先に誤解の無いように言っておきますと、私はこの記事を通じて「ラオ人はアルハラだ!」とか、「ラオ人との飲み会には気を付けろ!」とか、そういう事が言いたいわけではありません。(いや、実際、私のように体質的に飲めない人は本当に気を付けたほうがいいかもしれませんが・・笑)

ラオ人にはラオ人の楽しみ方があります。キンビアして、ラオミュージック&タイミュージックをかけて皆で踊って、辛い物、美味しい物いっぱい食べて、いっぱい話していっぱい笑って。すごく楽しそうなのです。シラフの私には入れない話のループができあがって、途中からずっと同じ話をして笑ってます。たぶんこのあたりは日本でも同じです。

 

そしてもちろん、ありがたいことに、同席する私にもお酒が振舞われます。ラオスの温かいおもてなし文化。「これは今朝うちで採れた野菜で作ったのよ!美味しいからいっぱい食べて!」「これは〇〇出身の私の義母が作ったの!食べてみて!!」と、お母さんたちは、おかずや、焼き立て・揚げたてのお肉や魚をたくさんすすめてくれます。どれも美味しい。「日本人でも食べれる?」と聞かれ「美味しいよ!」と答えると、「もっと食べてくれていいからね!!」と笑顔で返してくれます。これがまた本当に美味しい。最近は、ローカルレストランには並ばない「家庭の味」というものに魅力を感じています。だから、こういう場所に混ぜてもらえると、色々食べられて嬉しい。この暑さの中、ちょっとだけ飲むビアラオも、美味しいです。ビアラオは今まで飲んだビールの中で一番飲みやすい。苦くないし、つんとしないし。氷たくさん入れてキンキンに冷やした薄いビアラオでいいんです。ちびちび、ちびちび飲みたい。

 

しかし、「イッキ」が始まると、そういったものを楽しむ余裕がなくなります。

 

「ラオ子!イッキ!」

「ごめん、飲めないの。お酒弱いし、体調悪くて。」

「なんで!イッキ!」

「いやいや、ほんとに飲めないから。ごめん、ほんとに飲めないの。」

「じゃあ、半分!」

「いや、ほんとに無理だって。体調悪いんだって。」

「なんで!半分!半分!」

「できない、できない。ごめんね。」

「じゃあコップの柄のとこまで!第一関節分!!」

 

ずっとこのループが続きます。一人が何度も来ます。そして酔っ払いは大勢居ます。みんなと順番にこのやりとりをすることになり、2巡目がまわってきて、3巡目、4巡目・・・。断るのが苦手な日本人。私もできれば、断りたくありません。でも、飲めないものは、飲めない。体が受け付けないと言っている。1杯飲んで済むものではないのも、分かっている。「ちょっとだけ」が通用しないのも、もう、わかっている。(来てすぐに潰れるまで飲んでます・・・。氷入りで、コップ3杯。)

 

コップにしばらく口を付けて、飲まずにテーブルの上に置いても、横目でそれを見ていて、また「飲んでない!イッキ!」が始まります。 

 

そしてエスカレートしていくと、肩を組んでの飲ませ合いや、口にビンやコップをつっこんで無理やり飲ませるなんて光景も。本当に、すごい。それでも楽しく飲み続けるラオ人のキンビア、すさまじい。「ちょっとだけ」がききません。こちらがコップ一杯でやめたいと思っても関係なし。うまく断る術もなければ、強く断るメンタルも無い私は、まったく飲まずに場をシラけさせることに耐えるか、言われるがままに飲み続けるかの2択です。

 

私にとどめを刺した一言

活動先から帰る途中、レストランで顔見知りに来い来いと手を引かれて座ったキンビアの席。最初はわいわいやっていたのですが、どんどん「飲め飲め」が激しくなり、威圧的に、怒鳴るように言われても、コップを口に無理やりつけられても、水を飲んでいたコップの中身を捨てられてビールを注がれても、私はかたくなに断り続けました。ずっと飲んでいる薬との相性が良くないので、飲まないように日本の医者から言われている、だからお酒は殆ど飲んだことが無いし、弱いし、翌日の活動に響くから、とも言いました。

 

そして言われた、辛~~~~い一言。

 

「ラオスに住んでおきながら、ラオスの文化を理解しようともしないのか。」

 

「ラオ子が酒を飲まないから私たちは全然楽しくない」 

 

この言葉に、それまで頑なに断り続けたことや、自分が飲めないことでみんなの雰囲気をつまらなくしていないかと葛藤したこと、それを案じて1度無理やり飲んでみたけどすぐダメになったこと、翌日活動先でも気分悪くて1日ポンコツになったこと、それでも「もっと飲んだら強くなるから!」と言われて「飲めない体質だとは誰も理解してくれないんだな・・・」とストレスになっていた事などが、自分の中で溢れ返ってきました。溜めに溜めていた心のダムが決壊してしまったような気持ちになり、そして何も言えなくなり、黙り続けました。その後私は、皆が違う事に気をとられているうちに、すぅぅぅーーーーっっっっっ・・・とフェードアウトするように帰ったのでした。

 

― きっとあの人は私に言った事なんて覚えていないだろう。覚えていても、悪気もなかったかもしれない。いや、いっそ、いやがらせしようとして言ってもらったほうが、もう近づかなくていいからマシだ。でも、どっちにしても、どこの国の人とか関係なく、こんなこと言われたら辛い。

 

―でも今まで蓄積されていたものが今ちょっとダメになっただけで、全部あの人が悪いわけではない。失礼だし謝ったほうがいいのかな。 せっかく混ぜてくれたのに申し訳なかったな。とはいってもあの「飲め」の言い方は怖かったし、戻りたくはないな。

 

帰る途中、色んな気持ちが頭の中をかけめぐります。

 

ー なんで私はお酒が飲めないんだろう。それがそもそもいけないのか。私がお酒飲めたらこんな気持ちにならなかったのか。じゃあ飲んでやろう。飲めるようになるまで毎晩飲んでやろう。ドチクショー!

 

悔しさをどうにかする方法が分からなくなった私は、「じゃあ飲めるようになったるわ!!ヤケクソや!!」という、いたって短絡的な思考のもと、アルコール度数4.5%のアップルサイダーを買い、半べそかきながら家に帰ったのでした。

 

「異文化体験」は選べない?

ラオスに派遣が決まってから、ラオスを知らなかった私はたくさんの事を学ぼうとしました。ラオスの本を読んで、絶版しているものは図書館をはしごして探して。初めてラオ語を見たときは「なんだこれは、本当に文字なのか。」そう思いながら2か月半でラオ語の読み書きを覚え、皆に比べれば語彙も表現も少ないけれど現地に来てからも毎日勉強しました。同期隊員に比べたらまだまだ努力も語彙も足りないけれど、近づきたくて必死でした。

任地では毎日いろんな産地の巻きスカートを履いて働いて。日本では食べないものだって憶することなく食べたり飲んだり。そんな風に、私は、自分の中にある「ラオスを知りたい」という気持ちに正直に、文化に溶け込もうとしてきたつもりでした。

 

―でも目の前の人を不快な気持ちにしてしまった。溶け込もうとする姿勢があったら出来ないことがあっても相手にも理解してもらえるというのは私の勝手な思い込みだ。自分が興味あることだけを選択的に体験して分かった気になっていても、結局相手のコミュニティに溶け込む力がなかったら、理解してないのと同じことなのかも。

 

―そもそも私がカンボジアで2年楽しく過ごせたのは、他の日本人が社内外問わず築いてきた関係に便乗していたからで、そこには自分自身でいちから作った関係なんか無かったし、それを勘違いして驕っていた自分が恥ずかしい。

 

と、キンビアを断って言われた一言で色々考え始めたら、止まらなくなってしまって。

 

その後は、家や飲み会に誘ってもらっても、「ごめんね、体調が悪くて。」「今からテレビ電話で他の国の隊員と会議やから・・・。」と、せっかくのお誘いを受けても逃げるようになってしまいました。特に職場の人の場合、関係を崩したくないこともあり、断りまくるようになってしまいました。

 

そして、お正月目前になってもうまく整理できず、「うちでパーティーやるけど来る?」「家族で滝に遊びに行くけど一緒にどう?」「子どもたちが一緒に水遊びしたいって!」と、活動先のいろんな人が声を掛けてくれたにも関わらず、その先にキンビアがあるかと思うと怖くなり、家族の楽しい時間に水を差してしまうのではないかという気持ちも強まって、「ごめん、首都で隊員と遊ぶんだ!」と断っている自分が居ました。

 

