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人生2度目のアメーバ赤痢で入院した話

さばいでぃー!

みなさんこんにちは、ラオスのラオ子です。タイトル通り、入院してきました。というか、現在進行形で入院中です。日本ではもう聞かない「アメーバ赤痢」という病気にかかり現在入院2日目なわけですが、途上国で病気になったらこんな感じ!という事をお伝えするために、病院での生々しい体験などあえて書いてみようと思います。ただ、いかんせんアメーバ赤痢の話ですので、どう頑張っても内容が・・・。お食事されてる方は回れ右してお帰りください(笑)

 

5月16日お昼 謎の吐き気。

朝、いつも通り配属先に行って、ランチタイムまでは「なんかお腹がころころするな~」って感じる程度で、大きな異変を感じずに活動。ランチタイムに皆でカオピヤックを食べに行きました。普段ならすぐ食べ終わるんですが、なんか食が進まないというか、食べてるときにちょっとえづくような感覚があるというか。この日食べたカオピヤック、めちゃめちゃ胡椒が効いていたので、それでいつもみたいにすすれないのかなぁと思いながら、少しずつ食べて、なんとか完食。皆に「ラオ子、全然すすまないね!どうしたの?美味しくない?体調悪い?」と聞かれました。

 

 

その後、配属先から7kmほどのところにあるカフェで皆で一服。コーヒーは普通に飲めました。ああ、幸せ。でも、お腹が落ち着かないというか、つっかえる感じというか。いつもみたいに美味しく飲めませんでした。

 

そして事務所に戻って午後の活動・・・と思ったのですが、猛烈な腹痛に襲われたため、バイクで自力で帰れるうちに、と、早めに帰らせてもらうことに。

 

家に帰って熱を計ると、37.5度ぐらい。数日前に何日か微熱を出していたので、ちょっとぶり返したかな?と思って、水分をとってそのまま少し寝ました。

 

5月16日夕方 悪寒、高熱

夕方ごろ、体ががくがく震えて目を覚ました。なんだこの寒気は。そして熱を計ったら38度を超えていました。私の任地はマラリアを媒介する蚊が居ないところだと聞いていたので、ここで疑ったのは、食中毒とデング出血熱です。カンボジアに居るときにアメーバ赤痢を経験済みなのですが、あの時は一番最初に激しい下痢嘔吐が続いて、その後熱が上がって衰弱したので、アメーバ赤痢はもっとハードだった印象がありました。なので、ライトな食あたりかなと思い、布団をかぶって、刺しこむような下腹部の痛みに脂汗を滲ませながらひたすら耐えました。気を紛らわすためにアマゾンプライムでドキュメンタルを見ていたら、いつのまにか寝落ち。数時間そのまま眠りました。

 

5月16日夜 悪寒、高熱、関節痛、下痢

ん??インフルかな??と思うような体の節々の痛みで目が覚めました。ヘルニア持ちだからか分かりませんが、高熱が出ると、寝返りが打てないぐらい腰が痛くなります。そして、体に布がさわっているだけでぞわぞわして気持ち悪いぐらいの悪寒。熱は39度を超え、吐き気や嘔吐は全く無いのですが、激しく下し始めました。

 

これはまずいな、と思い、健康管理員さんに相談。翌朝近くの病院でマラリアとデング出血熱の血液検査を受けることになりました。とりあえず解熱のためにアセトアミノフェンを飲むよう指示をもらい、電話を切った直後の20時すぎと、日付がかわったころに500mlを1錠ずつ服薬。同僚に連絡して、翌朝病院に連れて行ってもらう約束をしました。

 

解熱剤を飲んでも熱は下がらず、むしろその後39.4度まであがりました。そして悪寒と関節痛もどんどんひどくなり、体が寒気で勝手にガタガタ震えるけど震えるたびに関節が痛いという悲しいループ始まりました。

 

多分、朝までに20回以上トイレに立てこもったと思います。もう、トイレで寝たらいいのでは?と思い始めました。でもこの腰痛と高熱では起きていられません。

 

明け方になると熱は37度台まで下がりましたが、腹痛は依然収まる様子がありません。血便っぽくなりだしたときにはさすがにヤバいと思って色々調べましたが、内容が頭に入ってこず。これでもう一度熱が上がったらデング出血熱の可能性が上がることと、もしデングだったら2回目以降は重症化するからここでの生活の危険度がいっきに増すことを知って、絶望。

 

5月17日朝 病院へ。

寝ている間にかなり発汗したらしく、起きたときには寝間着がじっとり濡れていました。おかげで熱も37度前半まで下がり、ちょっとすっきりしています。しかし腹痛と下痢は収まらず、昨日の昼のカオピヤック以降まともに何も食べていないので、ふらふらと視界が揺れます。念のため入院セットをつくって家に置いておき、同僚の車で病院に向かいました。

 

迎えに来てくれた同僚に、車の中で「デングかマラリアにかかっていないか、血液検査してほしい。もしどちらかだったらすぐにJICAの車が迎えにきてくれるので首都に入院しに行く。そうでなかったらきっと食中毒なので家に帰って療養する。」と話したところ、きちんと伝わったので、病院に着いてから同じように看護師にも説明し、同僚からも説明してくてました。

 

しかし、特定の医師や看護師から問診をされることはなく、きちんと情報共有がされているのか不安に感じました。それを確認する間もなく、さっき話した人ととは違う看護師さんから採血されます。「デングとマラリアをチェックしてね」と何度も何度も確認しながら、採血が終わりました。

 

そして、車いすに乗せられて、何故かエコー室へ。診察台にのせられて下腹部にエコーをあてられましたが、先生いわく「何も食べてないから見たいものが映らない!水をたくさん飲んでおしっこをしたくなったら出直して!」とのこと。

 

まてまてぇい!!こっちはもう一晩中下しとんねん。飲んでも尿にはならんわ!!と思い、看護師に伝えましたが、無常にも同僚が買ってきた1.5リットルの水が目の前にドンっと2本置かれます。

 

「ラオ子!飲めるだけ飲んで!」

 

ここから、地獄が始まりました。

 

5月17日 朝10時 拷問スタート

「11時にはエコーの先生休憩に入っちゃうから、早く水飲んで!!」

 

「ラオ子!私も仕事があるから早くして!」

 

ちょっと待って、私な、一晩くだしまくってて、体弱ってんねんか。言うたよな。・・・と思いながら、飲めるだけ飲む。飲んでエコーして帰れるなら飲む。飲めって言われるから飲む。そして500mlぐらい頑張ったところで、猛烈な吐き気に襲われ、お腹がキリキリと痛む。そりゃそうですよね、お腹くだしてる時にミネラルウォーターいっきなんて、お腹痛くなるに決まってますよね。

 

「ラオ子、お腹いたいの?よし、エコー室いこ!」

 

と、私が座っている車いすが動き出します。え、待って待って、行き先そっちちゃう!!と思うのですが、もう全く声も出ないぐらいお腹が痛くて、ひたすら蹲っているとまたさっきのエコー室に着きました。

 

そして診察台に乗せられ、服をめくってお腹を出し、「先生すぐ来るからね」と言われてそのまま待機。エアコンの直風を受けながら、待機。待てど暮らせど、先生来ない。刺しこむような腹痛に脂汗が止まりません。10分後ぐらいに限界がきて、「もう無理、トイレ!!」というと、呆れながらトイレに連れていかれます。「またエコーできなかったよ!トイレだって!トイレ!先生待てないんだって!!」と患者さんがたくさん居る中看護師同士で話しています。なんの辱めだこれは。

 

そして外来に戻され、また目の前に水が置かれます。「もうエコーいい、絶対ただの食中毒だから帰らせて」と言いましたが、「もう先に精算してるから!」とのこと。問診もされてない、診察室にも入ってない、誰も私のカルテ持ってないのに、誰情報の、誰判断で、その精算をしたのか???私には一生分からないことです。分からなくて、いいです。早く帰れたらそれでいい。水を飲もう。

 

ここから、水→エコー未遂→トイレを、水2リットル分繰り返しました。最初は500ml頑張って飲みましたが、当然スパンはどんどん短くなっていきます。トイレ行きを4回繰り返したころには、口に水を含んだだけで条件反射で下腹部に激痛が走ります。

 

そして私は、「体が受け付けないミネラルウォーターを2リットル分、一気飲みしてはトイレに行く」という行為を1時間ほど強制された結果、下腹部の激痛がピークに達し、話もできないぐらいぐったりと衰弱して、そのまま入院することになりました。2リットルで大げさやろと思う人、食中毒で高熱出して下した翌日にやってみてください。是非!

 

処置室で、入院する個室の掃除を待っている間、それまで遠くで見ていた婦長さんらしき人に「何でそんなに水飲んですぐお腹いたくなるの?」と聞かれ、「いや、私何回も言ってるけど、昨日の夜からずっと下してるんですよ」と言うと、「あ、そうだったの~!知らなかったわ~!じゃあ痛み止め打って、点滴しましょうね。多分アメーバ赤痢だわ」と。

 

・・・。

 

なんかもう、次からは、病状をシャツにでも書いて誰が見ても分かるようにしないとダメだなって思いました。そして、何の痛み止めを打ったのかは未だに分かりませんが、左尻の上のあたりに昨晩からの腹痛を軽く超える痛さの注射を打たれました。あの・・・なんの注射打ったんですか?

 

もう、何もかも、意味がわからない。病室に移動しながら「トイレどんなかんじ?」と聞かれたので、「緑色やった」と言うと、「水の飲み過ぎよ!」と言われました。

 

―言葉にならず、一筋の涙がこぼれました。

 

私も、そう思う。

 

だって、めっちゃ飲んだもん。ここで。

 

5月17日お昼前 病室でゴネる

 

ラオスでは、入院患者のお世話は基本的に家族が行います。カンボジアもそうだったな。私には、お世話をしてくれる人はもちろん居ないので、入れ代わり立ち代わり、局の人たちが気を遣ってお見舞いに来てくれます。みんな、やさしい。

 

お昼ご飯に持ってきてくれたのは、ご飯、醤油、豚肉を乾燥させて細かく裂いた綿みたいなやつ、黒ゴマ豆乳、バターケーキ、パン1斤。・・・ごめん、ごめんなさい、でもね、どれも食べられない・・・。食欲は昨日の昼から無かったし、午前中の水攻めで心も体もやられてしまって、口にモノを入れられる状態ではなくなっていたのです。それでも、来る人来る人、「食べろ!食べないから治らない!」「いつも朝ごはん食べてないんだろ?だから胃が痛いんだ!」「食べないと先生がくれた薬が飲めないだろ!」と、色々心配してくれます。・・・そんなに健康のこと気遣ってくれるなら、アルコール強制するのやめてほしいなぁ・・・と、心の中でつっこみながら、「そうだねー」と精いっぱい笑顔で相槌を打ちます。気持ちは嬉しいし、差し入れもありがたいけど、本当にどれも食べれませんでした。体が受け付けませんでした。

 

それからお医者さんがくれた薬、アセトアミノフェン500mgを食後に2錠。日本での1回の最高投与量も、1000mg。私のその時の熱、37度前半。え、要る?そんなに要る???もう、何も信じられない。何もかも疑いを持ってしまう。

 

そしてぽろっと口から出た言葉、

 

「入院したくない、家に帰りたい。」

 

局の人たちには顔を見合わせて、みんなで猛反対。「ダメ!ラオ子に何かあっても家に一人だったら分からないでしょう」と。でも、入れ代わり立ち代わり色んな人が来てくれたら、落ち着けない。来てくれたら挨拶して、病状話して、帰るときはもちろんお礼言って、寝てる間もフラッシュたいて写真とられたり、個室の中でずっと誰かとボイスメッセージしてたりして、全く眠れない。個室内にあるトイレにも行きにくい。気が休まらないし、一人にしてほしい。(本音)自分でお粥を炊いて、母手製の梅干しを乗せて、食べれるだけ食べて、寝れるだけ寝て・・・って、自分のペースで治したい。ごめんなさい、高熱出して、一晩中下して、朝から2リットル水飲まされて、それでいて皆の優しさや文化を全て受け止める余裕は、今の私には、ありません・・・。

