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応募から派遣まで、青年海外協力隊についてまとめてみました。

さばいでぃー!

 

皆さんこんにちは。ラオスのラオ子です。

青年海外協力隊を志望されている方から

青年海外協力隊自体についてのご質問をDMで頂いたので、

今日はいつもと趣旨を変えて、協力隊っぽい話をしようと思います。

長くなりますがお付き合いください!

 

 

私が協力隊を志したきっかけ

協力隊といえば海外経験豊富な人、というイメージがありますが

(少なくとも私はそう思っていました)、

私の場合、小学~高校まで所属していた合唱団で、

イタリア、ドイツ、スイスの姉妹都市に

友好使節団として行かせてもらった以外は、

海外経験はありませんでした。

私がカンボジアに渡航するとき

家族は誰もパスポートを持っていませんでしたし、

大学の頃はバイクが趣味だったので国内ツーリングばかりしていました。

 

世界ウルルン滞在記が大好きだった小学生のころの私は、

赤土の一本道を泥だらけのバンで進み

知らない言葉の知らない人たちと出会うことに

言いようのない憧れを抱いていましたが、あの頃途上国は私にとって

「テレビに映る人たちが行く場所」「自分にはできないこと」

というイメージでした。

 

そして情報系私立4大で普通に学生生活を楽しみましたが、

この時も海外に行く、ましてや働くなど想像もしませんでした。

それを変えたのは就職活動です。

用意された就活が、あまりに「おもしろくない」。

それが嫌で、本当に「面白そう」と思える会社を探して

カンボジアにたどり着きました。

実は、海外就活と同時進行で、

ずっと興味があったJICAの説明会にも行ったのですが、

その時は自分に出来ることが全く無かったため

「今の自分は国際協力の分野で必要とされている人間ではない」

と感じ、応募しませんでした。

 

そしてカンボジアで2年間働き、いちど日本に戻りました。

この2年の間にカンボジアで出会った、当時大学生の女の子と、

日本に帰ってから一緒に英会話カフェに行ったりご飯を食べたり。

そうこうしているうちに彼女は国際協力の道に飛び込む決意をして、

大学卒業と共に青年海外協力隊としてセネガルに旅立ちました。

彼女の姿が猛烈に羨ましくて、私も何かできないかと思ったところ、

前職での経験が活かせそうな職種を見つけたので応募を決意。

実は大好きな音楽でも1つだけ実務経験を問われない

要請があり、最後の最後まで迷って迷って迷った結果、

少しでも役に立てる可能性がある

コミュニティ開発隊員になる道を選びました。

 

というわけで、ここからは2017年度秋募集の場合の話ですので、

応募を検討される方はWebサイトより新しい情報をご覧ください。

 

協力隊への道その1:書類選考

協力隊になりたい!と思ったらまずはWeb応募です。

通常の履歴書や企業のエントリーシートに書くような内容に加え、

  • 語学力
  • 海外での経験
  • 帰国後のビジョン
  • 職種ごとの設問(技術適合性、経験、知識などを問うもの)
  • 帰国ボランティアの印象に残ったエピソード

などの項目があります。

また、問診表、JICA指定の健康診断書の提出も必須です。

衛生や医療に対する知識も、実際の治療内容や使われる薬も

日本とは全く違う環境で、生き抜けるかどうか、

というフィジカル・メンタル面も審査項目に入ります。

(大げさに思われるかもしれませんが、

私は看護師隊員の先輩方の話を聞いて本当にさぶいぼが立ちました。)

 

職種ごとの設問は、

実際に書いてみると結構なボリュームになりますので、

早めに準備して信頼できる人にチェックしてもらうことを

強くおすすめします。(皆様、その説はお世話になりました・・!)

ちなみにですが、作った書類は墓まで持っていきます。

この記事を書くために久しぶりに引っ張り出したら

恥ずかしすぎて穴に埋まりたくなりました。

 

そして約1か月半後(だったかな?)、

1次試験の合否と共に2次試験の案内が届きました。

 

協力隊への道その2:面接

面接試験は1月初め、都内某所で行われました。

前日夜は高校の親友とチベット料理を食べながら

「これじゃあ調べ学習だね」と面接の一問一答を一刀両断。

しかし彼女は私の扱いを本当によく分かっています。

視野狭窄、というか、盲目になって変な自信を持っている私が

当日の面接で絶望しないように、

あらかじめメンタルをずたずたにしてから

ちょっと褒めてくれる、いわゆる飴と鞭作戦。ええ奴や。

 

そして当日は緊張のあまり、ホテルにネックレスを忘れるという失態。

(連絡したら後日着払いで送っていただけました。。。感謝!)

結構な人数が集まっていましたが、

それでも数日間に分けて行われているようで、面接も1日がかり。

待機中は、問診表・健康診断書について詳しく聞かれたり

書類の不備を直したりしつつ、

  • 技術面接
  • 人物面接

の二種類の面接を受けました。

午前は一発目、午後もわりと最初のうちに面接が終わり

解散までまわりの席の人たちとわいわい話しました。

がちがちに緊張していたところから一気に弛緩して

くきわかめを周りの人たちに配りまくったのは間違いなく私です。

 

「とんでもない圧迫面接だった」と書かれていたブログを読んで

怯えながら扉を叩きましたが、私の場合は全くそんなことは無く、

話しやすい空気を作ってくださったので

こちらも思っていることをそのまま話せて

後悔のない面接になりました。

 

協力隊への道その3:合格から派遣前訓練まで

2月の初旬にWEB上で合格者の受験番号が発表され、

数日遅れで書面が届きます。

それを見るまでは、どの国に何次隊で派遣されるか分からない。

合格したことを知っても、なおドキドキ。

 

そして届いた合格通知を見て、無事第1希望のラオスに

行けることが決まりました!!!

(同じ要請で別の任地、という案件がいくつもあり、

いま書類見返すまでずっと第2希望で通っていたと思っていました笑)

 

3次隊での派遣の場合、試験は9月後半か10月ごろから。

まだ半年以上もあります。

また、訓練が始まると同時に私は無職になります。

バイトをかけもちして恐ろしいほど働き、

その後の生活のために貯金・・・などできるわけもなく、

意味わからないぐらい働いて、

オフの日は旅行に行ったり会いたい人に会ったり、

フェスやライブに行ったり、とにかくやりたい放題やって

訓練開始を待ちました。

 

合格から訓練までの7か月のあいだには、

健康診断や、語学・国際協力についてのE-ラーニングの課題など

いくつかの指示がありました。

語学のE-ラーニングはたいした量ではないのですが、

その後の訓練の事を考えると、しっかり勉強したほうが良いです。

特にラオ語、タイ語、アラビア語のように

アルファベット以外を使う訓練言語は

入所のスタート位置でその後吸収できる量や負担に

大きな差がつくように感じました。

私は文字だけなんとなくで覚えていって激しく後悔した人です。

語学は、なんとなくでは何ともなりません・・・。

合格発表直後の隊次の人たちは

そこまで差はできないかもしれませんが、

訓練まで8か月もあるとなると、

やった人・やっていない人でかなり差ができます。

  • CDつきの「ゼロから話せるラオ語」
  • Kindle版の「指さし会話帳」

の2冊をこの期間に買って、勉強すべきでした。本当に後悔。

(入所してすぐに買いました。)