水遊びしたかったな。お正月どんなご飯食べるのか気になるな。綺麗な滝も見に行きたかったな。雨ごいのロケット祭も、本当に、本当に行きたかった。でも、自分がやりたいと思ったことだけやるのは、アカンのかな。キンビアもできないと無理なんかな。首都行ってもやることないな、隊員誰か暇かな・・・。

 

自分から選んだ場所なのに、自分から人と関わることから遠ざかってる。日本では「ノミュニケーションなんて必要ない」と強く思っていたけど、こっちでは日本に居る以上に、「楽しい時間を一緒に過ごして親睦を深めるため」のツールとして必要なものかもしれない。

うまく躱す術も、アルコール耐性も身に付かず、ただただ相手の好意を無下にして自分のわがままを押し通そうとしている。こんなんじゃだめなのにな。どうしよう。どうしたらいいんやろう。

 

と、うじうじ、うじうじうじうじ、悩んだ結果、実際これで任地の家に籠って寝正月したらいよいよ本当に取り返しがつかないぐらい落ち込みそうだったので、何もプランを立てずにとりあえず上京する事に決めて、事務手続きをしたのでした。

 

そしてどうにもならないこの気持ちを誰かに聞いてほしくて、連絡を取ったり、インスタでみんなに意見を聞いてみたり、ここでやっと人に話を聞いてもらうという行動が取れたのでした。あの時悩んでいた私に温かい言葉をかけてくれたみんな、本当にありがとう・・・。

 

この件で学んだこと

キンビアに悩みはじめたのは3月初めの赴任後すぐですが、本当にダメになったのは4月に入ったぐらいのことでした。1か月半の自分の行動とキンビアとの関わり方を振り返って、いくつか気が付いたことがあります。

もちろん、分かってくれる人も居る

この件があった数日後の、職場の「ブンピーマイ(旧正月祭)」が私には苦痛で仕方ありませんでした。8歳の友達以外、全員敵だと思って臨む予定でした。(友達にも「どうしてラオ子はキンビアしないの?大人でしょ?」って言われたけど・・・。)

 

バーシーには行きたい。でも、みんなが1年で1番楽しいときに、自分がお酒を頑なに断ることで「楽しくない」と思わせたらどうしよう。でも飲めないし、飲み会は昼から夜までずっとだし、憂鬱だ・・・と思っていました。

 

しかし、バーシーの準備中にオカンたちと色々話をしているとき、自分が本当にお酒を飲めないと悩みを打ち明けると、「じゃあこの後のキンビアは私たちのテーブルに来なさい!」「水だけ飲んでればいいから!」と言ってくれて、実際その後の飲み会でオカンたちからお酒をすすめられることはありませんでした。もちろん、他の席から乾杯しにきた人たちにはすすめられましたが、この席の人たちは私が飲めなくても良いと思ってくれている、と逃げ場がひとつあるだけで、私の気持ちはずいぶん楽になりました。それに、手首を見たら皆からお願い事をしてもらったたくさんの糸。私の幸せを願ってくれる人が居ることを思い出してあったかい気持ちで乗り越えられました。

 

酔っ払いは万国共通

 

「ラオスのキンビア文化怖い・・・」と、あやうく一括りにしてしまうところでした。先週この内容を更新していたら、おそらくこの記事も「ラオスのキンビア文化なんて滅びろ!」というキャッチーなタイトルになっていたかと思います。

でも、よくよく考えたら日本人だって欧米人だって関係なく、酩酊した人とはまともに話は出来ません。日本だって、飲めなくても楽しめる席もあれば、そうでない場所もあり、年末年始なんて駅周辺吐しゃ物まみれで、その上に寝っ転がっている人も。そもそもお酒の強要をする人がいなければ「アルハラ」なんて言葉は生まれていないはず。

「酔っ払い」にまともに話して分かってもらおうとしていたのが間違いだったんだと思います。そして、飲めないなら飲めないで、(いろいろな機会や広がりを逃すことはあったとしても)飲み会自体断ったって活動に支障が出るわけではないので、飲まされること自体が苦痛なのに交流をはかりたいという使命感で積極的に飛び込んでいく場所ではなかったかなと。実際、子どもたちと遊んだり、おばあちゃんたちと話しているほうが、100倍楽しい。そして、国籍関係なく、べろべろに酔った人、酔って他人に迷惑をかける人が、本当に苦手です。(私もたくさん飲んだらもれなくそうなります。)

 

来月には必ずぶつかる課題だった

私は活動上、バイクの使用を許可されている隊員です。来週には3回目の教習と試験、来月にはタイカブが届きます。そうなると、今までのように配属先の人たちの送り迎えではなく、バイクでの活動が多くなります。

飲酒運転はもちろんできません。現地の人たちにはそれを言っても「関係ないよ」と言われるかもしれませんが、私は下戸だし、「公人」です。バイクを運転するなら酒は飲まない。法律が、JICAがそういっているなら、私はそれに従います。

よって酒は飲みません。コップを無理やり口につけられても、楽しくない・文化を理解する気が無い、と言われても、だめなものはだめ。無理なものは無理。そう強く言い続けるしかありません。バイクに乗っている時は、何を言われても公人としての義務を果たすべきです。

それに、酔ったらすぐ寝るか、楽しくなって記憶がどこかに行ってしまうような人間が、「外国人女性」として見られる場所で酩酊すること自体が、安全上よろしくなさすぎます。そう、私は、外国人なのです。そしてここは途上国。急性アルコール中毒になったり、酩酊して怪我したりしても、救急車を呼んでもらえるかわからないし、病院に行っても日本と同じような治療を受けられるとも限りません。自分の身は自分で守る。ひとりで任地に住んでいる隊員として大切な大前提を、あやうく忘れるところでした。

 

相談することは大切

キンビアのことを相談した他の国の隊員から「自分も同じ状況」と教えてもらって、私の気持ちはずいぶん軽くなりました。また、「お酒以外のラオス文化に博識となり、積極的に披露する」「任務で信頼を得る」といった、自分自身の努力が足りないこと、「ラオ子という人間を理解してもらうのは時間がかかる」という大先輩からの言葉に、背筋が伸びたのも事実でした。

言葉を覚えて自分の気持ちを一方的に伝えられるようになることと、本質的に分かってもらうのとは全く別のことで、それを考えずに「何で分かってくれないんだよ」とヤケのようになっていたことには、大反省会(キンビア無し)です。

 

見習いたい”共感力”の高さ

正直、「隣の国に2年居たし大丈夫~」って余裕ぶっこいていたので、彼の一言でここまで落ち込むとは当人も思っていませんでした。ですが、私がインスタで白旗を振ったとき、そこにコメントをしてくれた人も、直接連絡をくれた人も、どちらも私のなかに鉛のように溜まっていたものをすっと溶かしてくれました。私はそんな風に人の力になれているだろうかと考えると、足元にも及ばないなと。

青年海外協力隊という同じ括りの中で活動している人、数年、数十年かけてコミュニティの中に溶け込んだ人、色んな人が居て、いろんな方面から話を聞いてくれて、いろんなアドバイスをくれて。みんなきっと、多かれ少なかれ、活動自体にも、インフラにも、「お金ちょうだい問題」、「シノワ問題」などにも、国や地域によって違いはあるにせよ今まで感じたことのなかったストレスを抱えて活動しているわけで。自分で選んで飛び込んだ世界だとしても、どうにもならないぐらい辛くなるときは当然あると思います。そういう時に自分も「ラオ子~!話きいてくれ~!」って思ってもらえるような人になりたいです。

 

自分も無意識にやってしまっていないだろうか

カンボジア人、トルコ人、スコットランド人。今まで私の家に遊びに来た人たちです。そして、日本国内で「大人数の日本人の中に外国人が一人もしくは数人」というコミュニティにも居合わせたことも何度もあります。英会話カフェ、ゲストハウス、職場、などなど・・・。その中で、相手が出来ないことを「文化だから」と無理やりやらせていたことがもしあったら、と、考えました。こちらは楽しんでほしくて精いっぱいもてなしているつもりでも、相手からしたらやりたくない事で、文化だと言われるから無理に合わせていただけ、なんてことがあったら・・・、どっちも得しません。無意識に、悪意なくやってしまうことほど相手を傷つけることはない。自分もこれから気を付けようと思いました。