 

「デングかマラリアじゃないことが分かったら多分ただの食あたりだから。体が弱ってるときは日本のごはんが食べたいの。皆忙しいのに来てもらったら申し訳ないし、一人で夜ここに居るのは不便だし、バイクで来てないから帰りも大変だし、入院するなら首都だと思ってたから財布と携帯しか持ってきてないし、お願いだから帰らせて」と私も譲りません。看護師を呼んでの話し合いになりましたが、看護師も「全然食べられてないし、緑色の便しか出てないっていうし、血液検査の数値も良くないし、抗生剤打たないとダメよ。かなり弱ってるし家で一人で居るのは危ないわ」と。

 

緑の便しか出てないのも、かなり弱ってるように見えるのも、午前中に水飲まされすぎたせいやで。

 

と心の中でつっこみました。お腹下してるとあれだけ言ったのに全く共有される気配もなく投薬されるのも怖いし、ここに居たら体も心も休まらないし、絶対に譲らない!と私は戦う姿勢です。そして頑なに、「私は日本で薬を売る資格を持ってる専門家なの!(登録販売者だけどね)血液検査の結果さえわかれば自分で治せるから、帰る!家にたくさん薬もあるし、日本から持ってきた自分に合う薬が飲みたい。それに、日本の料理が食べたい!病気の時は日本のものが食べたいの!」と、みんなが絶対に叶えることのできない我が儘を言い続けました。

 

いよいよ困った上司が、JICA事務所に連絡。「ラオ子が帰ると聞かないが、かなり弱っている様子で、でも入院するにしても付き添える人が居ないのも確かだから、首都に連れて行っていいか」ということを話してくれたようでした。

 

時を同じくして、血液検査の結果を健康管理員さんに送って状況説明をしたところ、きちんとした検査、治療、そして療養が必要だと判断されたため、私は打ち始めたばかりの点滴を抜かれてそのまま局の車で上京することになりました。

 

「行く前にご飯食べなさい!」「いやいや、首都までの道中で急にお腹痛くなったら嫌だから!」「だめよ、ご飯食べないと元気にならないでしょう!」「2時間もガマンできんし、途中何もないやん!!首都行ったら食べるから!!」と、最後まで小競り合いして、病院を後にしました。みんな、心配してくれてありがとう。けど、病人の時は、「日本式」「私式」でいかせてください・・・。

 

5月17日夕方 首都の病院へ

首都のタイ系のクリニックに着くとすぐにお医者さんからの問診を受けました。そして、血液検査、検便と、トントン拍子で進んでいきます。・・・というのは全部JICAの健康管理員さんが付き添ってくださったおかげ。前日から相談させていただいたこともあり、午前中の病院での診察や投薬の状況も全て先生に説明してくださって、私はただ腹を押さえて「ちぇっぷとん(お腹痛い)」と言っていただけ。ありがてえ・・・・と噛みしめていると、「アメーバ赤痢」との診断結果が出て、そのまま入院することになりました。

 

 私の部屋のベッドがラブリーだと言うのは以前もお伝えしましたが、なんの因果か私が入院することになった部屋も相当ラブリーでした。スティッチに、アナ雪に、プーさんに、スヌーピー。とにかく情報過多。コンテンツ過多。部屋に撮影禁止の張り紙があったので写真は控えます。想像力を働かせてください。

 

入院が決まったのが夕方だったため、この日はもう夕食の用意ができないと言われましたが、何も食べたいと思わなかったので了承しました。その後、おかゆだけ少し持ってきてくれたので、薬を飲むために少し食べようと思って口にしたら、あっという間に全部なくなって、そしてすぐさまお腹が痛くなりました。回復にはまだまだ時間がかかる。

 

5月18日 入院2日目

 ごはんは自分で決めることができるので、朝ごはんには一番ライトそうな豚肉のおかゆをチョイスしてみました。ほんの一瞬、アーモンドクロワッサンとバタークロワッサンのセットに目がいきましたが、入院2日目の朝はこれを頼めるぐらい回復するぞと心に誓っておかゆにしました。

 

お昼は揚げ豚のおかゆ、夜はカオマンガイと、徐々に回復していきます。「カオマンガイが大丈夫なら、スパゲッティカルボナーラに変更していい?」と聞いたら、「いや、だめ(笑)」と断られました。しっかりしてる。(出てきても多分食べられないけど食欲だけはある)

 

思えばこれ、人生4度目の入院。人生初の入院はカンボジア、この時もアメーバ赤痢。2回目もカンボジア、インフルエンザ。3回目は訓練が始まる少し前、全身麻酔で4本とも親知らずを抜歯しました。(4本いっきは本当におすすめしません。抜く必要があると分かっている人は、時間がある学生のうちに抜きましょう)

 

同じように今回も、発病して、検査を受け、点滴を打ちながら部屋でぼーっと回復を待つだけなんですが、今回違ったのは、人生初の「お見舞いに来てもらう」という体験ができた(?)ことです。首都隊員の同期がお見舞いにきてくれて、元気貰えたし、本当に嬉しかった。休みの日にわざわざありがとう・・・!

 

そして今

平熱に戻り、悪寒も倦怠感も関節痛も治りました。あとはお腹の調子さえ戻ってくれれば完全復帰です。明日の朝もう一度検査して、アメーバさんが居なくなっていたら退院、やさしいご飯から徐々にならして元の生活に戻れることでしょう・・・。アメーバは潜伏期間が長いので何であたったか特定するのは不可能で、気を付けようがないのも現状です。またいつやってくるか分からない。怖い。

 

数年前、カンボジアでお世話になっていた病院も、タイの先生の病院でした。日本人通訳さんが居て下さったし、そうでない時でも英語が通じるので、不便と感じたことはありません。ただ、カンボジアの超ローカル病院で会社の健康診断を受けたときに、病院の様子を見て「こりゃすごい」と思ってはいたのですが、まさか自分もそういう所でお世話になることになるなんて・・・。それがまさかこんなにもスパイシーな経験に繋がるなんて思ってもいなかったので、まだまだ覚悟(?)が足りなかったなあと思いました。私はまだ首都まで2~3時間であがってこれますが、そうではない隊員はもっとハードな経験をすることでしょう。みんな、体調には本当に気を付けよう。

 

また、今回は、おかしいと思った時点で健康管理員さんに相談させてもらったことで、検査項目の指示を受けてから病院に行けたり、点滴や薬の写真、検査結果などを全て写真に残しておいたおかげで、自分が何を投薬されてどういった治療を受けたのかなど詳しく聞けました。次回から(次回とか無いほうがいいんだけど)は異変を感じたら首都に上がって安心できる病院で治療を受ける、そのための体力を残す(悪化するまで無理しない)、をまず第1目標に、それでも何かあったときは早めの相談・写真を残すことを忘れず、健康管理に努めたいと思いました・・。

 

一番怖いのは、最近届いた「バイク」です。実際任地に来てから何度か事故を見ているのですが、けがをした時に運ばれる場所は間違いなく最初に行った病院なので、事故など絶対に起こさぬように、ゆっくりと、余裕を持って、走りたいと思います。・・・もう、病院にお世話にならず、健康で日本に帰るために。

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第2回原爆展に参加して、「平和って何?」を考えた

さばいでぃー!

皆さんこんにちは。ラオスのラオ子です。

 

今日は、平成最後の日にあわせて投稿できたらと思っていた内容を更新します。

 

 

ピーマイ(旧正月)が明けた翌週の4月24日、やっとこさ正月ムードから抜け出しつつあるビエンチャン特別市にて、先輩隊員の企画で「第2回 原爆展」が開催されました。

 

この記事を書く目的として、私がラオスでどんなことをしているか知ってもらいたいというのはもちろんですが、現在いろんな国でそれぞれの活動を頑張っている同期の皆や他の隊次の隊員の皆さんに、活動”+α”の部分を知ってもらって、この活動を広げていきたいと思っています。いつも通りあちこちに蛇足が多い文ですができれば最後までお付き合いください。

 

 

10歳の私「広島の原爆の資料館、怖い。」

 小学3年生の頃、合唱団西日本合唱祭で広島に行く機会を頂いたときに、特に事前学習も無いまま入った資料館で感じた事です。

その時丁度夏休みで、じりじりと焼け付くような暑さでした。教科書や資料集で見たことのある建物に銅像、そして色とりどりの千羽鶴。街中の路面電車はビルとビルの間を窮屈そうに走っているように見えるのに、その場所だけはがらんとしていて、でも張り詰めたような空気で、ここは何か「違う」んだなあと感じました。 

資料館の中は、「怖い」でいっぱいでした。被ばくした人たちのケロイド状になった皮膚を再現した人形。熱で曲がったぐにゃぐにゃの展示物。焼けただれた人の写真、絵、そして大きなジオラマの真上に不気味に垂れ下がる赤い塊。薄暗くて静かな資料館を出て、近くを流れる川を見た時、「ここにあのドロドロの人が飛び込んで行ったんかなあ」と考え、更にその「怖い」という気持ちが増しました。

その話を近所のおじさんにしたところ、「熱い思いして亡くなってやーる人がいっぱいいっぱい居るんや。今も苦しんでる人がぎょーさんやぁる。『怖い』なんて言うたらアカン。」と言われました。

そうか、大人が言うんだからきっとそうなんだ。じゃあ、あの場所は、私が見たものは、私が感じた気持ちはー・・・。そして、あの時の気持ちに何という名前をつけていいのかさっぱり分からなくなった結果、資料の数々に対して感じた「怖い」という気持ちには、蓋をしなければいけないのだと思いました。

 

その5年後、今度は、イタリアの姉妹都市に行きました。現地の音大のオーケストラやソリストと2週間ほど練習を重ねて、「Undici Zero Due(11:02)」という現地の脚本家の創作オペラを演じるためです。11時02分、人類史上実戦で最後に使われた原子爆弾「ファットマン」が長崎県長崎市に投下された時間。それまでいつもと変わらない日常を送っていた子どもたちが、原爆により一瞬で命を奪われ、その魂は悲しい歌と共に海を渡り、平和を繋いでいくー・・・というような物語だったと思われます。(台本やあらすじの日本語訳が無かったので細かいニュアンスは違うかもしれません。)

 イタリア語も英語も、さっぱり分からないので、現地の人たちとは簡単な挨拶程度のコミュニケーションしかできませんでしたが、オペラが終わったあと浴衣を着て灯篭流しをして、日本の歌を聴いてもらって、皆で歌って、初めて経験した外国の人たちとの非言語のやりとりは、それまで私の中にあった音楽というもの概念を簡単に壊してくれた気がしました。その後スイスやドイツでも演奏会を経験して、確実に今の私を作ってくれた切っ掛けになってくれたし、言葉がわからなくてもこうやって共有していく術もあるんだということを教えてもらった、私の人生に強烈な点を打った活動だったと思います。

 

それでも、役を演じている間も、あの日広島で見たものを思い出して「怖い」という気持ちに襲われていました。

浴衣を着た私たち日本人の子役は、劇の中盤、激しい音・真っ赤な照明の中、床に突っ伏しました。次の曲に入ったら立ち上がってあそこに並びに行って・・・。そう考えながら冷たい床で”次”を待つ。その間、照明が真っ青に変わり、”死の灰”が天井から降り注ぎます。

 もしあれがオーケストラの音ではなく本当の爆音だったら私たちは一瞬でこの世界からいなくなっている。”次”は、無い。もし今ここに原爆が落ちたら、ちょっと好きになり始めた、教会の鐘の音が響き渡るこの街から、数十万人の人が一瞬で亡くなって、生き延びることが出来たとしてもその後何十年も、苦しむことになる。そしてその悲しみは一生消えない。

 

―やっぱり原爆は、怖い。

 

本番中に広島での記憶が蘇るぐらい、あの時の事が頭に残っていたのでした。

 

