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手工芸や伝統、そして活動のこと。

さばいでぃー!

https://www.instagram.com/p/ByH7JPiAKIJ/

 

みなさんこんにちは、ラオスのラオ子です。同僚んとこのコンキドゥー(いたずらっこ)がが可愛すぎます。お庭で太陽の光を浴びてほかほかぬくぬくのマンゴーやジャックフルーツをいただいて、たまにちょっとしたフルーツアレルギーを出しながら、彼に癒されまくってます。ほんとに可愛い。一人の時はめちゃめちゃお利口さんやのに従弟と一緒になるととんでもやんちゃ坊主。

 

 

同じ敷地にもおちゃめないたずらっこが数名おり、ギャン泣きしてたり、遊んでほしそうにもじもじこっちを見てたり、私の大切な手袋持ってったりして、飽きない毎日を送らせていただいています。感謝。

 

 

充電器を繋いでおくのも怖いぐらいの雷に窓のサッシが軋んだり、スコールの風向きによって家の特定の方角の床だけが水浸しになったりと、雨季に入ってからイベントが増えました。しかもサッシまわりの汚れが流れこんできたらしく泥水。・・・飽きない毎日を、送らせて、いただいて、います。感謝。

 

さて、ラオスにやってきてもうすぐ半年、任地で活動を始めてから5か月が経とうとしています。これから帰国までの1年半の活動の軸となる「活動計画」の提出が迫っています。自分の活動に於ける「定量的に観測できる目標設定」って一体なんだろう?と考え出すと、生活リズムが不規則になっていても入眠しやすい事に気が付きました。目標設定云々の難しい話は一旦バナナの葉に包んで蒸しておくとして、ここ4カ月生産者さんと関わりを持ち手工芸に触れるなかで感じた事をぽろぽろと書き留めておきたいと思います。

 

 

ラオスにおける「シン」の存在

 

こちら、私のカウンターパートの二人。左のVさんが着ているのは、ビエンチャン県の北東、シェンクワン県の布。細かい絣のプン・シン(スカート本体の布)と、プンシンに負けない鮮やかな色使いのティン・シン(裾布)。これだけ細かい仕事のものだから、安くなかったでしょう?と尋ねると、100ドル以上よ!と・・・。

 

 

右のSさんが着ているのは、一緒に視察に行ったMaed郡Napho村で買っていたシン。プン・シンは単色ですがよく見ると柄になっています。

 

金糸、銀糸をあしらった華やかなティン・シンがビエンチャン県のシンの特徴の一つでもあり、フォーマル、よそいき、大人の女性、公務員や大学の先生が着るようなものなのだそうです。確かにビエンチャン県のシンからは、「あたたかさ」を感じるハンドメイドとは違う、洗礼された雰囲気を感じます。

 

同僚、上司に直接お給料がいくらか聞くことはありませんが、おそらく1万円以上の布だと月収の1/2~1/4ぐらいの感覚ではないかと想定しています。2018年5月のジェトロさんの記事に「ラオスの最低賃金が14300円に引き上げられた」と書かれていましたので、安い買い物ではありません。それでも彼女たちは、シンにお金を掛けます。普段は動きやすい普通の服を着ていますが、仕事や儀式のときは、お気に入りのシンでバッチリきめてくる。それに、私が新しいシンを何も言わずに履いていくと、「どこで買ったの?いくら?」と、すぐに気がついてくれるし、私の任地(過疎地認定を頂きました笑)にも仕立て屋やシン屋さんは何軒もあり、ラオスの女性にとっての「シン」が、生活の真ん中にあることを教えてくれます。

 

 

5月末に視察させてもらったチェンサワン村の生産グループは「魚」をモチーフにした柄のついたシンをODOPに登録していますが、そこから200km以上も離れた山の中のナポー村でも同じ柄のものが織られていて、それがいつ、どこからどう伝わったものなのかという事にちょっと興味が湧き始めています。(でもナポー村にはなかなか行けないなあ・・・)

 

この魚のシンボルはビエンチャン県特有のものだそうですが、ビエンチャン県をはじめ、メコン川流域の様々な県で同じモチーフが使われていることもあります。それが「ナーガ」です。ラオスは、ラオ族をはじめ、モン族、カム族、ルー族など50以上の民族で構成された多民族国家ですが、どの民族も仏教、アニミズム、シャーマニズムを複合的に取り入れた独自の信仰を形成しており、それが思想、文化となり、その地固有のものとして未だに色濃く残っています。そしてそれが「シン」の模様にも反映され、土地土地によってそれぞれ特色のあるパターンが織られていくのです。

 

ナーガのように広い地域で織られているパターンがあるのは、ナーガ信仰がメコン川流域で広く民話として口伝されたり、お寺の壁に描かれたりしたからです。織り手の女性たちはそれにインスピレーションを受けてシンに物語を織り込み、ナーガのモチーフが民族や地域を越えて広まったそうです。

 

陰暦11月の十五夜の日にメコンに灯篭を流して雨の恵みに感謝したり、川を渡るときにナーガのたてがみと同じ赤をものを身に纏うのを避けたり、ナーガの火の玉をメコン川で見つけたらお供えを備えたり・・・など、土地によって儀式の方法は様々でも、メコン川流域の人たちは何かしらの形でナーガを信仰し、様々な表現方法でシンに織り込んできました。(まだまだ勉強不足なので、1年後には違うこと言ってるかもしれません。)

 

昔に織られた布は、歴史、文化、宗教など、たくさんのことを語ってくれますが、最近織られるシンはそうではなくなっています。そこには、織り手の技術が下がったことや、流行りのもの(=売れるもの)を織るというやり方に変わってきていること、若者のシン離れ(着る・織るどちらも)など、たくさんの原因が考えられます。

 

「シン」とどうかかわるか

 

 

着任後しばらくは、局で「一体何をしたらいいんだろう・・・」と、ポツンとしているだけの時間も多かったのですが、最近は、産業商業局に出向く時間が徐々に減り、近くの手工芸品を製造販売している会社に行く機会が増えました。バイク、強い。自分で自由に動けるって、最高だ。(安全上仕方ないことだと分かってはいますが、バイクが活動に必要だからバイクを貸与されているんだから、任地で2か月も待たずにもっと早く欲しかった・・・。)

 

 

どうしても欲しいデザインがあって、視察に行ったついでに購入したら、上のピアスとかんざしをおまけにくれました。どれも手作り。ああ、可愛い。ラオスらしさが伝わる手作り。とっても素敵。かんざしは、ラオスの機織り機で使われている「杼(ひ)」、別名シャトルを模したもの。この船のような形の道具に巻いた糸を入れて、柄によっては何種類もの杼を使い分け、手作業で経糸にシルクの糸をくくって模様をつくりながら、経糸の間を何千、何万と往復させ、1枚の布を仕上げていくのです。

 

さて突然ですが問題です。何故、かんざしもピアスも三角錐なのでしょうか。

 

ラオスに来られたことがある人は、もしかしたら食べたことがある・・・かも。

 

 

そうです、この、ばななの葉でもち米をくるんで蒸したお菓子。

 

名前~・・・なんだっけ。忘れました。ここまで話題にしといて肝心のラオ語が出てこない。いや、お恥ずかしい(笑)

 

 

で、まぁ、その、バナナの葉でくるんだもち米のお菓子に見立てた可愛いピアス、この模様の部分も、シルクなんです。結構分厚い生地なので、こんな細かい作業するのはなかなか大変です。ゴールドのパーツだったらもっと可愛いかなー。パッケージも改善したいなー。

 

 

こちらの写真、足元をご覧ください。KEENのサンダルしか履いてないからKEENの形のまま日焼けして・・・っていう話ではなく、お店の中を自由に撮影させてもらっていたら、仕立てられたあとのシンを見つけました。ちょっと短かったけど、裾布の柄がとっても綺麗で、絣の模様も控えめでとても素敵。

 

「サイズぴったりじゃない、そのまま履いて帰りなさい」

 

と、オーナー。

 

「私の娘が履いてたものなんだけど、もう着れなくなってしまったからあげるわ。あなたも私の娘だからね。」

 

ああ、嬉しいなあ・・・こういう温かい言葉が分かるようになって、嬉しい。そしてオーナーの気持ちが本当に嬉しい。

 

パービヤンという公式な場でつけるスカーフを巻いて写真を撮ってくれました。

 

 

お店の中には、サイニャブリ県という、ラオス北西部の町の布で織られたゾウさんも居ます。ビエンチャン県とは全く違う、コットンを藍で染めた優しい布。普段使い用のポーチや鞄などの小物にぴったりです。ラオスといえばゾウなイメージのうえに、ゾウ祭が開催される場所にぴったりのお土産もの、うらやましい・・・。ビエンチャン県も何か無いかな。まだまだ調査が必要です。

 

 

「これは、私が学生の頃に着ていたものよ」と見せてくれたシン。これは裾布の部分ですが、今の主流のものの半分ぐらいの幅です。シンにもその時のトレンドがあるらしい。当時のアルバムには今と変わらず美しいお母さんがこのシンを纏って学友と共に笑顔で写っている写真ばかり。

 

それにしても、この裾布、めちゃめちゃ可愛いじゃないですか・・・。

 

 

そして驚いたのがこちら。「私のお母さんのお母さんが若い時に着ていたシンよ」と見せてくれた、絣のシン。ところどころ解れや虫食い、大きな穴も開いていたけど、その綻びやあて布すら、大切に長く長く着られたものだということを教えてくれます。

 

ラオスのシルク100%で紡がれた糸は、繊細で、滑らかで、すこし触っただけで素人の私にも違いが分かります。撫でるとキメ細やか、手に持ってみるととても薄いのにパリッとハリがあって、素材の良さだけでなく、織り手さんも相当の技術を持っていたことが伺えます。

 

 

これが上の絣についている裾布の部分。この地に伝統的に伝わるモチーフですが、今はこういった模様を織ることも少なくなったと仰っていました。

 

今ビエンチャン県で織られている主流のきらびやかなものより、こっちのデザインのほうが個人的に好きです。

 

 

 シンに織られるモチーフはその地の伝統そのもの。民族性、地域性が年々希薄化していくなか、この店のオーナーは、このように伝統あるモチーフをシンの裾布やストールに織りこむことによって、繋ぎとめようとしています。

 

日本で着ものを着る機会が殆ど無くなってしまったように、シンもいつかそうなってしまうのかと思うと、悲しい。そうなればますます生産者さんの生活は圧迫され、消費者優位の市場の中で「売れるものをつくる」ことに拍車がかかり、地域の中で受け継がれてきた伝統が消えていくんだろうなあ・・・・。

 

 

日々の収入を得るためにと、海外の糸や化繊を混ぜたり、染色が簡単で発色も良い化学染料を使い、低品質な製品を量産してしまうことで、生産が需要を上回ってしまっている現実を、どの生産者さんと話していても実感した、生産者巡り。「これからどうしていきたいですか」と尋ねると、外国人の私に対しての答えはだいたい「日本(もしくは海外)へ輸出したい」でした。生産者さんだけでなく、産業商業局からも同じような意見がでます。この顕在的課題対しては一緒に活動しやすいけれど、今の買い手優位の市場のなかで、流行や量産化の波にのまれずその地域の伝統を「ブランド」にできる土台を作っていくというのが潜在的課題になるのではないかと仮定すると、派遣期間から逆算すると時間もスキルもぜんぜん足りない現実にぶち当たるような。そんな気持ち。でもまだ本質にぶち当たったような気は全然しなくて、あっちこっち迷子になりながら、私が目を向けたいところと、行政として目指す場所と、生産者さんたちが織物で生活していくための方法と、交差するはずの”どこか”を探したい。

 

世界各地で、その場所の伝統や手工芸を活かした製品作りをしている日本人が日々奮闘されている姿をSNSで拝見していると、私がこの2年で出来ること、なんてほんとに僅かなんだと実感します。増してや何かを残したいなんておこがましいんではないかとも考える。一人だと、かなり難しい。私には何の力もない。だから、一緒に頑張りたい。生産者さん、同期、先輩、配属先の皆と。

 

ラオ語が全然上達せず、これは間違い自分の努力不足だと認識しているけれど、相手の言っていることを推測できるだけの知識も全く無い事に気づき、学ぶことの大切さを実感している今日このごろ。知らない事が多すぎて、まだまだアウトプットできるものは無い。学ぼう。学びまくろう。無知は悪いことではないけど、知らないことを言い分けにするのはだめだ。泣いても笑っても、長くてあと1年半だもの。

 

ああ、もうすぐ、ここでの生活の1/4が終わってしまうんだな。

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「サンタピアップ」がポイペトの村で続いていきますように

チョムリアップスォー!!

みなさん、こんにちは!ラオスのラオ子です。ラオスのラオ子ですが、今日はカンボジアについてのお話なので、チョムリアップスォーと挨拶してみました。

 

សន្តិភាព

 

突然ですが、「サンタピアップ」という言葉をご存知でしょうか?

 

ラオスに関わりのある方、ほとんど同じ響きの「サンティパープ(ສັນຕິພາບ)」という言葉が、全く同じ意味です、といったら、あ!と気づく方も多いのではないかと思います。

 

「サンタピアップ」とは、カンボジア語で「平和」を意味します。

 

そして、私が2012年から繋がり始めたカンボジアの、首都から遠く離れたタイとの国境付近の町「ポイペト」で活動されている大先輩の法人名でもあります。

 

その「特定非営利活動法人サンタピアップ」さんがこのたび、活動地であるトゥールポンロー村に公民館のような憩いの場を作るべく動きだされましたので、私もサンタピアップさんを応援する一人として、記事にさせていただく次第です。

 

 

「サンタピアップからのお願い」全文

まずは、サンタピアップ代表、古川さんの言葉をそのままこちらに引用させていただきます。

 

【いつも応援していただいているみなさんに、大切なお願いです】

いつも温かいご支援をいただき誠にありがとうございます。
NPO法人サンタピアップ代表の古川沙樹です。
私が初めてポイペトに訪れてから16年が経ちました。
ここ数年の街の発展は目まぐるしく、街の様子もずいぶん変わりました。

現在3か所の経済特区ができ、日系企業の進出も始まっています。
とりわけ2017年12月頃からは中華系の人々が大量に参入し、現在その人口は2年足らずで1万人を超えたと言われています(ポイペト全体の人口約10万人)。

サンタピアップ活動地であるトゥールポンロー村にもその波は押し寄せてきており、
現在トゥールポンロー村は外国人からは「チャイナタウン」と呼ばれ
土地の買い占めが始まり、更地だらけになってしまいました。

子どもたちが当たり前のように遊びまわっていた場所がなくなりはじめています。

サンタピアップではこれまで村の人のご厚意で、土地の一角を無償で借りて活動してきました。
現在の状況を副村長や村の人々と話し合う中で、何とか子どもたちの遊び場を確保したいと思いました。
今、無償で借りている場所も雨風を防げるような場所ではないので、いつでも子どもたちや村の人たちが自由に使える「公民館」のような場所を作りたいと思いました(「サンタピアップハウス(仮称)」)。
関わっている子どもたちの中には、家に居場所がない子もいます。貧困からくる様々な問題に一生懸命耐えている子どもたちが一時でも安心できる場所が必要です。
村の人たちの意思とは別に、目まぐるしく変わってしまう環境の中で、そこだけは変わらない、誰にとっても安心できる居場所を早急に作りたいと思っています。そして日本から子どもたちに会いに来てくださる人との交流の場にできればと思っています。
「サンタピアップハウス」建設にあたって、土地の購入・建築費に約300万円必要です。土地の価格が日に日に高騰しているため早急に土地だけでも確保したいと思っています。
ご存知の通り、サンタピアップでは今までほとんど資金も物も持たずに活動を続けてきました。サンタピアップハウス建設にあたり皆様のご協力を心よりお願いいたします。

2019年6月 NPO法人サンタピアップ代表 古川沙樹

シェアや拡散のご協力も、よろしくお願いいたします。

【振込先】
ゆうちょ銀行
特定非営利活動法人
サンタピアップ
店番458
普通預金
口座番号2662781

郵便振替口座:
(0)0900-7-329383
特定非営利活動法人サンタピアップ

※お振込みいただく際は、お名前ご住所の記入をよろしくお願いします。

※お振込の際、先頭のゼロを追記しない場合もございますので、ご注意下さい。

 

この投稿を見て、私も気持ちばかりですが応援させてもらいました。そして、この活動についてもっとたくさんの人に知ってもらいたいと思い、こうして記事にさせていただくことにしました。

 

まずはカンボジアの歴史について

ポイペトについてのお話にうつるまえに、カンボジアの歴史について少しお話させたいただきます。カンボジアといえば地雷や内戦といったイメージですが、あんまり詳しく知らない!という方は、まずはつっこみどころ満載のこのざっくりまとめを見て頂ければと思います。ご存知の方は次の見出しへ!

