に投稿 コメントを残す

退避のことと、これからのこと。

さばいでぃー!

みなさんこんにちは、ラオスのラオ子です。

 

一度筆を置いてしまうと、重くて重くてなかなか持ち上がらないのですが、

 

pt-riha.com

 

ヨガの先生が活動のことや一時帰国のことをめっちゃ丁寧にまとめてるのを見て、私も忘れないうちにやっておこうと思って、なんとか編集ページを開いた次第です。

 

というのも、昨日、JICA海外協力隊のオンライン最終面談がありました。まだ申請・手続き関連のことや、報告書、引き継ぎ書など、事務作業はもりもり残っていますが、11月30日をもって、JICA協力隊という肩書が外れることになりました。

 

www.laoko.net

 

こちらの記事にも書いた通り、私はこれでJICA海外協力隊を卒業する!ということではなく、また任地に戻れる権利をいただいたまま、一旦日本の社会で働くことを選択したわけです。

 

JICAの公式ウェブサイトでは既に、ラオスの再派遣の見通しが立ったこと、そして第1陣が12月にラオスに戻ることが発表されましたが、私はこの再派遣をポジティブに捉えることができませんでした。

 

その一番大きな理由というのが、「戻れたとしても任期は変わらない」ということです。つまり、私のもともとの任期である2021年1月28日をもって、派遣が終了してしまうのです。私はその先にまだ「いつから、何をする」という明確なビジョンがなく、とにかく今はラオスに戻って自分の活動と気持ちに区切りをつけたいという事以外、何も考えられていません。

 

そんなわけで、『特別登録制度を使って、任期を伸ばす!』という荒業に出るかわりに、私は11月30日をもってJICA海外協力隊の隊員ではなくなったわけです。そして、同じタイミングで、前回のブログに書いた多文化共生ボランティアも一旦終了となり、5月から隔週で続けてきたLiNK-TALKも区切りをつけることになりました。

 

人はすぐに忘れてしまう生き物です。でも、この数か月間、忘れるには惜しい事をたくさん経験させていただきました。これはブログに残すしかあるまい、というわけで、昨日で終了した”隊員として”の”待期期間”について、あれこれ思ったことを書きたいと思います。(前置きの長さ!!)

 

待機期間中の活動

こまごまとSNSにあげてはいましたが、あらためて書いておきたいと思います。

 

03月22日 緊急帰国・一時退避スタート

05月08日 LiNK-TALK スタート(11月末まで、のべ15回開催)

06月18日 全世界コミュ開同期有志でこっそり報告会

06月28日 JICA岐阜帰国隊員報告会 登壇

07月20日 多文化共生ボランティア 初参加(のべ40回ぐらい参加)

08月08日 因島フィールドワーク参加(9日間)

08月21日 ラオ語オンラインレッスン受講開始

10月04日 ”ら”おす ”お”おさか ”す”っきゃねん ラオス展(7日、11日と3回開催)

 

その他オンライン座談会やイベントなども含めると、後から見返したら「何もやってなくはなかったんだなあ・・・」って思うぐらいには何かしらやってはいたのですが、他の隊員があまりに攻めた待機生活を送ってくれるもんで、満足感なんて得られるわけがなく「自分なんてまだまだや・・・まだまだなんや・・・・・」とぶつぶつ言うだけの日々でした。

 

・・・私は一体誰と闘ってたんやろ。

 

終わってしまった…

上にあげた中で、今月で終了になったのが、LiNK-TALKと多文化共生ボランティアです。

 

LiNK-TALKはもともと、同じ大学だけど学部は違って、卒業後カンボジアに住んでいたときに大学の共通の友達の紹介で初めて会って1度ご飯に行っただけの人である、そうちゃんのお誘いではじまりました。(ひどい言いようだな)

 

LiNK-TALKは、「国際協力をもっと身近に、協力隊をキャリアの選択肢に」というイキなキャッチフレーズとともに、協力隊経験者の活動をらく~に聞いてもらう企画です。私が第1回目のゲストとなり、その後は協力隊仲間にゲストとして登壇してもらい、私はパーソナリティとして聴き手の役にまわりました。私が要領を得てだんだん雑になっていったことと、みんなオンライン会議・報告会に慣れたことが重なって、打ち合わせの回数は回を重ねるごとに減っていきましたが、どの会のアンケートも参加者の方から嬉しいフィードバックをいただき、本当にやりがいのあるイベントでした。

