さばいでぃー!
こんにちは、ラオスのラオ子です。
前回の記事の通り、無事ラオスに到着しました!全部いっぺんに書くと、記事のボリュームがたいへんなことになりそうだったので、隔離までで一旦区切らせてもらいました。今日はその続きを書いていきたいと思います。
9月26日 隔離終了
隔離が終わった日の朝、はじめてビエンチャンの街を歩きました。空港出口からバスまでの数十歩と、バスから隔離ホテルまでの数十歩以来、14日ぶりの外の世界です。雨が降りそうなぬるーい風が吹いていて、日本円からラオスキープに両替できるところがないか探していたらやっぱり通り雨に打たれました。
メコン川ぞいのこの道は、”いつも”なら、渡るタイミングを見計らうのにしばらく立ち止まるぐらいの交通量がある場所なんですが、見渡す限り1台も車がありません。こんな景色、見た事ありませんでした。
この道も、”いつも”ならトゥクトゥクが客待ちしていて、バックパッカーが歩いていて、バイクもあちこちに停まっていて・・・という、よくある風景があったはずですが、ご覧の通りがらーんとしています。
大通りには何か所も規制線が張られ、往来が制限されていました。そのチェックポイントが見られるマップがあったのですが、もう、真っ赤っか。あっちもこっちもチェックポイントだらけでした。諸手続きのため、パスポートを事務所に預けた状態になっていて、もしチェックポイントで何かあった時に出せる証明書がなかったので、出歩くのは本当に最小限にしました。
9月30日 ロックダウン終了・・・とはいかず
ロックダウンの期限とされていたこの日、政府は、10月15日までのロックダウン延長を発表しました。
正直なところ、祈るような思いでロックダウンが終わるのを待つこともないぐらい、当たり前の措置だったので、ショックも動揺もありませんでした。市中感染、各地で起きた様々な規模のクラスターを考えると、政府発表を見た時は「うーん、そうなるよなあ。」という気持ちで、わりとすんなり受け入れられたと思います。(もちろんそのあと落ち込みましたが)
それから今に至るまで、ロックダウンは継続していますので、最低限の日用品や食料の調達にとどめ、できるだけ人との接触を避けてホテルで待機する日々が続いています。街中を歩いていると、「ໃຫ້ເຊົ່າ(for rent)」の張り紙があちこちに貼られていて、シャッター街のなかにぽつぽつとお店があいているような感じ。何度も通った老舗のレストランの看板が剥がされているのを見て、なんとも切ない気持ちになりました。明らかに増えた空き物件の軒下で日差しを避けて寝ている人たちは、靴を履いていたり、そうじゃなかったり。ホテルのテラスでフードパンダが来るのを待っていたら、手を合わせてお金をくださいとお願いされたり。往来が減ったぶん相対的に目立っているだけで前からこれぐらい居たのか、と初めは思いましたが、あきらかに以前より増えているということを実感しています。
10月3日 おかず横丁にハマる
これは通称「おかず横丁」と呼ばれる、JICA事務所近くの通りです。昼間はがらーんとしていますが、夕方になるとあちこちからもくもくと美味しそうな煙があがり、おかずを求めてやってくる地もとの人たちで賑わいます。隊員も、ここかメコン川沿いの屋台によくお世話になっていましたが、レストランがまったくない任地に居た私は「上京したときはラオ料理以外のものが食べたい!」という思考になり、あまり行ったことがありませんでした。
ところがどっこい、なんですが、この1本100円のソーセージ。任地でも食べてはいたのですが、久しぶりに食べたからか100倍ぐらい美味しい。それに、普通の、辛いの、酸っぱいの、甘いの、と4種類あって、飽きません。これにカオニャオ(蒸した糯米)を20円分と、100円の激辛パパイヤサラダを足せば、それだけでお腹いっぱいです。
日本での待機期間中、ラオス料理が恋しくなったらタイ料理屋に行ってイサーン地方の料理を食べてしのいでいましたが、この写真の一番手前にある「ゲーンノーマイ(タケノコスープ)」には出会えませんでした。緑の何らかの葉っぱを叩いて作る深緑色のスープに、たくさんのタケノコとかぼちゃ。独特の苦みの中にも何のダシか分からないダシっけが効いていて、これがほんとうに美味しいのです。これもたっぷり1人分で50円前後。ああ天国。
「明日はピンカイ(焼き鳥)もええな~!」なんて、次の日の夕飯の心配までしながらおかず横丁を端から端まで歩いて、こっちの店でちょっと買って、あっちの店でもちょっと買って、と、24時間のほとんどをホテルで過ごす私のちょっとした気分転換だったわけですが・・・