 

カンボジア内戦 – Wikipedia

ー1949年フランス領インドシナからの独立~1998年ポルポト死去まで

カンボジア作戦 – Wikipedia

ー1970年のクーデター

クメール・ルージュ – Wikipedia

ー1951年~1999年ごろ

S21 (トゥール・スレン) – Wikipedia

クメール・ルージュが残した内戦の爪痕

 

・・・といいつつ、一部だけ抜き出すのは難しいし、歴史的学説は多々ありますので、Wiki先生に丸投げさせていただきます。

 

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簡単に、ものすごくおおざっぱに言うと、

 

フランス領から独立した後、ノロドム・シハヌークによりカンボジア王国誕生。

国王が癌治療で他国に出向いている間に、

アメリカに支持されていたロン・ノルが王政廃位。

ロン・ノルは反ベトナム派だったため、ベトナム人を強制送還・大量虐殺。

ノロドム・シハヌークは亡命先の北京でカンプチア民族統一戦線を結成。

ロン・ノルに迫害されたノロドム・シハヌークがクメール・ルージュを支持したため

国王を慕う農民のクメール・ルージュ支持層が増加。

政府の腐敗に対する民衆の反発、冷戦下での中国共産党の支持、

そしてアメリカ軍による空爆で、第2次世界大戦で日本に落とされた総量の3倍もの

爆弾を落とされ、数十万の犠牲者を出した上に農地も破壊されて

輸出国から輸入国に転落。

カンボジア民族統一戦線がプノンペン占拠、クメール共和国崩壊。

民主カンプチア誕生。「ポル・ポト政権」による大量虐殺開始。 

 

ポル・ポト率いるクメール・ルージュは完全な原始共産主義を目指し、強制移住、強制労働を行いました。その中で、一切の私財を没収、貨幣そのものや宗教も廃止、暴動や反乱を起こす危険性のある知識人階級を収容・虐殺。それは政治家にとどまらず、教師、医者、僧侶、伝統芸能者などにも及びました。国の発展のためにと海外留学していた人もその対象となったほか、メガネをかけている人(字が読める)、ラジオを持っている人(言葉がわかる)も対象となったと聞いたことがありますが、どこまでが正しい情報なのかは不明です。

 

そして最後は、カンボジア民族統一戦線とベトナム軍によりカンボジア侵攻。民主カンプチアは倒れ、現在のカンボジア人民共和国が成立したのです。

 

 

現地語では「チュンエク」と呼ばれる、プノンペン郊外の「キリングフィールド」。拷問ののちに処刑されることとなった人たちがプノンペン市内で溢れ返り、郊外に作られた処刑場です。

 

ひとつの穴に数百もの遺体を埋め、遺体から発生したガスで地割れがしていたとも言われています。一番有名なこの場所が負の遺産として残されていますが、こうした虐殺場は国内に数百あったともいわれ、正確な犠牲者の数も分かっていません。

 

 

「KILLING TREE AGAINST WHICH EXECUTIONERS BEAT CHILDREN」

 

なんの罪もない子どもたちがこの木にたたきつけられ、殺されました。「子どもの血や脳みそ、髪の毛が幹にこびりついていた」という音声ガイドを聞き、私はこの木の前に立っていられなくなりました。遠い遠い昔の話ではない、私が生まれるほんの少し前の出来事。

 

 

不自然に穴の開いた頭蓋骨の数々は、数十年経ってもなお家族のもとへ帰ることも許されず、キリングフィールドでジェノサイドの残虐さを訴え続けています。

 

 

 

花を手向け、手をあわせましたが、そのとき私は、心に何も浮かんできませんでした。何と思っていいのかもわかりませんでした。こんな感情は生まれて初めてでした。しんどくて、しんどくて、ただ手を合わせて、やすらかに眠ってくださいと願うことしかできませんでした。

 

 

 

その後訪れた「S21」、現在の名を「トゥールスレン虐殺犯罪博物館」。14,000~20,000人が収容され、生き残ったのはそのうち7人、8人ほどだと言われています。

 

 

 

1979年1月にベトナム軍がプノンペンを鎮圧するまで続けられたのは、反革命分子によるむごい「粛清」。拷問器具や血だまりがそのままにされた館内は、もともと学校だったとは思えないおぞましい雰囲気に満ちています。

 

是非訪れてください、と言える場所では、決してありません。でも、もしもプノンペンに行く機会があれば、人生1度だけでも訪れてほしい場所でもあります。

  

ポイペトってどんなとこ?

さて、ここまで、カンボジアの内戦の歴史について触れましたが、ここからは本題に入って「ポイペト」のことを書いてみようと思います。

 

私がはじめてポイペトの村を訪れたのは、2015年4月のこと。トゥールポンロー村や国境付近を案内してもらい、「ポイペトってどんなとこ?全編・後編」というタイトルでブログの記事を書かせてもらいました。まずは、その内容を少し直しつつ、私が見た、聞いた、感じた、ポイペトについて、紹介したいと思います。

 

2015年4月、ポイペトはこんな町

ポイペトは、タイとカンボジアの国境のカンボジア側にある町です。バンコクからアランヤプラテートまではバンやバスで5時間ほど、そこから歩いて国境を渡ればカンボジア側の国境の町ポイペトに到着です。

 

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内戦の影響で隣国のように発展を遂げられなかったカンボジアは、多くの生活インフラと物資をタイとベトナムに頼ってきました。その物流のキーポイントとして発展を遂げているのが、このポイペトの町です。大型のバスやトラックが行き交う危険な国境付近で働くのは、リヤカーで荷物の運搬を行ってお金を稼ぐ人、それを手伝う子どもたち、陸路で国境を越える観光客目当ての商売人。アンコールワットの町シェムリアップへの通過点であることから観光客も多くみられ、物乞いの人たちも国境付近にたくさん居ます。

 

あらゆる社会問題がぎゅっとつまった、カンボジアの縮図ともいうべき、混沌とした世界が広がっているように感じました。

 

内戦後のポイペト

先に書いたように、内戦時代のカンボジアは、言葉にならないほど悲惨なものでした。その戦火を逃れるためカンボジア各地からやってきた人たちは、このタイとの国境付近に住み始めました。その数は日増しに増え、アランヤプラテートとポイペトには大規模な難民キャンプができたそうです。

 

そして、内戦で故郷を追われた人たちを更なる悲劇が襲ったのは、1990年代のこと。タイの資本家が、まだ法の整っていないカンボジアに目をつけ、国境付近にカジノを建設すると言い出したのです。

 

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外貨を獲得したいカンボジア政府はそれに応じました。そして、カジノやホテルを建設するためには、広大な土地が必要となるため、そこに暮らす人たちは立ち退きを余儀無くされました。

 

お話を聞かせていただいたカンボジア人の方が言うには、ある日突然ブルドーザーがやってきて、水や電気などのインフラも整っていない、地雷の撤去も終わっていない、子どもを通わせる学校も無いような代替地に追いやられていったのだそうです。

 

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昼間はネオンの明かりもないし、周りもよく見渡せます。カジノの敷地内はガランとしていて、人もまばら。ところが一歩外に出ると、道も市場も屋台も人で溢れていて、その中で静かに佇む巨大な建物は、ものすごく違和感がありました。

 

ホテルがあり、カジノがあれば、置屋、売春もあります。タイからのブローカーに子供を売る親も居るそうです。そうなると必ず蔓延するのはHIV。国全体で見ると感染者は年々減少傾向にあるものの、支援の手が入りにくい僻地では都市部よりも深刻な問題です。

 

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すぐ近くにはテントがたくさん並んでいて、タイから持ってきたであろう服や雑貨が売られていました。奥のほうには、日本のイベント会場でもよくある、空気で膨らます遊具も。子供たちがボヨンボヨンしながら滑っていました。

 

写真はありませんが、カジノの中にも入ってみました。店員さんはタイ人ばかり。手前の売店には、ブランドものの時計や服、日本のお菓子がたくさん売っているところもありました。日本のお菓子に飢えていた私は、源氏パイやイチゴのお菓子、キャラメルポップコーンなど5つ買い、700バーツを支払ってホクホク顔でカジノを後にしましたが、あとで計算してみたら700バーツって2700円ぐらいですよね。もしかして私、アホなんかなっておもいました。後悔しながらも美味しく頂きました。やっぱり日本のお菓子は美味しい。

 

地雷の博物館、カンボジア

話題を少し変えまして、カンボジアの地雷についても触れてみたいと思います。 内戦時代にカンボジアに埋められた地雷は、いくつぐらいかご存知でしょうか?

 

 

その数なんと、400~600万個。埋設密度は世界一、カンボジアは「地雷の博物館」とも比喩されています。

 

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これはシェムリアップの博物館に展示されていたクレイモア地雷。指向性対人地雷の一種です。

 

ワイヤーにひっかかるか、リモコン操作で信管が反応すると、爆風と共に中から数百個の鉄球が飛び出します。有効加害距離50m、最大加害距離250m。「目の前で爆発したら、何百発もの鉄砲玉を浴びるようなものです」と言われて、背筋が凍りついたのを今でも覚えています。

 

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こちらも、展示されている地雷の数々。展示品の地雷をカンカンカン!!と叩きながら熱心に説明してくださったもんで、信管は処理済だと分かっていても私は終始冷や汗が止まりませんでした。

 

地雷は、残虐性、残存性、無差別性を備えた”悪魔の兵器”。その中で対人地雷は、「怪我を負わせるため」に埋めらました。ズタズタに切り裂かれた手足を見て精神的に追い詰められる。一人の足が吹き飛んで負傷すれば、それを救護するために兵力が裂かれる。その後の治療やリハビリに、家庭にも国にも、経済的負担がかかる。戦力を少なくするためには、死ぬよりも負傷したほうが都合が良いのです。

 

そして、地雷原になった場所には住めなくなり、農耕も出来ません。 地雷は、信管を抜き取るまで半永久的に、じっとそこで待ち続けます。対戦車地雷の真下や真上に対人地雷を置いたり、地雷探知のために除去作業員がプロッター(地雷探知に使う鉄の棒)を斜めに差し込んだときに反応するよう、対戦車地雷のまわりに対人地雷を斜めに埋めたりと、殺傷能力の高い対戦車地雷も工夫されて埋められており、単純に対人地雷だけに気をつければ良いという事ではありません。

 

ポイペトに残る地雷原

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これは、ポイペト郊外の地雷撤去が終わった場所につけられた看板で、CMACという政府機関が立てたものです。地雷を撤去している人の中には、ポルポト時代の兵士も居ます。

アキ・ラー – Wikipedia

シェムリアップにあるアキラ地雷博物館には、ポイペトで撤去された地雷も多数展示されています。(先ほどの地雷の写真はアキラ地雷博物館で撮影させていただいたものです。)

 

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この記事を書いた数ヶ月前には、シェムリアップの郊外にある世界遺産のロリュオス遺跡群近くの公立小学校横の森で、爆発事件がありました。子どもたちが鉄くずを売ろうと不発弾を触ったところ爆発してしまい、4人が酷い裂傷で病院に運ばれたそうです。(ニュースで見た時は亡くなったという情報はありませんでした)また、牛を2匹繋いだ牛車に子ども二人を乗せて走っていた男性が対戦車用地雷を踏んで吹き飛び、みんな亡くなってしまったという痛ましい事故も、私がここに来てからのこと。

 

地雷撤去が終わる=”100%安全な土地”になったというわけではありません。雨季の激しい雨で地雷を覆っていた土が流れてしまうため、地中深くに眠っていて探知機に反応しなかった地雷が出てくることもあるのだそうです。「何個撤去したかではなく、国土の何パーセントが安全な土地になったかが重要」と以前とある方から伺いましたが、こういうニュースを目にするたびに本当にその通りだなと思います。

 

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この荒地の奥に広がっている森は、”あえて”地雷が残されたままになっている場所。国境線上に位置していて、不法入出国を防ぐためと、またいつ勃発するか分からないタイとの国境紛争のためにこのままにされているんだそうです。

 

 まわりには広大なキャッサバ畑が広がる中、誰も手をつけない森。そのすぐ手前のバラック小屋では、そこに暮らす子どもたちがままごとをしながら、見慣れない外国人の私をじっと見ていました。

 

ところでポイペト、水・・・どこ?

 

町の案内をしてもらったあとグーグルマップで確認して驚いたのですが、ポイペトの田舎のほうには、大きな川や溜池がありません。これでは、農業用水はおろか生活用水の確保も難しいでしょう。テレビでよくある「子供が数キロ先まで水を汲みに行く」という話。ポイペトでは実際に行われています。井戸がある家はもちろんそこから汲み上げますが、その井戸を掘るのにもお金がかかります。井戸がなければ、溜池まで水を汲みに行くほかありません。

 

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私が泊めていただいた方の家には井戸があったので、その水が溜められた水がめで水浴びをしました。普段は年末年始の断水以外は何不自由なく過ごさせてもらっている私、ポイペトで久しぶりのカンボジアンスタイルの水浴び。ドキドキ。入社してすぐ電気の無い島で一泊したとき以来です。

 

水がめの中を覗いてはいけません。無心で水を浴びます。「綺麗になった」と思うのです。思うことが、大切なのです。(笑)サロンと呼ばれる布を体に巻いて、家の裏手にある水がめで体を洗う私と友人。慣れた感じで何の躊躇いも無く、そして手際よく水浴びする姿を見てスゴイなあ・・・と感心しながらふと西の空を見たら、燃えるような夕日が。水浴び中なので写真は撮れませんでしたが、草原が夕焼けに染まっていくのを見ながらの水浴びは、なかなかオツだなと思いました。

 

一方で、生活用水が確保できず、水浴も洗濯も出来ない人が、同じ地域に住んでいるんだよな。と、水がめにたっぷり溜められた水を見ながら思ってはみるものの、その中で生きていくのがどれほど大変なことかは、私には想像もできません・・・。

 

貧困、出稼ぎ、そしてまた貧困へ

町に仕事が無い。土地の買占めのあと用意された農地は痩せていて、水も十分に確保できないから、作物が育たない。そうした理由から、この町を拠点としてタイに出稼ぎに行く人が後を絶ちません。しかし、カンボジアのパスポートは135ドルとかなり高額なうえに、首都プノンペンまで取りに行かなくてはならないのです。賃上げストライキを何度も起こした縫製産業の最低賃金でも月収128ドル。(2015年の情報です)

 

去年1月の時点で教師の最低賃金が100ドルです。加えて、交通費や宿泊費もかかります。ポイペトからプノンペンまでカンボジア人が幾らぐらいで行けるのかは私には分かりませんが、出稼ぎにいかないといけないぐらい生活に困っている人からすれば決して安い金額ではないでしょう。

 

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その人たちに残された手段が、タイへの「不法入国」。カンボジア人の出稼ぎ労働者が雇われるのは、建設系の仕事だそうです。ポイペトの村の中には、出稼ぎに行って過労や仕事中の事故で亡くなった方も。そうなったとしても、不法入国している人たちは、何も言えないのです。

 

「仕事中の事故」というのは、足場から落ちたり、モノが上から降ってきたり、あとは電気工事中の感電死もあるとのこと。

 

タイの工業用電圧は380V、日本の200Vよりかなり高い設定です。工業用電圧は、ショッピングモールやホテルの空調設備などにも使われています。日本で電気工事するには国家資格が必要で、試験には実技も含まれています。資格を取ってからも、実際の工事にあたる前にまた講習を受けたり、低圧・高圧それぞれの電圧を扱うための研修を受けるなど、徹底的に教育されるんだそうです。現場で作業にあたるのはそれほど危険なことなんですね。「電源切れてると分かっていても工業用電圧の配線を触るのは怖いよ」と、電気工事士の兄は教えてくれました。

 

タイはカンボジアに比べて、そのあたりの法整備や労働環境、教育も発展しているのでは?と、タイに行く前は思っていましたが、結局は電柱を見上げて「どこも一緒」という結論に至りました。数え切れない本数の電線が繋がれ、余った分もぐるぐる巻きつけられて、千切れた電線が人の背の高さまで垂れ下がっていても誰も気にしない。漏電による火災や、垂れ下がった電線に触れて感電死、といった事は、ここでは特別なことではありません。

 

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バンコクからタイ側の国境までのバスに乗ると、途中で何度か停車します。乗ってくるのはみんなカンボジア人。お正月前ということもあり、大きな荷物を抱えて大勢乗り込んできました。

 

アランヤプラテートの手前に検問があり、そこでバスが一旦停車するとタイ警察がバス内に乗り込んできて、乗客のパスポートをチェックしました。パスポートが無い人はそこで降ろされ、罰金を支払って強制送還。私たちのバスにはそういう人はいませんでした。(いる場合はだいたいもう少し手前で降りて別のルートで行くんだそうです。)

 