この「怖い」がずっと引っかかっていた私。どこに行っても「負の遺産」に触れることができず、前に住んでいたカンボジアの「虐殺博物館」と「キリングフィールド」にようやく行くことができたのも、カンボジアとの関わりを持ち始めてから7年が経った去年のことでした。 

 

虐殺博物館とキリングフィールドについてはこの記事で少し触れています。

 

そして、ここビエンカムでの活動を始めてしばらく経ったある日、先輩隊員から今回の「第2回原爆展」のボランティア募集のお知らせが届きました。迷わず、「参加させてください」とお返事しました。自分があの時自分の中にとじ込めてしまった「怖い」を、先輩はどう感じて、どう学んできたんだろう。そしてそれを、どんな形にして異国の高校生に伝えるんだろう。それらを知るために、自分も運営に関わって、近くで見させてもらおう。そして私も原爆についてもっと知ろう、学ぼう、考えよう。私の職種であるコミュニティ開発とは直接関係のないフィールドであっても、2年という限りある時間の中で、経験できることはできるだけしていこう。そんな気持ちで、参加を決めました。

 

準備

第2回原爆展の呼びかけがあったのは、3月下旬のことでした。今回集まった8人中5人が私と同じ2018-3次隊(現在ラオスに着任している一番新しい隊次)で、もちろん原爆展に参加するのも初めてです。

第1回原爆展を同じ先輩がオーガナイズされていて、原爆に関する絵本や資料、必要備品などなど、ある程度は前回分を使って今回のイベントを組み立てられたこともあって、皆で集まって検討・相談する事は当日の役割分担以外ほぼありませんでした。

そして、イベントのために作られたLINEグループに次々資料を共有してくださったおかげで、私たち新規隊員も上京までにイベントの大部分を把握できました。

イベント前々日に、今回のイベントに参加する隊員が地方から集まり、生徒に渡す資料などを準備、前日は買い出しと会場の設営と大まかな流れの確認などを行い、本番当日を迎えました。

 

第2回原爆展

ここからは当日のプログラム通りに、内容と所感を書いていきたいと思います。

挨拶

 

まずはオーガナイザーの先輩隊員の挨拶から。先輩隊員のバックグラウンドや、このイベントを開催する目的、皆に知ってもらいたいことなどを最初にお話されていました。

今回集まってくれたのは、5・4・3・4制の義務教育期間の、中・高等部の1年生、3年生、そして7年生の約115名。日本でいう小学6年生、中学2年生、高校3年生です。私は教育関係の隊員ではないので、こうやって学校にお邪魔できるのも貴重な体験です。

今回対象にしたのは日本語の授業を受けている生徒さんたちなので、もちろん日本語自体にも興味を持ってくれています。JOCVが一人ずつ前で自己紹介すると、私たちの名前をみんな口に出して繰り返してくれたのが嬉しかったです。第1回のアンケートで「日本語が聴きたかった」という意見をいただいていたこともあり、今回は先輩隊員の日本語+現地の先生のラオ語の2言語での司会進行でイベントが進められました。

 

アイスブレイク

 

次は、私と同期隊員が担当させてもらったアイスブレイク。日本語を勉強している生徒さんを対象にしたイベントということで、「ສັນຕິພາບ(サンティパープ=平和)って日本語で何だか知ってる?」「”へいわ”を日本語(ひらがな、漢字)で書いてみよう!」という内容から発展させ、「この絵は”平和”かな?」「なんでそう思うのかな?」と、皆で”平和”について考える時間を作りました。

ここで、私たちから「正解!」「それは違うね」「平和っていうのはね、」と具体的に話をすることはありません。この後の内容に自分たちで結び付けてもらうためのアイスブレイクですので、ここで問いかけを完結させることが目的ではないからです。この後の話を聞きながら「じゃあこれはどうだろう」と考えてもらうためのきっかけづくりが出来れば大成功!

 

と、偉そうに言ってみましたが、シナリオはほとんど先輩が作ってくださったもの。私たちは、実際生徒さんにインタビューするときにあったらいいなと思うラオ語を前日の打ち合わせのあとに少し足して、本番に臨みました。

初めの挨拶もしっかりこちらを見て聴いてくれた皆なので、私が壇上にあがって「キンカオレオボー?!(ごはん食べたー?!)」と突然ラオス流の挨拶をしたら「レーーーオ!!」と元気に答えてくれて、良い雰囲気のまま、わいわいアイスブレイクを終えることができました。

 

イントロダクション

 

そしてここからついに本題。先輩隊員からの、広島と長崎についてのお話です。

 

原爆はいつ・どこに投下されたのか、なぜ広島と長崎に投下されたのか。

 

原爆がもたらす「熱線」「爆風」「放射線」の3つがどれだけの命を奪い、苦しめたか。

 

今、広島と長崎の街はどうなっているか。

 

今、世界にはどれくらい核兵器が存在しているか。

 

ラオスには、戦争/内戦でどんな問題が残っているか。

 

「折り鶴」「千羽鶴」に込められている意味とは。

 

次のプログラムの内容を補完し、かつ自分たちの国の事にも絡めることで、当事者意識を持ってもらえるような内容でした。

 

 

クイズ形式で生徒たちの興味を引きながらも、淡々と、毅然とした態度で、伝えたい事実を伝えていかれる先輩隊員。「先生」として普段から活動されている先輩は、約115名の前で壇上に立って話していると思えないぐらい、生徒さんとコミュニケーションをとられていて、私はもう、「すごい」と「かっこええ」以外の感想が出ませんでした。

 

提示されているスライドにかじりついて話を聞く生徒さんたちは、熱線・爆風で亡くなられた方の写真を見て一瞬「うわぁ」と目を背ける場面もありました。私が感じた「怖い」と似ているかもしれません。その写真は、日本でいう小学6年生の児童向けに選んだもの。教科書やテレビで見慣れてしまっている私たちにはそうでなくても、会場の雰囲気を一瞬で変える力を変えてしまいました。それから生徒さんたちは、それまで以上に先輩隊員の話とスライドにかじりつき、手元の資料を読んでまわりの生徒と思ったことを共有しながらイントロダクションを聞いてくれました。

 

絵本朗読

 

イントロダクションの後は、生徒による「おりづるの旅 さだこの祈りをのせて」の朗読です。現地語で朗読してくれたのは6人の生徒さんたち。みんな堂々と朗読してくれました。

 

この絵本の翻訳も協力隊の先輩方によるもの。結構ボリュームのある物語なので、いくつかのパートに分けて数名で翻訳作業されたのですが、「頻出単語のリスト」を作って単語を統一する作業が必要になったり、表現を合わせたり、話を聞いただけでも「大変だ・・・(わたしにはできない)」と思うような途方もない作業。それを、代表者の生徒さんたちが何度も練習して読んでくれるのは、作業に関わっていなかった私でも、嬉しい。とっっっても嬉しい。

 

折り鶴ワークショップ

 

「絵本で出てきた”折り鶴”を皆で折ろう!」ということで、きれいな千代紙を皆に配って、折り鶴のワークショップをしました。途中で次の工程を聞かれると、案外難しいですね・・・。一緒に折り鶴の折り方のプリントを見ながら折りました。

 

羽部分フルオープンタイプの鶴、足が生えた鶴など、個性豊かな鶴を折る子たちも居ましたが、なんだって、ぼーぺんにゃん(大丈夫)。折り鶴や千羽鶴の、背景、意味を知った上で、この文化に触れるということそのものが、なにより大切なのです。

 

現地語学訓練中にも高校に行って折り鶴を折る機会がありましたが、あの時よりもちゃんとコミュニケーションが取れている自分に気づいて、少し嬉しい気持ちになりました。「サダコは何羽折りたかったんだっけ?」「1000羽」「折れる?」「できないよ、多すぎるよ」なんて話もしながら、生徒さんたちとワークショップの時間を楽しみました。

 

写真撮影

 

最後は記念撮影。みんなで折り鶴を持って写真撮影。前に全員集合してもらうと、改めて、こんなにたくさんの人が来てくれたんだなあ・・・と。協力してくださった高校の先生方にも感謝です。ありがとうございました。

 

アンケート・絵馬記入

 

終わった後は絵馬とアンケートを記入してもらい、書けた人から解散でした。絵馬はこれからしばらく学校に掲示してもらいます。アイスブレイクで一緒に勉強した「平和」を早速書いてもらえました。

 

 

書いてもらった絵馬はボードに全部貼って、日本語教室にしばらく掲示してもらいます。 びっちり数行に渡って気持ちを書いてくれた生徒さんもいれば、シンプルに「戦争をしてはいけない」と書いてくれた生徒さんも居て。アンケートには、「毎年開催してほしい」という嬉しい言葉も見られ、集計中まで幸せな気持ちにさせてもらいました。

 

振り返り

この原爆展に参加するには任地での活動を休む必要があったため、上司に休みが欲しいと言ったところ、快諾してもらうことができました。まだ局でも何も出来ていないのに、大変ありがたいことです。そして、私は皆の前に立ってアイスブレイクの進行をする役を貰ったので、先輩隊員が作ってくださったシナリオを任地で事前に読んで、活動先の同僚に発音のチェックをしてもらっていました。

さきほど紹介した通り、アイスブレイクの内容は「平和って何?」でした。生徒たちと共に、平和とは何か、色々な絵を見て一緒に考えてもらうという趣旨のものですが、この原稿を読み終えた後に同僚から「で、平和って何??ラオ子は平和って何だと思うの??」と聞かれて、私は何も答えられませんでした。

そんな人が前に立って話していいのか??ともやもやしながら、せっかく頂いた役なので楽しくやらせてもらいましたが、それから原爆展までの間、実際「平和」がどういう状態で、どうやったら作れるのかを考えて、何も出てこなくて、この問いの正解はわからないまま。

でも、先輩のイントロダクションの原稿に「考え続けることが大切」という言葉を見つけて、そうか、じゃあ私も、わかんないから考え続けよう、そして皆にも考え続けてもらおう、という気持ちで臨みました。

 

「平和って何?」という問いと同じぐらい、このイベントの難しさを感じたのが、「歴史を伝える」という事自体が孕んでいる様々な問題。現在核を保有している国や、第2次世界大戦で日本の敵国だった国、ラオスにたくさんの不発弾を残した国、どれも事実として「ある」ことなのですが、それを「悪」だと伝えてしまうのは大変危険なこと。日本には日本の、ラオスにはラオスの、そしてそれぞれ国レベルから個人レベルまで、様々なルーツやバックグラウンドがあり、それを傷つけたり、否定することは、私たちの目標とするところではありません。

まだまだこれから、社会のことを学んでいく生徒さんたちに、「草の根外交官」とも呼ばれる私たち青年海外協力隊からどう伝えればいいかというのは、先輩も非常に悩まれたところだと思います。何も伝えなければ、このイベント自体のメッセージ性が薄れてしまうし、かといって偏った思想で気持ちを煽るようなことは、してはいけない。

・・・と、色々考えると、「ほどよく」「的確に」そして「ニュートラルに」伝える事は、かなり難しいと思いました。 

 

まとまらないまとめ 、原爆はやっぱり「怖い」

日本に落とされた2発の原子爆弾は、一瞬で何十万の命を奪い、その後も体の中に残って命を蝕み続け、今も苦しんでいる方がいらっしゃいます。どんな理由で投下されたとか、結果どうだったとか、そういう話では折り合いがつかないような出来事が、たった数日のあいだに数十万も起きたのです。未来永劫使われるべきではなく、そして新しく作られるべきでもありません。

 

 

一方、ラオスは、戦争や内戦の爪痕が「貧困」や「不発弾」というキーワードと共にまだまだ残っている国です。戦争当時、ラオス王国の国民1人あたり1トンの爆弾が落とされたとされていて、未だのその1~3割が地中に残っていると言われています。被害のひどかった旧ホーチミンルートを中心に、その地に住む住民、特に農業従事者が危険に晒されているだけでなく、 不幸にもクラスター弾の子爆弾がラオスの遊び「ペタンク」で使われる鉄球に似ていることで、子どもの手足や命そのものが奪われる事故も起き続けています。「何個の不発弾が処理できたか」ではなく、「100%クリーンな土地になったか」が重要であり、本当に平和に暮らせるには、長い長い道のりと言えそうです。