10月5日 おかず横丁がレッドゾーンに
あっけなかった・・・。
近所の方に聞いてみたところ、「7日間はあかないよ」とのこと。がっかりしすぎてしばらく食欲が湧きませんでしたが、ぎりぎりのところで気持ちを保って豆乳とカオマンガイを買ってホテルに戻りました。せっかく見つけた、安くておいしい夢の国だったのに。
昨日まで元気だった通りが一晩でもぬけの殻になってしまったのを見て、コロナが誰にも起こりうる身近な感染症で、そして自分たちも常にその危険に晒されているのだと痛感しました。そしてなにより、ここは確かにビエンチャンなんだけど、私が知っているビフォーコロナのビエンチャンはもうとっくにどこかに行ってしまったんだなあと思いました。
もしロックダウンがなければ私はもう任地で活動をしていたはずですが、いつ赴任できるか、今どういう状況なのかもよくわからないまま毎日が”すり減っていく”ことに、少し疲れを感じています。
さよなら、ありがとう
そしてもう一つ。時系列が前後しますが、9月30日をもって、ラオス協力隊員専用ドミトリーが廃止になりました。赴任後1カ月間の語学訓練は、同期隊員とこのドミトリーで共同生活し、それぞれの任地に旅立ってからも私事・公用目的の上京の際にはこのドミトリーで寝泊まりや自炊ができました。1年に1度の隊員総会では、地方隊員でドミトリーが満床になり、任地での一人ぼっち暮らしとは全然違う、賑やかな毎日でした。私は地方隊員といっても首都に近いほうだったので、自称「週末首都隊員」となり、上京してあちこちのハンディクラフトショップをめぐったり、レストランやカフェを開拓したり、任地に持って帰る食料品を調達したりしていたので、このドミトリーは本当によく利用しました。私物も置いておけたので、身軽で来れたのもありがたかったですし、メバーン(お手伝い)さんがいつも綺麗にしてくれていたので、安宿によくあるベッドバグ(南京虫。発狂するぐらい痒い)なんかの心配もしなくていい、隊員にとっての拠り所のような存在でした。
これはドミトリーの2階共用スペース。ドミトリー自体は十数年前に今の場所になったそうですが、本棚には、その前からあったと思われる本がずらり。1階の共用スペースはキッチンが近いので、ご飯を食べたり話したりするのに使われていましたが、2階はどちらかといえばゆったりしたい人向けで、奥の机で勉強したり、ある日突然「国際協力って何なんだ…」って迷走しだしたら過去の先輩が置いていってくれた本を漁ったり、一周回ってブッダの教えを読んで悟りを開こうとしてみたり、静かに自由に過ごせる場所でした。
ラオスは協力隊事業で一番最初に派遣された任国です。私たちの隊次でちょうど派遣者数が1000人を超えたのですが、今まで派遣されてきたたくさんの方が残してくださった書物やDVDをはじめ、活動備品、タコ焼き器など、歴史を感じるものから痒い所に手が届くものまでバラエティ豊かに色々揃っていました。
ある日「マウス壊れちゃったんですよねー。ミニソーやってるかなあ~」と出かけようとすると、先輩隊員が「確かここにあったよ」とdynabook用のBluetoothマウスをどこからともなく出してきてくれたことがありました。このマウスは今でも使っています。見つけてくれた先輩隊員、置いて行って下さった名も知らぬ先輩隊員さん、ありがとうございました…。
帰国前に「持って帰れないけどまだ使えるもの」を置いていく、通称「ドミマーケット」というスペースがあり(といっても茣蓙を敷いてあるだけですが)、そこに帰国隊員が置いていったものをありがたく貰って、そしてまたそれが巡っていく・・・というのができたのも、ドミトリーあってこそでした。
この棚には、先輩隊員が各地で貰った記念品や盾、でっかいゾウの置物などが誇らしげに並んでいたのですが、私が隔離を終えてドミトリーに来れるようになったころにはもう殆ど無くなっていました。
ドミトリーは、便利なだけの場所ではありませんでした。赴任して最初の1カ月間は、たまたま上京した先輩に生活のちょっとしたtipsやおすすめのお店を教えて貰ったり、任地の先輩と繋いでもらったり、活動のことを聞いたり、旅行に行くならどこがおすすめとか、どうやって行ったら安く行けるとか、生きた情報はなんでも手に入りました。
今思えばちょっと言葉選びが尖ってるなあと恥ずかしい気持ちになりますが(笑)、2年半前に赴任したときに受けた「キンビア(飲み会)」の洗礼についての記事です。