国境付近に居れば、荷台に檻がついたトラックに不法入国者が詰められてカンボジアに強制送還させていくのを見ることもあります。ちなみにこの日、タイ側のイミグレは帰省ラッシュが起きていて、カンボジア人であふれ返っていました。パスポートを持って働きに行っている人も結構居るということですね。バスの中には、お腹に6ヶ月の赤ちゃんがいる女性や、小さな子供を抱えた女性も居ました。

 

労働環境や仕事の内容以外にも問題になるのが、強制送還です。雇い主から「後からまとめて支払う」と言われて給料が全額支給されず、建物が完成する直前に警察に通報され未払いのままる強制送還されます。その給料が受け取れることはありません。雇用主のいいように使われても、泣き寝入りするしかないのです。

 

経済特区は雇用を生み、そして町をどう変えるのか

 

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カンボジアにはプノンペンやシハヌークビルなどの主要地に経済特区があります。ここポイペトの経済特区は、プノンペンより大きい386ha。経済特区の周りに民家は無く、農地にもなっていなさそうな平野だけが広がっていました。

 

ここも、もともとは農民が暮らしていた場所だったそうです。カジノ建設の時の買占めと同じように、学校もないインフラも整っていない、そして作物の育たない痩せた土地へと移され、農村部の貧困は更に拡大していきました。

 

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これは敷地内の中ほどから門を撮影したもの。386ha、東京ドーム2個分だそうです。東京ドーム行ったことないから想像がつきませんが、ここはめちゃめちゃ広いです。中にぽつんと建っていた工場では、ポイペトの人たちも働いている様子でした。

 

排水やごみ処理などの環境汚染も含め、この経済特区がどんなふうに発展を遂げていくのか気になります。

 

という、私が見た、聴いた、感じた、カンボジア。

 

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村の人が話してくれたことをまとめた中に「証拠(数字)」を入れようと試みるも、いくら調べてもまったく出てこず。こういう記事で「たくさん」とか「少数ですが」とか

あんまり使いたくないなあ~と何度も何度も頭を悩ませました。(論文だったら床にたたきつけられるレベルだけど、これは論文じゃないので・・・と開き直り。)

自分が見る立場になったらすぐ「ソースは?」って言うのに・・・人に厳しく自分に甘いのはこのこと(笑

 

それでも私が、見たこと、聞いたことをそのまんまお伝えしたのは、「ポイペトで暮らす村の方に伺ったお話」だからです。

 

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視点を変えればもっと別の見方があるのかもしれません。数字で見れば、もっと深刻な問題かもしれないし、もしかしたら取るに足らないことかもしれない。

 

それに、タイでの労働、経済特区、カジノ、地雷、内戦・・・・どれも2日で調べられるような簡単なものではなく、私がここに書く極めて断片的な情報に対して「それは違うよ!」と思う方もいらっしゃるかもしれません。

 

でも、私がお話を伺った人は「そう」感じているのです。複雑に絡み合って生まれた貧困の中で、苦しみながら生きている人がたくさん居るという事実は、確かにここにあったのです。ですから、そういう「一面」があるんだという風に捉えていただければと思います。

 

背伸びして書こうとしたら上手くいかなかったので、言い訳です(笑

 

ほんとうの「貧困」というもの

 

この記事を書きながらずっと自分に問いかけていたことがあります。それは、「貧困」とは何かということ。

 

同じ法のもとに暮らしているにもかかわらず、悪政、天災、個人の病気や怠惰など様々な原因から、生きていくために最低限必要なものが得られないことが貧困だとカンボジアに来るまでは思っていました。

 

ですが、こっちに来て、日本に居るときよりもそういった問題との距離が近くなり、少し考え方が変わりました。

 

生まれた場所、自分、家族、仕事、生活、教育、経済、政治、宗教、文化、健康、それらを包括して「個人の尊厳」が持てない状態を継続してしまうことが「貧困」なのだと、今はそういう風に考えています。

 

先進国と途上国を相対的に比較したステレオタイプな幸福論は、何の意味も成しません。日本には日本の、カンボジアにはカンボジアの価値観があり、良い所も生き辛さも、それぞれにあるのだと思います。

 

ただ、だからといって、それぞれがそれぞれの幸せや生きづらさを抱えて生きるのが良いかといえば、それも違う。その中でできることが必ずある。日本の「便利な生活」とはかけ離れたところで、その場所に住まう人たちと共に暮らし、真摯に向き合い続けるサンタピアップの代表は、言葉で語らず、この町の人たちとの関わりの全てを通じて私に”それ”を教えてくれました。

 

特定非営利活動法人サンタピアップについて

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今回の取材で、サンタピアップで販売している商品の作り手さんの家も一軒一軒まわらせて頂きました。コンクリートで出来た立派な家は一軒もなく、カンボジアでの生活必需品であるバイクも見当たりません。

 

それでも、バラック小屋で暮らす家族のために立派な家を建てるのではなく、一生食べていけるような仕事や、バイク、井戸を与えるのでもなく、いつか自立して、自分の手でそれを掴み取るための基礎教育を受けられるように生活をサポートしていくという長い長い時間がかかる活動が築き上げたコミュニティが、ここにはありました。村の人たちに寄り添った、「尊厳」が守られた活動に、私は感動すら覚えました。

 

シェムリアップのように美味しいレストランがあるわけでもなく、インフラも満足に整っていない、NGO・NPOの支援の手が届きにくい僻地で、現地の人と衣食住を共にしたからこそ見えたもの・分かったことが、たくさんあるんだと思います。そして、それがカンボジアの人たちを深く理解するためのベースになって、この活動のすべてに繋がっているということに気付かせてもらいました。

 

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Give a man a fish and you feed him for a day.

Teach a man to fish and you feed him for a lifetime.

魚を与えれば彼は今日魚が食べられる。

魚の釣り方を教えれば、彼は一生魚が食べられる。

 

よく英語の教科書なんかで出てくることわざですが、まさにそれを体現している関わり方を見せていただきました。「与える」のは1分でも出来るけど、「教える」となるとそうはいかない。この村を訪れたあと改めて咀嚼すると、この諺は単に「与えるのではなく教えなさい」と言っているのではなく、そういう覚悟があるのかを問いかけているように思えてきました。

 

カンボジアの教育事情って実際どうなの?なんで教育支援すべきなの? | 国際協力NGOCBBカンボジア

色々調べているうちに、数字も入れつつ問題の本質を的確に指摘されている記事を見つけました。継続的、持続的な活動の必要性が分かり易く書かれていますので興味がある方はぜひご覧になってください。

 

・・・長く活動しながら、依存しない・されない関係を作るって難しいことだよな。口で言うのはめちゃくちゃ簡単だけど。 

 

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「ボランティア」や「支援」に対する考え方は、100人居れば100通り。答えもひとつではありません。継続的、持続的と口で言うのは簡単だけど、自分の「人生」をそのために使うという決断はなかなかできることではありません。

 

でも、支援をするという事は、良くも悪くもその対象者の「人生」を変えるということ。「活動」を「目的」にせず、あくまで「手段」として、強い信念と覚悟を持って、10年間活動を続けてこられたサンタピアップの活動を見せていただくことができた貴重な機会に、心から感謝します。

  

「ポイペト」と「貧困」

このブログで使った写真はすべて、私が自分の手で撮ってきたものです。インターネットからの拾い物ではありません。つまり、私がここに書いた地雷やカジノのことはポイペトでここ数年の間に起きていることなんです。

 

今日もまた、鬱そうとした地雷原の森では、数え切れない地雷が土の下で誰かが踏むのを待っています。電気の無い村から数キロ離れたカジノ周辺は夜になれば賑やかな音楽とネオンの光で溢れ、お客さんを待つ10代の子どもたちが居ます。本当に、「今」目の前にあるリアルな問題で、解決されない限り「これから」もずっと続くことなんだなと、ポイペトにきて初めて実感しました。

 

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ポイペトに行って初めて知ることができた、今までとは違う”カンボジア”。国境の町特有の問題が作り出した、貧しさ。観光名所が無くなかなか行く機会の無い場所のことだからこそ、せっかく自分が行って、見て、聴いて、写真を撮ってきたんだからこのブログを読んでくださっている方にも伝えたいなあという、それだけの気持ちです。

 

 

 

 

 

 

 

・・・と、ここまでが2015年に書いた記事を改変したものです。

 

この記事を書いた3年後の写真も、ご覧ください。

 

 

カンボジアを離れて日本でふらふら働きながら、JICA海外協力隊に合格したのが2018年2月。そして、サンタピアップ代表と村の人とのかかわり方を見てファインダー越しに心が震えたこの場所を派遣前に訪れたいと、2018年の6月にもう1度ポイペトの町を訪れました。

 

この時は、2次面接でたまたま隣に座った二人(のちに全員合格)と一緒にタイからアランヤプラテートまでのバスに乗り、歩いて国境を越えました。バンコクから5時間ほどかけて着いたアランヤプラテートの町には、2015年に訪れた時にはなかったようなブティックホテルみたいなお洒落ホテルが数軒並んでいて、ショッピングモールまで出来ていました。

 

 

その日の晩は、カジノの近くのレストランへ。雨がしとしと降っていて、オープンエアーが丁度心地よかったのを覚えています。

 

カンボジアといえば空心菜炒め。

 

 

チャーハン。

 

 

えび焼き。

 

 

プーパッポンカレー。

 

 

そしてタワーのビール!

 

と、タイ・カンボジアの美味しい食事が満喫できるのは、ポイペトの中心部だからです。ホテルにはよさそうな雰囲気のルーフトップバーなんかもありました。

 

 

夜まで煌々と電気が灯る市場。

 

 

お昼はこんな感じです。

 

なんだ~!全然綺麗な町じゃん!と感じられたでしょうか。

 

 

これがトゥールポンロー村への道です。2015年に訪れたときは、幹線道路から折れたらそこから村までずーーーっと未舗装の道だったのですが、3年で途中まで道が舗装され、村への移動がかなり楽になっていました。

 

 

こちらが、サンタピアップの活動の場・憩いの場。

 

 

長距離移動の疲れもあり、ハンモックを吊るして爆睡させてもらいました。

 

 

最初に訪れたときに頂いたものと同じ、臭菜のスープと、きくらげのスープをリクエスト。美味しくて美味しくて、この味が忘れられず。臭菜のスープは読んで字のごとくかわった臭いがするんですが、これが美味しい。そして胡椒のきいたきくらげのスープも、とにかくごはんがすすみます。

 

 

”カンボジア風おこのみやき”と例えられる「バンチェウ」も、美味しかったです。この薄焼きにしたクレープに野菜やひき肉をくるんで食べます。ひき肉の味付けがなんとも絶妙。いつか作れるようになりたい。

 

 

さてさて、お昼を食べて腹ごしらえした後は、サンタピアップでミサンガを作っている子どもたちに、ろうびきのひもを使ったミサンガ作りを教えてもらいました。

 

 

「子どもたち」・・・と言っても、3年前会った時はまだ幼げだった彼女たちはもう立派な高校生、綺麗なお姉さんになっていました。時の流れを感じたと共に、あの時と変わらない関係のまま活動を続けている代表を改めて尊敬しました。

 

そしてそのうちの一人は、今はもう大学生。ポイペトの町を出て、学生生活を満喫している様子がSNSからもうかがえます。きっと、ミサンガで子どもたちの教育をサポートするというサンタピアップさんの持続的な活動があってこそ。子どもたちだけでなく、家族とも地域とも深く関わり、そのネットワークの中で、見守ってこられた結果なんだと思います。

 

ちなみにこの写真の手は、私と現地の子・・・ではなく、白いミサンガをしているのが同期隊員、赤いミサンガをしているのが私です。なんでや。ちなみにもう一人の男性同期隊員は、あまりにミサンガがうまく作れず、この時まだ苦戦中でした。

 

実は、虐殺犯罪博物館とキリングフィールドに行くのを6年ほどためらっていた私に、「観光と違う関わり方をするなら知っておいたほうがいい」とすすめてもらったのはこの時でした。協力隊の仲間たちと、バンコクからポイペトへ抜け、シェムリアップで観光して、シハヌークで海鮮を楽しみ、そして最後にプノンペンを訪れる予定で旅程を組んでいて、やっと、向き合おうと思えたのです。この歴史を感じ、活動してきた古川さんの言葉は、私の心にいつもがつんと響きます。

 

ポイペトとトゥールポンロー村のこれから。

 

 

1度目は2015年4月、2度目は2018年6月に訪れたポイペト。町中は変わっても、トゥールポンロー村は何も変わっていませんでした。

 

バナナの葉やジャックフルーツが生り、かわいいカシューアップルや形容しがたい臭さのノニの実もあちこちにあって。赤土と、鮮やかな緑のコントラストが美しい。

 

あちこちで子どもたちが遊ぶ声がして、商店の軒先ではお母さんたちがそれを遠くから見守っている。

 

 

村の人たちの飲み会にも参加させてもらいました。美味しいごはんと冷え冷えのビールでもてなしてくださった村の人たちとは、夜に雷が鳴るまで、喋って、飲んで、歌って、踊って、とてもとても楽しい時間でした。

 

 

でも。

 

この場所がいま、急激に変わりはじめていて、この場所に住まう人々の”くらし”が、望まぬ方向に形を変えようとしています。

 

そして、その中で子どもたちのために新しく居場所を作るために、サンタピアップさんも変わろうとしているのです。

 

サンタピアップさんは、途方もない時間をかけて、地道に信頼関係を築き、組織を大きくすることよりも関わりを深くすることに重きをおかれてきました。日本にはそれを支えるよき理解者が居ることも、活動の様子から伺えます。

 

「身の丈にあった活動を」と、自分の目の届く範囲で地域、家族、そして子どもたちと関わってこられたのを、私はここ5、6年、見させてもらってきました。そして今回、このような呼びかけをされたということは、サンタピアップさんにとって、とても大きな、そして大切な決断なのだと思います。

それはつまり、めまぐるしく変化していくポイペトの町の波がトゥールポンロー村にも押し寄せて、この村をとりまく環境が、本当に、大きく大きく変わろうとしているということ。

 

それに抗うことも難しい現実がある中で、子どもたちを守るために公民館をつくりたいと動き始めたサンタピアップさんの活動を、私はこれからも、ほんの少しですが応援していきたいと思っています。

 

さいごに

 

この長文を最後まで読んで下さった方、ありがとうございます。冒頭にもリンクを貼らせていただいた通り、サンタピアップさんは今、村の子どもたちの安息の場をつくるべく、日本とカンボジアの二拠点で活動を続けられています。

santapiup | from CAMBODIA for CAMBODIAhttp://santapiup.com/

今回の資金協力に活動にご賛同いただける方は、WebサイトやFBページで詳しい内容をご覧ください。

 

カンボジアと関わるまで、安易にお金を渡してそれで満足したような気持ちになることにとても抵抗があり、私はドネーションそのものをある意味毛嫌いしていました。

 

でも今は違います。

 

大好きになったカンボジアがそこにあって、カンボジアのために獅子奮迅している友達や大先輩が居て、その人たちが成し遂げたいことには、ときにお金が必要で。

 

大好きなカンボジアのために、カンボジアで頑張る人たちのために、そしてその人たちが共に暮らしているカンボジアの人々のために、ほんの気持ちばかりですが、募金したり、物を買って、その活動を応援するということに、今は何の抵抗もありません。

 

そんな風に思える人たちに出会えたことが、あの国で過ごした2年間のすべてだと思っています。本当に、幸せなことです。

 

私自身、JICA海外協力隊への参加を決めてから人生で初めて「国際協力」というフィールドで活動することになり、ここラオスで4か月過ごしてみて、沙樹ちゃんの活動がどれほど途方もない時間と努力の上にあるのかを更に実感することになりました。私には到底追い付けないサンタピアップさんの新たなステップを、お隣ラオスから応援し、自分も1歩でも近づけるように日々半歩ずつでも頑張っていこうと思います。

 

 

 

「ラオ子がそこまで言うなら」と思ってくださる方が一人でも居ればという思いで、この記事を書きました。拡散だけでも歓迎です。どうか、大好きなカンボジアと、そこで暮らす大好きな人たちのために、力を貸してください。

 

このプロジェクトが一刻も早く実現して、

 

「サンタピアップ(平和)」がこの村でずっと続いていきますように。

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「おやき」は良いぞ。

さばいでぃー!