 

今回はそのきっかけづくりを協力隊の有志一同で行いましたが、どこにでも、「平和」を考えるきっかけになるものはあります。 そして、自分の国だけではなく、どの国の情報もすぐに手に入るのが、私たちが生きている「グローバルな社会」です。だからこそ、私自身、今回のことで20年持ち続けてきた「怖い」の気持ちを完結させずに考え続けたいし、このイベントに参加してくれた生徒さんたちにも、この日共有したことを考え続けてほしいと思います。

 

今回生徒さんに読んでもらったサダコの絵本は、折り鶴が平和の象徴となって世界を旅するお話ですが、まさにその旅は今も続いているんだと思います。だから、この日のワークショップで作った折り鶴も、ここで終わりにするのではなく、家に持って帰ってほんの少しでいいから家族に話してほしい。これからしばらく日本語教室に展示される、皆が書いてくれた絵馬の平和への願いを共有・共感し、話し合って、このイベントの事を少しでも思い出してほしい。「イイネ!」ボタンには無い、小さいけど大きな力となって、水面に落ちる水滴のように、波になって広がっていくきっかけのひとつになってほしい。カオス理論のバタフライエフェクトのように、蝶のはばたきが地球の反対で竜巻になることはなくても、私たちは誰しも科学で証明できない「心」を持っていて、わたしたちの未来を変えていく力になるはず。

 

さいごに。

 

 今回のイベントが、これからのラオスを拓き、支えていく学生さんたちに、広島・長崎のことを通じて平和を考え、ラオスの事に関心を向けて「当事者」になってもらう一助になれば、それより嬉しいことはありません。また、そうして「じぶんごと」を繋いでいくきっかけになれるのであれば、自分も積極的に機会づくりをしていきたいと思います。

 

また、この記事を見て少しでも興味を持ってくださった他国の隊員の方がいらっしゃいましたら、私との面識の有無関係なく、是非コメント欄やSNSで連絡いただけたら嬉しいです。今回使った資料などの共有の許可を頂いていますので、隊員ネットワークで水平展開していけたら最高だなって思ってます。ご連絡お待ちしてます!

 

皆のブログ

www.laoko.net

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ラオ子の旧正月休み。

さばいでぃー!

皆さんこんにちは、ラオスのラオ子です。旧正月シリーズ最終回です。

 

 

職場での正月祭が終わり、キンビアに恐れおののいた私は、しっぽ巻いて逃げるように首都へと移動しました。4月13日ー17日が正月休み、18日、19日と出勤して、また20、21日が休みのため、18日、19日は事務所がほぼほぼからっぽ。オカンたちとのキンソム(おやつタイム)も無く、事務所にぽつんと一人で活動報告書を作成。寂しいなあ。

 

13日 上京 

 

私の任地から首都までは、順調にいったら1時間半ほど。そこからドミトリーまでの30分の徒歩移動、この時期にバックパック背負ってやると暑くて火が出そうになります。よって朝いちばんの移動に限ります。乗り合いバンは家から1.5kmほど先のバン乗り場から出ていて朝6時ごろから人が集まり次第発車するので、陽がのぼったら、涼しいうちに出発!

 

橋で黄昏る笑顔が素敵なにーちゃんと、どこ行くの?ピーマイ何するの?とお互いに話をしていたら、ショルダーバッグがゴソゴソゴソッと急に動き出してびっくり。よく見たら鶏さんが首と足だけ出してます。なんだこれ、めちゃめちゃ可愛いやないか!この後友達の村に持って行って、みんなで食べるそうです。なまんだぶ。

 

 

 

午前中にドミトリーに到着し、先輩隊員と朝ごはん。いつもラオ人がたくさん居て気になっていたお店に行ってきました。ホームアイディールというスーパーの目の前のお店です。

 

 

 

カオプン(ラオス風混ぜ麺)と、揚げ春巻き。どちらも美味です。カオプンは甘酸っぱいタレが一緒に入っていて、麺をほぐしながら食べるのですが、砕いたピーナッツの香ばしさとタレの甘さと、なんともいえないバランスでとても美味しいです。揚げ春巻きは、野菜や春巻きの皮に包んでいただきます。こちらも揚げたてカリカリでたまらん!!

 

 

 

そのあと合流した同期と、早めの夕飯でずっと気になっていたインド料理屋さんへ。店の前では子どもたちが旧正月の予行演習中。水鉄砲、ホース、水風船、あらゆるものを使って水遊び中。

 

 

 

尻が出るほど夢中です。

 

 

 

田舎で食べるのが難しい「大きい鶏肉」が食べたくて、タンドリーチキンとチキンカレーを注文。これにソーダウォーターをつけて二人でシェアして、合計750円以下です。なんなん?神なん?

 

 

 

トリップアドバイザーなどでも上位にあがってくるお店で、なおかつローカル価格で食べられるとのことでずっとずっと行きたかったんです。正月前の水かけ祭に向けて、自分の村でなかなかとれないタンパク質とやらをしっかり補給せねば。

 

タンドリーチキンは辛さがほどよく、 結構な量でしたがぺろりとたいらげました。

 

 

 

カレーもシンプルで美味しくて。最高でした。お店のおじさんもめちゃめちゃ感じが良いので、リピ決定ですねこれは。何人かで来てシェアしたら割安でいろいろ食べれそう。また来ようぜ~~~!

 

Jamil Zahid Indian and Pakistani Food

 

その後メコン川沿いをぶらぶらしていると、

 

 

 

見るからにパリピ仕様な正月特設ステージが設営されていました。

 

14日 出陣

 

お気に入りのパン屋さんが正月休みで閉まっていたので、別のお店へ。クロワッサンにうるさい私たちの求めているものではありませんでした・・・。無念。

 

 

 

そのあと周辺をぶらぶらして、お昼ご飯。やっぱりタンパク質が食べたい私は、コリアンレストランでプルコギとギンパを注文。

 

 

韓国料理の良いところは、ナムルがたくさん出てくるところですね!久々に食べたキムチ、美味しい。白米との組み合わせ、ヤバい。

 

 

 

そして大晦日のパーティー会場へ!ただのテントと思うなかれ、骨組みはスプリンクラーになっていて、心地良い霧雨のような・・・ではなく、大粒の雨のようなぬるめの水が、ばたばた、ばたばたと落ちてくる仕様です(しかも突然降ってくる)。

 

 

 

メコン川の河原におりてみると、普段はただの砂地になっている場所にこんな立派なステージが。ステージ両脇には先ほどと同じような骨組みがあり、先ほどと同じようにばたばたと大粒の水が落ちてきます。

 

 

 

ちょっとわかりにくいかもしれませんが、写真右手の白い線、放水車から本気の放水中(笑)かわるがわる色んなアーティストがステージに立ち、爆音に揺られながら冷たいビールを飲んで、水を浴び、ときに水鉄砲での銃撃戦になり。夏フェス大好きっ子には大変心地いい時間でした。

 

 

 

そして昨日の朝行ったのと同じお店で、また揚げ春巻きタイム。おやつにちょうど良いんですよね。肉団子のようなものも頼みました。これも美味しい!

 

 

腹ごしらえが済んだら、街に繰り出してひたすら銃撃戦。私は水鉄砲を持っていたのですぐ標的にされました。ミニオンの水タンクを背中に背負って、ホースの先の水鉄砲で撃ちまくれるタイプのなかなか合理的な水鉄砲。500円ぐらいで買ったのですが、あれだけ楽しめれば良い買い物です。

 

アッパーで氷水を顔面にいただき、背中からも氷水を流し込まれ、両頬にベビーパウダーと口紅をぬりたくられる。もう、絵に描いたようなやりたい放題です。

 

 

 

そして夜はカノム(お菓子全般をさします)食べ比べ、プラスチック容器の蓋がわに乗った2つはフライドガーリックが入っていて「お菓子」というカテゴリーに含めてよいのか議論が必要ですが、基本的にカオニャオ(餅米)は間違いなく美味しいという結論に至りました。

 

15日 元旦

 

ラオスは今が1年で一番暑い時期。昨日はかんかん照りの日差しの中あちこち歩き回ったせいで、朝は私も同期もぐっすり。夏フェス翌日のような体の重さをほんの少し感じつつ、昼前までぐだぐだしました。

そしてお腹が空いたとの単純な理由でようやく昼前に動き出し、28000KIP(360円)」でランチが食べられるコスパ最強レストランへ。

 

 

ワットインペンというお寺の裏にある「ヴァンドーム」というお店ですが、28000KIPでスープと1プレートのランチがいただけます。内容は日替わりで、入り口の看板にフランス語で書かれています。もちろんフランス語は分かりませんのでお店の人に聞きますが、このお店の人は前回来た時同様親切でにこやかな印象。店内に可愛いにゃんこが居るのもポイント高いです。

 

 

前回はモロヘイヤのスープとパスタ、そしてめっちゃ大きいチキンフライ。今回はかぼちゃスープとパスタ、チキンソテーでした。ちょっとばかし味濃いめですが、このめちゃめちゃ暑い時期には丁度良く感じられます。

 

 

 

そしてこの日もメコン川沿いの会場へ!元旦ということもあり昨日よりすごい人、すごい盛り上がり。しばらくここに居たら「タマフン(ラオスのパパイヤサラダ)」が食べたくなり、近くの美味しいラオ料理レストランへ。いつも「キンソム(おやつ)」でタマフンが出てくるときは「ほかにレパートリーないんかい」と思うのですが、無いと無いで口が寂しくなる。まだラオスに来て3か月目ですが、我々もしっかりラオスに染まり始めている模様。

 

 

 

そして私たちはお寺へ。配属先の別の課にお勤めのお姉さんが、親戚と一緒にお寺の前で聖水のようなものを売っていたのでしばらくお話して、そのお水も背中にざぶっとかけてもらって、お寺の中へ。いつもはがらんとしているお寺ですが、この日は老若男女問わずたくさんの参拝者が。日本で言うところの初詣でしょうか。

 

 

 

 

オレンジの袈裟、真っ青な祭壇、緑のスケルトンの仏像・・・仏教という大きなくくりは同じでも、日本のものとは色彩が全然違っていて、とても面白いです。

 

 

 

お寺の入り口にはお坊さんがたくさん居て、水をかけてくれました。門を通る人にぱしゃぱしゃと控えめにかけているのですが、私が手を合わせて頭を下げながら近づくと、首のあたりからバケツ1杯分ざばーーー!っと(笑) ありがとうございますとお礼を言って、また通りに出て銃撃戦。

 

 

 

夜はまたメコン川沿いをぶらぶら。移動遊園地が来ていて、よくある「めっちゃ速い観覧車」にちょっと惹かれましたが・・・

 

万一のことを考えて見るだけにしました。

 

16日 任地へ

 

 

街中のお店は休みのところが多く、食べたかったピザも食べられず、カオマンガイを食べて任地へと戻りました。

 

JICAのドミトリーからバスステーション、乗り合いバンの終着点から家までは、バックパックを背負っての徒歩移動。「かけないでよ、お願い、かけないでよ」という顔をしつつ、この日も水遊びに精を出す街の人たちと距離を置きながら歩きましたが、無事何度かかけられて都会で購入した物資も家についたころにはふにゃふにゃになっていました。ひどいや・・・。

 

バンでの移動中も、おかまいなくバンのフロントガラスに水をバチャッ!途中でバンを止めて、運転手にビール渡して。いつも爆音で歌ったり踊ったりのレストランの前は泡だらけになっているし。田舎のほうもなかなかの盛り上がりを見せていました。

 

私の正月休み終了

18日、19日はみんな出勤かと思いきや、その翌日からまた土日で休みになるので、遠方に実家がある人たちは皆連休をとって帰省している模様。遊びすぎて体調を崩したという人も何人か聞きましたが、とにかく局の中はほぼ空っぽでした(笑)

 

私は活動報告書の作成や過去の専門家の方の報告書を読む時間にあてさせてもらい、ゆっくり過ごしました。そしてまた、土曜日1日休んで、日曜日から木曜日まで上京です。3度目の二輪車研修と、第2回原爆展の参加のため、任地での活動をお休みしての首都滞在。また毎日外食か~~~まいったな~~~。限られた回数のご飯、どこで食べようか計画を練りたいと思います。

 

そんなわけで、任期中2回限定のラオスでの旧正月はビエンチャンで過ごしたわけですが、首都でのラオスの旧正月は、どんちゃん騒ぎが好きな人にはたまらないと思います!お酒飲むのが好きな人、水ぶっかけられるのが好きな人、ぜひ来年の旧正月期間はビエンチャンでお過ごしください💛

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ときに「異文化理解」という言葉は凶器となる?