それから、「文化」という大きな概念を理解する前に、目の前に居る相手を理解する必要があるし、それは自分がマジョリティでもマイノリティでも関係ないのかもしれない、という事を、今まであまり考えたことがなかったなと。目の前で起きたことがその「文化」のすべてではないことが大前提、捉え方も表現も伝え方も何もかもが人それぞれで、自分が経験した事だけで100を理解した気持ちになるのは本当に危険。実際に同じラオスの他の隊員からは「そんなに強要する人も居るんだ」と驚かれましたし、「あるある。辛いよね。」という言葉をくれた人もいます。集団の中の一人であることに変わりは無いとしても、それがすべてに当てはまると考えてしまうことは避けたいです。

 

発信するという行為に対する責任

これはカンボジアから帰って小学校、高校、大学と色々なところで講演させてもらったときにも思ったことですが、自分が「これがラオスの文化」だと捉えて発信することで、ラオスの間違ったイメージを与えることにも繋がってしまう危険性があるんだということを忘れてはいけないなと。

特に、今私は「青年海外協力隊」として「ラオス」で活動している人間です。その「ラオ子」が、ブログやSNSで発信することで、国際協力に興味がある人の手助けになったり、ラオスに来たい人の情報源になれば嬉しいし、自分がどっぷり漬かっているラオスという異国の面白さ、すばらしさを伝えていけたらという思いで書いています。しかし、私という一人の人間のバイアスがかかることで、捻じ曲げて発信してしまうという危険性があることを十分に考えて発信していく必要があります。

 

「したい」と「させられる」

まとまらないまとめです。

その後の首都滞在で、同期隊員と一緒に、路地裏にテントをたててキンビアしていたおじさんたち(多分そこそこ偉い人)に混ぜてもらいました。ゆるーく踊ったり、写真とったり、「〇〇君(JOCVの先輩)を知っているよ!彼にはお世話になったから君たちがもし旅行に行くなら僕の車で連れてってあげるよ!」なんて嬉しいことを言ってもらったり。

それ以外にも、旧正月で同じく上京中の同期隊員たちから「昼から飲む」という未踏の飲み方を経験させてもらったり、夜ドミに戻ってからも寝る前にビン1本飲んでみたり。「ちょっと飲んでみる?」「大丈夫?」「無理してない?」と、練習に付き合ってくれて心配もしてくれて。

お互いの任地での生活や活動の話なんかをしながら、メコン川沿いでゆっくり飲むビアラオ、うめぇ。ちょっと飲んだら眠くなるけど、昼間のうだるような暑さの中飲むビアラオも、うめぇ。

 

結局のところ、私が今回ここまで拒絶反応を示したのは、

①「文化だからと断りにくい環境を作り、何度もイッキを強要される」という事自体に強いアレルギー反応を起こしキンビア自体受け付けなくなっている(7割)

②「ラオスを理解しようとしていない、楽しくない」と否定されたことに純粋にショックを受けた(2割)

③無理やりやれと言われたことをやりたくない意地(1割)

かなあ、と、首都滞在を終えて思ったのでした。

 

自分の習慣に無いものを強要されるというのは結構苦痛ですが、もし逆の立場でそうなった場合に拒絶反応を示してしまうというのは、きっとラオスの人も同じこと。活動の上で自分がそうしないように、自分が28年間でつくってきた「普通」は一旦捨てて、時間がかかるとしてもひとつひとつの事を丁寧に確認しながら活動していきたいと思いました。

 

ちなみに、ヤケ買いしたアルコール入りのアップルサイダー

 

 

キンキンに冷えてます。だって1本もよう飲まんもん・・・。

隣の醤油のほうがよっぽど美味しそうや。

 

余談。

自分の時間がたくさん持てて、読書や情報発信に時間をつくりやすい今の生活。せっかくなら読書と文章づくりの質をあげる練習をしてみようと、「東大読書」「東大作文」なる本を買ってみました。いつもはだいたい2000文字ぐらいで力尽きるのですが、1万文字ぐらいのボリュームで書いたらどれぐらいの内容になるんだろうというちょっとした好奇心で、旧正月最終日を使って、写真少な目・文多めの1万文字記事を書いてみました。結構文章書くのって体力が要るんですけれども、写真に頼ってばかりではいつまで経っても文章が書けるようにならないので、今後も不定期でやっていく予定です。大した内容ではありませんが、また次回もお付き合いください。

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ラオス旧正月!バーシースークワン初体験で、ちょっと泣いた話。

さばいでぃー!

 

さばいでぃーぴーまい!(あけましておめでとうございます!)

皆さんこんにちは、ラオスのラオ子です。

1月1日のインターナショナルニューイヤー、2月の中国旧正月に続き、4月15日、ラオスは今年3回目の新年を迎えました。私の活動先である産業商業局は、11日が新年のパーティー。12日は後片付けや余韻(皆あちこちで飲んでいて働くモードはどこへやら)で、私も局には行かなくて良いと言われたので家でたまっている報告書の作成や料理にあてました。

そして13日から17日まで5連休。活動先によってはもっと長期休暇のところもあるそう。逆に1月1日のインターナショナルニューイヤーは元旦だけが休みで2日からは普通に仕事なんだとか。いかにラオスで旧正月が大切にされているかが伺えます。

 

旧正月、どんなかんじ。

 

メコン流域の国々、本当に面白い。文化や宗教、言語など、過去の歴史の中で深いつながりがあったことを感じさせてくれます。4月になると、タイは「ソンクラン」、ミャンマーは「ティンジャン」、カンボジアは「チョール チュナム トメイ」と、周辺国は旧正月を迎えます。(ベトナムのテトだけが、ちょっと特殊かも。)

ここラオスも、ほぼ同じタイミングで「ピーマイ(ピー=年、マイ=新しい)」があり、今年は4月13日から17日までは旧正月の大型連休(当局の場合)。

正月1週間ほど前から事務所に来る人が少なくなり、各々買い物や、産業商業局とつながりのある省庁・企業などのパーティーに出席し、千鳥足で昼過ぎごろに局にやってきました。

それが正月に近づくにつれエスカレートし、水でびしょぬれ、ベビーパウダーで粉まみれのおじさんたち(といっても局の中では課長、部長クラスの方たち)が、私のデスクの前にあるソファにドンと腰かけてゆらゆら。

「ビール飲んできたの?」「うん」「どこで飲んでたの?」「〇〇局に呼ばれて」「いっぱい飲んだんでしょ」「うん」「クーラーあたって寝てて」「うん」「水飲む?」「いらない、ビール飲む」「無いよw」「買ってきて、お金あげないけど」「嫌だよwwww」と、私は千鳥足のおじさんたちとどうしようもない会話をして過ごしました。

そんな感じで、お正月が近づいてくると、家も会社も関係なく色んなところにぽつぽつとテントが張られ、爆音でラオミュージックが流れるなか、皆ゆる~く飲んだり食べたり踊ったりするようです。

 

産業商業局の正月祭で「バーシースークワン」初体験

 

 

4月10日夕方、いつも閉まっている「ほーん ぱすむ(会議室)」が珍しく開いていて、中から人の笑い声が。さっき水びたし&粉まみれですれ違った、完全に出来上がった課長が入っていくのが見えたので、私は見なかったことにして事務所へとこっそり戻りました。

 

 

その後、他の局員さんから「ラオ子!おいで!」と呼ばれたので、「キンビア(飲み会)やったら地獄やなあ・・・」と思いながら恐る恐る部屋を覗くと、コンクリの打ちっぱなしの床に茣蓙が敷かれて、翌日の「バーシースークワン」の準備をしている最中でした。

冗談なのか意味があるのかは定かではありませんが、ひょろひょろぐにゃぐにゃの長いロウソクを頭に巻かれ、顔の長さを測るかのように頭のてっぺんから顎までべたっと押し付けられ顔面をばしばし叩かれました。

 

 

それを、ロウソクを束にしてしめ縄のようになった塊に合体。「何したの?」って聞いたら「ぼーぺんにゃん!(大丈夫!)」と言われたので、大丈夫なんだと思います。

 

 

そして翌日、お酒が飲めない私には悲しいぐらい憂鬱な「大晦日前日」の11日、この日は産業商業局の仕事は1日中お休みで、息もしたくないような暑さの中、「ぶん ぴーまい(ぶん=祭)」つまり、お正月のパーティーが開かれました。

 

 

朝から皆せっせと「バーシースークワン」というラオスに伝わる儀の準備。家族が大きな病気をしたあと、新年、家族が留学や仕事で遠いところに行く前などに、幸せを願って行われるそうです。私は今回バーシースークワン初参加。派遣前訓練中に、ラオ人の先生が作ってくれたミサンガで隊員同士でバーシーの練習をしたことを思い出し、板書を見て何を言ったらいいのか復習。

 

 

家族だけで行うこともあるそうですが、お正月のバーシーは特別。お坊さん4人に来てもらい盛大に儀式が行われました。

 