こんにちは、ラオスのラオ子です。視察の生地を一通り書き終えたので、今日は活動と関係ないマイブームを(笑)

 

SNSにアップしてたら「レシピ教えて~!」と何人かから言ってもらえたので、調子にのって世界一適当なおやきの作り方をご紹介したいと思います。

 

おやきってなんぞ。

ところで「おやき」ってご存知ですか。

 

おやきは、長野のソウルフード。小麦粉やそば粉で作った生地に、野沢菜やネギ味噌、きんぴらをはじめ、食べんでも分かる美味しいやつを「これでもか!」と包んだのが、そう、おやきです。

 

 

これを食べるためだけに長野に通いたいぐらい、おやきが大好きです。サービスエリアでも、草餅をぺたんこにして焼いたおやきを見つけたら必ずといっていいほど食べます。大学生のころは、京都の美山の道の駅に行って、具がみちみちに詰まったずっしりおやきと、美山の美味しい牛乳で休憩するのが至高でした。

 

おやき、美味しいです。食べたいです。ラオスでも、食べたいです。というわけで、作ります・・・!!

 

私の任地は電力がめちゃめちゃ安定しているので、大量につくって冷蔵庫で保存ができます。本当にありがたい。そうでない人はあんまりたくさん作ると食べるのが大変かもしれませんが、是非一度試してみてほしいです。

 

レンジでチンしてからフライパンかトースターで軽くあぶったら、それだけで朝食にも、おやつにも。おやきのポテンシャルの高さ、はんぱねえ。

 

おやきの作り方

まずは餡づくり

先に餡を作るのは、作ったあとに大きいフライパンやバットなどに広げて冷ますためです。扇風機をがーーーっとあてて水分を飛ばしてから冷蔵庫で冷やすと、餡が固くなるので、量が多くても包みやすくなります。

 

この作業を先にやってしまいましょう。

 

おやきの餡12個分=800gぐらいのなにか

 

具はこれでないといけない!!というのは特にありません。具の「できあがりの量」がだいたい生地と同じ(もしくは、うまく包める人は1.5~2倍)ぐらいだとどちらかが余ることなくうまく包めます。

 

いつも目分量で適当にやってしまいますが、だいたい皮50gに対して具70~90gぐらいでやっているような気がします。(具のやわらかさによる)

 

この日作ったのは、茄子とえのきを少量の塩で馴染ませて水分を出しやすくしてから油で炒め、ラオガンマと味噌で味付けしたもの。

 

 

いま家には4ガンマ(4種類のラオガンマ)あるのですが、肉みそっぽいのでやるとめちゃめちゃ良い感じでした。

 

 

どんな具にするにしても、ポイントは、しっかり水分を飛ばすことです。具は多少ごろごろしていても大丈夫。

 

ナス(30センチぐらいの長いやつ)1.5本、えのき1袋をたっぷり炒めて、800gぐらいの餡になりました。

 

他には、玉ねぎ3個、豚肉300gに、「つけてみそかけてみそ」で味付けしたものも美味しかったです。

 

多分、そのまま食べて美味しいものは包んでもだいたい美味しいので(笑)、野菜たっぷり炒めて適当に味付けして大丈夫です。

 

バットにうつすときに出来上がりの重さを量ってあげると、それに合わせて生地の量を調節できます。

生地は全部の重さを足せばいいので、餡の量に対しての割合を計算して量を変えればOK。だいたいで大丈夫です。

 

生地作り

そば粉や地粉が手に入るといいのですが、さすがにそういったものはなかなか手に入りません。一番買いやすい中力粉(All Purpose Flower)でやってみましょう。

 

といっても、混ぜるだけです。

中力粉450g、熱湯300g、砂糖大匙1、油大匙1、塩ひとつまみ、ぐらい。

 

粉によってまとまり方にばらつきがあるので、熱湯は100gぐらい調整用に残し、粉、砂糖、油、塩が入ったボウルに少しずつ入れながら菜箸でぐるぐる混ぜます。最初から全部入れてしまうと、ものによってはかなりベタつきます。

 

少し入れては混ぜ、を繰り返すと、最初はそぼろ状ですが、途中で一塊になってきます。そうしたら手で捏ね、底に残っている粉も全部まとめていきます。

 

粉っぽくてまとまらなかったら、残りの熱湯も少しずつ加えます。耳たぶぐらいの固さになればOK。べたつくと使いにくいので控えめにしましょう。

 

だいたいまとまったら手で3分ぐらいしっかり捏ねて、薄く油を塗った器に入れてラップでふわっと包み、30分ぐらい常温で寝かせます。

 

 

こっちはイーストを加えたバージョン。

上のイースト無しのレシピは「もっちり」とした生地ですが、イーストを入れるとふわふわ感も楽しめます。過発酵してしまうと美味しくなくなるので、上のレシピで何度か作って、手際が良くなってからチャレンジすると良いかもしれません。

 

中力粉400g、ドライイースト3g、砂糖大匙1.5、塩ひとつまみ、油大匙1を混ぜたボウルに、水260ccを少しずつ加えながら混ぜていきます。

 

こちらも上のレシピ同様、少し調整用に水を残してください。耳たぶぐらいの固さになるように調整します。ドライイーストを使う場合は、熱湯は絶対に使わないでください。イースト君が死んでしまいます。

 

2つ上の写真は実はイーストありのバージョン。30分ぐらい室温で発酵させると上の写真ぐらいまで膨らみます。だいたい1.5~2倍になるまで発酵させます。ちょっと休憩して、いったん台所を片付けて、次の準備をして・・・としているとあっという間。フィリングを包んで焼くまで発酵し続けるので、手際がよくないと最初と最後に包んだものの大きさや風味が変わります。不安な人は、包む前に半分ぐらいに切り分けて、冷蔵庫で保存して発酵を遅らせるとよいかもしれません。

 

 

餡の出来上がり量から何個ぐらいつくれるか計算して、生地を切り分け、くっつかないように打ち粉をします。

 

乾燥しないようにラップか濡れ布巾をかけておいて、一つずつ取り出して使うと扱いやすいです。乾燥してしまった面をいったん中に入れこんでくるくると丸めて綺麗な面を出してから広げ、餡を包みます。

 

イーストで作る場合、手のひらでくるくるすると空気が抜けてしぼんでいきますが、気にしなくて大丈夫です。むしろ、適度にガス抜きするために、手のひらでまな板などに軽く押し付けて全体的にガス抜きしたほうが、もさもさしない美味しい生地になります。

 

餡はきっちり分けなくても、スプーンで何回かすくって重さを量って”感じ”をつかんだら何とかなります。包むのが苦手な人は、あらかじめ丸めて冷凍しておくとかなり包みやすくなりますよ。

 

この写真は、50g前後のイーストありの生地に70g前後のフィリングを包んだ様子。

 

生地は、打ち粉をして手にくっつかないようにしてから、中央を厚めに、端の方を薄く延ばします。お椀を逆に持つように両手の形をつくって、生地の真ん中を指の先で押し上げて親指で生地のまわりを薄くしていきます。こうすると、平らに伸ばすよりも餡を包みやすくなります。

 

手のひらより一回り大きいぐらいの大きさに、おわん型に広げたら、中央に生地をのせ、スプーンでぐっと押し付けてからまわりの生地を引っ張ります。親指で餡を抑えながら対角同士をひっぱってきて真ん中で摘まむと、量が多くてもうまくいきます。

 

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私は、これを目指してます。簡単そうにやってますが、こんなにうまく包めません。本当に憧れる・・・。

 

うちのフライパンは3個までしか乗らないので、全部包んでから焼いていると過発酵になってしまいます。3個作ってはせっせと焼いて、同時進行で作業をすすめます。

 

焼くときは薄く油をひいて、皮をつまんだ面を下にして焼いていきます。破裂しないように気を付けながら、上からぎゅっと抑えて焼き目が広くなるようにすると香ばしくて美味しく仕上がります。

 

蓋をしてしばらく弱~中火で茶色く焼き目がついたら、ひっくり返してまたぎゅっと抑えてあげます。

 

フライパンで蒸し焼きにする場合は、この状態でフライパンに1㎝ぐらい水を入れて蓋をし、そのまま中火で蒸し焼きにしていき、水分がなくなればOK。

 

ラオスの家庭の3種の神器(?)のひとつ「赤鍋」があるので、私はこちらを使って蒸しました。

 

 

フライパンで蒸すところまでやると、焼くたびに毎回洗わないとコゲがついて見た目が汚いので、6ついっぺんに蒸せる赤鍋はかなり重宝します・・・。

 

綺麗な面を上にして、だいたい20分ぐらいしっかり蒸しました。

 

 

というわけで、出来たおやきはこんな感じ。

冷凍保存する分は、あつあつのうちにラップに包んで粗熱をとり、ジップロックにまとめて冷凍庫に入れます。

 

できあがり!

 

皮が余ったら、そのまま平べったくして焼いてナンみたいにすれば、主食になります。

具が余ったら、そのままご飯にのっけて食べます。

どっちが余っても困らないので、分量は適当で大丈夫!

 

とにかく、1度仕込んだらしばらくは食べるものに困らないうえに、これひとつで主食もおかずも完結してなおかつ野菜もたっぷり摂れるところが本当に優秀!

 

 

これは、さつま芋+牛乳+バター+はちみつ+シナモン。デザート系おやきです。カボチャの餡を包んでも美味しいですね。(こっちにはホクホクしたカボチャは売ってないけど。。。)

 

 

菜の花とぶなしめじを、八方汁と顆粒出汁で味付けして、七味をたっぷり入れて風味付けしたもの。いやあ、ここで野沢菜漬けのおやきに近いものが食べられるなんて本当に最高・・・。菜の花一束40円しないぐらいのもので、こんなにたくさんの餡が作れます。

 

こちらで売られているのは茎が立派な菜の花なので、葉の部分は千切りに、茎の部分は細かく切り刻んで先にレンジで柔らかくしてから、ごま油で炒めてみました。ザルにあげるかぎゅーっと絞って、水気を抜き、だんご状にしておくと扱いやすいです。

 

 

え、もう、完全に自画自賛ですけど、売り物みたいじゃないですか?(調子のった)

 

 

 

これは、玉ねぎ、ジャガイモと、冷凍していたキーマカレーをあわせて、カレー粉、コリアンダー、クミンで味付けしたもの。腹もちがいいので主食がわりに食べてます。

玉ねぎとジャガイモは薄切りにしてふんわりラップで柔らかくなるまでチン。そのあとお鍋に移して、さいばし4本ぐらいでぐりぐり混ぜたら、だいたいこんな感じに粗めのマッシュポテトになります。

 

こういう固めの生地も菜の花同様、一つ分ずつに分けて丸めておくと包みやすいですよ。

 

おやき最高だ~💛

 

 

餡を作る日と、包んで焼く日を分けたら、3種類32個もできちゃいました。(笑)だんだん成型うまくなってて自分で笑ってしまう。職場でおすそ分けしたら喜んでもらえるかな~。

 

その日市場で手に入ったもので、たっぷり作って冷凍保存。レパートリー無限大で優秀すぎる長野のお焼き、是非途上国各地でもいろんな餡でお試しください。

 

www.youtube.com

これで紹介されてる、べったべたの生地で包むおやきが作れるようになりたい・・・!!!!

 

 

豚肉やさんのミンサーが直ったら今度は551を目指して肉まんを極めます!

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中国のコスパ最強食べるラー油”ラオガンマ”にドはまりした話。

さばいでぃー!

こんにちは、ラオスのラオ子です。日本はゴールデンウィーク10連休だそうですね。誰か来てくれてもよかったんちゃうんか?とプチ憤慨しつつ日々の活動に勤しんでいます、ラオスのラオ子です。

 

 

ビエンカムに来て2カ月が経ちました。このへんのブログを読み返して、なんてこった、あの頃のフレッシュな気持ちを返してくれ、と言いたくなるぐらい、任地に慣れてのんびり生活中です。任地に居る隊員は私ひとりだけ。外国人定住者は、話によるとあと2人~3人いる??らしいのですが、日本人は居ないみたいです。ビエンカムで検索してもらったらSEO対策ばっちりだぜイェーイ!と思ったのですが、ビエンカムって色んな場所にある地名で、しかもそっちのほうが有名みたいで、全然でした。残念無念・・・。

 

ラオガンマにハマりました。

首都に行けば日本の食材はある程度手に入りますが、なんせ割高。だばだば使えるものではありません。そこで私は、食べるラー油を自作して、せっせと野菜やご飯を食べるつもりでいました。そんな折に、訓練所で同じ生活班だった東ティモール隊員が、とってもナイスすぎるタイミングで教えてくれた「ラオガンマ」なる調味料。

 

 

bci.hatenablog.com

 

Twitterで流れてきたこちらのブログに詳しく書かれすぎているので、私からの説明は何も要らない・・・とにかく食べてみてください!!と言いたいぐらいの美味しさなんですが、せっかくなので少しだけ。(買うときめちゃめちゃ参考にさせていただきました!ありがとうございます。そしてこれからもお世話になります。)

 

ラオスのラオガンマ売り場

 

首都ビエンチャンのホームアイディアールのことはこれから「ラオガンマ売り場」と呼ぼうかなあと思っております。

中国のコスパ最強食べるラー油「ラオガンマ」は、ホームアイディアールの中華食材売り場のコーナーに、ぜいたくにフェイスを使って並べられています。 

 

 

リンクを貼らせていただいたページほどの種類は無いのですが、4種類ぐらい置いてあったように思います。

 

 

その中で私がチョイスしたのはこの2つ。

 

大瓶(左) 牛肉豆鼓辣油辣三丁油辣椒(三種ミックス辣油)

15000KIP(=192円)

小瓶(右) 油辣椒・牛肉豆鼓辣油

13000KIP (=166円)

 

え・・・安い。

 

大丈夫か?

 

と少し心配になりましたが、HACCP、ISO14001、緑色食品(中国の品質証明)取得済みなので、安心して食べられそうです。

 

特に途上国において、食品にハサップとISOがついてる安心感・・・すさまじい。すさまじい・・・!!「緑色食品」というのは初めて聞いたのですが、中国で生まれた品質証明商標で、今は日本をはじめ8つの国と地域で商標化されているみたいです。知らなんだ!!

 

ちなみに、パッケージの上からラオ語で貼られている小さな紙は「唐辛子の調味料(マックペット=唐辛子、ジェオ=つけダレのような調味料)」と書かれています。そうだよな、中国語のみのパッケージ、説明なかったらわからんわな。(私もわからん)・・・って、どっちも同じこと書いてるから結局違いは分からないんですけど(笑)

 

 

 

 

ちなみに、この、一見おっちゃんかと思ってしまう絵は、創始者の女性だそうです。

 

自分の名前が書けなかったという創始者の陶華碧さんが、田舎の町のさらに田舎で細々と始めた麺屋で提供していた自家製ラー油が美味しいと人気を呼び、ラー油工場を作るに至って、2018年の営業収入はなんと720億円。どういうこと。

 

”ケニアのHUAWEI食堂にもラオガンマが…”と書いてる記事を見つけたので、もしかしたらアフリカの隊員にもワンチャンある話かもしれません。あったらいいな。あったら、幸せになるよ。探してみてね。

 

さぁてさぁて。食べましょうかね。

 

牛肉豆鼓辣油辣三丁油辣椒(三種ミックス辣油)

 

 

ではまず、大瓶のほうから。

 

蓋を開けると、ザーサイの独特の香りが広がります。そして、かりかりした豆腐と、落花生が、これでもかとてんこ盛りに。

 

 

もっとオイリーなのかと思っていましたが、めちゃめちゃ具沢山です。

 

 

ご飯にのっけるとこんなかんじ。

 

ザーサイが好きな人はきっとドはまりすると思います!落花生だけぽりぽり食べるもよし、ご飯にかけるもよし、生野菜と和えるもよし。見た目ほど辛くないので、ばくばくいけちゃいます。やばいなこりゃ。

 

続きまして。

 

油辣椒・牛肉豆鼓辣油

 

おお、こっちはオイリー。

 

 

スプーンですくい上げると、こんな感じ。肉と味噌が、超こってり。こちらはごろごろの具材は入っていません。

 

 

ご飯に載せたところ。山椒の風味が華やかで、先に紹介したものよりもピリ辛です。とにかくご飯によく合う。めちゃめちゃ危険。これでカオニャオ(蒸したもち米)なんてあったら、もう、めっちゃめちゃ危険。永遠に食べちゃう。

 

活用方法

 

手始めに、たたきキュウリと和えてみました。こっちの太いキュウリ、ばんっと勢いよく叩いたら中から種が飛んで行って絶望しながら片付けたので、今度から気を付けようと思います・・・。でも包丁で切ってしまうとうまく絡まないから、たたきキュウリ推奨。

写真のものは具沢山のほうでやったものですが、どっちでやっても美味しかったです。軽く塩を振って揉んでから、かたく絞ってやると、水っぽくならず、ラオガンマも薄まらず、食べられます。これ、一生食べていられます。エターナルおやつ。

 

チャーハンにしたら美味しいという記事を見つけたので、それもやってみました。

 

 

あ、あァ、・・・・ (言葉を忘れた人)

 

このためだけに、チャーハン用にお米炊いちゃいましたよ。こっちのお米の、ハズレだったやつですが(笑)みりんとお塩とごま油ほんの少し入れて。離れもよくなるし、ごはんの味も多少よくなる。

具材はシンプルに卵のみ、味付けはもちろんラオガンマのみ。辛さだけだと思うなかれ、しっかり具材のコクが感じられます。卵とラオガンマのみで十分。他には、何も、いらない。これザーサイ入ってるほうでやっても絶対美味しいな。

 

 

そして調子に乗った私は、餃子につけても美味しいかな??と思いつき、それもやってみました。

 

 

皮から手づくり(売ってないから)。紫蘇がもっさもさで1束30円ぐらいだったので、これでもかと入れてみました。西日照り付けるトタン屋根の素敵なキッチンで、天井雨漏りしてる??ってぐらい汗ぼったぼたに垂らしながら、無心で2時間かかって包みましたよ。達成感だけで既に美味しいわ。

 

具材は、豚肉、紫蘇、玉葱、ひき肉、しょうが、大蒜、 貝柱スープ、創味シャンタン、塩、醤油、 砂糖、ごま油。

皮は、中力粉230g、餅粉20g、ぬるま湯160g、塩小さじ1ぐらいでやってみました。ひたすらこねるだけ。

麺棒無いので、ミニソーで買ったタンブラー使って生地を伸ばしたのですが、1枚伸ばしては包んで、とやっていたので結構時間がかかってしまいました。生地が乾燥する&具材が危ないので、次回はこの点を改善していきたいと思います。PDCAサイクル、回します。

 

こんがり焼けましたので、いざ!実食!