さばいでぃー!

皆さんこんにちは、ラオスのラオ子です。

旧正月に向けてお仕事モードからゆるゆると正月モードに入ったラオスは、新年を迎えると同時にブチ上がり、都会も田舎も関係なくそこかしこが爆音&ダンス&水かけ祭の会場と化しました。そして三が日が開けると、しーん・・・として街全体がお休みモードになり、この週末が明けたらいつものラオスに戻り始める・・・のかな?という感じです。

 

いつもラオス最高ー!ラオス楽しいー!という話ばかりしているので、たまには趣向を変えて、今までで一番悩み、落ち込んだことを、色々やんわりぼかしながら書いていきたいと思います。

 

 

ラオ子は酒が飲めない

 

本題の前に。前提条件として、私は酒が飲めません。もともと弱い体質なのだと思います。飲んだらすぐに頭が痛くなり、眠気に襲われ、そこで寝てしまうと夜中にとつぜん吐き気に襲われます。寝なかったら、ひたすら笑うか泣くかを繰り返すらしく、人としての尊厳を失い、まわりに迷惑をかけます。飲み会も全く好きではありません、安い席はご飯美味しくないしうるさいし、そうでなくても煙草くさい。それで、安くても3000円、多いと5000円、ポンと飛んでしまう。3000円あったらスイーツセットのハシゴ行けるし、5000円あるならファイブスターのランチかデザートバイキングにでも行きたい。

あ、味が好きだから辛いと思うときもあります。友人や彼氏とベルギービールウィークエンドに行っても、私だけ貰ったコインのほとんどを割高なツマミに費やする。みんなは色んなビールを楽しんでいるのに、私は一口飲んで限界を迎えたところでビールをあげてひたすらフレンチフライを食べる。食べ終わった後物足りなくて、ほろ酔いの友人たちをステラおばさんのクッキー食べ放題の店に連行する。(理解のある友人たちで本当に助かる)

小さいころ、じいちゃんが石油ストーブで酒粕を焼いておやつがわりに食べていたのをつまんでたから酒粕の味は好きだけど、未だにちょっと食べたら顔が真っ赤になって目がちかちか。日本酒やワインの味は好きだし、料理に合わせたら美味しいのも分かっているけど、たくさんは飲めない。夏フェスで背伸びしてビール買ってみても、にわか雨が降ったらコップから薄くなったビールがコップのふちから溢れてくる。ワイナリーで試飲させてもらったら、その後ワインを買ったことを覚えていない。オールで飲んだ帰りにセブンで烏龍茶6リットル買って帰ったことも覚えていない。

 

1本、2本とビールをがぶがぶ飲める人が心底うらやましい。きっとラオスも、カンボジアと同じようにお酒飲め飲め文化なんだろう。カンボジアでは逃げ続けていたけど、今回は最後のチャンスだと思って、その文化に揉まれて、私もお酒が飲めるようになって日本に帰ろう!!!

 

・・・って思っていたのですが、そもそも本当にそう思っているならカンボジアに2年住んだ時点で出来ているわけで。さっそくラオスでもその壁にぶち当たることになりました。

 

ちなみに、この写真のときも、ちびちび、ちびちびと飲んで、半分でギブアップ。でもこの時は「青春ごっこ」の名のもとにメコン川の向こうのタイの灯りを肴に訓練生活を語ることが目的だったので、雰囲気が味わえればそれでよいのです・・・。

 

ラオスの「キンビア」って何

「キン(食べる)ビア(ビール)」でキンビア、つまりビールを飲むこと、飲み会、のこと。

 

ラオスのキンビアは、本当にすさまじい。

 

始まったが最後、というか、終わらない。いつになったら終わるんだろう??と聞きたくなるぐらい、終わらないんです。それはもう、田舎も都会も関係ありません。何かのセレモニーの後、黄色いケースがドンと積まれたかと思うと、中のビール瓶が次々空になっていく。いつ休んでるの?と言いたくなるぐらい、飲み続ける。爆音で音楽を鳴らし、会話にならない会話をしながら、ひたすら飲み続ける。

 

ピーマイ(旧正月)などの行事になるとそれがエスカレートし、夕方になると「え、これ、何人で空けたんですか・・・?」と聞きたくなる量のビール瓶が転がっている。それでもペースが落ちない。

 

そしてだいたいのキンビアで、盛り上がるにつれて「イッキ」コールが始まり、激化していきます。・・・・悪夢が、始まって、しまうのです。

 

おもてなし文化の温かさの裏側に

先に誤解の無いように言っておきますと、私はこの記事を通じて「ラオ人はアルハラだ!」とか、「ラオ人との飲み会には気を付けろ!」とか、そういう事が言いたいわけではありません。(いや、実際、私のように体質的に飲めない人は本当に気を付けたほうがいいかもしれませんが・・笑)

ラオ人にはラオ人の楽しみ方があります。キンビアして、ラオミュージック&タイミュージックをかけて皆で踊って、辛い物、美味しい物いっぱい食べて、いっぱい話していっぱい笑って。すごく楽しそうなのです。シラフの私には入れない話のループができあがって、途中からずっと同じ話をして笑ってます。たぶんこのあたりは日本でも同じです。

 

そしてもちろん、ありがたいことに、同席する私にもお酒が振舞われます。ラオスの温かいおもてなし文化。「これは今朝うちで採れた野菜で作ったのよ!美味しいからいっぱい食べて!」「これは〇〇出身の私の義母が作ったの!食べてみて!!」と、お母さんたちは、おかずや、焼き立て・揚げたてのお肉や魚をたくさんすすめてくれます。どれも美味しい。「日本人でも食べれる?」と聞かれ「美味しいよ!」と答えると、「もっと食べてくれていいからね!!」と笑顔で返してくれます。これがまた本当に美味しい。最近は、ローカルレストランには並ばない「家庭の味」というものに魅力を感じています。だから、こういう場所に混ぜてもらえると、色々食べられて嬉しい。この暑さの中、ちょっとだけ飲むビアラオも、美味しいです。ビアラオは今まで飲んだビールの中で一番飲みやすい。苦くないし、つんとしないし。氷たくさん入れてキンキンに冷やした薄いビアラオでいいんです。ちびちび、ちびちび飲みたい。

 

しかし、「イッキ」が始まると、そういったものを楽しむ余裕がなくなります。

 

「ラオ子!イッキ!」

「ごめん、飲めないの。お酒弱いし、体調悪くて。」

「なんで!イッキ!」

「いやいや、ほんとに飲めないから。ごめん、ほんとに飲めないの。」

「じゃあ、半分!」

「いや、ほんとに無理だって。体調悪いんだって。」

「なんで!半分!半分!」

「できない、できない。ごめんね。」

「じゃあコップの柄のとこまで!第一関節分!!」

 

ずっとこのループが続きます。一人が何度も来ます。そして酔っ払いは大勢居ます。みんなと順番にこのやりとりをすることになり、2巡目がまわってきて、3巡目、4巡目・・・。断るのが苦手な日本人。私もできれば、断りたくありません。でも、飲めないものは、飲めない。体が受け付けないと言っている。1杯飲んで済むものではないのも、分かっている。「ちょっとだけ」が通用しないのも、もう、わかっている。(来てすぐに潰れるまで飲んでます・・・。氷入りで、コップ3杯。)

 

コップにしばらく口を付けて、飲まずにテーブルの上に置いても、横目でそれを見ていて、また「飲んでない!イッキ!」が始まります。 

 

そしてエスカレートしていくと、肩を組んでの飲ませ合いや、口にビンやコップをつっこんで無理やり飲ませるなんて光景も。本当に、すごい。それでも楽しく飲み続けるラオ人のキンビア、すさまじい。「ちょっとだけ」がききません。こちらがコップ一杯でやめたいと思っても関係なし。うまく断る術もなければ、強く断るメンタルも無い私は、まったく飲まずに場をシラけさせることに耐えるか、言われるがままに飲み続けるかの2択です。

 

私にとどめを刺した一言

活動先から帰る途中、レストランで顔見知りに来い来いと手を引かれて座ったキンビアの席。最初はわいわいやっていたのですが、どんどん「飲め飲め」が激しくなり、威圧的に、怒鳴るように言われても、コップを口に無理やりつけられても、水を飲んでいたコップの中身を捨てられてビールを注がれても、私はかたくなに断り続けました。ずっと飲んでいる薬との相性が良くないので、飲まないように日本の医者から言われている、だからお酒は殆ど飲んだことが無いし、弱いし、翌日の活動に響くから、とも言いました。

 

そして言われた、辛~~~~い一言。

 

「ラオスに住んでおきながら、ラオスの文化を理解しようともしないのか。」

 

「ラオ子が酒を飲まないから私たちは全然楽しくない」 

 

この言葉に、それまで頑なに断り続けたことや、自分が飲めないことでみんなの雰囲気をつまらなくしていないかと葛藤したこと、それを案じて1度無理やり飲んでみたけどすぐダメになったこと、翌日活動先でも気分悪くて1日ポンコツになったこと、それでも「もっと飲んだら強くなるから!」と言われて「飲めない体質だとは誰も理解してくれないんだな・・・」とストレスになっていた事などが、自分の中で溢れ返ってきました。溜めに溜めていた心のダムが決壊してしまったような気持ちになり、そして何も言えなくなり、黙り続けました。その後私は、皆が違う事に気をとられているうちに、すぅぅぅーーーーっっっっっ・・・とフェードアウトするように帰ったのでした。

 

― きっとあの人は私に言った事なんて覚えていないだろう。覚えていても、悪気もなかったかもしれない。いや、いっそ、いやがらせしようとして言ってもらったほうが、もう近づかなくていいからマシだ。でも、どっちにしても、どこの国の人とか関係なく、こんなこと言われたら辛い。

 

―でも今まで蓄積されていたものが今ちょっとダメになっただけで、全部あの人が悪いわけではない。失礼だし謝ったほうがいいのかな。 せっかく混ぜてくれたのに申し訳なかったな。とはいってもあの「飲め」の言い方は怖かったし、戻りたくはないな。

 

帰る途中、色んな気持ちが頭の中をかけめぐります。

 

ー なんで私はお酒が飲めないんだろう。それがそもそもいけないのか。私がお酒飲めたらこんな気持ちにならなかったのか。じゃあ飲んでやろう。飲めるようになるまで毎晩飲んでやろう。ドチクショー!

 

悔しさをどうにかする方法が分からなくなった私は、「じゃあ飲めるようになったるわ!!ヤケクソや!!」という、いたって短絡的な思考のもと、アルコール度数4.5%のアップルサイダーを買い、半べそかきながら家に帰ったのでした。

 

「異文化体験」は選べない?