「ゼロから話せるラオ語」は巻末の索引がラオ語の五十音順、

指さし会話帳の索引は日本語の五十音順なので、

派遣前訓練で習う語彙であれば、

最初はこの2冊で十分カバーできます。

(というか今もこの2冊で大丈夫)

 

協力隊への道その4:技術補完研修(5日間)

そうしてようやく9月の後半に始まりました、派遣前訓練。

その一環として、コミュニティ開発隊員向けに行われた

「技術補完研修」で、同期隊員たちと初めて顔を合わせます。

もっと前から他の研修で知り合いになっている人たちも居て、

「何であんなに最初から和気藹々と話せるんだ!怖い!!」

と怯えましたが、

技術補完研修が無い職種の隊員の人はその後の派遣前訓練で

私たちに対して同じことを思ったそうです(笑

 

技術顧問の先生から文化人類学を学んだり、

先輩隊員の実体験を聴かせていただいたり、

ファシリテーション技法などのワークショップを行ったり、

とにかく濃い5日間でした。

 

 

ここで仲良くなれた人のうち、

二本松訓練所で訓練を受けない人とはここでお別れ。

訓練言語によって二本松、駒ケ根、横浜の3か所に分かれるので

同じコミュニティ開発隊員でもずっと訓練を受けるわけではないのです。

 

協力隊への道その5:自動二輪研修(2日間)

技術補完研修が終わってまた1週間後。

今度は、自動二輪研修を受けます。

要請内容によっては自動二輪の運転が必須のものがあり、

免許を持っていない人は訓練開始までに取得しなければいけません。

わたしは元から大型バイクに乗っていたため、

この2日間はただただ楽しくオフロードでダートを走っただけの

楽しい時間となりました。

 

・・・嘘です。

バイクのメンテナンスや任地の道路・交通事情なども

しっかり学ばせていただきました。

それに、結構本格的にダートを走るので、

免許取りたてだったら泣いていたと思います。

砂利道、砂、泥、大きい水たまり、めちゃめちゃ急な坂などを、

ウィンドブレーカーの上からプロテクターで

がちがちに固めて走ります。

私たちの隊次は10月初旬の研修だったので、

まだまだ日中の日差しが強く、体力的に結構疲れました。

 

 

そしてここでもまた、別の訓練所に行く人とはお別れ。

実はこの時、バイク隊員は次の訓練に必要な荷物を持って

関東某所で訓練を受けていました。

つまりこのまま二本松に行って、70日間の訓練の始まりです!

この大荷物を持っての移動が本当につらかった・・・。

送料ケチらずもっと荷物を送っておくべきでした。

 

協力隊への道その6:派遣前訓練(70日間)

そしてここから70日間の語学訓練が始まります。

語学訓練と言っても、受けるのは語学の授業だけではありません。

  • 06:30~ 朝の集い、ラジオ体操、ランニング、朝食
  • 08:45~ 語学の授業
  • 11:45~ 昼食、委員会など
  • 13:00~ 語学、講義、予防接種など
  • 17:00~ 休憩、班別ミーティング、委員会など
  • 18:00~ 夕食
  • 22:30  点呼

日曜日以外はこのようなスケジュールで過ごし、

70日間で語学学校2年分に相当する授業を受けます。

 

「ラオス語入門」という飛びぬけて高い本をここで購入。

索引が無いのが辛いところですが、

各文法の細かい表現はとても参考になります。

・・・といいつつ、私の語学力は

まだこの本で学ぶに至っていません。

最初から買う必要はないと思います。

 

講義では、国際協力とは何ぞやということから、

ファシリテーション、異文化体験のワークショップ、

途上国での安全管理・健康管理についても学び、

派遣国によって種類が決められているワクチンを週に1回ずつ打ち、

地域の方々にご協力いただき農家や各施設で体験させて頂いたり、

一足先に訓練を終えられるシニアボランティアの方々の

修了式、壮行会、街を散策して成果物を作ったりと、

とにかく内容盛りだくさん。

それ以外にも有志による行事や職種・国ごとの交流会、

誰かの誕生日会などで、休みらしい休みはほとんどありません!

 

 

70日間、本当に一瞬で終わってしまったように思います。

特に、中間試験から最終試験まではあっという間でした。

音楽室に閉じこもっていないで、

もっといろんな人と話しておくべきだった・・・。

もう1度おかわりしたい、楽しすぎた訓練生活でした。

 

協力隊への道その7:派遣前訓練終了から出国まで

派遣前訓練の最終試験合格をもって、

無事「候補生」から「青年海外協力隊」へと昇格した私たちは、

各々決められた出国日までを自由に過ごします。

私の班担当をしてくださった元隊員の職員さんに最後の面談で

「出国までにやっておくべきことはありますか?」と尋ねたら

「とにかく人に会っておくこと」とアドバイスを頂いたので、

年末年始をまたいで派遣までの1か月半で、

2年間会えなくなる隊員同士集まったり、旅行に行ったり、

とにかく色んな人に会いました。

 

そして地獄のパッキング。

 

何回確認しても絶対忘れものするし、ほんとうにこの時間が苦痛。

案の定、語学の先生が私のために作ってくれた単語プリントを

忘れてくるという失態を犯しました。

 

協力隊への道その8:現地語学訓練

 

そして出国日が重なっている隊員のお見送りなんかもしつつ、

国ごとに集まって、いざ出発!

現地に着いたら任国事情のブリーフィングや

銀行口座開設、各種申請書類の作成などの後、

3週間の語学学校通いが始まります。

その間に2泊3日のホームステイも。

このあたりは行く国のJICA事務所によるので、

語学訓練中に任地を訪問している国もあれば

ずっとホームステイする国もあります。

 

 

そうしてようやく、任地への出発の日。

弱音吐く隙も言い訳する余地もないほどストイックに勉強し、

初歩的なことばかり聞いても分かり易く教えてくれて、

語学訓練中から自分のフィールドの人脈をつくり、

私が言い出しっぺで料理してても洗い物ひとつ残らない、

2クラスに別れて授業を受けていた70日間の訓練では

見えていなかった、皆の尊敬できるところが

たくさん分かってきたころにやってくる別れ。辛すぎか!!

 

 

協力隊、ようやく任地へ

 

 

現在は、ビエンチャン県の県都、ビエンカム郡の

産業商業局販売促進課に配属され、

毎日みんなでご飯食べたり、おやつ食べたりしながら、

日々少しずつですが活動のベースを作っています。

 

SNSで世界中繋がっているこのご時世、

隣の芝が青くてふさふさに見えてしまいがちで

最近「これでいいのか?」と考えたりしました。

ですが、ここ数日、ワケあってたくさんの同期隊員と

連絡を取れる機会があり、色んな人と話しているうちに、

またパワーをもらえたような気がします。皆ありがとう!!

 

考えてみたら、悩むほど何もできてないし、

今から頑張ります。ぼちぼち、きりきり、頑張ります!