 

 

ウワアアアアアアアアアア!!!

 

いや、ほんとに美味しいです。やばい。紫蘇たっぷりの爽やかな具材ともっちもちの皮に、ぴりっとコクがあって山椒の華やかな香りが広がるラオガンマが、合う!!!!全世界の皆さん!餃子には!ラオガンマです!!!!!!!

 

残念だったのは、これがこっちの豚肉の限界なのか、結構混ぜたつもりだったのに具材が硬かったです。(脂身少ないところ選んだのが余計だったかな・・・。)次回は買った後自分でもう一回叩いてみようかな。そして、乾季の一番暑い時期の一番暑い時間に一人でやることではないです。苦行以外の何物でもありませんでした。

 

でも、それを上回る幸福を得られたのでヨシとします。

 

ということで

ラオガンマの良いところは、とにかく安くて、美味くて、汎用性が高いところです。これで肉焼いても美味しそう。テラピアにつけて食べてもよさそう。カオニャオにも合うし、生野菜もチャーハンも簡単に美味しくなるし、手間もかからんし・・・。ラオ子はこれから、ラオガンマ生活に突入します。今度首都に上がったら別のラオガンマも買いたいと思います。

 

2018-3次隊、ラオガンマ隊員 ラオスのラオ子がお送りしました。

 

ちょっと悔しいこと

 

なんとなく平成のうちにあげたくて4月30日に滑り込みセーフしたんですが、令和前夜で大盛り上がりとかいう事情を全く把握していなくて、思っていたほどアクセスが伸びませんでした・・・(悲)

自分が主張したいことはガンガンしていくスタンスで生きてるので、この食べ物記事に釣られてリンク踏んだ方にも是非読んで頂ければと思います。

 

そしてなんとなくで始めたみんなのリンク集も良い感じに数が増えて楽しくなってきました。世界中の隊員、海外在住さんのブログばかり集めているので、ぜひこちらもアクセスしてみてください。いや~~~・・・、みんな、みんな癖が強い!癖が強いんや!癖しか無いんや!!(褒めてます)

 

https://www.instagram.com/p/Bw7TNbmlQaY/

 

それから最近、お絵かきにはまりました。画材は、ノート、シャーペン、トイレットペーパーです(笑)

大家の孫ちゃん描いて、こないだこの写真見せたら「ちょっと母さん!ラオ子が描いたんだって!ちょっとちょっと!!」「なになに!まぁぁ~~~可愛い!!ワツァップに送って!!」と大喜びしてくれました。嬉。画用紙に描いて渡したいけど画用紙売ってない。ラオガンマと一緒に都会で仕入れなければ!

 

追記:

ラオガンマシリーズ(笑)

 

卵に混ぜて、豚の角煮で作った焼き飯くるんでみた。うまい。

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第1号活動報告書と蕁麻疹を出しました。

さばいでぃー!

みなさんこんにちは。ラオスのラオ子です。

 

 

首都で過ごした4月の旧正月明け、21日にすぐ首都にとんぼ返りして、第3回目の自動二輪教習&テスト、その翌日は第2回原爆展の準備と打ち合わせ、24日に原爆展本番、25日に帰任・・・のはずが、ちょっと体調を崩しまして。

 

蕁麻疹、でたー!

23日の夜中に、原因不明の蕁麻疹で腕と内ももと背中が地図状に腫れてしまい、喉の奥も痒みと腫れが出てちょっとゼェゼェなってしまったので、25日は都内のフレンチクリニックで診てもらって、26日に任地へと戻りました。

 

こんな事初めてだったのでびっくりしたのですが、異常な痒みで目が覚めて、また蚊かよ・・・とイライラしながら電気をつけてみたら、既に寝ながら掻きむしった爪跡が描画症のように腫れていました。なんてこった。しかも、左右対称。これはもう、まごうこと無きアレルギーです。

痒すぎて眠れないので、ステロイドを薄く塗って、普段持ち歩いている薬ポーチの中から、第1世代の抗ヒスタミンを探して即座に飲む・・・。副作用の口渇半端ないけど、もうひとつの副作用の眠気のおかげかそのあとは寝たり起きたり、痒みもなんとなく収まったような、収まってないような。 

そして腫れ自体は翌日午前中にはだいたい収まったのですが、夕方ちょっと昼寝したらまた首周りと背中が地図状に腫れて、結局翌朝までぽりぽり。ぼりぼり。痒いだけだったら良いのですが、喉の奥にまで症状が出ると少し怖い。そして、任地でひどくなったらヤバいということで、受診させてもらいました。首都には日本人の先生が常駐しておられる病院があるので、細かいことまで聞けて安心。任地だとそうはいきません・・・。

 

 

同期隊員には散々「OTC薬をナメちゃいかん、任地では常備薬が大切だ、セルフメディケーションが健康の要だ」と偉そうに言っておきながら、首都にあがる時のポーチにたいした薬が入っていなかった点を猛省。枕みたいな量の薬を持ってきても(笑)、欲しい時に無かったら何の役にも立たない・・・。自分自身も気を付けます・・・。

 

今は病院でもらったセチリジン飲んで落ち着いてます。あれだけオリエンテーションで言われていた「経過観察のために目に見える症状が出たら写真を撮るように」という指示も頭からぽーんと抜けてしまっていたので、自分自身リマインドする良い機会になりました。

 

あ、原因は分からないままですが、今はすっかり元気です!

 

そして第1号活動報告書も出しました。

わたしたち青年海外協力隊の隊員は、報告書の提出が義務付けられています。

  • 第1号報告書 赴任後3か月
  • 第2号報告書 赴任後6か月
  • 第3号報告書 赴任後12か月
  • 第4号報告書 赴任後18か月
  • 第5号報告書 赴任後24か月

第1号は配属先の情報やニーズなど、これから必要となる基本情報の整理がメインで、その後は実際の活動報告や社会格差に対する所見、受け入れ国の人々の変化について等、どんどん内容が深まっていきます。

 

第1号報告書の提出は赴任後3か月といっても、最初の1か月は語学訓練で首都に滞在しているため、実質本赴任してから2か月経過時点で報告書を書くことになります。

 

「新規」と「交替」

協力隊の受け入れ先の形態は「新規」「交替」の2種類があります。要請が出されて初めて協力隊を受け入れるのが「新規」、既に先輩隊員が活動していた配属先は「交替」。それぞれに、それぞれの、やりがいや苦労があるかと思いますが、私の場合は「新規」の案件なので、私が何をしに来た、どこの誰だか、ほぼ誰も知らないところからのスタートでした。

 

新規案件はとにかく何もかもが”真っ白”で、真っ白なキャンパスに色を塗っていくというよりは、キャンパスどこ?絵具どこ?というところからのスタートな気がします。一方、交替案件で活動されていた方のお話を聞いたときに、「”前任”という亡霊との闘いの日々だった」と仰っていたのが印象に残っているのですが、引継ぎ期間が現地で設けられていない中で前任者と比較されるのは確かに辛そうです。現地の人に残っているのは”2年住んだあとの前任者”の記憶、そして自分は”これから2年住む新任”、異文化理解や言語の習熟度に差があって当然なのですが、誰かとの比較というのはときに辛い障壁になってしまうこともありそうです。しかし、引継ぎがしっかりなされていれば、イチからPDCAを回すのではなく、今まで積み上げてこられたものに「+α」して活動していけるという利点もあります。

 

 

「新規」、好きやな

 

50人以上も居る大所帯の局で、実際同じ課に居て毎日顔を合わせるのはそのうち5人だけ。赴任した日は「え?!2年も居るの?!」と驚かれ、未だに他の課の人たちから「何しにきたの?」と言われることもあります。日本のようなホウレンソウ文化は無いので、私はひたすら、選挙カーのように挨拶と自己紹介をしながら局内を徘徊する日々。小腹がすいたら局内をうろついて、「キンソム」という、すっぱい果物やパパイヤサラダを食べるおやつ文化をコミュニケーションツールにしつつ、私のことを知ってもらったり、色々教えてもらったりしています。

 

市場のどの店の肉が新鮮かとか、野菜、果物、肉、それぞれどれぐらいの値段で買えるかとか、シンの仕立てはどこのテイラーさんが上手いとか、生活情報もキンソムの時間にだいたい仕入れることができます。そしていつも少し払おうとしたら「いいのいいの!」と受け取ってもらえず、ご相伴にあずかる日々。

 

ODOPの事、県のこと、少しずつ分かってきたようなそうでないような、その中で未だに答えが出せず迷っているのは、時間という有限なリソースをどこまで「調査」に使うかということ。自分が着手しやすく、近くに生産者さんが居るという事を考えると、近隣の手工芸の生産グループと一緒に活動していくのが手っ取り早いのですが、60品目あるODOP商品の全てに手をかけることは無理でも、一度は生産者さんのところに足を運んで、「機会」を作りたい。特に、ポンホーン以北の山間部は政府により貧困地域に指定されている場所も多いので、いろんな声を聴いて、自分の活動に意味を持たせていきたい。という思いもあり。

 

じゃあ、生産者さんを訪ねて、何を聞く?ただ行くだけではもちろんダメで、後で見返せるような形に残していきたいんだけれども、どんなデータを蓄積したらこの後の活動の有益な財産となる?後任に引き継ぎやすくなる??と考えだしたら沼にはまってしまい、ひたすら石橋を叩いて叩いて、叩きまくって、橋の手前で立ち尽くしている、そんな状況です。こういうときにサクサクッとPDM/PCMが作れる人間に、次回はなりたい。

 

 

ただ、私は新規案件でこの地に来て、未だに砂漠の真ん中にぽつんと立ってるような気持ちで居ますが(笑)、コンパスになりうるものはいくつかあるのに使い方が分からず、どっちが北か分からないような状態だということも自覚しています。とりあえず動いてみたらいいのに、こういうときだけやけにビビる。時間はないし、既にカウントダウンは始まってるんだから、同期、先輩、他県・他国での実績、今市場に出回っている商品、色んな方向にアンテナ立てまくって、全力で駆け抜けねば。

 

と、大きいことを言いすぎると、活動が行き詰ったときに自分の首を絞めまくるので、このへんにしよう(笑 

 

 

活動報告書、2号以降は日本語だけではないらしい

日本語+英語もしくは現地語で同じものを書いて活動先の人たちと情報共有をしていくこととなります。しかし、ラオ語はシステムに登録する際に文字化けが起きてしまうらしく、英語での提出が必要です。つまり、現地の人が英語苦手だったら、3言語・・・??と思って震えていますが、どうなんでしょうか。

 

無理やりラオ語ねじ込んだら英語もクメール語もはるか彼方に飛んでいってしまったので、余裕を持って、明後日ぐらいから報告書の作成に取り掛かる予定です・・・。嘘です。(笑) 

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ラオ子の旧正月休み。

さばいでぃー!

皆さんこんにちは、ラオスのラオ子です。旧正月シリーズ最終回です。

 

 

職場での正月祭が終わり、キンビアに恐れおののいた私は、しっぽ巻いて逃げるように首都へと移動しました。4月13日ー17日が正月休み、18日、19日と出勤して、また20、21日が休みのため、18日、19日は事務所がほぼほぼからっぽ。オカンたちとのキンソム(おやつタイム)も無く、事務所にぽつんと一人で活動報告書を作成。寂しいなあ。

 

13日 上京 

 

私の任地から首都までは、順調にいったら1時間半ほど。そこからドミトリーまでの30分の徒歩移動、この時期にバックパック背負ってやると暑くて火が出そうになります。よって朝いちばんの移動に限ります。乗り合いバンは家から1.5kmほど先のバン乗り場から出ていて朝6時ごろから人が集まり次第発車するので、陽がのぼったら、涼しいうちに出発!

 

橋で黄昏る笑顔が素敵なにーちゃんと、どこ行くの?ピーマイ何するの?とお互いに話をしていたら、ショルダーバッグがゴソゴソゴソッと急に動き出してびっくり。よく見たら鶏さんが首と足だけ出してます。なんだこれ、めちゃめちゃ可愛いやないか!この後友達の村に持って行って、みんなで食べるそうです。なまんだぶ。

 

 

 

午前中にドミトリーに到着し、先輩隊員と朝ごはん。いつもラオ人がたくさん居て気になっていたお店に行ってきました。ホームアイディールというスーパーの目の前のお店です。

 

 

 

カオプン(ラオス風混ぜ麺)と、揚げ春巻き。どちらも美味です。カオプンは甘酸っぱいタレが一緒に入っていて、麺をほぐしながら食べるのですが、砕いたピーナッツの香ばしさとタレの甘さと、なんともいえないバランスでとても美味しいです。揚げ春巻きは、野菜や春巻きの皮に包んでいただきます。こちらも揚げたてカリカリでたまらん!!

 

 

 

そのあと合流した同期と、早めの夕飯でずっと気になっていたインド料理屋さんへ。店の前では子どもたちが旧正月の予行演習中。水鉄砲、ホース、水風船、あらゆるものを使って水遊び中。

 

 

 

尻が出るほど夢中です。

 

 

 

田舎で食べるのが難しい「大きい鶏肉」が食べたくて、タンドリーチキンとチキンカレーを注文。これにソーダウォーターをつけて二人でシェアして、合計750円以下です。なんなん?神なん?

 

 

 

トリップアドバイザーなどでも上位にあがってくるお店で、なおかつローカル価格で食べられるとのことでずっとずっと行きたかったんです。正月前の水かけ祭に向けて、自分の村でなかなかとれないタンパク質とやらをしっかり補給せねば。

 

タンドリーチキンは辛さがほどよく、 結構な量でしたがぺろりとたいらげました。

 

 

 

カレーもシンプルで美味しくて。最高でした。お店のおじさんもめちゃめちゃ感じが良いので、リピ決定ですねこれは。何人かで来てシェアしたら割安でいろいろ食べれそう。また来ようぜ~~~!

 

Jamil Zahid Indian and Pakistani Food

 

その後メコン川沿いをぶらぶらしていると、

 

 

 

見るからにパリピ仕様な正月特設ステージが設営されていました。

 

14日 出陣

 

お気に入りのパン屋さんが正月休みで閉まっていたので、別のお店へ。クロワッサンにうるさい私たちの求めているものではありませんでした・・・。無念。

 

 

 

そのあと周辺をぶらぶらして、お昼ご飯。やっぱりタンパク質が食べたい私は、コリアンレストランでプルコギとギンパを注文。

 

 

韓国料理の良いところは、ナムルがたくさん出てくるところですね!久々に食べたキムチ、美味しい。白米との組み合わせ、ヤバい。

 

 

 

そして大晦日のパーティー会場へ!ただのテントと思うなかれ、骨組みはスプリンクラーになっていて、心地良い霧雨のような・・・ではなく、大粒の雨のようなぬるめの水が、ばたばた、ばたばたと落ちてくる仕様です(しかも突然降ってくる)。

 

 

 

メコン川の河原におりてみると、普段はただの砂地になっている場所にこんな立派なステージが。ステージ両脇には先ほどと同じような骨組みがあり、先ほどと同じようにばたばたと大粒の水が落ちてきます。

 

 

 

ちょっとわかりにくいかもしれませんが、写真右手の白い線、放水車から本気の放水中(笑)かわるがわる色んなアーティストがステージに立ち、爆音に揺られながら冷たいビールを飲んで、水を浴び、ときに水鉄砲での銃撃戦になり。夏フェス大好きっ子には大変心地いい時間でした。

 

 

 

そして昨日の朝行ったのと同じお店で、また揚げ春巻きタイム。おやつにちょうど良いんですよね。肉団子のようなものも頼みました。これも美味しい!