 

運ばれてきたタライにはたくさんのピンカイ(焼き鳥)が入っていて、お姉さんたちが中華包丁を使って次々叩き切りしていきます。

 

 

 

そしていよいよ、儀式が始まりました。

各々持ってきた仏具(?)にロウソクを立てて黄色いお花を入れ、手を合わせてお坊さんのお経を聴きます。

 

 

田舎のお寺の保育園で育ててもらった私にはなじみ深い「ブッダンサラナンガッチャーミー」。カンボジアで初めて聴いたときは「本当に言うんやああ!!!」とものすごく感動しましたが、同じ上座部仏教のラオスでも同じお経を聴くことができました。その後には「ダルマンサラナンガッチャーミー、サンガンサラナンガッチャーミー」と続きます。「三帰依文」というもので、「ブッダ(仏)、ダルマ(法)、サンガ(僧)」に帰依するという意味だそう。

その後は「ドゥティヤンピ(ふたたび)」「タティヤンピ(三度)」を頭に付けてまた同じ言葉を繰り返します。

 

 

そして時折、水でふやかったもち米や、キャンディー、お花、小さく折られたお金などが飛んできました。

 

 

「よかったね、ラオ子!幸せがやってきたね」

 

なるほど、そういう意味なのね。

 

お坊さんが錫の器に入った聖水を、葉がたくさんついた木の枝をつかって全員にかけてまわり、またお米があちこちから飛んできて。結構、びちゃびちゃ。後半になると、床も、体も、頭も、米まみれ。もち米が撒かれるたび、「わぁ~~!!」と歓声があがります。

 

 

そして、結構長かったお経が終わり、お坊さんはこちらで用意したご飯を食べます。

 

お経を唱えている間火柱をあげていたロウソクと、残った水。このお水を体につけたり、ペットボトルに入れて持ち帰ったり。日本でいう、お寺に行ったときにお線香の煙を浴びるようなものでしょうか。

 

 

 

そしてお坊さんたちがお帰りになり、バーシーが始まりました。

「ラオ子、あなたは初めてだから一番前よ!」「でも写真撮りたくて・・・失礼じゃないかな」「大丈夫!手を合わせてる間は皆と一緒にお祈りしてね」と言ってもらえたので、一番前でバーシー式を体験させていただくことに。

 

 

真ん中に置いた祭壇のようなものから伸びる糸を皆で持ち、進行役の一人が何かをずっと唱えています。その村の長など、位のある人が、が口伝された祝詞のようなものを唱えるようです。(語学力の限界・・・。)

そして時折みんな「サーーー!」とこたえる。このタイミング覚えたいなあ。

 

 

終わったら、みんなで祭壇のオレンジや白の糸を分け合って、手首に結びます。卵や鶏肉を握らせて結ぶ人、お金を握らせてお願い事をする人、いろいろ。

 

私も上司・同じ課の人のところに結びに行きたいな、と、必死で覚えた言葉を思い出そうとしていたところ、「ラオ子!ラオ子!」とみんなが私のところに結びにきてくれました。

 

 

ビエンカムにきてくれてありがとう。

 

あなたと一緒に仕事ができて嬉しい。

 

2年間、健康で過ごせますように。

 

2年間、ここでの生活が安全でありますように。

 

たくさんのラオ人の友達ができますように。

 

ここが第2の故郷になりますように。

 

ビエンチャン県のODOP商品を、協力してたくさん売っていけますように。

 

あなたが笑顔で頑張れますように。

 

あなたと、日本にいるあなたの恋人や家族が健康でありますように。

 

2年後にはもっともっとラオ語でたくさん話ができますように。

 

日本とラオスがもっといい関係になれますように。

 

多分、もっとたくさんのことを言ってくれていたのですが、今の私に聴き取れるのはこれぐらいでした。

 

でも、十分でした。私の手を取り、ゆで卵やお金を手のひらに乗せて、私の目を見て、とびきりの笑顔で、私の2年間の活動や、ここでの生活が豊かになることを祈ってくれた。

もっと聴き取れたら、と、悔しい気持ちになりながらも、みんなの温かさに胸がいっぱいになって、喉の奥がぐっとなりました。こらえきれず涙が出てしまい、「どうして泣いてるの」と聞かれ、「嬉しいからだよ」と答えると、「その気持ちで、これから頑張ろうね」と。

 

 

こんな風に、温かい気持ちと真っ直ぐな言葉でお互いの幸せを願う儀式が、職場や家庭で当たり前のように行われる。なんて素敵な文化なんだろうと思いました。

日本に居たときは、「仕事は仕事」「プライベートはプライベート」と完全に分けた働き方しかした事がなかったし、それが当たり前で、普通なのだと思っていました。でもラオスは違っていて、もっともっと距離が近くて、皆がみんな親戚のような感じ。だからこそ理解し合えること、助け合えることもたくさんあるんだろうなと、ここに居た1か月半みんなの働き方を見て感じました。

 

 

この後引き続き行われた「ぶんぴーまい」の飲み会は、お酒が飲めない自分にとって結構辛いものでしたが(これはまた後日)、バーシーの儀式は「心があったかくなる素敵な時間」であるということを知った素敵なお正月となりました。

今度のバーシーでは、私がみんなの幸せを願って糸を結べるようになりたい。このモチベーションを語学の勉強にあてたいと思います。

 

 

ネットで調べると諸説あるのですが、結んでもらったバーシーの糸は3日~2週間ぐらい置いあと切るそうです。それまでにも結び目の甘いものが自然と取れていきましたが、糸がたくさんついていると炊事や入浴のあと重さを感じるぐらい水を含みます(笑)

 

取れてしまったものは家の鍵に結んで、残っているものはこのままにします。見るたびに皆に貰った温かい言葉を思い出せます。皆、ありがとう。

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応募から派遣まで、青年海外協力隊についてまとめてみました。

さばいでぃー!

 

皆さんこんにちは。ラオスのラオ子です。

青年海外協力隊を志望されている方から

青年海外協力隊自体についてのご質問をDMで頂いたので、

今日はいつもと趣旨を変えて、協力隊っぽい話をしようと思います。

長くなりますがお付き合いください!

 

 

私が協力隊を志したきっかけ

協力隊といえば海外経験豊富な人、というイメージがありますが

(少なくとも私はそう思っていました)、

私の場合、小学~高校まで所属していた合唱団で、

イタリア、ドイツ、スイスの姉妹都市に

友好使節団として行かせてもらった以外は、

海外経験はありませんでした。

私がカンボジアに渡航するとき

家族は誰もパスポートを持っていませんでしたし、

大学の頃はバイクが趣味だったので国内ツーリングばかりしていました。

 

世界ウルルン滞在記が大好きだった小学生のころの私は、

赤土の一本道を泥だらけのバンで進み

知らない言葉の知らない人たちと出会うことに

言いようのない憧れを抱いていましたが、あの頃途上国は私にとって

「テレビに映る人たちが行く場所」「自分にはできないこと」

というイメージでした。

 

そして情報系私立4大で普通に学生生活を楽しみましたが、

この時も海外に行く、ましてや働くなど想像もしませんでした。

それを変えたのは就職活動です。

用意された就活が、あまりに「おもしろくない」。

それが嫌で、本当に「面白そう」と思える会社を探して

カンボジアにたどり着きました。

実は、海外就活と同時進行で、

ずっと興味があったJICAの説明会にも行ったのですが、

その時は自分に出来ることが全く無かったため

「今の自分は国際協力の分野で必要とされている人間ではない」

と感じ、応募しませんでした。

 

そしてカンボジアで2年間働き、いちど日本に戻りました。

この2年の間にカンボジアで出会った、当時大学生の女の子と、

日本に帰ってから一緒に英会話カフェに行ったりご飯を食べたり。

そうこうしているうちに彼女は国際協力の道に飛び込む決意をして、

大学卒業と共に青年海外協力隊としてセネガルに旅立ちました。

彼女の姿が猛烈に羨ましくて、私も何かできないかと思ったところ、

前職での経験が活かせそうな職種を見つけたので応募を決意。

実は大好きな音楽でも1つだけ実務経験を問われない

要請があり、最後の最後まで迷って迷って迷った結果、

少しでも役に立てる可能性がある

コミュニティ開発隊員になる道を選びました。

 

というわけで、ここからは2017年度秋募集の場合の話ですので、

応募を検討される方はWebサイトより新しい情報をご覧ください。

 

協力隊への道その1:書類選考

協力隊になりたい!と思ったらまずはWeb応募です。

通常の履歴書や企業のエントリーシートに書くような内容に加え、

  • 語学力
  • 海外での経験
  • 帰国後のビジョン
  • 職種ごとの設問(技術適合性、経験、知識などを問うもの)
  • 帰国ボランティアの印象に残ったエピソード

などの項目があります。

また、問診表、JICA指定の健康診断書の提出も必須です。

衛生や医療に対する知識も、実際の治療内容や使われる薬も

日本とは全く違う環境で、生き抜けるかどうか、

というフィジカル・メンタル面も審査項目に入ります。

(大げさに思われるかもしれませんが、

私は看護師隊員の先輩方の話を聞いて本当にさぶいぼが立ちました。)

 

職種ごとの設問は、

実際に書いてみると結構なボリュームになりますので、

早めに準備して信頼できる人にチェックしてもらうことを

強くおすすめします。(皆様、その説はお世話になりました・・!)