 

訓練で感じた、3次隊でよかったこと

応募ボタンをクリックしてから任地に来るまでに、

1年4か月かかりました。

もっと早く行きたい人は1次隊・2次隊の募集がある職種に

応募するのが良いかと思いますが、

3次隊でよかった~!と個人的に思うこともたくさんあるので

その中の一部をご紹介します。 

 

その①安達太良山の紅葉と雪景色がとにかく綺麗

 

訓練が行われる二本松は、安達太良山のすぐ近く。

ちょうど閉山間際から訓練が始まるため、

訓練始まってすぐのレクとして皆で登山する生活班も。

(わたしは委員会のため参加できず。辛い・・・)

燃えるような紅葉と雪景色を楽しめるのは3次隊だからこそ。

新雪にテンションあがってタンクトップで雪合戦した日が懐かしい!

 

 

また、私の居室からの朝日は本当に最高でした。

雲海が広がる二本松市を一望できるロケーション。

朝焼けに染まった部屋で目を覚まして

雲海を見ながらラジオ体操した日々を、私は決して忘れません。

 

その②温泉が気持ちいい

訓練生を癒してくれるのは、30分ほど山道を歩いたところにある

「岳温泉街」でした。

温泉に入って体を芯まであたためたあと

美味しい温泉饅頭やソースかつ丼をいただく時間、プライスレス。

 

逆に、3次隊だから辛かったこと

その①とにかくヤツの量がすごい

ヤツってもう、あれです、潰すと臭いアイツです。

小さいのから大きいのまでいっぱい出ます。

これも訓練の一環なのかと思うぐらい大量に出ます。

部屋で勉強してても授業中も、どこにいても、

小型機みたいな音を出しながら旋回してます。

最初は触るのも嫌だったアイツを、

気が付いたらティッシュでくるくるポイ。

こうして皆、強くなっていくんですね。

 

その②待機期間が長い

訓練終了から出国までの1か月半、というか、

訓練が始まる前からすでに無職・無収入なわけですから、

お財布はどんどん薄くなっていく一方。

期間が長い分色んな人に会えて嬉しい反面、

せっかく叩き込んだ語学がどこかに飛んでいってしまい

「早く現地行かせてください~~~」と何度も思いました。

 

そして、あの119人で訓練できて本当によかった!!

という一番の本心も最後にそっと添えておきます。 

 

まとめ

1年4か月分、ぐだぐだ書いたら長くなりました・・・。

試験や訓練、まとめてみると色々やってたんだなあと

今になってしみじみ感じています。

 

社会に出ると、100人を超える人たちと一度に仲間になれる機会や

こんなに集中的に何かを学ぶ機会はなかなかありません。

「独立国家作れるんじゃない??」と思うぐらい

多種多様な人材で溢れる訓練所での毎日が、

刺激的じゃないわけがない。

同じ生活班には、「シニアボランティア」という枠で参加されている

人生の大先輩もいらっしゃって、

生活班ではいつも同期隊員として気軽に接してくれるのに

時折見せつけられる絶対的な経験値の差や、

自分の人生だけでなく人の人生にも責任を持って生きてこられた人の

包容力の大きさを感じて、「越えられない人」という気持ちになったり。

私なんかでよかったのかどうか、といまだに思いますが、

そんな先輩方の一足先の修了にあたりお礼の言葉を述べさせて頂けたのは

訓練期間で一番プレッシャーで、一番光栄なことでした。

大先輩との日々を思い出して一人泣きながら原稿を作り、

門限の時間まで講堂で泣きながら練習し、

当日の午前中の授業は何も頭に入らなかったけど(笑)、

この時間は私だけのもんやって思ったら、

こんな機会を頂けたことに感謝しかないです。

 

会社で、お金のため、会社のために働くのとは全然違う感覚で、

任地に行ってからの自分のため、一緒に活動する人たちのために

皆で支え合いながら研修や訓練を受けた日々が、

2年間を支えてくれるいちばんの原動力になります。

「協力隊になってよかった」と思えるかどうかは

今後1年8か月の活動によって大きく変わりますが、

とにかく今はこうして任地で活動を始められたことに感謝して、

1日1日、ゆっくりのんびり、丁寧に関係づくりをしながら、

生産者さんや局の人たちとの時間を過ごしたいです。

 

これで、わたしの「応募から派遣まで」の

ざっくりとしたまとめ、終わりです。

「協力隊って実際どんな感じで任地に行くんだ」と思われている方に

少しでも参考になれば嬉しいです。

 

 

 大好きだった、自分の部屋から望む二本松の朝焼け。

 

そんな皆のブログです↓

www.laoko.net

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活動先で、突然生産者のおばあちゃんによる指圧マッサージが始まった話。

さばいでぃー!

任地に来て3週間が経ちました。ラオスのラオ子です。

最近パソコンで蟻を飼い始めました。

電源を入れると蟻がわらわら出てきます。

噛むタイプの蟻じゃないので、

PC壊さなかったら居てくれてもかまわないのですが、

潰すと蟻酸臭いのがちょっと難点です。

お願いだからPC内で蟻酸出さないでよね。

 

それはいいとして、最近、

色んなデータの翻訳作業や、それに伴う文献調査で

肩こりと目の疲れが限界に達していました。

肩が凝るといつも左肩がジンジンと痛くなって、

耳の後ろから肩甲骨あたりまで変なツッパリ感があるんですが、

今回はそれに加えて、左手の甲がずーっとぴりぴりと

変な痺れを起こしていました。

おそらくラオ文字を読むことに慣れておらず

書類やPCに顔を近づけすぎていることが原因かと思われます。

 

アジアあるあるですが、とにかくベッドが大きいので、

寝る前はこれでもかとストレッチしています。

しかし、部屋に机と椅子が無いこともあり、

ずっとベッドでごろごろ読書、スマホ、PCな日々では

それも相殺されるどころかマイナスです。

 

そして今日も私は、疲れた目をかっぴらき、

「目、大きくしたいの?」と言われながら

作業をしていました。

 

初めまして!の生産者さん

そこへやってきたのは、初めてお目にかかる

ODOP製品の生産者さん。

どこで、何を作っておられるのか伺って、

今度見学させて頂きたいというお話もして、

その後私は自分の作業に戻りました。

 

すると突然、事務所のソファーからすっと立ち上がって

私のデスクの前で手を合わせ、

「少しこちらに来てもらえますか。」

と、ソファーを案内されました。

 

何かお話があるのかと思い、スマホ、紙、ペンを持って腰かけると、

私の背後に立ってそこから動こうとしません。

 

なんだなんだ??

 

と思ってちらっと後ろを見ると、

手を合わせてなにかぶつぶつと言ったあと

私の背中を擦り始めました。

 

これはまさか、疲れていたのではなく

憑かれていたのか・・・?!

この人はシャーマンだったのか・・・・?!!?!?!?