 

 

腹ごしらえが済んだら、街に繰り出してひたすら銃撃戦。私は水鉄砲を持っていたのですぐ標的にされました。ミニオンの水タンクを背中に背負って、ホースの先の水鉄砲で撃ちまくれるタイプのなかなか合理的な水鉄砲。500円ぐらいで買ったのですが、あれだけ楽しめれば良い買い物です。

 

アッパーで氷水を顔面にいただき、背中からも氷水を流し込まれ、両頬にベビーパウダーと口紅をぬりたくられる。もう、絵に描いたようなやりたい放題です。

 

 

 

そして夜はカノム(お菓子全般をさします)食べ比べ、プラスチック容器の蓋がわに乗った2つはフライドガーリックが入っていて「お菓子」というカテゴリーに含めてよいのか議論が必要ですが、基本的にカオニャオ(餅米)は間違いなく美味しいという結論に至りました。

 

15日 元旦

 

ラオスは今が1年で一番暑い時期。昨日はかんかん照りの日差しの中あちこち歩き回ったせいで、朝は私も同期もぐっすり。夏フェス翌日のような体の重さをほんの少し感じつつ、昼前までぐだぐだしました。

そしてお腹が空いたとの単純な理由でようやく昼前に動き出し、28000KIP(360円)」でランチが食べられるコスパ最強レストランへ。

 

 

ワットインペンというお寺の裏にある「ヴァンドーム」というお店ですが、28000KIPでスープと1プレートのランチがいただけます。内容は日替わりで、入り口の看板にフランス語で書かれています。もちろんフランス語は分かりませんのでお店の人に聞きますが、このお店の人は前回来た時同様親切でにこやかな印象。店内に可愛いにゃんこが居るのもポイント高いです。

 

 

前回はモロヘイヤのスープとパスタ、そしてめっちゃ大きいチキンフライ。今回はかぼちゃスープとパスタ、チキンソテーでした。ちょっとばかし味濃いめですが、このめちゃめちゃ暑い時期には丁度良く感じられます。

 

 

 

そしてこの日もメコン川沿いの会場へ!元旦ということもあり昨日よりすごい人、すごい盛り上がり。しばらくここに居たら「タマフン(ラオスのパパイヤサラダ)」が食べたくなり、近くの美味しいラオ料理レストランへ。いつも「キンソム(おやつ)」でタマフンが出てくるときは「ほかにレパートリーないんかい」と思うのですが、無いと無いで口が寂しくなる。まだラオスに来て3か月目ですが、我々もしっかりラオスに染まり始めている模様。

 

 

 

そして私たちはお寺へ。配属先の別の課にお勤めのお姉さんが、親戚と一緒にお寺の前で聖水のようなものを売っていたのでしばらくお話して、そのお水も背中にざぶっとかけてもらって、お寺の中へ。いつもはがらんとしているお寺ですが、この日は老若男女問わずたくさんの参拝者が。日本で言うところの初詣でしょうか。

 

 

 

 

オレンジの袈裟、真っ青な祭壇、緑のスケルトンの仏像・・・仏教という大きなくくりは同じでも、日本のものとは色彩が全然違っていて、とても面白いです。

 

 

 

お寺の入り口にはお坊さんがたくさん居て、水をかけてくれました。門を通る人にぱしゃぱしゃと控えめにかけているのですが、私が手を合わせて頭を下げながら近づくと、首のあたりからバケツ1杯分ざばーーー!っと(笑) ありがとうございますとお礼を言って、また通りに出て銃撃戦。

 

 

 

夜はまたメコン川沿いをぶらぶら。移動遊園地が来ていて、よくある「めっちゃ速い観覧車」にちょっと惹かれましたが・・・

 

万一のことを考えて見るだけにしました。

 

16日 任地へ

 

 

街中のお店は休みのところが多く、食べたかったピザも食べられず、カオマンガイを食べて任地へと戻りました。

 

JICAのドミトリーからバスステーション、乗り合いバンの終着点から家までは、バックパックを背負っての徒歩移動。「かけないでよ、お願い、かけないでよ」という顔をしつつ、この日も水遊びに精を出す街の人たちと距離を置きながら歩きましたが、無事何度かかけられて都会で購入した物資も家についたころにはふにゃふにゃになっていました。ひどいや・・・。

 

バンでの移動中も、おかまいなくバンのフロントガラスに水をバチャッ!途中でバンを止めて、運転手にビール渡して。いつも爆音で歌ったり踊ったりのレストランの前は泡だらけになっているし。田舎のほうもなかなかの盛り上がりを見せていました。

 

私の正月休み終了

18日、19日はみんな出勤かと思いきや、その翌日からまた土日で休みになるので、遠方に実家がある人たちは皆連休をとって帰省している模様。遊びすぎて体調を崩したという人も何人か聞きましたが、とにかく局の中はほぼ空っぽでした(笑)

 

私は活動報告書の作成や過去の専門家の方の報告書を読む時間にあてさせてもらい、ゆっくり過ごしました。そしてまた、土曜日1日休んで、日曜日から木曜日まで上京です。3度目の二輪車研修と、第2回原爆展の参加のため、任地での活動をお休みしての首都滞在。また毎日外食か~~~まいったな~~~。限られた回数のご飯、どこで食べようか計画を練りたいと思います。

 

そんなわけで、任期中2回限定のラオスでの旧正月はビエンチャンで過ごしたわけですが、首都でのラオスの旧正月は、どんちゃん騒ぎが好きな人にはたまらないと思います!お酒飲むのが好きな人、水ぶっかけられるのが好きな人、ぜひ来年の旧正月期間はビエンチャンでお過ごしください💛

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ときに「異文化理解」という言葉は凶器となる?

さばいでぃー!

皆さんこんにちは、ラオスのラオ子です。

旧正月に向けてお仕事モードからゆるゆると正月モードに入ったラオスは、新年を迎えると同時にブチ上がり、都会も田舎も関係なくそこかしこが爆音&ダンス&水かけ祭の会場と化しました。そして三が日が開けると、しーん・・・として街全体がお休みモードになり、この週末が明けたらいつものラオスに戻り始める・・・のかな?という感じです。

 

いつもラオス最高ー!ラオス楽しいー!という話ばかりしているので、たまには趣向を変えて、今までで一番悩み、落ち込んだことを、色々やんわりぼかしながら書いていきたいと思います。

 

 

ラオ子は酒が飲めない

 

本題の前に。前提条件として、私は酒が飲めません。もともと弱い体質なのだと思います。飲んだらすぐに頭が痛くなり、眠気に襲われ、そこで寝てしまうと夜中にとつぜん吐き気に襲われます。寝なかったら、ひたすら笑うか泣くかを繰り返すらしく、人としての尊厳を失い、まわりに迷惑をかけます。飲み会も全く好きではありません、安い席はご飯美味しくないしうるさいし、そうでなくても煙草くさい。それで、安くても3000円、多いと5000円、ポンと飛んでしまう。3000円あったらスイーツセットのハシゴ行けるし、5000円あるならファイブスターのランチかデザートバイキングにでも行きたい。

あ、味が好きだから辛いと思うときもあります。友人や彼氏とベルギービールウィークエンドに行っても、私だけ貰ったコインのほとんどを割高なツマミに費やする。みんなは色んなビールを楽しんでいるのに、私は一口飲んで限界を迎えたところでビールをあげてひたすらフレンチフライを食べる。食べ終わった後物足りなくて、ほろ酔いの友人たちをステラおばさんのクッキー食べ放題の店に連行する。(理解のある友人たちで本当に助かる)

小さいころ、じいちゃんが石油ストーブで酒粕を焼いておやつがわりに食べていたのをつまんでたから酒粕の味は好きだけど、未だにちょっと食べたら顔が真っ赤になって目がちかちか。日本酒やワインの味は好きだし、料理に合わせたら美味しいのも分かっているけど、たくさんは飲めない。夏フェスで背伸びしてビール買ってみても、にわか雨が降ったらコップから薄くなったビールがコップのふちから溢れてくる。ワイナリーで試飲させてもらったら、その後ワインを買ったことを覚えていない。オールで飲んだ帰りにセブンで烏龍茶6リットル買って帰ったことも覚えていない。

 

1本、2本とビールをがぶがぶ飲める人が心底うらやましい。きっとラオスも、カンボジアと同じようにお酒飲め飲め文化なんだろう。カンボジアでは逃げ続けていたけど、今回は最後のチャンスだと思って、その文化に揉まれて、私もお酒が飲めるようになって日本に帰ろう!!!

 

・・・って思っていたのですが、そもそも本当にそう思っているならカンボジアに2年住んだ時点で出来ているわけで。さっそくラオスでもその壁にぶち当たることになりました。

 

ちなみに、この写真のときも、ちびちび、ちびちびと飲んで、半分でギブアップ。でもこの時は「青春ごっこ」の名のもとにメコン川の向こうのタイの灯りを肴に訓練生活を語ることが目的だったので、雰囲気が味わえればそれでよいのです・・・。

 

ラオスの「キンビア」って何

「キン(食べる)ビア(ビール)」でキンビア、つまりビールを飲むこと、飲み会、のこと。

 

ラオスのキンビアは、本当にすさまじい。

 

始まったが最後、というか、終わらない。いつになったら終わるんだろう??と聞きたくなるぐらい、終わらないんです。それはもう、田舎も都会も関係ありません。何かのセレモニーの後、黄色いケースがドンと積まれたかと思うと、中のビール瓶が次々空になっていく。いつ休んでるの?と言いたくなるぐらい、飲み続ける。爆音で音楽を鳴らし、会話にならない会話をしながら、ひたすら飲み続ける。

 

ピーマイ(旧正月)などの行事になるとそれがエスカレートし、夕方になると「え、これ、何人で空けたんですか・・・?」と聞きたくなる量のビール瓶が転がっている。それでもペースが落ちない。

 

そしてだいたいのキンビアで、盛り上がるにつれて「イッキ」コールが始まり、激化していきます。・・・・悪夢が、始まって、しまうのです。

 

おもてなし文化の温かさの裏側に

先に誤解の無いように言っておきますと、私はこの記事を通じて「ラオ人はアルハラだ!」とか、「ラオ人との飲み会には気を付けろ!」とか、そういう事が言いたいわけではありません。(いや、実際、私のように体質的に飲めない人は本当に気を付けたほうがいいかもしれませんが・・笑)

ラオ人にはラオ人の楽しみ方があります。キンビアして、ラオミュージック&タイミュージックをかけて皆で踊って、辛い物、美味しい物いっぱい食べて、いっぱい話していっぱい笑って。すごく楽しそうなのです。シラフの私には入れない話のループができあがって、途中からずっと同じ話をして笑ってます。たぶんこのあたりは日本でも同じです。

 

そしてもちろん、ありがたいことに、同席する私にもお酒が振舞われます。ラオスの温かいおもてなし文化。「これは今朝うちで採れた野菜で作ったのよ!美味しいからいっぱい食べて!」「これは〇〇出身の私の義母が作ったの!食べてみて!!」と、お母さんたちは、おかずや、焼き立て・揚げたてのお肉や魚をたくさんすすめてくれます。どれも美味しい。「日本人でも食べれる?」と聞かれ「美味しいよ!」と答えると、「もっと食べてくれていいからね!!」と笑顔で返してくれます。これがまた本当に美味しい。最近は、ローカルレストランには並ばない「家庭の味」というものに魅力を感じています。だから、こういう場所に混ぜてもらえると、色々食べられて嬉しい。この暑さの中、ちょっとだけ飲むビアラオも、美味しいです。ビアラオは今まで飲んだビールの中で一番飲みやすい。苦くないし、つんとしないし。氷たくさん入れてキンキンに冷やした薄いビアラオでいいんです。ちびちび、ちびちび飲みたい。

 

しかし、「イッキ」が始まると、そういったものを楽しむ余裕がなくなります。

 

「ラオ子!イッキ!」

「ごめん、飲めないの。お酒弱いし、体調悪くて。」

「なんで!イッキ!」

「いやいや、ほんとに飲めないから。ごめん、ほんとに飲めないの。」

「じゃあ、半分!」

「いや、ほんとに無理だって。体調悪いんだって。」

「なんで!半分!半分!」

「できない、できない。ごめんね。」

「じゃあコップの柄のとこまで!第一関節分!!」

 

ずっとこのループが続きます。一人が何度も来ます。そして酔っ払いは大勢居ます。みんなと順番にこのやりとりをすることになり、2巡目がまわってきて、3巡目、4巡目・・・。断るのが苦手な日本人。私もできれば、断りたくありません。でも、飲めないものは、飲めない。体が受け付けないと言っている。1杯飲んで済むものではないのも、分かっている。「ちょっとだけ」が通用しないのも、もう、わかっている。(来てすぐに潰れるまで飲んでます・・・。氷入りで、コップ3杯。)

 

コップにしばらく口を付けて、飲まずにテーブルの上に置いても、横目でそれを見ていて、また「飲んでない!イッキ!」が始まります。 

 

そしてエスカレートしていくと、肩を組んでの飲ませ合いや、口にビンやコップをつっこんで無理やり飲ませるなんて光景も。本当に、すごい。それでも楽しく飲み続けるラオ人のキンビア、すさまじい。「ちょっとだけ」がききません。こちらがコップ一杯でやめたいと思っても関係なし。うまく断る術もなければ、強く断るメンタルも無い私は、まったく飲まずに場をシラけさせることに耐えるか、言われるがままに飲み続けるかの2択です。

 

私にとどめを刺した一言

活動先から帰る途中、レストランで顔見知りに来い来いと手を引かれて座ったキンビアの席。最初はわいわいやっていたのですが、どんどん「飲め飲め」が激しくなり、威圧的に、怒鳴るように言われても、コップを口に無理やりつけられても、水を飲んでいたコップの中身を捨てられてビールを注がれても、私はかたくなに断り続けました。ずっと飲んでいる薬との相性が良くないので、飲まないように日本の医者から言われている、だからお酒は殆ど飲んだことが無いし、弱いし、翌日の活動に響くから、とも言いました。

 

そして言われた、辛~~~~い一言。

 

「ラオスに住んでおきながら、ラオスの文化を理解しようともしないのか。」

 

「ラオ子が酒を飲まないから私たちは全然楽しくない」 

 

この言葉に、それまで頑なに断り続けたことや、自分が飲めないことでみんなの雰囲気をつまらなくしていないかと葛藤したこと、それを案じて1度無理やり飲んでみたけどすぐダメになったこと、翌日活動先でも気分悪くて1日ポンコツになったこと、それでも「もっと飲んだら強くなるから!」と言われて「飲めない体質だとは誰も理解してくれないんだな・・・」とストレスになっていた事などが、自分の中で溢れ返ってきました。溜めに溜めていた心のダムが決壊してしまったような気持ちになり、そして何も言えなくなり、黙り続けました。その後私は、皆が違う事に気をとられているうちに、すぅぅぅーーーーっっっっっ・・・とフェードアウトするように帰ったのでした。

 

― きっとあの人は私に言った事なんて覚えていないだろう。覚えていても、悪気もなかったかもしれない。いや、いっそ、いやがらせしようとして言ってもらったほうが、もう近づかなくていいからマシだ。でも、どっちにしても、どこの国の人とか関係なく、こんなこと言われたら辛い。

 

―でも今まで蓄積されていたものが今ちょっとダメになっただけで、全部あの人が悪いわけではない。失礼だし謝ったほうがいいのかな。 せっかく混ぜてくれたのに申し訳なかったな。とはいってもあの「飲め」の言い方は怖かったし、戻りたくはないな。

 

帰る途中、色んな気持ちが頭の中をかけめぐります。

 

ー なんで私はお酒が飲めないんだろう。それがそもそもいけないのか。私がお酒飲めたらこんな気持ちにならなかったのか。じゃあ飲んでやろう。飲めるようになるまで毎晩飲んでやろう。ドチクショー!

 

悔しさをどうにかする方法が分からなくなった私は、「じゃあ飲めるようになったるわ!!ヤケクソや!!」という、いたって短絡的な思考のもと、アルコール度数4.5%のアップルサイダーを買い、半べそかきながら家に帰ったのでした。

 

「異文化体験」は選べない?