ちなみにですが、作った書類は墓まで持っていきます。

この記事を書くために久しぶりに引っ張り出したら

恥ずかしすぎて穴に埋まりたくなりました。

 

そして約1か月半後(だったかな?)、

1次試験の合否と共に2次試験の案内が届きました。

 

協力隊への道その2:面接

面接試験は1月初め、都内某所で行われました。

前日夜は高校の親友とチベット料理を食べながら

「これじゃあ調べ学習だね」と面接の一問一答を一刀両断。

しかし彼女は私の扱いを本当によく分かっています。

視野狭窄、というか、盲目になって変な自信を持っている私が

当日の面接で絶望しないように、

あらかじめメンタルをずたずたにしてから

ちょっと褒めてくれる、いわゆる飴と鞭作戦。ええ奴や。

 

そして当日は緊張のあまり、ホテルにネックレスを忘れるという失態。

(連絡したら後日着払いで送っていただけました。。。感謝!)

結構な人数が集まっていましたが、

それでも数日間に分けて行われているようで、面接も1日がかり。

待機中は、問診表・健康診断書について詳しく聞かれたり

書類の不備を直したりしつつ、

  • 技術面接
  • 人物面接

の二種類の面接を受けました。

午前は一発目、午後もわりと最初のうちに面接が終わり

解散までまわりの席の人たちとわいわい話しました。

がちがちに緊張していたところから一気に弛緩して

くきわかめを周りの人たちに配りまくったのは間違いなく私です。

 

「とんでもない圧迫面接だった」と書かれていたブログを読んで

怯えながら扉を叩きましたが、私の場合は全くそんなことは無く、

話しやすい空気を作ってくださったので

こちらも思っていることをそのまま話せて

後悔のない面接になりました。

 

協力隊への道その3:合格から派遣前訓練まで

2月の初旬にWEB上で合格者の受験番号が発表され、

数日遅れで書面が届きます。

それを見るまでは、どの国に何次隊で派遣されるか分からない。

合格したことを知っても、なおドキドキ。

 

そして届いた合格通知を見て、無事第1希望のラオスに

行けることが決まりました!!!

(同じ要請で別の任地、という案件がいくつもあり、

いま書類見返すまでずっと第2希望で通っていたと思っていました笑)

 

3次隊での派遣の場合、試験は9月後半か10月ごろから。

まだ半年以上もあります。

また、訓練が始まると同時に私は無職になります。

バイトをかけもちして恐ろしいほど働き、

その後の生活のために貯金・・・などできるわけもなく、

意味わからないぐらい働いて、

オフの日は旅行に行ったり会いたい人に会ったり、

フェスやライブに行ったり、とにかくやりたい放題やって

訓練開始を待ちました。

 

合格から訓練までの7か月のあいだには、

健康診断や、語学・国際協力についてのE-ラーニングの課題など

いくつかの指示がありました。

語学のE-ラーニングはたいした量ではないのですが、

その後の訓練の事を考えると、しっかり勉強したほうが良いです。

特にラオ語、タイ語、アラビア語のように

アルファベット以外を使う訓練言語は

入所のスタート位置でその後吸収できる量や負担に

大きな差がつくように感じました。

私は文字だけなんとなくで覚えていって激しく後悔した人です。

語学は、なんとなくでは何ともなりません・・・。

合格発表直後の隊次の人たちは

そこまで差はできないかもしれませんが、

訓練まで8か月もあるとなると、

やった人・やっていない人でかなり差ができます。

  • CDつきの「ゼロから話せるラオ語」
  • Kindle版の「指さし会話帳」

の2冊をこの期間に買って、勉強すべきでした。本当に後悔。

(入所してすぐに買いました。)

「ゼロから話せるラオ語」は巻末の索引がラオ語の五十音順、

指さし会話帳の索引は日本語の五十音順なので、

派遣前訓練で習う語彙であれば、

最初はこの2冊で十分カバーできます。

(というか今もこの2冊で大丈夫)

 

協力隊への道その4:技術補完研修(5日間)

そうしてようやく9月の後半に始まりました、派遣前訓練。

その一環として、コミュニティ開発隊員向けに行われた

「技術補完研修」で、同期隊員たちと初めて顔を合わせます。

もっと前から他の研修で知り合いになっている人たちも居て、

「何であんなに最初から和気藹々と話せるんだ!怖い!!」

と怯えましたが、

技術補完研修が無い職種の隊員の人はその後の派遣前訓練で

私たちに対して同じことを思ったそうです(笑

 

技術顧問の先生から文化人類学を学んだり、

先輩隊員の実体験を聴かせていただいたり、

ファシリテーション技法などのワークショップを行ったり、

とにかく濃い5日間でした。

 

 

ここで仲良くなれた人のうち、

二本松訓練所で訓練を受けない人とはここでお別れ。

訓練言語によって二本松、駒ケ根、横浜の3か所に分かれるので

同じコミュニティ開発隊員でもずっと訓練を受けるわけではないのです。

 

協力隊への道その5:自動二輪研修(2日間)

技術補完研修が終わってまた1週間後。

今度は、自動二輪研修を受けます。

要請内容によっては自動二輪の運転が必須のものがあり、

免許を持っていない人は訓練開始までに取得しなければいけません。

わたしは元から大型バイクに乗っていたため、

この2日間はただただ楽しくオフロードでダートを走っただけの

楽しい時間となりました。

 

・・・嘘です。

バイクのメンテナンスや任地の道路・交通事情なども

しっかり学ばせていただきました。

それに、結構本格的にダートを走るので、

免許取りたてだったら泣いていたと思います。

砂利道、砂、泥、大きい水たまり、めちゃめちゃ急な坂などを、

ウィンドブレーカーの上からプロテクターで

がちがちに固めて走ります。

私たちの隊次は10月初旬の研修だったので、

まだまだ日中の日差しが強く、体力的に結構疲れました。

 

 

そしてここでもまた、別の訓練所に行く人とはお別れ。

実はこの時、バイク隊員は次の訓練に必要な荷物を持って

関東某所で訓練を受けていました。

つまりこのまま二本松に行って、70日間の訓練の始まりです!

この大荷物を持っての移動が本当につらかった・・・。

送料ケチらずもっと荷物を送っておくべきでした。

 

協力隊への道その6:派遣前訓練(70日間)

そしてここから70日間の語学訓練が始まります。

語学訓練と言っても、受けるのは語学の授業だけではありません。

  • 06:30~ 朝の集い、ラジオ体操、ランニング、朝食
  • 08:45~ 語学の授業
  • 11:45~ 昼食、委員会など
  • 13:00~ 語学、講義、予防接種など
  • 17:00~ 休憩、班別ミーティング、委員会など
  • 18:00~ 夕食
  • 22:30  点呼

日曜日以外はこのようなスケジュールで過ごし、

70日間で語学学校2年分に相当する授業を受けます。

 

「ラオス語入門」という飛びぬけて高い本をここで購入。

索引が無いのが辛いところですが、

各文法の細かい表現はとても参考になります。

・・・といいつつ、私の語学力は

まだこの本で学ぶに至っていません。

最初から買う必要はないと思います。

 

講義では、国際協力とは何ぞやということから、

ファシリテーション、異文化体験のワークショップ、

途上国での安全管理・健康管理についても学び、

派遣国によって種類が決められているワクチンを週に1回ずつ打ち、

地域の方々にご協力いただき農家や各施設で体験させて頂いたり、

一足先に訓練を終えられるシニアボランティアの方々の

修了式、壮行会、街を散策して成果物を作ったりと、

とにかく内容盛りだくさん。

それ以外にも有志による行事や職種・国ごとの交流会、

誰かの誕生日会などで、休みらしい休みはほとんどありません!