ラオスに派遣が決まってから、ラオスを知らなかった私はたくさんの事を学ぼうとしました。ラオスの本を読んで、絶版しているものは図書館をはしごして探して。初めてラオ語を見たときは「なんだこれは、本当に文字なのか。」そう思いながら2か月半でラオ語の読み書きを覚え、皆に比べれば語彙も表現も少ないけれど現地に来てからも毎日勉強しました。同期隊員に比べたらまだまだ努力も語彙も足りないけれど、近づきたくて必死でした。

任地では毎日いろんな産地の巻きスカートを履いて働いて。日本では食べないものだって憶することなく食べたり飲んだり。そんな風に、私は、自分の中にある「ラオスを知りたい」という気持ちに正直に、文化に溶け込もうとしてきたつもりでした。

 

―でも目の前の人を不快な気持ちにしてしまった。溶け込もうとする姿勢があったら出来ないことがあっても相手にも理解してもらえるというのは私の勝手な思い込みだ。自分が興味あることだけを選択的に体験して分かった気になっていても、結局相手のコミュニティに溶け込む力がなかったら、理解してないのと同じことなのかも。

 

―そもそも私がカンボジアで2年楽しく過ごせたのは、他の日本人が社内外問わず築いてきた関係に便乗していたからで、そこには自分自身でいちから作った関係なんか無かったし、それを勘違いして驕っていた自分が恥ずかしい。

 

と、キンビアを断って言われた一言で色々考え始めたら、止まらなくなってしまって。

 

その後は、家や飲み会に誘ってもらっても、「ごめんね、体調が悪くて。」「今からテレビ電話で他の国の隊員と会議やから・・・。」と、せっかくのお誘いを受けても逃げるようになってしまいました。特に職場の人の場合、関係を崩したくないこともあり、断りまくるようになってしまいました。

 

そして、お正月目前になってもうまく整理できず、「うちでパーティーやるけど来る?」「家族で滝に遊びに行くけど一緒にどう?」「子どもたちが一緒に水遊びしたいって!」と、活動先のいろんな人が声を掛けてくれたにも関わらず、その先にキンビアがあるかと思うと怖くなり、家族の楽しい時間に水を差してしまうのではないかという気持ちも強まって、「ごめん、首都で隊員と遊ぶんだ!」と断っている自分が居ました。

 

水遊びしたかったな。お正月どんなご飯食べるのか気になるな。綺麗な滝も見に行きたかったな。雨ごいのロケット祭も、本当に、本当に行きたかった。でも、自分がやりたいと思ったことだけやるのは、アカンのかな。キンビアもできないと無理なんかな。首都行ってもやることないな、隊員誰か暇かな・・・。

 

自分から選んだ場所なのに、自分から人と関わることから遠ざかってる。日本では「ノミュニケーションなんて必要ない」と強く思っていたけど、こっちでは日本に居る以上に、「楽しい時間を一緒に過ごして親睦を深めるため」のツールとして必要なものかもしれない。

うまく躱す術も、アルコール耐性も身に付かず、ただただ相手の好意を無下にして自分のわがままを押し通そうとしている。こんなんじゃだめなのにな。どうしよう。どうしたらいいんやろう。

 

と、うじうじ、うじうじうじうじ、悩んだ結果、実際これで任地の家に籠って寝正月したらいよいよ本当に取り返しがつかないぐらい落ち込みそうだったので、何もプランを立てずにとりあえず上京する事に決めて、事務手続きをしたのでした。

 

そしてどうにもならないこの気持ちを誰かに聞いてほしくて、連絡を取ったり、インスタでみんなに意見を聞いてみたり、ここでやっと人に話を聞いてもらうという行動が取れたのでした。あの時悩んでいた私に温かい言葉をかけてくれたみんな、本当にありがとう・・・。

 

この件で学んだこと

キンビアに悩みはじめたのは3月初めの赴任後すぐですが、本当にダメになったのは4月に入ったぐらいのことでした。1か月半の自分の行動とキンビアとの関わり方を振り返って、いくつか気が付いたことがあります。

もちろん、分かってくれる人も居る

この件があった数日後の、職場の「ブンピーマイ(旧正月祭)」が私には苦痛で仕方ありませんでした。8歳の友達以外、全員敵だと思って臨む予定でした。(友達にも「どうしてラオ子はキンビアしないの?大人でしょ?」って言われたけど・・・。)

 

バーシーには行きたい。でも、みんなが1年で1番楽しいときに、自分がお酒を頑なに断ることで「楽しくない」と思わせたらどうしよう。でも飲めないし、飲み会は昼から夜までずっとだし、憂鬱だ・・・と思っていました。

 

しかし、バーシーの準備中にオカンたちと色々話をしているとき、自分が本当にお酒を飲めないと悩みを打ち明けると、「じゃあこの後のキンビアは私たちのテーブルに来なさい!」「水だけ飲んでればいいから!」と言ってくれて、実際その後の飲み会でオカンたちからお酒をすすめられることはありませんでした。もちろん、他の席から乾杯しにきた人たちにはすすめられましたが、この席の人たちは私が飲めなくても良いと思ってくれている、と逃げ場がひとつあるだけで、私の気持ちはずいぶん楽になりました。それに、手首を見たら皆からお願い事をしてもらったたくさんの糸。私の幸せを願ってくれる人が居ることを思い出してあったかい気持ちで乗り越えられました。

 

酔っ払いは万国共通

 

「ラオスのキンビア文化怖い・・・」と、あやうく一括りにしてしまうところでした。先週この内容を更新していたら、おそらくこの記事も「ラオスのキンビア文化なんて滅びろ!」というキャッチーなタイトルになっていたかと思います。

でも、よくよく考えたら日本人だって欧米人だって関係なく、酩酊した人とはまともに話は出来ません。日本だって、飲めなくても楽しめる席もあれば、そうでない場所もあり、年末年始なんて駅周辺吐しゃ物まみれで、その上に寝っ転がっている人も。そもそもお酒の強要をする人がいなければ「アルハラ」なんて言葉は生まれていないはず。

「酔っ払い」にまともに話して分かってもらおうとしていたのが間違いだったんだと思います。そして、飲めないなら飲めないで、(いろいろな機会や広がりを逃すことはあったとしても)飲み会自体断ったって活動に支障が出るわけではないので、飲まされること自体が苦痛なのに交流をはかりたいという使命感で積極的に飛び込んでいく場所ではなかったかなと。実際、子どもたちと遊んだり、おばあちゃんたちと話しているほうが、100倍楽しい。そして、国籍関係なく、べろべろに酔った人、酔って他人に迷惑をかける人が、本当に苦手です。(私もたくさん飲んだらもれなくそうなります。)

 

来月には必ずぶつかる課題だった

私は活動上、バイクの使用を許可されている隊員です。来週には3回目の教習と試験、来月にはタイカブが届きます。そうなると、今までのように配属先の人たちの送り迎えではなく、バイクでの活動が多くなります。

飲酒運転はもちろんできません。現地の人たちにはそれを言っても「関係ないよ」と言われるかもしれませんが、私は下戸だし、「公人」です。バイクを運転するなら酒は飲まない。法律が、JICAがそういっているなら、私はそれに従います。

よって酒は飲みません。コップを無理やり口につけられても、楽しくない・文化を理解する気が無い、と言われても、だめなものはだめ。無理なものは無理。そう強く言い続けるしかありません。バイクに乗っている時は、何を言われても公人としての義務を果たすべきです。

それに、酔ったらすぐ寝るか、楽しくなって記憶がどこかに行ってしまうような人間が、「外国人女性」として見られる場所で酩酊すること自体が、安全上よろしくなさすぎます。そう、私は、外国人なのです。そしてここは途上国。急性アルコール中毒になったり、酩酊して怪我したりしても、救急車を呼んでもらえるかわからないし、病院に行っても日本と同じような治療を受けられるとも限りません。自分の身は自分で守る。ひとりで任地に住んでいる隊員として大切な大前提を、あやうく忘れるところでした。

 

相談することは大切

キンビアのことを相談した他の国の隊員から「自分も同じ状況」と教えてもらって、私の気持ちはずいぶん軽くなりました。また、「お酒以外のラオス文化に博識となり、積極的に披露する」「任務で信頼を得る」といった、自分自身の努力が足りないこと、「ラオ子という人間を理解してもらうのは時間がかかる」という大先輩からの言葉に、背筋が伸びたのも事実でした。

言葉を覚えて自分の気持ちを一方的に伝えられるようになることと、本質的に分かってもらうのとは全く別のことで、それを考えずに「何で分かってくれないんだよ」とヤケのようになっていたことには、大反省会(キンビア無し)です。

 

見習いたい”共感力”の高さ

正直、「隣の国に2年居たし大丈夫~」って余裕ぶっこいていたので、彼の一言でここまで落ち込むとは当人も思っていませんでした。ですが、私がインスタで白旗を振ったとき、そこにコメントをしてくれた人も、直接連絡をくれた人も、どちらも私のなかに鉛のように溜まっていたものをすっと溶かしてくれました。私はそんな風に人の力になれているだろうかと考えると、足元にも及ばないなと。

青年海外協力隊という同じ括りの中で活動している人、数年、数十年かけてコミュニティの中に溶け込んだ人、色んな人が居て、いろんな方面から話を聞いてくれて、いろんなアドバイスをくれて。みんなきっと、多かれ少なかれ、活動自体にも、インフラにも、「お金ちょうだい問題」、「シノワ問題」などにも、国や地域によって違いはあるにせよ今まで感じたことのなかったストレスを抱えて活動しているわけで。自分で選んで飛び込んだ世界だとしても、どうにもならないぐらい辛くなるときは当然あると思います。そういう時に自分も「ラオ子~!話きいてくれ~!」って思ってもらえるような人になりたいです。

 

自分も無意識にやってしまっていないだろうか

カンボジア人、トルコ人、スコットランド人。今まで私の家に遊びに来た人たちです。そして、日本国内で「大人数の日本人の中に外国人が一人もしくは数人」というコミュニティにも居合わせたことも何度もあります。英会話カフェ、ゲストハウス、職場、などなど・・・。その中で、相手が出来ないことを「文化だから」と無理やりやらせていたことがもしあったら、と、考えました。こちらは楽しんでほしくて精いっぱいもてなしているつもりでも、相手からしたらやりたくない事で、文化だと言われるから無理に合わせていただけ、なんてことがあったら・・・、どっちも得しません。無意識に、悪意なくやってしまうことほど相手を傷つけることはない。自分もこれから気を付けようと思いました。

それから、「文化」という大きな概念を理解する前に、目の前に居る相手を理解する必要があるし、それは自分がマジョリティでもマイノリティでも関係ないのかもしれない、という事を、今まであまり考えたことがなかったなと。目の前で起きたことがその「文化」のすべてではないことが大前提、捉え方も表現も伝え方も何もかもが人それぞれで、自分が経験した事だけで100を理解した気持ちになるのは本当に危険。実際に同じラオスの他の隊員からは「そんなに強要する人も居るんだ」と驚かれましたし、「あるある。辛いよね。」という言葉をくれた人もいます。集団の中の一人であることに変わりは無いとしても、それがすべてに当てはまると考えてしまうことは避けたいです。

 

発信するという行為に対する責任

これはカンボジアから帰って小学校、高校、大学と色々なところで講演させてもらったときにも思ったことですが、自分が「これがラオスの文化」だと捉えて発信することで、ラオスの間違ったイメージを与えることにも繋がってしまう危険性があるんだということを忘れてはいけないなと。

特に、今私は「青年海外協力隊」として「ラオス」で活動している人間です。その「ラオ子」が、ブログやSNSで発信することで、国際協力に興味がある人の手助けになったり、ラオスに来たい人の情報源になれば嬉しいし、自分がどっぷり漬かっているラオスという異国の面白さ、すばらしさを伝えていけたらという思いで書いています。しかし、私という一人の人間のバイアスがかかることで、捻じ曲げて発信してしまうという危険性があることを十分に考えて発信していく必要があります。

 

「したい」と「させられる」

まとまらないまとめです。

その後の首都滞在で、同期隊員と一緒に、路地裏にテントをたててキンビアしていたおじさんたち(多分そこそこ偉い人)に混ぜてもらいました。ゆるーく踊ったり、写真とったり、「〇〇君(JOCVの先輩)を知っているよ!彼にはお世話になったから君たちがもし旅行に行くなら僕の車で連れてってあげるよ!」なんて嬉しいことを言ってもらったり。