ラオスに派遣が決まってから、ラオスを知らなかった私はたくさんの事を学ぼうとしました。ラオスの本を読んで、絶版しているものは図書館をはしごして探して。初めてラオ語を見たときは「なんだこれは、本当に文字なのか。」そう思いながら2か月半でラオ語の読み書きを覚え、皆に比べれば語彙も表現も少ないけれど現地に来てからも毎日勉強しました。同期隊員に比べたらまだまだ努力も語彙も足りないけれど、近づきたくて必死でした。

任地では毎日いろんな産地の巻きスカートを履いて働いて。日本では食べないものだって憶することなく食べたり飲んだり。そんな風に、私は、自分の中にある「ラオスを知りたい」という気持ちに正直に、文化に溶け込もうとしてきたつもりでした。

 

―でも目の前の人を不快な気持ちにしてしまった。溶け込もうとする姿勢があったら出来ないことがあっても相手にも理解してもらえるというのは私の勝手な思い込みだ。自分が興味あることだけを選択的に体験して分かった気になっていても、結局相手のコミュニティに溶け込む力がなかったら、理解してないのと同じことなのかも。

 

―そもそも私がカンボジアで2年楽しく過ごせたのは、他の日本人が社内外問わず築いてきた関係に便乗していたからで、そこには自分自身でいちから作った関係なんか無かったし、それを勘違いして驕っていた自分が恥ずかしい。

 

と、キンビアを断って言われた一言で色々考え始めたら、止まらなくなってしまって。

 

その後は、家や飲み会に誘ってもらっても、「ごめんね、体調が悪くて。」「今からテレビ電話で他の国の隊員と会議やから・・・。」と、せっかくのお誘いを受けても逃げるようになってしまいました。特に職場の人の場合、関係を崩したくないこともあり、断りまくるようになってしまいました。

 

そして、お正月目前になってもうまく整理できず、「うちでパーティーやるけど来る?」「家族で滝に遊びに行くけど一緒にどう?」「子どもたちが一緒に水遊びしたいって!」と、活動先のいろんな人が声を掛けてくれたにも関わらず、その先にキンビアがあるかと思うと怖くなり、家族の楽しい時間に水を差してしまうのではないかという気持ちも強まって、「ごめん、首都で隊員と遊ぶんだ!」と断っている自分が居ました。

 

水遊びしたかったな。お正月どんなご飯食べるのか気になるな。綺麗な滝も見に行きたかったな。雨ごいのロケット祭も、本当に、本当に行きたかった。でも、自分がやりたいと思ったことだけやるのは、アカンのかな。キンビアもできないと無理なんかな。首都行ってもやることないな、隊員誰か暇かな・・・。

 

自分から選んだ場所なのに、自分から人と関わることから遠ざかってる。日本では「ノミュニケーションなんて必要ない」と強く思っていたけど、こっちでは日本に居る以上に、「楽しい時間を一緒に過ごして親睦を深めるため」のツールとして必要なものかもしれない。

うまく躱す術も、アルコール耐性も身に付かず、ただただ相手の好意を無下にして自分のわがままを押し通そうとしている。こんなんじゃだめなのにな。どうしよう。どうしたらいいんやろう。

 

と、うじうじ、うじうじうじうじ、悩んだ結果、実際これで任地の家に籠って寝正月したらいよいよ本当に取り返しがつかないぐらい落ち込みそうだったので、何もプランを立てずにとりあえず上京する事に決めて、事務手続きをしたのでした。

 

そしてどうにもならないこの気持ちを誰かに聞いてほしくて、連絡を取ったり、インスタでみんなに意見を聞いてみたり、ここでやっと人に話を聞いてもらうという行動が取れたのでした。あの時悩んでいた私に温かい言葉をかけてくれたみんな、本当にありがとう・・・。

 

この件で学んだこと

キンビアに悩みはじめたのは3月初めの赴任後すぐですが、本当にダメになったのは4月に入ったぐらいのことでした。1か月半の自分の行動とキンビアとの関わり方を振り返って、いくつか気が付いたことがあります。

もちろん、分かってくれる人も居る

この件があった数日後の、職場の「ブンピーマイ(旧正月祭)」が私には苦痛で仕方ありませんでした。8歳の友達以外、全員敵だと思って臨む予定でした。(友達にも「どうしてラオ子はキンビアしないの?大人でしょ?」って言われたけど・・・。)

 

バーシーには行きたい。でも、みんなが1年で1番楽しいときに、自分がお酒を頑なに断ることで「楽しくない」と思わせたらどうしよう。でも飲めないし、飲み会は昼から夜までずっとだし、憂鬱だ・・・と思っていました。

 

しかし、バーシーの準備中にオカンたちと色々話をしているとき、自分が本当にお酒を飲めないと悩みを打ち明けると、「じゃあこの後のキンビアは私たちのテーブルに来なさい!」「水だけ飲んでればいいから!」と言ってくれて、実際その後の飲み会でオカンたちからお酒をすすめられることはありませんでした。もちろん、他の席から乾杯しにきた人たちにはすすめられましたが、この席の人たちは私が飲めなくても良いと思ってくれている、と逃げ場がひとつあるだけで、私の気持ちはずいぶん楽になりました。それに、手首を見たら皆からお願い事をしてもらったたくさんの糸。私の幸せを願ってくれる人が居ることを思い出してあったかい気持ちで乗り越えられました。

 

酔っ払いは万国共通

 

「ラオスのキンビア文化怖い・・・」と、あやうく一括りにしてしまうところでした。先週この内容を更新していたら、おそらくこの記事も「ラオスのキンビア文化なんて滅びろ!」というキャッチーなタイトルになっていたかと思います。

でも、よくよく考えたら日本人だって欧米人だって関係なく、酩酊した人とはまともに話は出来ません。日本だって、飲めなくても楽しめる席もあれば、そうでない場所もあり、年末年始なんて駅周辺吐しゃ物まみれで、その上に寝っ転がっている人も。そもそもお酒の強要をする人がいなければ「アルハラ」なんて言葉は生まれていないはず。

「酔っ払い」にまともに話して分かってもらおうとしていたのが間違いだったんだと思います。そして、飲めないなら飲めないで、(いろいろな機会や広がりを逃すことはあったとしても)飲み会自体断ったって活動に支障が出るわけではないので、飲まされること自体が苦痛なのに交流をはかりたいという使命感で積極的に飛び込んでいく場所ではなかったかなと。実際、子どもたちと遊んだり、おばあちゃんたちと話しているほうが、100倍楽しい。そして、国籍関係なく、べろべろに酔った人、酔って他人に迷惑をかける人が、本当に苦手です。(私もたくさん飲んだらもれなくそうなります。)

 

来月には必ずぶつかる課題だった

私は活動上、バイクの使用を許可されている隊員です。来週には3回目の教習と試験、来月にはタイカブが届きます。そうなると、今までのように配属先の人たちの送り迎えではなく、バイクでの活動が多くなります。

飲酒運転はもちろんできません。現地の人たちにはそれを言っても「関係ないよ」と言われるかもしれませんが、私は下戸だし、「公人」です。バイクを運転するなら酒は飲まない。法律が、JICAがそういっているなら、私はそれに従います。

よって酒は飲みません。コップを無理やり口につけられても、楽しくない・文化を理解する気が無い、と言われても、だめなものはだめ。無理なものは無理。そう強く言い続けるしかありません。バイクに乗っている時は、何を言われても公人としての義務を果たすべきです。

それに、酔ったらすぐ寝るか、楽しくなって記憶がどこかに行ってしまうような人間が、「外国人女性」として見られる場所で酩酊すること自体が、安全上よろしくなさすぎます。そう、私は、外国人なのです。そしてここは途上国。急性アルコール中毒になったり、酩酊して怪我したりしても、救急車を呼んでもらえるかわからないし、病院に行っても日本と同じような治療を受けられるとも限りません。自分の身は自分で守る。ひとりで任地に住んでいる隊員として大切な大前提を、あやうく忘れるところでした。

 

相談することは大切

キンビアのことを相談した他の国の隊員から「自分も同じ状況」と教えてもらって、私の気持ちはずいぶん軽くなりました。また、「お酒以外のラオス文化に博識となり、積極的に披露する」「任務で信頼を得る」といった、自分自身の努力が足りないこと、「ラオ子という人間を理解してもらうのは時間がかかる」という大先輩からの言葉に、背筋が伸びたのも事実でした。

言葉を覚えて自分の気持ちを一方的に伝えられるようになることと、本質的に分かってもらうのとは全く別のことで、それを考えずに「何で分かってくれないんだよ」とヤケのようになっていたことには、大反省会(キンビア無し)です。

 

見習いたい”共感力”の高さ

正直、「隣の国に2年居たし大丈夫~」って余裕ぶっこいていたので、彼の一言でここまで落ち込むとは当人も思っていませんでした。ですが、私がインスタで白旗を振ったとき、そこにコメントをしてくれた人も、直接連絡をくれた人も、どちらも私のなかに鉛のように溜まっていたものをすっと溶かしてくれました。私はそんな風に人の力になれているだろうかと考えると、足元にも及ばないなと。

青年海外協力隊という同じ括りの中で活動している人、数年、数十年かけてコミュニティの中に溶け込んだ人、色んな人が居て、いろんな方面から話を聞いてくれて、いろんなアドバイスをくれて。みんなきっと、多かれ少なかれ、活動自体にも、インフラにも、「お金ちょうだい問題」、「シノワ問題」などにも、国や地域によって違いはあるにせよ今まで感じたことのなかったストレスを抱えて活動しているわけで。自分で選んで飛び込んだ世界だとしても、どうにもならないぐらい辛くなるときは当然あると思います。そういう時に自分も「ラオ子~!話きいてくれ~!」って思ってもらえるような人になりたいです。

 

自分も無意識にやってしまっていないだろうか

カンボジア人、トルコ人、スコットランド人。今まで私の家に遊びに来た人たちです。そして、日本国内で「大人数の日本人の中に外国人が一人もしくは数人」というコミュニティにも居合わせたことも何度もあります。英会話カフェ、ゲストハウス、職場、などなど・・・。その中で、相手が出来ないことを「文化だから」と無理やりやらせていたことがもしあったら、と、考えました。こちらは楽しんでほしくて精いっぱいもてなしているつもりでも、相手からしたらやりたくない事で、文化だと言われるから無理に合わせていただけ、なんてことがあったら・・・、どっちも得しません。無意識に、悪意なくやってしまうことほど相手を傷つけることはない。自分もこれから気を付けようと思いました。

それから、「文化」という大きな概念を理解する前に、目の前に居る相手を理解する必要があるし、それは自分がマジョリティでもマイノリティでも関係ないのかもしれない、という事を、今まであまり考えたことがなかったなと。目の前で起きたことがその「文化」のすべてではないことが大前提、捉え方も表現も伝え方も何もかもが人それぞれで、自分が経験した事だけで100を理解した気持ちになるのは本当に危険。実際に同じラオスの他の隊員からは「そんなに強要する人も居るんだ」と驚かれましたし、「あるある。辛いよね。」という言葉をくれた人もいます。集団の中の一人であることに変わりは無いとしても、それがすべてに当てはまると考えてしまうことは避けたいです。

 

発信するという行為に対する責任

これはカンボジアから帰って小学校、高校、大学と色々なところで講演させてもらったときにも思ったことですが、自分が「これがラオスの文化」だと捉えて発信することで、ラオスの間違ったイメージを与えることにも繋がってしまう危険性があるんだということを忘れてはいけないなと。

特に、今私は「青年海外協力隊」として「ラオス」で活動している人間です。その「ラオ子」が、ブログやSNSで発信することで、国際協力に興味がある人の手助けになったり、ラオスに来たい人の情報源になれば嬉しいし、自分がどっぷり漬かっているラオスという異国の面白さ、すばらしさを伝えていけたらという思いで書いています。しかし、私という一人の人間のバイアスがかかることで、捻じ曲げて発信してしまうという危険性があることを十分に考えて発信していく必要があります。

 

「したい」と「させられる」

まとまらないまとめです。

その後の首都滞在で、同期隊員と一緒に、路地裏にテントをたててキンビアしていたおじさんたち(多分そこそこ偉い人)に混ぜてもらいました。ゆるーく踊ったり、写真とったり、「〇〇君(JOCVの先輩)を知っているよ!彼にはお世話になったから君たちがもし旅行に行くなら僕の車で連れてってあげるよ!」なんて嬉しいことを言ってもらったり。

それ以外にも、旧正月で同じく上京中の同期隊員たちから「昼から飲む」という未踏の飲み方を経験させてもらったり、夜ドミに戻ってからも寝る前にビン1本飲んでみたり。「ちょっと飲んでみる?」「大丈夫?」「無理してない?」と、練習に付き合ってくれて心配もしてくれて。

お互いの任地での生活や活動の話なんかをしながら、メコン川沿いでゆっくり飲むビアラオ、うめぇ。ちょっと飲んだら眠くなるけど、昼間のうだるような暑さの中飲むビアラオも、うめぇ。

 

結局のところ、私が今回ここまで拒絶反応を示したのは、

①「文化だからと断りにくい環境を作り、何度もイッキを強要される」という事自体に強いアレルギー反応を起こしキンビア自体受け付けなくなっている(7割)

②「ラオスを理解しようとしていない、楽しくない」と否定されたことに純粋にショックを受けた(2割)

③無理やりやれと言われたことをやりたくない意地(1割)

かなあ、と、首都滞在を終えて思ったのでした。

 

自分の習慣に無いものを強要されるというのは結構苦痛ですが、もし逆の立場でそうなった場合に拒絶反応を示してしまうというのは、きっとラオスの人も同じこと。活動の上で自分がそうしないように、自分が28年間でつくってきた「普通」は一旦捨てて、時間がかかるとしてもひとつひとつの事を丁寧に確認しながら活動していきたいと思いました。

 

ちなみに、ヤケ買いしたアルコール入りのアップルサイダー

 

 

キンキンに冷えてます。だって1本もよう飲まんもん・・・。

隣の醤油のほうがよっぽど美味しそうや。

 

余談。

自分の時間がたくさん持てて、読書や情報発信に時間をつくりやすい今の生活。せっかくなら読書と文章づくりの質をあげる練習をしてみようと、「東大読書」「東大作文」なる本を買ってみました。いつもはだいたい2000文字ぐらいで力尽きるのですが、1万文字ぐらいのボリュームで書いたらどれぐらいの内容になるんだろうというちょっとした好奇心で、旧正月最終日を使って、写真少な目・文多めの1万文字記事を書いてみました。結構文章書くのって体力が要るんですけれども、写真に頼ってばかりではいつまで経っても文章が書けるようにならないので、今後も不定期でやっていく予定です。大した内容ではありませんが、また次回もお付き合いください。

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任地にあるものでシリーズ。例のアレでキャラメル作ってみた。

さばいでぃー!

こんにちは、ラオスのラオ子です。

暑いです。36度。蒸し暑い。とにかく、蒸し暑いです。

 

真冬の二本松訓練所で風呂上りから就寝まで

半そで半ズボンだった暑がりには耐えがたい暑さです。

代謝の良さが裏目に出ています。

 

でも、甘いものがあるから!

どんな暑い日も、

甘いものを食べて美味しいコーヒー飲んで一息ついたら

なんとなくチャラになるんですよね。人間って不思議。

 

 

パンを焼いてもつけるものがなかったら味気ない。

市場に行って練乳を買ってきました。

ひとつ6000KIP、日本円にすると80円弱です。

このままパンにつけてもいいんですが、ちょっとひと手間。

 

 

煮ます!!!

このときまだ鍋を買っていなかったので、中華鍋で。

なんと効率の悪い。

 

本当はかぶるぐらいの水の中でぐらぐらさせるんですが、

取っ手の付け根と中華鍋に隙間があり

そこから水がちょろちょろと漏れることが分かったので浅めに。

気付かず揚げ物したらとんでもないことになるところでした。

 

 

 

2時間ほど煮込んだら、そのまま室温で完全に冷めるまで待ちます。

コンデンスミルクが熱で膨張しているまま開けてしまうと

激熱キャラメルが飛び出すので注意。

あつあつ餡掛け対決どころの話では済みません。

 

 

 

2時間茹でたものがこちら。

もう少し煮ればよかったのですが、あまりに暑くて火を止めちゃいました(笑)

 

キャラメルというより、ミルクジャム、に近いかも。

これはこれで、フルーツにかけたり、パンに塗ったり、

パンを作るときの乳脂肪分+砂糖がわりに使ったり、

いろいろ使い道があるのでこのまま大切にとっておくとして。

 

 

 

 

鍋を手に入れたあと、リベンジ!

かぶるぐらいの高さまで水を張れる鍋でしっかりぐらぐら茹でること3時間。

黄金色のキャラメルが出来上がりました~~~!