 

 

70日間、本当に一瞬で終わってしまったように思います。

特に、中間試験から最終試験まではあっという間でした。

音楽室に閉じこもっていないで、

もっといろんな人と話しておくべきだった・・・。

もう1度おかわりしたい、楽しすぎた訓練生活でした。

 

協力隊への道その7:派遣前訓練終了から出国まで

派遣前訓練の最終試験合格をもって、

無事「候補生」から「青年海外協力隊」へと昇格した私たちは、

各々決められた出国日までを自由に過ごします。

私の班担当をしてくださった元隊員の職員さんに最後の面談で

「出国までにやっておくべきことはありますか?」と尋ねたら

「とにかく人に会っておくこと」とアドバイスを頂いたので、

年末年始をまたいで派遣までの1か月半で、

2年間会えなくなる隊員同士集まったり、旅行に行ったり、

とにかく色んな人に会いました。

 

そして地獄のパッキング。

 

何回確認しても絶対忘れものするし、ほんとうにこの時間が苦痛。

案の定、語学の先生が私のために作ってくれた単語プリントを

忘れてくるという失態を犯しました。

 

協力隊への道その8:現地語学訓練

 

そして出国日が重なっている隊員のお見送りなんかもしつつ、

国ごとに集まって、いざ出発!

現地に着いたら任国事情のブリーフィングや

銀行口座開設、各種申請書類の作成などの後、

3週間の語学学校通いが始まります。

その間に2泊3日のホームステイも。

このあたりは行く国のJICA事務所によるので、

語学訓練中に任地を訪問している国もあれば

ずっとホームステイする国もあります。

 

 

そうしてようやく、任地への出発の日。

弱音吐く隙も言い訳する余地もないほどストイックに勉強し、

初歩的なことばかり聞いても分かり易く教えてくれて、

語学訓練中から自分のフィールドの人脈をつくり、

私が言い出しっぺで料理してても洗い物ひとつ残らない、

2クラスに別れて授業を受けていた70日間の訓練では

見えていなかった、皆の尊敬できるところが

たくさん分かってきたころにやってくる別れ。辛すぎか!!

 

 

協力隊、ようやく任地へ

 

 

現在は、ビエンチャン県の県都、ビエンカム郡の

産業商業局販売促進課に配属され、

毎日みんなでご飯食べたり、おやつ食べたりしながら、

日々少しずつですが活動のベースを作っています。

 

SNSで世界中繋がっているこのご時世、

隣の芝が青くてふさふさに見えてしまいがちで

最近「これでいいのか?」と考えたりしました。

ですが、ここ数日、ワケあってたくさんの同期隊員と

連絡を取れる機会があり、色んな人と話しているうちに、

またパワーをもらえたような気がします。皆ありがとう!!

 

考えてみたら、悩むほど何もできてないし、

今から頑張ります。ぼちぼち、きりきり、頑張ります!

 

訓練で感じた、3次隊でよかったこと

応募ボタンをクリックしてから任地に来るまでに、

1年4か月かかりました。

もっと早く行きたい人は1次隊・2次隊の募集がある職種に

応募するのが良いかと思いますが、

3次隊でよかった~!と個人的に思うこともたくさんあるので

その中の一部をご紹介します。 

 

その①安達太良山の紅葉と雪景色がとにかく綺麗

 

訓練が行われる二本松は、安達太良山のすぐ近く。

ちょうど閉山間際から訓練が始まるため、

訓練始まってすぐのレクとして皆で登山する生活班も。

(わたしは委員会のため参加できず。辛い・・・)

燃えるような紅葉と雪景色を楽しめるのは3次隊だからこそ。

新雪にテンションあがってタンクトップで雪合戦した日が懐かしい!

 

 

また、私の居室からの朝日は本当に最高でした。

雲海が広がる二本松市を一望できるロケーション。

朝焼けに染まった部屋で目を覚まして

雲海を見ながらラジオ体操した日々を、私は決して忘れません。

 

その②温泉が気持ちいい

訓練生を癒してくれるのは、30分ほど山道を歩いたところにある

「岳温泉街」でした。

温泉に入って体を芯まであたためたあと

美味しい温泉饅頭やソースかつ丼をいただく時間、プライスレス。

 

逆に、3次隊だから辛かったこと

その①とにかくヤツの量がすごい

ヤツってもう、あれです、潰すと臭いアイツです。

小さいのから大きいのまでいっぱい出ます。

これも訓練の一環なのかと思うぐらい大量に出ます。

部屋で勉強してても授業中も、どこにいても、

小型機みたいな音を出しながら旋回してます。

最初は触るのも嫌だったアイツを、

気が付いたらティッシュでくるくるポイ。

こうして皆、強くなっていくんですね。

 

その②待機期間が長い

訓練終了から出国までの1か月半、というか、

訓練が始まる前からすでに無職・無収入なわけですから、

お財布はどんどん薄くなっていく一方。

期間が長い分色んな人に会えて嬉しい反面、

せっかく叩き込んだ語学がどこかに飛んでいってしまい

「早く現地行かせてください~~~」と何度も思いました。

 

そして、あの119人で訓練できて本当によかった!!

という一番の本心も最後にそっと添えておきます。 

 

まとめ

1年4か月分、ぐだぐだ書いたら長くなりました・・・。

試験や訓練、まとめてみると色々やってたんだなあと

今になってしみじみ感じています。

 

社会に出ると、100人を超える人たちと一度に仲間になれる機会や

こんなに集中的に何かを学ぶ機会はなかなかありません。

「独立国家作れるんじゃない??」と思うぐらい

多種多様な人材で溢れる訓練所での毎日が、

刺激的じゃないわけがない。

同じ生活班には、「シニアボランティア」という枠で参加されている

人生の大先輩もいらっしゃって、

生活班ではいつも同期隊員として気軽に接してくれるのに

時折見せつけられる絶対的な経験値の差や、

自分の人生だけでなく人の人生にも責任を持って生きてこられた人の

包容力の大きさを感じて、「越えられない人」という気持ちになったり。

私なんかでよかったのかどうか、といまだに思いますが、

そんな先輩方の一足先の修了にあたりお礼の言葉を述べさせて頂けたのは

訓練期間で一番プレッシャーで、一番光栄なことでした。

大先輩との日々を思い出して一人泣きながら原稿を作り、

門限の時間まで講堂で泣きながら練習し、

当日の午前中の授業は何も頭に入らなかったけど(笑)、

この時間は私だけのもんやって思ったら、

こんな機会を頂けたことに感謝しかないです。

 

会社で、お金のため、会社のために働くのとは全然違う感覚で、

任地に行ってからの自分のため、一緒に活動する人たちのために

皆で支え合いながら研修や訓練を受けた日々が、

2年間を支えてくれるいちばんの原動力になります。

「協力隊になってよかった」と思えるかどうかは

今後1年8か月の活動によって大きく変わりますが、

とにかく今はこうして任地で活動を始められたことに感謝して、

1日1日、ゆっくりのんびり、丁寧に関係づくりをしながら、

生産者さんや局の人たちとの時間を過ごしたいです。

 

これで、わたしの「応募から派遣まで」の

ざっくりとしたまとめ、終わりです。

「協力隊って実際どんな感じで任地に行くんだ」と思われている方に

少しでも参考になれば嬉しいです。

 

 

 大好きだった、自分の部屋から望む二本松の朝焼け。

 

そんな皆のブログです↓

www.laoko.net

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活動先で、突然生産者のおばあちゃんによる指圧マッサージが始まった話。

さばいでぃー!

任地に来て3週間が経ちました。ラオスのラオ子です。

最近パソコンで蟻を飼い始めました。

電源を入れると蟻がわらわら出てきます。

噛むタイプの蟻じゃないので、

PC壊さなかったら居てくれてもかまわないのですが、

潰すと蟻酸臭いのがちょっと難点です。

お願いだからPC内で蟻酸出さないでよね。

 

それはいいとして、最近、

色んなデータの翻訳作業や、それに伴う文献調査で

肩こりと目の疲れが限界に達していました。

肩が凝るといつも左肩がジンジンと痛くなって、

耳の後ろから肩甲骨あたりまで変なツッパリ感があるんですが、

今回はそれに加えて、左手の甲がずーっとぴりぴりと

変な痺れを起こしていました。

おそらくラオ文字を読むことに慣れておらず

書類やPCに顔を近づけすぎていることが原因かと思われます。

 

アジアあるあるですが、とにかくベッドが大きいので、

寝る前はこれでもかとストレッチしています。

しかし、部屋に机と椅子が無いこともあり、

ずっとベッドでごろごろ読書、スマホ、PCな日々では

それも相殺されるどころかマイナスです。

 

そして今日も私は、疲れた目をかっぴらき、

「目、大きくしたいの?」と言われながら

作業をしていました。

 

初めまして!の生産者さん

そこへやってきたのは、初めてお目にかかる

ODOP製品の生産者さん。

どこで、何を作っておられるのか伺って、

今度見学させて頂きたいというお話もして、

その後私は自分の作業に戻りました。

 

すると突然、事務所のソファーからすっと立ち上がって

私のデスクの前で手を合わせ、

「少しこちらに来てもらえますか。」

と、ソファーを案内されました。

 

何かお話があるのかと思い、スマホ、紙、ペンを持って腰かけると、

私の背後に立ってそこから動こうとしません。

 

なんだなんだ??