 

と色々考えていると、突然マッサージが始まりました。

 

マッサージというよりも、これはもはや「指圧」。

街中にある「気持ちいい」マッサージではなく、完全なる治療。

 

「そこ自分で押さえても死ぬほど痛いんですよ」

という場所だけを、伝えてもいないのに(伝える語彙もない)

恐ろしいほどクリティカルに攻めるおばあちゃん。

私は全身の毛穴が開くのを感じました。

痛い。引くほど痛い。

 

その施術が10分弱続いている間、

おばあちゃんはODOP認証商品について

局員さんとずっとお話していました。

 

痛すぎてちょっと涙が出ました。

 

こんな小柄なかわいらしいおばあちゃんのどこに

この握力があるのだろうと不思議に思うぐらいの力強い指圧。

 

最終的におばあちゃんは腰から頭のてっぺんまで

くまなくマッサージして、私の前で手を合わせて

「ありがとう。終わりよ。仕事を続けてね」と。

 

あれ。

 

 

私の後に課のねーさんの施術が始まり、

いや本当に何だったんだコレは、と思い暫く作業していると

左手の甲の変なぴりぴり感が無くなっていることに気が付きました。

 

おばあちゃん。あの。あのですね。

 

痺れ無くなってます!!笑

 

びっくりした私はおばあちゃんに

「痛くなくなりました!!!ありがとうございます!」と言うと

ニコッと笑って「メルシーボークー。」

何もなかったかのように施術を続けています。

元フランス領だったラオスやカンボジアのお年寄りの中には

フランス語を話せる方もいらっしゃいますが、

何故私にフランス語で返してくださったのは謎です(笑

でも、プロ指圧師のおばあちゃんの突然のメルシーに

なんだか痺れました。おばあちゃんかっこいい!!

 

どういうことだ。なんてこった。

本当に本当に、背中が軽い。

 

そうこうしているうちに、次の局員さんに交代し、

いつもどっしり構えたオカン的な局員さんが

「痛い!痛い!!」とめちゃめちゃ可愛い声で泣きそうになっていて

私は少しキュンとしました。

 

彼女の職業は。

何を作っているのかをお伺いして、

てっきり生産者さんは生産者さんだと思っていたのですが、

その後よくよく聞いてみると彼女の職業は

「モー ヤー プンムアン」というもの。

ラオ語では「ໝໍ ຢາ ພື້ນເມີອງ」と書きます。

 

モー = お医者さん 

ヤー = 薬

プンムアン = ネイティブの

 

つまり、「伝統療法士」が彼女の職業だったのです。

 

このおばあちゃんは伝統療法士が本職で、

その知識を活かして自然のものからオーガニックの医薬品を作り、

ODOPの認証を受けていたのでした。

 

マッサージも1時間50000kip(=645円)で

受けてくださるそうなので、早速今度行ってみたいと思います。

前職が登録販売者だったこともあり、

薬の成分や製造工程には私も興味津々。

薬を作るところも見せていただけるとの事でしたので

早速今度お邪魔する予定です。

 

ああ~!面白い!まだまだ知らないことだらけ。

飽きたなんて言う日は来ないまま2年間が終わりそうです。

(ただし生活圏内の食事にはもう飽きました。)

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「じぶんごと」化するということ

結論なし。ぶつぶつ、ひとりごとです。

今月17日、エチオピア航空の旅客機が、

首都アディスアベバからケニアのナイロビに向かう途中墜落。

乗員乗客157名全員が亡くなりました。

 

また、つい昨日、モザンビークでは

サイクロン「アイダイ(イダイ)」による破滅的な被害で

1000名を超える犠牲者が出ており、

その被害は隣国ジンバブエ・マラウイにも及んでいるそうです。 

 

エチオピア。ケニア。モザンビーク。ジンバブエ。マラウイ。

どの国にも、協力隊の仲間がいます。

半年前まで自分には何のご縁もなかった場所が、

今は自分の「うちがわ」の世界になっている感覚。

 

 

ニュースで協力隊の派遣国を見るたび、ひやひや。

無事で居てくれるかな。被害に遭ってないかな。

任地の物資の不足に繋がったりしないのかな。

電気と水道は止まってないかな。

その国のニュースを見るだけで色んな事を考えるようになりました。

 

そして、ここ数日で最もショッキングだった

「日本人2名がカンボジア人を殺害した」というニュースを見て、

市場からの帰り道、どうにもできない感情に襲われました。

怒りとも悲しみとも言えない、どろどろした気持ちです。

亡くなられた方は40歳のタクシードライバー。

結婚されていたら、きっとまだ学生のお子様がいらっしゃるはず。

公的扶助や社会福祉の制度化がされていない途上国で、

奥様はこの先どうやってその暮らしを支えていけるんだろうか。

 

 
 
 
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遠い国の見知らぬ人をこんなに憂うのは、

カンボジアが「じぶんごと」化されているからだと

ここ数日見聞きするなかで気が付きました。 

 

受動的に日本の情報が入ってこないのが外国というものですので、

毎朝起きたら海外ニュースだけはチェックするのが

私の習慣になりました。

自分の関心が向いている方向が自分でもよくわかる。

これが、人と繋がるということなのかもしれないな。

そして、この繋がりこそが、

自分にとって一番大切なものなんだろうな。

そのためのコミュニティ作りとして、

社会人になってあの人数と一度に出会える

協力隊の訓練が与えたインパクトは、めちゃめちゃ大きかったな。

 

いろんなニュースを見るたびに、

悲しくなったり不安になったりしてしまうけれど、

当事者意識こそが人を動かすのだと信じて

「じぶんごと」の世界を広げていけたらと思いました。

そして、それが水面の波紋のように、

私の周りに居てくれる誰かにも響いていきますように。

 

さいごに。

カンボジアで過ごした2年間は私にとってかけがえのない時間です。

優しさ、温かさ、情の厚さに、幾度となく心揺さぶられて、

第二の故郷だと思うほど大好きになれたからです。

しかしそれも、この国と関わってこられた大先輩方とカンボジアの人たちの

真摯な関係づくりあってこそのものだと思っています。

 

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今回シェムリアップで起きた事件、加害者のことは許せません。

でも、SNSで叩いても、何も出てきません。

私がそんなもやもやを抱えている中、

このように、本当に苦しんでいる人に目を向けて

すぐに行動されたカンボジア在住の方々を、

わたしも見習わねばと思いました。

 

上記リンクより遺族支援募金の詳細をご確認いただけます。

ぜひご覧いただければと思います。

 

カンボジアにお世話になったいち日本人として、

被害に遭われたご家族の方々が少しでも平穏に近づくことを

願ってやみません。

 

 
 
 
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お腹壊した。でも人が恋しくて外に出た。

サバイディー!

けんへんでぃーぼー?(元気ですか?)