それ以外にも、旧正月で同じく上京中の同期隊員たちから「昼から飲む」という未踏の飲み方を経験させてもらったり、夜ドミに戻ってからも寝る前にビン1本飲んでみたり。「ちょっと飲んでみる?」「大丈夫?」「無理してない?」と、練習に付き合ってくれて心配もしてくれて。

お互いの任地での生活や活動の話なんかをしながら、メコン川沿いでゆっくり飲むビアラオ、うめぇ。ちょっと飲んだら眠くなるけど、昼間のうだるような暑さの中飲むビアラオも、うめぇ。

 

結局のところ、私が今回ここまで拒絶反応を示したのは、

①「文化だからと断りにくい環境を作り、何度もイッキを強要される」という事自体に強いアレルギー反応を起こしキンビア自体受け付けなくなっている(7割)

②「ラオスを理解しようとしていない、楽しくない」と否定されたことに純粋にショックを受けた(2割)

③無理やりやれと言われたことをやりたくない意地(1割)

かなあ、と、首都滞在を終えて思ったのでした。

 

自分の習慣に無いものを強要されるというのは結構苦痛ですが、もし逆の立場でそうなった場合に拒絶反応を示してしまうというのは、きっとラオスの人も同じこと。活動の上で自分がそうしないように、自分が28年間でつくってきた「普通」は一旦捨てて、時間がかかるとしてもひとつひとつの事を丁寧に確認しながら活動していきたいと思いました。

 

ちなみに、ヤケ買いしたアルコール入りのアップルサイダー

 

 

キンキンに冷えてます。だって1本もよう飲まんもん・・・。

隣の醤油のほうがよっぽど美味しそうや。

 

余談。

自分の時間がたくさん持てて、読書や情報発信に時間をつくりやすい今の生活。せっかくなら読書と文章づくりの質をあげる練習をしてみようと、「東大読書」「東大作文」なる本を買ってみました。いつもはだいたい2000文字ぐらいで力尽きるのですが、1万文字ぐらいのボリュームで書いたらどれぐらいの内容になるんだろうというちょっとした好奇心で、旧正月最終日を使って、写真少な目・文多めの1万文字記事を書いてみました。結構文章書くのって体力が要るんですけれども、写真に頼ってばかりではいつまで経っても文章が書けるようにならないので、今後も不定期でやっていく予定です。大した内容ではありませんが、また次回もお付き合いください。

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ラオス旧正月!バーシースークワン初体験で、ちょっと泣いた話。

さばいでぃー!

 

さばいでぃーぴーまい!(あけましておめでとうございます!)

皆さんこんにちは、ラオスのラオ子です。

1月1日のインターナショナルニューイヤー、2月の中国旧正月に続き、4月15日、ラオスは今年3回目の新年を迎えました。私の活動先である産業商業局は、11日が新年のパーティー。12日は後片付けや余韻(皆あちこちで飲んでいて働くモードはどこへやら)で、私も局には行かなくて良いと言われたので家でたまっている報告書の作成や料理にあてました。

そして13日から17日まで5連休。活動先によってはもっと長期休暇のところもあるそう。逆に1月1日のインターナショナルニューイヤーは元旦だけが休みで2日からは普通に仕事なんだとか。いかにラオスで旧正月が大切にされているかが伺えます。

 

旧正月、どんなかんじ。

 

メコン流域の国々、本当に面白い。文化や宗教、言語など、過去の歴史の中で深いつながりがあったことを感じさせてくれます。4月になると、タイは「ソンクラン」、ミャンマーは「ティンジャン」、カンボジアは「チョール チュナム トメイ」と、周辺国は旧正月を迎えます。(ベトナムのテトだけが、ちょっと特殊かも。)

ここラオスも、ほぼ同じタイミングで「ピーマイ(ピー=年、マイ=新しい)」があり、今年は4月13日から17日までは旧正月の大型連休(当局の場合)。

正月1週間ほど前から事務所に来る人が少なくなり、各々買い物や、産業商業局とつながりのある省庁・企業などのパーティーに出席し、千鳥足で昼過ぎごろに局にやってきました。

それが正月に近づくにつれエスカレートし、水でびしょぬれ、ベビーパウダーで粉まみれのおじさんたち(といっても局の中では課長、部長クラスの方たち)が、私のデスクの前にあるソファにドンと腰かけてゆらゆら。

「ビール飲んできたの?」「うん」「どこで飲んでたの?」「〇〇局に呼ばれて」「いっぱい飲んだんでしょ」「うん」「クーラーあたって寝てて」「うん」「水飲む?」「いらない、ビール飲む」「無いよw」「買ってきて、お金あげないけど」「嫌だよwwww」と、私は千鳥足のおじさんたちとどうしようもない会話をして過ごしました。

そんな感じで、お正月が近づいてくると、家も会社も関係なく色んなところにぽつぽつとテントが張られ、爆音でラオミュージックが流れるなか、皆ゆる~く飲んだり食べたり踊ったりするようです。

 

産業商業局の正月祭で「バーシースークワン」初体験

 

 

4月10日夕方、いつも閉まっている「ほーん ぱすむ(会議室)」が珍しく開いていて、中から人の笑い声が。さっき水びたし&粉まみれですれ違った、完全に出来上がった課長が入っていくのが見えたので、私は見なかったことにして事務所へとこっそり戻りました。

 

 

その後、他の局員さんから「ラオ子!おいで!」と呼ばれたので、「キンビア(飲み会)やったら地獄やなあ・・・」と思いながら恐る恐る部屋を覗くと、コンクリの打ちっぱなしの床に茣蓙が敷かれて、翌日の「バーシースークワン」の準備をしている最中でした。

冗談なのか意味があるのかは定かではありませんが、ひょろひょろぐにゃぐにゃの長いロウソクを頭に巻かれ、顔の長さを測るかのように頭のてっぺんから顎までべたっと押し付けられ顔面をばしばし叩かれました。

 

 

それを、ロウソクを束にしてしめ縄のようになった塊に合体。「何したの?」って聞いたら「ぼーぺんにゃん!(大丈夫!)」と言われたので、大丈夫なんだと思います。

 

 

そして翌日、お酒が飲めない私には悲しいぐらい憂鬱な「大晦日前日」の11日、この日は産業商業局の仕事は1日中お休みで、息もしたくないような暑さの中、「ぶん ぴーまい(ぶん=祭)」つまり、お正月のパーティーが開かれました。

 

 

朝から皆せっせと「バーシースークワン」というラオスに伝わる儀の準備。家族が大きな病気をしたあと、新年、家族が留学や仕事で遠いところに行く前などに、幸せを願って行われるそうです。私は今回バーシースークワン初参加。派遣前訓練中に、ラオ人の先生が作ってくれたミサンガで隊員同士でバーシーの練習をしたことを思い出し、板書を見て何を言ったらいいのか復習。

 

 

家族だけで行うこともあるそうですが、お正月のバーシーは特別。お坊さん4人に来てもらい盛大に儀式が行われました。

 

 

運ばれてきたタライにはたくさんのピンカイ(焼き鳥)が入っていて、お姉さんたちが中華包丁を使って次々叩き切りしていきます。

 

 

 

そしていよいよ、儀式が始まりました。

各々持ってきた仏具(?)にロウソクを立てて黄色いお花を入れ、手を合わせてお坊さんのお経を聴きます。

 

 

田舎のお寺の保育園で育ててもらった私にはなじみ深い「ブッダンサラナンガッチャーミー」。カンボジアで初めて聴いたときは「本当に言うんやああ!!!」とものすごく感動しましたが、同じ上座部仏教のラオスでも同じお経を聴くことができました。その後には「ダルマンサラナンガッチャーミー、サンガンサラナンガッチャーミー」と続きます。「三帰依文」というもので、「ブッダ(仏)、ダルマ(法)、サンガ(僧)」に帰依するという意味だそう。

その後は「ドゥティヤンピ(ふたたび)」「タティヤンピ(三度)」を頭に付けてまた同じ言葉を繰り返します。

 

 

そして時折、水でふやかったもち米や、キャンディー、お花、小さく折られたお金などが飛んできました。

 

 

「よかったね、ラオ子!幸せがやってきたね」

 

なるほど、そういう意味なのね。

 

お坊さんが錫の器に入った聖水を、葉がたくさんついた木の枝をつかって全員にかけてまわり、またお米があちこちから飛んできて。結構、びちゃびちゃ。後半になると、床も、体も、頭も、米まみれ。もち米が撒かれるたび、「わぁ~~!!」と歓声があがります。

 

 

そして、結構長かったお経が終わり、お坊さんはこちらで用意したご飯を食べます。

 

お経を唱えている間火柱をあげていたロウソクと、残った水。このお水を体につけたり、ペットボトルに入れて持ち帰ったり。日本でいう、お寺に行ったときにお線香の煙を浴びるようなものでしょうか。

 

 

 

そしてお坊さんたちがお帰りになり、バーシーが始まりました。

「ラオ子、あなたは初めてだから一番前よ!」「でも写真撮りたくて・・・失礼じゃないかな」「大丈夫!手を合わせてる間は皆と一緒にお祈りしてね」と言ってもらえたので、一番前でバーシー式を体験させていただくことに。

 

 

真ん中に置いた祭壇のようなものから伸びる糸を皆で持ち、進行役の一人が何かをずっと唱えています。その村の長など、位のある人が、が口伝された祝詞のようなものを唱えるようです。(語学力の限界・・・。)

そして時折みんな「サーーー!」とこたえる。このタイミング覚えたいなあ。

 

 

終わったら、みんなで祭壇のオレンジや白の糸を分け合って、手首に結びます。卵や鶏肉を握らせて結ぶ人、お金を握らせてお願い事をする人、いろいろ。

 

私も上司・同じ課の人のところに結びに行きたいな、と、必死で覚えた言葉を思い出そうとしていたところ、「ラオ子!ラオ子!」とみんなが私のところに結びにきてくれました。

 

 

ビエンカムにきてくれてありがとう。

 

あなたと一緒に仕事ができて嬉しい。

 

2年間、健康で過ごせますように。

 

2年間、ここでの生活が安全でありますように。

 

たくさんのラオ人の友達ができますように。

 

ここが第2の故郷になりますように。

 

ビエンチャン県のODOP商品を、協力してたくさん売っていけますように。

 

あなたが笑顔で頑張れますように。

 

あなたと、日本にいるあなたの恋人や家族が健康でありますように。

 

2年後にはもっともっとラオ語でたくさん話ができますように。

 

日本とラオスがもっといい関係になれますように。

 

多分、もっとたくさんのことを言ってくれていたのですが、今の私に聴き取れるのはこれぐらいでした。

 

でも、十分でした。私の手を取り、ゆで卵やお金を手のひらに乗せて、私の目を見て、とびきりの笑顔で、私の2年間の活動や、ここでの生活が豊かになることを祈ってくれた。

もっと聴き取れたら、と、悔しい気持ちになりながらも、みんなの温かさに胸がいっぱいになって、喉の奥がぐっとなりました。こらえきれず涙が出てしまい、「どうして泣いてるの」と聞かれ、「嬉しいからだよ」と答えると、「その気持ちで、これから頑張ろうね」と。

 

 

こんな風に、温かい気持ちと真っ直ぐな言葉でお互いの幸せを願う儀式が、職場や家庭で当たり前のように行われる。なんて素敵な文化なんだろうと思いました。

日本に居たときは、「仕事は仕事」「プライベートはプライベート」と完全に分けた働き方しかした事がなかったし、それが当たり前で、普通なのだと思っていました。でもラオスは違っていて、もっともっと距離が近くて、皆がみんな親戚のような感じ。だからこそ理解し合えること、助け合えることもたくさんあるんだろうなと、ここに居た1か月半みんなの働き方を見て感じました。

 

 

この後引き続き行われた「ぶんぴーまい」の飲み会は、お酒が飲めない自分にとって結構辛いものでしたが(これはまた後日)、バーシーの儀式は「心があったかくなる素敵な時間」であるということを知った素敵なお正月となりました。

今度のバーシーでは、私がみんなの幸せを願って糸を結べるようになりたい。このモチベーションを語学の勉強にあてたいと思います。

 

 

ネットで調べると諸説あるのですが、結んでもらったバーシーの糸は3日~2週間ぐらい置いあと切るそうです。それまでにも結び目の甘いものが自然と取れていきましたが、糸がたくさんついていると炊事や入浴のあと重さを感じるぐらい水を含みます(笑)

 

取れてしまったものは家の鍵に結んで、残っているものはこのままにします。見るたびに皆に貰った温かい言葉を思い出せます。皆、ありがとう。

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活動先で、突然生産者のおばあちゃんによる指圧マッサージが始まった話。

さばいでぃー!