 

と思ってちらっと後ろを見ると、

手を合わせてなにかぶつぶつと言ったあと

私の背中を擦り始めました。

 

これはまさか、疲れていたのではなく

憑かれていたのか・・・?!

この人はシャーマンだったのか・・・・?!!?!?!?

 

と色々考えていると、突然マッサージが始まりました。

 

マッサージというよりも、これはもはや「指圧」。

街中にある「気持ちいい」マッサージではなく、完全なる治療。

 

「そこ自分で押さえても死ぬほど痛いんですよ」

という場所だけを、伝えてもいないのに(伝える語彙もない)

恐ろしいほどクリティカルに攻めるおばあちゃん。

私は全身の毛穴が開くのを感じました。

痛い。引くほど痛い。

 

その施術が10分弱続いている間、

おばあちゃんはODOP認証商品について

局員さんとずっとお話していました。

 

痛すぎてちょっと涙が出ました。

 

こんな小柄なかわいらしいおばあちゃんのどこに

この握力があるのだろうと不思議に思うぐらいの力強い指圧。

 

最終的におばあちゃんは腰から頭のてっぺんまで

くまなくマッサージして、私の前で手を合わせて

「ありがとう。終わりよ。仕事を続けてね」と。

 

あれ。

 

 

私の後に課のねーさんの施術が始まり、

いや本当に何だったんだコレは、と思い暫く作業していると

左手の甲の変なぴりぴり感が無くなっていることに気が付きました。

 

おばあちゃん。あの。あのですね。

 

痺れ無くなってます!!笑

 

びっくりした私はおばあちゃんに

「痛くなくなりました!!!ありがとうございます!」と言うと

ニコッと笑って「メルシーボークー。」

何もなかったかのように施術を続けています。

元フランス領だったラオスやカンボジアのお年寄りの中には

フランス語を話せる方もいらっしゃいますが、

何故私にフランス語で返してくださったのは謎です(笑

でも、プロ指圧師のおばあちゃんの突然のメルシーに

なんだか痺れました。おばあちゃんかっこいい!!

 

どういうことだ。なんてこった。

本当に本当に、背中が軽い。

 

そうこうしているうちに、次の局員さんに交代し、

いつもどっしり構えたオカン的な局員さんが

「痛い!痛い!!」とめちゃめちゃ可愛い声で泣きそうになっていて

私は少しキュンとしました。

 

彼女の職業は。

何を作っているのかをお伺いして、

てっきり生産者さんは生産者さんだと思っていたのですが、

その後よくよく聞いてみると彼女の職業は

「モー ヤー プンムアン」というもの。

ラオ語では「ໝໍ ຢາ ພື້ນເມີອງ」と書きます。

 

モー = お医者さん 

ヤー = 薬

プンムアン = ネイティブの

 

つまり、「伝統療法士」が彼女の職業だったのです。

 

このおばあちゃんは伝統療法士が本職で、

その知識を活かして自然のものからオーガニックの医薬品を作り、

ODOPの認証を受けていたのでした。

 

マッサージも1時間50000kip(=645円)で

受けてくださるそうなので、早速今度行ってみたいと思います。

前職が登録販売者だったこともあり、

薬の成分や製造工程には私も興味津々。

薬を作るところも見せていただけるとの事でしたので

早速今度お邪魔する予定です。

 

ああ~!面白い!まだまだ知らないことだらけ。

飽きたなんて言う日は来ないまま2年間が終わりそうです。

(ただし生活圏内の食事にはもう飽きました。)

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突撃コミュニティ開発②近所の女の子の家と、知らぬ間に「アレ」を食べていた話

さばいでぃー!

 

いつもの散歩コースで小さな女の子に呼び止められ、

玄関の軒下で飼っている鳥を見せてくれました。

これは一体・・・何だ?(全く詳しくない)

 

中から出てきたお母さんと話していたら

奥から同じ局で働いている男性が。

ここはその親戚一同が何軒かにまとまって住んでいる場所でした。

 

 

「奥に鳥より可愛いのがいるわよ!」と

案内してくれたので、ついていくことに。

 

 

あぁ~~~~~~~~~~~~~~~(;▽;)

 

 

か、か、か、、、、

 

 

かわいい~~~~~~~~~~~~~~~(;▽;)

 

しかし!わたしたちは、狂犬病感染の危険性があるため

あらゆる哺乳類との接触が禁止されております。

目の前のもふもふを抱っこできない悔しさで発狂寸前。

 

 
 
 
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 なんで抱っこしないの?怖くないよ!!

と女の子に何度も言われました。つらい。

 

「もうおしまいね!」とお母さんが

両耳を鷲掴みにして女の子から取り上げ、

「ウサギはペットじゃなくて家畜だ・・・」

と改めて思い出しました。

 

その隣では、おばあちゃんがせっせと仕事中

 

 

ぱっつぱつに綿が詰まった綿の木の実を割いて、

綿を取り出す作業をしているところでした。

外側の硬い殻をナタで割くと、

中からは真っ白でふわふわの綿が出てきます。

羽毛のように軽くて、かわいい。

 

これを詰めて枕を作るそうです。

またまた、自然の手仕事の面白さを見せてもらったような。

 

量産された化繊が詰まった枕とはどんな風に違うだろう?

枕にするところ、見せてもらいたいな。

出来上がった枕も触りたいな。

買いたいな(笑)

 

といろんな欲が出てくる作業風景でした。

(話に夢中になって撮るのを忘れたなんて言えない)

 

日々のランチ

 

いつもの食事の話。

 

食堂のおばちゃんは、左のほうに写っている恰幅の良い女性。

でも、とても忙しそう。

 

すると一緒に食事に行った男性職員が調理場を使って

パパイヤサラダやタケノコサラダを鉢でトントンし出しました。

写真右のピンクの服の女性も同じ職場のお姉さん。

ビニール袋に入って売られている総菜も好きなものを皿に出して、

焼き魚は炭火で炙り直して、と、自分たちで手伝って食事を作るスタイル。

 

 

そして出来上がったお食事の一部。

上から時計回りに、

タケノコのヂェオ

ナムグム川の焼き魚

キアップムー(豚の皮を揚げたスナックのようなもの)

そして何が入っているのかさっぱり分からないモックチア。

 

 

このモックチアがなかなか美味しい。

香草がしっかりきいていて、ごはんによく合う。

辛みもあまり無くて日本人でも食べやすいかも。

 

 

職員さんお手製の激辛タムマックフン(パパイヤサラダ)と

牛肉の串焼きも加わり、もち米3人分がついて700円ほど。

それを4人でシェアしました。

 

左手でカオニャオをにぎにぎしつつ

右手で一口分とっておかずと一緒につまんで食べるスタイルにも

かなり慣れてきました。

 

 

こんな風に自分の小皿におかずを取り分けて食べますが、

口に運ぶときは、お箸は使ったり使わなかったり。面白い文化です。

お店の水道が借りられれば手を洗ってから帰るんですが、

それでも落ち切らないぐらい唐辛子を触っているので

うっかりコンタクトレンズを触って悶絶したことが何度か。

まだまだ慣れが必要です。

 

 

さて。

タイトルの「アレ」ですけれども。

 

・・・「モックチア」ですね。

 

モックは、バナナの葉で包んだ食べ物全般を指します。

ということは、問題は、「チア」ですね。

 

このブログを書くために料理名を聞いたことで発覚、

「チア」は「コウモリ」でした(笑)

 

「大丈夫!ラオスのコウモリはオーガニックだから!」

と言われ思わず大笑い。そういう問題か!

 

カンボジアで見たヤツは見たまんまの「丸焼き」で、

そんなに美味しさも感じなかったので一口かじって

「ごちそうさまでした」だったんですが、

昨日は、あまりに美味しいので結構食べました。

まさか昨日の食事で一番美味しいのがコウモリだったなんて!