 

私はと言いますと、 

パーティーで食べた何かしらがお腹にさわったのか、

単に美味しい激辛ラープを食べ続けたうえ

下戸なのに「キンビア!キンビア!」とビールを浴びたからなのか

www.laoko.net

熱もちょっと出たので、

国際女性デーの3連休はずーっと部屋に引きこもり。

 

耐えられそうなパターンの腹痛は整腸剤だけ飲んで、

熱出たら大量にビタミン摂って、

あとはひたすら水分飲むのが私式です。

今回はラッパのマークの出番なし。

 

連休初日の夕方には結構落ち着いて、

買い溜めしてた雷おこしとミカンも無くなって、

とにかくお腹すいて。

 

それ以上に、フジロックにエルレが出るって聞いて。

京都大作戦も去年中止なうえに今年4Daysで。

ショックが大きすぎて部屋にこもっているのが無理で。笑

 

誰かと話したくて、結局、3日間ともふらふらと外に出ました。

赴任してからの1週間、毎日同じところばかり歩いていたので

もう大通りの人たちには普通に挨拶してもらえます。嬉しい。

今日はそのお散歩コースの雰囲気をお楽しみください。

 

いつもありがと

面倒見の良いにいちゃんたちと、

道の向こう側の広場でボール遊びしてる

末っ子のコンキドゥー(いたずらっ子)。

 

おかあさんはナムパン(フルーツシェイク)屋台をしていて、

いつもニコニコ挨拶してくれるし

注文したら「ちょっと待ってね!」と椅子を貸してくれます。

 

 

かなり広い道路なうえに交通量が多いので

「ハイウェイかな?」と思うほどのスピードを出す大通り。

ナムパン屋さんはこの通りに面しています。

道を渡るときは、ちゃんと弟の手を引くお兄ちゃん。

そしてそのお兄ちゃんをめちゃめちゃ褒める、素敵なおかあさん。

 

ここのおかあさんのナムパンは練乳かなり多め。

あっつい中歩いた後なんかにガッツリ甘いものを飲みたいときは

このお店のシェイクがありがたい。

ただし、練乳かなり多め。

 

 

こちらは、ゲストハウスの裏から見える田園風景。

乾季だから余計でしょうか、まだ陽が傾いて間もないのに太陽が真っ赤。

ずっと喉がいがらっぽいのはそのせいかも。

 

遠くのほうで牛や鶏が啼く声がして、

ずっとぼーっと見ていたくなる景色。

野焼きか夕飯の支度か、

夕方になると街全体から薪や炭を焚く香りがします。

 

 

 

毎日3キロぐらい同じ道を散歩しているけど、

この街で見た外国人は今のところ一人だけ。

はやく見つけて友達になりたいところ。

郵便局も、15キロ向こうか20キロ手前の街にしかない。

銀行もATMが1つか2つか。

 

「世界一何もない首都ビエンチャン」

と呼ばれる国の地方都市に

何かあるワケなかったー・・・。

観光都市はもっと色々あるだろうから、

自分の街を堪能したら色んな所で活動する隊員のところを訪ねたいな。

 

 

この3連休は、いつものおばちゃんたちもお休み。

雷おこしも揚げたタロイモやバナナも買えなくて悲しい。

 

 

いつものサトウキビジュース屋さん。

市場で果物やおやつを買って、ここでおばちゃんと少し喋って、

サトウキビジュース飲みながら帰るのが最近のルーティーン。

 

「これ入れる??」って聞かれたタイ語の小瓶の謎の液体、

前回は断ったけど今回は少しだけ入れてもらってみたら

マニキュアみたいな全然アカン匂いがして飲めなかった。

 

 

 

この屋台のおばちゃんのパパイヤサラダは、とても美味しい。 

塩気が効いてて、ごはんがすすむ!カピ最高!!!

 

夕方になると、まんまるの茄子を表面が真っ黒になるまで炭火で焼いている。

あれもめちゃめちゃ美味しそう。 

 

 

カンボジアでいうノムトムムーンのような、

ココナッツミルクとゴマが香ばしいお手軽おやつも買ってみた。

これ6袋で5000kip(=65円)。

雷おこしも好きだけどこれも捨てがたい。

 

 

市場近くのナムパン屋さん。

ここのナムパンは何を頼んでも美味しい。

フルーツをたくさん入れた濃いシェイクを作ってくれる。

メロンとアボカドが最高に美味しくて、

ほぼ毎日通っているお店。

 

 

そして最後はこれ。

市場の近くにあるフォーやさんのフォー。

しっかりダシの出た黄金色のスープがたまらなく美味しかった・・・!

良いお店を見つけられて大満足の週末でした。

 

家はちゃんと借りれたの?

キッチンないのにどうやって生活してるの?

と色々気遣ってくれる優しいおっちゃん。

 

「3か月の勉強でそんなにラオ語が話せるんだね!

たくさん勉強したんでしょう。

ラオスでボランティアするために

いっぱい勉強してくれてありがとう!」

 

と帰り際に言われて、帰り道ちょっとだけ泣いた3連休でした。

 

二本松でも現地語学学校でも

もっともっと限界までやらなきゃいけなかったし

同期にも全然追い付けていない私ですが

こんな風に思ってくれる人のために

日々1単語でもいいから頭に叩き込んでいきたいと思います。

 

というわけで

特に何もないという事がお分かり頂けたかと思いますが(笑)、

街の人たちみんな温かくて、笑顔で挨拶してくれて、

ついつい部屋を出て誰かと話したくなるのが

ラオスの田舎なのかな~・・・と。

あ~大好きだ~~~。こういう感じたまらなく好きだぞ~~~。

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首都滞在中にアコギを手に入れました。

サバイディー!

こんにちは、ラオスのラオ子です。

明日、というか今日赴任なんですが、

そわそわして全く眠れません・・・。

誰か助けてください。

 

シンとかスアとか、ラオスの正装を買いそろえて

服の用量もかなり増えましたが、

ラオスでの一番大きい買い物は

 

間違いなくコレ。

 

1,150,000KIP、日本円にして15000円弱の

アコースティックギターです。

一応ピックアップとチューナーつきです。

両方とも無くて大丈夫だったのですが、

60万KIPぐらいの一番安いものから弾き始めて

やっと許容範囲に乗っかったのがこの価格でした。

これ以下のものは、買っても弾かなくなりそうな

ざらざらした音だったので全部却下。

2時間ぐらい試奏して、悩みに悩んで、

交渉に交渉を重ねて(笑)、

弦、やっすいシールド、カポ、ソフトケース、

勢いよく擦ったら首が焼けそうなぐらい

端の処理がざらざらのストラップつきで

お値段据え置き1,150,000KIPにしてもらいました。

 

ペグの部分の樹脂がねとねとする。

まあ・・・こんなもんですね。笑

 

 

まだ買って1か月経ってないのに

ピックガード(ただのシール)が

めくれあがってきている。

これもまあ・・・いいです。

これ以上浮いてきたら潔く剥がして捨てます。

 

 

ブリッジピン、なんかヒョコッと浮いてます。

次弦替えるときになんとかなるか。いっか。

 

ギターを買ったわけ。

なぜ活動も始まってないのに

首都でいきなりギターを買ったのかといいますと、

カンボジアで買わなくて一番後悔したのが

ギターだからです。

 

終わりが見えてしまったら買うこともなくなるし、

散財してしまったら買うこともできなくなるし、

買うなら一番最初に買って長く大切に使おうと思い

ラオスにきて1週間で楽器屋さんに直行しました。

 

二本松での70日間の訓練生活を支えてくれたのも音楽。

講堂のグランドピアノと音楽室が私の癒しでした。

無心で指動かしたら疲れが吹っ飛んだし、

途中からはいつのまにか誰かが聴いてくれてたり

曲のリクエストしてくれたりセッションしたり

やっぱり音楽最高だなと。

 