 

 

 

あと1時間ぐらいいってもよかったかもしれない。

次は4時間でやってみます。

普通の練乳に比べるとぷるんとしてて、

食べた感じもちょっと大人な感じ。

甘めの生キャラメルに近いです。

 

 

 

さっそく試食。

先日のシナモンロールを冷凍保存していたものが残っていたので、

できたてキャラメルソースをたっぷり塗っていただきました。

 

あーーーーーーーーーーーーーーーーーー

 

 

幸せ・・・。

 

シナモンロール作ったときに、発酵時間が短かったので、

もっとパサパサになるかなあと思っていたのですが、

すぐ冷凍したからかふわふわのまま。

フライパンで温めたら外かり中ふわで最高でした。

 

キャラメルは、重めのドリップコーヒーに溶いたら、

カフェに行かなくても牛乳が手に入らなくても

キャラメルマキアート風のコーヒーが楽しめます。

これもたまらなく美味しい。

1缶6000KIPで手に入る幸せ。最高だ~。

 

踏んだり蹴ったり日曜日

 

そんな幸せな朝を過ごしたあとの話。

 

朝から暑かったので、ここぞとばかりに洗濯。

これでそろそろ引越しの大掃除も落ち着くと思ったら

最終日にメインディッシュを見つけてしまいました。

洗濯機のフィルターにかちかちにこびりついたヘドロを

2時間洗い続け、汚すぎて何も考えられなくなった結果、

たらいの水をそのまま洗面台に流してしまい

見事にヘドロが詰まって全く流れなくなり。

近所の商店にトイレのキュッポンを買いに行って

洗面台を無心でキュッポンし続け。

洗濯機をクリーニングモードで洗って。

朝洗って一度干した洗濯物と、

洗ってベッドにセットし直したラブリーなシーツ一式を

全部洗い直し、今に至ります。

要らない手間を自分で増やして、ほんと間抜け(笑)

 

その後一息ついていたら同期隊員から連絡が。

出張でうちから15キロほど北の街に来ているみたいなのですが

足がないため会いにいくこともできず。

そろそろ夕飯と思ったけど、色々触った手で料理する気にもならず。

日曜日だから店もやってないし。

 

 

 

どっと疲れた休日の夕飯は、

アボカドをぱかっと半分に割ったもののみでした(笑)

 

連休最終日にして、ちょっと心が折れた。

そんな日曜日でした。

 

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今日のラオ子ベーカリー。米粉のふわふわスフレパンケーキ

さばいでぃー!

今日は土曜日ですので産業商業局はお休み。

 

涼しいうちに、大家さんにおすそわけするパンを仕込もうかな~

何にしようかな~と、

ラブリーなベッドでぐだぐだ考えていたら、大家さんから電話。

 

「直ってない自転車持ってポンホーン郡いくから!取りにいくよ!」

「えっ、今から?」

「30分後!!」

 

えっ!!(笑)

 

「私も行っていい?」

「いいよ!じゃあ30分後ね!」

 

 

車の荷台に私の自転車を積み込んで、

札束で遊ぶ可愛いお孫さん、ノッちゃんと共に出発。

 

 

 

買ったときに気が付けなかった私のミスなのですが、

ペダルの根っこ部分に片方だけ何もついてなくて

漕ぐたびにペダルの軸がガタガタと揺れる謎仕様・・・。

もう片方にはちゃんとパッキンみたいなのはまってるのに。

 

お父さん、そこバイク屋だし、同じ規格の部品なんて手に入らないだろうし、

いったいどうするの??

 

絶縁テープぐるぐる巻きぐらいしか思いつかない私。

 

 

サイズも測らず奥の方に消えてったバイク修理屋のおっちゃん。

どこから持ってきたかよくわからない

切り口ジャミジャミの謎の輪っかを、

ガンガンガン!!!ぐりぐりぐりぐりぐりぐり!!

とはめ込んで、「はい!直った!!」

 

いやいや結局ペダルの根っこ部分むき出しやし、

嘘やろ~と思って試しに乗ってみたら、

さっきまでの不快なガタつきが無くなっておりました。

どゆこと???

ついでにハンドルのゆがみも見てもらって、帰宅。

大家さん、ありがと~!

 

そして我、ご機嫌で夕飯を作る

お昼ご飯に近所のカオピヤックを食べたのですが、

え?!どうした?!?!って言いたくなるほど味が濃くて。

いつも美味しいのに、なんで?!?!って思うほど濃くて。

食べたら分かる、塩分過多。

唇がひりひりするぐらいの塩辛さ。

 

だったので。

 

その足で市場にお買い物に出かけ、

いろいろ調達してさっそく調理開始。

 

荷物の重量制限があるから最後の最後まで持ってくるか悩みましたが、

最低限の調理器具はやはり持ってきて正解でした!!

はかり、計量カップ、軽量スプーン、泡だて器、スパチュラ、

ドレッジ、シルパッド。

こんだけあったら、作れるものの幅が広がる~!

 

 

 

卵黄 3個分
ミルクジャム 30g

(なければ、砂糖10g 牛乳20gとか、練乳とかで適当に代用)

 

を混ぜ混ぜ。

 

 

米粉 40g

を入れてさらに混ぜ混ぜ。

 

小麦粉しかなかったら30gぐらいでいいかも。

強力粉だともちもち、薄力粉だとしゅわしゅわになります。

 

小麦粉は値段もカロリーも高いので米粉で作ってます。

もち米の粉ではなく、普通の米粉。

 

 

卵白3個分

を、油分・水分の無い清潔なボウルに入れてほぐします。

 

卵黄の世話をしている間、ボウルごと冷蔵庫に放り込んでおくと

泡立ちがよくなります。

 

 

 

塩、ひとつまみ

を入れてメレンゲを作ります。ひたすら混ぜ混ぜ。

しっかり角が立つまで混ぜたら、

大きく全体をゆっくり混ぜて泡のきめを整えます。

泡立てすぎると分離するので注意。

 

 

 

卵白1/3を卵黄のほうに入れて、生地をゆるくします。

底のほうからしっかり混ぜてあげましょう。

 

 

 

それを卵白のほうに静かに流し入れて、

底の方からすくい上げるように、泡を消さないように、

手早く混ぜます。

 

 

 

油をなじませたフライパンに流し入れて、蓋をして

ごく弱火でじっくり火を入れます。

お腹に自信がある人は、このまま半分にぺたんと折ってスフレ風に。

 

私は念のため、裏返して両面しっかり火を通しました。

(卵黄と卵白を分けるときに、卵の殻を使ってしまったので・・・笑)

 

できました。

 

 

もらいものの採れたて完熟マンゴーと

ミルクジャムを添えて!

(パン切り包丁が無いから断面がざくざくだ~)

 

 

 

きめ細かいしゅわしゅわのスフレパンケーキになりました!

米粉を使っているので食べた感じも軽くて、

1枚ぺろっと頂いてしまいました。

米粉使ったら何でも0キロカロリー!!

 

コーヒーを一緒に楽しみたかったのに、

作る前に2杯分飲んでしまったために手がガタガタ震えて断念。

次はちゃんとするぞ!!(?)

 

これなら大家さん喜んでくれるかな~。

明日は朝からパンケーキマシンのごとく焼きまくる予定です。

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ついに引越し!コンセプト不明の大きなお家に引っ越しました。

さばいでぃー!

 

みなさんこんんちは。ラオスのラオ子です。

ついに1か月過ごしたゲストハウスとお別れし、

約2年間お世話になる家に引っ越してきました。

 

やっと定住や。

9月後半からここまで、

荷物作って、広げて、しばらく住んではまた荷物まとめて、

という事を延々繰り返してきました。

 

9月21日~25日 技術補完研修/東京

9月26日~10月2日 旅行/長崎、関東、あちこち

10月3日~12月12日 二輪研修&派遣前訓練/関東、福島

12月13日~1月28日 実家/滋賀、大阪、あちこち

1月29日~3月3日 現地語学訓練/ビエンチャン特別市

3月4日~4月4日 任地のゲストハウス/ビエンカム郡

 

あっちへこっちへ、いったりきたり、

「定住」という言葉から遠ざかりつつあった半年間でしたが、

これから1年10か月お世話になる(あくまで予定)家に

ようやく引っ越すことができました~~~!

もう引っ越さないぞ~~~~!!!(あくまで予定)

 

ラオスのインフラ事情

カンボジアのシェムリアップに住んでいたとき、

「インターネットあるの?」「電気・水道あるの?」

とよく聞かれましたが、全部あります!(ただし都市部に限る)

ここ10年以内に石炭火力や水力による発電所ができ、

消費電力は増加傾向にあるもののその増加分は輸入に頼らず

賄えている模様。

停電断水は首都田舎関係なくありますが、

インターネットがさくさく使えてどこもWi-Fi天国なので、

長期停電・断水したときはジェネレーター(自家発電)がある

ホテルを探して心のオアシスにしつつ

そこまでストレスをためずに生活できました。(ただし都市部に限る)

 

ラオスの生活は、今のところとても快適。

シェムリアップより停電・断水の頻度も少ない気がします。

・・・今のところ。ね。

 

首都で2泊3日のホームステイをしたときは

計画停電で半日停電、断水も1日数時間ありましたが、

任地のゲストハウスでは雷で停電してもすぐに戻るし

断水もここ1か月で1度だけでした。とても平和!!

新しい家もそうであることを願うばかりです。

 

協力隊ってどんな家に住むの???

「協力隊」というと、

赤土でガッタガタの道を進んだところにある大草原のど真ん中に

打ちっぱなしの箱みたいな家を借りて

井戸水のみのサバイバル生活・・・

というイメージを持たれることが非常に多かったです。 

 

実際、私も自分が途上国に住むまでは

そういうイメージを持っていました。

 

そして、実際、イメージそのまんまの場所に住んでいる

同期隊員も居ます。

 

 

 

家や風呂場の写真が送られてきたとき

「古墳やんwwwwwww」と

思いっきり草生やしてしまったことは

仲たがいが起きるまえに謝ったほうが良いでしょうか??

ごめんなさい。本当にごめんなさい。

これからもスパイシーなアフリカ情報待ってます。

 

さて、各国のJICAによって順序は様々ですが、

ラオスの場合は任地に派遣されたら一旦ゲストハウスに入り

活動をしながら家を探します。

私の場合は課長が候補をいくつか見つけてくれていたので、

その数件を内見させてもらって決めました。

住みたい家が見つかったら、諸々の手続きをして、

安全確認が取れたらその家に引っ越すことができます。

塀の高さや種類、鍵の数、窓の鉄格子の有無、立地など、

かなり細かく規定されていて、

それをクリアしていないと住むことはできません。

ここまで大げさにやらなくてもいいのでは??と思うのは

きっと私がラオスの隊員だからです。

首都では最近ひったくりが多発しているようですが、

凶悪な犯罪や強盗といった被害はあまり聞きません。

バイク隊員の私からすれば

交通事故発生率が日本の6倍という事実のほうがよっぽど怖い。

とはいえ、どこの国に居ても同じことですが

いつなんどき何があるかは分からないので、

就寝前は施錠を2周確認しました。

 

支給される家賃は国によって異なり、その国の中でも地方によって様々。

首都はもちろんですが、外国人が多く住んでいる地方都市や観光都市は、

その他の地域に比べて高めの設定になります。

私のところはもちろんどれにも該当しないので一番低い家賃設定。

それでも、細かく定められたセキュリティの条件を

クリアできる家となると、結構、ご立派。

 

我が家をご紹介します。

さてさて、ここからは、私が住んでいる家の内部です。

 

 

 

まず玄関入ってすぐ広がるこの景色。

え、何?舞踏会?

と言いたくなるような広さ。とにかく、だだっ広い。

何する?サークルモッシュ?ズンバ?体力テスト??

 

 

 

右奥に写っているリビングの壁面は1面ぜんぶ収納。

ただし、全部中身丸見えの。

一番目立つ、というか、テレビを置く場所を

菊松君入れにしました。

 

そして内見のときにあった「最後の晩餐」が出来そうな

拭くのも嫌になるぐらいの大きな机は

「こんなんあっても邪魔やろ」という至極真っ当な理由により

撤去されていました。

  

 

 

そのかわりと言ってはなんですが、すっからかんだった空き部屋は

「応接室か」とつっこみたくなるような部屋に様変わり。

 

どこ拭いても黄色くなるしべとべとしてるし、

ガラスも全部曇っているから

きっと今まで住んでいたどなたかは喫煙者だったのでしょう・・・。

もう掃除が大変。セスキシートが一瞬でなくなりました。

倍ぐらい買っておけばよかった。

 

まだまだ掃除終わりません、キッチン。

 

 

キッチンにもこんな立派な机が。あざす。

キッチン全体、とにかくデカい。何する?炊き出し?エアロビ?

西日があたる方向なので夕方は暑すぎてテンキンボダイ(料理できひん)

 

 

 

もともと別の国のボランティア関係の方が住んでいた家なので、

最初から冷蔵庫、電子レンジつきです。ありがたい。

大家さんが1升炊きの炊飯器もくれました。本当にありがたい!

 

ただしこの写真に写ってない壁一面の棚は悲惨で、

ザルやボウルと一緒にトイレのキュッポンとブラシが入っていたので

そっ閉じしました。たぶん2度と開けません。

 

 

 

前の住人が出てからしばらく経っていたようですが

冷蔵庫はずっと稼働したままになっていて、

庫内はこぼれた色々&ニオイ&カビでものすごいことに。

プラグ抜いて開けっ放しにして外せるものは全部外して洗い、

薄めた中性洗剤でごしごししてから水拭き→セスキ、

パッキンはアルコール消毒・・・とフルコースでお掃除。

これだけで半日終わってしまいました。

今は臭いが取れそうなコーヒーの豆かすやライムの皮を入れて

更に脱臭を試みているところです。

まだまだ時間がかかりそう。

 

1回冷蔵庫をからっからに乾燥させてカビとさよならしたいので

しばらくはこのまま冷蔵庫無し生活続行です。

 

寝室の破壊力。

 

 

そして寝室は、2部屋ございます。

うち一部屋はバスルームつき。

シャワーは冷水のみです。でも夕方に水を出すと結構熱い!

自然のエネルギーで温かいシャワーにするなんて素敵!

 

ちなみにFB・インスタグラムではすでにお披露目済みですが、

大家さんのベッドカバーのチョイスがとんでもなくイケてます。

 

 

表側も地獄。

 

 

 

裏側はもっと地獄。

 

 

 

心が温かくなりすぎて泣きそうになるほど

ピースフルかつハートフル。

大家さんのチョイスが流石すぎて言葉になりません。

 

 

 

あー悔しい・・・ちょっと笑ってもた・・・。

笑ったあとイラっとした・・・。

 

 

もう一部屋がこちら。

お客様用です。いつでも遊びにきてください。

 

 

 

サンタさんと雪だるまが、

 

 

 

全力であなたをお迎えいたします!!!!!!!!!!!!!!!!

 

もうほんと、SNSにあげたらあっちでもこっちでも草生やされて

嬉し悔しい限りなんですが、

アラサー女子として言わせてもらいますけど、

私だって選べるならアマンサラみたいな

大人カジュアルかつシックなベッドシーツがよかったわ!!

まあ、アマン行ったことないけどな!!!!!!!!!!!!!

 

バスルーム

 

 

取り乱しました。すいません。

こちらお風呂兼トイレ兼洗濯機です。

シャワーはなぜか2つついてて、

ひとつは水道水がそのまま、もう一つは温シャワーが出ます。

温シャワーは一度止めるとヒューズを入れ直さないといけない仕組みで

ON/OFFするたび火花が飛び散ってとても楽しいし

温度調節がよくわからなくてめちゃめちゃ熱いので、

大きい桶に溜めてちょっと冷ましてから使っています。

 

ちなみに洗濯機から出てる排水ホースは根本から千切れていて、

そのまま洗濯機の裏から排水じゃじゃ流し。

トイレまわりの床をきれいに掃除して

とびっきりの良い香りを漂わせながら

排水溝へと流れてくれます!こーぷちゃいらいらい!!

(洗濯したあとトイレまわりがつるつるで本当に危ない。)

 

もう終わりにしよう。

 

 

ということで、私の家の紹介でした。

お気に入りのリビングは、夜はこんな感じで、

軽めの化け物ぐらいなら召喚できそうな

不思議空間へと様変わり。

 

隣は笑福亭笑瓶似の大家さん宅、

裏も笑福亭笑瓶似の大家さん家族宅、

道を挟んだ斜め前の商店も

笑福亭笑瓶似の大家さんのお子さんの店なので、

とってもセキュア。ありがとう。

 

家はツッコミどころ満載で面白おかしく書きましたが、

大家さんも奥さんも、とてもよくしてくださっています。

これからもお世話になります!よろしくお願いいたします。

 

掃除嫌いにはつらい。

ご覧の通り、家、とんでもなく大きいです。

手軽に掃除できない。体育館用のモップ欲しい。

首都で買ったクイックルワイパーが霞む。

ほんまに要らんかった。

このクイックルワイパーが使えるのは寝室だけでしょう。

そう思うぐらいの大きさです。

 

とはいえせっかく広い家を貸してもらえたのですから

是非たくさんの人に来ていただければと思う次第です。

本当に、シンプルに、何もない所ですが、

ラオスの皆様、日本から来てくれる皆様、

お待ちしております~~~!!