赴任した直後の飲み会でえらい目にあい、自分が「飲めない」と断る事で関係が悪くなるのではと考えたり、場がシラけたりするのが本当に辛くて、それでも飲めないものは飲めなくて、どうにかどこかに逃げたくて、4月の旧正月は誰とも何の約束もなく首都にあがりました。
その時たまたまドミに居た先輩がお昼に誘ってくれて、任地であったことを話し、ずいぶん心が軽くなったのを覚えています。その後、同期隊員がドミに来てくれて、大人げないぐらい大きい水鉄砲を買って街に繰り出し、氷水まみれ、口紅まみれ、ベビーパウダーまみれになって、水祭りを思いっきり楽しみました。家の前にテーブルを出してキンビアしていたおじさんたちにビールを渡されたら、ペタンクしてるの眺めたり、たまに踊ったりして雰囲気だけ楽しみながら、一緒に居た同期は空になったビール瓶と私が持っていた1ミリも減っていないビールをこっそり交換してくれました。
その後上京した別の先輩のなかにもキンビアに参加できない人は居て、その人が「キンビアでしかできないコミュニケーションもあるけど、活動で信頼関係ができるように頑張ることはできるし、そっちを頑張ったらキンビアのことも割り切れる」と迷いの無い言葉で言ってくれたおかげで、私はその後のキンビアをすべてエリカ様のごとくお断りし、そのかわりキンソム(おやつタイム)に積極的に参加したりだとか、活動のことを誰に聞かれてなくても報告しまくってひたすらアピールしたりして、「キンビアできないこと」に対しての不安をなくしていけたんだと思います。(あの節は皆さま本当にお世話になりました…。)
活動がうまくいかなくて愚痴りあったり、こうすればいいんじゃない?あの人に相談すればいいんじゃない?という助け船が出たり、どこどこに旅行に行きたいんだよねー、あ、私も!じゃあ一緒に行こう!!なんて話になったり、ドミトリーはとにかく、縦にも横にも斜めにも?職種や隊次を越えて色んな繋がりができて、ラオス生活を何倍にも何十倍にも楽しめるハブになっていたと思います。その場所がなくなってしまうのが悲しすぎて、ドミトリーのなかを写真におさめて、一緒に悲しんでほしくて、いろんな人に転送しまくりました。
私の荷物もほとんどさようなら
日本に一時退避したときに任地の借家に置きっぱなしにしていた荷物を引き上げて、このドミトリーに詰め込んでもらっていたのですが、その段ボールをひとつあけるたびに、カビだらけになった日用品や未開封の食品、本、シン、活動で作った雑貨のサンプルなどなど、懐かしい気持ちになるものがわんさか出てきました。タイムカプセルでもあけているような気持ちになりましたが、「ダメになってなさそう」なものだけ選んで残りは全部さよならしたら、殆ど残りませんでした。ビフォーコロナならドミマーケットに並べて帰っていたであろうものもたくさんあって勿体ない気持ちになりましたが、さすがにカビたものを誰かに渡すわけにもいかず、泣く泣く捨てたものもたくさんあります。
ギターはボディもストラップも白かびでポワッポワ、カホンは湿気で音が鈍くなって全然響かず、どっちも状態を戻すのに時間がかかりましたが、メコンバンドで演奏したの楽しかったなーまたやりたいなーなんて思い出しながら楽器のメンテをする時間があってよかったなと思っています。(私が飛ぶ前にロックダウンしてしまったら、今ここに居ることはできなかったかもしれないので)
コーヒーワークショップで使った焙煎用の網、ドミや任地でみんなでコーヒー飲んだコーヒーグッズたち、赴任したとき語学の先生に連れて行ってもらった市場で初めて買ったシン、先輩にもらった布やこっちで仕立てた服、JICAポロシャツ… いろんなものに思い入れがありすぎて、今度帰るときにどれだけ超過料金を払えばいいのかわかりませんが、誰かに大切にしてもらえるなら喜んで手放そうと決めて、任期を終えるまで大切に使っていきたいと思います。
近況おわり
長々だらだら書きましたが、今の状況をざっくり説明すると、いつ任地に行けるのかの見通しも立たず、前に住んでいた家に戻れるのかどうかも分からず、首都のホテルでロックダウンが終わるのをただ待っております。
そして、今日発表の感染者数は、首都だけで450人、ラオス全土で731人、しかもそのうちほとんどが市中感染と、ロックダウンでコントロールできているとは言い難い数字になってしまっています。これでまたロックダウンが伸びたらと思うと正直気が滅入りそうです。今のところ、自分が感染しないことと、そこに人を巻き込まないことしかできることが無いので、過剰なぐらい敏感になって日々過ごしたいと思います。
1日も早く任地に戻れますように・・・。