 

あんまり考えずに現地の食文化に突進していくタイプですが、

もうちょっと食事(食材)に対しての語彙力を身に着けようと

心に誓いました。

 

 

このブログを書いた日のお昼ご飯のメインディッシュは

「ホーイ」でした。

 

「ホーイ」は、

 

かたつむりです💛笑

 

ともあれ、美味しかった。全部美味しかった!

お腹もぜんぜん、ぼーぺんにゃん(問題無し)です。

 

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視察①ポンホーンの竹細工の生産者さんとシン屋やさん

さばいでぃー!

 自転車を買うため、活動先の2人が隣町まで連れて行ってくれました。

 

 

ポンホーンは私の街から15kmぐらいの所にある町です。

13号線をこのまま北上していくと、

ラオスの元(?)バックパッカーの聖地「バンビエン」、

その先をゆくと街全体が世界遺産に登録されている「ルアンパバーン」。

 

私の居るビエンカムやその北のポンホーンは

首都とバンビエンのちょうど間あたりにあります。

 

 

わたしの住んでいるビエンカムとは、店の量が全然違う。

ビエンカムにはほぼ無い中国語・韓国語の看板もちらほら。

 

 

この街もビエンカム同様観光資源に恵まれているわけではないため

首都に比べたら外資系のお店はほぼありません。

ほぼありません、というか、たぶんありません。笑

 

少し都会な田舎、という印象。

 

 

当面の移動に必要な自転車を購入し、

職員のお姉さんおすすめのフォー屋さんへ。

 

 

確かに、美味しい!

しっかりお肉の味がするのに全然ケモノっぽくない、

美味しいお出汁でした。

 

 

ラオスでフォーを頼むとこのゴマ味噌のようなものが付いてきます。

これを入れて、唐辛子の辛さを足すと、まるで担々麺のような濃厚スープに。

こういった、小皿に盛られたペーストは「ジェオ」と呼ばれ

トマト風味や魚醤のガツンと効いたもの、激辛のものなどいろいろですが

フォーについてくる「ジェオスキ」は辛さはありません。

野菜につけてもよし、カオニャオ(蒸したもち米)につけてもよし、

日本人にはとてもなじみやすい味だと思います。

 

任地に来てから、食べるのは麺類ばかり。

あっさりしていて夕方にはお腹がちゃんと空くぐらいの

ほどよい低カロリーなうえに

もやしやサラダ菜をもりもりに入れて野菜も摂れて

最近体が軽いように感じます。

こちらに来てすぐに作ったシンも、

少し余るようになってきました。嬉しい。

この食生活を維持して、NTCに入所してから増えに増えた体重を

戻していきたい今日このごろです・・・。

 

いざ、視察!その①竹細工

ポンホーンに行った一番の目的は自転車を購入することですが、

その途中にあった生産者さんの所に行って

仕事風景を見学させてもらうことができました。

 

 

私の要請内容はざっくり言うと「ODOPの普及や販売促進」です。

大分県で1960年代に始まった「一村一品運動」がさきがけとなり、

のちにJICAのプロジェクトなどを通じて

アジア地域周辺の途上国を中心に広まったのが

ODOP(One District One Product)。

 

私の活動先であるビエンチャン県には

約60のODOP認証商品があり、

生産者のグループが違うだけで同じ商品が登録されていることもあるものの

食品、竹細工、布など、たくさんの開発資源があります。

 

 

これはそのうちの一つ、竹細工のちゃぶ台、

軽くて、丈夫で、とても使いやすそうです。

これでも日本円にしたらだいたい1700円しないぐらい。

涼し気で、良いですよね。

 

 

道端のガレージで作っているおばちゃんたちの

作業風景を見学させていただきました。

 

魚を捕るための道具や、蒸したもち米を入れる竹製のお櫃、家具、

なんでも竹で器用に作ってしまう、竹細工のスペシャリストです。

 

 

下のほうに少しだけ映っている黒い洗面桶に水が入っています。

編むところに水分を含ませてやわらかくすることで、

薄く裂いた竹でも折れることなく編み込めるんだそう。

 

 

 
 
 
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このように、おばちゃんたちの手によって1本ずつ割かれた竹が

ラオスの人たちの生活必需品へと姿をかえていきます。

 

 

「ここが一番難しいんだから!撮って!!撮って!!!!!」

とポーズをきめてくれたおばちゃん。

大きいナタを器用に使って、1mほどの長さの竹を

薄すぎず、厚すぎない、絶妙な厚さに割いていくのです。

 

 

現在編んでいるのは、特大サイズのティップカオ(おひつ)。

ラオスの人たちは、カオニャオという蒸したもち米を日常的に食べますが、

それを保存するのに欠かせないのがこのティップカオです。

 

 
 
 
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このお櫃に入れると、丁度良く水分が抜け、丁度良く保たれ、

水滴でベタつくことも表面がパサつくこともない

美味しいカオニャオが保てるのです。

(ティップカオを開けたままにしていると、

空気に触れている部分がすぐにパサパサになります)

 

これから、できるだけたくさんの生産者グループをまわり

良いパートナーを見つけたいと思いますが、

ポンホーンは局から通いやすいところなので

何かをお願いする機会も増えそう。

これからもよろしくお願いします!

 

視察その②ポンホーンのシン屋さん

 

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 前回記事の冒頭でお話した「シンが買えなかった話」を聞いて、

ODOPの視察がもちろんメインですが(笑)、

連れて行ってくれました!

市場ではない、きっちりお店を構えたシン屋さん。

 

迷いに迷って買った2着がこちら。

 

 

まずは、「サイニャブリ」という、先輩隊員が居る街の布。

日本でも着れそうなデザインなので、大切に着たいと思います。

手織りの藍染の浮き織りなんて、何て贅沢なんでしょうか・・・。

 

 

こちらは、私の活動地であるビエンチャン県の、

ODOP認証を受けたシン。

全体的に、きらびやかで、裾部分が豪華な印象です。

 

シンはいくつかのパーツによって構成されていて、

着方もTPOによって様々です。

腰布の「フア・シン」は使う機会はめったに無く、

「パービアン」という肩掛けの布は、

サイバーッ(托鉢僧に喜捨すること)や

正式な行事のときに着用します。

 

通常「シン」は巻きスカートのことを指しますが、

「プン・シン」は腰布、「ティーン・シン」は裾布と

パーツによって2つの呼び方があります。

絣や浮彫が全体に入ったプン・シンのみのシンもあれば、

プン・シンはほぼ無地のシンプルな生地で

ティーン・シンの部分に豪華な装飾が施されたものもあります。

 

 

このシンは、プン・シンとティーン・シンが縫い付けられて

1枚のシンになったものです。

甲乙つけがたいものばかりだったので、

一緒に買いに行ったお姉さんに選んでもらいました。

 

あまりに細かく織られているので機械織りかなと思いましたが、

よくよく考えたらODOPの認定基準は

「人の手で作られていること」。

 

ということは、これもすべて手織りです。

凄すぎて意味がわからないよ・・・。

 

 

このシン屋さんのお店の裏には織り機が大小合わせて10台以上並んでいて、

そのうち数台が稼働していました。

こちらの織り機は、布を織りながら竹を編み込んだタペストリーを作っている最中。

涼しげでとても素敵でした。

 

おまけ

ちゃんと組み立てられておらず

サドルの首がぐらんぐらん(サドルの角度が定まらない)の

危険な自転車でヘトヘトになりながら帰宅し、

 

さて、いつものお散歩、と思ったら、

 

 

隣のデスクのお姉さんの家族・親戚一同に呼び止められました。

悪い予感がする。

 

 

「これは何て言うの?」

 

「イモ」

 

「イモぉおおおおおwwwwwwwwwwww」

 

「??」

 

「いえぇええええカンパ~~~イ!!!」

 

と謎に大盛り上がり。

どうやらこちらの女性の名前と同じ発音のようです。

 

「ねぇ、イモ食べる?」

 

「食べる!」

 

「「いぇえええええええwwwwwイッキ!イッキ!」」

 

「や、イッキ無理!無理!」

 

「じゃあ半分イッキ!!!!」

 

と、ラオスのキンビア(飲み会)文化の洗礼を受けました。

 

 

大量の生唐辛子を投入された激辛のジェオには、

生のエビ、というか解凍されたタイ産エビがたっぷり。

アタることへの不安と、生の魚介が食べたいという欲が3秒ぐらい闘い、

欲が圧勝したため美味しくいただきました。

辛い物を無理やり食べ、それを流し込むためにビールを飲んで期待に応える、

なかなか ハードで楽しい時間。

 

翌日の二日酔いと、胃痛といったらもう・・・。