任地に来て3週間が経ちました。ラオスのラオ子です。

最近パソコンで蟻を飼い始めました。

電源を入れると蟻がわらわら出てきます。

噛むタイプの蟻じゃないので、

PC壊さなかったら居てくれてもかまわないのですが、

潰すと蟻酸臭いのがちょっと難点です。

お願いだからPC内で蟻酸出さないでよね。

 

それはいいとして、最近、

色んなデータの翻訳作業や、それに伴う文献調査で

肩こりと目の疲れが限界に達していました。

肩が凝るといつも左肩がジンジンと痛くなって、

耳の後ろから肩甲骨あたりまで変なツッパリ感があるんですが、

今回はそれに加えて、左手の甲がずーっとぴりぴりと

変な痺れを起こしていました。

おそらくラオ文字を読むことに慣れておらず

書類やPCに顔を近づけすぎていることが原因かと思われます。

 

アジアあるあるですが、とにかくベッドが大きいので、

寝る前はこれでもかとストレッチしています。

しかし、部屋に机と椅子が無いこともあり、

ずっとベッドでごろごろ読書、スマホ、PCな日々では

それも相殺されるどころかマイナスです。

 

そして今日も私は、疲れた目をかっぴらき、

「目、大きくしたいの?」と言われながら

作業をしていました。

 

初めまして!の生産者さん

そこへやってきたのは、初めてお目にかかる

ODOP製品の生産者さん。

どこで、何を作っておられるのか伺って、

今度見学させて頂きたいというお話もして、

その後私は自分の作業に戻りました。

 

すると突然、事務所のソファーからすっと立ち上がって

私のデスクの前で手を合わせ、

「少しこちらに来てもらえますか。」

と、ソファーを案内されました。

 

何かお話があるのかと思い、スマホ、紙、ペンを持って腰かけると、

私の背後に立ってそこから動こうとしません。

 

なんだなんだ??

 

と思ってちらっと後ろを見ると、

手を合わせてなにかぶつぶつと言ったあと

私の背中を擦り始めました。

 

これはまさか、疲れていたのではなく

憑かれていたのか・・・?!

この人はシャーマンだったのか・・・・?!!?!?!?

 

と色々考えていると、突然マッサージが始まりました。

 

マッサージというよりも、これはもはや「指圧」。

街中にある「気持ちいい」マッサージではなく、完全なる治療。

 

「そこ自分で押さえても死ぬほど痛いんですよ」

という場所だけを、伝えてもいないのに(伝える語彙もない)

恐ろしいほどクリティカルに攻めるおばあちゃん。

私は全身の毛穴が開くのを感じました。

痛い。引くほど痛い。

 

その施術が10分弱続いている間、

おばあちゃんはODOP認証商品について

局員さんとずっとお話していました。

 

痛すぎてちょっと涙が出ました。

 

こんな小柄なかわいらしいおばあちゃんのどこに

この握力があるのだろうと不思議に思うぐらいの力強い指圧。

 

最終的におばあちゃんは腰から頭のてっぺんまで

くまなくマッサージして、私の前で手を合わせて

「ありがとう。終わりよ。仕事を続けてね」と。

 

あれ。

 

 

私の後に課のねーさんの施術が始まり、

いや本当に何だったんだコレは、と思い暫く作業していると

左手の甲の変なぴりぴり感が無くなっていることに気が付きました。

 

おばあちゃん。あの。あのですね。

 

痺れ無くなってます!!笑

 

びっくりした私はおばあちゃんに

「痛くなくなりました!!!ありがとうございます!」と言うと

ニコッと笑って「メルシーボークー。」

何もなかったかのように施術を続けています。

元フランス領だったラオスやカンボジアのお年寄りの中には

フランス語を話せる方もいらっしゃいますが、

何故私にフランス語で返してくださったのは謎です(笑

でも、プロ指圧師のおばあちゃんの突然のメルシーに

なんだか痺れました。おばあちゃんかっこいい!!

 

どういうことだ。なんてこった。

本当に本当に、背中が軽い。

 

そうこうしているうちに、次の局員さんに交代し、

いつもどっしり構えたオカン的な局員さんが

「痛い!痛い!!」とめちゃめちゃ可愛い声で泣きそうになっていて

私は少しキュンとしました。

 

彼女の職業は。

何を作っているのかをお伺いして、

てっきり生産者さんは生産者さんだと思っていたのですが、

その後よくよく聞いてみると彼女の職業は

「モー ヤー プンムアン」というもの。

ラオ語では「ໝໍ ຢາ ພື້ນເມີອງ」と書きます。

 

モー = お医者さん 

ヤー = 薬

プンムアン = ネイティブの

 

つまり、「伝統療法士」が彼女の職業だったのです。

 

このおばあちゃんは伝統療法士が本職で、

その知識を活かして自然のものからオーガニックの医薬品を作り、

ODOPの認証を受けていたのでした。

 

マッサージも1時間50000kip(=645円)で

受けてくださるそうなので、早速今度行ってみたいと思います。

前職が登録販売者だったこともあり、

薬の成分や製造工程には私も興味津々。

薬を作るところも見せていただけるとの事でしたので

早速今度お邪魔する予定です。

 

ああ~!面白い!まだまだ知らないことだらけ。

飽きたなんて言う日は来ないまま2年間が終わりそうです。

(ただし生活圏内の食事にはもう飽きました。)

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バーシーのあとのパーティー

さばいでぃー!

 

バーシーの儀式のあとのパーティーにお呼ばれしました、

ラオスのラオ子です。

 

「バーシー」とは、ラオス特有の文化で、

冠婚葬祭や何かの節目のときに行われる儀式です。

まだ私も体験したことがないので説明できませんが、

今回のバーシーは、体調を崩されていた課長の奥様が

良くなったことを祝うためのもの、とのこと。

 

1週間ほどまえに写真のような招待状が局員全員に手渡されました。

封筒から招待状を抜いて、そこにお金を入れて封をします。

相場はだいたい100,000KIP(=1300円)ですが、

私は初めてだし外国人だから50,000KIPぐらいでいいよと言われたので

その通り50,000KIPを入れて用意しました。

 

平日の昼間(普段なら働いている時間)に皆で車に相乗りし、

いざ課長の家へ!

 

パーティー、こんなかんじです。

 

入ってすぐに置いてあるこの入れ物に

お金が入った封筒を入れたら、

あとは勝手に好きな場所に座って食べたり飲んだりするスタイル。

爆音でシンセサイザーの半打ち込み生演奏が流れ、誰かが歌って、

みんななんとなく踊っている、ゆる~い感じ。

お隣カンボジアの結婚式を思い出して懐かしくなりました。

 

 

いつもはシンという巻きスカートに

ポロシャルやカッターシャツを着て出勤していますが

私も今日は「スア」と呼ばれる正装用の衣装を着ていきました。

首都のタラートサオという市場で、1300円で購入したもの。

オーダーメイドではありませんが、

買ってからウエストのあまりを詰めてくれました。

 

この町に来て初めて「スア」を着て出勤したので

みんな「綺麗なスアね!!」とほめてくれたのですが

その後に「でも靴(KEEN)と鞄(リュック)がイケてないわ!!」と

ダメ出しもいただきました(笑)

ハンドバッグとパンプスですね。わかりました用意します!

 

嬉しいことに、首都を出てから一回りお腹がへこんだので、

自分を甘やかさないように今の状態でもう1度絞ってもらおうかと

考えたり、考えなかったり・・・。

あんまり詰めすぎると肩凝るからこういう衣装苦手なんだよなあ。

 

 

首都でのホームステイ中に行った出家式でもそうでしたが、

基本的にビュッフェスタイルでいろいろなおかずが置かれているほかに

フォーコーナーがあるようです。

寸胴ではお出汁と肉団子がぐつぐつ。

 

 

フォーには、各々好きなものを入れて食べます。

レバー、血の塊、豚、鶏、パクチー、生唐辛子、たかのつめ、

胡椒、アジノモト、砂糖、トマト、唐辛子ペースト、

魚醤、トマトソース、スイートチリソースなどなど。

 

真っ赤になるまで唐辛子入れる人も居れば、

色々入れてこだわり感あふれる1杯を作る人もいます。

見てるの楽しい。

 

 

私は、豚肉少々、パクチー、胡椒、たかのつめを入れました。

これを食べたあと、おかずをたくさん取りに行って

「キンビア(ビールを飲むこと)」が始まりました。

 

 

こんな風にビールに野菜や果物を・・・

 

というわけではなく(笑)、

これは所謂いじられキャラの人が踊りに行っている間に

みんながあれやこれやとコップに入れたもの。

 

スイカの隣のもの、タケノコに近いものなのかなあと思ったら

バナナの芽でした。

バナナの花は食べた事あるけど、芽は初めて見ました。

 

どれ。シンブン(味見)。

 

 

こんな風に、重なっている新芽のぶぶんを1枚外して

取り分けてくれました。

 

単子葉植物の葉っぱなんて繊維質で食べてもモサモサするだけでは・・?

 

と思いましたが、なんとなく肉厚で、もちもち。

手でちぎると、そこから繊維質な細い糸がふぁ~っと出てきます。

レンコンのような感じ。

 

 

サニーレタスに、バナナの新芽っと、よくわからないハーブ2種類、

そして茹でたテラピアの身をほぐしてハーブと和えたものを包んで、

パデークのジェオ(どろどろした魚の醤油を使った、辛み調味料)をつけて

ひとくちでパクッと頂きます。

コンテンツ過多で何がどう美味しいか分かりませんでしたが

とりあえず全体的に美味しかったです。

 

 

「イッキ!」

「ぼだい!(無理)」

「半分!」

「ぼー!ぼだい!(無理無理!)」

「指1関節分!!」

「・・・。」

 

と私が最も恐れるキンビア文化に飲まれ(飲まされ?)、

この後大変な目に遭いましたが、大丈夫、わたし、なんとか生きてます。

 

バーシーに、行きたいなあ。

 

この日体験させてもらったのは

バーシーが終わったあと皆を招待して行われるパーティー。

ブログでよく見る「両手首、白い糸まみれ」は未体験です。

異文化に触れるとき、知的好奇心が爆発する生き物なので、

はやくバーシー行きたい~~~バーシー行きたい~~~~~~~!!

という念を誰かが受け取って、私を招待してくれるのを

静かに待ちたいと思います。

 

さてこの写真ですが、家の近くの叢によくわからないお盆があって、

(串に刺さった草木や黄色いロウソクが乗っていた)

それを撮ろうとしたら「これは撮っちゃダメ!」と言われ

なんとなくその目の前にあったマンゴーを撮ったものです(笑

 

何でダメなの?とあとから聞いたら

「これは悪いピー(幽霊)を除霊するために置いてるのよ」と

小さな声で教えてくれました。

知らないって怖ぇー!!!!

 

ブログ追加したよ

 

モザンビークの小学校教育隊員、

心配ないさのお兄さん「ジャッキー」のブログ追加しました。

なんとなく始めてみたリンク集づくりですが、

気づけばもう11か国!!楽しい!!!