 

本番ももちろんのことながら、私はこのイベントのための打ち合わせが大好きでした。打ち合わせ、といっても、タイムテーブルやターゲットなどおおざっぱに共有したら、その後はお互いの身の上話をしたり、今なにしてるとか、これからどうするとか、活動中にこんなことがあったとかそういう話を、だいたい1時間から2時間ぐらいだらだらとやるだけです。でも、その中で、SNSからでは伺うことのできないみんなの生活や気持ち、葛藤を知れたり、思い出話で笑い泣きできたり、この8カ月間を支えてくれる柱になったことには間違いありません。

 

また、このイベントに参加してくださった方は、3歳から??歳まで、学生、社会人、JICA関係者、NTCで一緒だった同期隊員のみんな、派遣間際で待機となってしまった隊員の方などなど様々で、なかには何度も参加してくださる方もいらっしゃいました。この企画で、何かひとつでも興味の杭を打てていたら嬉しいなーと思いながら運営していましたが、15回も続けられたのはアンケートで嬉しい感想を寄せてくださったおかげです。

 

そして、このイベントを初回からずーーーっと運営&ちゃちゃ入れ担当してくれている、そうちゃん、本当にありがとう。この機会を貰わなかったら知ることのできなかった隊員のエピソードが、たくさんありました。そして、いつも隊員トーク終了後に綺麗に〆てくれるので、安心して任せることができました。コロナどっかいったら、打ち上げしましょう!!

 

f:id:candyman0618:20201201172205j:plain

 

そしてもう一つ終わったのが、前のブログにも書いた多文化共生ボランティアです。

 

7月から、滋賀県国際課と滋賀県国際協会が立ちあげた「みみタロウキャラバン隊」の活動に参加させていただいて、滋賀県在住の外国人の方のサポートをしてきました。

 

活動にはいくつかパターンがあります。商業施設・公共施設にブースを設置し、施設利用者のなかから外国人と思われる人を探してひたすら啓発活動を行うのをメインに、周辺地域の外国人経営飲食店・スーパーや日本語教室を訪問したり、他にも外国人学校でのキャリア教育のお手伝いなども経験させてもらいました。

 

もともとは定額給付金の申請補助から始まった活動でしたが、その後は多言語対応相談窓口の周知や、各種助成金の案内、生活相談など、ニーズに応じて変化していきました。この未曽有の事態で、誰のサポートもなく外国に住み、そして仕事や生活、自分や子どもの教育、在留資格に不安や悩みを抱えながら生活する方々を少しでも支える手段のひとつになれば・・・と思いながら活動したのは、自分自身が外国に住み、他に外国人がいない村に住んだ経験を重ねているからだと思います。

 

カンボジアに住んだときは企業に、ラオスではJICAにそれぞれ属していたので、常に手厚いサポートがあり、何の不安もなく過ごさせてもらっていました。しかし、村でたったひとりの外国人としてびのび安心して過ごせたのは、配属先や近所の人々、市場のおばちゃんたちの強固なコミュニティーの中で、困ったときは誰かがすぐに手を差し伸べてくれるという大きすぎる安心感があったからです。あっちで自分がそうしてもらえて嬉しかったように、日本では誰かのそういう存在になりたいと思いながら、5カ月間活動しました。

 

一緒に活動したメンバーは、私と同じ境遇のJICA海外協力隊隊員現役・OVはじめ、外国からの留学生、外国語話者、外国にルーツがある若者などなど、様々なバックグラウンドがあります。よって対応言語は、日本語、英語、ポルトガル語、中国語、インドネシア語、クメール語、ネパール語、モンゴル語、タガログ語、ラオ語と多種多様。「ちょっとなら話せる」も含めると更に言語が増えます。私にとっては、メンバー間でのプチ異文化交流の時間も、とても楽しい時間でした。色々な立場にあるからこそ議論に花が咲き、色々な言語を使えるからこそたくさんの方に私たちの活動を届けることができたと思います。

 

メンバーは誰もこのブログを見ていないと思うので照れくささを捨てて書きますが、いざ活動が終わってみるとめちゃめちゃ悲しくて寂しくて、最終日の晩はアルバム整理しながら結構落ち込みました。(笑)

 