ギターに15000円払って、2年間遊んで、

日割り計算したらだいたい20円弱ぐらいです。

家に帰って電気がなくても遊べます。

それに、ギターがあったら歌が歌えます。

ドミ生活ではルームメイトと好きな曲を口ずさんで

ミニギター教室やって

語学研修期間でトラブルMVP取った同期の

替え歌作って本人の前で披露して、

もう十分にもとは取れました。ありがたや。

 

もしかしたら任地でも誰かとバンドが組めるかも。

それが終わったら誰か他の隊員が使ってくれるかも。

 

もちろん私の本来の要請とは外れるんですが、

芸術って自分自身の心の栄養になるし、

近所の子どもたちと歌でも歌えればいいなーという気持ちで

任地のお供にしようと思います。

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現地語学訓練終了。スタートラインに立ちました。

語学訓練終了しました。

長いようで短かった、

1か月間のドミトリー生活が終わろうとしています。

最初の一週間はブリーフィング、

その後は11人が2つのクラスに分かれて、

とっても個性的であったかくて面白い

現地のラオ語の先生からラオ語を教えてもらいながら

共同生活を送りました。

 

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間には2泊3日のホームステイがあったり、

最後にはテストとプレゼンテーションがあったりと、

とにかくコンテンツ盛りだくさんな日々。

 

ぐんぐん語彙力を伸ばして先生の言葉を理解する

同期隊員たちに、焦りを感じながら過ごした1か月。

読んで字のごとく寝食を共にした皆とは、

二本松での訓練とはまた違った濃い時間を共有できました。

 

語学学校でお世話になったLJIの職員さんと

「ラオスの母だと思ってね」と言ってくれた先生、

いつもクラスを笑いで包んでくれた先生、

毎日送り迎えしてくれたドライバーさん、

みなさん本当にありがとうございました。

 

そして、ドミで過ごした同期10人の皆、

楽しくて濃い時間を本当にありがとう。

 

いま、私が立った場所から見える景色は。

二本松訓練所を出てからもう2か月。

そのあいだに同じ時間を共にした人たちが

それぞれの想いをもって世界のあちこちへ赴きました。

 

ときおりアフリカに行った隊員たちから届く

スパイシーな情報の数々を見ては、

異世界だなあ、楽しそうだなあ、いいなあ、

アフリカに行っていたら、こことは全然違う

経験ができていただろうなあ、と思います。

 

とはいえ、第一志望のラオスで

一村一品に関われる事は本当に幸せ。

 

まだ来て1か月ですが、

豊かな自然から生み出される

ラオスのひとたちの美しい手しごとに触れるたび、

この魅力を一人でもいいから誰かに伝えられたらと

どきどきしている自分が居ます。

街を歩く女性のシン(巻きスカート)があまりに綺麗で

「どこの布ですか?」と声をかけるぐらい

ラオスを好きになり始めていることに気が付きました。

 

早くシンの括り手に会ってみたい。

どんな染め方をしているのか、見てみたい。

どんな風にあの美しい柄を織っているのか、知りたい。

 

カオニャオ(蒸したもち米)を入れる竹細工の入れ物も

村の人たちが手作りしているもの。

他にどんなものがあるだろう。

これから、どんなことができるだろう。

1/11のバイク隊員として、

真っ黒になるまでラオスの大地を走り回って

ラオスの手仕事の魅力を一つでも多く見つけたい。 

そんな気持ちが日に日に大きくなっていく語学訓練期間でした。

 

そして、みんなの旅立ち前日、

JICAオフィスでのブリーフィングの最後に、

ひとり数分ずつ決意表明をする時間がありました。

始まるまでは「そういうの苦手なんだよなあ…」

と言っていましたが、いざ始まってみたら

なんやかんや皆アツく語って、

出会って5か月経つのに知らなかったことを

たくさん聴くことができました。

 

わたし含め11人、それぞれがそれぞれの想いを持って

ここにやってきたわけですが、

どの職種に携わる人も結果的に同じところに繋がります。

 

医療の現場を良くすることも。

子どもたちへの教育の質を向上させることも。

健康や衛生環境を守ることも。

芸術を通して情操を育むことも、

体を動かすことで心身ともに健康にすることも。

その土地の伝統や文化を形にすることも。

ぜんぶが、大切な”点”なんだなと気づかせてもらいました。

収入が上がって家計が楽になったら

子どもたちが学校で学ぶ機会や

必要なときに病院に行ける機会が増えるかもしれない。

子どもたちが、学ぶ事や芸術に楽しさを感じてくれたら

将来の家族の収入があがっているかもしれない。

 

今までラオスに派遣された累計1000人の先輩たちの点、

今から私たちがラオス各地に作っていく点、

点と点を結んで線になって、-・・・とは、

わたしが大好きなIKTTクメール伝統織物研究所の森本さんの言葉。

 

 

去年の2月に合格発表が出てからもう1年以上。

ようやくその”点”を打つための

スタートラインに立つことができます。

私はコミュニティ開発隊員のイベントがあるため

首都にあと数日残りますが、

他の隊員はみんな28日付で各地へ赴任。

好きにも嫌いにもメーター振り切って活動して

最後の最後に大好きになって帰りましょうよ。

 

わたしも3月4日に地方に向けて旅立ちます。

みんなとのしばしのお別れは寂しいけど、

少数派民族が多く暮らし

5つの国に囲まれた内陸国だからこその地域性の濃さを

みんなでシェアして楽しみたいです。

次の総会で集まるときには皆、

地方の訛りがめちゃめちゃ酷くなってたら面白いな。

 

 

今日出発のみんな、行ってらっしゃい。

今日までありがとう。

そんで、これからもよろしく!

 

みんなのリンク

www.laoko.net

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いよいよ出発です。

というブログを書いていたのに。

 

出国当日にアップするのを忘れたまま数週間。

いまさらですがせっかく決意表明的なことを書いたので

2年間ぶれない自分をつくるためにアップしておきます。

時系列がおかしなことになりますが

気にせず更新します!!(笑

 

1月29日。はじまりの日。

12月12日にJICA二本松訓練所を出てから

1か月半・・・。

長かったー!