ちなみに、上のほうに貼った写真の花は、実は相談を受けた方からいただいたものです。仕事に必要な日本語をもっと勉強したいという実習生の方に、仕事のあいまに行けそうな日本語教室を探して紹介した後、わざわざブースに届けてくれた、思い出の花です。退避期間中、やりたいことをやれず、ラオスに帰りたいとTwitterで呟く無益なbotと化して家で腐っていただけの自分に、人から感謝の気持ちを受け取るような事をする機会を与えていただいたことに心からお礼を言いたいです・・・。

 

あと少し、座談会と報告書の作成が残っていますが、活動としては11月をもって終了です。この色々終わってしまった寂しさをどこにやっていいかわかりませんが、誰かの心に残る報告書が書けるように、みんなの頑張りをちゃんとまとめられるように、向き合いたいと思います。

 

はじまること

さて、ここまで終わることばかり書きましたが、12月から「無収入」「無職」という驚きのステータスに切り替わり、絵にかいたような無職生活が始まりました。

 

とはいえ、私は本当に貯金ができない性格で、現在の貯金残高は全口座全外国為替合わせても、福澤先生の人数なんと過疎地の1クラス分(どんな学校の規模かはご想像にお任せします)に満たないので、それなりに仕事をしなければなりません。

 

手始めに、年末年始は、高校生のころからお世話になっている神社の特別ご奉仕に明け暮れたいと思います。体力的に持つかどうかとても不安。その後は、ドラッグストアに戻って(なんと3社目!!)、医薬品登録販売者生活に戻ります。派遣の方とお話して初めて知ったのですが、薬事法改正で、責任者になれる要件が変わったんですってね。私は2015年から2年以上働いてるのでまだ大丈夫ですが、もう一度ラオス行って日本に戻ったときにはまた研修生からやり直しなんだそうな。そして薬事法だけでなく、売場の商品もあれこれ変わっているので、仕事がはじまる前にいろんなお店の中うろうろして勉強しておきたいと思います。(「知りません、分かりません」ってぜったい言いたくない生粋の負けず嫌いなのです。)

 

それから、JICAの特別登録の本当にありがたいところなんですけれど、今までと同じようにオンライン語学学習を受けられます。訓練所で教えてもらっていた先生なので、協力隊のことも活動のことも何でも分かってくれるから、本当にやりやすい!ここ3か月ほどは、配属先に提出する超大作の報告書(誰が読むんやアレ)をひたすら添削してもらいましたが、それもそろそろ終わりそう。今後やりたいことはある程度リストにまとめているのですが、戻ってからの活動で使うハンドアウトであったり、提案書や意見書であったり、あらゆる書類にネイティブチェックしてもらえるなんて最高すぎて無理です。先生、これからもよろしくお願いします。

 

 

 

頑張って生きよう

 

任地では、うまく活動できずにくよくよ悩んだり、忙しいカウンターパートとどれぐらいの距離感で仕事をしていいかわからなかったり、正直うまくいっていたとは言えませんでした。でも、それらをこの退避期間で一度俯瞰してみると、もっと自分からぐいぐい行ってもよかったのに何でこんなに遠慮していたんだろうと思うことがあまりに多かったように思います。

 

そして、日本に戻ってからは、現状を受け止められずにうなだれる日々を多く過ごしたことも事実で、ラオス帰りたいbotはまだまだ、まだまだ健在です。でも、昨日の最終面談で、JICAラオスの方から私にはもったいないような言葉をたくさんいただいて、日本に帰ったからこそできた経験がこんなにたくさんあったことにも気づけて、やっとエンジンがかかったような気持ちです。 

 

やりたいこと書き出したらあまりに一杯になりすぎたし、まだ一緒に活動したことのないコミュ開の人たちとの活動も楽しみすぎるから、1日も早く、1日も長くラオスに居たい。と、その前に、最終面談で「攻めの姿勢で戻ります」と宣言したので、有言実行できるように、向こう戻って実行しきれんぐらい準備していかねばと、気合を入れ直しました。

 

もう一度ラオスに戻ったら、こんどの活動期間は最長半年、泣いても笑ってもそれで隊員を卒業することになります。その時にやりたいことをやりたいだけやれるように、これからの半年間は「先の見えない未来」と「ラオスへの恋しさ」にめそめそするのをやめて、ラオスに帰ることだけを考えて生きてみたいと思います。

 

f:id:candyman0618:20201201183422j:plain

 

待ってろラオス。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です