 

荷物、つめた。

住民票、国保、年金、手続き終わった。

免許関連も大丈夫。

会いたい人にも、1/3ぐらい会えた。

行きたいフェスとライブにも、行けた。

 

さ!いよいよ、出発です。

 

1か月半ってこんなに長かったっけ。

「労働」というものから遠く離れた生活、

いったいいつぶりだったでしょうか。

毎日起きたい時間に起きて、

勉強したいときに勉強して、

好きなだけコーヒーを飲んで、

会いたい人に会って。

 

とてつもなく長く感じた1か月半でした。

 

修了式&壮行会で、またね~~!と涙涙のお別れをした数日後に、

 

 

JOCVの仲間とラーメン部決行。

ラーメン→カフェ→ラーメン→ダーツ→ラーメン→カフェ

という「作業」と化した時間を過ごしたり。

 

誰も一緒に行ってくれる人見つからなくて

独りで燃えカスみたいになるまでフェスで暴れ倒したり。

 

2年間口に入らないであろうものを食べたり。

 

二本松で同じ生活班だった仲間を全力で祝ったり。

 

ラーメン部&スパルタギター教室の生徒(笑)と

レディクレ行ってわいわいしたり。

 

JOCVで東海地区中心に集まって肉がっついて観光したり。

 

派遣前訓練vol.2と称して

うちに集まってくれたJOCVのみんなと花火して、

トーチバーナーで線香花火に着火すると何も残らないことを学んだり。

 

同じメンバーでなばなの里と伊勢神宮行ったり。

 

城崎温泉にとびっきりうまい蟹食べに行ったり。

 

出石でそば食べすぎて帰りの特急で胃痙攣起こし

ブスコパン買いに行ってもらったり。

 

それなのに翌日お千代保稲荷で串カツはしごして食べまくったり。

 

フィリピン帰りの友達と

気になってたカフェのブレンドコーヒー飲みつくしたり。

 

おかげで訓練所入所前から+6キロ太りました。

誰か助けてください。

 

1年ってこんなに短かったっけ。

1か月盛りだくさんすぎて、長いなー!って思ったけど、

今思えばこの1年は本当にあっという間でした。

鬼のように働いて意味わからんぐらい遊んで、

そんなことばっかりしてるあいだにあっという間に研修が始まって、

気が付いたら任国に向けて出国です。

2018年1月に受けたJOCVの面接会場で、

緊張で瀕死状態の私の隣に座っていた二人もめでたく合格し、

バンコク→ポイペト→シェムリ→プレアヴィヒア→シェムリ→

シハヌーク→プノンペンと、REP→KOS以外陸路移動でまわったのが

去年の6月のおはなし。

 

たぶん他のSNSで繋がっている人たちは

もうええって!!っていうぐらいおんなじ話ばっかりしてますが

それぐらい楽しかったということで。

 

あの面接から1年後には、

ラオ語が少し読み書きできるようになっていて、

ラオスに移住していて、

1か月後にはもう任地で独り暮らしをしているんです。

時間は有限だと思い知らされる。

 

はじめての国際協力

自分が「国際協力」という枠の中で活動する身となって

同じ境遇の人たちと共にカンボジアに行くと、

今までになかった視点でものやひとを

見ていることに気がつきました。

 

基本的には、観光!食!観光!食!食!!と

日程を詰め詰めにした旅で、

ここまでは平常運転なのですが、

その中でもカンボジア各地で現地の人たちのために活動する

在住の先輩(この書き方いつも”なんの先輩だよ”と

自分でつっこみますが、友達というには烏滸がましいし

知人と呼ぶのは寂しいのです…)たちの姿を見て

「わたしもこんな風にありたい」

「わたしもあんな風に人と関われる人間でありたい」

そう思うような場面にたくさん出会うことができたので、

それだけこの旅は自分にとって価値あるものだったと考えています。

 

そして119人のうちのひとりとして二本松訓練所で過ごし、

様々なバックグラウンド、技術、経験、志を持つ人たちと

生活を共にする中で、

自分がいま”国際協力”と呼ばれるジャンルの環境で

何かをしようとしている自覚がようやくできた気がしています。

 

2年間の活動の目標

https://www.instagram.com/p/BcH615LjbcG/

訓練中何度も耳にした「草の根」ということばがあります。

私たちJOCVのほとんどは、学校や病院を建てたり、

水道を引いたり、橋を架けたりといった、

大きなお金を動かす事業に直接携わるわけではありません。

そのかわりに、地域に溶け込んで、

小さな問題を解決したり、新しいアイデアで生活を豊かにしたりして、

教育や健康、収入向上などにかかわる草の根的な活動を通じて

現地の人たちと過ごす人が大半です。

 

わたしの要請内容は、「一村一品運動」の活性化ですので、

村の人たちの収入向上に直接的にかかわります。

そこで、自分の目標をひとつ作りました。

 

それはずばり、

 

関わる家族のおかずを1品増やす!

 

です。

 

https://www.instagram.com/p/BtX773Rg83u/

 

私は、食べてるときが一番幸せです。

誰かと美味しく食べられたらもっと幸せです。

だから、幸せなことを想像しながら頑張れるように

こういう目標設定にしてみました。

 

実際に活動によって収入が増えたら、

牛やバイクを買うでも、子どもを進学させるでも、

お金はもちろん好きに使ってもらっていいのですが、

家庭の収入・支出はそれぞれだと思うので、

活動のひとつの目安として

おかずが1品増やせるぐらいの収入向上に繋げる

活動ができたら最高かなと。

 

山あり谷ありな2年間になるかと思いますが、

協力隊になったからには、

任地の人たちと深く関わりをもって

2年間全力で活動します。

これからラオスで出会う方々、

どうぞよろしくお願いいたします!

 

という、

気持ちを忘れずまずは語学研修!

今日がその第1日目。

中国旧正月の爆竹やら花火やらで

睡眠時間が短かったこともあって

今日は全く頭が働いていませんでした。

という言い訳。

 

首都滞在1か月は長いな~と思いつつ

純粋に語学研修だけをする日を数えたら15日ほど。

これが終わったら任地で一人きり。

ぱ、ぱにゃにゃーむひあんぱーさーらおだー!

(ラオ語頑張って覚えるぞー!)

 

リンク集、更新しました

www.laoko.net

音楽隊員ぴのちゃんのブログ追加!

まだまだ増やしたいなー。

みんなブログ更新頑張ろうね\(^o^)/w

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『モン族たちの葬列』再読、虐殺をかんがえる。

さばいでぃー!

この大雪の中、荷物がちゃんと空港に届くのか、

自分がちゃんと東京にたどり着けるのかとひやひやしながら

日本での平成最後の週末を過ごしています。

昨日は電車が止まってしまうことを恐れて

約束していた友人にも会いにいけず、

荷物整理もある程度終わっているので

(結局数キロオーバーしていますが諦めました。)、

ふて寝して、ぼちぼち部屋の掃除をして、

雪がしんしんと降るのを眺めながら

以前1度読んだラオスが舞台のノンフィクション小説を

読み直すことに。

 

『モン族たちの小説』 宮川 隆

ざっくりした内容は帯にある通りです。

仏印、アヘン、大東亜共栄圏、ベトナム戦争・・・

歴史が大の苦手な私には、

歴史の授業を無理やり思い出そうとして

脳みそのへんなところが痛くなるような

キーワードが盛りだくさん。

 

なぜ少数派民族が多数存在するラオスで

モン族だけが民族浄化や迫害の対象になったのか、

なぜラオス北部で阿片栽培が広まったのか、

5つの国に囲まれた内陸国ラオスが

周辺国とどのような関係にあったのか、

 

訓練に参加する前にこの本を手に取り 

色々疑問に思いながら読み進めましたが、

1度読むだけでは情報量too muchで

時系列も相関図もワケワカランままに終わりました。

 

ですが、派遣前訓練を終えてからあらためて再読すると、

語学の授業で習ったラオスの伝統儀式や

10人の同期隊員が派遣される予定の場所が多数出てきて、

1度目に読んだときよりも色や温度を感じながら

読み進めることができました。

 

結末はもちろん読んでのお楽しみですが、

読んでいる最中の赤黒い血の中に居るような感覚が

すーーーーっとなくなっていくような、

そんな読後感でした。

 

きっと、任期が終わってもう1度読み返すときには

もっともっと鮮明に色んな景色を思い浮かべながら

読めるようになっていると思います。楽しみだ。

 

本を読んで”暗い歴史”についてかんがえた

ウクライナ、ルワンダ、アルメニア、ドイツ・・・

挙げだしたらキリがないほど、

この百年あまりのあいだに世界中で行われた大虐殺。

わたしが住んでいたカンボジアでも、

ポルポト率いるクメールルージュにより

多くの国民が非人道的な方法で命を奪われました。

 

今年の6月、JOCVの2次面接の待機室で隣の席になった隊員同期2人と、

バンコク→ポイペト→シェムリアップ→シハヌークビル→プノンペンを

12日間かけてぐるっとまわる旅をしました。

いよいよ明日帰国、という日に、

2013年にカンボジアに移住したときから

いつか訪問したいと思いつつ勇気が無くてずっと避けていた

チュンエク(キリングフィールド)と

S21(トゥールスレン/虐殺犯罪博物館)へ、

ようやく行くことができました。

 

チュンエクもS21も、在住の先輩たちから聞いていた通りで、

日本の博物館、記念館のように、見終わった後に前向きな気持ちで

「平和とは何か」を考えさせられるような場所とは違っていました。

そこかしこに当時のまま放置された拷問器具や頭蓋骨は、

カンボジアという国の影の部分に自分から足を踏み入れるような感覚で、

これが「貧困」というかたちになってまだ続いているんだと思わされる、

たいへん”しんどい”場所でした。 

 

『死体を同じ場所に大量に埋めたために

ガスが発生して地面が割れたようになっていた、

キリングツリーに子どもを叩きつけて殺したため

木の幹には血や毛髪、脳みそがへばりついていました。』

 

いっけん普通の空き地のようにも思える

プノンペンのはずれの静かな場所で、

日本語の音声案内が淡々と話すクメール・ルージュの残虐な行為を数々を

わたしは全部聴くことができませんでした。

 

そのままトゥールスレンまで移動して、

また音声案内を聴きながら館内をまわりました。

木やレンガで仕切られた独居房の黴っぽいにおいや、

がらんとした部屋の真ん中に置かれた拷問具とその下に溜まった血痕に、

文献だけでは到底知り得なかった、

五感すべてから流れ込んでくる恐怖を感じました。

 

2年9か月のあいだにここに収容されたのは14000人から2万人と言われています。

そして自分の足でそこから出られたのは7名(8名?とも)。

収容された1000人ほどの犠牲者の顔写真が公開されており、

公開された当時は生き別れた家族や友人を探しに

たくさんのカンボジアの人たちがここを訪れたそうです。

 

歴史に触れるたび思うこと

どれが史実で、どれが虚像か。

その虚像は、人々の恐怖の記憶が作り上げたものなのか、

それとも、それを含めてすべてが私腹を肥やすために描かれた

プロパガンダなのか・・・。

 

まだ家族の行方が知れない人や障がいを負った人からすれば

内戦やジェノサイドは”過去のできごと”にはなりませんし、

内戦の後に生まれた子どもたちの足元では

未だに不発弾や地雷がいつでも命を奪う準備をしています。

 

『モン族たちの葬列』のなかで

何度かカンボジアのことに触れていたように、

周辺国との関係や隣国での戦争の影響、

その国の舵を取ってきた国王や政権の思想など、

いろんな要素が複雑に絡み合っていて、

ひとつの事を学ぶだけでも芋づる式に出てくる問題を

深く考察するには、私の知識はあまりに乏しく、

ただ渡された情報を鵜呑みにするだけで

うまく紐づけできていけていないのが現状です。

でもそれを少しでも理解していることは

全く異なる文化や歴史をもつ国で生きてきた外国人として

現地の人たちと関わる上では

無駄にならない・・・と、思いたいです。

 

 

チュンエクで遺骨が展示されたクリアケースの上に

後から出てきた遺骨がそのまま雨ざらしにされていて、

内戦からずっと続いているこの国の貧困問題を

象徴しているかのようでした。

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さばいでぃー!

さばいでぃー!(こんにちは)

青年海外協力隊2018年度3次隊で

1月29日からラオスに派遣されることになりました、

「ラオスのラオ子」と申します。

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4月のカンボジア旧正月限定ライトアップ

カンボジアで働いていた2013年ー2015年までの2年間、

「カンボジアのボジ子」という名前で

はてなブログを書いていました。

日本に帰ってからも続けたいと思ってましたが

書くネタ無いと更新しようがないものですね。

今はもう、完全に廃墟と化しております。

シェムリアップ、だけでなく途上国全般に言えることだと思いますが

とにかく街中の代謝が早いので

3年前の情報なんてもう半分ぐらい役に立たないと思います。

実際、6月にカンボジアに行ってみたら、

お気に入りのイタリアンやジェラート屋さんの場所が変わってたり

去年無かったお店があちこちにできてたりと、

浦島太郎の心情でした。

そのこの記事の中で書いた、

「カンボジアに居ないボジ子は一体何子になるの?」

という友人からの問いかけに、数年越しのアンサーです。

どこに行っても、その場所にどっぷり染まって

とことん楽しむ人間になりたい。

そんなワケで、ラオスのラオ子になります。

しかし!カンボジアのボジ子には思い入れがあります。

ブログを読んでくれた人と現地で友達になったり

「移住する前に全部読みました!」なんて言葉をいただいたり。

ほとんど食と遺跡のことばっかりのブログでしたが

300記事超えるとなかなか愛着がわくものです。

ですので、現地の生情報を自分のことばで発信していくスタンスを

そのまま引き継ぎたいと思い、国名だけ変えて

今後はこちらから情報発信することにしました。

ODAとは、JICAとは、青年海外協力隊とは、

コミュニティ開発とは、一村一品とは・・・

私はまだ、何も分かっていない、国際協力1年生。

さらに、「滋賀は全県に先立ってSDGsを県政に取り入れた」と

表敬訪問の時に聞かせていただきましたが、

滋賀県民としても、まだまだ、知らないことばかりです。

これから私は、「ヴィエンチャン県ヴィエンカム郡」という

検索エンジンでひとつもまともにヒットしない場所に行きます。

首都ヴィエンチャンからは車で2時間。

2年間、任地の文化や生活に、どっぷり浸ってきます。

ソースが無いので行ってみないと分からないことしか無くて、

今はひたすら、せっかく覚えたラオ語の読み書きを忘れないように

ゆるゆる復習する日々。

さてー。1か月後、どうなることやら。

1月29日の出国までは更新はほぼ無いと思いますが、

任地ではぼちぼち更新する予定ですので、

友人知人のみなさまには生存確認がてら

遊びにきてもらえたら嬉しいです。

ぽっぷかんまーい!(またね!)